相棒さん達は土産物を買いに、ドンスワン市場に行くらしい。私は何時も土産物を買わない主義ですから、興味はないので、別行動をする。ホテルの車で、数百年前の民家や寺や井戸が、残っている村があるそうで、其処を見学に行きましょう。
約束時間に彼はやってきます、ベトナム語以外は何もしゃべれないそうです。ハノイ市外に行くことは、とても時間が掛かる。丁度通勤時間であったのが悪かった。西へ50キロが2時間もかかる。緑の田園地帯の中に、ポツーンとその村は在る。この村は5つの集落から成り、先ずは入村料を支払う。複雑な道らしく、迷子にならぬように、余り奥までは入らぬように。或る鄙びた家の玄関前に座った老女が、家の内部を見せてくれる。暗いが意外と整理されている。台所は竈ではなく、ガスレンジです。私と年齢的には変わらないと思う。歳を経れば、その人の生きざまが、顔に現れると、祖母から何時も言われていた言葉です。此の老女はとても爽やかな御顔をしている。きっと健やかな生き方を為さったのでしょう。御礼にキャラメル一箱を差し出すと、直ぐに押し抱いて口にしました。各家々の玄関が凝った彫刻や、屋根や窓にも個性があります、お酒(どぶろく)や味噌を作っている処も見受けられます。レンガ敷きの小道をトコトコ歩いていると、結婚式に出掛けるところに出くわす。女性達はベルベットで、裾に刺繍をしたアオザイの民族服で華やかな装い。男性には民族服は無いのでしょうか。花嫁さんはウエデイングドレスでした、この村は貧しさ故に、自分の家を新築する力が無く、そのままの暮らしが今に至り、皮肉な事に、其処に独特な伝統が残こる事に為ったのでしょう。家屋を修理するに、ビニールの波板で囲ったり、ベニヤで隠しているのは不細工です。市や国の援助が、まだ届いていないからでしょう。2時間程歩き疲れ休んでいると、土産物店の若い人達は、皆スマホをいじっています。近代化の波はこの村にも、やって来ているのを実感します。この村での気になる事は、トイレの使い方が、いくら考えても,分からない事でした。
ホテルに帰れば、相棒さん達が深刻な顔をしています。一人の相棒さんが、ホイアンのホテルの枕の下に、別の財布を置き忘れたとの事、こんなことは初めての経験です、フエの彼女にも電話をして頼んだけれども、現金では見つかるはずはなく、直ぐその場で警察に駆け込むとか、置き引きやスリにやられたなら、警察の証明書が保険の為には必要です。自己責任と言うべきなのかな。御気の毒ですが、為す術はないのです。
次の日は何時もより寒いと感ずることは。昼間は暑い位に天気が良いと思う。ベトナムの人々には、何となく親しみを感じます。でもお互いが話している様子は、激しい口調です。朝の歩きで、ホテルの周辺は、顔見知りになりそうです。今回はハノイで一番驚いた事は、以前のマッサージ屋さんが、旅行社に変わっている事です。旅行社が目白押しです、何も機材が必要な訳でもなく、簡単に店は開店できるのです。其れだけ観光客が多くなったのでしょう。マスクを付けている人もなく, 付ければ目立ちそうです。日本人ツアーの観光客は、まだ一度もお目に掛かってはいない。
深夜の帰国便なので、時間たっぷりある。ホアロー収容所の見学に行こう。ベトナム戦争時の、人民軍の捕虜収容所、館内は人形を使って、その様子を再現しています。下水道から脱走した事実を示す、その現物を見学者に晒しています。痛々しくって悲しい。ベトナムの歴史に残る深い傷跡として、歴史的遺物として保存されています。後の世にアメリカ軍の収容者達は、皮肉ってハノイ・ヒルトンと呼んだらしい。気持ちを明るくするためにホワンキエム湖に向かい、ベトナム名物の生春巻きやフライにした春巻きを、のんびりと味わいました。この旅では、ベトナムの名物料理を、沢山戴いた気がいたします。何時もはその地の料理は、口に合わないのが多かったのです。
今回は移動を好まぬ方々と、御一緒したので、どちらも不満があった事でしょう。矢張り意見が合うお方と、旅をするのが好ましいと思いました。関空への帰路はたったの4時間、気流の関係で早く到着するが、関空では電車での復路を歩きで、イミグレイションで何だかわからぬ書類や、各々職員の質問、水際対策とはこの事でしょうか。説明が何もないので、訳が分からない。面倒なら大きなボードで説明を書いて下されば、理解できるのに。1時間近く待たされる。行政の為さり方には親切心がない。
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