南方熊楠「山神オコゼ魚を好むということ」
紀州和歌山の出身、日本には稀に見る一代の傑物、南方熊楠(みなかたくまぐす)(1867~1941)は、驚嘆すべき記憶力と該博な知識で、歩くエンサイクロペディア(百科辞典)と言われた。その論に引用する文は必ず原書に当って確かめ、出所を本文中に明らかにした。氏は若き時に、6年間のアメリカ・中米の放浪生活のあと、26歳(1892年)でイギリスに渡り(その後約9年間を過ごすことになるが)、大英博物館で勉学した。日本に帰ってからも続けていたが、自然科学の雑誌『ネイチャー』誌には50の文章を、芸術・人文科学・文学を主とした雑誌『ノーツ・エンド・クィアリーズ』誌には323の文を寄稿した。そうする中で、イギリスの実証主義を身近に学び、習得していった。大勢の専門家の間で知識と意見の交換をしようと思えば、出展、根拠を示すのは当たり前のことである。
博覧強記の人、熊楠の代表作に『十二支考』がある。1914年(大正3年)から十年間にわたり雑誌『太陽』に連載したもので、え(・)と(・)にあたる動物について、「世界中の伝説、民話、民間信仰などを博引傍証し、またそれぞれの動物の種類、形状、習慣などについて各国の研究を広く渉猟し、人間と動物および植物との関係の国際比較をおこなったもの」(鶴見和子『南方熊楠』講談社)である。
岩波文庫にあり、平凡社の『南方熊楠全集』第一巻にもあることより、今でも全部を読むことができる。私は自分の干支が辰であることより、其の項目である「田原藤太竜宮入りの譚」(全文はA4サイズで75ページ)を読んでみた。読みながら、たまたまざっとではあるが、引用されている書を数えてみたら、日本70ほど。中国80ほど、そして西欧の書100ほどであった。合計250冊の本の中に、こう書いてある、こういう図が載っていると傍証して全体を作成している。普通であれば日本からの古典からと、中国の古典から少しぐらい引用して論を組み立てる人が多いが、氏の特色は中国の仏教書からの引用と、西欧の書からの引用が圧倒的に多いということである。特に東アジア、中東、アフリカの龍にまで説明が及ぶのは、此の書以外には見られないことであろう。これが熊楠の特徴で、当時熊楠が滞在した英国は世界に植民地を持ち、最盛期の頃であり、世界の地理、歴史、民話などを競って収集した。それが大英博物館に揃っているのである。
それについてもその一つずつに原書で確認をおこなっているということは、並大抵の労力ではない。熊楠のイギリスでの勉学の方法は、外国語7,8カ国語ができたということもあるが、事務員として勤務するかたわら、時間があれば、原書を写しに写していった、というもの。帰国したときには、そのノートが持ち物の大半であったという。それを活用して文を書いているのである。この『十二支考』が雑誌に載ったときには世間の人はびっくりしたという。それまでは一部の粘菌の博物学者、あるいは神社合祀反対の運動の関係者、または英国滞在時に親しくなった、中国革命の父といわれる孫文との交友などで、名前が知られていたが、これだけの書をかける学者だとは、一般には知られていなかった。日本の当時の読書界に旋風を吹き込んだのである。
ちょうど其の少し前に、民俗学者柳田國男との出会いがある。熊楠は帰国後、民俗、郷土のこと、人類学、伝説など広い分野で雑誌への投稿をはじめていた。1911年(明治44年)『東京人類学会雑誌』に「山神オコゼ魚を好むということ」の文を熊楠が載せた。これを見た柳田國男が始めて明治44年3月19日付けで熊楠に手紙を書き、「オコゼのことは小生も心がけおり候ところ、今回の御文を見て欣喜禁ずる能わず。」としるし、自分の書いた「山神とヲコゼ」(『学生文芸』明治43年10月)を送り、「小生は目下山男に関する記事をあつめおり候」として熊野でのこの種の話があれば聞かせてほしいと依頼した。そして最後に「平日深く欣仰の情を懐きおり候ところ、かって『遠野物語』ご覧下され候よしにて御引用下され候のみならず、今またオコゼの御説御表示下され候につけて、突然ながら一書拝呈仕り候」と結んでいる。
熊楠はすぐに明治44年3月21日付けの手紙を書き、「山男に関することいろいろと聞き書き留め置き候も、諸処に散在しており、ちょっとまとまらず、そのうち取りまとめ差し上げ申すべく候」としている。そして文の大半を、和歌山県では神社合祀が県の役人が熱心で、進んで合祀をして他方の神社の古木を乱伐していくので、土俗学・古物学上このましくなく、また森林が濫伐されるために学術上貴重な生物が失われていくのを憂えて、「貴下、なにかしかるべき新聞、雑誌等へ、右小生の議論の一部を御紹介下さるまじきや」と依頼している。
こうした書簡を出発点として、これ以降両者の間には、大正15年まで、最後は仲たがいをして絶信となるのである が、熊楠から161通の手紙が寄せられた。(この往復書簡については平凡社から飯倉照平編で『柳田國男・南方熊楠往復書簡集』(上下二巻)が出ている)。柳田は明治42年3月に『後(のちの)狩(かり)詞記(ことばのき)』、翌年の5,6月に『石神問答』と『遠野物語』を出版して、民俗学への関心を深めて、自分の道を決めようとしていた。その時に熊楠に出会っているのである。
それでは熊楠のオコゼの文の内容についてである。熊楠は山の神は狼であるというわが国の説を出した後で、「オコゼ魚、外に棘多けれど。肉味美味にして食うに勝(た)えたり。もって山神を祀るはその基づくところ、狼が他の獣類にぬきんでて、これを啖い好むこと、猫が鼠におけるがごとくにあらん。」と推測している。そして世間の好事の士、機会があれば生きた狼について実験してみてほしい、としている。
次に熊楠が紀州田辺の旧家の屏風一対の詞書きを調べて、その全文を載せている。それは山神がオコゼを見て、恋い慕うようになったというものである。概略は次のようである。「山の神が春の長閑な陽気にさそわれて、浜辺に出て興じていると、オコゼ姫も波の上に出て遊ぶ。この姿を見て、山の神が姫に恋をして、手招きするが、まさか見ているものはいないと思っていた姫は、びっくりして水の底へ入ってしまう。それから山神は海岸にでては立っているものの、姫は二度と姿を現さない。そこに獺があらわれて山の神から姫への手紙を託される。獺が海の底のオコゼに手紙を届けると、姫も嬉しく思い承知した。そこへ蛸があらわれ、自分の手紙には見向きもしないのに、山の神へは辺事を書いている。烏賊の入道を呼んで、姫を踏み殺せと罵る。姫はこれを聞いて、山の奥に隠れたほうがいいと思い、海の上に浮き上がり、そこに山の神が向えに来て山に上がり、仲良く暮らした」という物語である。
オコゼの目が大きく、あご骨が出ていて、口が大きいという姿は、見目悪いと思われていた。ところが恋は盲目というが、山の神から見ると、目の大きいのは美人の相、骨高きも貴人の相、そして口の大きいのは智恵の賢き印となる。これも皆屏風の中に書かれているところ。
山の神とオコゼについては、民俗学の調査によれば、山の神が大層オコゼを好むので、神にお願い事をする時に、好奇心をそそるために、ちょっとだけ見せて、何度も何度も欺いて神に依頼し、結局はあまり見せない、という話を採集している。熊楠はそういう神を騙すようなことは西洋にもあると、例の引用をしている。そのために、直接的に何故この二つが結びつくのかということには答えてはいないが、そんなことは熊楠はたいした問題にしていない。熊楠はいろいろのことを集めてそこから何かヒントが得られればという態度である。
以上が氏のオコゼについての内容である。日本では狼を山の神に擬することはあった。狼が群れをなして鳴き猛れば、その恐ろしさとても生きた心地はしないという。中国の南、長江流域では虎が山の神であった。日本には虎はいないが、その代わり狼がいた。中国の学者の中には、日本のオコゼが「虎魚」とも書かれることより、この中国の虎の山の神の信仰が日本にも影響を与えて、オコゼの姿が一部虎の皮に似て、口の恐ろしいところなどから、オコゼと虎を関係付けている。(『山岳信仰と日本人』安田喜憲編、「日本人の山岳信仰と長江流域」李国棟)
狼が山の神とみられていたことは熊野においては、熊楠の指摘する通りであろう。問題はオコゼと何故結びつくのかということである。それも、オコゼを海の底の滅多にその姿を見ることの出来ない海の神としてみると、この山の神と海の神が結びつく。
このことに関しては、『古事記』の海幸彦と山幸彦の物語を思い出す。釣針を無くして困っていた山幸彦は海の神の娘、豊玉姫に助けられ、結婚する。豊玉姫は産む時になれば、本(もと)つ国の形になって産むといって、けっしてそのお産のところを見てくれるな、と頼む。ところが山幸彦が見ると、ワニの姿(日本のワニは鮫、あるいは鱶(ふか)のこと)であった。そのため姫は恥ずかしさのあまり海の底に帰ってしまう。神がいろいろの姿を現すということがあり、龍であったり蛇であったりする。
オコゼは海の神ではないが、何か、この日本神話に出てくる、海洋民と山の民との結びつきということが、関係するのであろうか、と想像したりする。山の神もあまり美人ではないように伝えられているのが多い。神のことは人間の常識では考えてはいけないのかも知れない。現にオコゼを山の神は美人とみて恋をしている。
いずれにしろこの山の神、オコゼを好むという民俗の話は、まだ十分に解明されていない。それはそれでいいのであって、熊楠と同じくいろいろの資料をあつめれば何かヒントはでてこよう。だいたい、山と海は今のようにはっきりと分かれていたものではなく、海の民は山が荒れることで漁が左右されることを知っていて、山の神に鯛を奉納したりしている。もっと密接に結びついていたのであろう。オコゼは鯛以上に珍しい魚でそのグロテスクな姿がかえって神の好物としたとしても、不思議ではない。
最後に、柳田と南方は喧嘩別れをするが、民俗学者の谷川健一氏は、南方の研究態度や、世界的なものの見方などが、新しい民俗学の確立を目指していた柳田に、「不断の好意ある刺激を与え続けたことは疑いない」(『南方熊楠全集』第八巻の解説)とみている。とすれば、熊楠のこの「山神オコゼ魚を好むということ」の論は、日本の民俗学の発展にとって重要なものとなった。さらに、古代からの山岳信仰の研究に一石を投じたともいえる。 (2008.6.29 垂澤祥夫) |