雲の峰 〔垂澤祥夫〕
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『弱い日本の強い円』(佐々木融著、日本経済新聞出版社、2011年10月)を読む
都へのぼった白山の神輿
秋篠寺
「『日本書紀』補注」(岩波文庫)にみる日本神話の源流
越前の白山とイザナギノ命
アフミ(近江)の国名
三輪山信仰と白山信仰
野路汝謙「白山紀行」を読む
日本のオオカミ 2011.5.10
大野晋『弥生文明と南インド』を読む 2011.4.1
イザナギノミコトを祭神とする神社 2011.3.20
継体天皇と関係する豪族 2011.1.31
海住山寺 2011.1.20
白山の祭神イザナギノミコトの起源 2010.12.30
日本神話「国産み」にみる越(こし)洲(のくに) 2010.10.20
神の発生 2010.9.30
古墳時代の霊魂 2010.8.31
イザナギとイザナミ 2010.7.31
「小説 琉球処分」 2010.6.25
洛北の吉井勇 2010.5.21
「パパラギ」と雪月花 2010.1.29
双六谷の名前の謂われ(鏡花『神鑿』より)2010.3.12
日吉神社客人宮 2010.2.22
異界 2010.1.28
前登志夫 009.12.7
音羽を越えて児ヶ淵(鏡花『楊柳歌』より) 2009.11.10
京の山、東京の山 2009.10.10
花畑の姫(ひめ)神(かみ)様(鏡花『色暦』より)2009.9.28
アンデスのジャガイモ 2009.7.9
牛頭天王(ごずてんのう) 2009.6.24
牛首村の袖乞(しゅうこつ)について 2009.4.10
白山 鳩ヶ湯道 2009.3.30
白峰村の白山信仰 2009.2.27
最新  立山神仰 2009.1
湖北、湖西の十一面観音菩薩と泰澄和尚 2008.12.29
道元禅師と白山の神 2008.11.30
越の大徳泰澄と白山信仰 2008.10.31
鏡花『山海評判記』 2008.9.30
おしらかみ 2008.9.2
修験道についてのあれこれ 2008.7.28
南方熊楠「山神オコゼ魚を好むということ」2008.6.29
泉鏡花と柳田國男 2008.5.30
「他界」と「霊界」 2008.4.27
草香山 2008.4.2
白山と鏡花『伯爵の釵』 2008.2.28
医王山と鏡花『薬草取』 2008.1.28
空に星がない 2007.12.19
黒部奥山の怪 2007.11.24
花折峠 2007.10.26
近江の義仲寺 2007.10.3
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*このページ(雲の峰)は、執筆者本人の原稿をそのまま掲載しています。
 機種依存文字など、適正に表示できないものがありますがご了承ください。
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『弱い日本の強い円』(佐々木融著、日本経済新聞出版社、2011年10月)を読む
 著者は1992年上智大学卒、日本銀行入行、03年JPモルガン・チェス銀行入行、現在、同行マネジメントディレクター、債権為替調査部長である。初めての本の執筆。
この書は難しいことをやさしく、しかも深く書かれていて、全体として読みやすい。為替を少し分っている人に、その本質を理解してもらうにはうってつけの本である。
 まず基本中の基本のこと。為替相場は二つの通貨の交換レートであるから、どちらから見るかによって違う。「下落した」と言われても、「下落したのはどっち?」と混乱してしまう。そこで慣行としてどの通貨を先に持ってくる(主語にする)かが決まっている。
米ドル/円相場の場合は、米ドルが主語である。従って「米ドル/円相場が下落した」と言えば、米ドルが下落したことになる。日本では「円/ドル相場」といって円を主語して説明しようとするが、世界的慣行に反している。例えばユーロはすべての場合に主語となり、ユーロ/ドル相場、ユーロ/円相場、ユーロ/英ポンド相場などとなる。次が英ポンド、豪ドル、ニュージーランド・ドルそして米ドルとなる。だから米ドル/円、米ドル/加ドル、米ドル/スイス・フラン相場となる。これは慣行であり、米ドルが機軸通貨(為替取引で一番量の多い通貨、約8割)であつても先にはこない場合が多い。これは桁数が大きいためで、小数点の表示をしなくてもいいようにできている。円を主語にすると円/ドル相場は1円=0.012987ドルとなってしまって分かりにくい。
 このように主語が決まっているので米ドル/円で数字が80円、85円とおおきくなれば米ドル高(円安)であり、逆に79円、78円と下がってくればドル安(円高)である。どうしても我々は自国の円を中心にしてみるので、数字が小さくなって円高、円の価値が上がった、といわれると戸惑うが、これは為替の慣行で表示がドルが主語になっているので、ドルからみれば数字が大きくなるのが通貨の価値が高くなるのはよく分かる。外貨を両替する時に、少ない円で1ドルが買えればドル安、円高であることはすぐにわかる。
 以上のことは為替を理解する前提であり、以下この本の主要点を上げていく。箇条書きにする。これだけ要点を抜書きすれば頭の中での整理もし易くなる。(括弧内は垂澤の説明)
☆投資資金を多く持っている国は米国と日本である。
☆世界経済が上向きな時は米ドルと円が弱くなる。(投資資金を持っている米国と日本が活発に資金を動かすため、売りが多くなる)
☆景気が悪くなり株価が下落し、投資家や企業のリスク回避が強まると、資金は米ドルと円に戻ってくる(昨年からのユーロ危機では、ユーロに投資していた資金が回収されて、ドルと円がともに買われる。ドル高、円高)
☆財政破綻や国力の低下で資金が逃げ出して円安になる、という見方は現状では正しくない。そういう状態が起こるのは、海外からの投資資金が国内経済を支えているような国。(例えばギリシャや南欧諸国。同じユーロ圏から国際を買ってもらっていたが、そのユーロを買っていた米国や他の国が資金を引き上げれば同じことになる。)
☆15年以上の長期間ではインフレ率の最も低かった国の通貨が最も強かった。(これはここ15年ほどの日本がそうであり、預金金利はあってなきがごとく低いが、物価が上らなかった(デフレといわれる)ために、米国やヨーロッパ諸国と比較すると円高になる。2002年1月135円、07年6月124円、2011年12月77円の米ドル/円相場)
☆円は為替市場の20パーセント弱を占める。米ドルは80パーセント弱であり、経済規模1位の米国と3位の日本の通貨の交換レートである米ドル/円相場は為替の中心であり、世界中が注目している。
☆人口が減少する。国力が弱い。それらは為替相場を主体的に変動させない。
☆実効レートは指数なので、数字が大きくなるほど円高である。
☆2007年の円安は「円安バブル」であり、日本の金利が他国に比較して異常に低かったために「円キャリー取引」が行われたためである。(再びそのような水準になることはない)
☆「短期」とは為替では10年以下を意味する。
☆日本の物価が安定していれば、米ドル/円は円高の方向に向う。
☆次の円安局面では、ドルとの為替相場で日本円は、115円程度の円安までしかいかないだろう。
☆筆者は「デフレ=悪」という考え方は強者の論理だという。デフレ状態が続くと日本の大企業は売上げが伸びずに困る。大企業が困ったらその下請けの中小企業も困る。するとそこで働く人も困る。だから「デフレ=悪」である。しかし消費者はメリットがある。それをマスコミが皆経営者の言い分を聞いてそのように言うので思いこまされてしまった。(物価が下がれば消費者は生活しやすいのは当たり前の話である。)
☆円に買われる理由などない。その時の必要により為替の売買がされる。
☆大震災があった時には、@フローの資金の出し手であるかどうか、A経常黒字国であるかどうか、B債権国か債務国かどうかで為替が動く。同じ地震でも、ニュージーランド・ドルは売られ、日本の大震災のときには円は買われた。日本の投資家や企業がリスクを避けようとして円に資金を戻した。日本に投資していた資金が逃げ出すことも無く、まして日本人が手元資金を海外に移すということは誰もしなかった。ニュージーランドは債務国でありフローの資金の受け手であり、資金が逃げ出せば為替は安くなる。
☆ヘッジファンドの仕掛け的な円買い、円売りでは為替は動かない。(世界の為替取引量が膨大であるため)
☆日経平均株価の上昇は円安となる。(これは企業業績がいいと積極的に海外展開をするために、資金が出て行く。)
☆米国は世界最大の経常赤字国、特に貿易赤字が大きい。その相手国は貿易黒字国であるから、常にドルを売ろうとしている。それを強いドル政策で、米国国債を買ってもらって資金が入ってきて辻褄が合う。(そのために金利が高くなければいけないのに、今は10年ものの国債で米国2パーセント前後、日本0.99パーセント前後で、その差が1パーセントほどしかなく、低金利であることがドル安になる要因。)
☆介入で円安誘導など出来ない。世界の取扱量が膨大であり、一時的に動いても3日もたてばもとに戻ってしまう。
☆今は米ドル建ての輸入の方が、輸出よりも多いため、日本全体でみれば米ドル安円高の方が日本企業の収益全体に対してはプラス。
☆又、日本は貿易黒字国であるから、円安の方が企業収益にメリットがあることには変りがない。
☆アジア向け輸出の半分は米ドル建て、半分は円建てである。
☆重要なのは円/韓国ウォンの相場である。韓国への輸出が大きいことと、輸出企業の多くが世界中で韓国企業と競争に晒されている。(前には100ウォンは10円であったが、最近は6.9円になっている。)
☆為替相場は中期的には貿易や資本のフローがどちらに向かっているかによる。長期的には物価の上昇率の差で決まる。
☆物の価値が下がることと、通貨の価値が上ることとは同じである。
☆日本の低インフレの原因は、消費者が金を使うほど将来に自信が持てないことと、企業が新規事業に打って出ようとする気にならないこと。
☆日本で行われてきた量的金融緩和政策は無力であつた。(デフレの解消にはならなかった。)
☆最近の金価格の上昇と、ペーパーマネーの価値の暴落が著しい。すべての通貨のペーパーマネーが落ちている。悪性インフレは需要増で起きるのではなく、通貨の信任が失われた時に起きるのである。金価格の急騰は我々に将来そうしたことが起きるリスクに対する警告を発しているのではないか。(インフレになったら年金生活者は一番困る)
さて、このようにこの本の要点を理解して、今年の為替を予想してみると、@日本の企業の利益が増えて株価があがるかどうか、A活発な海外投資がなされるか、Bアメリカの景気がよくなり投資が行われるか、Cアメリカの金利が上り低金利政策が変更されるか、Dヨーロッパのユーロ問題が穏便におさまるか、Eアジアの経済がよくなるかなどである。結論的には暫くは今の米ドル/円は78円前後でいく。ユーロ/円はユーロ危機の動向いかんである。方向としては円高の水準。これが夏ごろから上記の点がすべて円安のほうに向いてくるかどうかにかかる。日本の企業収益は上ってくるであろうし、東日本大震災の復興需要も出てくるので日本の景気はよくなる。ただ消費者物価の中で、生活に必要な生鮮食料品を中心に上がってくるような気がするので、電気製品やパソコン、デジカメの値段が下がって消費者物価が数値上、上らなくても少しずつインフレの気が出てくるように思う。消費税の引き上げのタイミングもあり、案外物が売れて値段が上る、それに、世界的にも資源価格が上っていることもある。アメリカ経済も、大統領選挙の年であり経験的には景気はよくなり、株はあがり、金利も上向いてくるのではないか(金融政策に左右されるが)。
すると従来の円高の要素が一つずつ外れてきて、全体としては円安に向うであろう。株価も上がり、東日本の復興も進めば全体として昨年よりも明るくなってくるような気がする。
とまあ素人なりにこの本を読んで考えた。さて結果や如何に。 (2012.1.24 垂澤祥夫)
 
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都へのぼった白山の神輿
 京都、麩屋町押小路にある白山神社はちょっと変っている。神輿を戴いた鳥居があるのである。神輿といっても神社本殿によくある切妻屋根の小さなのが、石の鳥居の中央に載っている。掲げてある白山神社の額がちょうど神輿に乗っているように見える。
 もちろん謂われがある。平安末期の安元3年(1177年)に起ったいわゆる安元事件である。白山中宮三社の一つ佐羅早松神社の神輿を押し立てて白山衆徒が比叡の荒法師とともに都へ入り、加賀の守、藤原師高とその弟目代、藤原師経を強訴によって追放した。そのとき神輿は内裏に入ろうとして、警護の平家の武士から弓で矢を射られて、神輿に矢が立った。衆徒と僧の怒ること怒ること。時の権力者、後白河法皇も結局負けて、師高、師経を流罪にせざるを得なかった。
 ことの発端は、加賀の国で師経の家来集が、白山比咋神社の威光も知らず、中宮八院の一つ涌泉寺の風呂場へ馬を引き入れて洗ったことによる。神聖な寺で馬を洗うとは何事か、とこの狼藉に対して、仕返しとして馬のしっぽの毛を切り、兵士を懲らしめて返した。これを聞いた師経は黙っていない。国の守(かみ)を何と心得るとばかりに、反対に涌泉寺を焼いてしまった。そこで、白山の衆徒が集結して談合して、国司へ押しかける。師経は危うしとみて都へ逃げ帰ってしまう。後白河法皇の側近で西光法師の子息ということを傘に来て、白山妙理権現の神田などを没収したりし、その上馬を洗うという神をも怖れぬふるまいに衆徒がたちあがったという次第。この乗り捨てられた神輿をみやこの人が祀ったのがこの白山神社の由来である。
 時あたかも天皇、貴族の朝廷権力が武士の世に変ろうとする時。地方の荘園は従来の秩序が保たれず、国が三分の一、武士が三分の一、そして有力な社寺が三分の一を支配するという乱世。白山神社でも加賀に三千坊、越前平泉寺に六千坊といわれた。多数の僧兵をかかえていたのである。そしてそれより前、久安3年(1147年)に白山神社は比叡山延暦寺の末寺となって、比叡山の後ろ盾を得ていた。それも当時の延暦寺の最高責任者である天台座主は、天皇の血を引く人が天皇(上皇、法皇)によって任命されることになっていた。この比叡山延暦寺の別院になるということは、直接に朝廷とつながりが持てることであり、土地争いなど、問題解決のための道筋をつけることでもあった。天皇は神様と仏様には頭を下げなければならず、このことを利用して、神輿を持ち出すと、社寺の勝訴となっていた。
 歴史家は当時を振り返り、この時が白山神社の最盛期であり、白山勢力の巨大さを伺うことが出来るという。白山の宗教的権威が朝廷や平家の武士団と並んだということであろうか。
 この神輿に矢が立ち、神人宮人が射殺されたという事件の直ぐ後に、京の都の大半と大極殿を焼失させるという火事が起こる。しかもその原因は、狼藉をした武士が流罪になるために、送別の宴を開いたことによる火災が、燃え広がった。山王のお怒り、白山の神の怒りかと、人々は噂をしたという。治承元年の火事、あるいは太郎坊火事といわれる。
 この火災が徐々に平家から民衆の心を離し、やがて源氏の世の中になっていく。頼朝が鎌倉に幕府を開いたのは、1192年、この15年あとである。
 白山信仰はその秀麗な雪山を眺めることが出来る地、山からの水の恩恵を受ける地、禅定道を経由しての登拝により、あるいは開祖泰澄大師の関係する地などで発展した。また海上で航海する船乗りや漁師の信仰などがある。白山を一番よく展望できるのは、海の上からかもしれない。前山が低くなりそのうえに白雪の白山が堂々とみてとれる。さらに石徹白の御師(おし)による布教などにより、白山信仰は広がっていった。
 だが、京都のこの白山神社はそれらとまつたく関係がなく都で捨てられた神輿を祀っているのである。これは、京の人の信仰の厚い愛宕神社に泰澄大師の伝承があり、近くの近江の岩間寺は泰澄大師が開山し、あるいは山(やま)背(しろ)の鷲峰山の伝承など、比叡山の客人宮とともに、白山や泰澄は都の人に親しまれていたことによるものであろう。清少納言が枕草子に書いた「白山の観音守らせたたまへ」という文章も、白山と観音とをすぐ結びつける下地があったからである。都からは遠望できないが、比叡山に登れば、湖面の上、湖北の山の向うに白山は眺められる。
 白山信仰と都の人との関係で、この神輿を鳥居の上に戴いた白山神社は貴重な歴史的事実を教えてくれる。
  ☆参考文献 『京都へ行った白山の神輿』(石野春夫著、光陽出版社 2001年)
  (2011.12.19 垂澤祥夫)
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秋篠寺
佐紀万葉の古道を歩き、秋篠寺まで足を伸ばした。近鉄大和西大寺で降りて、東北の方へ歩く。少し高くなっている地が、三古陵のある佐紀である。松林が多くその林の中をわずかに風が吹き透っていく。池があり、古墳が広がり、小さな村がある。奈良の市街地の俗化を離れて通る人も少ない。ただ近所の人が散歩しているだけ。池の水辺にはススキが残り、萩が枯れしだれている。ただ古墳があるせいか、清浄な雰囲気がただよう。そこをゆっくりと歩く。
この佐紀を北へ降りて行くと秋篠である。万葉人が、西の正面の生駒山に落ちる夕照がこの里を沈めていくのを眺めた地である。今は住宅地であり、国道には車がひしめく。喧騒の地に変っている。その中にここだけ鬱蒼とした木々に囲まれた静謐なところがある。秋篠寺である。南門から一歩寺の中にはいれば、古(いにしえ)に戻ったようである。苔むした地に照葉樹林が林をなしている。他の寺にみる仰々しさがない。奈良時代末期の開創の寺の雰囲気をそのまま残している。もちろん幾多の変遷があり、今は古い建物では唯一とおもわれる国宝の本堂を残すのみで、塔や講堂の跡には礎石が埋もれるばかり。その本堂は、唐招提寺をひとまわり小さくした建築様式で屋根と柱、白壁の均整が美しい。建物の前の砂地が広く清清しい。
堂内には本尊の薬師様をはじめ古い仏像が並ぶ。中でも有名なのは伎芸天であり、天平時代の頭部を残している。諸技諸芸の祈願を聞き届けてくれるとか。ここを訪れる人もまばらで団体客はいなくて、一人、あるいは二人で静かにお参りしている。私もその一人である。庭内を歩きながら見ると、塀の外に見える柿の赤い実が青空によくはえている。法隆寺の有名な句もあるが、なぜか柿の実は古寺に相応しい。
 一通り見た後、庭内に座り紅葉した木々の葉と透き通る青空をただ眺めていた。こうしたのんびりした時間がいい。古都奈良の近郊には、こうした京都ともまた趣きの違う寺がある。私はそうした寺を歩くのが好きだ。
穏やかな時間を過ごした後、静かな佇まいの寺を後にして、また車の通る道を西大寺まで歩いた。ぐるっと一周したことになる。秋も終りに近い暖かな日であつた。(2011.11.24垂澤祥夫)
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「『日本書紀』補注」(岩波文庫)にみる日本神話の源流
○「天浮橋」:当時は天地の間に梯子をかけて往来するという観念があった。また橋には朝鮮、台湾、アッサム、中国、ポリネシア、インドネシアに「虹の橋」の観念がある。蒙古にも虹の橋による天上との交通の話がある。
○「矛」:矛で海を探る国生み神話は蒙古に例がある。日本神話では国土が、浮く魚やくらげなどに喩えられていることから、矛によって海中の魚を刺してそれを得るのを、国を得る神話としたものかと見る見方もある。
○「あに国無けむや」:婉曲な命令をも意味する。本来これは、ポリネシアの神話などに、「島よあれ」とか「鳥よあれ」とか命令する(呪言する)ことによって島や国や鳥などが生れたと伝えるのと、同じような伝承があったことを示唆するものかもしれない。
○「国中の柱」:中国雲南省の苗族は、ハル祭りに豊穣の柱を山上に立て、男女がその周囲をめぐり舞い、性的な歌を歌うという。
○「左旋右旋」:中国の男尊女卑道徳思想の影響か。
○「胞(えな)」:南セレベスやバリ島やスマトラなどで、胞は兄または姉と信じられ、生児を守護すると思われている。このような観念が古く日本にも存在した。
○「潮の沫」:蒙古語族に属するカルミュク族の神話では、原初の海洋に泡が出来、この泡からすべての生物・人間・神々が出現したと伝える。また蒙古人の他の伝承では、天から降った神が、一本の鉄棒で原初海洋をかき回すと、液体の一部がかたまって大地になったという。
○「太陽」:太陽を女性とし、月を男性とし、それが兄弟姉妹の関係にあるという観念は、極北、亜極北に広く分布している、また他方東南アジア、インドではことにアウストロアジア語族に多い。日本は両者の分布をつなぐ位置にある。天岩屋神話がいいろいろな点においてアウストロアジア語族をはじめとするインドシナの神話と類似し関係が考えられるので、アマテラスは本来女性の太陽神だったと考えられる。太陽神を祀る巫女ではない。
○「天照大神」:岡正雄は北方系の高皇産霊神よりも軽い地位を占めていること等に着目し、北方系神話とは異質の、インド・中国南部・インドネシア方面に連なる南方系の稲作=母権社会文化に由来するとした。
○「天照大神」:神代神話のなかの天照大神が民間信仰の太陽神をそのまま擬人化したものではないことはあきらかであるが、農耕社会である古代日本に太陽神祭祀がおこなわれていたこと、そして、伊勢神宮がもとは太陽神を祀る神社であったのではないかと考える余地は十分にある。
○「三貴神」:日と月が兄弟姉妹で、その下に悪い弟妹がいるという観念は、インドシナに広く分布している。またミクロネシアの島には、天父と地母が太陽と月と海の三子を生んだといっている。したがつて本来この三神が一組であるという観念があった。それにさまざまな系統の神格が合成されていった。
○「目」:目から日、月が生じるモチーフは世界の高文化地帯に多く、天父、宇宙巨人神話と結びついている。日本もイザナギの目から日・月が生まれている。
○黄泉訪問、イザナミの黄泉訪問神話でも黄泉は暗い、不潔な国という観念が強く、洞窟の中と考えられていたのではないか。洞窟を含めて地下から人類が出現し、死すればそこな戻るという考えは未開農耕民の間に世界的に分布している。
○「他界の食」:他界の食べ物をとると現世に帰れなくなるという観念は世界的に広く分布している。また禁止された覗き見をしたために、夫婦が別離する点では豊玉姫の出産も同様である。
○「死の起源と黄泉からの逃走」:対立型の死の起源の神話はシベリアからアメリカ大陸、東南アジアからポリネシアにもあり、夫婦の言い争いの型を取る点はポリネシアのものに近い。逃走のときに投げられるものとしては、石、櫛、瑞が多い。イザナギの黄泉からの逃走譚は中国南部の例に近い。
○「死体化生神話」:作物の死体化生神話は焼畑耕作を背景にしている。東南アジアから大洋州、中南米、アフリカなどにこの種の神話がある。
○「天岩屋」:この神話で洞窟に隠れた日神を鶏を鳴かせたり、花をみせたりしておびき出す点において、中国南部からアッサムにかけての例が特に類似していることを岡正雄は論じている。
○「ヤマタノオロチ」:日本の八岐大蛇神話は東南アジアに類話が多い。
○「もがり」:もがりの期間に親戚知人が集まって歌舞することは、東南アジアでもしばしば見られる。
○「垂直降下」:神が天から峰に降下するという発想は、神が水平に訪れてくるという発想と対立するもので、アジア大陸のアルタイ語族などの三つ神の垂直降下の観念と一致する。
○「出産」:出産後産婦の部屋に火をたいてあつくする習俗は、東南アジアに広く分布する。
○「隼人」:九州南部の熊襲、隼人の地をモチーフとする記紀神話は、インドネシアなど東南アジア各地のそれと共通するものがあるので、隼人をインドネシア系種族とみる説もある。
○「海彦・山彦」:この神話と同じものは、インドネシアのセルベス島、南洋のパラウ島、カンボジアにその例がある。
○「異属」:龍蛇や水界の異属の女あるいは男と、王朝の始祖が結婚する話は、東南アジアやインドシナに少なくない。そしてそれはしばしば離婚を伴う。「みてはならぬ」というのに、妻の国人の動物の姿をみてしまう。ベトナムの神話、ビルマの北方の神話にある。
○「鵜の羽」:鵜の羽で葺いたというのは、安産の霊力が鵜の羽にあると信じられていたことによる。中国から渡来したもの。
以上のように「補注」を調べていくと、日本の神話の源流は、中国南部、インドシナ、インドネシア、ポリネシア、ミクロネシア、蒙古、高文化地帯、アルタイ系、未開農民、亜極北など広い範囲に及んでいる。これはこれらに居住していた民族が海流に乗って日本へ渡来し、そのもとの文化、伝承を引き継いできたものと考えられる。海人族といわれる民族である。その代表的なものは安曇族であろうか。
 海人族の神話は水平思考であるが、これが日本神話のように垂直思考に変るのは、大陸内部のアルタイ系民族の影響であり、朝鮮を経由してきた渡来民で、古代王権の中心をなした新羅、百済、高麗の民であろう。彼らは稲作と鉄文化を携え日本の社会を変えていった。それまで畿内、出雲を中心にしていた出雲族は戦いに敗れ、国譲りをおこなった。
 この日本神話の二つの源流が、ときの記紀編纂者により、自分らの都合のよいように書き換えられていった。そのため東南アジア、中国南部の神話とみられていても、そこには書き換えられたあとがある。そのうちイザナギ・イザナミの国生み神話については、谷川健一の「辺境の神話学」や、岡田精二『古代王権の祭祀と神話』(塙書房、昭和45年)のなかの「記紀神話の歴史的背景」が参考になる。
 ここでは日本の学界の通説として、日本神話の源流についてどのように書かれているかを調べてみたものである。なお以下の二冊は明治時代の学者の説であり、二人とも日鮮同祖論、混合民族論の立場である。異なる神話をもった民族が日本に流入してきている、とみるものであり、とくに朝鮮の合併を正当化するために、大王家は同じであり、日本の蝦夷は追いやられたとみている。

☆竹越与三郎『二千五百年史』に次の文がある。
「列島には多数の民族が渡来した。記紀神話には、マレー人種系、南洋人、蒙古人種、シナ人種、小人種(コロボックル)などの伝承が流入している。」
☆久米邦武『日本古代史』
「イザナギ、イザナミの国生みを船による征服とみなした新井白石を活眼と賞賛している。日鮮同祖論の立場。半島南部からきた南種が列島を支配し、北部からの民族を蝦夷、土蜘蛛などとした。出雲は南種であるが列島支配民とは異なる民族で、オオクニヌシの国譲りで明け渡した。混合民族論の立場。天皇家も外来。」  (2011.10.1垂澤祥夫)
以上の二冊は、小熊英二『単一民族神話の起源』(新曜社、1995年)にあり。
  (2011.8.26垂澤祥夫)
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越前の白山とイザナギノ命
  五世紀の末の雄略天皇は、478年中国に遣使し、中国の史書では倭王「武」といわれる。当時の大和朝廷は豪族達の合議で成り立っていたが、天皇は独裁的な傾向の強い大王であった。対立する皇位継承者を武力で一掃して即位。「性(せい)猛(たけく)まし」と書に残る。歴史家はこの天皇のときに伊勢神宮の天照大神と豊受大神の内宮、外宮が創始されたと説く。このことは今までの応神天皇以来の河内王朝で、難波の津が祭場であったのが、伊勢に移ったのであり、祭りの内容の変更により、日本神話も変ってきた可能性があるという。
 さらにこの王朝が顕宗、仁賢で途絶えて、遠い傍系のオホド王が越前から迎えられ、継体天皇として即位する。継体天皇は三関の関(愛発、不破、鈴鹿)の外から、即ち蝦夷の国から迎えられた始めての天皇である。継体天皇には何人も妃がいたが、尾張連(おわりのむらじ)の娘、目子媛がはじめての后妃であり、安閑、宣化天皇の母である。継体天皇の背後には、尾張、越(三国氏、母の振媛の里)、そして近江(息長氏や三尾氏)の勢力が深くかかわっていた。
 この畿内の外から大王が迎えられたことで何が変わったかというと、伝統的な祭祀や伝承である。継体天皇を押し上げた勢力も海人であったが、日本海を勢力にしていて、いままでの瀬戸内海勢力とは違っていた。淡路、吉備の海人は大和朝廷成立時から協力していた。これに尾張の一部も入っていた。出雲、越は出雲の国譲りに見られるように、大和政権との戦に負けて逼塞していた。(尾張氏はその後継体天皇、天武天皇を助ける。)
 淡路の海人の神話は一部変更されたが、国生み神話として記紀に残されている。(この点については別に書いている。)そこでは神は海のかなた、根の国から来臨するものであった。それが畿外の神話では、神は山の頂に坐(ま)すと、水平他界観から、垂直他界観にかわり、それが神話に反映されるようになる。これは、岡田精司氏の説である。(この点は、私は必ずしもそうともいえず、出雲神話では、神は海のかなたからより来る、としている。)
 先の倭王武のときに、「天皇」の称号が使われだした。これは中国の天帝という考えを日本に当てはめたものであり、専制的な支配体制、律令制支配の思想的な裏づけとなった(道教の教えに基づき、その後天武天皇が確立した)。この考えでは、天上に神がいて(高天原)、中津(なかつ)国(人)があり、地下に黄泉(よみ)の国(くに)があるという、神、人、死者の三段階の思想で、死者は黄泉の国へ行く。明らかに垂直思考である。記紀でイザナギがイザナミを黄泉の国に訪ねていくのがこの思想である。この海から山に神の来臨が変化していったのは、継体天皇以後ではないか、と岡田氏はみている。
 私の関心は、白山にイザナギノ命が祀られているのは、どうしてかという点にある。「泰澄和尚伝」によれば、この書は元徳2年(958年)に浄蔵の口述を門人の神與が筆記したという。そこでは、山頂で泰澄の聞く白山神のことばは、「わが身はイザナギノ命、今は妙理大菩薩と号す、この神岳白嶺はわが神務国政のときの都なり、吾は日域男女の元神なり、天照大神は吾が子なり」というものである。
 もともと、イザナギノ命は、矛で海をさぐることにより、淡路島を生み出した。国土が当初は浮く魚やくらげに喩えられていた。海人族のもっていた神話である。その元の地は中国江南の地、あるいはポリネシア地方といわれる。この海洋性の高い神話がどうして、泰澄の白山縁起では、白山山頂がイザナギの神務国政の都となるのか。これには二つのことが考えられる。 
@継体天皇を支持した尾張氏、息長氏、三国氏などの海人の集団に、イザナギノ命が山頂に降臨する神話を持っていた。
A『日本書紀』の完成後、それにあわせて泰澄和尚と結びつけて作成された。
継体天皇をバックアップした畿外の地では、大和と違い、すんなりと天照大神の信仰は受け入れられず、異なる神を祀っていた可能性はある。私は@の説に魅力を感じる。Aの説が妥当とは思うが、それでは何故白山とイザナギが結びつくのかが分からない。何か結びつくものがあったとしたら、@の説となる。この越前の地はもともと、朝鮮との交流が盛んであり、任那や新羅との結びつきが強い。また韓神信仰が行われていた地である。(この点についてはすでに別に述べた。)同じ海洋の民であっても、瀬戸内の海人と日本海の海人では違うのであろう。(特に出雲が関係してくると、敵対することになる。)泰澄は渡来人の出であり、母伊野氏は、白玉の水精が懐中に入る夢で泰澄を身籠ったという。
ここで『日本書紀』についての一つの見かたを紹介する。関裕二氏のものである。
8世紀に編纂された『日本書紀』は何故か、「東国」を敵視し、その姿を歪曲している。蝦夷の地は野蛮な地であり、礼儀を知らず、農耕を知らない、と。しかし、実際は既に古墳時代から大和との交流はあり、稲も作っていた。関東は、巨大前方後円墳の密集地帯でもある。壬申の乱で大海人皇子が吉野から東海へ逃れ、尾張氏の加勢を得て大友皇子を近江に打ち破り勝利した。しかし、この尾張氏の活躍は『日本書紀』には殆ど記録されていない。正史編纂を命じたのは天武天皇であり、天武天皇の崩御の後『日本書紀』は完成した。「日本書紀は天武天皇のために書かれた」というのが通説であるが、それであれば壬申の乱で天武天皇の最大の支援者である尾張氏のことが書かれてもいいはずである。が、からずしもそうなっていない。どうやらそれは、持統天皇にある、と関氏はみている。天武天皇の皇后であり、天智天皇の皇女である持統天皇は、天武天皇の遺児大津皇子を殺してしまい、自分の子ども草壁皇子を即位させようとした。しかし息子は亡くなってしまい、そこで藤原不比等と組んで、自分が皇位につく。「天武の王家を継承する」という名目で、「天智の王家」を復活した。『日本書紀』は藤原不比等が権力を握った時代に記されたので、天武天皇を推戴した尾張、越、出雲、東国などの豪族をまつろわぬ民としてとらえた。
継体天皇についても、その崩御のときにあわせて、安閑、宣化の二人の皇子が同時に亡くなったという記事がある。この二人の皇子は尾張の后妃から生まれている。そしてあとを継ぐのが、河内王家の媛である手(た)白(しろ)香(かの)皇(ひめ)女(みこ)の子である欽名天皇である。
このことは藤原氏にとって継体天皇の味方である蘇我氏、尾張氏、大友氏、物部氏などが政敵であった。日本神話で出雲といわれるのは、出雲はもちろんのこと、越や東国を含んでいる。当時力のあつたのが蘇我氏であり、出雲の出身である。「方墳」は出雲地方で盛んに作られた。石舞台の蘇我蝦夷の墓は方墳であり、その地盤である葛城地方には、出雲の神オオモノヌシの子を祀っている。
『日本書紀』は蘇我氏のあとを抹消するために書かれたともいわれている。蘇我、尾張、継体の一族は密接な関係にある。そのため、8世紀以降の天皇家は継体天皇の末裔になるにもかかわらず、関係する氏族を蝦夷として蔑視して史書からはずした。
そこで、外された継体天皇を支持した豪族は、自分たちの歴史を残すことにした。それが泰澄和尚伝、別名白山縁起である。それは、淡路系の海人とは違うものである。言えば、日本海海人の意地がこの縁起に入っていると私はみたい。だから、白山にイザナギノ命が結びつくのである。
このことは、泰澄の白山の開山の年、養老元年(717年)にある。私はなぜこの年号がでてくるのか不思議に思った。泰澄36歳である。もっと若く開山してもよかったのではないかと思う。ところが、この年号には深い意味がある。即ち、『日本書紀』の完成は、養老4年(720年)である。白山の開山が文書で明らかにされるのは、前に述べた元亨釈書である。日本書紀よりも後に完成していて、当然ある一部の人はこの日本書紀を読むことができた。それを十分に意識しながら、その内容とは違う神話を残そうとした。それが『日本書紀』と『古事記』(712年)の間の717年になるのである。
この白山縁起こそ、日本書紀でないがしろにされた、継体天皇を支持した氏族らの持っていたもう一つの神話なのである。「吾が本地の真身は天嶺にあり」と垂直型の神話を残した。もちろん記紀神話は水平型、垂直型の両方を取り入れているが、イザナギノ命をはっきりそのようには書いていない。そういえば、泰澄和尚のことは国史には名前が出てこない。これは蘇我氏、尾張氏と同じく意図的に抹消したものである。それが最終的には「泰澄和尚伝」の形で残されたのである。天皇不豫に際し玉体加持の祈祷をしたり、十一面法により、疱瘡の流行を止めることをしているのに、歴史書に出てこないのには、もっと深い意図的な削除があったのである。
以上の越前の継体天皇の出身地と、白山、イザナギノ命との関係についての私の考えは、まあ推測の域を出ない話であるが、いろいろと本をよんでいくと、そのような考えもできるのではないかと思った。
継体天皇の時代に九州で磐井の乱があり、大和政権と九州の海人が戦った。このとき敗れて日本海を逃げた海人に安曇族がある。安曇族はその後信州安曇野に居を構えて、穂高神社を建立する。穂高神社の祭神穂(ほ)高見(たかみの)命(みこと)は、海神、綿津(わたつ)見(みの)命(みこと)の子供である。海の神と山の代表のような穂高岳の神が親子である。その奥宮は、上高地明神池と奥穂高岳の山頂にある。穂高岳の名前の由来である。この点について私は別に一稿を書いているのでそちらを見ていただきたい。海の神と山の神を同時に祀っているのである。それと同じであり、イザナミノ命は海人族の祀っていた海の神であるが、白山の山の神にもなったのである。(2011.9.12 垂澤祥夫)

☆参考文献
『消えた出雲と継体天皇の謎』関裕二(学研 2010.8)
『古代王権の祭祀と神話』岡田精司(塙書房 昭和45年4月)
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アフミ(近江)の国名
 アフミ(近江)の国名についての通説をもう一度考え直してみると。
 滋賀県の古い国名を「アフミ」といい、これに近江・淡海の字を当てた。淡海は淡水湖に基づくもので、畿内からの距離の遠近で、琵琶湖を「近(ちか)つ淡(おう)海(み)(近江)」、浜名湖を「遠(とお)つ淡海(遠江(とおとうみ))」と書き分けた。以上が通説である。
 しかしこれに反論があり、アフミはオホウミ(大海)の訛で、ウミ(海)と同義であると考える。ウは「大」、ミは「水」で大水の意味から海洋はもちろんのこと、湖沼のおおきなものを指してよぶのにもちいた。昔、琵琶湖の漁民が湖の流れをシオと呼んだり、えり漁にシオトメ、シオウケという語があり、ほかにシオガクル、シオミなどのシオという言葉があるのは、海の潮(ウシオ)に基づくものと思われる。
 湖岸にはアマガケ(天川)、アド(安曇、安土)、ワニ(和邇)、オキナガ(息長)という地名があるが、いずれも古代海人族の豪族の名前であり海洋に関係がある。もともと中国江南地方で稲を作り漁撈を営んでいた人々は、紀元前4世紀ごろの寒冷化にともない、北からの民俗に押されて、海上や東南アジアに移動せざるをえなくなり、その一部の人が、日本に来た。海上生活をして魚を獲っているがもとは稲作中心の農民であり、日本に来ても川を遡り平地をみつけると定住した。淀川を越え、あるいは敦賀から山を越えて、琵琶湖を発見したときに、湖の魚と平地での稲作が可能で、しかも周囲の山からは山の幸も得られた。まさに住むのには最上の地ではなかったのではないかと思う。弥生式の稲作の遺跡としては、日本で一番広い大中(だいなか)の遺跡が近江にはある。その伝統を受け継いで、今でも江州米の産地である。これは昔、海人族が稲の適地を探して辿りついた地である。
 『万葉集』(巻9、1715番)に「楽浪(さざなみ)の比良山風の海吹かば 釣する海人(あま)の袖反(かへ)る見ゆ」という歌がある。まさに、海と海人であり、大海と同じ思いを詠みこんだ。
 以上のいろいろの点から、オフミは海よりきている言葉であり、淡水湖より大海のほうが適当ではないか。これは滋賀県今津町生まれの橋本鉄男『琵琶湖の民俗誌』(昭和59年、文化出版局)の説である。氏は琵琶湖の漁業や魚に関する綿密な調査を行い、滋賀県の民俗学者として知られている。「アハウミ」の語感と「淡海」の表記も捨てがたいものがあるが、古代海人族に関係する「アフミ」もまた説得力がある。(2011.8.1垂澤祥夫)
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三輪山信仰と白山信仰
 国宝の十一面観音像は全国に(といっても近畿地方にしかないが)六体ある。近江の渡岸寺、田辺の観音寺、南大阪の道明寺、そして大和の聖林寺、法華寺、室生寺である。私はそのいずれをも拝観している。それぞれに惹きつけられる魅力がある。そのうち聖林寺の観音立像についてである。
 白州正子の『十一面観音巡礼』(講談社、1992年)によれば、明治の初めの廃仏毀釈の際に、三輪神社の神宮寺の縁の下に捨てられていたのを、フェノロサが発見し、天平時代の名作をそれまでに所縁のあった聖林寺へ移しておまつりした。もともとは神宮寺(大(だい)御(ご)輪(りん)寺(じ))の仏さんであった。
 桜井の大神(おおみわ)神社は三輪山を神体山とする神社で、その歴史は記紀にも詳しく書かれている。我が国の神信仰の大本のような社(やしろ)である。誌史に載る以前はその地の地主神であった。ヤマト王権の大王の時代に西の九州から豪族がこの地に入り、居住していた集団と戦いになったが、その後和合して、地主神の大物主神と新勢力の祀る日の神と、二つの系統の神をこの山に祀ることにした。山頂にある高宮(こうのみや)(上宮とも神峰とも)に神坐(かみにいます)日向(ひむかい)神(のかみ)に太陽神を祀っている。一方、大物主神が蛇であることは、『古事記』の箸墓古墳のヤマトトトヒモモソヒメとの逸話からも分かる。地元の人々は地主神とともに、三輪山から登る太陽をも崇拝する。
 その後の歴史書によれば、天照大神は麓にある桧原神社に移され(祭神は天照大神、イザナギノミコト、イザナミノミコトである)、『日本書紀』によれば、垂仁天皇の時代に、倭(やまと)姫(ひめの)命(みこと)が伊勢に天照大神の祭祀を移した。ここに伊勢神宮が始まる。
この日本で指折りの古い大神神社に、古くから神宮寺があった。神仏習合である。天武天皇の挙兵に応じて壬申の乱(672年)に功をたてたこの地の豪族大神(おおみわ)高市(たかいち)麻呂(まろ)の邸宅が後に寺になり、その後8世紀に神宮寺になった。前の十一面観音はこの寺の本尊であり、8世紀の中頃の制作である。
 ここで注目されるのが、日の神を祀る大神神社の神宮寺の本尊が十一面観音であるという点。これよりかなり後の中世以降には、本地垂迹の考えでは天照大神の本地仏は大日如来と変る。奈良時代、東大寺で聖武天皇が大仏に額づいてから、日本の社会で神仏習合がはっきりとしたが、その走りは、大峰山の役小角であり、あるいは、白山の泰澄和尚であるといわれる。この7世紀の末から8世紀の初めに大神神社に神宮寺があり、しかもその仏が十一面観音であるということは、日本に仏教が伝わってから後、いかに現世利益の観音菩薩と、あの世で地獄から助けてくれる地蔵菩薩、それに病気の苦から救ってくれる薬師如来の信仰が盛んになったかを示している。特に観音菩薩は33通りに変化し、十一のお顔を持ち、千の手を持ってあらゆる人を、あらゆる時に、あらゆるところから助けてくれる。分かりやすい仏、生活に福をもたらしてくれる仏である。そのために早くから受け入れられた。
 もうひとつの事実を白州正子は書いている。日本書紀の編纂に携わる舎人(とねり)親王がその完成を斑鳩の松尾寺で祈願したときに、夜明け太陽の出る前に十一面観音が示現した。その助けもあり、完成させことが出来たという。この松尾寺からは東に三輪山から昇る太陽を拝むことができる。
 さてここからが本論である。越の白山を養老元年(717年)に開山した泰澄和尚は、その修行の地、越智山の山頂から毎日東方向にある白山から昇る太陽を拝んでいた。この山にはかならず尊い神霊がおわすに違いないと確信し、ある日夢の中の神女に導かれて白山の山頂を窮め、御厨屋(みくりや)の池でまず竜を拝し、続いて十一面観音の示現に会い開山を果たす。
 もともとこの白山は水田が麓で作られるようになると、水の神として、あるいは火山の噴火や山の幸を恵んでくれる山の神として、そして太陽の昇る日の神として地元では崇拝されていた。さらに日本海を航行する船の船頭からは道標(しるべ)の山として崇められていた。さらに、日本書紀のある一書(あるふみ)には、イザナギノミコトにみそぎを勧めた菊理媛(くくりひめ)のことがでてくるが、イザナギノミコトはその禊の後、アマテラス、ツキヨミ、スサノオの三貴神を生むことになる。白山の祭神は、このククリヒメとイザナギ、イザナミの三神である。さらに右の大汝峰にはオオナムチを祀り、左の別山には別山大行事を祀る。
 このように白山信仰の祭神をみてくると、大神神社と(その摂社である桧原神社を含めて)よく似ていることが分かる。竜(蛇)、十一面観音、太陽崇拝、イザナギ、イザナミ、オオナムチなどである。菊理媛のことは三輪山信仰にはでてこないが、この神を白山に祀ったのはもっとあと中世以降ということであり、この8世紀の初めにはなかつた。泰澄和尚の白山開山は717年であり、この年は、古事記の完成の712年、日本書紀の完成の撰述の720年の間である。何か深い訳があるのだろうか。
 残念ながら泰澄和尚のことは日本の公式の歴史書には出てこない。白山の開山の717年も、平安時代に作られた「泰澄和尚伝(白山縁起)」による。そのために、後から記紀の内容を勘案して、時代を合わせたということも考えられないことはない。その点はなんともいえない。一つ参考になることを書くと、「泰澄和尚伝」の「神(かむ)世(よ)七代(ななよ)」の神の名前は、『古事記』ではなくて、『日本書紀』の本文に近い(まったく同一ではないが一神だけ異なる)。これは古事記は宮中深く蔵されていて見られることはなく、貴族などの読まれる書としては日本書紀が使われていて、一般には日本書紀の文しか見ることは出来なかったことによる。
 この記紀の作成された時期を考えてみると、現在に続く日本の国の基本が作られた時代である。天武天皇が国名を倭から日本に変え、大王を天皇の名称にし、律令制を中国より取り入れて政治の中心とし、仏教を広めたことにより神仏習合が一般となり、記紀の編纂から日本語の表記の仕方を模索し、そして国の歴史書の編纂に着手した。都を飛鳥や藤原に造営した時代でもある。このように新たな時代に、新たな国の「日本」にふさわしい国史を作ろうとしたのが記紀の編纂である。そのため記紀の神代の巻については、「日本の神話は、ただ民間に流布する神話を寄せ集め、適当に按配して編纂したものではない。それは考え抜かれた知の書物である」(西條勉(『古事記神話の謎を解く』中公新書2011年)、といわれるほど意図的なものであった。また、「イザナギ、イザナミの話の特色は、伝承的な事歴をまったくもたないことだ。民間に伝わっている古い話はおそらく一つもない。おおかたのストーリーは、朝廷の知識人たちが机上で作った。ただその神名は淡路島のほうで漁民が信仰していた神の名である」(同書)。このように専門家は述べる。この国生みの神の原像がなかなか掴めないというのが悩ましいところである。
 どうやら記紀編纂者は歴史より遠い昔にあつた伝承を集めたのではないようだ。自分らの王朝を神聖視するために意図的に歴史を作ったのである。日本にも当時太陽信仰はあつた。しかしその太陽、日の神、天照大神を皇室の祖先神としたのは記紀神話からである。そして日の神の皇孫が高千穂の峰に天下った。そこから日本の歴史書は書かれている。
さて似ている三輪山信仰と白山信仰は、さらにそのまた元を質すことは出来ないのであろうか。その当時のある豪族の一族が引き継いできた神話というものがあつたのではないだろうか、と考えている。淡路島の漁師の信仰する神では少し納得がいかない。あるいは机上で作文したとは思いたくない。
三輪山と白山この両方に関係する豪族で、しかも記紀編纂に影響力を振るえる豪族はいなかったのか。あるいは、イザナギ、イザナミの神の原発祥地が別にあるのではないか。それはどんなルートで日本にもたらされたのか。それらが私の問題意識である。そのことを通して白山信仰の原初の姿を明らかにできればいいと思っている。(2011.6.11垂澤祥夫)
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野路汝謙「白山紀行」を読む
 白山に登った古い紀行文を探していて、ようやく元禄時代に活躍した福井藩士で漢学者の野路汝謙の仰せにより白山に登ったときの紀行文にたどりついた。19世紀の登山記はみていたが、1600年代後半の紀行文ははじめてである。水無月の下の8日というから、旧暦の6月23日ごろか。一の瀬からはいわゆる越前禅定道である。帰りは別山から石徹白に出る美濃禅定道を歩いている。すこし詳しく見ていく。
 「勝山より谷村へ三里」という書き出しである。谷村、谷峠、牛首、風嵐、一の瀬の道順で、越前禅定道の平泉寺、法恩寺山、伏拝、小原、払川、三つ谷、一の瀬のコースとは違う。このころすでに白山に登るには、谷峠から牛首に出る道が一般化されていたのであろうか。谷村を朝出れば、夕方には一の瀬に入れたようであり、小原峠越えより時間的には短かった。
 一の瀬からは六万部山を登る。金のくさり、相撲が馬場、桧宿、伏拝、かみそりの岩屋、尾平、別当坂、餓鬼が喉、権現の御池、真砂砂、権現のお花畑、弥陀か原、五葉坂そして越前室に入る。ここの地には他に大師堂、護摩堂があり、平泉寺の僧が夏の間参篭している。寛文8年(1668年)の「白山麓十八ヶ村」の天領化のあとであり、加賀藩と越前藩との争いは決着をみていたが、牛首・風嵐対尾添の対立、また石徹白と牛首、風嵐の対立は続いていて、この文では、御前室は平泉寺、六道室は牛首・風嵐、加賀室は尾添、そして別山室は石徹白の者がそれぞれ詰めているのが分かる。白山争論は元禄期以降も続いているのである。
 御前室より大御前の社まで八町を御前坂という、ここからの眺望として、福井市、加州の内、江州の湖水竹生島、美濃の長良川、そして冨士山など。途中から転法輪の窟への路、大師の参篭の秘所であると説明している。また二町ばかり谷を下ると御厨屋(みくりや)の池がある。大師禅定のとき九頭竜出現の地である。
 大御前には本地十一面観音二体あり。金の仏像で小さいほうは奥州秀衡の造立、大きいほうは青木紀伊守重治造立。その山頂から少し大汝の方に下って、地蔵堂があり、秀衡の金仏の地蔵が安置されている。ここに六道室があり、牛首、風嵐の住民が参篭する。千歳が池、千蛇が池あり、地獄谷へ下る。大汝峰には本地阿弥陀如来の金仏があり、同じく秀衡の寄進。
 ここから越前室に帰り、別山に向う。竜が馬場、畜生谷、油坂を過ぎ天池を通り別山の社へ。本地聖観音の像、金森法印素玄造立。天正13年に大野で鋳た。別山からは一の峰、二の峰、三の峰を経て神鳩に出る。ここに不動を安置する。大師の母の廟石がある。このとき冷水(しみず)の室には長滝寺の僧が一人こもる。10人が囲んでもまだあまるという名木の杉がある。この杉はいまでもあり、私も見ている。美女下の社がある。
 石徹白の宮は白山三社なり、拝殿に虚空蔵菩薩を安置する。大師自作の像は太子堂にあり、養老元年大師36歳ここより白山禅定の道を開いたときの像。右に古き錫杖、左に独鈷を持っている。石徹白から長滝寺へは峠を越えて行く。前谷が美濃の国との境である。石徹白からは福井へ帰る道もある。
 以上がこの紀行の内容である。福井藩の仰せを受けて歩いたものであり、状況の視察の意味があったのかも知れない。多分加賀藩の特別の動きがないかどうかを調べたものであろう。距離をはっきり書いているので、後の人がまた視察に訪れるときの参考にしたのかもしれない。当時、ここに書かれているような、それぞれの所に名前と謂われがあった。それを克明に拾っている。後の人がこの文に載っている地名を参考にしていること間違いない。重要な紀行文である。
一つ気がついたことを記すと、美濃禅定道には泰澄大師の関係する遺跡が多い、大師自作の像があったり、大師の母の言い伝えもある。泰澄大師はひょっとすると九頭竜川を詰め、石徹白川の上流のこの美濃禅定道を歩いて白山の開山を果たしたのかも知れない。これは私がもっている越前禅定道への疑問であり、私もその一部を歩いているが、平泉寺から法恩寺山へ登るルートがあまりにも大変であり、急に山へ登るよりも、遠回りではあるが九頭竜川を遡る方が理にかなっているような気がする。するとこの美濃禅定道が納得いくのである。まあ今にしては、もう確かめる術はないが。  (2011.6.24 垂澤祥夫)
 
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日本のオオカミ
 明治の始め頃まで、農民はシカやイノシシから作物を守るためにお札を用いた。それにはオオカミの姿が描かれていて、「シシ除け」と呼んだ。静岡県の山住神社、奥多摩の三峰神社、あるいは西舞鶴由良川近くの大川神社(かってはオオカミ神社)などのお札が知られる。
 東北では夜中にオオカミに会うときには、「油断なくオオカミを追ってくだされ」と挨拶して通ったという。またオオカミが仔を生んだと聞いては、産見舞いにオオカミの好物の塩を持っていく習慣が各地の山村にあった。(谷川健一)
盛岡の人々はオオカミを「御犬」と言い、尊称のオをつけて読んだ。
 古代から日本においては、オオカミは神に祀られていた。もともと、大(おお)きい神(かみ)の大神が語の由来という。『日本書紀』には「かしこき神にしてあらきわざを好む」と表現されている。万葉時代には「大口(おおぐち)の真(ま)神(がみ)」と奉った。オオカミは田畑を荒らす猿やシカを駆逐してくれる益獣であり、やたらに人間に害を加える動物ではなかった。東京にある山で最高峰の雲取山は、白石山、妙法ヶ岳とともに三峰と呼ばれる。その三峰神社は伝説では、日本武尊がこの宮を建てたという。武尊が雁坂峠の山道で道に迷ったときに、白いオオカミの神が案内役として山から導き出してくれた。三峰社の鳥居の脇には、二匹のオオカミが本殿を守るように立っている。
 オオカミとシカについては深いつながりがある。私が山の会の仲間と北海道知床の羅臼山に登りに行ったとき、降りてきて宿泊した宿の庭に大きなエゾシカが現れてびっくりしたことがある。この地域全体が世界遺産に指定されているために、シカを追い出したり、処分したりすることが出来ず、その被害を宿の主人は嘆いていた。シカの害はいま全国で聞く。関西でも大台ケ原の樹木の立ち枯れは、シカが樹皮を食べてしまうためである。かってはこのシカをオオカミが食用としていたので、数のバランスがとれていたのである。
 そのオオカミが20世紀の始め、日本列島からにわかに姿を消してしまった。なぜ絶滅したのか。この点について今西錦司博士が研究した。氏は大学を出て間なしの頃、「ただスポーツとして山へ登るばかりでなく、山へ行ったらもっといろいろなことを見たり聞き出したりしてこようと考えた。」「狼は絶滅したというが、それなら絶滅に関する資料も、山行で集めてみよう」と考えた。こうして、近くの鈴鹿山脈の町村役場や地方の文書保管庫に出かけて、土地の古老にオオカミのことを尋ねた。その過程で、1860年代後半から70年初めには多数の目撃情報があった。それが、1880年から1900年代初期の間にその数は先細りになった。オオカミは絶滅したのではないかと推測した。
 今西は柳田国男の『孤猿随筆』(1939年)を読み、そこにあるオオカミの絶滅についての説明に、生態学の立場から反論した。当時このオオカミが姿を消したことについて、初めて説得力のある説明をしたのが柳田であった。柳田は『遠野物語』の中でもたびたびオオカミについての話をとり上げ、特にオオカミが群れをなして行動しているその恐ろしさを書きとめている。そしてオオカミは群れで行動するということを主張された。このオオカミが、棲息地の消滅と獲物の減少から、群れの行動が維持できなくなり、孤狼になり、段々と食糧を求めて人間の住む地まで押し寄せ、牧場の馬を狙うようになり、最後は狂犬病の影響もあって、人間にも害をなすようになった。こうして今まで畏敬の対象であったのが、憎悪されるようになり、進んで殺戮されるようになった。
 このような推移の中で、オオカミの絶滅について、柳田は人間の直接の影響ということではなく、オオカミの社会それ自体に内在するのではないかと考えた。その鍵は孤狼である。そして、まだ日本列島から消えてはいなくて、どこかの山で生きている。また、日本犬との交配で、オオカミ―イヌ雑種化されているとみた。民俗学の調査でそのように見たのである。
 一方、今西は、この柳田のオオカミの群れという点に疑問を持ち、戦前の蒙古での調査や、古老からの聞き取りで、家族としての群れはあるが、四、五十頭、あるいはそれ以上の群れについては疑問を持った。そして比較生態学や、動物社会学から検討されるべきものとした。その結果、オオカミが人間に敵視され亡んだということは考えられるが、群れの滅亡から亡んだということはない、と結論づけた。
 この日本の絶滅したオオカミについて、アメリカの環境史、生態学の専門家のウオーカー氏が、北海道大学での研究の成果を『絶滅した日本のオオカミ―その歴史と生態学』(ブレット・ウォーカー著、浜健二訳、2009年北海道大学出版会)として出版した。古代の日本書紀から志賀直哉の「焚火」、柳田、今西はもちろんのこと、関係ある書を全部あたり、お札を出している神社への実地の取材などを交えて、詳細に記述されている。いま求めることの出来る一番の書ではなかろうか。特に明治時代にいままでアイヌがカムイとして崇めていたオオカミを、高い賞金をかけて、開拓のために徹底的に捕獲したことを嘆いている。それでエゾオオカミは絶滅したと告発する。それが日本の近代化なのだと。
 氏のアメリカではイエローストーンで数百頭のオオカミを再導入して生態系を維持するプロジェクトを推し進めている。それに比して「日本のオオカミについての経験は、自然を征服しようという試みを象徴している。」「これはとても悲しいことだ。無慈悲に生物を侵し続けるなら、私達人類全体に、大きな地球上の沈黙をもたらす」と警告する。
 こうはっきりと主張されたのは私にとってはショックであった。むしろ自然を征服してきたのは、欧米ではなかったのか。日本は自然との共生をはかってきたはずだ。それなのにである。しかし、現代のシカの害で日本が困っているのをみれば、氏の言うのも納得できる。
 今西は柳田の説には反論したが、口承や文書記録に頼らざるを得ない点は認めている。そして、『遠野物語』に出てくる群れのオオカミについて、異常に行動をするのは、種の絶滅の前兆ではないかとみる。そしてほかにもこういう行動があったことを見た人はいないだろうか。あるいは、「新潟県の笹ヶ峰で一猟師から、狼の足には水かきがあるから、みな日本海を泳いでシベリアへ渡ってしまった、それでこのへんには狼がいないのだ、という話を聞いたことがある。」それを見た人はいないだろうかと書いている。
 柳田は、奥吉野の優れた猟師たちが、山の霊獣について、居るならどうして居るのか、居らぬならどうして絶えたのかという二つの問題を解決してくれることに期待をよせる。それは広く全体の生類のために必要だと書く。
 我々はその後この両氏の呼びかけにまだ答えていない。吉野の出身の宇江敏勝氏は1945年までは吉野に狼はいたという。それが戦後の森林破壊で棲息地がなくなり絶えた。
また、柳内(やない)賢治(けんじ)氏は『幻のニホンオオカミ』(平成5年、さきたま書房)の中でオオカミは絶滅していない、と説く。氏は昭和39年6月両神山で前方20メートルの距離でオオカミと出会っている。そして3分ほどにらみ合った後、こちらが3人であることもあり、悠々迫らざる歩み方で森の中に消え去って行った、という。オオカミの恐怖を体験したのである。
 はたしてオオカミは居るのか。 まぼろしのオオカミの出現を待つ。(2011.5.10垂澤祥夫)
参考書
 1.『神・人間・動物―伝承を生きる世界―』(谷川健一昭和61年、講談社学術文庫)
 2.『絶滅した日本のオオカミ━その歴史と生態学』(ブレット・ウォーカー著、浜健二訳、
   2009年北海道大学出版会)
 3.『孤猿随筆』「狼のゆくへ―吉野人への書信―」(柳田国男全集10巻、筑摩書房)
 4. 『動物記』「狼」(今西錦司第二巻、講談社)
 5.  柳内賢治『幻のニホンオオカミ』(平成5年、さきたま書房)
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大野晋『弥生文明と南インド』を読む
 日本語学者大野晋氏の『弥生文明と南インド』(岩波書店2004年)を読んだのは、日本神話のイザナギ、イザナミの国生み神話の源流が、中国長江、台湾、インドネシア、ミクロネシアなどの南方からのルートにあるという、吉田敦彦氏の説を見てからである(『日本神話の源流』)。大野氏はインドのドラヴィダ語の一言語であるタミル語が日本語の源流である、と言う説を出して注目された(学術書は『日本語の形成』岩波書店2000年)。氏は述べる。「私は世間でしばしば見られるような、証拠のない単なる思いつきを、ここで空想的に語っているのではない。タミル語と日本語との比較を比較言語学という学問に基本的には忠実に従って、実証した」。そして約500語の類語を説明している。
 もちろん言語だけが移ってくることはありえず、当然文明も伴ってきた。インドといえば紀元前五世紀の釈迦による仏教の発祥地であり、日本には6世紀に朝鮮から仏教伝来した。しかしその前に弥生時代(紀元前5世紀〜10世紀から始まる)に南インドとは密接な関係があった、と大野氏は説明する。それも従来からの中国や朝鮮経由での稲作、金属の使用、機織技術の輸入の前に、同様の技術が渡ってきていたとする。南インドの言語と文明が紀元前5世紀以後に北九州に波及し、日本中に行き渡り定着した後で、朝鮮から文明を取り入れ、その次に中国から漢字文明や国の制度、法律などを学習して、国家としての体制を整えてきたとみる。
 従来の歴史書では、朝鮮、中国との関係は言及されてきたが、南インドとの関係は全く省みられなかった。朝鮮半島からの百済や新羅の国からの渡来人の影響、あるいは、安田喜憲氏の中国長江文明の影響などが主として考えられていた。
それでは具体的にはどうなのであろう。弥生時代と南インドとの共通点は、
1.新年の行事(門松、注連縄、トンド焼き、若水を汲む、神に供え物をするなど)。
2.鉄の渡来(朝鮮から渡来する以前の弥生遺跡から鉄が出土している)
3.文字以前の記号文の類似
4.墓制の類似
5.神、忌み、祓えなど祭祀に関する類似
などを上げている。勿論、言語の類似を実証した上でのことである。ここでは、私が関心のあるカミついてより詳しく引用する。
 日本の記紀や万葉集から日本のカミの特徴をまず上げてみる。
一、カミは唯一の存在ではなく多数存在し、具体的な形をもたず漂動(ひょうどう)している。憑代を定め酒食を用意して祈願すると降臨する。
二、カミは畏怖の対象で、超人的な力を持つ、「雷」「猛獣」「山」がカミといわれるのはその威力による。
三、カミはそれぞれのものや場所に宿り、そこを所有・支配する力をもっていた。そのため、一定の地域を領有し、統治支配する特別の人間的存在もカミと呼ばれた。
四、カミは人間的な存在として扱われているが、その住む場所はアメ(天)、古形はアマ(天)である。カミの住む天界である。この語がタミル語のアマラと類似する。(ちなみに、シナ・チベット語ではテン(天)という。漢字の輸入した後では、日本でも天とよむが、日本のアマという語はテンとは対応していなくて、タミル語に由来する。)
これらの日本でのカミについての捉え方が、タミル語でのカミに対する捉え方と同じであることを詳しく述べている。ここでは専門的になるので詳細は上げないが、この祭祀に関する大事な言葉が同じということは、単なる偶然ではない。
 今までの説明では、神が天から山や木、石に降臨するのは、北方民族の神話によくあり、それが朝鮮経由で日本にもたらされた、と見られていた。しかし、大野氏の研究によれば、タミルのカミも、聖性を帯びた場所に降りる、歌謡や舞踏といった行為の中に顕現する、結界を作りそこを清めて迎える準備をする、依代は山や特定の木などである、聖性を帯びる人間は、女、子供、バラモン・シャーマンである、司祭は予言、託宣もする。このようなタミルのカミを把握して、日本のカミの概念と非常に似ているとみて、結局そのことは、日本の文明への影響があったと考える。
 こうしてみると日本人のカミの元のところは、南インドからの民族の渡来にもと付き形成されていった。タミル語の人々はイザナギ、イザナミの神話を持っていたとは言えないが、こと神については、カミが恐ろしい威力を持ち、超人的な力を持っていてその代表として山が当てられ、しかもカミの住むアマと地上の山は接点をなしている。ここに地上の山がカミでもあり、アマに一番近い地としてカミの降臨する地でもある。このことは、雷や熊、狼も同じである。そのように思っていた。
 この日本人のカミを漢字で「神」の字を当てたのは、「示」は神への捧げ物を載せる台の象形。「申」は稲妻の形を模した象形で、「雷(いかずち)」のことである。雷のような超能力のあるカミを漢字では神の字が最も適当であつたのである。このようにして、日本語とタミル語が似ていることを基にして、そこには文明の影響があつたとみている。ここで白山について、白山縁起にいう「わが身はイザナギの尊である。今は妙理大菩薩と号す。この神岳白嶺は私の神務国政の時の都なり。吾は日域男女元神なり、天照大神は吾の子である」とする文は、よくこのカミの山であることを表している。アマに住むイザナギの神務国政の都が白山だといっている。当時富士山に次いで高い山と見られ、立山よりも名声があった。そのためであろうか。
 丸谷才一氏は大野氏への追悼文で「大野学説は遠い将来きっと認められるにちがひないと私は思っている。これでゆけば「神」の語原も「米」の語原もわかる。「もののあはれ」とは何かもはっきりするし、七五調の由来も、妻問ひ婚(夜、男が女を訪ね、翌朝、自分の家に帰る。不動産は母から娘へと相続される)という風習がなぜ古代日本にあつたかもわかる。」と高く評価している(『星のあひびき』集英社2020年12月)。
 「ドラヴィダ語とその文明は、インダス文明の主体であったドラヴィダ人が南インドにおいて発展させたもの。インダス文明は、遥か西のシュメール文明と言語を受け継ぐとする見方がある。もしそれが明らかに立証された暁には、日本は弥生時代に南インドを媒介にして、世界最古のチグリス・ユーフラテス文明と一つの線に連なることになるだろう。」このように大野氏は述べる。
 このような壮大な仮説を、60歳以降亡くなるまでの20数年間に研究した。私も大野氏の説が、山の神についてこれほど詳しく書いているのを知らなかった。日本人の宗教意識の根本である「カミ」について、言語学と文明との両方から南インドとの繋がりを強調することは、日本人はどこから来たのか、という主題に大きな問題提起をしている。柳田国男の「海上の道」は沖縄からのルートを説明している。その南にある。台湾、南インドとの関係については言及していないが、それが考えられるかもしれない。
DNA考古学という学問では、米の品種について、日本列島で主流である温帯ジャポニカだけではなく、弥生時代に先行して、熱帯ジャポニカが渡来していた可能性を主張する学者(佐藤洋一郎氏)もいる。
民俗学者の前田速夫氏が述べるように、「我が国の信仰・民俗の原郷は朝鮮半島のみならず、全アジア的な規模で探る必要があるのを、改めて痛感させられた」(『渡来の原郷』現代書館)と、インドネシアで「殺牛祭祀」の一種を見て感想を述べておられる。
その一つの方向がこの書にはあると思う。(2011.4.1 垂澤祥夫)
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イザナギノミコトを祭神とする神社
 「継体天皇の父が別荘を持っていた近江の三尾について、近くに安曇川(あどがわ)があることより、海人の安曇(あずみ)族の拠点であったのではないか。」「三尾は水尾であり、さらに澪(水脈)で、安曇氏が水先案内の役をも果たしていたことを示すものであろう。継体天皇も三尾君の女を妃として二男二女をもうけている。」「薮田嘉一郎は”近江の高島郡にある水尾(三尾)神が古代の越の国である加賀国に現じて白山権現となったと園城寺では伝えている”と述べている。」
 以上は谷川健一氏の『青銅の神の足跡』(1989年、集英社)に出て来る重要な箇所である。近江の三尾は安曇族の拠点の一つであったということは、「安曇氏が淡路の野島の海人を統率したことは知られている」ということより、近江の三尾と淡路島が安曇族で占められていたことになる。安曇族は筑前の志賀(しかの)島(しま)が本貫地である。信州安曇野に移住した族は、綿積(わたつみ)神(かみ)命の子の穂(ほ)高見(たかみ)命(のみこと)を穂高神社に祀る。谷川氏は「安曇氏もまた南中国との関係がふかい」(同上)と注目する発言をしている。
 近江の多賀には多賀大社があり、『古事記』で「イザナギの大神は淡海の多賀にまします」と書かれていて、イザナギノ命、イザナミノ命を祀る。この地は継体天皇と深い関係のある息(おき)長(なが)氏の本貫地である。息長氏は湖西にも勢力を伸ばしていたので、三尾との繋がりもある。
 高島郡にあった三尾神社は『日本の神々』(谷川健一篇、1986年 白水社)によれば祭神はイザナギノ命である。いまは建物がなくなって旧跡だけである。この社については開化天皇時代の創建と言われ、「太古イザナギノ尊…長等山に垂れ国家を擁護し、…ついに長等南境の地主神となる」と『新羅の神々と古代日本』(2004年、出羽弘明)に述べられている。古くから祭神はイザナギノ命であり、しかも地主神ということは、安曇川の土地だけに安曇氏と関係があると思う。
 ここに多賀と三尾が同一のイザナギノ命を祀ることが分かる。さらに安曇氏の関係で淡路島に祀られる淡路一ノ宮はイザナミノ命を祭神としている。淡路島はオノゴロ島の関係で国生みに出てくる。特別に関係がある地である。ほかにこの湖西と湖東についてイザナギノ命かイザナミノ命を祭神としている神社を上記の書よりあげてみると、
熊野神社(安曇川上流) 祭神 イザナギノ尊、イザナミノ尊、菊理媛、 白山神社(多賀町大君ヶ畑)祭神 イザナギノ尊、 左右(そう)神社 (蒲生郡竜王町)祭神 イザナギノ尊、 山津(やまつ)照(てる)神社 (坂田郡近江町) 息長氏の祖先を祀る、 そして胡宮(このみや)神社 (犬上郡多賀町)祭神  イザナギノ尊  イザナミノ尊である。 いずれも安曇氏や息長氏の勢力圏である。
 さて次に越である。継体天皇は越で養育された。越は継体天皇をバックアップした息長氏、阿部氏、安曇氏の勢力の強い地である。(安曇氏についてはもう少し確証を得る必要があるが。)また古くから渡来人が多く住んでいた。この越の国に同様にイザナギノ命、イザナミノ命を祀る神社があるかどうかを調べてみると、 1.大滝神社(今立郡今立大滝) 祭神 イザナミノ尊、アメノオシホミミ 2.高向神社(坂井郡丸岡町) 祭神  振姫  応神天皇 3.三国神社(坂井郡三国) 祭神  男大迹王 4.大湊神社(坂井郡三国)  別名「三尾大明神」祭神 三尾氏一族の祖先神 5.白山神社(平泉寺) 祭神 イザナミノ尊 6.白山比咋神社(加賀鶴来) 祭神 イザナギノ尊  イザナミノ尊  菊理姫 7.諸岡比古神社(羽咋郡志賀町)  祭神 イザナギノ尊  イザナミノ尊  菊理姫 8.片岩白山神社(殊洲) 白山神を勧請 9.雄山神社(立山) 祭神 イザナギノ尊  タジカラノオ尊 10.能生白山神社、関山神社、白山神社(新潟市) いずれも白山神の勧請。
 以上は『日本の神々』から抜き出したものである。やはりこの地にも白山比咋神社や雄山神社のようにイザナギノ命とイザナミノ命を祀っている。私の結論は、白山のイザナギノ命の祭神は、後から持ってこられたものではなく、最初からこの地の人から、祭神として認められていたのではないか、というものである。それは、継体天皇を中心にしてそれを支援する豪族が淡路にも、近江にもそして加賀・越前にも関係しているからである。しかもいずれの地にもイザナギノミコトを祀る神社がある。そしてそれらの豪族は海との繋がりが強く、その場所も昔、南方や朝鮮そして中国から渡ってきた人々の生活する地である。そしてイザナギ・イザナミの神話は中国東南部、台湾、南洋の島々にその起源を持つ。
 泰澄が白山を開山する前から、白山には水の神で龍神である、白山比咋(しらやまひめ)が祀られていた。その古い祭神はイザナギノミコトなのである。そして各豪族が伝承してきた神話が『記紀』に集約される時に、息長氏や阿部氏の有力豪族を通して、日本神話の中に取り入れられたと私は推測する。白山の神が「吾が身はイザナギノ命である。今は妙理大菩薩と号す。この神岳白嶺は私の神務国政の時の都なり。吾は日域男女の元神なり。天照大神は吾の子である。」(『泰澄和尚伝』)と告げているのは、そのまま裏付けが取れるのではないか、と考えている。(2011.3.20垂澤祥夫) 
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継体天皇と関係する豪族
 2010年秋に京都国立近代美術館で「上村松園展」があり見に行った。謡曲に深い関心を持っていた松園には、「草紙洗(そうしあらい)小町」「花がたみ」「砧(きぬた)」など謡曲に取材した作品も多い。源氏物語「葵上」に取材した「焔(ほのお)」も有名であるが展示の時期がずれていて拝見出来なかった。帰って来てから謡曲の本を図書館より借りてきて、各々の物語の筋を読んでいった。中でも越(こし)に関係した「花がたみ」について興味を持った。というのは今、継体天皇のことを調べているからである。
 「花がたみ」は「花筐(はながたみ)」と漢字で書き、筐とは花を摘んで入れる目の細かい竹籠のことである。仏さんに供えるために野の花を摘みに行き入れて帰る。
この謡曲の筋は、越前にいた男大迹(おほど)王(のおおきみ)が即位のため急に上洛することになり、愛した女性に手紙と形見として花籠にいれた花を届けて都へ去っていく。女性は即位を喜ぶとともに、別れの悲しみにふけりながら、思し召しの玉(たま)章(ずさ)と花筐を大事にして里に帰る。中入り後、男大迹王は継体天皇となり、いましも紅葉を見に御幸する。そこに狂人となった女性が以前に頂いた花筐をもって舞い出る。王は昔のことを思い出し、越前で愛した女と分かりいっしょに連れて還行する。後に安閑天皇の母となる照日の宮はこの筐の女御のことである。
 松園は花籠を持って、愛する天皇を思って狂い舞う女御の姿を描く。松園は自分の絵についてどんな題材を選んでも「一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする、香り高い珠玉のような絵こそ、私の念願とする」ところであると、自著『青(せい)眉(び)』に書いている。狂女を描いても同じであろう。品よく描かれている。
 さて少し継体天皇について記してみる。
継体天皇は男大迹王といわれ、越で母の養育を受けた。父は近江国三尾(高島郡)に別業(なりどころ)を持つ彦(ひこ)主人(うし)王で、応神天皇の後裔で息長氏の出身といわれる。だがこの息長氏のことははっきりしていなくて、直木孝次郎氏は「5世紀から6世紀初めというこの時期は、日本古代国家形成史における変革期の一つであり、記紀の伝えるところでは、古代国家の中心である天皇の系譜の上にも、この頃に一つの大きな変革が生じている。仁徳の血統が武烈で絶え、応神天皇五世の孫と称する男大迹が越前より迎えられて、皇統を継いだ事件である。」(『日本古代国家の構造』1958年、青木書房)
『古事記』では継体天皇は近つ淡海の出身といい、『日本書紀』では越前三国としている。問題は継体天皇の出自にあるようだ。作家の黒岩重吾氏は、息長氏が皇統系譜に介入しているとみている。前の王朝である応神・仁徳朝と、継体王朝を結ぶために、架空の人物とみている神功皇后を創作した。皇后の名前、オキナガタラシヒメというのは、オキナガとされているように、何らかの息長氏の意図がはいっているのではないかとみている。(『古代史の迷路を歩く』中央公論社)
 直木氏はさらに、その前の三輪王朝の始祖、神武伝説についても、継体天皇が大和に入るまでの事実とよく似ていると指摘している。6世紀に神武天皇の東征神話が形つくられたとみている(同上書)。こうなると神武東征、神功皇后の三韓征伐のことは、ともに継体・欽明朝の時代に息長氏が関係しているのではないかとみられる。応神天皇の五世の孫というのが問題のようである。それは即位してから、諸豪族のために、二十年間大和に入れなかったという史実にも現れている。
 ここに林屋辰三郎氏のいう、「歴史は内乱によって形つくられる。歴史の内乱はその社会の発展と分つことが出来ない関係を持つ。継体・欽明朝の内乱は従来の歴史書にはのらなかった埋もれた内乱の一つである。」という指摘がある。謎の時代である。
息長氏は近江坂田郡(米原駅の北に坂田というJRの駅がある)が本貫地で湖東、湖西、山背にも勢力を持っていた。また越前とも関係が深い。その伝承には海人的な性格があるといわれる。そして男大迹王が上洛するときに一番力になった。勿論史書の言うように大伴金村が物部氏とともに大和に呼んだのであるが、尾張、美濃、越前の地方豪族も力を貸した。黒岩氏はそこに越前の阿部氏がいたとしている。蝦夷を平定したり、朝鮮に出兵している阿部比羅夫(ひらふ)の一族である。
継体天皇の母は、越の国三国の坂中(さかな)井(い)にいた振媛(ふりひめ)で垂仁天皇七代の孫で、越の国の三尾氏の出身である。男大迹王は父の死後、母の故郷である高向(たかむく)(丸岡町)で養育された。
息長氏の本拠のあった坂田郡は古代の東山道、北陸道、畿内を結ぶ交通の要衝にあたり、また、伊吹山の山麓では盛んに製鉄がおこなわれていたという。継体天皇は、樟(くずは)葉宮で507年に即位し、4年後に山(やま)背(しろ)国の筒(つつ)城(き)(近鉄新田辺の東北地、木津川の近く)へ遷都、その7年後に山背国の弟(おと)国(くに)宮へと遷都し、奈良県桜井市の大和磐余(いわれの)玉穂(たまほ)に宮を定めたのは即位後20年を経過してのことであつた。
「枚方歴史フォーラム」という、継体天皇にゆかりの地である枚方で催されたシンポジュームで、継体大王と渡来人のことを主題にしている(1998年大巧社より報告書が出版されている)。それによると、淀川の水上交通を重視したという見方である。それは難波、瀬戸内を通して朝鮮や中国とつながっているためである。さらにそこで、かって井上光貞氏が「継体天皇の家は渡来人かもしれないね」と話されたことを、森浩一氏が紹介している。「それは日本海という土地柄を考慮にいれての発言でしょう」、という。当時朝鮮半島の諸国をはじめとする東南アジアの情勢は海に面して海軍力を持っていた豪族の情報がはやかつた。このフォーラムで黒岩氏は、阿部氏を重視し、越の大豪族で、継体を支援するようにして大和へ入った、とみている。
『記紀』を作らせた天武天皇の目的は、天皇の現人神(あらひとがみ)化と、万世一系による天皇家の絶対化であった。そのため最も嫌ったのは、氏族の違う大王家が並列することである。そのため氏族の血統を抹消して、皇統系に組み入れた。そこで阿部氏は地方豪族から、名族となる。息長氏の出身が謎というのもそのあたりにあるのであろうか。阿部氏に関しては、『古事記』で建(たて)沼(ぬま)河(かわ)別(わけ)の祖としている。越の沼川媛(ぬなかわひめ)との深い関係である。それは越出身であることをいっているのと同じである。以上のように継体天皇のことを調べていくと、近江、越前、難波、淀川などが地域としては関係してくることがわかる。しかも、関係する豪族はいずれも海に関係している。当時先進文化を得るためには、絶えず海を渡っていく必要があった。
律令制度のもとに日本における天皇制を確立したといわれる、天武・持統朝についてみる。欽明以後、息長真手(まて)王の娘広媛が敏達天皇の皇后となり、押坂彦人(おしさかひこひと)大兄(おおえ)皇子(おうじ)を生み、この皇子から舒明・皇極・天智・天武の皇統が生じる。こうして息長氏は中央政界に隠然たる勢力を持ち、天武天皇から「真人(まひと)」という最高の姓(かばね)を授与される。
このようにして息長氏や阿部氏などの豪族が大きな影響力を持っていたということがいえる。大和にいた大伴、物部、巨勢氏、あるいは蘇我氏と張り合っていたのである。最終的には蘇我氏が大きな力をもつが、黒岩氏は、「蘇我氏は渡来系でその祖は百済王族ではないか」とみている。一方息長氏はアメノヒボコの系譜に連なり、古代新羅と関係が深い。新羅系の渡来人ともいわれている。
百済王族といわれる蘇我氏がその後大化改新で滅び、天智・天武の時代になると新羅系との関係が深まり、また桓武天皇の時代になると、母親は百済の王族の出自であり、高野(たかの)新(にい)笠(がさ)である。くるくるとかわっている。それほど渡来人の影響が大きかったということであろう。
「当時、朝鮮半島から見ると、日本というのはほんとうに緑滴るところらしい。向うの土地は花崗岩か何かでボロボロ崩れたりして悪く、稲作に適さない。ところが日本に来ると緑もあり水はいい。ほうっておいても稲が実る。非常に魅惑的な国だった。」
これは谷川健一氏の『源泉の思考』(2008年年 冨山房インターナショナル)の中の一文である。そんな日本だから渡来人も多かったのかもしれない。以上、歴史学者の見た古代史の一こまである。謎の時代と言われるのがわかるような気がする。
こうしてみると継体天皇や推戴した豪族が越の国と深い関係があり、しかも海を自由に渡ることの出来る豪族である。その上、朝鮮半島の百済、新羅の国とも何らかの関係があることがわかる。(2011.1.31垂澤祥夫) 
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海住山寺
毎年正月には観音様にお参りし一年の無病息災、家内安全を祈っている。今年は加茂の海(かい)住(じゅう)山寺(せんじ)に行った。加茂、恭(く)仁(に)京(きょう)跡のある辺りが「みかの原」である。「みかの原湧きて流るるいづみ川いつみきとてか恋しかるらむ」の歌がある。今の木津川は古くは泉川といわれた。平城京の頃、水運が中心で木津の港は材木や物資を運ぶ重要な地点で、伊賀、甲賀、近江、山城そして難波からの船が集った。
 この木津川の川筋に点々と十一面観音が祀られている。普賢寺(田辺市)の国宝は言うにおよばず、岩船寺、寿宝寺、禅定寺(宇治)、現光寺(加茂)、そして海住山寺などである。観音様ではないが国宝のあるお寺は蟹満寺、浄瑠璃寺など有名である。これらの寺は「互いに関連すること、水の信仰と密接に結びついていること、特に東大寺の造営に大きな役割を果たした」ことと、白州正子は『十一面観音巡礼』に述べている。しかしそれも昔。 この南山城の古寺は、平城京、平安京に観光客が訪れても、いつも忘れられたように静かである。
 海住山寺はその「みかの原」の北側の山の中腹にある。寺の由緒書によれば、この山の上から眺めると、瓶(みかの)原(はら)の平野とその彼方に連なる山並みがあたかも南海の洋上に浮かぶ補(ふ)陀洛山(だらくさん)(観音浄土)のごとくであり、そんなことより、中興の解脱(げだつ)上人が鎌倉時代の初めに名づけた。それ以前には良弁僧正が聖武天皇の勅を受けて、十一面観音を祀り大仏像立の工事の平安を祈ったという。
 お寺までは自動車道がついているが、私と家内はJR加茂駅からバスに乗り、国道136号線の手前で降りて、例弊の集落を通り歩いて行った。昨年登った三上山の中腹の位置であり、この山はこちらから登るのが正面ではないかと思う。人家を抜けると急な坂道で、舗装してあってもきつい。しかし、歩いては立ち止まり南を見ると、視界が徐々に開けてきて、甕(みかの)原(はら)が一望できる。平野の中の低い山が海に浮かぶ島のようであり、薄っすらと霧がかかったりすると、確かに海上の景色のよう。曇ってはいたが視界はあり、昔の人の見方に納得しながら、遠く生駒の山まで眼にできる。
 30分ほど歩いた。山門の急な階段を登るとお寺で本堂、国宝の五重塔、文殊堂が現れた。まとまった寺域であり、五重塔も均整がとれて優美である。この地からも眼下に三日(みかの)原(はら)が眺められた。本堂の十一年観音は重文であり、人の背の高さほどで厨子の中におわす。平安時代初めの貞(じょう)観(がん)時代の作とか、見た感じは厳つい雰囲気で男性的。すべてを慈しむような女性の優しさはない。十一面観音といえば、私は湖北の石動寺の観音や、渡岸寺の一点の非のうちどころのない完成された観音様を思い浮かべる。それとは少し違うようだ。「私はしっかり見ていますよ。身をつつしんできびしく生きなさい」と、諭されているようであつた。こういう観音様もまた印象が深い。訪問者は二、三人いるだけ。三が日を過ぎていたのでもうお参りする人も少ないのであろう。記念に「なす守り」の携帯のストラップを買った。「茄子の花は一つの無駄もなく実を結ぶ。「成す」と語呂が同じことより、努力は報われ願いは叶えられるという縁起を含む」。
 帰りには家内の名前の由来になった恭仁京跡に寄ってきた。今はただ当時の建物の石壇の後があるのみ。ここに都を造営した人々のことを偲んだ。もっと広い地につくるものではないのだろうか、と不思議に思ったりした。が当時は、ここはやはり恋しい地であったのであろう。この旧跡に立てば、周囲の雰囲気からなんとなくそれが分かる。1200数十年の後も変らずその景色を眺められる貴重さを感じた。
 私たちは古い集落の中を歩いて、バスに乗り加茂駅に出て電車に乗って帰った。(2011.1.20垂澤祥夫)
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白山の祭神イザナギノミコトの起源
 「日本列島は地理的、風土的、文化的にユーラシア大陸の東端に位置し、大陸の北部、中央部、及び南部からの影響を受けてきた。北方の森林地帯、中央の遊牧民(騎馬民族)、西南の中国江南地帯、そして南の黒潮の流れに沿って台湾、インドネシア、南洋の島々から民族が移動して来ている。そして東には太平洋が拡がるばかりで、日本列島を通過して運び出されることがなかったため、古来、さまざまな外来文化は日本に留まり、日本風に変えられ、そして独自に発展していった。”吹溜りの文化”といえる。」
これは吉田敦彦氏『日本神話の源流』(2007年 講談社学術文庫)より引用した。吹溜りという表現にはちょっと違和感を持つが面白い。日本に移動してきた人々が、九州なり、大和なり、出雲なり、越などに定着して豪族を作っていった。そして、日本列島に渡ってきた各方面からの渡来人はそれぞれが神話を持っていたとみられる。さらに3世紀以降の朝鮮での百済、新羅、高句麗、加羅の国々の盛衰に伴い、4世紀にかなりの渡来人が海を渡って日本に来ている。王族の皇子も姫もいた。朝鮮の皇子と倭の姫、倭の王と渡来人の姫との結婚もおこなわれた。
 その時代からもう少し遡り、縄文時代の末から弥生時代にかけて考えてみよう。ここで日文研教授の安田喜憲氏の説を思い出す。今から三千年前、中国揚子江の流域に越人(えつじん)がいた。鳥の羽飾りの帽子を被り、太陽を神として崇拝し、稲作をし、漁撈をしていた。その時気候変動があり中国全体が寒冷化していった。すると中国の北から畑作・牧畜の民が南へ南下してきた。そのため南の越人は追われて四散することになる。その一部が対馬暖流に乗り日本海岸にやってきた。出雲地方であり、さらに越前、越中、越後である。氏の考えは、越人(えつじん)の「越」が「越(こし)の国」の越になったというのである。かれらは突然やってきたのではなく、六千年前ころより徐々に、結果として大勢の人々がやってきた。こうして中国の揚子江の流域や雲南省の人とは、巫女、蛇、蚕、稲作、鶏、太陽崇拝、漁撈、納豆などで共通する世界観をもつていることがわかってきた。氏が長江文明と呼ぶものである。(『日本海学の新世紀』2001年安田喜憲「越の国の起源……龍蛇と鳥は語る」)
 この考えはもっと別の見方では、中尾佐助氏や佐々木高明氏が提唱した照葉樹林帯文化帯という見方である。中国雲南省、長江下流、台湾、日本の南部は、いずれも照葉樹林の中で生活することにより、同じ文化を持つようになった。そのことが、別の考古学の分野でも明らかになったといえる。
 さてここで問題とするのは、白山の祭神のイザナギノミコト、イザナミノミコトである。ここで前にも述べている白山のことを思い返してみると、泰澄和尚伝によれば、泰澄は白山の山頂で白山の神より「わが身はイザナギノミコトである。今は妙理大菩薩と号す。この神岳白嶺は私の神務国政の時の都なり。吾は日域男女の元神なり。天照大神は吾の子である。」と告げられている。私はこのように、なぜ白山がイザナギノミコトと関係があり、また神務国政の都とまで言われるのか、その訳を知りたかったのである。その手がかりを探していたが、ここに一つ、『日本書紀』によれば、イザナギノミコトの国産みのときに越の国を産んでいるのである。そのことは別のところで述べた。
それではさらに、日本神話の中にどうしてイザナギ、イザナミの神話がでてくるのか。その源流はどこの国にあるのかという問題について、いろいろと関係する本を読んでいくと、大林太良氏、岡正雄氏、三品彰英氏などの研究が知られている。そして最近は吉田氏(比較神話学が専門)の著作が読まれている。氏の上掲の書を読んで、イザナギ、イザナミに関係するところを簡単にまとめてみる。
日本の「国生み神話」と類似しているのは、ポリネシアを中心にしてメラネシアやミクロネシアに分布している。これらの南洋神話は、太古に神が海底から島を釣り上げたという形で、陸地の起源を説明する。日本の矛(ほこ)で海水をかきまぜて島を造ったというオノゴロ島神話の場合と完全には一致していないが、上代には矛を魚捕りの道具としていたというから同類の説話タイプに属するとしている。次に、その島で夫婦の交わりをして島々を子として生んでいったというのも、ポリネシアに広く分布している。
吉田氏は別の『日本神話のなりたち』(1998年、青土社)において、さらに「イザナギとイザナミが、兄妹で結婚して国土や神々を生んだという神話に類似した話が、東南アジアに広く分布していことに注目しよう」として、台湾のアミ族の神話、中国東南部の伝説を示している。江蘇省雲台山の三官廟の起源を物語った話は、大林太良篇『古代日本と東南アジア』(1975年大和書房)に詳しく紹介されているものである。その話の骨子を日本の神話と比べると、1.海に囲まれた島に夫婦がいる、2.生まれた子を流す、3.夫婦別離、4.夫は水中に入り三子を得る、5.三子は三つの宇宙領域の代表者となる、6.そのうち一人は自分に割り当てられた領域に不満を持つ。それぞれが非常に良く似ている。
こうした神話と日本の国生みや神生み神話とに共通するのは、水との深いかかわりを持っていることであり、海人や内陸の水人がその担い手だったのではないか、と見ている。そして氏は、南洋や中国長江地方との類似は、「縄文時代末期から弥生時代初頭にかけて、水田耕作とともに伝播した話であると考えられる」、と結論づけている。上記の安田氏の考え方とも一致する。
さらに日本神話の海幸彦、山幸彦の神話や、死体から穀物が発生する神話はインドネシア、中国東南部と同じである、と説明する。南の島々の神話は中国の伏(ふく)義(ぎ)と女か(じょか)の国生み神話との共通点もあり、中国からの影響を受けた結果であるのかもしれない。
 一方氏は、こうした海との関係とは別に、日本神話で天孫降臨、八咫烏などの鳥の活躍するのは、森林地帯と草原地帯の騎馬遊牧民の神話と似ている。神が天から山や木、石に降りてくるのは北方からの民族の影響で、ツングース系の焼畑耕作民の文化に近い。中国東北部や朝鮮からの渡来人とともにもたらされたとしている。この点、三品彰英氏は、文献学的に比較研究して、日本の建国神話と古代朝鮮に存在した諸王国の神話には類似が多いとしている。(『日鮮神話伝説の研究』(昭和47年、平凡社)
 氏の研究は、さらにこの日本神話が、古代ギリシャ神話とも共通点を持っているとしている。イザナギが黄泉の国にイザナミを訪ねる神話でその汚いイザナミの姿を見てしまったためにイザナミの怒りを買って逃げ帰る話、これはギリシャ神話の有名なオルぺウス伝説(妻を冥界に迎えに行って途中で振り返ったために一人で帰らざるをえなくなった話)。あるいはアメノウズメが岩屋の前で裸踊りをする話はデメテルの話と似ている。氏はこれらの神話はユーラシアのステップ地方にいたラテン系遊牧民に媒介されて、朝鮮まできてさらに日本にもたらされたとみる。アマテラス、ツクヨミ、スサノオの三貴子がそれぞれ分かれて統治する構造は印欧系の神話にもあり、そこに源流があるのではないかとみている。
こうなると古代の人の考えることは西も東もそれほど変わりなくなくなる。最初に述べたように、日本神話は中国東南部、南洋諸島、北方の騎馬民族、朝鮮の各王朝などの神話が集まってきている。確かに吹溜りの感はある。長い長い交流の末に日本が受け入れていったのである。すると、越の国の代表的な山の白山にイザナギギミコト、イザナミノミコトの神話があるということは、ここが出発点であり、その神話が『記紀』の中に反映していると見られる、と推測もできる。時代の後になって、『記紀』の神話を付け足したのではない。
それではそれはどうしてか。ここで継体天皇が越から即位のために樟(くずは)葉に移ったという歴史の事実を思い出す。そしてそこには、越の豪族の阿部氏や近江・越前に勢力を持っていた息(おき)長(なが)氏、三尾(みお)氏が活躍したのである。その人々のルーツは、朝鮮半島であり、海人でもあることよりそれ以前は、中国東南部やもっと南の島々であったであろう。
 谷川健一氏は『白鳥伝説』の中で、「これまでの歴史の語られ方のなかでは、縄文から弥生へと社会が大きく断絶していた。連続するものとは考えられていなかった。しかし、縄文時代の、そこに暮らした人々の精神、その精神史や心の営み、心の動きといったものは、確実に弥生以降の日本社会のなかにも底流しているんじゃないか」と述べている。
 今から思うと断絶なんかしてなくて、続いているのが当たり前のように考えられるが、前はそうではなかった。白山のイザナギノミコトの神話も、長い年月を経て、南の国々や中国長江地方の人々が渡って来て、保持されていた神話なのである。それが『記紀』に書かれている。私にはそう思われる。この継体天皇のことはさらに詳しく次回に述べる。(2010.12.30垂澤祥夫)
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日本神話「国産み」にみる越(こし)洲(のくに)
 大和王朝の前には、博多湾にのぞむ平野と周辺丘陵部に九州王朝があり、中国の『三国史』や『後漢書』に記録されている倭国のことは(邪馬台国の卑弥呼など)この九州王朝のことである。そしてそれ以前には大国主神を祀る出雲王朝が古くから栄えていた。出雲に国譲りを迫ったのは九州王朝である。九州王朝の時代には大和王朝はまだ九州の日向の一部族にすぎなかった。その後神武東征で大和へ移動する。九州王朝は四世紀から七世紀にかけて朝鮮半島に大軍を送り続けた。半島内に拠点を作り、半島内の支配権を主張した。それが原因でやがて滅び、その後に近畿の大和王朝が力を持ってくる。以上は『失われた九州王朝一天皇家以前の古代史』(古田武彦著)での古田氏の主張である。
また、『魏志倭人伝』にははっきりと「耶馬壹(やまいち)国(こく)」と書かれているのに、これをヤマトと結びつけるために、「邪馬台国」と壹(いち)を臺(たい)に改定して、それが今日まで学会で通説になっている。このことに疑問を持った古田武彦氏が、『「邪馬台国」はなかった……解読された倭人伝の謎』(1971年に朝日新聞社)で、邪馬台国ではなく、邪馬壹国であるとし、博多湾に邪馬壹国を比定した。
さらに古田武彦氏は『盗まれた神話一記・紀の秘密』で、『古事記』が700年始めに成立しているのにその後600年ほど秘せられてきたのは何故か、あるいは『日本書紀』はどのように作成されたかの事実に迫り、結局、天皇家以外の九州王朝の神話や、出雲神話といわれる神話がかなり入り込んでいると主張している。
いずれの書も画期的な論だと私には思われるが、すでに発表してから40年近く経っているのに、まだ学会の中では余り取り上げられていない。それを惜しんで、ミネルヴァ書房の社長が昨年の末から氏の古代史コレクション全五冊を発刊している。私は遅まきながらそれを読んだのである。
 ここでは邪馬台国がどこにあつたのかとか、『古事記』『日本書紀』の中にどれほど他の神話がまじっているかなど専門的なことをとりあげるのではなく、この両書の中で、白山のある越国がどのようにとりあげられているかを見たいと思う。
 まず『古事記』『日本書紀』のみによって「日本神話」を論ずることには、多くの点で問題を残す、という上田正昭氏の(『日本の神話を考える』小学館ライブラリー、1994年)考えによれば、さらに『風土記』『古語(こご)拾遺(しゅうい)』『先代(せんだい)旧事本記(くじほんぎ)』『万葉集』、そして『延喜式』の祝詞(のりと)や賀詞(よごと)などを併行して読んでいく必要があるという。
 それで岩波の古典文学大系の『風土記』を図書館より取り寄せてみてみた。『出雲風土記』とか『常陸風土記』などよくしられているが、『山城国 逸文』というのもある。ここに私の家の近くの上賀茂神社のこともでているので、初めにすこし脇道にそれるが紹介する。
 賀茂社の伝承として、玉依(たまより)日売(ひめ)の「丹塗(にぬり)矢(や)」の神話がある。賀茂(かも)建(だけ)角(つの)身命(みのみこと)と丹波の神伊(かむい)
可古夜(かこや)日売(ひめ)とのあいだの子とする玉依日売は、乙訓の火(ほの)雷神(いかずちのかみ)とのあいだに賀茂(かも)別(わけ)雷神(いかずちのかみ)を産む。この神が上賀茂神社の祭神である。本殿の北にある神山(こうやま)に数千年前に降りてこられた。大自然の力を支配する強大な力を持っている。お祖父さんの賀茂建角身命の化身が、神武東征の折、熊野から大和に入る険路の先導となった八咫(やた)烏(がらす)で、サッカー日本代表選手の胸に付けているエンブレムがそれにあたる。大和で最も古い土地といわれる葛城に鴨氏があり、京都に移ってきた。葛城の鴨社は大国主神が国土を天孫に献じて出雲に赴かんとするとき、自分の分霊は三輪山に、わが子の阿遅須(あじす)岐(き)高彦根(だかひこね)命(のみこと)の分霊をこの葛城の鴨社に鎮めた(『大和万葉旅行』堀内民一、講談社学術文庫)。 葵祭に天皇の勅使がみえるのは、天皇家との神武天皇以来の古くからの繋がりによる。
 さて『風土記』の中では、「出雲風土記」についてみる。733年(天平5年)に成ったこの書は、いま全文が残っている唯一の書で、大和朝廷の全国統一の一環として、各国の郡(こほり)、郷(さと)などの名前の言われや位置、家の戸数、神社の名前や謂われ、山、川、沼、池、海などの位置や名前、そして草、木、鳥獣などを記述させて報告させた。
 『記・紀』にはない「国来(くにこ)国来(くにこ)」の国生み神話や、大穴持(おおあなもちの)命(みこと)(大国主命と同じ)の出雲への引退の話などある。がイザナギ、イザナミノミコトの話は直接書かれていない。『古事記』には高志(こし)の沼河比売(ぬなかわひめ)のことが書かれているが、『出雲風土記』で「大穴持命、越の八口(やくち)を平(ことむ)け賜ひて、還(かへ)りましし時」と簡単に出ているだけである。越の文字はそれだけである。
 『古語拾遺』は大同2年(807年)に平城(へいぜい)天皇の勅をうけて、斎部(いんべ)広(ひろ)成(なり)が上奏した書で、斎部の祖神の古伝承から家の歴史を述べている。斎部氏と中臣氏はともに神の祭りに奉仕してきたが、一族の藤原氏の勢力が強まるに及んで、中臣氏が朝廷の多くの祭りを独占するようになり、中臣氏への恨み、辛みを多く書いている。この800年代には『古事記』が秘められていたため、『日本書紀』からの引用が多い。だがイザナギ、イザナミノミコトの国生み神話は書いてない。当然、越の国のことも出ていない。
 それでは本家本元の『古事記』『日本書紀』と越の国との関係について次に述べる。『古事記』には、大国主神が、八千(やち)矛(ほこの)神(かみ)の名前で、高志(こし)国の沼河比売との結婚のために出向いたことが出ている。結婚といっても恋愛のことではなく、国の征服のことである。沼河とは「翡翠」のことであり、三種の神器のひとつに勾玉があるように、当時、「玉」は王権を象徴するものであった。(天武朝以前の古い時代には、神器は鏡と剣の二種であったという説がある。天武帝が古代道教に通暁していて、「三種の神器」を定め、みずからの体現として「玉(ぎょく)」を設定した。「玉」とは天武帝のことであり、スメラミコトの存在する場所を「玉座」と呼び、天皇の御身体は「玉体」である。)
 この翡翠が越の糸魚川(いといがわ)で採れた。越の国は出雲と並ぶ強国であったのである。そこに出雲の大国主神が攻め込んでくる。越の国はその傘下に入らざるを得なかった。だが、沼河比売にも意地がある。性急に武具をつけたまま戸をたたき、事を急ごうとした出雲の神に対して、「夜になればあなたのものになるのですから、そして、白い私の腕を、淡雪のように柔らかい私の胸を、思う存分に愛撫して、私の玉のように可愛い手を枕にして、いつまでも寝ることができるのです。そんなにお急ぎになりますな」と歌を詠む。一矢を報いたのである。そうしてその日は会わずして、明日の夜に「御合(みあい)したまひき」。『古事記』にこういう表現が出てくるのが、『日本書紀』と違って愛される由縁であろう。古代人の心の豊かさ、おおらかさをみる思いである。
 越の国はこうして出雲の支配下に入る。白山と立山に大己(おおなむ)貴(ちの)神(かみ)、大汝神(おなんじのかみ)(いずれも大国主神の別名)を祀っているのはこのためである。
 さて次は『日本書紀』である。イザナギノミコト、イザナミノミコトの国産み神話では、大八(おおやしまの)洲(く)国(に)の中に越(こし)洲(のしま)の名前がある。いままでの研究者は洲をシマと読んでいるが、古田氏は、洲(く)国(に)の略の洲で「くに」と読む。そうすると越の国になる。大洲は「大くに」、すなわち大国主神のいる出雲の地方が「おおくに」と呼ばれていたに違いない。これは「オホシマ」ではなく、例えば山口県の大島などではない。『記・記』で重要な地域である、出雲が国産みで名前が出てこない(『古事記』には載っていない)のはおかしいことであり、また『古事記』では越の国もでてこない。あれほど沼河比売のことを書いていながら、ないのである。ですからクニと読んで、越国や出雲国がでてくれば、それで納得がいく。
 この古田氏の見方は私は正しいと思う。ここに出雲と並び勢力を持っていた越の国が出てくるのである。ここで白山のことで思い返してみると、泰澄和尚伝によれば、泰澄は白山の山頂で白山の神より「わが身はイザナギノミコトである。今は妙理大菩薩と号す。この神岳白嶺は私の神務国政の時の都なり。吾は日域男女の元神なり。天照大神は吾の子である。」と言われている。
 私はこのように、なぜ白山がイザナギノミコトと関係があり、また神務国政の都とまで言われるのか、その訳を知りたかった。その手がかりを探していたが、ここに一つ、イザナギノミコトの国産みのときに越の国を産んでいるのである。それであれば繋がりは出てくることになる。
 ここで、イザナギノミコト、イザナミノミコトについて、歴史学者の説を紹介する。直木孝次郎氏の『日本神話と古代国家』(講談社学術文庫1990年)からである。
「天照大神は『日本書紀』の本文によるとイザナギ・イザナミ二神から産まれたとあり、『古事記』や『日本書紀』のある一書によると、イザナミノミコトの死後にイザナギノミコトより産まれたとある。このように異なった伝えのあることは問題であるが、それより不思議なのは、古代の天皇家が天照大神を皇祖神として丁重に祭っているのに、イザナギ・イザナミ二神に対しては、そうした特別の祀り方をしていないことである。おそらくそれは、天照大神を中心とする神々とは別個に存在したイザナギ・イザナミ二神の神話を、時代が下ってから天照大神の神話の中に吸収したからであろう。」
 直木氏はもう一つスサノオノミコトについても言及する。天照大神とスサノオノミコトは姉弟であるがまったく似たところがない。出雲神話の主神が実は天照大神の弟で高天原から追放された乱暴物である。叢(むら)雲(くも)剣(つるぎ)を献上するのも上下関係をあらわしている。出雲神話を天照大神中心の物語に吸収するために、イザナギ・イザナミの物語と同様に、宮廷の貴族によって作りだされたものと思われる。
 これは確かにスサノオノミコトが『古事記』ではよく泣いている。弱虫の印象を持たせるためであろう。高天原を追放されて最終的には、淡海の多賀に坐(ま)す(『日本書紀』では淡路の幽宮に隠れたとある)。多賀神社は昔の大社ではあるが、特別に祀っているようにも見えない。この点は前の古田氏もその本の題名のごとく、盗まれた神話と決めている。
 このように考えるとイザナギノミコト、イザナミノミコトの神話は大和王朝にも同様な神話があったために、正式な『日本書紀』に取り入れられたものと思われるが、出雲王朝にも、九州王朝にもあつたようだ。国産みについてなどは、「大八(おおや)洲(しま)」の八つのシマの名前について、『古事記』は一種類、『日本書紀』には六種類あわせて七種類の洲(くに)が上げられている。これは当時の王朝の氏族や有力な氏族に違った伝承の記録があったのである。それを天武帝の詔で一つにしたのが『日本書紀』と『古事記』である。しかし、この両書の編集に携わった人は違っていて、しかも『日本書紀』が正式な書として公認されたため、それと異なる『古事記』は宮中深く秘せられて、現れたのは600年後の南北朝時代である。
 それでは、白山、立山を擁する越国の沼河比売にはどのような神話があったのであろうか。それは何一つ残されていないので知る由もない。ここに参考になる説を述べる。堀一郎氏は、『我が国民間信仰史の研究(二)宗教史編』(東京創元社 昭和28年)に次のように書いている。「加賀白山は『新撰一宮記』によれば白山比咋神社の条に、祭神を伝えて中社はイザナミノミコト、左右に菊理媛と泉道守者を配するとある。これが本社の正しい伝えかどうかは自分の明らかにしえない所であるが、しかし右坐の泉道守者は、ヨモツミチモリヒトと訓ぜられており、冥界若しくは冥界への往路主宰者と見るべき神格である点は特に重要な伝承と称すべきである。しかして事実白山中には賽の河原、畜生谷、阿弥陀が原などの地名を存して、かってこれが地方的な死者の世界と考へた人々のあった事を明示している。」
 これは、「山中他界観念の表出」という項目の中の説明であり、他界の山としてほかに高野山、恐山、立山、熊野などをあげている。イザナミノミコトが火の神カグツチを生んで、その子のためにやかれて神(かむ)退(さ)りし後、イザナギノミコトが冥界に訪ねてゆく。そのときイザナミノミコトの汚い姿をみてしまい、あわてて帰ろうとするときに、一書(あるふみ)に曰くで述べられているのが、泉道守者と菊理媛(くくりひめ)である。泉道守者はイザナミノミコトの言葉として、死者の国に留まりたいので一緒には行けない、という。この時に「菊理媛(くくりひめ)神(のかみ)、亦(また)白(まう)す事あり。イザナギノミコト聞(きこ)しめして善(ほ)めたまふ。のち散(あ)去(ら)けぬ。」ここで菊理媛が何を申したのかそれは書いてない。ただイザナギノミコトがそれをよしとして褒めたと書いてある。歴史学者のあいだで何を言ったのだろうといろいろと推測されている。ここに上記の『新撰一宮記』の三柱の神の名前が出てくる。冥界での話しである。
 越国の代表的な山である白山の祭神について、この『日本書紀』と同じ名前が表示されているということは、もともとあった古い伝承が書面として残ったのか、あるいは『日本書紀』の内容を持ってきて一宮記にしたのか、それは分からない。ただ古代から神が宿るという白山について、イザナギ・イザナミノミコト、菊理媛、泉道守者と全部の神の名前が揃っていることが注目されるのである。『日本書紀』のある一書がどの氏族の伝承かは分かっていないが、そういう神話があり、今、白山について同様の祭神が古記録に残されているということは、何らかの繋がりがあったと想像することもできる。
 白山の名前は16世紀までは「しろやま」と呼ばれていた。シラ、シロには、「生まれるもの、再生するもの」の意味があり、まったく新しく生まれるのではなくて、蛇や蝦蟇の脱皮するように、人間もまた生まれかわるのである。これは一度冥界に入り、そこを抜け出して禊をして、新たに三貴子を産むイザナギノミコトの神話と同じ内容である。もし、この神話の元が白山のある越国に伝わるものであれば、白山の祭神と合うことになる。
 天皇系図において継体天皇は応神天皇の五代の孫である。継体天皇は越の国の出である。すると越の国の白山神についてのイザナギ。イザナミノミコトの伝承が、大和朝廷の神話の中に反映している可能性はある。『日本書紀』のこの条が、その編纂前よりあった伝承を元にしているのは確かである。それが越の国であれば、白山神との伝承と合致してくる。
たまたま『国史大辞典』(吉川弘文)の「白山信仰」のところをみていたら、泰澄が始めた開基記録とは別に、加賀馬場には、崇神天皇7年説(社伝)、応神朝説(『旧社家建部家記』)、欽明朝説(『三宮古記』)、天智天皇6年(667)説(尾山神社本『類聚国史』137)の四種の創立伝承があることを知った。いずれも泰澄の開山の養老元年(717)よりも古い。まったく個人的な推測であるが、あるいはイザナギ・イザナミノミコトの伝承は越の国のものであったかもしれない。
 ここでは、『古事記』『日本書紀』と越の国についての関連がまず把握できたことで、ひとまず終わりとしたい。(2010.10.20垂澤祥夫)
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神の発生
 神をすでにできあがった概念としてみるのではなく、原始古代神々の発生の時点まで遡ってカミを理解しようとしたらどうなるか。それを近藤喜博氏は追求している。以下氏の考えを要点を絞ってみていく。(同氏『日本の神―神道史学のために』、桜楓社)
 上代文献において、歴史時代以前に神代を置くのは、その時代の人々が、自然の猛威にさらされ続けてきた原始恐怖の印象を、どうしても語り伝えねばならない必要をもった。その恐怖の中心がカミの原核である。それは幾世紀にもわたる巨大な恐怖との対立、抵抗の生活の歴史であった。
 天空の巨眼ともいうべき太陽の変化、それは風、雷、雨をもたらし、雷鳴となり風雨となり洪水となる。また、地震、火山の噴火、山火事など人間社会に全滅的災害を加える天地の変異がある。それらは悪霊的なデモンの性格をもっている。
 それではその変異はまずどこに現れるかというと、山である。山は雲を招き、雨を降らせる。また火山の噴火は山である。さらに海辺であり、河川の際(きわ)である。例えば山岳はたとえ高い山でなくても、気象の変化の引き金になる。人々は自分の住いの周囲の山から風や雨を意識した。(これは現代にまで通じていて、我々も観点望気を行う)。日本の地理的な条件からすると、民間信仰の底流に山があるのは当然であろう。
 原始古代の人々はこれらの自然の猛威に対して、次第に生贄とか、祈りとか、託宣とか呪術を考えるようになる。それを繰り返し祈願する地が決まってきて、山の遥拝所とか、河川の合流地の祈願所などになる。まだ神社の成立する前である。
 近藤氏は京都高野川と賀茂川の合流地に下鴨神社があることを上げている。私は熊野本宮大社も、加賀の鶴来の白山比咋神社もそうだと思う。熊野本宮の社殿は川の中州にあったが、明治22年の洪水で破壊されてしまった。鶴来の白山比咋の社殿は手取川の安久濤(おくど)ヶ淵を望む河岸段丘の上にあった。そこは水流が多く波浪逆巻く淵であった。その後今の三の宮の地に移転した。
 人々は呪術を行うと共に、その巨大な威力のデモンを逆にこれを迎えて取り込もうとする。類似の模倣を試みる。それらが共同社会のものとして認められると神が生まれてくる。
その後は、神が律令制度のもと国家の神になるために、国は天社(あまつやしろ)、国社(くにつやしろ)を決め統制が加えられてヤシロが定められる。ここにきて、神と人間の間に有機的な関係が結ばれる。
 さらに祖神の考えが生まれ、もっとも威力のある神としての、天照大神が皇室の祖神として上げられる。神々との系譜的な関係が生まれる。
 近藤氏はこの論の最後に一つの神を上げている。それは京都の稲荷神社の古い神についてである。稲荷の古い神は竜頭(りゅうとう)太(た)という。この神は面貌は竜のごとく、顔の上に光りあり、夜を照らすこと昼に似たり、といわれる。これは雷(いかづち)のことである。稲荷とキツネと結びつくのは、キツネもキツネ火といわれるように、口から火を吐く獣として認められていた。
深夜山に轟く雷に恐怖を感じるとともに、それを目に見えるキツネと結びつけ、神社として祀ることにより鎮めようとした。謡曲「小鍛治(こかじ)」はイナリの狐に取材している。三条小鍛治宗近が刀を鍛えると、何処よりともなく現れた童男がチヤウチヤウと相槌を打つ。この童男がイナリ山の狐だといわれている。鍛治をすると火花が散る。特にツチを打ち下ろす、そのツチにはタケミカヅチのツチとも連絡する。タケは勇壮を表現する形容とすれば、ミカヅチはイカヅチとほぼ等しく、槌を打ち下ろすに散る火花の雷電性を表している。(祇園祭の長刀鉾はこの宗近の作刀という。)火炎の中に神をみているのである。稲荷が稲と結びつくようになるのは、これよりも後のことである。
 私は今、京都の上賀茂神社の近くに住んでいる。上賀茂神社は別(わけ)雷神(いかづちのかみ)が祭神である。このイカヅチは神社のすぐ裏にある神山という標高200メートルほどの山に降臨した。形のよいこんもりとした山である。神社は瀬見の小川と賀茂川との合流点に立地している。そしてすぐそばにこの山がある。原始この地区に住んでいた人は、このイカヅチの威力を自分たちのものに取り込もうとしてここに神社を建てた。カミとして認めヤシロを作った。稲荷の竜頭太に似ているところもある。
 さらに京都の西北の鎮めの地にある愛宕山の「古縁起」には、昔、役小角と越の大徳泰澄がこの山に上るとき、雷鳴鳴り渡り雨が車軸のように降って進むことをさまたげた。それは太郎坊という大魔王の天狗であった。さらに、神話にいうカグツチという火の神を祀る。愛宕山の火伏の神はここから発生する。天狗は神である。雷鳴という点が注目される。
 都より遠い越の白山は、文献上は白山比咋という水の神を祀る。手取川の淵に社殿があったことから、それははっきりしている。それも考えてみれば、稲作がおこなわれるようになった以降のことで、その前は、私の推測では、火山の噴火を恐れてカミと崇めたのではないかと考える。ご存知のように白山はたびたび噴火をしている。その恐ろしさは最近でも雲仙普賢岳の火砕流の噴出をみればよく分かる。ひとたび噴火すれば人智ではどうにもならない。それが、原始時代に噴火していた。人々は恐怖で慄いたであろう。このようにいろいろと身近な山の神を見てくると、近藤氏の神の発生の論は納得がいく。
 一方、自然の脅威ばかりではなく、人が神になってもいく。この点は、最近読んだ広田和雄氏の『前方後円墳の世界』(岩波新書)が私には参考になった。この点は別に「古墳時代の霊魂」という題で書いているのでそれを読んでいただきたい。結論だけを言えば古墳時代に、各首長を古墳に祀ったが、古墳時代の石室の中や石棺の装飾から考えると、肉体の遺骸ばかりではなく、そこに霊魂の発生を見ていて、他界とか、霊肉二元の分離とか、カミの発生が見られる、と氏は論じる。カミは弥生時代、縄文時代まで遡れるように私は思っていたが、考古学、文献などのはっきりした史料から研究すると古墳時代からになると氏は言う。大変説得力のある考えである。
神の発生について、たまたま続けて二冊の良い本に巡り会えて、まとめることができた。これをベースにしてさらに考えていきたいと思う。(2010.9.30垂澤祥夫)
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古墳時代の霊魂
 3世紀中頃から始まり約350年間作られた前方後円墳は、全国に5200基あり、100メートル超の大型古墳も302基ある。京都の近くでは城陽の久津川車塚古墳が墳長156メートルで重厚な長持形石棺を内蔵している。現在京大の総合博物館に実物が展示されている。また京都府北部、丹後地域の巨大前方後円墳、網野銚子山古墳は長さ198メートルあり、巨大な地方権力者がいたことを証明している。これは日本海での朝鮮、中国との鉄の交易によりもたらされたと言われる。
 私はいままで特に関心はなかったが、今般考古学専攻の、日本歴史民俗博物館教授の広瀬和雄氏が、岩波新書で『前方後円墳の世界』を著し、その目次をみていたら、カミの祭祀や、霊魂のことが出ていたので、購入して読んでみた。これがまた、氏の学説を述べているのであるが、従来の通説とかなり異なり独自の視点を提供している。
 例えば、1.奈良盆地を中心にして畿内五大古墳群があるが、それらは初期大和政権を共同統治した六〜七人の首長が墓域を結集したものである。2.死してカミとなった首長が北、東、西、ならびにそこに至る交通の要衝を守護している。3.即ち、相互に連携しながら可視的な、国家としての威力をみせるためであった。4.箸墓古墳も卑弥呼の墓と断定するにはまだ時期尚早である。それは『魏志倭人伝』の中の文と合わない。5.また河内政権というのにも疑問を持ち、畿内の古墳群を一体として見る必要を主張する。6.古墳時代を中央集権化、律令国家にいたる前史であるとみる見方にも反対で、古墳時代はそれで十分国家として機能していた。7.さらに大和政権が東方に徐々に支配を拡大させていったのではなく、東国では、同時多発的に古墳が作られていることや、石室の内部装飾や埋葬された鏡などから、中央との繋がりは同時になされた、みられる。
 このように、今までの学会の通説を検討しなおして、かなり思い切った説を出しているが、これは氏が全国の古墳を詳細に検討した結果であり、説得力がある。次に、氏の見解である、古墳時代に人格神としてのカミという概念が発生した。それは他界という概念を創出し、霊魂という考えを認めたことと関係する。この点についてみてみる。
 前方後円墳の中の木棺や石棺に大事に納められた首長の遺骸は完全に保護・密閉・辟邪(へきじゃ)された。いつまでも肉体のまま保持したいという意志。それは「死した首長にもうひと働きしてもらおう」という共同の願望なのである。それは、後円部の埋葬施設上部に設けられた内方外円区画に、埴輪を使っている。これは大地は方形で人の住む空間、天は円形で神の住む空間という、古代中国の「天円地方」の観念をあらわしている。ここで一定の儀式を経てカミに昇華する。そして、中国鏡、鉄製武器、農具などを駆使して、自分が所属していた共同体を再生産するために、もうひと働きする、と人々に念じられた。自然の災害や災厄など不可知なことには生きている首長では対応できない。そこに亡くなった首長がカミとして登場してくる。二人で共同体を維持発展させようとした。そうすると辟邪されるのは、肉体の遺骸ではなく、カミとなった亡き首長になってくる。これは埴輪の変遷や、埴輪の並べ方で分かる、という。
 古墳祭祀は弥生墳墓祭祀との共通性を持っているが、弥生時代は人々とカミとの距離は近かった、神殿には柵はなく日常生活の延長に非日常世界があった。「去来するカミ」の段階である。それが古墳時代になると、神の空間と人々との空間がはっきりと分けられ、「常駐するカミ」にカミ観念が変遷していく。そして埋葬された首長はカミとして崇められるようになっていく。
 いま生きている此界の向う側に異次元の世界(他界)を創出して、死という絶対的な存在を相対化しようとしたのが古墳時代である、と氏は言う。それは人間の思考が生みだしたものである。
 それではどこで生みだされたのか。それは古墳時代の石室や玄室の装飾文様から推測できる。初めは遺骸の辟邪が主であり、遺骸収納空間を辟邪していたが、つぎの段階では、玄室、石室の四方の壁面一杯が辟邪され、そして、船や馬などの乗り物が一般化する。最後は玄室の外への彫刻がみられる。そして埴輪の並べ方や、船の絵からは、到着した形である。誰が到着したかというと首長の霊魂がよりついてくるのである。これから出発するのではない。そして遺体だけではなく、もっと広い空間を辟邪するということは、「ここにいたってはじめて、動く存在としての霊魂という新しい死観念の生成を読みとることができる」。霊肉二元論が成立していく過程である。
 弥生墳墓では首長霊が引き継がれその秘儀が執り行われた、といわれている。しかし広瀬氏はこの説にも疑問を持ち、はたして弥生時代に霊という観念があったかどうかとみている。この点は学会でも分かれるところである。弥生絵画に出てくる切妻造りの建物は、独立棟持柱建物で、それは神殿とみられている。去来する神が寄り付く建物である。しかし、まだはっきりした霊魂の観念は出てきていない、と氏はみる。
 古墳時代の後は律令国家となり、初めて『古事記』『日本書紀』の文字による歴史が書かれてくる。イザナミは遺骸が腐っているのにイザナギと話をしている。肉体とは別に霊魂の存在を認めていた。また黄泉戸喫(よもつへぐい)は横穴式石室に副葬されている容器類、実際に魚、貝などの食物が入っていたのと対応する。それを食べるとこの世には帰れない。誰に供されたかというと、霊魂である。霊魂は個人に帰属することから、いろいろの首長の霊魂の神話が生まれる。氏、家ごとの神話が語られる。大王である天皇は神である。天皇の神話と歴史を記述したものが纏められ、それが『古事記』『日本書紀』となった。『日本書紀』に言う、「あるふみ(一書)に曰く」というのは、神話は一つではなかったことを示している。おもしろいのは、広瀬氏の考えの延長上に、『古事記』の神話が結びついてくることである。中国から受け入れた「天円地方」の思想が、アマテラスの日本の神話に結びついてくる。
 このように広瀬氏は独自の学説を首長している。考古学での新しい学説を読むのは、刺激的で、面白い。古墳内の装飾絵画から霊魂の発生を読みとるのは新鮮であった。(2010.8.31垂澤祥夫)
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イザナギとイザナミ
 縄文時代の遺跡からはよく勾玉が発掘される。装身・祭祀用の玉(ぎょく)である。ヒスイとメノウが尊重された。玉はあの世とこの世を永遠に往来する魂を表すものと考えられていた。(『葬られた王朝―古代出雲の謎を解くー』梅原猛)
 このヒスイが採れた地方が越の糸魚川であり、津軽の三内丸山の縄文遺跡からもヒスイの玉が出土していて、糸魚川との交易があったのではないかと考えられている。『古事記』に出雲の大国主(おおくにぬし)が高志(こし)の奴奈川(ぬなかわ)姫との結婚の話が出ているが、これは、単に恋愛の話ではなく、出雲の王による越の国の征服の話である。奴奈とは「翡翠」のことであり、ヌナ川とは糸魚川のことである。
 最近読んだ梅原先生の前記の書には、出雲王朝が大和政権の確立する前に栄えていて、その後、国(くに)譲(ゆずり)を行った。出雲王朝は実在したということを証明している。この出雲と張り合ったのが、越の姫であった。そのころの越といわれる地域は、いまの福井県あたりから新潟県の信濃川の辺にまでおよんでいた。その越には、白山、立山という名山がある。糸魚川の翡翠の採れた山と同様に山岳信仰の対象になっていたことが推測される。聖なる山であった可能性がある。縄文の時代からこの越の名山は崇められていたのは間違いない。
 「山はひたすらに仰ぎみられる時間の堆積のなかに、しだいに、ある宗教的な崇敬の結晶へとたかめられてゆく。そこにはたぶん、仏教や修験道に支配される以前の山の信仰があった。」(『東北学/忘れられた東北』赤坂憲雄)まさにその通りであろう。
 この白山、立山にはどちらにも大汝峰がある。大汝とは大己貴(おおなむち)、即ち大国主のことである。山陰の雄、大山も大己貴を祀る。北陸と山陰地方との深い繋がりを示している。白山は白い雪山であった。立山は太刀山(たちやま)であり、剱岳に代表される岩山である。いずれも地方での呼び名が受け継がれて来ている。けっして国が統一された奈良時代以降に名づけられた名称ではない。それは大汝の名前があることでも推測できる。
 さて白山、立山は神仏習合では、どちらもイザナギの神を祀り、白山が十一面観音菩薩、立山が阿弥陀如来が本地である。白山はイザナギ、イザナミ、菊(くく)理(り)姫が祭神で、立山は他に手力男命である。この白山、立山のイザナギについて考えるのが本稿の目的である。
 最近、元外交官の佐藤優氏の本をよく読んでいる。従来の大学教授にない幅のひろい、原則から考える人で、自分の主張する立場がはっきりしている。京都精華大での講演を聞いたが、例えば沖縄の基地の問題については、芥川賞作家の大城立裕の『小説琉球処分』(1968年)、『カクテルパーティ』を読まないと、沖縄の人の考えていることが十分に理解できない、と話していた。私もすぐに図書館で借りて読んだが、沖縄の人の繊細な心配りの様子がよく分かる。その佐藤氏が、日本人としていろいろと考えていく(特に外交官として他国の人と渡り合うために)上での始めとして、『古事記』『日本書紀』『神皇正統記』『太平記』を読むことを勧めている。ということでいままで手に取ったこともない『神皇正統記』を図書館で借りてひも解いてみた。
 書き出しは有名な「大日本者神国也」(おおやまとはかみのくになり)である。何代か前の総理が「日本は天皇を中心とした神の国」と発言して物議をかもした。その総理の年代からは当然に『神皇正統記』を読んでいるからこのフレーズが出てくる。ところが戦後の政治と宗教の分離から、日本神話自体を学んだことのない我々以降の年代層には、急にこう言われても戸惑ってしまう。
 ここではそのことを話すことが趣旨ではない。この『神皇正統記』の注解の書(御橋真言著)を読んでいて、この最初の文には出展があり、それが『元亨釈書』18神仏篇を要約したものであり、しかもその元亨釈書は、加州白山縁起によるという。
 白山縁起は別名、泰澄和尚伝であり、そのコピーを私は持っている。いまここに関係する箇所を現代文に訳して書くと、「泰澄あきらかに聴け。日本秋津嶋はもとより神国なり、国常立尊は神代の最初の国主なり、(次に神世七代の名前がある。略、)わが身はイザナギの尊である、今は妙理大菩薩と号す。この神岳白嶺は私の神務国政の時の都なり、吾は日域男女元神なり、天照大神は吾の子である」
 ここで私か述べようとすることは、泰澄和尚伝は元徳2年に(958年)浄蔵の口述を門人の神與が筆記したという。神仏習合が盛んになったのは鎌倉時代以降であるが、この平安時代の中期にすでに泰澄和尚伝の中に、白山の十一面観音が現れる前に、イザナギの名前がみえている。しかもその文書は神皇正統記の注解に使われるほどしっかりした価値があった。すると、白山縁起のなかに、白山とイザナギの結びつきがあるのも、後からの説明付けではなくて、最初からのそのように一般に認められていたのかもしれない。
 よく知られているように、日本神話では、イザナギ、イザナミの二神は日本の国土の八つの島と、山川草木や、アマテラス、ツキヨミ、スサノオの三貴子を生む。ここで『古事記』のその項は繰り返さないが、このイザナギ、イザナミについての学者の説を紹介する。
 直木孝次郎氏の『日本神話と古代国家』(講談社学術文庫)では、
「古代の天皇家が天照大神を皇祖神として丁重に祭っているのに、イザナギ、イザナミの二神に対しては、そうした特別な祀り方をしていない。おそらくそれは、天照大神を中心とする神話とは別個に存在した二神の神話を時代が下ってから天照大神の神話の中に吸収したからであろう。」
 谷川健一氏は、「淡路の海女族」の論考の中で、
「イザナギ、イザナミの二神の国生みの神話がもとは淡路を舞台とした島生みの神話にほかならなかった。」
「淡路に関係する記事が神話に頻繁に出てくるのは応神、履中、反正、允恭といった諸帝の時代で、いわゆる河内王朝の栄えた5世紀にあたっている。」
 「河内の大王はなぜ淡路に聖水を求めたか。それは帝王の若返りのためであり、縁由が極めて深かった」「しかし、その後河内王朝に替わる大和政権が出来ると、伊勢の天照が崇敬されるようになり、淡路島は一転してある種の冷淡さと憎悪寛をこめて眺められるようなった。(ここで古事記の水蛭子と淡島のことを上げている)」
 イザナギ。イザナミの神が淡路島と関係が深く、『日本書紀』にイザナギは淡路島に幽宮をつくってしずかに長くかくれたとなっている。現在淡路一ノ宮はイザナギを祀る大社である。
 梅原氏の前記の書には、淡路島の南にある「沼(ぬ)島(しま)」が『古事記』のオノゴロ島で、ここでまぐわいをして国生みをした。同書には「上立(かみたて)神岩(がみいわ)」という高さ約30メートルの巨大な男根が海の中に屹立している写真がある。「下立神岩」すなわち「女陰」の巨岩もあった。同氏は「イザナギ、イザナミは、縄文の神であると思う。縄文の哲学は「産み」の哲学である。これに対してアマテラスは農耕の神で弥生時代がはじまる」、と述べている。
 それでは何故に白山、立山にイザナギが祀られるのか。ここからまったくの私見である。この北陸の地、越はまた越蝦夷の跋扈する地でもあつた。大和政権の「稲作のすすめ」がこの北陸道にも及び、稲作は行われるようになってはいったが、都の大和政権とは一線を画していたところがある。勿論おおっぴらに反抗はしない。しかしどうもアマテラスの神に統一されるのも面白くない、という気分があった。江戸中期享保年間の人、建部綾足の書『本朝水滸伝』には、反乱軍に加勢する泰澄和尚が出てくる。もちろん読み物であり小説であるが、当時にもこの白山の越の地が、すんなり都の勢力の中に入っていなかったことが想像される。そこで、もともとの支配者であったスサノオ、大国主の系統の大汝の名前を山につけて崇めていた。しかもおもしろいことに、白山、立山の両方にある。
 白山や立山の山をみれば、ここが秋津嶋に降り立って国生みをした、イザナギ、イザナミの神務国政の都であったという貫禄は十分にもっている。三名山とは富士山、白山、立山である。この名称は後の世のものとしても、古代から白山、立山は日本を代表する山として認められていたのはまちがいない。
 この北陸の二つの名山は面白いことに、白山は比咋神であり、立山は雄山神である。期せずして、男神、女神がそろった。(白山は比咋神であり、イザナギではなく、イザナミであると説く学者もいる。) 山の姿そのものが、立派に男女の元神の形をしている。国生みの神と結びつく理由が十分にある。
 どうやら白山も立山も大きな神話の中の国生みと結び付けられるだけの山であった。名山と後から言われる前に、人々の間でそれだけの崇拝を受けていた。この越の地はまた対岸の朝鮮、中国から先進の文化の入ってくる地でもあり、決して盲目的に都の権力に頭を下げるような地ではなかつた。イザナギ、イザナミの神話が淡路島の神話であったといわれているが、あるいは、元はこの越の地、白山、立山の地の国つ神の神話であつたかもしれない。そうであればますますすっきりと、白山縁起が納まってくる。
 継体天皇は、応神天皇の五代の孫である。越前の出身であり、仁徳天皇の系統が絶えたときに呼び出された。日本史の謎の多い時代である。越前は白山信仰の地である。この白山信仰にイザナギ、イザナミの神話がすでに結びついていたかもしれない。『古事記』は帝紀、先代の旧辞を撰録したものである。天武天皇の時代である。それまでに各家にはそれぞれ違う神話があった。イザナギ、イザナミの神話もその一つである。
 私は、淡路島のイザナギ、イザナミの神話を白山にもってくるのではなく、もともとこの北陸の地にその神話があったとみたいのである。そうであれば白山縁起の記述がすべてしっくりといく。継体天皇成立(507年)という事実があり、しかも今の越前に住んでいたということは、何らかの泰澄開山以前の白山信仰と結びついているはずである。
 これはどうも確認する術がない。だが、いままでのことを斟酌すると、一つの仮説として出せるのではないだろうか。こう考えてくると、前にも書いたが、白山、立山は別々に考えるのではなく、大きな山域として一帯として考えるほうがいい。白山と立山は、いろいろと同じこともあり、何らかの考えかたがあって、そのようになっていると考えるほうが自然である。たまたま一緒であったとは思われない。今後さらにこの考えを深めていきたいと思う。(2010.7.31  垂澤祥夫)
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「小説 琉球処分」
 明治の初めまで沖縄には琉球王国があった。日本と中国に両属の形をとり、17世紀以降島津藩に征服され重い徴税を課せられたが、一方中国から冊封を受け、中国に進貢をし、慶賀の使節を送って、貿易もした。
 15世紀に統一王国ができてからは、国内で武力の衝突はなく、王のもとに話し合いで事が決せられ、信義を重んじた。明治政府からみるといっぱしの独立国のようにみられた。
 明治5年に琉球藩を政府は設置して、島津の支配より離し、明治12年に琉球藩を廃して沖縄県にしたが、この間のことを「琉球処分」という。
 ちょうどこの頃、中国を舞台にして、イギリス、アメリカ、ロシアなどの列強が植民地化の動きを強めていて、明治政府としてもそんな時期に、琉球の両属を認めて、情報が中国に筒抜けになることを恐れた。そこで他の県と同じ扱いにしたかった。
 しかし、琉球では地理的に中国に近いこともあり、従来からの密接な接触で中国の国の偉大さを知っていることもあり、急に政府の方針を受けることはできなかった。方針の中には、行政権の県への移行、王様の東京への移住、士族の廃止などが含まれていた。琉球国の解体を意味していることであり、反対は当然であった。
 時の政府の内務卿は大久保利通であり、大久保は力づくではなく、出来れば納得の上で穏便にことを運ぼうとした。しかし10年に大久保が暗殺され、伊藤博文に内務卿が代わると、もう待てないということで、最後は熊本鎮台の那覇への分隊設置、警察の派遣などで力づくの方針履行ということになる。かくて首里城の明け渡し、王様の東京への移住、行政権の県管理への移行と進んだ。本土と同様に士族は廃止された。
 政府が待てなかったのも、その時の国際情勢がもう猶予できないところまできていたのである。政府の考えと、琉球王国のできるだけ今まで通りという考えが合うわけがなかった。その後の歴史がどう動いたかは皆さんの知っている通りである。日清戦争、満州事変、太平洋戦争と進み、戦後はアメリカの駐留、1972年に日本に復帰したが、アメリカの基地はそのまま残った。あれだけ中国に気を使い、日本と中国両方の顔を立てて穏便にとやってきた沖縄の人にとっては、その後の動きは皮肉なことに、中国と戦争をすることばかりであった。そして、いまも日米の基地の最前線に位置している。
 武力を捨てて話し合いで島を纏めてきた琉球の政治からは、果たして両属をやめて、日本の沖縄県として再出発したのが本当に島民のためになったのかという思いは残っているようだ。日本人であると信じていることにいささかの揺るぎがなく、日本という祖国のまことを信じているとしても、思いは複雑であった。たとえ叶わぬ要求であっても。

 2010年5月、沖縄の普天間基地の移設の問題で鳩山政権が倒れた。そのとき、沖縄県民の本当の気持ちを理解するには、沖縄県出身の芥川賞作家の大城立裕氏の『小説琉球処分』(昭和43年、1968年、講談社)を読む必要がある、と案内してくれたのが、佐藤優氏であった。私はたまたま京都精華大学での講演を聴く機会があった。そこで私は図書館で借りて読んだ。
 小説の中で、政府の官吏は、琉球人の蒙昧さをよく口にしている。しかし、いまとなっては、蒙昧であったのは日本政府の方であったのかもしれないという感想をもった。
今の日本国憲法の第九条の戦争放棄の考え方は、私は琉球の人の話し合いで解決するという伝統を受け継いでいるのではないかとふと思ったりする。
 この融合といってもよい道を選ぶことに関して私は二つのことを思い出す。一つは、古代の弥生人が縄文人をどう扱ったかという点。先住民の縄文人を武力で威嚇していったであろうが、決して奴隷化したりしなくて、話し合いによる融合路線をとった。それぞれの国の「国つ神」も認められた。蝦夷とさげすんではいたが、手なずけていったといえる。
 もう一つは明治維新であり、徳川の最後の将軍は蟄居して謹慎すればそれで許されて、官軍、徳川側ともとことんまでの報復戦はしなかった。権力の移行が、ある程度協調する方向でなされた(江戸城の明け渡しなど)。これが日本のやりかたであり、欧米の征服者が被征服者を殺戮する点とは違う。私はこく限られた経験ではあるが、南米のインか帝国へのスペイン人の侵入、あるいはメキシコのマヤ文明へのスペイン人の侵攻を、現地を訪ねることで、勉強できたが、キリスト教を背景にして、現地人の虐殺が行われたことを知った。それとは日本は違うのである。
 戦争に負けてアメリカの駐留を受け、基地が残った。アメリカ人の考えと、日本人の考え方は違う。その接点で悩んでいるのが沖縄である。私は沖縄のこの明治以降の動きについて何も知らなかった。沖縄のことで発言しようと思えば、この書を読んでから、という佐藤氏の言はその通りだと思う。最後に著者はつぎのような文で小説を結んでいる。
 「しょせん歴史を変えることはできないのだから。」「しかしそのようにいま言ってしまってはいけないのだ。」「たとい、こんな平凡な事務をとりながらも、……略……、まだなにかを生み出すことができないとは限らないのだから……。」
 そういう一人ひとりの小さな思いでも、必ず実るときがあることを信じたい。(2010.6.25  垂澤祥夫)
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洛北の吉井勇
 歌人、吉井勇といえば有名な次の歌がある。
「かにかくに祇園は恋し寝るときも 枕の下(した)を水のながるる」
 大正4年の「祇園歌集」におさめられている。この歌について後に昭和15年刊行の『洛北随筆』に「これは別に、何処で作ったといふ歌ではなく、枕の下を流れている水の音は、大和橋の下をくぐる白川のせせらぎでもよければ、河原蓬の間を流れてゐる加茂川のひびきでも関はない。兎に角寝てゐると枕に伝はってくる水の音が、何時までも耳について忘れられないといふだけの歌なのである。」
 吉井勇30歳のときである。東京で伯爵の家に生まれたが、家が没落への道を辿るのにあわせて、歌の世界に熱中し、与謝野鉄幹に師事し、白秋、啄木、杢太郎、小山内薫などと交友し、当時旅と酒に大半を過ごしていた。京の祇園の紅灯の巷に耽溺したのもこのころのことである。
長い歌行脚の旅をやめて、土佐の田舎に引っ込み、そして京都に移ってきたのは昭和13年、53歳のときで、その後昭和35年で亡くなるまで、一時戦時中、越中八尾に疎開したが、ずっと京都に住んでいる。もう東京には戻らなかった。京都で最初に居を構えたのが、左京区北白川東蔦町21番地である。大文字の送り火が手に取るように見えた。その後岡崎、八幡市、油の小路元請願寺、左京区浄土寺石橋町と家は変わったが、京に最初に落ち着いた北白川のことが一番印象に強かったのであろう。「洛北随筆」として、当時の心境や交友、自然の様子などを記している。
当時の北白川は白川女の本場で、至るところに花畑があって、環境も美しかった、毎日のように出歩いて、史蹟や美しい地を廻っている。「白川の里は風寒しと聴けど、世塵ふたたび空より入らず、独座黙然想ひのままなるべし。安住の地ここと思へば、貧居もまた寂しからずや」。
北白川の地を詠んで、「われはもやここに老いむと夕庭の叡山苔をなつかしみ居り」
比叡山を詠んで、「霜晴れの屋根の上に見る比叡が嶺は雪はだらなり深しもよ冬」
過ぎし日を思って、「伽羅の香のみなぎるなかにあぐらゐて酒を酌みしもいまは昔か」
        「京に来てわが世はげしき起伏(おきふし)を思ひかへしぬ秋のこころに」
ここ北白川は上田秋声が住んでいた地でもある。
       「 秋声が歩みし道もありぬべし 夕たもとほる浄土寺の里」
そして、昭和14年に泉鏡花がなくなっている。生前に訪ねたりしていた。それをラジオで聞いて詠む。
      「おもひでといへば鏡花の文にある九つこだまなつかしきかな」
      「おもひでのなかに河童の多見次ゐて いまもをりをりわれにもの言ふ」
吉井勇と祇園との関係が再びできるのは、昭和25年に都踊が復活し、その歌詞を書いことである。「京洛名所鑑」である。以後毎年歌詞を書いた。氏が亡くなって建仁寺で葬儀が営まれたとき、式場までの約百メートルの両側に喪服の祇園関係の女性がぎっしりと立ち並んだという。昭和23年には新年の歌会始の選者になったり、日本芸術院会員になったりして、起伏の多かった人生行路にもようやく明るい光りがさしはじてきた。(『私の履歴書』
最後に、たまたま吉井勇の全集を読んでいて、一つ思いがけない事実を知った。私の住んでいる学区は北区紫竹であり、近くに紫竹小学校がある(私は卒業生ではないが)。この小学校の創立20周年にあたる昭和35年に新しい校歌を作ることになり、作詞を吉井勇に依頼した。だがもうそのときには京大病院に入院してしまい、作られることはないと思われた。しかしである。亡くなる二日前にメモ帳に書いたものが残されていた。いまそれが古関裕而の作曲で校歌として唄われている。まさに絶筆なのである。夫人が「この最後の作がかわいい子どものため作られ、またながく歌われることになれば故人もさぞ喜ぶでしょう」と述べている。
祇園新橋の北白川の川岸に吉井勇の歌碑がある。今年私が訪れたときにも満開の桜がその上に咲いていた。観光名所になっていて人が多かった。祇園があるかぎり、吉井勇の歌は忘れられることはないであろう。
新橋の北白川畔の宿に泊り、一度枕の下を流れる水の音とはどんなものかを聞いてみたいと思うが、まあ、やめておこう。無粋な私には縁のない世界である。単にうるさく聴こえるだけであろうから。 (2010.5.21  垂澤祥夫)
参考
○『吉井勇歌集』(岩波文庫)
○『私の履歴書』(日本経済新聞社)
○『定本 吉井勇全集』7.8.9巻(番町書房)
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「パパラギ」と雪月花
 京の嵯峨は月の名所である。定家の時雨亭も二尊院から歩く小倉山の中腹にあった。彼方の東山の山並から上る月をみるには格好の地である。定家を祀る冷泉家では年中行事の一つとして、「お月見」がある。中秋の名月の宵、薄を活け、きぬかずきを盛ったかわらけを小机にのせて東向きに供える。800年来の伝統である。思えば「雪月花」は日本を代表する美であり、日本文化の中心に位置している。春には桜の花見をし、夏はホトトギスを聞き、秋は月見と紅葉である。そして冬には雪を豊作の予祝として祝う。最近は京都の市街には雪は殆ど降らず、たまに降れば、金閣寺や清水寺の雪景色がニュースになる。そして月見もすくなくなったが、それでも私の家の近くの植物園では毎年秋に月見の会がある。年々エコの掛け声とは裏腹に明るくなる都会では、月の出番はなくなっている。昔といっても140年ほど前の江戸時代であるが、旧暦が暦であった時代には、月を見て人びとは生活していた。『古事記』に月読命がでてくるように、古代あるいはそれ以前の縄文・弥生時代から、月を中心とした暦であった。雪月花のうちに特に月について述べるのが趣旨ではないが、西行、芭蕉、あるいは石山寺の紫式部、清少納言『枕草子』いずれも月に心をうばわれている。
 桜、ホトトギス、月、紅葉、雪、いずれも日本人に愛されてきた。それは山の静かさ、川の清らかさ、里山や田の美しさ、空には鳥が舞い、川、海には魚が群れる。そんな日本人の自然との関わりの中で育まれてきた美意識であり、精神の奥底にある心である。
 なんでこのことから書き出したかというと、最近『パパラギ』という本を読み、大変考えさせられた。―はじめて文明を見た南海の酋長ツィアビの演説集―という副題がついている。1920年ドイツで発行され多くの人に読まれ、その後1970年代に復刊されている。日本では1981年岡崎照男によって翻訳され、立風書房から出版されている。聞きなれないパパラギとはサモア語で、白人、西欧人を指している。言葉の意味は、天を破って現れた人、すなわち白い帆船に乗って現れた白人の宣教師であり、その後サモアの酋長がヨーロッパを見聞して歩き、その西欧の様子や白人の考え方を国に帰って報告した。その草稿を翻訳したものである。日本で言えば明治初めの西欧視察団というところか。
 酋長は結論として、確かに物については劣るが、どうも必要以上に慌しく、けんか腰で金を貯め、争っている、そして神をも恐れぬ傲慢な人間中心の考え方それらを見ると、人間としての生き方、魂の持ち方について、愛、素朴、信念、労わり、思いやり、自然を傷つけない生活態度などは、我々の方が優れていると自信を持って説いている。
 一つの例えとして、「お金」について
 「丸い金属と重たい紙、彼らがお金と呼んでいるもので、これが白人たちの本当の神さまだ。お金のために喜びを捧げてしまう、笑いも名誉も良心も、幸せも、それどころか妻や子供までお金のために捧げてしまう、自分の健康さえ。毎日毎日あらゆる瞬間に彼らはお金のことを考えている。お金で人は楽しくなったり、幸せになったりすることはない。それどころか、人の心を人間のすべてを悪しきいざこざの中へひきこんでしまう。」
 何と的を得た観察であろうか。そのほかに労働、時間、住居、町、機械。衣類、新聞、電話などについて、我々が当然と思っていることを、別の見方をするとこんなにもおかしいものに見えるのか、と反省をせまられる。
 我々は必要以上に忙しがっている。酋長は、日の出から日の入まで使い切れないほど沢山の時間があるという。それと比べてみてどうだ。また、大量生産だって機械であんなに沢山作って使いきれるのかと疑問を呈する。さらに考えすぎて、しまいには、人間と獣との区別がなくなり、人間は動物である、動物は人間であると主張し始めたと笑う。閉じた目で太陽を見ようとするのと同じで何の役にもならない。パパラギは考える重い病気になっているのではないか、と指摘する。
 酋長は、私たちには自動車や電話はないが、美しい空、珊瑚の海があり、バナナが実り、魚が獲れる。それで十分だという。此の書は物質文明の限界を突きつけて、人同士の助け合い、大いなる心(神様)を忘れていないかと問いかける。
 私はこれを読んで、明治以降の日本の西欧文明に追いつき追い越せという政策のことを考えた。そうしなければ、富国強兵をしなければ、列強に植民地にされてしまう。そのために酋長とは逆に積極的に西欧文明を取り入れようとした。和魂洋才である。その結果が、太平洋戦争になり、戦争に敗れ戦後のアメリカの支援のもとでの復興になった。それはそれで日本の現代史として直視しなければならないが、考えなくてはならないのは、パパラギで問題にされた、心の方である。
 日本には「山川草木悉皆仏性」という考えがある。仏性とも神ともいう。国土、草木、動物全てに神が宿る。八百万の神である。その考えがあるからこそ、物を大切にし、自然の破壊を免れてきた。ある意味では、南海の島国の人の考えと共通するものもあるように私は思う。酋長は自然とともに、大いなる心の許す範囲内で生活していれば不満はないという。日本の言葉でいえば「足るを知る」である。それをパパラギは無視しているから、ついには戦争を始めた、殺し合いをやっていると冷笑する。「かれらの行く手は闇に閉ざされ、こうもりの不気味な羽ばたきと、ふくろうの叫びが聞えるだけだ」。
 これを読んで私は今でも次々と世界で戦争の行われていることを思う。戦争の伴う文明と、戦争のない島国と(物は無いかもしれないが)どちらが人間を幸せにするのか。
 私はこの『パパラギ』を読んでまた、レヴィ=ストロースの「野生の思考」のことを考えた。氏は昨年100歳でなくなったが、20世紀最大の思想家と言われる。マルクス主義の歴史観もサルトルの実存主義も色あせさせたのはレヴィ=ストロースの「構造主義」である、という。氏の構造主義は、西欧近代が、知らずしらずのうちに、東洋やいわゆる「未開」の社会を劣ったもの、自分たちより遅れたものと見做してきた、その思想を批判し、そんな未開の社会にも、われわれの社会に劣らない豊かな精神世界を供えていることを示した。野生の思考は野蛮な思考ではなく、また未開人の思考でもなく、「自然の動植物や、その他の具体的な事物を素材に、比喩のかたちで展開する独特の思考」と説明される。何も未開の人びとの思考に限らず、現代のあらゆる国で通用する。未開は劣っている、西欧は進んでいると決め付けないところが構造主義である。(『はじめての構造主義』橋爪大三郎、講談社現代文庫を参考にした)
 レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』は1955年に出版された。『パパラギ』の初版は1920年であり、この間には直接の関係はない。しかし、考えていることは似ている。1920年代と言えば、ヨーロッパ人が世界中で植民地を探して蠢いていた時代である。
 さて日本には初めに述べたように雪月花を楽しむ文化がある。ある意味ではこれは西欧の物質文明とは距離がある。少しだけの酒で雪見をし、団子を食べて花見をし、ススキをもってお月見をする、ホトトギスの鳴き声を聴くのにお金はかからない。紅葉は木々が自然とその美しさをみせてくれる。それでいて精神を豊かにしてくれる。江戸後期の禅僧、歌人の「大愚」良寛は越後の山の中の五合庵で村の童を友として脱俗生活を送った。歌に
「こと足らぬ 身とは思はじ 柴の戸に 月もありけり 花もありけり」
「形見とて何か残さむ 春は花 山ほととぎす 秋は紅葉」
 良寛は雪月花とともに山の生活に満足している。ただ五合の米を求めて。
 私はこの良寛の精神を受け継いで、日本人の文化を大事にしていけば、自然との共生も可能であろうと思う。これ以上地球を痛めつけることもないと思う。いくら世界の主流が物質文明にあっても、酋長が批判するパパラギにはならないと思う。サモアでは、日本人はシャパニといわれるそうだ(同書より)。彼らが使うパパラギにこめられている軽蔑と反発はこのシャパニにはないそうだ。それは日本人の持つ文化、考え方が理解されているからであろう。
 皮肉なことに、この1月の新聞に、「携帯の顧客争奪、南太平洋で激化」という記事が載っていた。サモア、トンガ、フィジー、バヌアツなどの島々に中米の携帯業者が参入して、料金の引き下げ競争をしているという。固定電話のインフラを整備するよりか、安くあがるらしい。いまや地球はせまくなり、いくら島国でも他国の影響なしには暮らせない。あちらの世界とこちらの世界は違うとだけ言っていられる時代ではない。酋長の島も、西欧文明の毒牙に犯されそうだ。はたしてサモアの酋長たちはどのように対処するのであろうか。私は彼らの心まで変ってしまうことはないと思いたいのだが。
 日本人は得てして良いとこ取りをしているとも見られる。西欧文明の恩恵を受けながら、その上日本の伝統文化を守ろうとする。それが出来ればいいが、今の状態は、日本人の心が失われ、アメリカの物質文明を追い求めているようにも見られる。シャパニからパパラギになってはいないかと心配する。そこで、冷泉家のように秋には月見をし、良寛の心を考え、雪月花を大事にする日本人の心があれば、これ以上地球を悪くする方に加担はしないであろう。日本人の心のバランスが回復されよう。桜や紅葉の見物ばかりでなく、もっと夜には電気を消して月を見るようにしよう。ホトトギスの声が聞かれるように、山や森を大事にしよう。そう思うのだが。(2010.1.29  垂澤祥夫)
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双六谷の名前の謂われ(鏡花『神鑿』より)
 飛騨谷第一の隠れ場所、近づきがたい魔所。吉城郡神宝の山奥にあるという。名は双六谷、そこに双六巌がある。魔人が向いあって。采を投げるという。その響きは、木を伐る賎(しず)が、ころりん、からからと妙なる楽器を奏ずるが如きを聞くだけとか。土地の名所といいながら、そこへ分け入る道もしらず、昔からそこを見たものは誰もいない。方角は北東、槍ヶ岳を見当に、辰巳にある。
 鏡花は双六谷について、『神(しん)鑿(さく)』の中でこのように紹介している。北アルプスにある双六谷のことである。話は、この巌の上で采(さい)を投げて勝負をして、勝てば行方不明の主人公の奥さんを返す。負ければそれまでと、魔人と争うのは、これまた魔人の美人の姫。
 主人公は若い彫刻家で、子供の頃、父が土産にくれた女の彫像をおもちゃにしてあそんでいたが、ある日事件があり、その像は焼かれてしまった。その後成人した主人公が婚礼の後、家内と一緒に父がこの女の彫像を拾ったという地を訪ねる。そこで家内が行方不明になってしまう。
 古城の天守の虜になったとみて、取り返すために女人の彫像を彫り上げる。交換しようとするのである。それが無残にも出来が悪く、返されてしまう。と出合ったのが飛騨の匠である工人。その老人と居合わせた御坊の助けを借りてもう一度、彫像を作ろうとするが、どうもそれでは拉致があかない。
 思案の末、魔人と対抗できるのは、双六谷の魔人しかいない、ということになり、そこで双六谷に行き、頼む。実はそこの姫は父から貰って遊んだ人形。そこで双六の采の対決となる。はたしてどちらが勝つか、その続きは小説を読んでもらうことにして……。
 双六谷の名前は、野口五郎とか、黒部五郎とかの名前と同じくゴーロからきた山名であるといわれている(四五六谷)。だが、私は魔人が双六をしているこの鏡花の小説の由来の方がずっとおもしろい。或は地元に残るこの伝えが本当の名前になったのかもしれない。
 鏡花が亡くなった時に柳田國男が、「地方にある民俗の説話を小説に出来るのは鏡花しかいない」と惜しまれた。鏡花の代表作『高野聖』も『夜叉が池』も、オシラ様の出る『山海評判記』もみなそうである。ほかにも沢山、地方で語りつがれてきた民話、伝説などを話しの中に取り入れた。 いまも、流れる雲の数を数え、花の数、蝶の数を数えて双六谷では采がふられていよう。(2010.3.12垂澤祥夫)
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日吉神社客人宮
 比叡山の麓の日吉社には山王七社が祀られている。当初は本来地主神として大山咋(おおやまくい)神が祀られていた。よく知られる『古事記』にみる「大山咋神,亦の名は山末之大主神、此の神は近(ちかつ)淡海国の日枝の山に坐し」の神である。大山咋とは山から発せられる大音響を意味する。咋(くい)とは雷鳴そのもので、故に雷神にほかならない。(『神仏習合の聖地』村山修一、宝蔵館)
 京都の上賀茂神社の祭神も別(わけ)雷(いかずち)神である。雷は雨を司る。即ち竜神と同じで水の神である。山の神信仰としては原初的なものである。京都の愛宕山の古縁起にも「役小角と泰澄が清滝から愛宕山に上ろうとしたときに、雷鳴なりわたりて雨車軸のように降る」とある。
 大山咋の神に続いて、近江大津宮、天智朝のときに、大和の国から三輪明神が勧請され、三輪神を大宮、大山咋を二宮として両神を併祀する。天智朝であれば、668〜671年ごろである。都が大津に来たことより、この都の守護神の役割が祈願され、大和での有力神が併祀された。
 以下、山王七社についての研究で新しい見解を発表した佐藤真人氏の「山王七社の成立」という論を紹介する。新しいといっても昭和60年代である。それまでは、なかなか学問の対象にし辛かったようだ。氏は「山王七社の成立年代に関する研究は皆無に近い」と述べている(雑誌「神道岳」125号掲載、昭和60年5月)。氏は確かな史料の裏づけがとれる文書より論を進めている。
 氏の説を引用する前に、それまではどのようにみられていたかを示す。日吉社に関する最古の縁起書とされる『日吉社禰宜口伝抄』による。この書は賀茂の社司につたわる口伝を成書化したもので、永承2年(1047)に書写したもの。それが長らく賀茂社から他に出ることが無かったが、天正17年(1589)に至り日吉社の禰宜にもたらされた。この口伝抄の成立は9世紀の後半といわれる。以下佐藤氏の論より写す。
 「これによれば、二宮は崇神天皇7年に社殿が創建され、八王子(祭神大山咋神荒魂)・三宮(祭神玉依姫神荒魂)も天智天皇のご即位前に創建された。大宮は天智7年(668)、聖真子(祭神田心姫神)は天武3年(674)の創祀であり、十禅師(祭神鴨玉依姫神)は宝亀年中(770〜780)に二宮から分祀した。残る客人宮(祭神白山比咋神)は天安2年(858)相応和尚により勧請された。よって七社がそろうのは、天安2年である。」
 以上の内容がいままで神社からいわれている創祀の年代である。これに対して佐藤氏は、大宮は天智朝のときに、二宮は『古事記』にでてくるようにそれ以前にまつられた。次いで、聖(しょう)真子(しんし)を勧請する。宇佐八幡の神である。円珍の時代の860年ごろではないかといわれてきたが、氏は確認出来ず、第18世天台座主良源の時代として、10世紀末ごろとしている。このころの古文書に「山王三聖」の表記がある。これによりおしはかることが出来るとする。八幡様は東大寺の大仏像立のときに力があって、朝廷の信仰厚く、石清水八幡宮として9世紀に都の近くにも勧請されている。
 あとの四社は各々の祭神を崇める信者によって勧請され祀られることになったとして、牛尾山に祀られる八王子と三宮については、山門、寺門の対立がはげしくなって(11世紀以降)、それまで神聖な地として禁足地であったものが、一つは回峰行の聖地として入山し、一つは抗争の軍事的な要害の地としてみなおされ、宮ができた。調べた結論として、1140年ごろには後の四社もそろって、ここに山王七社といわれるようになったとしている。
 さてここで、客人宮について、詳しく述べる。二つの説がある。一つは前記の『日吉社禰宜口伝抄』によるもので、「白山比咋の神、またの名は菊(くく)理(り)姫(ひめ)神、即ちイザナミ、イザナギの奇(くし)魂(みたま)は、天安2年(858)6月相応和尚によって創祀された」。相応和尚は無動寺を開き、比良の坊村の明王院の滝で不動尊を感得した高僧である。回峰行を始めて行ったとされていて、白山修験の山林抖ソウ(とそう)との関係で白山の神を客人として勧請した、といわれている。
 もう一つは、『耀天記』「客人宮事」にみえる。宮(みや)籠(ごもり)僧広秀が長年白山に参詣していたが、老年になってそれができなくなった。ある夜夢に、白山神を聖真子の隣に祀りそこへ参詣するように、との神のお告げがあり、そのようにして祠を建てた。その時の座主慶命が、私に断りもなくかってにそんなことをされては困る。すぐに取り壊すべしと告げる。翌日とりこわされているかどうかを朝見に行くと、宝殿の上に雪が一尺ばかり、7月だというのに積っていた。他の人に確認したが見えない。自分だけに見える。これより座主この奇特に恐れ入って、以後この社を公認して敬った。以後慶命座主の出身地である無動寺により管領された。慶命座主の任期は西暦1028年から1039年であり、この間に客人宮は創祀された、という内容である。
 白山の方からみると、福井平泉寺が延暦寺の別院になるのは、1084年、石川白山比咋神社が延暦寺の別院になるのは、1147年である。延暦寺天台の勢力が客人宮を契機にして、加賀に進出していった。『源平盛衰記』にみる、佐羅の神輿(みこし)を加賀から敦賀を経由して、日吉社の客人宮に担ぎいれ、師高、師経二人の処罰をもとめた事件。その後ついに叡山の神輿とともに京に振り下ろして強訴に及んだ。後白河法皇が嘆いたどうにもならない叡山の荒法師である。ここに時代は、平家の武士集団が活躍するようになるとともに、加賀白山修験の実力と天台密教霊場全盛の時代を迎えるのである。この事件の安元元年といえば1175年である。
 比叡山の上から白山を展望できることはよく知られている。ケーブルの山頂駅の前の広場からは、琵琶湖を眼下にして、安曇川の扇状地の船木崎の彼方の方角、湖北の山の上に白山は見える。白山信仰も山が見えることより拡がっていったという側面もある。比叡山から見えるということが、客人として迎える一つの要因でもあったであろう。
 私は客人宮がどうして日吉社にあるのか、疑問に思いいろいろとその経緯を調べてみた。以上みてきた通り、特に改まった謂われは無いようであるが、常に雪の奇瑞がついてまわるのが面白い。どうやら、三輪神、八幡神、白山神を勧請するのは、こう言っては失礼になるが、流行になっていたようだ。八幡さんは源氏の氏神でもあり、その後全国にひろまつた。白山神も特に中部、関東、東北に多いが、また全国にわたっている。ここでいえることは、11世紀の始めに客人宮を勧請した当時の、白山信仰の強さである。『白山之記』によれば、天長9年(832)に白山三馬場が開かれている。岩手の平泉寺の白山社は嘉祥3年(850)に加賀より勧請されているのである。9世紀、10世紀とその力を増していった。そして、日吉社に祀られてピークを迎えるのではないかと思われる。
 若狭の神宮寺を訪ねたときに、ここの寺は神仏習合の古い歴史を持っていて、いまでも仏の坐す戒壇のよこに、神様の神号がかかげてある。そこにも、八幡神と白山神が地主神の長尾明神とともに祀られていた。日吉社と同じである。  この白山神を祀るというのには、当時のはやりということだけではなくて、もっと深い意味があるはずである。そこのところが謎である。日吉社の歴史をみた限りではそれは解明されなかった。今後の課題である。        (2010.2.22垂澤祥夫)
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異界
 前には「他界」とか「あの世」とか言われたが、最近は「異界」と言う言葉を研究者は使う。「死後の世界」「幽霊」「神の領域」などの世界である。専門家によれば、この異界は私たちの日常生活の世界の外側にあり、陰の部分であるという。おばけ博士の異名のある小松和彦氏は、この異界について、「男」という概念は「女」という概念があって成立する。「昼」と「夜」、「右」と「左」、「生」と「死」いずれも同様で、それと同じくこの「日常生活」の世界と「対」になって生み出された概念が「異界」であると説明している。科学的に実在するかどうかではなく、我々が日常生活の中で常に持っている言説であり、言説として存在するのだと。「私達の世界」は、多様に異質の空間を作り出すことで構成されている。それがこの世に陰影、奥行を与えてくれている。
 こう説明されているのを読んで、私も合点がいった。祖先の霊がどうの、おばけがどうのとかは、実証されないから問題にしなくてもいい、とそう簡単に割り切れない。「あの世」なんて「来世」なんてわからない、あるいはありっこない、と考えるのはその人の自由であるが、あると考えることで、その人の人生が深まってくることもあり、また他の人を慮ることもできるようになる。
 私は戦後の合理的・科学的に考える教育を一貫して受けてきたので、特に戦前の国家神道の反省からであろう、極端に神とか宗教とかに関心をしめさない教育であり、「異界」の世界は外されていた。しかし、宗教は証明されるものでもなく、人間は一人でなんでも出来るものではなく、人の助けも必要で、それには先祖の加護もあるかもしれない。また宗教的な教えで救われたということもあろう。
 私はここ10年ほど前からやっとこの「異界」の重要性に気がついた。それの端緒になったのは泉鏡花の小説であり、また山岳信仰、特に白山信仰のことを勉強しだしてからである。鏡花には江戸時代の『本朝水滸伝』の系譜を引き継ぐ『風流線』があり、怪談の名手、上田秋声の影響も受けている。また、柳田國男が認めているように、各地の民俗的な話を小説の中に取り入れたことでも知られている。代表作として名前のあがる『高野聖』には、越中の龍女伝説が入り、舞台は天生峠という深山で、山中の孤屋(ひとつや)での妖しき魔的美女が登場する。異界である。『山海評判記』には「おしら様」が出てくる。鏡花の小説は、うつつか幻かわからない世界がよくある。だからこそ面白いのであり、「お化け好き」といわれた由縁である。
 白山信仰も山の神である龍女の神が、泰澄の開眼で十一面観音が化現される。山の神のことを調べていくと、縄文時代の神のことにまで行きつく。そうした長い長い人間の精神的な思索の過程を踏んで、いまの我々の考えが深まってきているのである。
私は柳田國男、折口信夫、谷川健一、前田速夫などのことを60代以降に勉強した。それでどれだけ世界が広がり、自分が豊かになったことか。70歳になろうとしてこの傾向は益々進んでいる。これらのことは、自分の死を考えるようになった歳のことも少しは関係がある。小松氏の本を読んで、すっきりと異界が整理できたのがうれしい。
 参考:『日本人の異界観』(小松和彦編著、せりか書房) (2010.1.28垂澤祥夫)
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前登志夫
 前登志夫を知ったのは去年(2008年)でまだ新しい。新聞で黒田杏子氏の文の中に名前が出ていた。私のいつもの癖で、気になる人物に書物やテレビで出会うと、その人の代表的な著作物を読んでみたくなる。その時も、早速図書館から『樹下三界』『吉野遊行抄』『山河慟哭』などを借りて読んだ。いずれもエッセイであるが、歌集よりも親しみ易い。三冊ともに素晴らしかった。こういう人物、すなわち、時代に迎合することなく、自身の生き方を貫き、和歌の原点をみつめている人がいる。その歌も通常われわれの目にするのとは違う。日本の歴史に出てくる地域としては最も古い方に属する吉野の地で、生活していることもあろう。荒々しい山の中の自然が読み込まれ、伝統的な日本人の感性が詠われている。東京に暫く居たが、故郷の吉野に帰った。氏の目標は大きい。「再び自然の中に人間を樹(た)てる」という、現代文明の転生を唱えている。花鳥虫魚と戯れ、山の精霊や死者たちと交感する。
 それは戦後の日本社会の根幹をなす価値感、進歩主義、経済至上主義、直線的な時間の考え方の否定である。氏の樹てようとしている自然は、「コマーシャル化した、ひどく軽薄になっている自然」ではなく、「手軽な厄除けのレッテル」でもない。もっと自然と人間との間が密着しているのである。氏の言葉をさらに続けると、「外界の事物とわれわれの内面が関わりあっていく、経験というものの意味が見失われていく」。「それが人間の精神にとって、どんなに奥深い危機であるかということを、私たちははっきりと理解していなければならない」。「現代の物質文明は、我々の生活体験というものの意味を根絶やしてしまうようだ」と警告する。
 氏の警告は当っている。現代の事件の大半は、人間と人間との絆を失った個人の悲しい出来事ばかり。どうして先祖からの連なり、そして子供や孫に繋がっていく自分ということが考えられないのであろうか。何か今の自分さえ良ければいい、と刹那的に考えている人たちが目に浮かぶ。前登志夫はそれを自分の生き方でもって人々に反省を迫る。新しい技術の開発で新しい製品は次々と生まれる。それを追い求めているだけでいいのだろうか、と考えさせられる。自然についても、経済的な価値でしか考えられなくなっている。自然には人間を育む大きな力が宿っている。また、同じく老人には老人の生活体験があり、それがいかされなくては、それこそ宝の持ち腐れである。何も経済的に産むものがない、というだけで自然は見捨てられていいのであろうか。また同様に老人の考えは古いというだけで、顧みられなくていいのであろうか。
 氏は昨年亡くなり、今年最後の本『羽化堂から』(NHK出版)が発刊された。今のデジタルの世界は消えてしまえばお終いである。自然との接点をもった人間の感性は決してなくならない、と氏はいう。この本を読んで、人と自然との長い、深いつながりを思う。我々の山登りにも何か指針を与えられたような気がする。  (2009.12.7  垂澤祥夫)
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音羽を越えて児ヶ淵 (鏡花『楊柳歌』より)
 「これから清水へ行くんです」
 「はあ、清水へ、そりゃ思ひ着きどす。えらいようおすがな。貴(あな)下(た)はん、気をつけて行きなはれ。お連れがあると云うて面白づくに、音羽を越えて。児ヶ淵(ちごがふち)へなど、行てはならんえ。」
 「何だ、矢張名所かね。」
 「名所や云うて、芸子はんが心中をしやはる淵やえ。」
 「貴下はんのお連れはんの姉はんがな、つい近い頃死なはったんどす。」
 「お連はん、日が暮れてから児ヶ淵へ行かう行かうと言って、人を誘やはる。」
 男が宿った木屋町の旅籠の女中との会話。お連れはんは、乳飲み子をかかえる祇園の芸妓。芸妓は男を北野天満宮から壬生寺を案内して、市電を松原小橋で降りて、二人で清水寺へ向っているところ。女中とは歩く途中であった。明治43年の2月、鏡花は新派俳優喜多村緑郎に招かれて、京阪神に遊んだ。その時書かれた内で、京都に題材をとったのが、『楊(よう)柳歌(りゅうか)』と『笹(ささ)色(いろ)紅(べに)』の二作品である。
 この『楊柳歌』に清水寺の奥の山に稚児ヶ池(ちごけいけ)(作品では児ヶ淵となっている)があると書いてある。そしてそこは、心中した「美しい舞妓の死」が語り伝えられている。
 それに興味を持ち私はこの淵を見に行った。二万五千分の一の「京都東南部」を見ると、毎年山の会の清掃登山で登る清水山の東に道路に沿って池の表示がある。多分そこであろうと見当をつける。音羽の滝から子安塔を経て山の中へ。歌の中山を通り、「平家物語」ゆかりの清閑寺を少し訪ねてから、自動車道路を将軍塚の方へ歩く。
 道路の東側は10メートルほど下がっていて、細い谷のよう。そして池が現れた。周囲は自然の鬱蒼とした樹木に囲まれ、長さ六、七十メートル、幅二十メートルほど。綺麗な水が湛えられていた。水は流れ下り循環しているのであろうか。池のぐるりは人の手が入っている様子。私有地の表示があり、フェンスで遮られ道路から下には降りられない。見たところ少し深そうである。全体としては清浄な雰囲気。まず心休まる。清水寺から西大谷は昔の鳥辺野で火葬場のあつたところ。いまでも東山山荘があるぐらいで、人家はない。寂しい地。車の走る道路が付けられなければ、誰もここへ訪れることは無いであろう。いまは地図にも稚児ヶ池の表示はないが、昭和2年の石井琴水『変態郷土史』(洛東書院)、大正7年の秋元春朝編『旧都巡遊記稿』(「新撰京都叢書4、臨川書店」には載っている。前者は資料館に、後者は市の図書館にある。「幽邃と言はんより寧ろ物凄きところなり」と評している。なかなか意味深長である。自殺のことが頭に浮かぶせいであろうか。芸妓が何でこの淵に行こうとするのかは、物語を読んでいただくとして、芸妓は死んだ姉さんに罪深いことをして、どうしても自分が死んで謝りたいと思っている。しかし、鏡花は殺しはしなかった。清水の舞台の上で、見詰め合う二人。そこに会いたいと思っていた姉さんが現れる。最後はうつつか幻(まぼろし)かはっきりしないところが、鏡花流か。その謎やいかに。
 題名の「楊柳」とは、清水の観音様を楊柳観音とみているもの。もちろん本尊は十一面観音ではあるが、観音様は慈悲深く衆生の願望にこたえることが、楊柳(やなぎ)の風になびくさまに似ていることから言われる。
 また「歌の中山」には次のような謂われがある。昔、清閑寺のある住職が、門前を通る美しい婦人を見て、修行の身にもかかわらず、心が動いて女と言葉を交わしたくなった。知り抜いていることではあるが、「ここから清水へ行く道はいずれかな」と問うてみた。女はちらりと僧をみて、「見るにだに迷う心のはかなくて、誠の道をいかで知るべき」と言い捨てて、幻のように消えてしまった。女は彼の心を試す神の使いであった。そのことを知った僧は、その後ひたすら修行にはげんだという。この女性が歌を詠んだのが、歌の中山の由来である。(以上は、石井琴水同書からの受け売り。)清閑寺は、『平家物語』に登場する女人、小督(こごう)の墓のあるところ。小督は高倉天皇の中宮徳子(建礼門院)に使える女官であるが、天皇の寵愛を受ける身となる。徳子の父、清盛は徳子に男の子ができるのを心待ちにしていたので、(後に生まれたのが安徳天皇)、目障りな小督を追放してしまう。彼女はのち墨染の衣をまとって、清閑寺に隠棲して、寺内に葬られた高倉天皇の御陵を守った。寺は清水寺といくばくも離れていないのに、清水の喧騒が嘘のように、誰も訪れる人はなく、寺の本堂の前に立ったのは私一人であつた。寺内は綺麗に整えられていて、昔を偲ぶにはいいところ。こうしてみると、稚児が池も歌の中山も、そして小督の局もみな女性が関係していて、この音羽山の奥深く入れば女の悲しみが聞えてきそうだ。それにしても、少しオーバーではあるが、この稚児が池はいまでも魔所にふさわしい。幽邃という言葉は今でも当てはまりそう。昼間はともかく、夜にここを訪れるにはとても勇気がいる。まだそう言う地が京都の四周の山の中には残っている。鏡花は忘れ去られようとしている地名を我々に残してくれた。東山の懐(ふところ)に抱かれたかそけき池ではあるが。とこの文を結ぼうとして、前に取って置いた雑誌の切抜きが目に付いた。漱石が明治 40年の3月末から4月の初めに京都に旅行してその日記に「歌の中山清閑寺、郭公亭」と記されているというもの。さっそく全集で調べたら4月3日に訪れている。後に博物館に寄っているからその序でに訪れたものであろう。それ以上のコメントはないが、清閑寺まで歩いているところを見ると、当時清水に寄った観光客は、この地まで足を伸ばしていたのかも知れない。もう一つ、あの有名な詩人・歌人与謝野鉄幹の父、与謝野礼巌は西本願寺の僧侶であったが、明治29年に奥さんを亡くしてから、73歳の晩年をこの寺に隠棲して過ごした。歌を3万首詠んだといわれ、そのうちの二つ、「年を経て世に捨てられし身の幸は人なき山の花を見るかな」「鶯は稀に来啼けど竹ばしらかたぶく庵に雪はふりつつ」歌の中山、清閑寺は桜の名所。その当時も今と同じく人は来ず、寺も荒れていた。多分無住の寺であったろう。幕末にここの郭公亭で、西郷と月照が倒幕の密談をしたというのも、此の地が格好の人に知られない侘しいところであったからであろうか。稚児ヶ池はそこよりさらに山の中にある。
参考:『旧都巡遊記稿』 の原文は次の通り。
「稚児池  清閑寺町字清水上山の東北にあり。古池新池の二つ有りて四辺は幽邃と言はんより寧ろ物凄き所なり。此の池市部の境にありて半は宇治郡山科村字北花山に属せり。」(2009.11.10垂澤祥夫)
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京の山、東京の山
 エッセイシストの酒井順子氏が(前に30代の独身女性の心境を綴った『負け犬の遠吠え』の本がベストセラーになっている)、新刊『都(みやこ)と京(みやこ)』(新潮文庫、平成21年3月)で面白いことを書いていた。「京都は東山や北山そして西山などの山に囲まれている、特に比叡山は直ぐ間近に見られる。京都の人は神様仏様は別にして、上から見下ろされるのがいやで、それで高い建物を嫌う。景観を大事にして決して清水寺の横にマンションを建てたりしない。東京は近くに山がないので、高くて大きいものに憧れ、山の代わりに高いビルを建ててしまう。都庁の建物がいま243メートルで最も高いというのが何か象徴的である」と述べる。京都の人は皮肉を交えて「高いところにのぼりたがるのは煙と犬だけって言いますわなあ……」。
 確かに関東平野の中心の東京からは一番近い山は高尾山や丹沢山であり、晴れていればその後ろに富士山が見られる。今はビルが林立してしまつて、とても山など見ることは出来ない。山どころか、夜の星さえ見えにくいというから、自然とともに住む環境としては限度を越えているのである。
 東京から山が見えないと酒井氏が述べているのを読んで、私は深田久弥のことを思い出した。氏が東京の帝大の学生だった昭和の始めに、大正の3年に書かれた木暮理太郎氏の「望岳都東京」という文を読み、自分も夢中になって東京から見える山を見て廻ったと書いている。木暮氏は実に70いくつかの2000メートル以上の山が見えるとして、其の場所は浅草の凌雲閣(12階、海抜64メートル)か、愛宕山の塔(五階、56メートル)としている。どちらも大正12年の関東大震災で倒壊してしまった。深田は帝大の屋上や松屋、三越の百貨店の屋上からみている。其の当時でも、晴れていて、風がある日、そして空気が澄む冬季でないとよく見えないとしている。両氏とも工場の煤煙がすごくて、なかなか山がみられないと嘆いていた。其の頃はまだ高い建物はそれほどなかった。
 いま工場の煤煙も減り、しかも二百数十メートルの高いビルの屋上から見れば、山は動かないのであるから、木暮氏や深田氏がみたように山が見えるのであろうか。なかなか興味のある点である。都庁の屋上に上がれるのかどうかも私にはわからないから、なんとも言えないが。
 もちろん酒井氏は日常の生活をしていて見える範囲で、東京には山はなく、京都には山があるとしているのであって、望遠鏡である特別の日にかすかに見えるかどうかを問題にしているのではない。
たまたま、私はこの9月に関東の山に登りに行って、電車やバスで動き回ったが、車窓から見える山は丘みたいな高さで高い山は何処にもない。地図の上では関東平野は東は筑波山、北は那須高原や上州の山、西は秩父から丹沢の山。それらが遠くで取り囲んでいる。しかし、とても関西の、そう京都ばかりでなく、大阪、神戸そして奈良、皆どの都市も山が近いのとは、東京はこの点ははっきりと違う。酒井氏はこの自然、特に山と接触する環境の違いが、その気質にも反映して、京都人と東京人の違いになってきているとみているようだ。
例えば、東山一つ歩いてみても、そこには歴史の遺跡が無数に埋もれ、或は保存されている。それらを見ていれば「自分が歴史の中の一コマとして生き、つぎの世代にバトンを渡すために存在するという意識が出てくる。目先の幸いや快楽を取ろうとせず、一時的な感情を呑み込み、したたかなまでに耐える」、という京女性の気質が生まれる。
一方東女は、「感情がすぐに表に出て、素直で正直であるが、切羽つまるとどこかきれてしまう。今、この瞬間、幸せになりたいという気持ちが強い。我慢強さが少ない」、などと説明している。(それはどの分野でも、東京には世界の一流の人が集まってくるので、じっくりとしたペースで生活は出来なくて、どうしても刺激に流されやすい。) 
これを私なりにもう少し言葉を加えてみると、東京のような大都会に住むということは、かなり意識的に住まないと生きていけない。その点、京都のような自然に囲まれた地では、人の自然としての無意識の中で生きられるところが多い。無意識のうちに自然と一体になっている。だからその風土の影響を受けて、自然との調和の中でものごとを考えていく。ところが、東京ではそんなことをしていると、他人に蹴落とされてしまう。どうしても競争的にならざるを得ない。それが性格に反映される。
この京と東京の女性気質の違いは何となく納得がいく。さらに追加して、酒井氏は最近伝統ある京女の美学が少しずつ変わっているとし、その背景には、東京の存在の影響が確実にあるとしている。全国的なマスコミや雑誌での影響であろうか。異常なほどの京都ブームの中で、知らず知らずのうちに、東京流に流されているのかも知れない。あるいは、残念なことではあるが、京都の町家がマンションなどに建て替えられて、「京都の景観と伝統的な生活様式の歴史が失われつつある」こともあろう。
 例えば、毎日富士山を見ている駿河の人、毎日比叡山を見ている京都の人、何も山を見ていない東京の人。土地や風土の違いから性格に差がでてきてもおかしくない。自ずと、京の比叡山や愛宕山を見てきた人は、東山や北山のなだらかな稜線から影響を受けている。それは「芯がつよく、一見頼りない風情でありながら、決して折れることはない」。また、一方では今西錦司博士のように「北山からヒマラヤへ」という世界に向かう姿勢ともなっていく。
 酒井氏の視点は面白い。京に住む我々は、もっとこの独自の環境を活かしていくようにすべきであろう。東京のように建物で山を見えなくするなんて、とんでもない。(2009.10.10垂澤祥夫)
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花畑の姫(ひめ)神(かみ)様 (鏡花『色暦』より)
 遠くから海の波が響いて聞える。とある谷地に入るまでのまだ人家に近い村里。黒い小山のすじかいに粟、麦、蕎麦などの美しい棚田が広がる。居(い)周囲(まわり)には当世の別荘もあり、しかも鉄道の線路が草を貫いて、下の土手をづっしりと向うの山の根へ走っている。その辺りでは何故か、女の人が飛び込んで自殺をすることでも知られる。
 月の良い虫の鳴く秋の夜、その線路を、傍らの一本(ひともと)のススキと戯れながら歩く、一人の酒に酔ったいい機嫌の男がいる。とそこで思いもかけず、美しいご婦人に出会う。鈴虫の羽が露に濡れたような爽やかな声で返事をして、線路の背後に横向きに立った。
 「お一人ですかい、御新(ごし)姐(ん)さん。」
 「ああ、誰も居ませんよ。」
 「鈴虫でも取りにおいでになったんですかい。」
 「まあ、然う云ったやうな事なんです。」
 そのご婦人をよく見れば、男(木挽き大工)が昔仕事をした森のすぐ隣にあった、二階家にいた人。病める夫に付き添って、東京から出養生に来ていた。実はその夫はこの春に亡くなっていたのであるが。
 「解らねえね。何うも分らねえ、ほんとうに今自分何をして居なさるんで。盗賊でもあるまいし。」
 「其の盗賊(ぬすっと)よ。」
 さて、実はこの線路の脇の土地には謂われがあって、それをまず話すと。
 だいぶ前のこと、この村に洪水があった時、村人が右往左往して後片付けをしている最中に、一人のあでやかな女性(にょしょう)が「花をあげませう、みなさん」と言って、花を配って歩いたという。村人は食べ物なら争っても欲しいところだが、お花では腹はくちくならぬと、相手にしなくて、怒鳴りつけたりして追い払った。女性はしをしをと、そこの地に花を投げなさった。そこが以降綺麗に花が咲く。女は村の背後の山、姫島の武者二人に助けられて消えた、という。
 それからきれいに花の咲く其の地の傍らに別荘が一軒建った。それは金貸しの持ち物で、その女房があくどい商売をする金歯の婦人。綺麗な花畑で人が見に来るのを幸いに、入場料をとって商売を始めた。
 東京から来た姐さんはその花の由来を聞いていて、その花の種なり、根なりを譲り受けたいと、金貸しの婆さんにお願いするが、承諾してもらえない。そのうちにその地は埋め立てて、地ならしをして屋敷地として売ってしまうという。それを聞いて姐さんはある夜忍んで行って花の根を少しだけ掘ろうとする。だが見つかって花泥棒の疑いがかかる。とそこに最終の貨物列車が通る。死骸は黒髪もなかったという。
 男があったそのご婦人は、
 「花はあそこに、……おお綺麗なこと」、と小さな鏝(こて)を持って言われる。
男はご婦人を手伝って土を掘ると、美しい花畑になっていった。
そこで男ははっと気がつく。目の前にいるのは、大鎧を着けた大薙刀を持った坊主で。姫島の弁財天の僧で、姫神様に呼ばれたような気がして駆けつけた。二人で婦人のことを話ししていと、
「月の良さに見えられたか、まことに花の女神ぢゃの。」
男は真っ青になって震えているぱかり。いまのご婦人は幻の人。姫神様。
男と坊主は金貸しの屋敷にのぼって、大薙刀を振った。「きゃっ、」と魂消える女の声。
まだこの作が書かれた明治43年には、鉄道が敷かれたばかり。夜の貨物列車は人を捕るという。鏡花が転地療養に行った逗子から帰ったときのもの。何か現代に通じる宅地開発のことが述べられているみたい。それにしても花畑は段々と無くなって行く。(2009.9.28垂澤祥夫)
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アンデスのジャガイモ
 ペルーのアンデス山地を中心としたインカ文明については、日本においても1950年代の泉靖一氏、1960年代の増田義郎氏の研究があるが、その後本格的にインカについて研究したのは、国立民族学博物館教授の山本紀夫氏である。氏の『ジャガイモとインカ帝国』(2004年、東京大学出版局)の本の中で、インカ帝国の主食糧はジャガイモであった、という説を出し、従来のトウモロコシ中心の見方に一石を投じた。そして、それより前に1992年に『インカの末裔たち』(NHKブックス)という本を出している。この本は氏の10年間にわたるインディオの村での生活を通して得た貴重な実体験に裏打ちされた書で、読んで大変おもしろかった。
 私は2009年4月に18日間のペルー旅行を行い、アンデスの山中で今も伝統文化の中で生活しているインディオを直接目にすることが出来た。僅かな日数の観光旅行だから表面的な印象しかもてないが、帰ってからこの関係の本を調べてみたら、上記のような書があり、興味を覚えて代表的な一冊として山本氏の本を読んだ。
 新大陸として発見後、南北アメリカの文化はメキシコのマヤ文明、ペルーのインカ文明に代表される。マヤ文明はマヤ文字が王の記録として石碑に残されていたり、遺跡の発掘が進んだりして、その全貌はよく解明されてきている。それに比してインカ文明には文字がなく、スペイン侵攻後徹底的に破壊されたことより(黄金がないかどうかと調べられた)よく分かっていない。それでも20世紀の始めにマチュピチュの空中都市が発見されてからは、その階段状のトウモロコシ栽培、インカ道、インカの通信手段などが解明されて少しずつ分かってきた。
 インカの都クスコは標高3300メートルの中部アンデス山地の中心にあり、インディオはさらに高い4000メートルの高地でも生活している。そんな富士山の頂上より高い地で、なぜ生活が可能であったのだろうか、と調べるのが山本氏の出発点である。それはメキシコのマヤよりか、赤道に近いこともあり、夜はマイナスの気温になるが、昼間の高地は15度前後の気温で生活し易い。そして3000メートル以上ではトウモロコシは育たないが。ジャガイモは4000メートルでも栽培が可能であり(耐寒性の品種が改良されていった)、その上チューニュというジャガイモを乾燥させて貯蔵が可能になったこともあり、それは非常時の食料としての輸送にも適した。その上、4000メートルの高地でもアンデスの6000メートル級の雪山からの雪解け水で、リャマやアルパカの家畜の成育が可能であった。これらの家畜は毛を取り、肉にして、リャマは輸送手段にも使い、そして糞は燃料にした。
 そしてなによりも特異なのは、2000メートルから4000メートルに亘ってトウモロコシとジャガイモを分けて、適地に栽培して安定した収穫があるようにしていた。そのため季節によりその高度の間を行き来して種まき、草取り、収穫をしていた。それはジャガイモの嫌がる輪作を避ける智恵でもあり、休閑地をかなり持っていた。それがまた広大な山地では可能であつた。
 トウモロコシはジャガイモと同時に栽培されていたが、それは主にチチャと呼ばれる酒にするためであり、人に対するお礼や祭りや集会には欠かせないものである。ここがメキシコのマヤ文明と違うところであり、マヤではトウモロコシが主食であった。
 アンデスのジャガイモはいま日本で栽培されているような粒の大きな品種ではなく、その芋の大きさも小さく根菜である。その後大航海時代を経てヨーロッパ大陸に移され、徐々に改良されて、いまではドイツやロシアでは主食になっている。
 このアンデスは他にもトマト、タバコ、カボチャ、トウガラシ、そしてピーナッツなどの主要な作物の故郷なのである。いかに近代文明がその恩恵を受けていることか。
 だが、最近この高地で生育されるアルパカの毛から作られるセーターなどのウール製品が注目され、インディオの社会を従来の物々交換の社会から、貨幣経済の社会に変えようとしている、と山本氏は心配している。それは現金が入り、それで買い物をするようになると、もう2000メートルを上下して苦労してまでジャガイモやトウモロコシを栽培しなくなり、インカ帝国以来の共同生活が崩壊してしまうのではないか、という心配である。それはこの高地の農業は親族、部族の助け合いでなされていた面が多く、一人ひとりが孤立していくと、もうなりたたなくなるというのである。そしてお金に翻弄されつつあるという。前は静かな村であった地が、最近は銃声が聞こえたりするという。
 私たちが旅行していた時でも、自動車が止まる地には必ずインディオの観光客相手の商売がみられ、インカデザインの織布や民芸品、アルパカの製品などが多数売られていた。この傾向がどうなるのかな、と関心がもたれる。
 私は久しぶりにおもしろい本を読むことができた。ページを捲るごとにどんなことが書かれているのか、とわくわくして読んだ。ジャガイモという我々に身近な食物を扱っていることもある。最近訪問したペルーの印象がまだ強いこともある。
ジャガイモというと、私は義母が戦時中、京都の烏丸車庫の近くの大谷大学の堅い堅いグランドで、ジャガイモを植えて飢えを凌いだという話しを思い出す。痩せた芋しかできなかったという。それでも少しは腹の足しになったのである。
私自身にも6〜7歳ごろの戦後の食糧難の時代のジャガイモの思い出はいまになっても消えない。そういう人は70歳前後の人には多いであろう。たとい水気が多く不味いジャガイモでも、その時は食べられるだけでよかった。
 アンデスは日本から遠い南半球の地であるが、その民族の祖先はヴェーリング海峡を渡ったモンゴロイドであり顔かたちは日本人に似ていて、親しみが持てる。もちろんペルーの人は日本がどこにあるのかも知らないかも知れないが。今はトヨタのカローラが日本の代名詞である。ジャガイモを仲立ちにして、これからも何かと関心をもってペルーのことを見ていこうと思う。(2009.7.9 垂澤祥夫)
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牛頭天王(ごずてんのう)
 今の祇園から清水寺にかけての鴨川の東の地域は、八坂郷と古く平安時代から呼ばれていた。ここに氏神たる八坂社があった。そもそも八坂とは神のお降りになる八段の坂で、氏子の作る神聖なる神段である。この八坂郷に祇園社が創祀されたのは貞観18年(876年)で、観慶寺(薬師堂)が建てられ、その別名をインドの釈尊の説法の地、祇園精舎に因んで祇園社といわれた。その境内の一角に感神院という神殿を建てて、天神と八王子を祀った。天神とは牛頭天王のことで疫病を消滅させてくれる神、八王子も子供を護る疫神であり、いずれも朝鮮より渡来した神であり、始めは鎮守の神、仏教の護法神であつた。ところが、薬師堂と立場が逆転して、この神の信仰が増して、その後牛頭天王の正妻婆利女(はりじょ)、一名少将井とともに三柱を祀るようになる。
 この祇園社は現在は八坂神社と言われる。それは、明治のはじめの「神仏分離」の通達と、「廃仏毀釈」により改称したもので、祭神もスサノオノミコト、クシナダヒメ、八王子である。明治政府の根本方針が天皇を中心とした神道で国を治めることであり、ここに「ごずてんのう」の「天王」が邪魔になる。そのため徹底的にこの神々は消されることになる。祇園社の神も変った。
 それではこの明治時代以前には馴染みが深く、明治以降我々に忘れ去られた牛頭天王とはどういう神か。祇園祭にたくさんの鉾や山がでる祇園会が盛大に行われるようになるのは、鎌倉末期からであるが、この祭りの意味は、疫神である牛頭天王を供応して、疫神に去ってもらうものである。この神については、「蘇民将来」の話の方がよく知られているのであるが、「備後風土記」逸文、「祇園牛頭天王御縁起」そして「牛頭天王祭文」などの伝承で記録されている。宿を貸してくれなかった巨旦(こたん)は滅ぼし、宿を貸してくれた蘇民将来は助ける。それは「蘇民将来の子孫也」という札をもっていれば助けるというものである。2001年に長岡京の発掘現場からこの木のお札が発見されて話題となった。平安京を作る前から貴族、あるいは庶民に護符として信仰されていたのである。
 そのお姿は牛頭を擁し、三面、多臂で手には鉾を持ち憤怒の相であらわされる。仏教では密教の大威徳神であり、朝鮮、中国、チベットにも足跡は辿れる。この牛頭という名前のある朝鮮や中国の地には熱病に効果のある栴檀を産したことより、信仰されたという。本地が薬師如来というのもこういう関係か。
 八坂神社がスサノオノミコトを祀っているのは、「備後風土記」にはっきりと八王子の父は武塔神(ぶとうしん)でスサノオノミコトと同じである。武塔神は牛頭天王のことである。だからといってこの牛頭天王とスサノオノミコトはまったく別の神である。異名ではない。しかし関係があるのである。
 『古今和歌集』の選者、紀貫之が仮名序で「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごめに 八重垣つくる その八重垣を」の和歌を、日本最初の和歌として記述した。紀氏はこの地を天皇から賜った一族の末であり、一族は祇園社と深い関係があった。紀貫之がスサノオノミコトに格別の崇敬を持っていて、『古今和歌集』に載せたのである。今でも八坂社でお正月に百人一首のカルタを取るのは、神が和歌をはじめて詠んだことによる。
 いま烏丸通綾小路下がるに「大政所」の社があるが、ここは以前に牛頭天王の社があつたところであり(秦氏が祀っていた)、お旅所であったが、その後お旅所は四条通に移った。さらに、もともと祇園信仰には水神としての龍神信仰が深く関わってきていて、興福寺の円如上人が春日大社の龍神を勧請した、という伝承もある。祇園の宝殿の中には、龍穴があり、とも伝承されている。婆利女は牛頭天王が南海国竜宮に赴いて妻とした竜王の娘であり、少将井殿と呼ばれるのは、冷泉通の北烏丸の東に井戸があり、そこに神輿を据えてお旅所にしたためである。もともと水信仰があつた。それは疫病の蔓延が水と関係があることが当時から人々に分かっていたためである。神輿はそこから神泉苑に行幸した。いまはお旅所は四条通りにまとめられている。この婆利采女の本地仏が十一面観音であるのも、十一面観音は水瓶を左手に持つ水の神である。
 成仏できない人間霊が怨霊となって人に災いをもたらす。それは疫病をも引き起こす。それは北野天神の菅原道真が死んでから、自分を讒言した一族を疫病で殺してしまうことより、天神信仰ができていった。祇園信仰も「祇園天神」と呼ばれたこともあり、御霊信仰が濃厚であった。それらの神は祟(たた)る神であり、人間に災厄をもたらす。あわせて、行疫神、疫病神を啓して遠ざけるために、あえて牛頭天王、蛇毒気神、八王子、大将軍などの名前もその姿もおどろおどろしさに満ちた、畏怖すべき神々を祀ったのである。「御霊」を鎮めるために、そして疫病神に通りすぎてもらうために、「御霊会」「祇園祭」は盛大に行われた。それがいまに伝えられている。
 私は白山信仰を調べている中で、白峰村に牛頭天王社があることから注意をしてみていったのである。すると、祇園社のことが分かり、2002年に発行された『祇園信仰事典』という八坂神社の発行した本に出会い、そこでは宮司さんが、「祇園の神さまは不思議な神さまである。スサノオノミコトを祭神としているが、牛頭天王とも武塔神とも称し、仏教ないし道教的色彩が濃厚である」と記している。そこには牛頭天王に関係する重要な事項をほとんど網羅していて大変参考になった。八坂神社では牛頭天王のことを特に消そうともしていない。
 さらに評論家の川村湊氏の『牛頭天王と蘇民将来伝説』(作品社)が詳しく全般について書かれていて、大部な本であるがこれを読んだ。山王信仰の牛尾山が関係する。妙見信仰とも結びつく、広隆寺の牛祭りも、摩多羅神も、毘沙門天も、赤山明神も、新羅明神も関係する。陰陽道(おんみょうどう)、宿曜道(すくようどう)、修験道とも混淆している。あるいは鐘馗様ともいわれる。こうなると何がなにやら段々と分かりにくくなるが、千数百年にわたって民衆に指示されたことも事実である。ただ、記紀神話とは異質であり、蕃神(ばんしん)であることから、いろいろの経過をたどってきた。しかし、この牛頭天王がいま祇園祭で人々の信仰に中に生きていることも重要である。(祇園祭には各町家で牛頭天王の軸を掛けて拝するところが多い。)
 また、この書には、近江の木地師の本拠地である小椋谷の村々の人々が、ほぼ毎年、名古屋にある牛頭天王を祀る津島天王社に代参を立てていたことを載せている。すると木地師の集団に「天王信仰」があったことになる。「それは京都の八坂神社ではなく、津島天王社の「檀那」として牛頭天王信仰の普及に一役買っていた」と、氏は推測されている。ここは重要な指摘であり、白山の白峰村は木地師が開いた村ではないか、という説(下出積與「北陸史学」1961.11「古代の山村の成立−加賀国白峰村の場合−」)もある。だが惟喬親王(これたかしんのう)を祖として仰ぐ木地師と牛頭天王がどう結びつくのかわからなかった。それが繋がりがあることが示唆されている。そういえば、今は廃村になった鈴鹿の榑ヶ畑(くれがはた)を歩いた時に、立派な神社があったことを思い出した。ここはスサノオノミコトを祀る村の氏神、八坂神社であるが、前は霊山権現谷にあつた牛頭天王社であった(西尾寿一『鈴鹿の山と谷 1』)。榑ヶ畑が木地師の開いた集落であれば、ここでも木地師と牛頭天王は結びつく。このように、白山山麓の白峰村(いまは白山市、それ以前は牛首村)と牛頭天王との関係が少しずつほぐれてくる。
私は子供のころ。信州上田に住んでいて、そこには国分寺があり、そこで「蘇民将来の子孫也」と書かれた六角形の木の札が売られていて、それをよく覚えている。何の意味なのかちっとも分からなかったが、今からみると 当時でもまだこの信仰は生きていた。いまでも八坂神社でこのお札を分けてもらえる。また6月末の「夏越(なごし)の払い」で茅の輪をくぐるのは、この牛頭天王の謂われによる。すなわち『備後風土記』逸文に「後の世に疫気(えやみ)あらば、汝、蘇民将来の子孫といひて、茅の輪をもちて腰に着けたる人は免れなむ」とある。
明治政府は修験道の廃止をしようとして、失敗しその後修験道は復活した。神仏分離はその後の歴史の中ではまた旧に復しているのが多い。牛頭天王もしかりである。消された異神たちの復活がなされようとしているのであろうか。それは混迷する現代社会の求めているものの反映とも思われるが、さてどうであろう。(2009.6.24  垂澤祥夫)
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牛首村の袖乞(しゅうこつ)について
 白山、牛首村において、山岸、木戸両家と並んで御三家といわれた織田利太郎家に「白山麓拾八ヶ村留帖」という古文書が残されている。拾八ヶ村が天領となった寛文8年(1668年)からの村の由緒、来歴、歴史的事項に関する記録であり、このあたりの歴史を調べるには必読の史料となっている。
 その中に、牛首村には480軒の戸数があり、うち100軒は年間を通して村に居住して近くの田畑を耕し、山仕事などに従事している。200軒は春八十八夜、一家を引き連れて出作小屋に移り、冬10月末に村へ舞い戻る。残り180軒は年間を通じて奥山の小屋に居住し、年一、二度は村へ来るが、女、子どもは牛首の村を知らない者もいる、と記されている。そして村の人の中には「貧乏態の者は、冬分は大半、袖に乞にまかり出て」と記す。
昔から「上方筋には牛首村乞食と申しているのは隠すところのない」事実である、と認めている。しかし、村人をしごく大切にしているので、一人として、他所の地へ引っ越す者はいない、とも書き加えている。
このように自らの村の記録の中に、あまり知られたくない袖乞(しゅうこつ)の事実、すなわち、乞食に歩くことを載せているのは注目される。この事実は他の文書にも見られ、例えばお役人に対する租税の米の免除などの依頼書にもあり、村の窮状を訴える目的があったとはいえ、偽りの記述ではなかった。
 それも、明治時代になり「白峰村史」が発行された34年には、公式の記録としては残されていない。明治政府の近代国家としての乞食取締りという、時代の風潮に沿ったものであろうか。
 さて、ここでの主題は、なぜ牛首村の住民は、冬場主に越前方面に続けて乞食に出ることができたのか、という点である。
 それでは、始めに柳田國男の「乞食」に対する見方を一般論としてみてみる。柳田は次のように述べている。「乞食に対する我々の思想は近世一変せり。乞食はもと明らかに壱個の職業にして、……一部略……。仏教のほうの功徳のために恵みを施すという思想段々広く行われ、終には現代の慈善のごときものとなり」「ふるくは“ほいと”と呼ばれ、“ほぐ”とは祝すること、「ほかひ」とは寿詞を陳べること、そして、何か縁起の善い文句を唱えた。それで一つの職業であった」(「所謂特殊部落の種類」)。
 この一つの職業であったということは、今の私たちが考えている乞食に対する考えとは基本的に違っている。この点をまず押さえておく必要がある。
 この牛首村の袖乞行動については、すでに、『青嶺』において西尾寿一氏が「謎の牛首村と豊原禅定道」(1996年7月〜9月号)のなかで明確にその続けられた理由を述べている。
それは、夏場の白山登山への援助に対する反対給付の意味あいが強いのではないかとしている。それをいまは余り注目されていない、「豊原禅定道」との関連で指摘している。詳細はその号を読んでいただきたいが、私はそれが頭にあったこともあり、関心をもっていた。
 最近、民俗学者の論文を読む機会があり、改めて考えさせられた。私の考えは最後に記述するが、まず、この論文に当ってみたい。それは平成6年に、吉川弘文館発行の『日本歴史民俗論集8、漂白の民俗文化』の中に、千葉徳爾、菅根幸裕両氏の「白山麓山村住民の袖乞慣行」(予察)が載っている。この論文は昭和50年(1975)に書かれていて、その後、1983年に千葉
徳爾、三枝幸裕氏の「中部日本白山麓住民の季節的放浪慣行―牛首地区の事例を中心にー」という論文がある。(1983年、「国立民族学博物館研究報告」8号2巻)
 私はこの二つの論文から、この牛首村の袖乞のことが、学問の対象になっていることを知り、感銘した。学問の種はどんな分野においても尽きることはない。まず、ざっとこの論文の内容を紹介する。
 白山麓の山村は冬場積雪が多く、副業となる労働も少なく、出稼ぎにでるか、平野部に袖乞に出かけて冬を過ごす者が少なくなかった。これが牛首乞食といわれる者である。一般に乞食には何らかの反対給付、例えば芸能や祝詞、神霊の加護を求める祈祷などがついて廻るものであるが、牛首乞食はそれらの反対給付は一切ないのが特徴である。それにもかかわらず、平野部の人は冬の初めには乞食が来ることを予想して、納屋を片付け、餅や米を準備していた、と聞き取りが行われている。
 たいがい母親と幼い子どもとの二人連れであり、一月から三月頃までいて、寝場所は橋の下、地蔵堂、農家の馬やの隅で、よく知った農家では部屋の一間を借りることもあったという。特に牛首乞食は毎年同じ家に厄介になっていたという。
 そして平野部の聞き取りでは、牛首は冬場の雪で埋まり食事も大変だから貸す。他の乞食にはそんなことはしない。牛首乞食だけは大切にしていたという村もある。牛首者も白山信仰の宣布とかそういうものは一切なく、ただ貰って歩いたという。
 どうしてそんなことが可能だったかというと、一つは四国巡拝のお接待と同じで施しをすると、自分が幸せになる。もう一つは牛首は異郷のイメージがあり、一種の異郷人歓待に近い心持で優遇したのではないか、とみている。
 一方牛首の人々は、食糧不足の止むに止まれずの解決策ではあるが、さらに、当時農作物の不作、虫害は悪霊、怨霊の仕業であり、それの解決は、多数の人や、神仏との共食(きょうしょく)の力によって退けられる、と考えていて、そのため、乞食に歩いた。
 主に道路の利便さから、牛首の人は勝山に出て、越前平野を廻った。そのため加賀の金沢方面には出なかった。その越前の平野部の農家の人も、どこの地区の乞食でも歓迎したのではなく、その出身地を尋ねて、他所(よそ)の地の人であれば断って何も与えなかったという。ここに、何か牛首村の人と、施しをする人とを結ぶものかあったのかもしれない。
 乞食は主に江戸時代に行われ、明治のはじめまで残っていたが、30年以後は行われなくなった。そのため、調査した両氏の聞き取りも、親から聞いたとか、子どものころの話ではっきりしない、とか制約も多かったようである。両氏は、結論は出しにくいが、白山信仰と何らかの関係があったのではないか、と推測されている。
 以上が論文の内容である。施しが自分の徳に結びつくのであれば、牛首以外の人にも与えたらいいようなものであるが、それがなされず、牛首者は反対給付をしないのに、施しが得られた。なぜであろうか。ここからが私の推測である。
 そもそも、牛首村の発祥は、『白峰村史』にも陳べられているように、泰澄大師が白山開山のおり、この村に立ち寄り、牛頭天王を祀り、ここを牛頭と名づけたのを村人が神の名と同じでは恐れ多いとして、牛首に改めたという。この牛頭天王を祀るところが、他の白山信仰の村、例えば尾添川の尾添集落などは白山比咋神を祀る、のとは違うところである。
 牛頭天王は京都の八坂神社に祀られるようになってから、その疫病退散のご利益で全国に名を知られた。牛首村では当初から焼畑農業を営んでいたが、そのアワ、ヒエなどの虫害は村の存亡にかかわる一大事である。そのため、人に対する疫病とともに、作物に対する虫害を防いでくれる、牛頭天王を尊崇した。
 平野の人は、こう考えたのではないだろうか。すなわち牛首村の人に冷たく当ると、牛頭天王の祟りを受ける。すなわち疫病や稲の病虫害が発生する。それはかなわない。そのため牛頭天王を祀っている牛首の者は、他の地域の乞食とははっきりと区別したのではないか。
 さらに、江戸時代になると、鶴来にある白山神社の威光や、越前平泉寺の威光が一向一揆の影響で衰え、相対的に牛首村と美濃の長滝寺の勢力が増す。牛首村の文書には、惣(そう)神主、白山社家、白山神主などの名称を使うようになる。すなわち泰澄大師お授けの村であり、自分らは別格である、と白山信仰で主張するようになる。そうなると、自然とそのことが知られるようになり、白山の神に仕える神主様とみた。だから、単なる乞食とは見なかった。そう推測がなされる。
 これである。この二つのことから、牛首の袖乞は続けることが出来た。ただし、これは越前平野に限っていて、加賀では、やはり鶴来の白山比咋の地元であり、牛頭天王の威力はそれほど及ばなかった。だから牛首の人は大部分、勝山から越前平野に出た。
 また、牛首村の中で、子供が食べるものが無くなると、村の中を乞食して歩いたという。その時にはちゃんと食物が与えられ、共同して助け合ったという。だから、どんなに生活が厳しくても他所の村に移る人はいなかった。これなどは、やはり、白山信仰と牛頭天王信仰で結ばれた、精神的な結びつきが強かったためではないだろうか。白山麓の厳しい生活では、奥深い山地で他の社会と離れていればいるほど、仲間意識はつよく、堅い結束をはかった。そのことは平野部の人も知っていた。だからある種の親密感と恐れを持っていたのかもしれない。

 謎の牛首村、牛頭天王、これがキーポイントである。(2009.4.10垂澤祥夫)
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白山 鳩ヶ湯道
 越の大徳泰澄の白山開山のルートは、打波川に沿って三ノ峰に登り、別山から御前峰を目指したのではないかと、以前に書いた。その根拠は、船頭の子であり、海運に関係する臥行者や浄定行者の弟子を持っていた泰澄は、日本海より水の流れを辿り、まず九頭竜川を遡り、次に白山に近い支流の打波川をつめて行ったのではないかという推論であった。それを書いたときにははっきりした根拠があったわけではなかったが、今回それを裏付ける伝承を知った。
 一つは鳩ヶ湯温泉であり、鳩が湯浴みするところから、泰澄が発見されたという伝えである。これは、加賀禅定道の中宮温泉、別名を鳩ノ湯というのと同じである。
 もう一つは、打波川上部の集落上小池にある刈込池であり、この池には泰澄が白山への登山をするときに、毒蛇千匹をこの池に封じ込めたというもの。山頂の千蛇ヶ池と同じである。
 さらにこの登山道の尾根に出た地にある剣ヶ岩には、泰澄が刈込池に封じ込んだ蛇が逃げ出さないように、剣を突き立てたといわれる。この岩の剣が湖面に映ると蛇は逃げることができない。
 このように泰澄の伝承が伝わり、当初の開山との関係の深かったことをみせてくれる。この小池の人が今の美濃禅定道のルートの一の峰、二の峰、三の峰という呼び名を、目の前に拡がる稜線を見てつけたという。また、願教寺山の山名も、この打波川に添って、平泉寺の末寺の願教寺があったことよりついた名前である。
 福井県の白山研究家、上杉喜寿氏の『白山』(ビジョン北陸)に寄れば、「平泉寺全盛のときには、越前馬場の支配はもちろんであったが、九頭竜川右岸伝いに打波谷に入り、三の峰から別山を経由して白山に登拝し、また越前馬場から登って、下山ルートとして、ここを利用したようだ」と記している。このルートが平泉寺公認のルートであったということは、あるいは越前馬場と同じぐらい古い道であったのかもしれない。
 三馬場のことは古く『白山記』に出てくることから、白山登山はこの三ルートしかなかったかのように思われ勝ちであるが、例えば、飛騨の人は今の平瀬道や尾上郷道を、加賀の人は、中宮道、岩間道、そして北縦走路を歩いた。この北縦走路は修験の道であり途中の笈ヶ岳からは経筒が出土している。
 このように、この打波ルートは泰澄の伝承も伝わり、その後それを引き継いで白山登山のルートになっていることもあり、あるいは泰澄白山開山の始めて辿った道、としてみてもよいのではないかと思う。
 ここにある小池の集落は上、下、奥の三箇所に分かれるが、いずれも牛首村、風嵐村の人の出村(分村)であり、焼畑農業が盛んに行われた地である。ご存知のように、牛首、風嵐には泰澄と結びつく開村の伝承がある。この今の加越国境の杉峠を越えて、西と東の両側にあった集落は泰澄の伝承を持っているのである。確かに私もこの国境上の赤兎岳に登って、そこから見る白山の山容の素晴らしさには、今にも伏し拝みたくなるような感じを持った。
 水源を何処までも遡ると、剣ヶ岩に出て、そこから視界のいい稜線を白山を見ながら登る。すると自然に別山から御前峰にたどり着く。一番理にかなった登り方である。このようにみてきて、私は泰澄白山開山のルートはこの打波川ではないかと、確信をもつにいたった。            (2009.3.30垂澤祥夫)
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白峰村の白山信仰
 江戸中期安永2年(1773)に発刊された草双紙に、建部(たけべ)綾(あや)足(たり)作『本朝水滸伝』がある。自ずと知られる中国の小説『水滸伝』の翻案作で、構想を奈良時代に置いている。その後の江戸の戯作者、馬琴や山東京伝、上田秋声などの読み本に大きな影響を与えた。
 この『本朝水滸伝』は孝謙天皇の治世下、実在した人物が実名で登場する。そして歴史上の事件を取り上げている。道鏡の政界進出、恵美押(えみのおし)勝(かつ)の反乱などを舞台とする。だが事件の内容については史実とまったく違う。大きな筋書きは古代の天皇政権側と、亡命者の側との戦いで、ここに白山の山岳民(牛首、風嵐の民であろう)、白山の開山をはたした泰澄和尚が登場するので興味を引く。しかも泰澄は反乱軍に見方して、米、塩、豆などを調達させる。
この物語について、専門家は「山岳民、化外民、異族らを結集した恵美押勝らの亡命者の辺境蜂起は、実は辺境の山の神々、いわば山中他界の神々の蜂起である」と述べている(高田衛「亡命そして蜂起へ向う物語」『文学』昭和59.4)。この主題を別の言葉で言えば、<王化>の普遍化とそれに対抗する<化外>の対立、すなわち<中央>と<辺境>の対立であった。この辺境の地として白山、伊吹山、信州碓(うす)日(い)などが出てきて、反逆者の根拠地になる。
 この書は前、後五十条で未完に終わった。五十一条から七十条までの「目録」だけが残っている。それ以後は出版されなかった。なんといっても、蝦夷、熊襲、土蜘蛛のイメージがある反乱軍が活躍するのである。今から思えばよくこの五十条まででも出版できたのは驚きである。江戸市民の喝采を浴びて支持されたからであろうか。まだ江戸時代になっても、被征服民の長い間の怨念に人々が共感しえたのであろうか。判官贔屓である。
 さて本編でまずこの『本朝水滸伝』を出したのは、白山山麓白峰村(今は合併して白山市)の白山信仰を辿っていて関係が出てきたためである。『白峰村史』(昭和37年、上、下2巻)によれば、牛首村で最古の歴史を持つ由緒ある寺、林西寺にある「林西寺縁起」に次のように書かれている。関係箇所をごく簡単に述べる。「恵美押勝は藤原仲麻呂で鎌足の直系の名門、孝謙天皇の時代に政権を掌握し、太政大臣になる。ところが道鏡が天皇の病気を直したことより急速に力をつけ、押勝がその後勅勘を受けて、坂上刈田麿に近江高島で討たれて滅ぶ。が入水したと見せかけて、越前に逃れ越智山で泰澄大師に逢って出家し、大師の曰く、先年白山山麓において一宇の薬師堂を創立し、そのところを牛頭という。その地は人跡絶え究竟幽邃の地で、そこに至り白山神事をつかさどり生涯を終えるべしと。恵美押勝はこの地に移り村の西の林の中にこの寺を建てた。恵美押勝は前から越前を領していて、それでここに逃れたのである。」
 ここから読み取れることは、牛首村は恵美押勝一統が泰澄大師の「お授け」を受けて開いた地であり、牛頭と言う名前(村はその後、牛頭(ごず)の神の名前では恐れ多いとして牛首(うしくび)に名前を替えた、という古老の伝承がある)は泰澄がつけ、薬師堂も大師が創立した。
 もちろんこれは縁起に基づくもので、縁起は江戸末期の書写であり、はたして村が718年に成立したものかどうかの証はない。林西寺は天台宗であったが、文明年間(1471~1475)に真宗大谷派に転じている。明治のはじめに白山の山頂にあった仏像、白山下山仏を収容していることで知られる。
 しかし当然のことながら、『本朝水滸伝』が書かれる前に村の縁起はできていて、『本朝水滸伝』を元に縁起ができたのではない。逆で『本朝水滸伝』の作者はその書き上げるときに、この村の歴史について、その伝承を把握して、この作に移しているのである。それだけよく知られた歴史上の出来事であったのであろうか。
 もう一つの事実、今度は神社である。牛首村の一番古い神社は林西寺に接している牛首社(いまは八坂神社という)である。伝承によれば、泰澄大師が養老2年(718)に牛首開村のときに牛頭(ごず)天王(てんのう)を祀り、本地の薬師如来を安置して鎮護とした。前の縁起に言う薬師堂である。いまの薬師如来の仏像は後世のものである。また薬師を守る十二神将は泰澄作と伝えられているが、鎌倉時代のものである。明治になり、廃仏棄釈のときに牛頭天王を祀る京都の祇園社の例に倣い、八坂社と改め、牛頭天王の垂迹神、スサノオノミコトを祭神とした。(『白峰村史』)
 京都の八坂神社が牛頭天王を祀ったのは貞観18年(876)であり、それの勧請であれば養老まで遡るのはやや不自然である。泰澄大師は八坂の祇園社と関係なく牛頭天王を祀ったのであろう。しかし、泰澄といえば白山山頂で十一面観音を感得して祀っている。薬師如来を祀ったということは、やや合わない点ではあるが、仏教修行者としてみればちっともおかしくはない。それは、日本に仏教が伝来して最も民衆に分かり易い仏像は、病気を直してくれる薬師如来と、現世利益の仏でどこにいても観音菩薩という祈りの声を聞き分けて助けに来てくれる観音菩薩、そして地蔵菩薩であった。  この牛首村については、「青嶺」平成8年(1996)に西尾寿一氏が「謎の牛首村と白山豊原禅定道」の題で執筆していて、いまこれを上回るものはない。私はこの作でふれていない観点から、もういちど山岳信仰、白山信仰の点でみていきたいと思うのである。
 それでは牛頭天王とはどういう神であろうか。辞書を引けば、インドの祇園社の守護神で、薬師如来の垂迹。頭上に牛の頭を持つ忿怒(ふんぬ)相で表わされる。武塔神とも呼ばれ、我が国では蘇民請来の伝説ともからみあっている。平安時代にはスサノオノミコトと同一神であるといわれている。この天王は姫路市の北にある広(ひろ)峰(みね)神社(じんじゃ)の祭神で、疫病の病原菌を消去する神として知られていた。平安時代京の都で疫病がはやったときに、八坂社に勧請された。この時代天然痘などの大流行は神の祟(たた)りとみられ、疫菌が活躍するためと考えられた。そのためその疫病を鎮めるために神々を祭祀したり、地蔵を置いたりした(六地蔵のはじめ)。しかしそれでも収まらないと、人々はこの疫神をはるかに越える神に鎮護を願った。その神を御霊(ごりょう)杜と呼んだ。そのとき祇園の御霊会(ごりょうえ)は種々の芸能をして有名になった。それは牛頭天王の力とみられた。ここからいまに伝わる祇園祭がおこなわれているのである。
 泰澄大師の遷化は神護景雲元年(767)で、恵美押勝の乱は764年であり、年代的には合っている。恵美押勝自身でなくとも、その残党がここに移り住んだということは、自分の領地であり、しかもそれまで人の寄り付かない僻地であればありうることである。私は北アルプス薬師岳の麓の有峰が平家の落人の村で、薬師様に祈っていたということを思い出す。そこも今でこそダムが出来て車で行けるが、当時であればそれは他の村から歩いて10時間以上かかつたであろう。この牛首の集落も、越前勝山まで六里、加賀鶴来まで九里であり、一日仕事でなければ行き着けない。隠れ家としては申し分ない地である。  民俗学の成果によれば、いちど鎮守の神として決めた神様はなかなか直ぐには他の神に代わることはないという。牛首村で牛頭天王を祀ってきたことはやはり最初からとみていいのではないか。それがたとい伝承のように奈良時代まで遡れなくても、ここの集落が西尾氏の述べるように木地師、歩き筋の人が入ったということであれば、都で評判の祇園社の神を勧請することは十分ありえることである。情報の伝達では木地屋は最適である。逆にここに牛頭天王が祀られているということは、木地師の進出を証するものかもしれない。
(行為の発生原因は、その後の継続の原因にはならない、ということもいわれる。木地屋が移り住んだとしても、その後は焼畑農業に移行したことも十分考えられる)。牛頭天王だから一概に、白山信仰と関係ない神だと見る必要もない。鎮守の神とはそういうものであろう。
 それは同じ白山信仰でも、手取川にある例えば佐羅宮は毘沙門天を本地とし中宮の守護神であり、白山各社の禅師権現は地主神であり入山する行者の守護神であった。鶴来の金剣宮は本地倶利伽羅明王で、もとは金属の精錬ないし刀鍛冶に関係するのではないかと思われる。以上は「白山信仰と美術」(井上鋭夫「仏教芸術」81号昭和46年)にいずれも元はその土地の地主神であり、それが白山信仰の隆盛とともに、本宮四社、中宮三社という体系の中に組み込まれていった、と詳述されている。さらに「山頂付近のいろいろの仏教遺跡からみて、御前岳には、十一面観音ばかりでなく、地獄もあり、阿弥陀・薬師・不動・地蔵などの諸仏神の信仰があったことが知られる」、と井上氏は述べる。ということは、薬師様を祀っていてもちっともおかしくない。
 話をすこし変えて考察する。もともと越の地方は越(こし)蝦夷(えみし)といわれるように、大和政権からみれば”まつろわぬ”民の国である。蝦夷といえば東北から北海道を指し、またすぐアイヌ民族を思い描くが、もともと畿内からはずれれば、少し外れていくとそこはどこも夷人(いじん)の地なのである。越もしかりである。この夷人に対する同化政策として、饗宴、賑給(しんきゅう)(ほどこし)、叙位位階、賜(し)姓(せい)、仏教の普及、農業指導などがあったという。これを知って、人を懐柔しようとするときにする策は今とちっともかわっていないと思っておかしかった。
 このうち例えば位階は山や神社についても行われた。出羽の鳥海山は噴火のたびに位階が上った。白山についてみると、鶴来の白山比咋神社は仁寿三年(853)に従三位が授けられ、永治元年(1141)に正一位(『源平盛衰記』)に進んでいる。その地域でこれはと思う神社には位階を授け、中央集権の秩序のなかに組み込んでいった。越前の平泉寺は「神名帳」に名前はないが、美濃長滝寺は小白山(おしらやま)(別山)を祀り正四位が授けられた(「郡上郡史」)。この別山の神は元は御前峰の地主神であったが別山に移したという言い伝えがある(「白山記」)。
 白山信仰は加賀、越前、美濃で独自に発展して、その後泰澄大師による「泰澄和尚伝」や「白山記」などで泰澄のもとに統一された。そのために三箇所で別のことを伝承してきていることがありやや複雑である。いまその神仏習合以前の神を見ようと思う。
加賀では、三箇所といっても別山は加賀からは見えないこともあり、御前峰と大汝峰、それに剣ヶ峰である。御前峰は白山比咋の神で、大汝はオオナムチの神である。鶴来の白山比咋神社が神名帳にのっていることもあり、そこを本宮といい、禅定の本宮であるとみる。すなわち白山比咋神は単なる手取川の水の神ではなく、白山御前峰の本宮なのであると主張する。オオナムチの神は記紀に出てくる大国主命の別名で国つ神の大本である。山の山名そのものである。「泰澄和尚伝」にでてこない、剣ヶ峰がでてくるのは、加賀側では剣ヶ峰が主要三山の一つであり、金剣宮の奥宮とみられている。これは別山が加賀側からは陰になって見えないためである。
 越前側では、御前峰はただ白山の神である。泰澄を誘ったのは貴女であり女神とは見られていたが加賀の白山比咋ではない。そのもとは、九頭竜川の河川の名が示すように水神で、水に関わる龍女信仰である。大汝は変らず、別山は小白山でこれも美濃の見方と変らない。
美濃側では小白山すなわち別山が中心であり、小白山という地主神である。
以上の見方を泰澄以後の神仏習合では、御前峰は妙理大権現、大汝は大己貴(オオナムチ)、別山は小白山大行事となる。本地は十一面観音、阿弥陀、聖観音である。大行事とは比叡山山王権現にも祀られる神で、護法神、神務補佐行事貫主である。ここに妙理大権現(菩薩名では妙理大菩薩)という名前が出てくる。『元亨釈書』、『泰澄和尚伝』『白山記』ともに「われはイザナギノミコト(またはイザナミノミコト)、今は妙理大菩薩と号す」と貴女から告げられる。これである。
 加賀では白山比咋という名前があるのに、神社の蔵する「白山記」でも妙理大権現という名で表示されている。それは当然に同一であるという前提のもとにである。どうもこれは十一面観音を山上に祀るために、新しく作り出された神であるかもしれない。すなわち三箇所での別々の呼び名を一つに纏める必要があった。それも比叡山の山王権現の影響のもとに作られた。というのは大行事という名前を使っていることからも分かる。(平泉寺が延暦寺の末寺になったのは、久安2年(1146年)である)。新しくつくられたために、従来の神を別山に移したのである。これが前からの神名帳に載る「白山比咋神」であるならば、全て統一されてすっきりするのであるが、そうはならなかった。これは泰澄が越前の越智山で修行して平泉寺から白山を開山したということから、もとになる「泰澄和尚伝」が越前中心に作られている。そのために加賀の名前は使わなくて、新しい神の名前がつくられた。(「白山三所権現と六所王子」山岸 共氏の論を参考にした)
 さてここで、夷人を手なづけるもう一つの方策に仏教の奨励がある。白山信仰はまさにその神仏習合の走りであり、泰澄大師のはたした役割は大きいといわれる。本地垂迹説の一般化によって、泰澄開山に副う形での尊厳がはかられた。白山信仰も泰澄あって初めて都に知られるようになった。その泰澄大師であるが、不思議なことに中央の歴史書にはその名が出てこない。それにしては伝記では、天皇の病を治したり、疱瘡の伝染をふせいだり、神融大師の称号を頂いたりと活躍は華々しい。しかも時の高僧といわれる道昭、行基、玄ムと会っている。どうもこの辺が解せない。地元の修験者、験力者として有名であって白山で修行したことは分かるが、都での一連の活躍は、どうみても出来すぎている。多分、あとからの付加があったのではないか。何から何まで揃いすぎているのである。実在の人物ではあろうが、史書に名前が出ないのが気になる。
だが、その後の白山信仰の推移は白山と言えば泰澄、泰澄といえば十一面観音となり、白山信仰は広く知られるようになる。そもそも「泰澄和尚伝」は天徳2年(958)にできたものである。それの写本は平泉本、金沢文庫本とか伝承されてきている。しかしそれとても、泰澄の死後(767)200年近くへだたっている。どこまでが史実であるかは闇の中である。
 さて、ここで牛首村の白山信仰を考えてみる。すでに下出積與氏が「白峰村史」で述べているが、「伝承での泰澄との繋がりは間接的であり、社寺の縁起、仏像などからは、泰澄の白山信仰に関係する十一面観音とか白山神とかがほとんどなく、牛頭天王、薬師如来信仰であった。そのためこの村の成立は鎌倉時代に白山信仰とは直接の関係をもたずに成立した。しかしそれは直接に加賀禅定道、越前禅定道と関係のなかった牛首、風嵐の村であり、白峰村の中でも越前禅定道に関係する、三谷、市の瀬ははっきりしない、と白峰村でも二つに分けて考えられる」。だが残念なことに三谷は廃村となり、市之瀬の集落も洪水で流されて文化財として残っているのは林西寺に移した薬師如来だけであり、詳しいことはわからない。
 いまこの白峰村に残る芸能に「かんこ踊」がある。元は河内谷の市之瀬地方のもの。泰澄が地元の人を連れて登山したが何時までたっても帰らない。そこで迎えに行くと、修行を積んだ泰澄の神々しい姿が峰に現れたので、その姿を拝した人々は歓声をあげ手を振り足を踏み鳴らして、カンコ(蚊遣火)を打ち振り歓喜の踊りをした。これが起源である。
 川口久雄氏の『山岳曼荼羅の世界』に加藤政則採取のかんこ踊りの元唄がのっている。「河内の谷は朝寒いとこじゃ 御前(ごぜん)の風を吹き降ろす 向うの山に煙が見える いねや出手みや かすみか霧か 御前の山が燃えるのか 御前の焼けの煙とあらば のの(祖父)の手を引き んなば(幼児)はおぶせ そしておんず(物陰)のうら山へ」
 ここにもでてくるが、白山は活火山であり、たびたび焼けていた。歴史上の記録では、1042年の爆発(翠ヶ池出現、長久の活動)、1177年、1239年、1547年、1548年、1554年(天文の活動)などかなり爆発している(『尾口村史』第一巻)。それであればたといその村の設立に直接白山信仰のことが出てこなくても、常にこの村の人々は白山に対する山岳信仰を持っていたといえる。歴史書に出てくる平野や海上の民の信仰であった白山神仰は、この山の民の神としては、少しちがっていたであろう。すなわち焼畑と、山での猟や山菜採集で生活している村人を助けてくれる白山の神である。加賀平野、あるいは越前平野から眺める白山信仰と、白山直下の山麓の村の人々の白山信仰とはおのずから異なっている。あるいは、泰澄以前の縄文の時代から(遺跡はまだ発掘されていないが)ここに住んでいた人は、活火山白山に対する山岳信仰、山の神信仰は持っていたとおもわれる。産土神、地主神が違っていても、そこに白山信仰がなかったということにはならない。
 江戸時代、牛首村の文書には、いくたびかの争論で、惣(そう)神主(かんぬし)、白山社家(しゃけ)、白山神主(かんぬし)という書き方をしている。これは平泉寺の持つ別当、神主の名前とは別の表示で、それで山頂の宮の造営する根拠(杣取権)にしたり、守り札や牛王札を出したり、あるいは賽銭を徴及したりする裏付としている。これは両村が「白山お庭のうちと泰澄大師がお授けの地で、ご神体を護る権利が与えられた」、というものである。(「白峰村史」)
 考えてみれば、これほどはっきりした山岳信仰、白山信仰はないものであり、これを今まで言われている白山信仰と別の「もう一つの白山信仰」と私は思いたい。白山比咋とか、十一面観音とか、白山妙理菩薩とか、平泉寺とか、本宮、中宮、長滝寺などとは別の、純粋な山岳信仰のひとつ白山信仰である。それは山の神に対する尊敬であり、恐れであり、祈りである。牛頭天王を祀る人々の白山信仰である。 たとえ村の成立が泰澄大師以降であっても、その信仰の姿は、あるいは初期の山岳崇拝の姿を示しているのではないか。それが継続されてきた。神仏習合以前の山岳民の持った純粋な山の神信仰である。それが泰澄と結びついた伝承として残ってきたのである。ここでの泰澄は都で活躍する以前の山岳修行者の泰澄である。
加賀、越前、美濃の三馬場が開かれたとされるのは、天長9年(832)であり、縁起ではこれ以前に山の民が村を開いていた。それは恵美押勝の一統であったかもしれない。私はいままでに出来上がった三つの禅定道を中心とした白山信仰とは別の、それとは離れて白山信仰を考えてみたいのである。それは西尾氏の豊原禅定道の取り上げ方とも一致する。
 白山争論といわれる揉め事は、白峰の牛首村、風嵐村が力をつけてからである。最初は手取川の尾添村との争い、その次は天領時代の平泉寺との争い、そこには独自の白山信仰を基にした主張がある。それは単に経済的なものばかりでなく、独自の泰澄から受け継いだ白山信仰が拠り所であった。文書にも出てくるが、冬には「白山乞食」とか「牛首者」とかいわれる乞食の旅に出なければならないほど自然環境の厳しい村が、長きにわたり存続し、独自の文化を維持できたのは、共通の信仰、すなわち牛頭天王への信仰、白山信仰があったからであり、信仰の持つ精神的な強さがあったからではないだろうか。それが、明治になり神仏分離、廃仏棄釈のときに、山頂にあった十一面観音、阿弥陀仏、聖観音を含む下山仏を白峰村の林西寺に引き取ったのも、長い間の白山信仰があればこそである。(大汝峰およびその付近に安置されていた仏体は尾添(おぞう)の密谷家にある。)
 牛首、風嵐を中心とした白山の山深い懐に懐かれた白山信仰は、江戸時代の草双紙の作者まで動かして、いまに伝えられている。もう一つの白山信仰として、中央に囲い込まれない以前の地元の民の信仰として、十分評価する必要があるのではないか、と私は思う。実際に焼畑に伴う山の神信仰の民俗的な把握が出来て、その裏付けができればいいが、まだそこまでの資料にであっていない。いまはここまでの文とする。
 白山信仰は越蝦夷の辺境の民の信仰であった。それが泰澄により、中央の神々の中に組み込まれていった。しかし、そうなっていっても、牛首村の人による信仰が独自に残されていた。それは平野の民、海の民とは違うものである。あるいはこのことを手がかりとして、白山信仰の別の面を考えるヒントになるのかもしれない。  (2009.2.27垂澤祥夫)
追伸1、最後にこの『本朝水滸伝』を読んで影響を受けた作者の中に、明治、大正、昭和と活躍した加賀の人、泉鏡花がある。鏡花の明治36年から37年にかけて発表された『風流線』、『続風流線』である。笠原伸夫氏は「水滸伝の系譜―『風流線』までー」(『論集 泉鏡花』有精堂)において、「建部綾足の『本朝水滸伝』のもつ反逆の情意と神話的構想力の方向性が、『風流線』の深奥を流れている感情ときわめて似ている」と指摘する。
ここにまた私の好きな鏡花が登場するのである。これは格好の「鏡花と白山信仰」のテーマである。また、勉強する楽しみが増えた。
追伸2.『神道集』「祇園大明神事」には、
 「祇園大明神……ご本地は男体は薬師如来、女体は十一面云々」とある。十一面
  観音が牛頭天王の本地として関係してくれば、泰澄との関連も出てくる。
 参考のために記す
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立山信仰
 『万葉集』にある越中守大伴家持(おおともやかもち)の立山讃歌、「太刀山(たちやま)に降りおける雪を常夏に見れども飽かずかむからならし」はよく知られている。立山(たてやま)といまは発音されているが、『万葉集』の表記は「多知(たち)夜(や)麻(ま)」でありタチヤマと読む。「かむからならし」は「神さまがお住いになる」という意味である。大和三山、三輪山、比叡山の例を出すまでもなく、あるいは三名山といわれる富士山、白山、立山はみな神体山である。富士山については同じ万葉集で山部赤人が「天土(あめつち)の分れし時ゆ、神さびて高く貴(たふと)き」と詠んだ。白山は白山比咋(しらやまひめ)の神の領(うしは)く山である。日本人が古代からいや縄文時代から持ち続けてきている、山岳信仰と、雪に対する清浄感がこの三名山を特別なものにした。常夏にも雪が残っている清浄な山は、神々の住いにふさわしい。
 この「たちやま」の意味は、「太刀(たち)の峰」のように3000メートル級の山々が聳えているから。あるいは柳田國男の解釈はタチヤマは「顕(た)ち山」、すなわち神の顕現する山の意味であるという。また、平安時代末期には、人を寄せ付けない、断(だん)ずる山として、「断(た)ち山」と書かれた。立山は一峰を指すのではなく、浄土山、雄山、大汝山、富士の折立、別山、そして剱岳、大日岳を含めた連峰である。
 それではこの立山神とはどのような神であろうか。立山に関する最古の文献である
『三代実録』(901年撰)には、清和天皇貞観5年(863年)に「越中国雄山神社に正五位上」を授与している。ここにはじめて雄(お)山(やま)神が出てくる。『延喜式神名帳』には越中国34座のうち、新川郡7座の一つに雄山神社が記載されている。だが専門家の説では、これ以降江戸中期まで立山権現、立山大菩薩という神号はあるが、雄山神という名は出てこない。江戸時代の絵図面でも、「立山」、「立山御前」の山名はあるが雄山と書いたものはなく、山頂の神社名も「峰(みね)本社(ほんしゃ)」「権現堂」「御前堂」となっている、という。岩峅、芦峅の地元の立山信仰の拠り所としている「立山縁起」でも、「立山権現」となっていて雄山神ではない。このことより、この平安時代の文献の雄山神と立山神とは別ではないか、という説もあるようである。が、いまのところはっきり別の神であるとも言えず、やはりこの最古の文献に出ている神を立山神としている。そして、今我々が使っている雄山神社、雄山という名前は、明治初年の神仏分離令、廃仏毀釈からであり、当時立山権現の名前がつかえないことより、雄山神社とした。そのときに由緒ある平安時代の文献の名前に由(よ)つたのである。
 ここで一つ注目されるのは、江戸時代中期の製作銘で、岩峅寺に「立山雄山宮」という神額が残っていることと、『和漢三才図会』(1712年撰)に一箇所「小山(おやま)大明神」という名前が出てきて、立山権現とは別神としている。広瀬 誠氏の『立山黒部奥山の歴史と伝承』によれば、小山大明神は大日岳の神であり大日岳を小山として、立山を大山(泰山)としたのではないかという。大日岳の麓にある岩峅の村の社であり、いまは社号がかわり、刀(たち)尾(お)天神となっている。事実最近の考古学の調査では、大日岳の山頂から寺院の柱の跡がみつかり、錫杖や修験道の遺物も見つかっている。登っている人は周知のことであるが、この山頂では、立山や剱岳をはじめとして立山連峰の全ての峰が伏し拝める。ここに神がおわすと考えるのは当然であろう。もともと鎌倉時代には霊山を敬って「お山」と言った。「立山のお山」が『延喜式』の雄山神に結びついたのかもしれない。もともとは別という見方があるのは前述の通りである。
 次に、「立山開山縁起」とはどのようなものであろうか。ごくごく簡単に述べると、佐伯有若(江戸時代にはその子有頼)が鷹を逃がしてしまいその鷹を追って山に入る。とそこに熊が現れ熊を射ると、熊とおもったのは阿弥陀如来であり、有若はこの霊異に驚き、その後僧となり、慈興と名前をかえて立山を開山した。大宝元年(701年)の伝承である。このように最初に鷹のことが出てくるが、それ以降は熊である。
この二つについて。まず鷹であるが、ここに出てくる有若は架空の人物とおもわれていたが、『随心院文書』の延喜5年(905年)の文書に「有若」の署名があり、実在の人物とわかった。氏は越中の国守であり立山信仰を保護した。そこから開山者となった。伝承と大幅に年代が違うが、修験道の開祖役小角の伊豆への遠島の記録が699年であり、また白山開山が717年であることより、白山に負けないように、そして役小角よりもわずかに新しくとしたものであろう。
 国守であれば当然に鷹狩りの遊びもしたであろう。倭建命の白鳥伝説のように鳥に導かれるということはあることである。縁起では鷹を追跡したときに、刀(たち)尾(お)天神が老翁の姿で現れ鷹の在りかを教えたという。刀尾天神は剱岳、立山一帯の地主神である。岩峅、芦峅の人は殆ど開山者佐伯氏の子孫を名乗り佐伯姓である。岩峅において、地主神の刀尾神を出してくるために、鷹の故事を用いたのではないか。奇妙なことに芦峅では、刀尾神は持ち出さないという。岩峅、芦峅の両村は仲が悪いので、縁起、伝承も違っている。この刀尾神は垂迹説では本地不動明王、手(た)力雄(ぢからお)命(のみこと)である。この刀尾天神とは、タチヤマのヲ(尾=峰)にいます神ということで、それが音の類似でタチヲがタチカラノヲになり手力雄命に結びついた。地主神であり、富山市太田本郷に刀尾神社があり、また他の地区にもある。
 ご存知のように、信州の戸隠山の祭神は手力雄命であり、古伝承に、戸隠山の神の正体は九頭竜で、その尾は遥か西に延びて越中剱岳を七巻き八巻き,巻いているという。剱岳の手力雄命と深い関係にある。(広瀬 誠『越中立山古記録V・W』)
 さてもう一つの伝承の熊の方については、熊野縁起や、羽黒山縁起にみるように熊が現れこれを射止めると、実は神、仏の化身であったという。これは狩猟者にとって熊とか狼とかの大物を射止めたときに感ずる高揚感が、宗教意識、神観念と結びつきやすいということに関係があるのかもしれない。熊はなんと言っても森の王者である。日本の山岳開山の底辺にある考え方ではなかろうか。この熊が阿弥陀如来であり、垂迹はイザナギの尊である。平安時代は阿弥陀信仰が最も盛んであった。それと、立山に地獄ありということで、宣伝していたので、この地獄から救ってくれる阿弥陀さんの信仰が当然もたらされた。
 この縁起から推測してみると、地元の刀尾神の信仰が古くからあり、後に立山の阿弥陀如来の信仰が本筋として用いられた。刀尾神の信仰は大日岳あるいは剱岳の地主神信仰であり、これはこれらの村から朝日が昇る方角の山にあたる。古代からの民間信仰、民俗信仰である太陽信仰と関係があると私は推測する。この後に立山全体の開山がなされて、立山権現が中心となっていった。
 刀尾神、鷹、小山神、の方が、立山権現、熊、阿弥陀如来信仰よりも古い、地元の信仰ではないかと推測される。それは次の姥堂の姥尊信仰からも言える。
 立山の山頂には峰本社があり、山麓の岩峅には立山社(前立社)、芦峅には中宮寺がある。白山の鶴来の白山比咋神社、一里野の中宮、山頂の奥宮と同じである。立山信仰の特色は、芦峅にある中宮の中心になっている姥堂の「姥尊」信仰である。この「うば」は芦峅では独特の女へんに田を三つ書く字で、パソコンでは表記できない(そのため姥と表記する)。普通に書かれる姥、優姿、老女の意味である。地元ではオンバサマと呼ばれる。「立山略縁起」では、「天照大神が世界を開闢(かいびゃく)した時に、立山の三姥尊が従い、右手に五穀を、左手に麻の種をもち、この芦峅に天下った」というもの。さらに「衆生の生死のすべてをとりあつかい、死ぬときには導いてくれる」。すなわち、人々に衣と食を与え、生殺与奪の権を持ち、死後の救い手である。専門家は、天地万物の母体の神とみている。特に立山登山が女人禁制であり、女人の救済はこの姥堂を中心とした布橋灌頂でなされると全国に宣伝した。閻魔堂から白い布を張り巡らして現世から区別されて橋を渡りオンバサマのいる姥堂に入り、奇怪な姥尊三体の前で、真っ暗な中での30分近い勤行のあと、窓を一斉に開けると光りが差し込んできて、そしてそこから立山三山が見渡せる。姥尊が女性でもあり、女性の救済の行われる唯一の霊場として知れ渡った。
 記紀のイザナミノミコトは国土を生み出すとともに、死んで幽冥界の神となったのとどこか似ていて、姥尊は冥界に関係あるため醜悪な姿に造られた。気の弱い人、心にやましい思いを持っている人、罪の意識のある人はこの姥に対面すると気を失ったという。また、女性を立山地獄谷にある血の池地獄から救ってくれるのは、この橋に掛けられた白布で作った血盆経の布である。最後は阿弥陀様が救ってくれるという浄土思想である。このオンバサンの天下(あまくだ)った地が大日岳であるといわれる。
 この布橋灌頂で最後の窓を開けて光明を得るというのは、広瀬氏は、天の岩戸神話を思い起こさせるといっている。天照大神が手刀雄命の力で岩戸を開けられて顔を出した。そしてまた元の太陽の照る世界にもどる。それと似ているのである。ここにも古い信仰の姿が垣間見える。いま、この姥堂はない。明治初年の廃仏毀釈でとりこわされた。そのときは「醜体、言語道断の邪神」といわれたという。しかし、よくよく考えてみれば、これは余りにも短絡的な見方であり、そこには日本人の長い神仏習合の信仰の姿が見られるのである。あるいは、姥尊を地母神のように見ていたのは、山の神が女性でありしかも衣・食を与えてくれ、しかも醜く女性にやきもちを焼くといわれたのとどこか似ている。古い山の神信仰の流れを受け継いでいるとも思える。そうであれば邪神というのはひどい。
山形県の湯殿山の入口に同じく姥神権現がある。この像も写真で見ると大きな乳房と醜怪な顔を持っている。神がその尊厳を冒されたときには厳しい罰を与える、例えば人の死と結びつく。私には、立山や湯殿山の姥尊は、山の神信仰の一つの祖形が示されているように思われる。仏教では地獄から助けてくれるのは、地蔵菩薩か観音菩薩である。この姥尊はそれよりも古い民俗信仰を示しているのかもしれない。
 ここで立山連峰のもう一つの雄、剱岳の神について述べると、もともと刀尾天神は「剱岳の刀尾権現」とも称された。剱岳がその神の本拠である(広瀬 誠『越中立山古記録V・W』)。しかし。雄山の峰本社にイザナギ・タチカラノヲ両神を祀ると正式に決めたために、剱岳に同じ神タチカラノヲは祀れない。そのため新たにに荒々しい岩山にふさわしい神としてスサノヲノミコトを選びこれを祭神とした、という。現在の剱岳頂上の小祠「剱岳神社」は昭和31年の創建であり、スサノヲを祀る。
 奈良、平安時代以降、熊野や越の国は冥府(めいふ)の地と見られた。熊野は根の国である。イザナミのお墓の在る地である。また越の北陸は、古くは越(こし)夷(えびす)の地であり、白山の菊(くく)理(り)姫、立山の姥尊というように、ここも冥界と関係付けられている。白山信仰に発する白山(しらやま)行事(奥三河の花祭)は、「一度死んで生まれ清まる」儀式である。そして姥堂の布橋灌頂も一種の擬死再生の儀式である。ここにも死のイメージが付いてくる。
都から見れば鄙(ひな)の地はそのようにみえるのであろう。だから中世になって修験道が発達してくると、修験の山として栄えることになる。大峰・熊野修験、白山修験、立山修験、そして東北の羽黒修験みなそうである。そしてまた、霊山はミソギをして山へ登れば民衆の救われる山にもなった。
 立山信仰のことを調べてきたが、次回には同じ北陸の白山信仰との違いをもう少し検討してみたい。立山は太刀のような山が連なるから雄(オ)山という、白山は山容が穏やかだから媛(ヒメ)であるといわれる。はたしてそう簡単なものであろうか。
参考図書  高瀬重雄『白山立山と北陸修験道』
      広瀬 誠『立山黒部奥山の歴史と伝承』
      広瀬 誠『越中立山古記録V・W
                                     (2009.1.24  垂澤祥夫)
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湖北、湖西の十一面観音と泰澄和尚
 2008年秋に若狭、小浜に行って驚いた。有名な羽賀寺の観音様を拝観しに訪れたのだが、ここには国宝・重要文化財の仏像、建物などを所有する寺が八か寺もあり、それらの寺を中心にして、若狭三十三か所の観音霊場を巡礼できる。それらのいくつかのお寺の創建は奈良時代初期、元正天皇(715~724)の時代に遡り、以後1300年近い年月の間、これだけたくさんの御仏(みほとけ)が、山あいの中に、ひっそりと守られてきた。私はまさかこんなに数多くの由緒ある古刹、名刹があるとは思ってもいなかった
。  羽賀寺のご本尊の十一面観世音菩薩は女帝元正天皇御等身像で、行基の作と伝えられ長い間秘仏で見ることはできなかったが、戦後公開されて、今は誰でもいつでも拝観できる。お厨子の中の像にはまだ彩色が鮮やかに残っていて、完全な、美しい姿で見られたのがうれしい
。  この若狭にどうしてこのような高い仏教文化が残されたのか。それは、やはり朝鮮半島や大陸の文化が、日本海の対馬暖流によって、この地に運ばれてきたことによるものであろう。奈良東大寺、二月堂のお水取りの行事と、若狭の遠敷(おにゅう)明神との関係はよく知られている。もともと、小浜と奈良はほぼ直線上に位置し、日本海の港に着いて、奈良に行くには、ここの地、小浜が最も近い。
 『十一面観音巡礼』の書がある白洲正子は、若狭の外来人、中でも井戸掘りの技術を持った職人との関係を指摘している。二月堂の井戸(若狭井と呼ばれる)を掘ったときに優秀な土木の技術者が若狭から招かれた。古代の人々にとって、水を湧き出す井戸というものが特別の意味合いを持っていた、と述べている。
 若狭には若狭彦神社、若狭姫神社があり、その神宮寺は神仏習合の寺として知られている。大陸の仏教の影響の下に、日本の神さんと仏さんが一体となって民衆に信仰されていた。若狭一ノ宮のこの神社は遠敷川の水信仰と多田ヶ岳の山岳信仰をその源にしている。後に述べるように、観音が日本に受け入れ易い仏として布教されたこともあり、自然と神仏習合がなされていったと思う。
 私はこれら神社、寺を初めとして、妙楽寺、満徳寺、多田寺を訪ねて帰った。妙楽寺の重文の木造千手観音立像も、羽賀寺の観音さんに負けず劣らず、素晴らしいものであった。
 さて、これからが本題であるが、近江湖北・湖西の十一面観音についてである。私が注目しているのは、日本で神仏習合を始めたといわれる越の大徳泰澄和尚との関係の仏像である。泰澄和尚は越前浅津(あそうづ)の生まれで、近くの越智山で修行して白山を開山した。山頂で白山妙理大権現と十一面観音を感得した。歴史書には記述がない私度(しど)僧であるが、その高い験力により、都の元正天皇に招かれ、その病気を直し、また、疱瘡の広がりを止めた。その奈良と越前を巡錫(じゅんしゃく)したル道にはたくさんの泰澄伝承が受け継がれている。当時は越前の北庄から、敦賀に出て、塩津街道で琵琶湖の湖辺に出て、木之本を通り、高月(たかつき)から長浜、湖東を歩いて、信楽から奈良に出た。鶏足寺や、有名な国宝の渡岸寺の十一面観音について、観音堂に伝わる天明6年(1786年)の『観音堂御改書写』によると、「天平8年(736)奈良の都で疫病が流行り、聖武天皇の勅願により越前の僧泰澄が十一面観音を刻んで観音堂を建て、その後最澄が七堂伽藍を整備し多くの仏像を安置した」という。高月から少し南にある、お市の方で知られる小谷城下の小谷寺も泰澄の開山の伝承がある。また、西国三十三札所の岩間寺も泰澄の縁起を持ち、桂の木で千手観音を刻み、元正天皇の勅命で創建した、という。さらに南の鷲峰山、金胎寺には、「くはちの峰」が山頂にあるが、ここでは泰澄和尚が托鉢を飛ばして食糧を得たという空(く)鉢(はち)の伝承がある。
 一方、湖北ばかりではなく、湖西にも泰澄ゆかりの寺は多い。秘仏で公開していないために、知られることはすくないが、ここも、越の大徳の巡錫した地である。今津町の酒波寺(さなみじ)の千手観音様は行基菩薩の作と記録されているが、寺伝では泰澄作という。これは電話をして住職さんに確認した。桜で有名な海津にある、大崎寺の十一面千手観音は大崎観音として知られているが、文武天皇の代に泰澄和尚が開山した。今は湖の近くにあるが、以前はここの東山の中腹にあった。『高島郡史』によれば、泰澄大師が湖西に七観音堂を開いたという。安養寺、大崎寺、最勝寺、宗正院(宝幡寺)、瀧水寺、仲仙寺、そして龍泉寺である。最勝寺、大崎寺、宗正寺は今も現存する。今津は西近江路と、若狭路の交差する地であり、古代には今の朽木を通る若狭路(いわゆる鯖街道)ではなく、今津へ出て船で大津へ荷を運んだ。その重要な地であり村も発達し、泰澄も布教に廻ってきた。海津は西近江路では湖北の三港の一つであり、敦賀から愛発(あらち)を通る七里半越えの湖(みずうみ)側の玄関口である。敦賀からは塩津路と西近江路の二つがあった。
 付け加えておくと、先に述べたように、古代の若狭路は、若狭の港から北川を熊川宿の近くまで船で運び、峠を二つ越えて、近江の保坂へ出て、今度は石田川を使って船で今津へ出てきた。この船を使うルートが中心であり、まだ馬車や徒歩の陸路は中心ではなかったという。そのため今の鯖街道とは少し違うようである。
 私は湖北には泰澄関連の仏像があっても、湖西にはないものと思っていたが、それは間違いである。湖西にも立派な観音さんがあり、しかも泰澄の十一面観音である。これら湖西、湖北の観音さんは、湖北の石(しゃく)道(どう)寺(じ)のように、地元の人の手によって守られている。私が石道寺の十一面観音を見に行った時には、当番のおばあさんが厨子の扉を開けて見せてくれた。他に訪問者は誰もいなくて、素晴らしい観音さんにびっくりしたものである。このように今もそれほど大きなお寺でなくても、地元の人や住職さんによって守られてきているのが特色といえよう。それは小浜のお寺も同じである。このことは私には、泰澄和尚の最初の仏の教えを説いたときの姿であり、村の人を集めて十一面観音の功徳を説法したように見えてくる。
 それではこの観世音菩薩の信仰は日本で最初にどのように受け入れられたのであろうか。まず観音菩薩についてである。この仏の日本への伝来は6世紀の中ごろといわれ、公式に仏教が伝来したとされる宣化天皇3年(538)と期を一にしている。遣隋使、遣唐使の学僧が持ち帰った。7世紀に唐では有名な玄奘三蔵法師が655年に十一面観世音神呪経を翻訳して、それが日本に輸入され7世紀には盛んになり、さらに「法華経」の第二十五、観世音菩薩普門品が訳されて、広まっていった。その経には、観音は衆生が苦悩恐怖を受け、憂愁、孤窮して救護あることなく如何ともすることができないとき、われを念じ、わが名字を称えるならば、われはどこにあるも、天耳をもって聞き、天眼をもって見て、それらの苦悩を救護する。それが本願である、と書かれている。
 これは南無観世音菩薩、と称名すれば苦悩を取り除いてくれるという。そして三十三の姿で現れ、慈悲温顔に満ちた親しみやすい仏である。観音には、聖観音、如意輪観音、十一面観音、千手観音、馬頭観音、准低観音、不空羂索観音の七変化仏があり、十一面観音が一番親しまれている。これは十一面とは十一億の諸仏を代表する意味での十一面といわれ(『観世音菩薩の研究』後藤大用)、民衆のどんな苦悩をも聞いてくれるということを目に見える形で現している。氏によれば、この仏はインド古代のバラモン教の十一荒神に源流を発し、常に山に住しひとたび怒ると人畜を殺害し、草木を害した。しかしその後善神に変り、仏法に帰依してからは、天候や雨水を支配する、また疫病を除く仏と信じられた。
 右手は施無畏(せむい)印で五指を開いて掌を前に出し、これで苦しみを取り除いて楽を与えようとする法力を示す。左手には水瓶(すいびょう)を持ち、水を司る。これはインドの熱帯性の気候状態からして、常に浄水を傍らに置くのが常であった習慣による。これが日本に来てからは、稲作農業に必要な水を支配する仏として受け入れられる一つの要素となった。また、観音を信仰すれば、観音様の浄土である補陀洛山(ふだらくさん)へ死んだあと導かれる。
 このように十一面観音はあの世のことではなく、現世利益を与えてくれる仏として民衆の心を掴んだ。その上、山に住し、水を司るといえば、それまでの民間信仰の八百万(やおよろず)の神信仰と共通点が多い。最初荒い神であったのが、中国、朝鮮を経由して日本に来たときには、母性的な慈愛の姿になって女性の姿で造られ、ますます受け入れられやすかった。
 こうした十一面観音のことを調べていくと、泰澄和尚が白山でこの観音を感得したというのも、その当時の民衆の受け入れ易い仏であったからであろう。それは古代の民俗信仰と共通することが多かった。例えば、山の霊木を神とする信仰はすでにあった。十一面観音を初めとする観音は、その霊木で像立された。例えば長谷寺の観音さんは琵琶湖の三尾の霊木から作られたという。また、高月の渡岸寺の仏も、琵琶湖の対岸から渡ってきた仏であり、それは霊木のことであろう。だから渡(ど)岸寺(がんじ)という。
 このように見れば、泰澄和尚にしろ、行基菩薩にしろ、或は最澄、空海にしろ、みな霊木から仏を刻んだという伝承が残されている。その初めは泰澄ではないかといわれている。それが神仏習合の初めと見られている。もちろん役小角が吉野で蔵王権現の像を感得しているのも同じである。
 泰澄和尚については、『泰澄和尚伝記』という書に、東大寺建立に力を尽くした行基が神亀2年(725)に白山に登拝し、泰澄と長年の友人のように歓談したと書かれている。多分に泰澄びいきの話ではある。湖西、湖北の観音は行基作が多いが、いずれも寺伝では泰澄作ということになっているのも多い。東大寺の公式記録の『東大寺官務牒(かんむちょう)疎(そ)』(1441年)では行基が造ったという。歴史上の人物ではなかった泰澄作とは書きにくかったのであろう。ダブって伝承されているのが多いのはこうした事情によるものではないか。ひょっとすると小浜の行基作の羽賀寺や妙楽寺の観音も泰澄作かもしれない。  近江では湖東三山を始め、長命寺、観音正寺など聖徳太子の創建の寺も多い。これらはいずれも観音を本尊としている。聖徳太子は日本に仏法を広めた創始者であり、観音の化身とも言われたので当然であろう。法隆寺には百済観音像や、夢殿には救世観音像が残されている。近江のお寺はそれだけ古く、日本の仏教の初期の段階でお寺や仏像が造られたということであろう。  しかも、それらの寺は奈良の官寺とは違い、村単位で小さな堂宇と等身大の観音が造られている。それは山の上であったり、中腹であったりし、しかもその地の霊木が使われた。しかも、磐座の上に据えられている観音もある。これらは神信仰における、依代(よりしろ)、磐座(いわくら)と同じ考えである。小浜の寺や、湖北・湖西のお寺を見ればそれがよくわかる。これが、一般庶民段階での、神仏習合ということ、仏の受け入れかたとみられる。
してみれば、湖北の石道寺や鶏足寺、そして渡岸寺の観音が地元の人たちにより、今も守られているというのは、泰澄和尚の巡錫した当時のままの姿を残しているのかも知れない。何か、庶民段階での十一面観音受け入れの姿が、これらの地から浮かび上がってくる。それは泰澄和尚の生まれた地、越前でも同じように信仰されたのであろう。が今はそれが近江の方がよく残っている。これは奇跡に近いのではないか。
 近江の地には京都に都が移る以前の奈良時代の寺や観音が多い。聖徳太子、泰澄、行基の作である。そして空海・最澄がその直ぐ後に活躍する。白山信仰を調べていて、近江の素朴な十一面観音に出会えたのは嬉しい。これからも少しずつ観音の寺を回ってみたい。             (2008.12.29  垂澤祥夫)
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道元禅師と白山の神

 道元禅師は入宋求法の旅で、天童山景徳寺において、祖如浄禅師に弟子入りをし、曹洞禅を受け継いで帰国する。道元は帰るときに、如浄の室で師に会う。「国に帰って化を布き、広く人天を利せよ。城邑聚落に住することなかれ。国王大臣に近づくことなかれ。また深山幽谷に居りて一個半個を説得し、吾が宗を断絶致さしむることなかれ」、と教えられる。

 帰国して四年間前にお世話になっていた建仁寺で修行した。このときに有名な『普勧坐禅儀』を著した。釈尊は6年座禅され、達磨も9年面壁座禅をした。座禅に徹すれば、自然と一切のとらわれがなくなって、悟りが得られる。また、真実の自分が見極められる。すなわち「只管(しかん)打坐(たざ)」の教えである。しかも男女貴賎をえらばずに、身の在家出家にかかわらず、仏法に入るものはすべて平等である。在家も女人も成仏できる、と説いた。当時としては革新的な、斬新な教えであり、しだいに弟子があつまるようになった。

 ところが、この教えが従来の天台宗の教え、あるいは建仁寺の教えとも異なっていたことより、比叡山の僧侶の圧迫がくわわり、やむを得ず、伏見深草の安養寺に移り、その地に興聖宝林禅寺を建て、自分の目指す座禅の道を説いていった。また、『正法眼蔵』の著述を始めていった。だが都の郊外の地に移っただけでは圧迫は収まらず、ついに波多野義重の熱心な勧誘を受けて、波多野氏の越前志比庄の地に移る。人の多い都を離れて座禅に適した深山幽谷の地に移ったのである。如浄禅師の教えの通り。こうして永平寺が誕生する。

 実はこの越前への移転にはもう一つの因縁がある。当時の道元の弟子には、懐(えじ)奨(ょう)、懐鑑、徹通、義演などがいたが、いずれも臨済宗の大日能忍派の人で、能忍の死後、道元の教えに共感して移ってきた人たちである。そのおおかたの人は越前にある波著寺(なみつきでら)にいた。この寺は、平泉寺、豊原寺などとともに、白山信仰の強い越前天台の寺である。白山信仰の越前の中心である平泉寺は延暦寺の末寺になっていた。弟子たちは道元と天台宗とのいざこざは知っていたが、自分らのなじみの深い越前に来ることを要請したのである。

 それではその時代の白山信仰はどうであったであろうか。平泉寺は717年の白山開山と同じ年に、僧泰澄により草創された。平安時代を通じて霊山白山の名前は広がり、修験道が確立されるとともに、熊野・金峰修験と同じくらいに力を持ってきた。『平家物語』や『源平盛衰記』には白山の神の上訴、山門の強訴は時の院さえ嘆かせた。とともに、白山権現の霊験の高まりとともに、全国の寺社に鎮守として祀られるようになっていく。奥州の平泉中尊寺をはじめ、比叡山、醍醐寺、岩間寺、遠くは大山、九州の英彦山などにである。

 「道元禅師和歌集」に「我(わが)庵(いほ)はこしの白山ふゆごもり 氷も雪もくもかかりける」というのがある。永平寺は白山の前衛の山にある。今でも永平寺の修行僧は白山に登拝するし、また永平寺、能登永光寺(ようこうじ)(螢山禅師の開創)では「白山水」という井戸があり、その水を仏前に供えている。永平寺と並ぶ曹洞宗の大本山である総持寺の能登にあつた祖院には、白山神社がある。全国にある曹洞宗の寺には鎮守として白山神がまつられている。このように曹洞宗では白山の神を大切にしている。

 それでは道元と白山の神、あるいは曹洞宗と白山信仰とはどのような謂われがあるのであろうか。ここに『建撕記(けんずいき)』という重要な高祖伝がある。道元の弟子で勝山にある宝慶寺を開いた寂円の派が残している。寂円は永平寺三世撤通(てっつう)義(ぎ)介(かい)派の布教拡大に反対して、道元の枯淡の坐禅を守ろうとした。道元の残した永平寺を守っていく立場である。撤通義介にはのち弟子に螢山(けいざん)禅師が出て曹洞宗を全国に普及させて、いまの大教団をつくった。そのため曹洞宗では道元禅師と螢山禅師二人を高祖、太祖として仰いでいる。この『建撕記』の中に「一夜(いちや)碧(へき)巌(がん)」と呼ばれる伝承がある。漢文を簡潔に訳してみると、道元が宋から帰朝する直前に碧巌集を書写していると、白衣の老翁がきてこの書写を助けた。その助けをうけて明るくなる前に書き写すことができた。禅師が筆を置いてその姓名を問うと「日域男女元神也」。すなわち「白山明神」であることを知る。この伝承が「一夜碧巌」といわれるものであり、白山神が助筆したことの恩から、白山神を祀るようになった。

 だが、この説の根拠である『建撕記』は江戸時代の1680年の延宝本にみられるもので、それ以前には見えない。それでは総持寺祖院の開創された13世紀の中ごろに白山神を鎮守として祀っていることの説明ができない。この点については、少し専門的になるが、「宗学研究」という駒澤大学曹洞宗研究所の出している雑誌があり、その28、29号に佐藤俊晃氏が「曹洞宗教団における「白山信仰」受容の問題」として論じている。これをごくごく簡単に述べると、白山の神を鎮守として祀るのは、葬式後の死穢浄化のためのキヨメであった、というもの。それは曹洞宗の拡大の過程で、寺が葬式に関与してきたために、どうしても必然となった、という。それを江戸時代になって、曹洞宗の寺が地域で安定した地位を持つようになってくると、マイナスのイメージを払拭するために、「キヨメの神から護法の神という白山神の意味づけの変化があった」と氏は述べる。ここで「一夜碧巌」が前面にでてくるようになったとみている。

 これ以上難しい曹洞宗の専門教説には立ち入らないが、もともと、道元の開いた永平寺の地は、白山信仰の強い地であり、その影響は受けていたと思う。まして神仏習合が時代の流れであり、当然霊名高い白山神を鎮守として勧請したとしてもおかしくない。道元禅師は白山神を敬っていたことより、神に助けられた。それが、白山神の助筆として伝承されたのであろう。

 私はいま、京都の北にある曹洞宗の古刹鷹峰源光庵(この寺の開創は大乗寺第27世で、源光庵を開山した卍山(まんざん)禅師)で、坐禅を教えてもらっている。長野にある実家の宗派が曹洞宗であったことより、近くて行きやすいこともあり、お世話になっている。そんなことで道元禅師の話は方丈様より聞くことも多い。また、登山を趣味にしていて、その関係で白山信仰や、山岳信仰、修験道などの本も読んでいることもあり、この道元禅師と白山信仰についての関係に興味があった。          (2008.11.30  垂澤祥夫)
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越の大徳泰澄と白山信仰

 古代日本の日本海沿岸、その中でも北陸の能登半島付近は、対岸から頻繁に渡来人がたどり着く「客人(まれびと)」の地であった。加賀の国の南端から北東に伸びている「羽咋の海」の砂丘は、珍しい波打ち際を車で走れる特異な千里(ちり)浜海岸と言われている。この地は近世までは「塵(ちり)浜」と書かれていて、海の彼方からさまざまなものが打ち寄せられた。その後、ごみ、あくたでは具合が悪いとして、千里の字を当てるようになった。九州南方で別れた黒潮の分流が対馬海流となり、日本海沿岸沿いに北上して能登半島に至る。朝鮮半島や中国大陸北部から、例えば、高句麗、新羅、渤海からの使節は奈良の都に一番近い、若狭や敦賀に上陸したものだ。その一部は風に流され越前海岸から能登半島にも上陸した。古代においては、日本海側は文化の入ってくる「表日本」と言われるような位置にあった。(その後徳川時代の末にペリーが来航してからは、太平洋側と立場は逆転した。)

 現在、富山県に「富山県日本海学推進機構」という組織があり、この古代の日本海沿岸について、対岸との交渉や交流を通じてどのような行き来があって、その影響はどうであったか、という点を中心に研究が進められている。古代においてはかなりの影響を対岸から受けていることは間違いない。例えば神社についてみると、十世紀の始めにまとめられた『延喜式神名帳』には、能登地方の神社には、白比(しらひ)古(こ)神社、美麻奈(みまな)比(ひ)古(こ)神社、美麻奈比咋(みまなひめ)神社、古麻(こま)比(ひ)古(こ)神社などのように、朝鮮半島の地名にヒコ、ヒメを付した神名があり、渡来人との関係をうかがわせる。また、能登半島の一の宮、気(け)多(た)大社はオオナムチノミコト(大己貴尊)すなわち大国主命を祭神としているが、この社の別の『気多社嶋廻(しまぬぐり)縁起』には、神は「大舟に乗って渡来した王子である」と書かれている。

 この能登の気多社については、さらにつぎのようなことが分かっている。気多神社はこの地ばかりではなく、但馬、加賀、越中、越後(居(き)多(た)神社と書く)、飛騨にあり、さらに地名として気多郡の名前につくものが、出雲、因幡、但馬にある。日本海側の出雲から越後にかけて同じ名前の社(やしろ)と郡(こおり)があり、推測すれば同属ないし何らかの繋がりのある氏族であつたと思われる。それが渡来人との関係が指摘されているのである。そもそもこの渡来人の行き来は舟によりなされていたものであり、海上交通が盛んであり、北陸地方はそれだけ海の民の活躍する場が多かった。山の民、稲作をする田の民と同じく、海の民のウェイトは大きかったといえる。それが日本海沿岸全体を広く繋げている。

 私は今年十月に能登の和倉温泉に泊まることがあり、帰りに千里浜海岸の近くから、前山の上に聳える、霊峰白山を眺めることができた、バスの中からではあるが、はっきりと御前峰と大汝峰の峰が二つなだらかな山容を見せてくれた。このとき、越前海岸や羽咋の海を航海する船の上からは、白山はこのように見えるのかと合点がいった。白山は海の民からも現在地を確認する、あるいは天気の様子を判断する重要な山であり、熱心に信仰された。その後、船の民の信仰を通して東北地方まで白山信仰が広まっていったのである。白山神社に船絵馬の寄進されているものが多いのは、航海業者の感謝信仰の現れである。また、白山比咋神社で毎年五月に執行する御贄(おいえ)祭りは加賀七浦から海の幸を奉献する祭りで、これも海上において白山のお陰を蒙ったことを感謝することの現れである。このように白山と航海業者とのつながりは深い。

 ご存知のように、白山は越の大徳、泰(たい)澄(ちょう)によって養老元年(717)に開山された。泰澄については、『泰澄和尚伝記』(金沢文庫他)により研究されている。その詳細はここに記述しないが、福井市の郊外にある麻生津(あそうづ)に682年に生まれ、日本海よりの越智(おち)山(612メートル)に登って修行を積み、その呪験力は人に知られる様になり、しかもその修行は、十一面観音菩薩の徳を施すようにという内容の霊夢によるものである。そして貴女の導きで白山御前峰に至り、翠ヶ池で祈りをこらすと九頭竜王が現れ、ついに本地の十一面観音が姿を見せた。さらに大汝峰でオオナムチの神と本地の阿弥陀如来を、別山で小白山別山大行事の神と本地の聖観音を拝している。こうして元正天皇の護持僧となり、神融禅師の位を受け、行基と合ったり、玄ム(げんぼう)の経論に接したり、疱瘡の流行をとめたり、さらに臥(ふせり)行者と浄(きよ)定(さだ)行者の二人が帰依して弟子にした。晩年は郷里にかえり越智山の仙窟で入定遷化した。86歳である。

 泰澄その人は当時の中央の記録には載ってこないのに、このような高僧として書かれてる。どうやら後の時代に白山信仰が盛んになるにつれて、大分脚色された部分も多いようである。そして最近は、山岸共氏が述べておられるが、『渓嵐拾葉集』(鎌倉時代、光宗著)に「泰澄大師は浅津(あそうづ)の船頭の子である」と書かれていて、この船頭とは父親の三神安角であり、浅津は日野川の重要な港であった。そこの船頭の次男が泰澄であるとする。この点は、泰澄に従った従者二人が、呪術を使い日本海を渡る船から官米を鉢を飛ばして収得したという伝承もあることから、船と関係あればこそである。

当時船頭の地位はそれほど高くなかったという。そのために伝記からはこのことを意図的に外されたのかもしれない。玉井敬泉氏は父親の三神安角は、朝鮮からの亡命者で、しかも高句麗の人で我が国に帰化した人だという。だからいままで神体山として誰も登らなかった白山に怪しげもなく押し登ったとしている。(「白山の祭神と信仰」『民衆宗教史叢書18巻、白山信仰』雄山閣出版株式会社)

 それでは当時の日野川、九頭竜川はどうであったろうか。そこで2004年7月の福井豪雨による福井市内や周辺地域の水害のことを思い起こす。現代のこれだけ治水を行っていても、ひとたび大雨にあえば街はひとたまりもない。古代においては、川はなすがままに流れていたに違いない。そこで活躍するのは船であり海運である。海からかなり奥の地まで船を使って上ったのではないかと思う。そして、行者の呪術による水の制御と請雨、止雨を祈った。

 日本海に近い越智山からは東に白山が遥拝できる。泰澄和尚も山頂から白山を拝していた。この越智山は日本海を航海する船からは目安になる山である。そしていつもその上には白山が見える。泰澄が幼いときからこの山に登って修行したのは、父親からこの山が航海の目安になっていることを知らされていたからであろう。海上から見れば、越智山、白山前衛の山、白山は一緒に重なって見えるのである。そのためにこの山に登り、そして白山を開山することを念じた。

 さて泰澄の活躍した奈良時代の初めは仏教は鎮護国家の仏教であり、大宝律令の僧尼令でその生活は厳しく規定されていた。しかし都から離れた地方ではこの令の規定を無視するか、あるいはこれに従わないいわゆる私度僧、優(う)婆(ば)塞(そく)の活躍があった。その一人が行(ぎょう)基(き)である。行基は後大仏造営の勧進を行い、大僧正位まで授けられる。役小角も優婆塞の一人と見做されていた。従来の山岳信仰、神信仰に新来の宗教仏教の呪力とを兼備していた。ここで、泰澄が役小角よりも先に神仏習合を果たしたとする見解を表しているのは、梅原猛氏である。中沢新一氏との対談で(『神仏のすみか』角川学芸出版)、「修験道は役小角が始めたといいますけど、理論的にはっきりと仏教と結びつけたのは泰澄じゃないかな。泰澄の白山信仰が神仏習合の初めで、神仏習合の結果、修験道というものが生まれた。それを行基が受け継いで、八幡信仰として発展させた。八幡神は東大寺建立のときに大きな役目を果たし、神仏習合が国家の宗教になった。」中沢新一氏は「朝鮮系の山岳修験というものと、日本の原型的な山の宗教というものの関係性というのが僕の中でだんだん大きくなっていって、それで朝鮮系の渡来民と関わる白山というところへだんだんと入っていった。」

 修験道の開祖は役(えん)小角(のおづぬ)といわれているが、泰澄の白山信仰が最初ではないかとみている。たいへん重要な指摘である。このように泰澄は優婆塞のひとりであった。そして梅原氏は当時最も発展した十一面観音信仰を日本に根付かせたのが泰澄である、とみている。それは稲作農業にもつとも必要な水を司る仏であるからである。泰澄は仏教を稲作農業をする日本人に適合させた大変重要な思想家である、としている。思うに、船頭の子である泰澄は一番水のことに詳しかったといえる。

 さて、もう一つ別のことを考えてみたい。日本の神様は山から来るのか、海から来るのかというてんである。『古事記』にはニニギノミコトは日向の高千穂の峰に降りてくる。山からである。ところが、すぐにニニギノミコトは、笠沙(かささ)の御前(みさき)に麗しき美人に遇って、木花の佐久夜比売(さくやびめ)に出くわす。山に降りた神がすぐに海に出てしまう。ここのところが専門家を悩ましている点で、一番尊い神が山から来たのか、海から来たのか混乱している。

 実はこれに直接関係するのではないが、縄文時代のアイヌ文化を研究している人は、アイヌの人々にとって川は海から陸へ上って集落を通り山の奥へと入り込んでいく、と考えていた。それは生きる糧である鮭や鱒が遡上する道であり、川は神の道であり、川は海から出発していた。久保田展弘氏はこれを日本人の祖先が「もし海から上陸して、内地の大地に住み着き、集落を形作っていった、原日本人とも言うべき人々の行動様態」ではなかったかとみている。(『日本の聖地』講談社学術文庫)

 これに対して、山上の水神・山の神が流れを下って里に降り、田の神となって農作物の生育を促し、秋にまた山へ帰っていく、これは弥生式思考である。この両方の考えがはからずも『古事記』に出ているのではないか。縄文から古代社会にあっては、漁労は狩猟採集とともに大事な世界であつた。川は海から始まるのである。神は海から来るのである。また、海から入ってきた外来の宗教(仏教など)は流れを遡って山上に至る。すると縄文の考えに似ている。もともとこの二つには関係があったということであろうか。一方、稲作が発達してくると弥生式の山の上に神がいるという考えが主流となる。いわゆる水分(みくまりの)神(かみ)であり山の上、水源の地に祀られる。

この鱒の遡上について、私はこの夏(2008年)に只見川の上流の新潟県鷹の巣と言う地の民宿で、宿の主人から参考になることを聞いた。その家には、三代前の開拓者の祖先が明治の中ごろに使った、大きな?(やす)と槍があり、?では日本海から遡上してくる鱒を、槍で山の熊を捕った、という。今は奥只見のダムが出来て、魚の遡上はないが、明治の入植した時には、まだ日本海と魚が行き来していたと言う話は興味を引いた。

このように、水の流れに沿って、渡来の神と在地の宗教とがぶつかり合い、神仏習合という宗教を生み出していったと思われる。山から降りてくる神と、山へ川を遡って行く神(仏も最初は蕃神といわれた)とが融合していく。このことは白山信仰の十一面観音を本地仏として祀る、泰澄の開山伝承にはっきりと示されている。その故に、泰澄が神仏習合の開祖と言われる由縁であろうか。

ここの点をもう少し詳しく見てみると、『泰澄和尚伝記』に、

1.和尚は越智峰において、末世衆生の利益のために白山山頂によじのぼり、霊神を行顕し奉るべし、と常に念じていた。

2.越智山の泰澄の夢に貴女が現れ、「我が霊感時至れり、早く来るべし」と告げる。

3.林泉で日夜大音声をはなち祈念すると、前の貴女が現れ、「吾は天嶺にあるが、常にこの地を中居とす」

4.吾が身はすなわちイザナギの尊(イザナミの尊と記す本もある)で、今は妙理大菩薩と号す。「吾が本地真身は天嶺にあり、ゆきて礼すべし」

5.和尚は白山の天嶺禅定によじ登り、翠ヶ池の傍らで礼念加持すると、池中より九頭竜王が示現する。

6.泰澄が本地の真身を現すようにこれを責めると、十一面観音の玉体が示現した。和尚は拝しながら衆生の救済利益を望むと、観音は領納したとみえるや、再拝に及ぶ前に姿を消した。

 ここでの貴女は、神そのものである、あるいは神の使い、あるいは巫女であるといろいろと考えられているが、いずれにしても、白山の在地で信仰されている神である。仏教の影響で菩薩号で表現されているが、もともとは白山の比咋神である。その神の夢告や幻視が修行者の泰澄に示される。これはシャーマンとしての姿ともいえる。神が中居の林泉(平泉寺のあった地)に降りてきていること、天嶺に居ると言うことなどは、山から降りて来る神の姿である。また、山腹や山麓での泰澄の修行の姿は、仏教的修行者が入山する以前の、祭祀の姿(里宮)を示している、とみられよう。

 一方、山頂によじ登り、初め九頭竜神を示現するのは、もともとの在地の白山信仰が水の神である白山比咋神の信仰をもとに出発していることより、この古い信仰を示している。そして、最後に仏を感得する。十一面観音を始めとする、阿弥陀如来、聖観音である。この泰澄の一連の行動、その結果をみると、在地の山岳での修行者の姿でもあり、私度僧の仏教者の行者の姿でもある。また、白山の神と仏とが一体として、相前後して顕現しているのもはっきりと見て取れる。すなわち神仏習合の考え方である。

 こうして白山は開山され、山頂近くの室道に十一面観音の本地仏が祀られるようになる。河川をたどり内陸へ入っていった渡来の神は、海と山両世界をふくむ山岳信仰へと変わって行く。越前を流れる九頭竜川、加賀を流れる手取川、美濃平野を流れる長良川でそれぞれ個別に発展していた白山信仰は、泰澄を開山とする新たな白山信仰へと統合されていくのである。越の大徳泰澄の白山信仰は、まさしく日本の神仏習合をはっきりとみせてくれる。

 九頭竜川を福井市の方から遡っていくと、勝山市の手前で滝波川が合流する。さらに遡ると荒島岳のところで打波川が合流し、その先は九頭竜湖の地で石徹白川がはいる。滝波川は大長山と赤兎山の稜線の小原峠に源を発する。小原峠を越えると市瀬に出る。越前禅定道はこの滝波川の川沿いではないが、中居の地から報恩寺山の山を越えてこの小原峠を越えて行く。一方、打波川を遡ると鳩ヶ湯温泉を通り一ノ峰あたりの稜線に行き着く。最後に、石徹白川は銚子ヶ峰に源を発する。一ノ峰の少し南である。

ご存知のように、九頭竜川が直接白山の山頂までは通じていない。川筋で山頂に一番近いのは手取川の上流で、市ノ瀬の牛首川のさらに上流になるが、泰澄の開いたという平泉寺を通る越前禅定道はこの市瀬で出合う。それまでは平泉寺から山の中を登ってくる。船頭の子であり、海運業者の浄定という弟子がいて、平泉寺で川からすぐ外れて白山山頂を目指すというのも、私はあまり合点がいかないのである。しかし、越前禅定道はまぎれもなく報恩寺の山に登っていく。それでは九頭竜川を遡っていくルートで一番近くまで行けるのはどこかというと、打波川を遡り、鳩ヶ湯温泉から今の三の峰避難小屋のあるところに登るルートである。こちらに行くと石徹白からの美濃禅定道のルートに出る。五来 重氏は最後に記した石徹白川を遡ったのではないかと推論されているが、これも九頭竜川の源流を指摘しての理由である。それよりも、ルートとして近いのがこの打波川からのルートである。これであれば、別山の近くまで川を遡ることになり、一番分かり易い。しかも別山は御前峰、大汝とともに、泰澄が開山しているのである。

山岳の世界では道のない山に登るときにはまず谷を何処までも遡っていく。これが一番分かり易いし、藪に悩まされることも少ない。それと同じである。だがこのルートを想定することは、平泉寺の人々にとっては美濃ルートを最初から認めることであり、とうてい容認出来るものではない。今になっては泰澄の開山のルートは知るよしもないが、水、川、船頭、海運、弟子の行者などにこだわって、しかも「今来(いまき)の神」は川を遡ったという当時の考えからすれば、一つの可能性の高いルートは、打波川のルートかなと私は思う。現にいまもこの道は登山道として歩かれている。そして泰澄を導いたという鳩の名前も鳩ヶ湯として残っている。一つの仮説として考えてみたい。

近江坂本の日吉大社には、白山姫神が「客人(まろうど)」の神として祀られている。平安時代の初め、伝教大師が天台宗を延暦寺に開いたときに、山岳信仰に深い関係のある、白山の比咋神が客人として、迎えられている。山岳信仰といえば、白山が代表として認められていたのであろう。この客人という語が、この文の冒頭に書いた渡来人「客人(まれびと)」と関係があるのかどうか。ただ、日本人のいうお客さんという意味なのか。それとも、もっと深い意味のある渡来人を意味することをそのまま使ったのか。なんとも興味のある一致である。白山の比咋神は唐装で描かれることもあったとか。となると、やはり白山の神は朝鮮系の渡来人との関わりが強そうだ。だが、だからといつて、白山信仰そのものに直接影響があったとは思えない。平野で農業を営む人も、海や川で漁撈を営む人も、そして山での関連の仕事を営む人もすべて朝夕に白山を仰ぎ見て、感謝の念で拝してきた。今もそれは続いている。

白山の登山基地、市瀬から千振(ちぶり)尾根を別山に登った人はそのブナの林の素晴らしさにびっくりされるであろう。まだこういう原始のままのような森が日本にあるのである。いまさらながら白山の樹林のもつ奥深さを思う。これも、白山曼荼羅にみられるような、山域全体を神、仏の住むところと崇めてきた結果であろう。延暦寺と繋がりが深い白山の仏教は天台宗である。「山川草木悉皆仏性」と天台教学では説く。大乗仏教の教えである。それが白山信仰に現れ、深い森が守られてきた。

白山に登る人が増えることは悦ばしいことである。ただ。スポーツ登山、レジャー登山に終ることなく、山や河や森に対して敬虔な心で接することができたら、いくら人数が増えても、山を荒らさないことに繋がっていく。それは、先人が伝えてきた白山信仰の原点であると思う。日本人の山登りはやはり征服する気持ちではなく、山を拝する気持ちを持っていたいと思う。それは白山開山の泰澄大師の教えたことである。

                                     (2008.10.26 垂澤祥夫)
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鏡花『山海評判記』

 『山海評判記』は鏡花56歳(昭和4年)の作で、六つある長編小説の最後の一遍である。鏡花の作品の分類の中では「郷土物」といってよく、山は白山を海は能登の海を指している。作者と思われる主人公が和倉温泉に逗留して、当時まだ珍しかった自動車で周囲を見物したりする。すると、いろいろの事件に出くわすが、そのいずれもが白山の姫神と何らかの関係があるように書かれている。此の小説の主題は白山の姫神である。
 というのは、鏡花が此の小説を書こうと思い立ったのは、柳田國男から「おしらがみ」のことを教えてもらったからである。「おしら神」は東北地方に多い養蚕の神であるが、その名前の由来は、白山(しらやま)の神からきている、という説もあった。柳田は必ずしもそのように断定はしていなかったが、鏡花は北陸、金沢の出であり、ことのほか白山の神には関心があった。そこから、おしらさまを白山神として、この小説の中に生かしている。
 作中の紙芝居屋の安場(あんば)は、「姫神同然のお頭(かしら)」といい、三人の女優の仕えるのは「座頭(ざかしら)はおかみん(巫女(みこ))で、一座は白神座」と宣言する。馬子に襲われたときに助けてくれるのは、「白山の使者」と名乗る。主人公の思い出す女学生、姫沼綾羽こと呉羽は白山の姫神そのもののように登場する。そして、不思議なことに、白山の神は主人公を助けてくれたり、敵に廻ったりする。
 その姫神のお告げは、もう一つの能登の伝承話「長太おるか」のなかに取り入れられていく。「長太おるか」「居るはなんじゃ」「七年前の夫の仇」と続く。小説の最後は「白山権現、おん白神の、姫神の、おつげを聞けば、お李(り)枝(え)、お李枝、お李枝の君は、あなたへやらぬ、こなたへ渡せ。山からなりと、海からなりと。」で終っている。お李枝とは、主人公の姪で、ひそかに主人公に恋をしている。東京からわざわざ能登まで主人公を追ってきているのである。その仲を白山の神はとりもってはくれない。
 鏡花は早く母を亡くし、釈迦の母である摩耶夫人に対する敬虔な心情を生涯にわたって持ち続けたり、山中に住む高貴な女仙、山姫、魔的美女を幾度もテーマとしり上げている。例えば『天生峠』『薬草取』『伯爵の釵』『女仙前記』そして『きぬぎぬ川』などである。『夜叉が池』なども入るかもしれない。宗教的で、永遠に恋いあこがれるそういう女の人を幾度も主題にして書いてきている。鏡花がそういう女性をテーマにすえるときには、間接的に母への思いを懐いているともいえる。
 たが、『伯爵の釵』に「髪長く、色雪のごとく、厳しく正しく艶に気高き貴女、白山の姫神」と描写した以外には直接に「白山の姫神」という言葉はなかった。それが、この『山海評判記』では、白山の姫神を自由自在に登場させている。ひょっとしたら鏡花は以前から一度は白山の姫神のことを小説にしたかったのかも知れない。それが「おしらさま」という神韻縹渺たることばを柳田國男から教えてもらって、一気に主題としてこの作をなした、といえる。
 此の小説を私は何度も読んで、鏡花が楽しみながら、どちらかというと余裕をもって、書いているように思った。主人公がつぶやく「ああ、いろいろの世と時を過ごしてきたー」
「前途は遠い」という句にも、悲観して将来をみているとは思われない。現状を肯定しているように思われる。昭和4年といえば、鏡花は仲間作家では大御所である。あるいは全盛期とみていいかもしれない。そういう時に、前から書きたかった白山の姫神のことを書き進んだと思われる。
 しかも文章は、「帯の薄お納戸に、女郎花、萩などの、優しく弱腰を〆たのは、羽二重の絽であろう。久留米の紺かすりの単衣に、ほっそり朱鷺の肌衣の覗く、襟白粉がくっきりと、肌めのよさに、透き通るように見え、柔らかに濃い髪を無雑作に取り上げた、至極今風でない束髪のびんの後れ毛が、すずしい耳許に、ほんのりと幽かな陰を取って、ほとんど白粉気のない、素顔である。」というように、これは女主人公お李枝を紹介かる部分であるが、鏡花一流の他に追随できない文章表現である。この文がまた素晴らしい。
 評論家の間ではあまり良く評価されていない作であるとか。筋が通らないとか、不気味な余韻を残しているとか、途中で人物が消えてしまうとか。しかし、私は鏡花の野心作とみたい。白山の神が出てくれば、それらの批評は当然のことである。むしろ月並みな筋を通さないからこそ、この小説の独自性があるといえよう。
 まあ、中途半端な評論は止めて、ぜひこの小説を読んでいただきたい。私はたまたま、民俗学、柳田國男、オシラ神、鏡花の小説、白山信仰などに興味をもってよくその関係の本を読んでいる。そのすべてが関係しているのがこの『山海評判記』である。                   垂澤祥夫  (2008.9.30)
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おしらさま

 「おしらかみ」、もしくは、「おしらさま」は、柳田國男が明治42年に『遠野物語』の中で始めて紹介し、その後氏は各地の民間信仰やイタコのおしら遊びなどを継続して調査して、昭和22年に『大白神考』として纏めた。
 「おしらさま」は、関東から東北の地域に多い、養蚕の神である。この神の由来はざっと次のようなものである。昔、あるところの大きな百姓の家に一人の娘と栗毛の馬が一頭いた。ところが娘が16歳のころより、何となく駒と変な仲になった。親父はこれを知って怒り駒を殺してしまう。娘は駒の見えなくなったのを知り、悲しみ探し歩いて、駒が殺された場所までくると、急に一陣の雲が起こり娘を天上に連れ去ってしまう。娘と馬は天国で夫婦になった。それからまもなく娘が親への恩返しといって、蚕を天より下ろしてくる。それが天から授かった虫、すなわち蚕のはじまりである。そのため、桑の木で二体の神体をつくり祀るようになった。(『大白神考』より)
 これを柳田が調べているときに、ロシアの民俗学者、ニコライ・ネフスキーが協力して、東北地方を廻り聞き書きして、柳田に手紙でしらせている。(「ネフスキー氏書翰」)
この説話の骨子となる部分は、1600年前の唐の時代の『捜(そう)神(しん)記』の中に見える「蚕女」伝説にあるという。その後平安時代に京の都の学者が紹介し、それを元に各地の信仰にちらばっていった、といわれる。
 私がこのおしら様について興味をもつようになったのは、実は泉鏡花の小説『山海評判記』である。この小説はテーマの筋の運びを白山の比咋神、すなわち鏡花はそれをおしら様とみているのであるが、に負っている。それは作中に、柳田國男と見られる(実名はだしていないが)人物から聞いた話として、おしら様のことをかなり詳しく、直接書いている。しかも、柳田は白山の神との関係は断定するところまでいっていないが、鏡花は加賀の人であり、強い観音信仰をもっていた人で、白山の比咋(ひめ)神の十一面観音を信仰していた。そのために、小説の中にとりいれて大作をものにした。私は鏡花文学をよく読んでいてファンでもあり、鏡花の肩を持って、おしら様は白山の神と関係がある、という立場で応援するつもりで、資料を集めだした。
 次にいろいろの学者の説を紹介するが、わが国の民間信仰のことにちょっとでも関心のあるひとは、それぞれ説を出しているからおもしろい。「梅原史学」を提唱している梅原猛先生から、最近注目されているドイツの日本民族学・神話研究家のネリー・ナウマン(昭和30年代に論文を発表)まで多彩であり、おもしろい。

1.菅江真澄(江戸時代の紀行家、地誌学者)
 『月の出羽路』北海道の松浦の白神崎の白神山での見聞を書きとめた部分。現代風に訳してみると、「この山の石室のうちに神の神殿があり、見えたり見えなかったりする。あやしきことで、これを世にいう白神、おしら様なりという」。ここでの聞き書きによれば、シラ神=オシラサマとしている。これは、加賀の白山信仰は日本海に沿って、海の関係者が以って広がり、出羽の羽黒修験にも泰澄の開山伝説がある。日本海の由良浜の白(おし)山(ま)島の頂上には白山の十一面観音の垂迹の白山権現がまつられていた。このことより、さらに北の北海道の松前に白山信仰が伝播していてもおかしくない。ここで注目されるのは、おしらさまという言葉が書かれていることである。
 さらに菅江は別の箇所でももっと詳しく白神のことを記している。(これは前田速夫『異界歴程』晶文社に詳しく紹介されている。菅江真澄のオシラサマについての記述は、柳田が「還らざる人」で紹介してから、知られるようになったと前田氏は述べている。)
 「白神 世にオシラ神又はオシラサマと申す。養蚕の神なり。谷を隔てて生ひ立てる桑の木の枝を採り、東のえだを雄神、西の方を雌神とし、八寸あまりの木の末に人の頭を作り、陰陽二柱の御神になぞらふ。絹綿を以て包み秘め隠し、巫女それを左右の手に採りて、祭文祝詞、祓えを唱へ、祈り加持して祭る。此オシラ神をオコナヒ(行神)と謂う処あり。」これが、菅江真澄の文である。的確に記述していて、現在もこれと殆ど変わりない。

2.柳田國男
 柳田は『遠野物語』の出版の予告の中で、「オシラ様はアイヌの神なり」と書いている。これは『蝦夷風俗彙(ふ)聞』に載っているとした。『遠野物語』には14話と69話におしら様のことを遠野で聞いたとして載せている。後の『大白神考』では関係するあらゆることを詳細に分析している。そして結論として柳田は、「日本人の前からもっていた家の神の信仰ではないか」とみている。また、名前の発生の点については結論を出していない。ただ、白山との関係はこの『大白神考』の中ではどこにも触れていないが、それより前に書いた、大正2年の「巫女考」では次のように述べている。
「白山(しらやま)の神を白神(しらかみ)というのはありうべきことで、殊にこの社の下級の神人が、ほとんど漂白といもいうべき旅行をもって、権現の信仰を全国に伝播した事実に考えて、おしら神というものの少なくとも起源のみは、白山神明の神招(かみおき)に用いた、移動式の霊位すなわち手草であったみるのが正しいかと思う」。
ここでは菅江真澄の記述をそのまま認めているのである。おしらのシラは白山明神に関係がある。鏡花の『山海評判記』は昭和4年であり、このときには、すでに鏡花は柳田の「巫女考」を読んでいたと思われる。

3.ネフスキー(『大白神考』「ネフスキー氏書翰」より、大正9年3月26日)
 「私の考えでは、オシラサマは巫女(みこ)のいちばん大事な神であった。彼らに鬼神道に通ずる力を与えた神であったと考えられます。オシラの語源はどうも知る(・・)という言葉に関係があるように思われます。神様の名前はシラであって、これに侍するものもシラという名前を負うたらしい。おしまいに、巫女の一種の俗名(白(しら)比丘尼(びくに)、白拍子など)になったのではなかろうか。いろいろの人種や民族の巫祝の俗名はシャーマンを始めとして、知るという言葉に根ざしていることは、今さら述べる必要はございません。先生は私よりもよくご存じですから。どうして、オシラサマは百姓の旧家で祭られるようになりましたかは、いまだ見当が付かないからご意見を承りたい。」
もちろん、先生とは柳田のことである。おしらのシラは「知る」の言葉からきている、と解釈した。

4.南方熊楠(柳田宛書簡、明治44年3月26日付け)
 南方は、柳田の明治42年6月刊行の『遠野物語』を読んでその精細な意見を書き送っている手紙の中で、「オシラサマはもとは養蚕神なるべき由は、「東京人類学雑誌」明治42年11月分(26巻296号)に載せ置き候」と記している。南方もすでにこのおしらさまについては知っていたようだ。
残念ながら私はいま、「東京人類学雑誌」を読むことが出来ないので、これ以上のコメントはできない。

5.折口信夫(『折口信夫全集』第三巻、「個人信仰の民俗化ならびに伝説化せる道」と「雛祭りの話」)
 柳田と並ぶ民俗学の巨人、折口信夫は、金田一京助先生の論文で、「おしらはおひらというのが正しい、おしらは方言である」とした、これを拠り所にして、「ひな」が音韻変化して「ひら」になった。すなわち、「雛人形」のひなとの類似性を指摘している。そして、「熊野神明の巫女がもって歩いた神体」としている。ひなまつりは個人信仰が宮中に持ち込まれて制度化した。雛は撫物(なでもの)ではないかと折口氏は推測しているが、あるいはもっと早くから、神々を祭るために使われていたのかもしれない、と考えている。おひらさまの方が古いというのである。おしらは「おひら」であり、「ひな」に通じている。さすがに折口らしい独特の、他にとらわれない解釈である。おしらさまの顔だけだしている人形の状態や、主として夫婦神であること、遊びをすることなど、似ている点は確かに多い。

6.梅原 猛(『梅原 猛著作集』5「古代幻視」)
 「東北地方で盛んなオシラサマも、その原型はアイヌ社会にあるシランパカムイの崇拝であろうか。シランパカムイをアイヌ語で解けば、シすなわち「地」、アンすなわち「ある」、バすなわち「もの」であり、「地にあるもの」という意味であり、それは地にある生きとしいけるものの代表としての樹木の霊を示すものであろう」。柳田が最初、アイヌの神なりとした点については、その後柳田は言及していない。梅原氏が独自にアイヌ語よりこの点について言及しているのが貴重である。縄文時代に遡る古い信仰であるとみている。

7.宮本常一(『旅人たちの歴史2』、宮本は民俗学者で『日本文化の形成』、『塩の道』以上いずれも講談社学術文庫など多数の著作がある)
 「白山(しらやま)比咋神を祀ったのがおしら様である。ちょっとこじつけのように聞こえますが、それを立派に証明するものがあるんです。……一部略……イタコの持っている筒のようになったものを肩にかけています。それをイタコたちは「お大事」といっています。そのお大事というものは見てはならないということになっているが、開けて見せてもらいました。すると中に紙が入っていて白山姫命と書いてあるんです。」
このように書いて、自分の実体験からおしら様と白山の神とを結びつけている。

8.五来 重(『石の宗教』角川選書)
 柳田國男は日本民俗の研究で極力仏教の影響を排除して、日本古来からの民間信仰・習俗を対象にした。しかし、これでは神仏習合の日本の民俗の実態はつかめないとして、仏教民俗学を提唱したのが、大谷大学の教授であつた、五来 重氏である。氏は東北地方ばかりではく、白山信仰のお膝元、岐阜県郡上郡美並村で、姫と馬を蚕神に祭るおしら祭文と同じ伝承があることを突きとめた。それを白比丘尼が全国に持って歩いたと推定している。泉鏡花の考え方を学術的に裏付けたことになった。氏は三河の花祭りの白山行事、立山の布橋大灌頂ともに、元は白山の行事であったという説を出している。熊野信仰が後退したときに白山信仰が全国に広がり、其のあとに愛宕信仰が入っていった、とみている。折口信夫が熊野修験との関係を考えていたが、白山修験と関係すると決めた。最近でこそ五来氏の民俗学は注目されているが、長い間、柳田とは違う説をだしたために、主流にはなっていない。民俗学では柳田と違う説はなかなか受け入れられなかった。日本の学界の特徴とか。

9.菊池山哉(民俗学者、前田速夫『余多歩き 菊池山哉の人と学問』(晶文社)に詳しい)
 有史以前の原住民が信仰した神とみている。「おしら様は吉凶を知らせることがその神格なので、お知らせ神に由来するものと考えたい。この「お知らせ神」の信仰こそは原住民の信仰であると思う。」「有史以前の原住民が信仰したオシラ神は、有史後も容を変えて継承されてきた。一つは白山権現となって、山の神と集合し、加賀の国に権現して、東日本を風靡した(八幡神、若狭神なども、その変形)」
これは上記の本より要点を引用したものである。前田氏もおおむねこの説に賛成であるとしている。白山とも関係あり、またネフスキーの説にも近い。また、梅原の縄文時代に遡るという説にも近い。

10.伊東俊太郎(民族学者、『日本海学の新世紀』角川書店、「比較文明学から見た日本海文明交流圏」
 日本海の越前、能登、加賀は朝鮮の新羅(しらぎ)との関係がふかく、此の新羅人が行っていた、新羅祖神を祭る習俗を日本にもたらした。おしら様のしらは「新羅の国名」に由来する。これは、姫と馬の恋物語は、中国の南部から東北部、そして朝鮮に広く分布している。日本海文明交流圏の中で考えてみると、この説が妥当性がある、と氏は主張している。最近進んでいる日本海学からの見方である。

11.布目順郎(『古代日本海文化の源流と発達』大和書房、「古代の編織物・縄等からみた日本海文化」)
 「満州語の絹糸をあらわすシルゲの語に由来するシルク系の語とみたほうがよさそうに思います。というのは、朝鮮語で絹または絹糸のことをシルといい、日本にも生糸や白い絹糸をあらわすシラガ、シラゲなどの語がのこっているからです。ロシア語のシェルクなど、還日本海の各地で使用されてきた、還日本海語とでもいえそうです。」養蚕の神であり、絹からその発音をもとに推定している。

12.ネリー・ナウマン(ドイツ人、『山の神』を1960年代に発表、30年後に翻訳されて注目される。その後『哭きいさちる神=スサノオ』(言叢社)が翻訳される。独自のアジア、ロシア、メキシコを視野に入れた日本古代研究で、評価が高い。)
 ナウマンは直接におしらさまについて言及していない。ただ、私か注目したのは、その『哭きいさちる神=スサノオ』の書の中で、「逆剥(さかはぎ)―(ー)天(あま)の斑(ふち)駒(こま)を「逆さに剥ぐこと」」という論があり、これはスサノオが天に昇りアマテラスの邪魔をして、『古事記』にある「天照大御神、忌み機屋に坐して、神御衣(みそ)織らしめたまひし時、其の服屋の頂をうがち、天の斑(ふち)駒(こま)を逆剥ぎに剥ぎて堕し入るる時に、以下略」の項について、いままで日本の学者が注目しなかった。斑駒を逆剥ぎに剥ぎて、の部分にもっと深い意味があると論考したものである。結論を言うと、皮剥ぎは死んだ神に新たな生をもたらす。生贄(いけにえ)を剥いで得られた「新しい皮膚」は生を再生する手段である、というように解釈した。そしてこれは、「メキシコの先コロンブス時代の儀礼に見出せるとした。心臓を取り出されてから剥がされる。そして別の神官がこの皮膚を纏う。これは再生の行為である。それは大地が新しい皮膚、すなわち新たな青々とした植物の成長をもたらすように、という行為である。これは蛇やその他の脱皮をする生物をみて連想したのではないか」とみている。これがナウマン氏の見解で、日本の『古事記』の上記の部分の「逆剥ぎ」にこれと同じ意味がある。すなわち、死からの再生である。再生するためには、いちどこのようにして逆剥ぎした馬を(馬は神でもある)必要とした。日本の学者は、「メキシコのことはメキシコのことで、日本とは関係ない、なんて野蛮なことをしているのか」、とみていた。ところが、そこに共通するものがあると指摘されてびっくりしているのである。実は私は昨年3月にメキシコのマヤ文明の遺跡をみてまわり、この心臓を神に捧げたという神殿の像も見てきている。そのときにはまさか、日本に関係することとは考えてもいなかった。見聞は広いほどいいのである。
 ナウマンは、『捜神記』の蚕女伝説について、馬と天に上ったのは、馬の皮かもしれない、と推定して、当初持っていた皮剥ぎ自体が無視されたのかもしれないとした。ナウマンはおしらさまについては全くふれていない。ただ、この『捜神記』のことを引用して逆剥ぎのことを検討しているのである。しかし、私はこの同じ伝承が使われていることから、何か関係が出てくるのではないかと想像した。蚕、織物は女性の持つ最も重要な営みであった。そこから、おしらさまはやはり養蚕、織物の神なのである。白は繭の白、絹糸の白であるのが一番自然である。
 以上が私のいままで、集めた「おしらさま」の説の数々である。おしらさまを白山明神とするのは、イタコが遊ばせることからも、そのイタコの持ち物からも推定は出来るが、それではなぜ白山神が養蚕と関係するのか。そこにくるとよく分からない。それは馬と娘の恋物語が関係しているが、白山神とどう結びつくのか。まあ、これはここまで述べてきたように、かなりいろいろのことが長い間に結び合わさって民間信仰になったものであろう。結論をだすような問題ではない。蚕から農業の神、そして再生のことも絡んでくる、イタコが関係すれば、知らせるというシャーマン的なことも関係してくる。白山神が中心になれば、朝鮮の新羅も何らかの繋がりが出てくる。それは、白山信仰が朝鮮半島の「白(しろ)」という色彩に対する観念と結びついている、という説が出されているからである。民俗学のこと、白山信仰のこと、泉鏡花の小説、これらがたまたま「おしらさま」に関系していて、調べてきた。途中報告のつもりで記しました。  垂澤祥夫  (2008.8.29)
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修験道についてのあれこれ

 名は違っていても本体は同じであることを、「水波(すいは)の隔(へだ)て」という。水上の波はどちらが波で、どちらが水と区別はできない。一体のものである。「神というも、仏というも、これ水波の隔てなり」と言われることもある。日本人の信仰においては、神も仏も等しく頼りにされている。仮にその両方がない状態は、「神も仏もない世の中」と嘆かれる。このように、一般に神仏混交、神仏習合は日本人の久しく持ってきて、そして今も持っている宗教意識の特色といえる。これを一神教の人は、日本人の宗教感覚はあいまいだというが、あいまいでもなんでもない。そういうものなのである。
 その神仏習合は、日本独特の宗教の修験道の中に一番よく現れている。というか、修験道により神仏習合が進んだといえよう。日本の国土の70パーセントは山であり、縄文の時代から山と密接な繋がりをもって日本人は生きてきた。山は食糧を恵み、水を供給してくれ、また死者の赴く地でもあった。山に神を見て、山で祖先の祭祀をおこない、山の自然に慰められて生きてきた。山の自然物八百万に神を見い出し崇めてきた。山の中で生活し、呪術で祖先の霊と交感する人もあった。祖先の霊に祟られるのを恐れ、鎮魂を専らにする宗教者もいた。日本に仏教や道教・陰陽道が入る前の時代である。自然宗教とよんでもいいし、民間信仰といえるのかもしれない。人は神の意見を聞き、神に頼って生きてきた。邪馬台国の女王卑弥呼はシャーマンであったといわれる。祭りと政(まつ)りは一緒であった時代。そこに仏教が入ってきて、とくに雑密といわれる密教の影響を受ける。あるいは山に理想郷を求め、仙人が住むという思想、道教が入ってくる。その影響がある。修験道は役小角(おづぬ)が始めたとされる。それは間違っていないと思うが、理論的に神と仏を結びつけたのは、白山信仰を始めた泰澄である、と梅原猛氏は述べている。それは別のところでよく詳しくみてみたいが、役小角が始めた修験道が平成12年(2000年)に、役小角1300年遠忌が行われたというから、1300年にわたる長き歴史を持つ。これは天武天皇3年(699年)に役小角が伊豆に流された年を基点としている。
 その歴史のある修験道で、役小角や修験道についての学術的な研究が始めてなされたのは、戦前の昭和17年であり、和歌森太郎氏が『修験道史研究』(東洋文庫にあり)を刊行した。それまでなかったと氏は述べている。しかも、当時の軍部が、軍人の錬成のために、西欧の登山とは違う独特の山伏の行動に着目したというから、時代の状況を反映している。
 実は修験道の本を少し読んだりして、このことがわかった。また、続いて柳田國男の「一言主神考」を読む機会があって、氏が大正5年にすでに、役小角について言及しているの知った。和歌森氏が其の戦前に柳田の論文を読んでいたかどうか私は知らない。柳田の弟子であったことより、あるいは読んでいたのかも知れない。
 日本における仏教の研究は教祖が居て、経典があり、教団があり、宗教者がいる、いわゆる創唱宗教(天台宗とか浄土真宗とか真言宗とか)については、歴史上の影響力もあったことよりよく研究されているが、こと修験道のように、庶民の講組織での入峰や、里山伏や高野聖といわれるどちらかというと、社会のアウトサイダーとしてみられていた民間人が主体の宗教については、研究があまりなされていない。というのは、これも権威には弱い日本の特色か。明治時代はじめの修験道廃止令も関係しているかもしれない。
 日本と日本人について学問的な理解をもとうとしたときに、柳田國男の民俗学の研究の大きさが思い知らされる、といわれている。それほど柳田國男はあらゆることについて研究していた。役小角と一言主神との関係も、込み入った和歌森氏の論文よりも、柳田國男の方が私は一番わかりやすかった。
 その話に移る前に、私はこんな経験がある。4,5年前に近江の繖山(きぬがさやま)周辺のお寺を廻ったことがあった。桑実寺、観音正寺などである。そのうちの一つに山の北側に石(いし)馬(ば)寺がある。推古2年聖徳太子の創建というから古い。その収蔵する仏像を拝見させてもらった時に、前鬼、後鬼を従えた役行者の古い像があったのに驚いた。その像はその後修験道の代表的な研究者の一人、村山修一『修験の世界』(人文書院)に紹介されていて、役行者の残存する像の中では、代表的なものになっているのを知った。五箇荘の町並みに近い低い山にある寺に、こんな立派な開祖の像が引き継がれてきていることが、驚きであった。それほど修験道が全国を風靡した時があったのである。多分、金峰山に講を組んで峰入りしていたのであろう。
 もう一つ、それと対象的なこと。今年5月に葛城山系を歩いて、金剛山に登ったときに、山頂の立派な一言主神社の社殿に比較して、役行者が開いた葛城修験の寺、転法輪寺にある法起菩薩が写真だけあって、尊像がなかった(御所市の寺に移っているとか)ことである。今は一言主神の力が、小角を上回ったかのようだ。また、完全に修験道の本家が吉野、大峰に移ってしまっているのを実感した。役小角の修行した地、葛城には、もっと何かあると思っていたのが期待はずれに終った。
 さて、和歌森氏の役小角像は、葛城山の東に住んでいた豪族高賀茂(たかかも)氏の一族で神に仕えた家柄、神の託宣をする家の一員、そして呪術師というものである。そこには、のちに仏教の影響で、行者とか優(う)婆(ば)塞(そく)(在家の仏教修行者)とかいわれるようになるが、そうなる前の姿を描写している。また、中国の影響のある道呪をよくしたといわれているが、それもなかった。このように結論付けている。その後いろいろと伝説が出てきて、当初とは違う役行者像が出来上がるのであるが、一番初めの小角の姿を提出したものである。その後の研究者は、いやもっと外来系の呪禁道の宗教家であった、いや神仙術を使った、いや密教の孔雀明王の呪を使ったとかいろいろと言われるが、そこまでの見方はその後の伝承や伝説を考慮したものである、と和歌森氏は見ている。呪術を使い鬼を使役したというのも、その鬼を調伏できるのが修行者であると当時から見られていた。
 役行者と一言主神との関係もおもしろい。柳田が注目したのは、土佐の国にも一言主神が祭られていて、其の神は大和より移された、そして、後、賀茂朝臣田守の請いによって、また葛城の地に復し祭られたという、続日本紀巻25の記述である。移されたのは、記紀に出てくる、雄略天皇との関係であり、その後、賀茂一族の計らいでまた葛城に帰ってきた。だから一言主の神は賀茂氏の祭る神であり、役小角はその賀茂族の一員であることより、この一言主神に託宣をしていたのである。
「悪事(まごと)も一言、善事(よこと)も一言」とごく短い簡単な詞で神の意思を伝えた。なかなか荒い神であり、容は醜く、夜しか仕事をしなかったという。そのため、吉野まで橋がかけられず、小角に縛せられたという。これは、神とそれに託宣する呪術家との関係であり、神の声を代弁する役小角は、あるときには人々の喝采を受け、あるときには逆に非難された。『続日本紀』に見られるように、讒せられて流されたが、その後は正当さが認められて復権している。だからのちのち修験道の教祖とまでいわれた。江戸時代の1100年遠忌には「神変(じんべん)大菩薩」の諡号(しごう)が贈られている。柳田はこの神とそれに使える呪術家との微妙な関係を指摘して、それが当時の役小角の理解を深めるとしている。
 さて、和歌森氏と柳田氏の説はそのくらいにして、ここにもう一つ注目すべき論を紹介する。それは『山の霊力』(講談社)の本を出版した町田宗鳳氏の考えであり、「修験道の密教化が進む以前、地元の山民たちの(マタギを含む)狩猟儀礼を取り入れて、それが修験道の原型になっていった」とみていることである。例えば、マタギの山中での祈り、それは呪術の性格も持っている、ミソギに近い所作、女人禁制の考え方、青年男子の山に入る通過儀礼などをあげている。いままでこのマタギの儀礼と修験道を結びつけたものはなく、何か新鮮な、なるほどという感じを私は持った。役行者の従者は、まさに山の民である鬼と言われた人である。マタギが大いに関係してきてもおかしくない。
 こうして修験道について関係する本を読めば読むほど、奥が深いことを痛感する。いままで修験道や山伏が異端視されてきたことがおかしいのである。現代の「修験の山」についての第一人者である久保田展弘氏は、「宗教はどこにはじまったのか」という問いに対して、山中で山の自然と向き合うこと、それは水であり、岩であり、草木虫魚であるが、そこに宗教が生まれたとみている。(氏には『役行者と修験道』(ウェッジ書房)、『修験の世界』(講談社学術文庫)、『日本の聖地』(同上)などの著書がある。)
2004年に「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産(文化遺産)に登録されたが、これは日本の修験道に新たな光を投げかけている。山に登るときには、この大きな日本の伝統のある修験の世界を頭におきながら、登るのも大事なことだと、私は思う。それはただ観光に資するためばかりではなく、我々日本人の宗教心の原点を教えてくれる。
とまれ、二上山から続く葛城山系は地形的にいうと、当時、瀬戸内を船で通り、難波か堺に渡ってきた外国の文化(仏教や道教、陰陽道)と、古来からの日本の神信仰との接点の場所であった。山系を西に辿れば堺の港、東に辿れば大和平野の南。ここは、必然的に二つの宗教の融合するにふさわしい地であった。それに、一言主神のように託宣を司る神々は、日本に従来からある言霊(ことだま)信仰の上に成り立っている。そこに小角は真言という雑密の新しい言葉の呪術を持ち込み、従来の神を圧倒したのかも知れない。すべてのことで、まず新しいことをする人は、時の権力者に反抗するとみられた。小角が流罪になったのも、そのためであろう。しかし、その後の修験道の発展は、実は小角は最先端をいっていたことを証明している。 (2008.7.25)
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南方熊楠「山神オコゼ魚を好むということ」

 紀州和歌山の出身、日本には稀に見る一代の傑物、南方熊楠(みなかたくまぐす)(1867~1941)は、驚嘆すべき記憶力と該博な知識で、歩くエンサイクロペディア(百科辞典)と言われた。その論に引用する文は必ず原書に当って確かめ、出所を本文中に明らかにした。氏は若き時に、6年間のアメリカ・中米の放浪生活のあと、26歳(1892年)でイギリスに渡り(その後約9年間を過ごすことになるが)、大英博物館で勉学した。日本に帰ってからも続けていたが、自然科学の雑誌『ネイチャー』誌には50の文章を、芸術・人文科学・文学を主とした雑誌『ノーツ・エンド・クィアリーズ』誌には323の文を寄稿した。そうする中で、イギリスの実証主義を身近に学び、習得していった。大勢の専門家の間で知識と意見の交換をしようと思えば、出展、根拠を示すのは当たり前のことである。
 博覧強記の人、熊楠の代表作に『十二支考』がある。1914年(大正3年)から十年間にわたり雑誌『太陽』に連載したもので、え(・)と(・)にあたる動物について、「世界中の伝説、民話、民間信仰などを博引傍証し、またそれぞれの動物の種類、形状、習慣などについて各国の研究を広く渉猟し、人間と動物および植物との関係の国際比較をおこなったもの」(鶴見和子『南方熊楠』講談社)である。
 岩波文庫にあり、平凡社の『南方熊楠全集』第一巻にもあることより、今でも全部を読むことができる。私は自分の干支が辰であることより、其の項目である「田原藤太竜宮入りの譚」(全文はA4サイズで75ページ)を読んでみた。読みながら、たまたまざっとではあるが、引用されている書を数えてみたら、日本70ほど。中国80ほど、そして西欧の書100ほどであった。合計250冊の本の中に、こう書いてある、こういう図が載っていると傍証して全体を作成している。普通であれば日本からの古典からと、中国の古典から少しぐらい引用して論を組み立てる人が多いが、氏の特色は中国の仏教書からの引用と、西欧の書からの引用が圧倒的に多いということである。特に東アジア、中東、アフリカの龍にまで説明が及ぶのは、此の書以外には見られないことであろう。これが熊楠の特徴で、当時熊楠が滞在した英国は世界に植民地を持ち、最盛期の頃であり、世界の地理、歴史、民話などを競って収集した。それが大英博物館に揃っているのである。
 それについてもその一つずつに原書で確認をおこなっているということは、並大抵の労力ではない。熊楠のイギリスでの勉学の方法は、外国語7,8カ国語ができたということもあるが、事務員として勤務するかたわら、時間があれば、原書を写しに写していった、というもの。帰国したときには、そのノートが持ち物の大半であったという。それを活用して文を書いているのである。この『十二支考』が雑誌に載ったときには世間の人はびっくりしたという。それまでは一部の粘菌の博物学者、あるいは神社合祀反対の運動の関係者、または英国滞在時に親しくなった、中国革命の父といわれる孫文との交友などで、名前が知られていたが、これだけの書をかける学者だとは、一般には知られていなかった。日本の当時の読書界に旋風を吹き込んだのである。
 ちょうど其の少し前に、民俗学者柳田國男との出会いがある。熊楠は帰国後、民俗、郷土のこと、人類学、伝説など広い分野で雑誌への投稿をはじめていた。1911年(明治44年)『東京人類学会雑誌』に「山神オコゼ魚を好むということ」の文を熊楠が載せた。これを見た柳田國男が始めて明治44年3月19日付けで熊楠に手紙を書き、「オコゼのことは小生も心がけおり候ところ、今回の御文を見て欣喜禁ずる能わず。」としるし、自分の書いた「山神とヲコゼ」(『学生文芸』明治43年10月)を送り、「小生は目下山男に関する記事をあつめおり候」として熊野でのこの種の話があれば聞かせてほしいと依頼した。そして最後に「平日深く欣仰の情を懐きおり候ところ、かって『遠野物語』ご覧下され候よしにて御引用下され候のみならず、今またオコゼの御説御表示下され候につけて、突然ながら一書拝呈仕り候」と結んでいる。
 熊楠はすぐに明治44年3月21日付けの手紙を書き、「山男に関することいろいろと聞き書き留め置き候も、諸処に散在しており、ちょっとまとまらず、そのうち取りまとめ差し上げ申すべく候」としている。そして文の大半を、和歌山県では神社合祀が県の役人が熱心で、進んで合祀をして他方の神社の古木を乱伐していくので、土俗学・古物学上このましくなく、また森林が濫伐されるために学術上貴重な生物が失われていくのを憂えて、「貴下、なにかしかるべき新聞、雑誌等へ、右小生の議論の一部を御紹介下さるまじきや」と依頼している。
 こうした書簡を出発点として、これ以降両者の間には、大正15年まで、最後は仲たがいをして絶信となるのである が、熊楠から161通の手紙が寄せられた。(この往復書簡については平凡社から飯倉照平編で『柳田國男・南方熊楠往復書簡集』(上下二巻)が出ている)。柳田は明治42年3月に『後(のちの)狩(かり)詞記(ことばのき)』、翌年の5,6月に『石神問答』と『遠野物語』を出版して、民俗学への関心を深めて、自分の道を決めようとしていた。その時に熊楠に出会っているのである。
 それでは熊楠のオコゼの文の内容についてである。熊楠は山の神は狼であるというわが国の説を出した後で、「オコゼ魚、外に棘多けれど。肉味美味にして食うに勝(た)えたり。もって山神を祀るはその基づくところ、狼が他の獣類にぬきんでて、これを啖い好むこと、猫が鼠におけるがごとくにあらん。」と推測している。そして世間の好事の士、機会があれば生きた狼について実験してみてほしい、としている。
 次に熊楠が紀州田辺の旧家の屏風一対の詞書きを調べて、その全文を載せている。それは山神がオコゼを見て、恋い慕うようになったというものである。概略は次のようである。「山の神が春の長閑な陽気にさそわれて、浜辺に出て興じていると、オコゼ姫も波の上に出て遊ぶ。この姿を見て、山の神が姫に恋をして、手招きするが、まさか見ているものはいないと思っていた姫は、びっくりして水の底へ入ってしまう。それから山神は海岸にでては立っているものの、姫は二度と姿を現さない。そこに獺があらわれて山の神から姫への手紙を託される。獺が海の底のオコゼに手紙を届けると、姫も嬉しく思い承知した。そこへ蛸があらわれ、自分の手紙には見向きもしないのに、山の神へは辺事を書いている。烏賊の入道を呼んで、姫を踏み殺せと罵る。姫はこれを聞いて、山の奥に隠れたほうがいいと思い、海の上に浮き上がり、そこに山の神が向えに来て山に上がり、仲良く暮らした」という物語である。
 オコゼの目が大きく、あご骨が出ていて、口が大きいという姿は、見目悪いと思われていた。ところが恋は盲目というが、山の神から見ると、目の大きいのは美人の相、骨高きも貴人の相、そして口の大きいのは智恵の賢き印となる。これも皆屏風の中に書かれているところ。
 山の神とオコゼについては、民俗学の調査によれば、山の神が大層オコゼを好むので、神にお願い事をする時に、好奇心をそそるために、ちょっとだけ見せて、何度も何度も欺いて神に依頼し、結局はあまり見せない、という話を採集している。熊楠はそういう神を騙すようなことは西洋にもあると、例の引用をしている。そのために、直接的に何故この二つが結びつくのかということには答えてはいないが、そんなことは熊楠はたいした問題にしていない。熊楠はいろいろのことを集めてそこから何かヒントが得られればという態度である。
 以上が氏のオコゼについての内容である。日本では狼を山の神に擬することはあった。狼が群れをなして鳴き猛れば、その恐ろしさとても生きた心地はしないという。中国の南、長江流域では虎が山の神であった。日本には虎はいないが、その代わり狼がいた。中国の学者の中には、日本のオコゼが「虎魚」とも書かれることより、この中国の虎の山の神の信仰が日本にも影響を与えて、オコゼの姿が一部虎の皮に似て、口の恐ろしいところなどから、オコゼと虎を関係付けている。(『山岳信仰と日本人』安田喜憲編、「日本人の山岳信仰と長江流域」李国棟)
 狼が山の神とみられていたことは熊野においては、熊楠の指摘する通りであろう。問題はオコゼと何故結びつくのかということである。それも、オコゼを海の底の滅多にその姿を見ることの出来ない海の神としてみると、この山の神と海の神が結びつく。
 このことに関しては、『古事記』の海幸彦と山幸彦の物語を思い出す。釣針を無くして困っていた山幸彦は海の神の娘、豊玉姫に助けられ、結婚する。豊玉姫は産む時になれば、本(もと)つ国の形になって産むといって、けっしてそのお産のところを見てくれるな、と頼む。ところが山幸彦が見ると、ワニの姿(日本のワニは鮫、あるいは鱶(ふか)のこと)であった。そのため姫は恥ずかしさのあまり海の底に帰ってしまう。神がいろいろの姿を現すということがあり、龍であったり蛇であったりする。
 オコゼは海の神ではないが、何か、この日本神話に出てくる、海洋民と山の民との結びつきということが、関係するのであろうか、と想像したりする。山の神もあまり美人ではないように伝えられているのが多い。神のことは人間の常識では考えてはいけないのかも知れない。現にオコゼを山の神は美人とみて恋をしている。
 いずれにしろこの山の神、オコゼを好むという民俗の話は、まだ十分に解明されていない。それはそれでいいのであって、熊楠と同じくいろいろの資料をあつめれば何かヒントはでてこよう。だいたい、山と海は今のようにはっきりと分かれていたものではなく、海の民は山が荒れることで漁が左右されることを知っていて、山の神に鯛を奉納したりしている。もっと密接に結びついていたのであろう。オコゼは鯛以上に珍しい魚でそのグロテスクな姿がかえって神の好物としたとしても、不思議ではない。
 最後に、柳田と南方は喧嘩別れをするが、民俗学者の谷川健一氏は、南方の研究態度や、世界的なものの見方などが、新しい民俗学の確立を目指していた柳田に、「不断の好意ある刺激を与え続けたことは疑いない」(『南方熊楠全集』第八巻の解説)とみている。とすれば、熊楠のこの「山神オコゼ魚を好むということ」の論は、日本の民俗学の発展にとって重要なものとなった。さらに、古代からの山岳信仰の研究に一石を投じたともいえる。                                (2008.6.29 垂澤祥夫)
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泉鏡花と柳田國男

 鏡花は昭和14年(1939)9月7日、数え六十七歳で亡くなった。この昼、医師から危篤を告げられた夫人すずは、隣に住んでいた里見クに状態を知らせ、里見は電話で友人に連絡した。知らせでまず駆けつけたのが笹川臨風(りんぷう)と柳田國男だった。まもなく鏡花は多くの友人に囲まれて息を引き取った。これは、鏡花と柳田が深い親交で結ばれていたことをあらわしている。
 その交友のはじまりがいつからかは私は知らない。柳田の北陸地方を旅した『北国紀行』の明治42年(1909)の条には「夜は按摩に付近の口碑などを多く語らしむ。鏡花の小説の淵源とする所あるを解する」と記している。有名な『高野聖』は明治33年に、『風流線』は明治36年に出ていて、明治40年には談話『お化け好きの謂れ少々と処女作』を発表している。柳田は鏡花の本をよく読んでいたようだ。
 だが何といっても二人を結びつけたのは、明治43年6月に柳田が刊行した『遠野物語』である。この書は柳田の初期の著作の中では最も有名な書であり、氏の民俗学研究の出発点となった。350部発行した自費出版であり、其の一部を鏡花は贈呈されている。
 鏡花は直ぐに書評を「遠野の奇聞」として発表している。よく引用される冒頭の文をみてみる。
 「近ごろ近ごろおもしろき書を読みたり。柳田國男氏の著遠野物語なり。再読三読尚ほ飽くことを知らず。此の書は陸中国上閉伊(へい)郡に遠野郷として山深き僻地の伝説異聞怪談を土地の人の話したるを、氏が筆に活かし描けるなり。敢て活かし写せるものと言う。然らざれば、妖怪変化あに行きて斯くの如く活躍せむや」。
 当時、鏡花は文壇で一定の地位を得ていたが、明治時代に滔滔として隆盛を誇った自然主義文学の陣営から「またしてもお化け話か」云々と事毎に批判されていた。そんなこともあって、この柳田の書はわが意を得たりの思いがしたのであろう。エールを送っている。
 柳田はそのころ民俗学の研究を始めたばかりであり、まず山神(やまがみ)、山人(やまびと)の伝承を集めていた。そして、「拙者の信ずる所では、山人はこの島国に昔繁栄していた先住民の子孫である」(『山人外伝資料』として、「願わくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」(『遠野物語』序文)という。すなわち、当時柳田は縄文人(山人)を先住民とし、弥生人(平地人)を後来民と考えて、両者を異人種と仮定する発想を持っていた。縄文人を先住民とする考えはその後も学会で検討されてきているが、異人種とまではまだ見ていない。(ここにアイヌの問題がある)。このときにも柳田が教えを乞うた南方熊楠の批判があり、南方は「柳田のいう山人というのは平地人が何らかの事情で山に入りこみ、世間と交渉を絶って暮らしている程度のものであって、先住民族の末裔とか原始人類とかいう仰々しいものではない」と指摘している。
 その結果かどうかは分からないが、柳田もその主張はしなくなった。そして、伝統的な生活文化・伝承文化を研究の対象とする学問、特に伝承を有力に手がかりとする民俗学の確立に努めるようになる。その後柳田の山人研究は大正15年発刊の『山の人生』に結実していく。
 さて話を元にもどして、鏡花も幼いころ、よく近所のお姉さんから昔話を聞いたと述べている。加賀、能登、越中三国の昔からの伝承を集めた『三州奇談』は氏の愛読書のひとつであったと、思い出として語っている。それだけに柳田の遠野物語には加賀の伝承の山人と似たものを見つけていたのかも知れない。鏡花も柳田の本をよく読み注目していた。
 こうした流れを受けて、鏡花が柳田の民俗学から影響を受けて書いたと思われる小説に昭和4年発表した『山海(さんかい)評判記』がある。というのはこの書には「オシラサマ」が出てくる。この「オシラ様」或は「オシラ神」といのは、主に東北地方の民間で信仰されている養蚕の神様で、男女一対の神で桑の木で作られた偶像である。この神のことは『遠野物語』の14話、69話に出てくる。柳田が始めて此の書で取り上げて、以降いろいろの人が研究題目としている。柳田は「アイヌの中にもこの神あること『蝦夷風俗彙聞』にみゆ」と紹介している。これを出発点として柳田は、その後いろいろの伝承を集め、ロシアの日本民俗学者ネフスキー氏の協力も得て、昭和22年に『大白神(おしらかみ)考』としてまとめている。其の前には「オシラ神の話」(昭和3年)、「人形とオシラ神」(昭和4年)などの文でこの神に触れている。
 実は鏡花はこれらの柳田のオシラ神についての文を読んでいたのは事実である。というのは、『山海評判記』の中にはっきりと柳田國男と分かる「邦村柳卿」さんから聞いたと知識の源泉を明かしている。この作中の名前はもちろん柳田國男のことである。
 しかも、「オシラサマ」を柳田は白山のしらやまと関係があるとは断定していないのであり、「蚕のシラ」と見ていたところもある。それを鏡花は白山信仰の地元の金沢の人でもあり、また氏は熱烈な観音信仰を持っていたこともあって(白山の本地仏は十一面観音菩薩)、「オシラサマ」を「白山(しらやま)の姫神」として、能登の和倉温泉を中心の舞台として、小説の筋を展開させている。
 こうして鏡花と柳田は交友を深めていった。昭和3年に開かれた「幽霊と怪談の座談会」でも同席している。二人の共通項には怪談があったのかも知れない。此の時期「泉さんの座談会といえば会談はつきものであった」といわれたという。このころの「怪談」の言葉には、ひろく「怪異」、「妖怪」、「何かあやしいもののこと」などが含まれていたようだ。お化けだけではなかった。
 柳田は鏡花が亡くなってすぐ後に発表した思い出の中で、鏡花の小説を最大限に評価している。「国固有の懐かしいモチーフを文芸にまで飛躍させてゆく力があった」。確かに当時この種の小説を書ける人は鏡花か幸田露伴、芥川龍之介ぐらいであろう。「偉人よく偉人を知る」というところか。鏡花、柳田、芥川は河童(かっぱ)のことも共通の関心ごとであり、柳田はよく取り上げているし、「私には河童のお弟子が二人ある。泉・芥川である」と冗談に話していたという。事実、鏡花には昭和6年に『貝の穴に河童が居る』という小説があり、芥川には有名な最晩年の『河童』(昭和元年)がある。芥川はよく河童の絵を書いていたという。
 私は最近たまたま詩人の加島祥造氏の本を読む機会があり、氏が次ぎのように書かれているのに注目した。「人間の中には、実証的、科学的思考力のほかに、自然からの発信を敏感に受信し、草木虫魚と交感をする感応力という能力がある。現代の日本人はこれが前の思考に偏っていて、日本人が太古から受け継いできた自然への感性が圧迫されている。そのために私たちの生命力が酸素不足になっていないか」(『老子までの道』)と指摘している。
 この氏のいう自然への感性ということは、まだ鏡花、芥川、柳田の活躍した明治の末から昭和にかけては残っていた。あれだけ日本が西欧文明に追いつくために科学を発展させた時代にも。それでは戦後の今のIC、パソコン、携帯電話などの科学技術の発展しているこのときは、それこそ自然への思いを持ち、両方の思考がバランスをとることが必要なのではないであろうか。それが、ともすれば、そういう自然に思いを馳せるという大事な思考が、すぐに経済的な価値に結びつかないために、社会から評価されない時代になっている。そのためにいびつな社会になってきている。それはまさに酸素不足の状態であり、人間が病んでくることになる。毎日報道されるたくさんの暗いニュースを見ればそれは分かる。科学的思考が増せばますほど、自然への感性を増やして、両者のバランスをとる必要がある。
 いまこそ柳田國男を必要とし、鏡花、芥川が必要ではないだろうか。私はそんな思いもあり、これらの先学者の本をよく読んでいる。                         (2008.5.29 垂澤祥夫)
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「他界」と「霊魂」

 明治の日本に生きたラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、亡くなる直前に(明治37年)『神国日本』(東洋文庫に翻訳あり)を書き上げた。この書は、日本での生活、特に松江での藩士の娘小泉節子との結婚で得た、日本人、日本社会についての印象・随筆を一歩進めて、体系的に歴史・宗教を通した日本の姿全体、の解明を試みたものである。
 氏は日本社会を規定する中心的なものとして、死者の霊を神として崇める習俗、特にかく家における祖先崇拝の祀り、地域の氏神信仰、そして国家の神道祭祀を挙げている。特に家での、それこそ古くから連綿として行われてきた祖先祭祀に注目した。
 最近になってハーンの日本社会についての民俗的な資料採集に関心が向けられているが、柳田國男、折口信夫を中心とした日本民俗学の確立より十数年前に、例えば、民間信仰、禁忌習俗、キツネツキ、大黒舞歌、ミサキガミなどの民俗資料をすでに集めている。
 この書の中から、「霊魂」「他界」について述べている部分をひろってみる。
 「日本では万物に霊があるとみている。動・植物や石、水などにでもある。沈む太陽にも手を合わせ、滝の流れ落ちる水音にも神性を感じる。」
 「日本では死人をば相も変らずこの世に住居(すまい)しているか、あるいは少なくともこの世と絶えず交渉を続けているものと考えている。」
 「祖先の死者が幸福であるかどうか、そこに生きているものの幸福がかかっている。そのためかかさず祭祀を行う。この両者は相互扶助の絆で永遠に結ばれている。」  「この目に見えない世界は、明白にこの目に見える世界の複写みたいなものである。」
 「この家の祭祀のあるお陰で、生者ならびに死者に対するあらゆる義務の観念――尊崇の情念、忠義の情念、自己犠牲の精神、また愛国心などが、みなそこから展開されていく。」
 「大和魂」という言葉をすでにつかっていて、当時の日露戦争を戦う愛国心のもとは「祖先崇拝」にあると喝破している。
 このような『神国日本』の内容を読んでいくと、的確に日本人の寄ってくる心の奥底を捉えていると言える。後ほど紹介する柳田國男や折口信夫の考えていた日本人の信仰に関する見解と遜色なく、的外れの点はない。
 私は山岳に関係する文化、特に山岳信仰について、よく本を読んでいる。日本人の山岳信仰には、霊山といわれる山をはじめとして、そうでなくてもわれわれの周囲の山には、祖霊が常に留まっているという思いがある。するとどうしても「他界」とか「霊魂」という問題を抜きにしては考えられない。そこで今までの日本人はどのように考えていたのであろうか、とまず民俗学の方面から探ってみようと思った。ちょうどそんな時にハーンのこの書を読んだので、まず外国人の目からみた解釈をひろってみたのである。
 私も古希を前にして、いや応なく死ということを考える。来世はあるかもしれないし、無いかもしれない。死後の世界は誰にも分からない。しかし、分からないからといって、若い時のように合理的、科学的に考えて、あるいは、唯物論的に考えて、見えないものは考えなくてもいいとして、終ってしまっていいのだろうか、と思うようになった。
 ある本で読んだことであるが、「現代は生と死をつなぐ霊魂が欠けているから、生は全部で死は虚無である。霊魂は不滅だといえば、その霊魂を見せてくれなどといわれる。霊魂や来世の信仰のない現代的な人生観が、現世主義、現実主義になり、刹那的になるのは当然だ。そこから現代社会のいろいろの問題がそうせいしてくる。」
 また吉野に住んで吉野の自然と歴史の中で歌を詠んだ前登志夫氏(今年亡くなった)は「死への思索のないところにまっとうの生はあるまい」と現代の風潮に警告を発している。
 ニーチェが「神は死んだ」といったのも、20世紀の西欧の、聖書が自然科学的真実と合わないとして神を否定した社会を表わしている。
 だが現代の世界の環境問題を契機にした地球全体の深刻な問題の解決は、科学だけでは解決が難しくなっている。自然との共生という考えには、自然の神を敬うことから始めなければならない。それは、今までの西欧文明が未開として蔑んだアニミズムを見直すことかもしれない。祖先の考えた世界観の中にヒントがあるかもしれない。
 まず柳田國男である。氏は戦後まもなく『先祖の話』を出版した。この本は戦争に負けて日本の社会が変っていくときに、家がどうなっていくかを心配して書いた。社会の安定は家の永続であると柳田はみた。その家での先祖の祭祀が行われることが、日本の社会を混乱から救う。柳田國男の説はその後の推移をみると、それほど杞憂に終ることなく、社会は安定して家も何とか維持されてきた感がある。
 だが、この4月に高野山にお参りして、会の例会で高野三山に登って来た。その時泊まった宿坊のお坊さんが、この弘法大師の眠る奥の院のお墓も半分は無縁仏になっていると話された。すなわち先祖供養が絶えてしまったのである。このことを聞いて、今は戦後に続く、大きな変革期にあるのであり、柳田が心配した「家」「祖先祭祀」「墓の維持」などが60年後に現実になってきたとあらためて考えさせられた。柳田は「遠い昔の世の人はどうしていたかを、参考として知っておくのが強みである」と説いている。であれば、いままた同じように昔の人の思いを振り返ってみてみるのも必要であろう。それでは柳田はどう書いているのであろうか。
 「日本人の死後の観念、すなわち霊は永久にこの国土のうちに留まって、そう遠方にはいってしまわない」
 「あらみたまは荒御霊であって、まだ和やかなる先祖祭にはふさわしくない。そのために別に祀った」
 「亡くなって一定の年限、例えば33年経つと、尊い霊体になり、先祖様の一員となる」
 「家々の田の神は祖霊であったろうと思う。死んでも故郷の山の高みから永く子孫の生業を見守り、その繁栄を顧念している」
 「両墓制ということがあり、一つはいけ墓であり亡骸を埋葬した。もう一つは参り墓であり石碑を建てて拝んだ」
 「ご先祖になるという言葉には、盆や正月に還って来てゆっくりと遊んで行く家を持つという意味である」
 「日本人の多数がもとは死後の世界を近く親しく、何かその消息に通じているような気持ちを抱いていた」
 「時々の訪問招待とは別に、生まれ変わり、すなわち魂がこの世へ復活するという信仰があった」
 「いちばん難しいのは霊魂の不滅の問題である」
 「生きている間でも、身と魂とは別のもので、したがってしばしば遊離する」
 「物にもそれぞれタマはあると見ていたが、それは人間の方から移っていったということを考えている人は少なかった」
 「みたまの清まり、すなわち現世の汚濁から遠ざかるにつれて、神と呼ばれるようになり、すると再生の機会はなくなってしまう」
 「春は山の神が里に降って田の神となり、秋の終わりにはまた田から上って山に還って山の神となる。天と最も近い清浄な境に安らかに集まっている」
 「先祖の霊は極楽などには行ってしまわないで、永くこの国土のもっとも閑寂な地に静遊している。そして時を定めて故郷の家に往来する」
 以上個別に上げてみたが、主に農耕をする常民(柳田のことば、庶民の意か)の民俗を研究した上での理解である。まだ仏教の影響を受けない時代を考えていて、滅罪とか地獄・極楽の区別、浄土の思想などはとりあげていない。
 それではもう一人の巨人、折口信夫はどう把握したか、「民俗史観における他界観念」という論文からみてみる。
 「たまとたましひとは区別して考える。人間の身体に出たり入ったりするところの抽象的な「たま(霊魂)」を、具体的にしむぼらいずする玉をば「たま」と称して、鉱石や骨などをこの語で呼び、抽象的な「たま」を「たましひ」という言葉で表現する」
 「人間のたましひは人間の肉体の中に常在するものではなくて、たましひの居る場所からある期間だけ、仮に人間の体内に宿るものと考えた」
 「たましひが肉体から分離すると、それに伴う威力も亡くなってしまう」
 「霊魂には善悪の二方面がある。人間から見ての善い部分が神になり、邪悪な方面が「もの」として考えられるようになった。物の怪である」
 「他の国にもある、普通マナと称せられる、外来魂の信仰があった。その外来魂の常在所が別にあった。そこからたましひがやってくる」
 「富と齢(よわい)の国なる常世(とこよ)は、もと海岸の村々で、てんでに考えていた祖霊の駐屯所であった。だから、定期的にまれびととして来り臨んだ」
 「最初は死の常闇の国として畏怖せられていたのが、祖先が村のために好意を持って来臨するのだから、怖いが、また感謝すべきものと考えた」
 「祖先の霊という考えの上に、「よ」に齢の連想が働いて、常闇の国から、段々不老の国なり、さらに豊穣あるいは富の国なる連想が伴うようになった」
 「他界には二つあり、神の所在地、他は神ではない邪悪の屯集する恐怖の義もある」
 「たまとものの区別がなくなってきた。そのためとくに悪質のものを悪霊とも、御霊(ごりょう)ともいうようになった」
 「他界はどこにあるか。天空説と海彼岸説がある。私は海の他界観がまずあり、のちに天空世界観が有力になっていった」
 「山に他界をみるのは、いかにも人間的であって、聖霊としての純化がみられない」
 「我々が他界というと、必ずまず祖霊を思い浮かべるのは、正しく起こる考えではない」
 「白鳥伝説で、白鳥は羽衣を脱ぐことによって人となり、着ると白鳥になる。これは他界身が白鳥であり、現世身は人である。それは白鳥は霊の化したもの、あるいは霊を運ぶ鳥だからである」
 「沖縄ではジュゴンとかイルカを人間と緊密な関係にある動物とみているが、それは、それらの怪獣の中の霊魂が、我々と共通のものを持っているからである。人間身に現ずることはないが、現ずることもありうるとみていた。トーテミズムの考えである」
 「仮面を被るということは、他界の神の来臨する状況と感情を表出しているのである」
 折口信夫独特のことば使いがあり、分かりにくい面もあると思うが、そのことばを意訳するとますますわかりにくくなるので、そのまま括弧にいれて書き上げた。
 二人は師弟関係にあり生涯折口は柳田を尊敬していたが、考え方には差があり、折口は死霊と祖霊を一緒には考えなかったが、柳田は神一般を信仰する以前には、家ごとの神、すなわち先祖霊を信じた時代があったとした。折口はおもに沖縄の習俗をもとに考えを進めていて、常世も海上のかなたとみていた。柳田は田の神、山の神の考えである。
 また、折口は邪悪神にもふれているが、柳田はあまりふれていない。明るい常世、慈愛に満ちた祖霊を中心にした。柳田の説は受け入れやすいが、折口の説は理解するのに骨がおれる。たが、折口の説は元の元を追い詰めていくような論理の鋭さがあり、魅力的である。とくに彼独特の「まれびと」の説はひきつけられる。「まれびととは、他界からおとずれる異神であり、人間の姿を供えているためにマレビトと呼ばれているが、はじめから人格をそなえたものではない。風や光や樹木、岩石もまれびとの一種なのである。常世の国からやってくるまれびと(霊魂)は、祖先神の場合も、村の祖先として戻ってくるのであり、個々の家に祖先が個別に戻るのではない」。 よくよくよめば分かるのであるが、なかなか付いていくのが大変である。 
 人間には死というものがあり、そのためにどうしても、他界ということをかんがえざるをえなかった。それを霊魂という考えをとりいれたところが凄い発展である。霊魂、そしてその居る他界、これを人間だけではなく、万物すべてに共通する霊魂としてみた。ただ、そのありかはいろいろの考えがある。海に近い人は海上のかなたに、山に住む人は山の上にとちがっている。それも最初は死体をどのように処理したかによるのであろう。魂は人が死んでから、骸(むくろ)が腐食していくことから、多分考えられていったのであろう。両墓制というのはよく分かるような気がする。今は火葬であるからうめ墓はないが、参り墓はいわゆるお墓である。
 柳田國男は「幽霊思想の変遷」という論のなかで、「無意識に古風を遵奉している葬送の手続きのうちには、いくらも前代民の死というものに対する思想の痕跡を見出すことができる」と述べている。そして、「必要あって魂を招く場合には、東西南北も塞がり、天も地も塞がれりと説いて、自然に唱える人の付近に来ねば成らないようにし、反対に、追わんとするときには、かくのごとく何れの道も広い、どの道も開いているとした」。葬儀の後に霊が家に帰ってこないようにしたり、塩を撒いたりするのは、死者との絶縁を目的とした。それは亡霊の人間に対する態度はまた格別で、「肉縁の深いものほど恐ろしい」と考えられていたためである。
 このように墓はお参りするときに霊の戻ってもらうところである。それ以外には霊は他界に存在する。墓に居続けることはないと日本人は考えていた。死んだ向こうへ行って見るわけには行かないから、この世から想像して類推するより他にない。他界は合わせ鏡のように、この世と裏、表のようにみていた。其の上で、人間に魂があると同じく、他の自然界のものにも魂はあるとみていた。後にいわれる「山川草木悉皆成仏」の考えであり、仏ではなく神としてみていたのである。国土や石、金属、動・植物、風、雪、光、そして雨などすべてに魂は宿るとみていた。いまでも建築の前には地鎮祭をし、針供養をして針の霊を慰める。
 いまはやりの新井満氏の「千の風になって」というCDがある。この詩の英語の原作を読むと、死者の私は、風であり、雪であり、光であり、そして雨である。また朝の囀る鳥であり、夜のお星様である。そしてそれらと一緒になってあなたの身近にいて、いつでもみまもっていますよ、決してお墓の中にいて眠っているのではありません。という原作であり、それを新井氏が日本語の詞にした。今まで述べてきた柳田や折口の他界観と余り違いはない。日本人の従来からの他界観と合っていたので、ヒットしたのであろうか。
 以上いろいろと書いてきたが、私は結論を出すつもりもないし、まとめられるものでもない。ハーンが把握しようとした明治の日本は、一定の習俗でまとめることが出来たかも知れない。だが、今は価値感が違い、なかなか一つの思想では把握するのは困難である。ただ、我々がどう生きるのかを考えるのであれば、おのずと死への思いを抜きにしては考えられない。我々一人ひとりが「他界」「霊魂」について考えていくことこそが重要なのであろう。                           (2008.4.27 垂澤祥夫)
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草香山

 古代、中国の中華思想からすれば、周辺の国はみな夷(えびす)である。日本は東にあり東夷(とうい)で蔑称の倭(わ)を用いた。倭は矮の意味で、小さな人という意味からつけられたといわれる。東は太陽の昇る方角で、中国では神仙の国のあるところといわれ、秦の始皇帝は不老長寿の薬を求めて日本を目指して使いを出した。日本では天皇自らが「日(ひ)出処(いずるところ)の天子」と称した。
 中国ではもう一つ「日下(くさか)」と言う称号を日本を呼ぶのにつかった。日下は「ヒノモト」と読み、「ヒノシタ」ではない。「橋下(はしもと)」と読むのと同じである。太陽(ひ)のあがるもとである。これは中国の辞書「爾(じ)雅(が)」に載っている。「日下は、日出るところを謂い、其の下の国なり」。中国からの渡来人が、この日下(ひのもと)を日本(ひのもと)の文字に置き換えて、音読してニホン、ニッポン、などと呼んだという。
 ここで有名な「魏志倭人伝」に「女王の国の東、海を渡る千余里、復た国有り、みな倭種なり」と書かれている。また少し時代が下って、9世紀後半につくられた「旧唐書(くとうしょ)」には、「日本国は倭国の別称なり。其の国日辺にあることを以って、故に日本を以って名となす。或はいう。倭国自ら其の名の雅ならざる悪(にく)み、改めて日本と為すと。或はいう。日本はもと小国、倭国の地を併せたりと。」
 倭の名前が上品ではないから日本国と改めた。日本国が小国だから倭の国を合併した、或は倭の国が小国の日本国を合併した、という意味である。その冒頭には「倭国は古の倭(わの)奴(なの)国(くに)なり」と書かれている。奴の国の後裔が倭の国であり、其の国が瀬戸内海を渡り、難波に出て日本の国を合併した。有名な福岡県志賀島から発見された金印の「倭奴国王印」は奴国である。
難波(なにわ)の地は古代から重要な地位を占めていて、ここには朝鮮半島との交通が頻繁になった四世紀から五世紀にかけて、住吉大社が祀られ。後、聖徳太子は四天王寺を建立した。住吉大社は波打ち際に面していて、遣唐使はここに奉幣してから船出をしたという。勿論その後仁徳天皇などの巨大古墳が河内につくられている。
 この難波の地は、命名者とみられる朝鮮からの帰化人による古代朝鮮語では、太陽の光が降り注ぐ水辺の地、という意味だそうだ。ここからが本論である。その難波から真東の方角に生駒山地がある。この山並みから太陽が昇った。この生駒山を別名「草(くさ)香(か)山」というのをご存知であろうか。この名前の由来が日下と関係がある。太陽の昇るところは、ヒノモトである。そこから「ヒノモトの草香」というように、枕詞が出てきた。ヒノモトの日下は別に「日下(くさか)」とも呼ばれ、「草香」とも書かれた。『古事記』『日本書紀』ではこの両方の漢字が使われている。いまも東大阪市に日下の地名が残っている。これも皆、難波から生駒の山を見て、太陽が昇ることよりつけられた来歴による。生駒山地の東には大和がある。当時この両方の地を束ねていた豪族がいた。それが中国の史書に名前の出ている、日本国である。草香山を挟んで勢力を維持していた。
 ここから「ヒノモトのクサカ」が「ヒノモトのヤマト」となり。ヤマトが後に「倭」から「大和」「日本(やまと)」にかわっていった。結局「ヒノモトの日本(やまと)」となる。日本というこの表示は『古事記』にはなく、『日本書紀』に出てくる。日本国という名前は大化2年(646年)に詔(みことのり)につかわれている。以上が民俗学の研究者の谷川健一氏の『白鳥伝説』を参考にしてまとめたものである。この本は地名、人名、神社そして伝承から古代を解明している素晴らしい本である。
 実は「橋下(・)」の名前を「はしもと(・・)」と読むということをつい最近知った。ちょうど同じ頃に谷川氏の本を読んでいて、合点がいった。「日下(・)」は「ひのもと(・・)」であると説明されてあった。また、生駒山が草香山という名前であり、何とも言えない良い語感をもっているのは、長い歴史の積み重ねがあるためであろう。今はアンテナが立ったり、高速道路が出来たりして風情がなくなっているが、古代は直(ただ)越(ごえ)の道があり、難波に行くには最短の道であった。日本の国の名前が太陽信仰から、その神聖な山の草香山から来ているというのは、いかにも分かり易い。山は天に一番近く、天と地の架け橋であるとみられた。会津の磐梯山は、かって磐(いわ)橋(はし)山とよばれた。天と地をつなぐ「岩の梯(はしご)」であった。よくこのことを表わしている。太陽崇拝は必ず太陽の昇る、或は沈む山や海と結びついている。日向国や伊勢国は東の海から太陽が昇ることで重要視された。一方、古代では、難波からは生駒山が、そして大和では三輪山から太陽が昇ることより、山が重要視された。
 そのヤマトであるが、この地名は「山処(やまと)」あるいは「山麓(やまのふもと)」の意味で付けられたという。当初「倭」の字にあてて「やまと」としていたが、倭(わ)が和(わ)に通じることより、「和」を使い、「大」の字をつけて「大和(やまと)」とかくようになったという。この山という字であるが、古代王権のできた時代には、山とは「三輪山」のことを指していたという。一般の山ではなかった。「山辺の道」も三輪山の麓から北へ伸びる道ということで命名された。この三輪山の麓には箸墓古墳があり、この古墳は3世紀の末に築造された、と遺跡調査からわかっている。勿論、三輪山があるからこの古墳が造られた。ということは、三輪山の祭祀は3世紀ごろにすでに行われていた。確認できる山岳信仰の初めにあたる。
 そして、その後西の方から別の集団が入ってきた、戦争となり、和合して大和王権がつくられる。この三輪山の少し北に檜原神社がある。ここは元伊勢の名で呼ばれていて、ここに天照大神が祀られていた。三輪山にはすでに大物主神がまつってあるためであろう。『日本書紀』では笠縫邑(かさぬいむら)に祭られていた天照大神を皇女ヤマトヒメに奉斎させて、大神が鎮まるにふさわしい場所を求めて出発させたとある。そして最後に「是の神風の伊勢の国は常世(とこよ)の浪の重浪(しきなみ)よする国なり。傍(かた)国(こく)のうまし国なり。是の国にをらむと欲(おも)ふ。」と大神が述べたという。ここからいま伊勢神宮に天照大神が祭られることになった。
 日本の名前も、天照大神の伊勢神宮もすべて、太陽崇拝からきている。そして。草香山や三輪山などの山は、その太陽の昇ってくるところで神体山となった。確認できる山岳崇拝とか山岳信仰のはじめは身近な山で形の優れていた山から始まっている。それは3世紀ごろの古墳時代の初めにゆきつくことが出来る。
                                   (2008.3.25 垂澤祥夫)
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医王山と鏡花「薬草取」

 泉鏡花は九歳で母を亡くしている。その故か終生、母親に対する満たされぬ思いと、そのかわりというか庇護してくれる女性に対する憧憬の念を持ち続けている。母を亡くして二年後、父にともなわれて松任市にある行善寺に参ったとき、「したたる露の御まなざし、瓔珞の珠の中にひとへに白きお胸を、来よとや幽かに打寛げたまへる」(『一景話題』)お姿に節して、釈尊の母である摩耶夫人への畏敬の念を強くもつようになる。後年、書斎の机の傍らにいつも高さ30センチほどの摩耶夫人像を置いて拝んでいた。
 ここで話を進める「薬草取」は、鏡花30歳、明治36年の作品で、この歳の暮、師紅葉が亡くなっている。その亡くなる少し前に、「生前の病床に呈する」ために企画された『換果篇』の一篇として弟子たちが小説を寄せている。「先生、筆を枕に取りて、尚ほ章行の句読を正したまひり」と鏡花は思い出を懐かしく語っている。明治24年鏡太郎18歳とき尾崎紅葉を訪ねて、許されて玄関番になって住み込んでより、12年の星霜が経ち、すでに『高野聖』を発表して世に小説家として認められてきた。そんなころ恩師の病気の快復を切に願って書かれたのが「薬草取」である。
 舞台は金沢の浅野川の上流、越中と境をなす医王山(939メートル)である。名前の通り山上に御薬師様を祀る。「名だたる北国秘密の山」で、「御領主の御禁山(おとめやま)」になっている。「仙境に異霊あって、ほしいままに人に薬草をとることを許さず」という山。薬草は特に貴重なもので、木曽の百草丸、吉野の陀羅尼助丸とか、近くでは伊吹山の百草園が有名である。むかしは修験道と結びついて、特に霊山の薬草は珍重された。まさに、薬師如来が示(じ)顕(げん)して霊験を現すとされた。
 主人公は医科大学の学生。山の中で一緒になった花売りの姉さんに山上に近い「千蛇ガ池」の美女ガ原に咲く薬草を採りに行くことを話す。姉さんは花を売って暮らしの足しにしているのである。主人公には二十年前まだ9歳のときの忘れられない記憶がある。同じく医王山に薬草を採りに入ったのである。
 そのころ彼の母は病気で臥せっていた。母の病気を直したい一心で、幼い子どもは薬師様のお告げを受けたと思い、この山に咲く「月影に見ても色の赤い花」を持って帰れば、母の病気はきっと直るに違いないと思い、山へ分け入ったのである。そのときにも手を曳いて花を一緒に採りにいった、天女のようなやさしいお姉さんがいた。姉さんと採った芍薬の真っ赤な一輪の花を母へ持って帰ると、母は快復して五年間長生きをしてくれた。その時の姉さんは帰るときに山賊に襲われてその後亡くなっている。
 今度主人公がふたたび山へ薬草を取りに行くのは、師の快復を願ってのことである。前のときには人一人を生贄にしたくらいの難儀があったが、こんどもその覚悟で来ている。花売りに導かれて花園に来て花かご一杯に花を摘んだときに、姉さんは姿を消してしまう。そして黒髪に紅い一輪の花をさした薬師様が現れ、主人公の襟にその花をさしてくれる。そして「思ふお方の御病気は、きっと其れで治ります」といって見えなくなる。主人公はどうと座して、合掌をし、薬草品の経を読み続ける。
 読み終わってみると、清清しい気分のすっきりとする小説である。山の上に薬師様がおわすところの清浄さと清らかさが彷彿として現出する。ここに出てくる花売りの姉さん、あるいは天女のような娘さんが、鏡花が常日頃から憧憬している母の代わりであり、自分を助けてくれると思い込んでいる、年上の姉さんなのである。それは摩耶夫人とも重なり、薬師様は山の姫神とよんでもいいと思う。医王山からは白山の御前峰と御汝峰がよく見え、白山開山の最澄大師の伝説も伝わっている。山の姫神はあるいは白山比咋(しらやまひめ)であるかも知れない。
 母と師の病気の快復願って、障害を乗り越えて薬草を取りに行くこの小説を見て、師紅葉は多分感涙にむせんだであろう。思い出せば、あの玄関番の青年がここまでの書き手になったのかと、感無量のものがあつたに違いない。
 そして一方、鏡花は「ははこひし夕山桜峰の松」という句を残している。鏡花は山をみては母の面影を秘めた姫君がおわすことをみていたのであろうか。
 この医王山に登った記はまた別の稿で。                (2008.1.28 垂澤祥夫)
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白山と鏡花『伯爵の釵』

 加賀、金沢の人、泉鏡花の生家の二階からは、浅野川越しにこんもりとした卯辰山が見える。その山頂近くは埋葬地になっていて、鏡花九歳のときに、若くして亡くなった母の墓所があった。鏡花は小説家志望の念にもえて上京するまで、そこをよく訪れていた。あたかも母の面影を追い求めてでもいるように。卯辰山に上がれば、尾根ははるか越中や飛騨との国境の山に連なっていく。その果てには、四時に雪をいただく白山が聳えている。よしんばそこから白山は眺められなくても、なだらかな白蓮の花のような白山の山の姿を、目に浮かべることができる。
 白山の神は比咋神であり、水の神である。金沢の人が白山を思う気持ちは強く、宛然(さなが)ら、「加賀の白山」といわれるように故郷の山である。事実、金沢という名前の由来は、兼六公園の中にある清水の湧き水、そこには龍の伝説が伝えられ、白山山頂の碧(みど)緑(り)ヶ池に棲む龍と結びついている「麗沢(れいたく)金(こん)水(すい)」からきている。
 鏡花は小さい頃、近所の優しいお姉さんたちから、地元の伝承や口碑をよく聞いていた。その一つが「三州奇談」であり、巻1の冒頭には白山が出てくる。そんな小さい頃の思い出があり、山中に住むきれいな若い女性に、それは白山の比咋君にむすびつくようにも思われるが、母の代わりを思い描いていたようなふしもある。『高野聖』の孤屋(ひとつや)の女もそうであり、『きぬぎぬ川』『薬草取』などの小説にも出てくる。また、母を思う一念から釈迦の母君の摩耶夫人を崇拝してもいた。鏡花の部屋には小さな摩耶夫人像があり毎日手を合わせていたという。そんな小説の中で、さらにはっきりと白山の神と名前が出てくるのは『山海評判記』の「おしらさま」と、この『伯爵の釵』である。白山については他に『由縁(ゆかり)の女』に詳しく描かれている。
 私はこの『伯爵の釵』の話が気に入っている。舞台は「北陸の都の公園」である。もちろん金沢の兼六公園のこと。「旱魃で市内はもとより近郷隣国、ただ炎のなかに悶える」真夏の午後、市での興行を終えた演劇の女座長が、そぞろに街中の見物で、ちょうど公園のそばにある神社にさしかかる。とそこの御手洗で小さな稚児が水を飲もうとしているが、柄杓に手が届かない。それを見た座長が直接水に口をつけて飲むことを教える。だが直接に口をつけるのは無作法だ、と咎めるように子どもが見た。それが発端である。
 さらに歩いていくと、乞食のような老人が古い茶店の一つに腰を下ろして、虫歯が疼いて耐え難い、と苦しんでいる。老人は坊主で、座長の白金(しろがね)の釵で歯の後ろのところに、差し込んでくれと頼まれる。いやいやそうしてやると、さあ困ったことに、歯茎のいやな臭いが釵に染み付いてどうしてもとれない。ままよ、こんなものいらないと、池に投げ入れてしまう。  話はさらに先に進む。大池の中にある島の東屋で休もうとして船に乗ると、どうしたことか、大きな鯉が船に躍り上がる。その腹を割いてみると、さっきの釵が出てくる。そしてさっきの坊主が現れ、お礼にと、内緒のことを教えてくれる。その釵で雨乞いをすればかならず雨が降ると伝える。
 さあ、それが市中に知れ渡って、幕を張り、壇を設けて、群衆の見守るうちに、主人公の女座長が、雨乞いをする。空高く、釵をふり、一心に祈るが、風、雲ともに動かず、雨はまったく音沙汰なし。失敗に終る。そこで散々に罵られ、罵倒されて悔しさのあまり池に飛び込み自殺してしまう。
 だが、紫玉(女座長)が水に身を投じたとおもったのは、それは天地を静めて車軸を流すように降る豪雨であり、霊沢金水の巌窟の奥に助かっていたのである。むろん、さきほどの御坊が紫玉の大事な釵を捨てでもという行いに、お礼に雨を降らせてくれたのである。坊主は白山の姫神の従者であり、最初に出会った稚児は、白山の姫神で、雨と水の世話をするために、出てきていたのである。白山の剣ヶ峰の雪の池に棲む龍という。
 鏡花は「髪長く、色雪のごとく、厳しく正しく艶に気高き貴女、白山の姫神」と書いている。それは、鏡花が思い描く母の姿に違いないと私は思う。この小説は金沢の史実を背景にして、白山の水の神の霊験を余すところなく簡潔に伝えている。日照りのときの雨乞い、龍が雨を降らすこと、金沢の人の白山姫神に対する信仰など。そして、鏡花は母の面影を偲んでもいる。  私は鏡花の自宅のあつた付近(今は記念館になっている)や浅野川、公園、龍のいわれのある巌窟などを廻って金沢の街を歩いたことがある。鏡花の過ごした明治20年の前半からはもう120年ほどの年月が経っている。それでも何となくその当時のことを偲ぶことができるのは、金沢の街の特色であろうか。素敵なところである。
 私達は終戦後に、アメリカを中心とする連合国の圧倒的な物質の豊富さを実感した。当時は毎日の食べるものすら日本にはなかった。ましてそのほかの公共施設も生産設備も。そして追いつくために、飢えないために一生懸命に働いてきた。そして世界第二位の経済大国といわれるようになった。だが、その戦後60数年を生きてみて、先進国といわれる国の考えかたは、大まかな言い方をすると、科学技術文明への信仰、人類は神によって理性を授けられた特別なものという思想が強すぎる。それが自然を征服してもいい、ただ物が豊かにあればいいという考えに結びついているのではない、と思う。また拝金主義というか、お金万能の見方である。それが、最近とみにグローバリゼーションの名のもとに目立つ。
 私は以前に、人間は見えないものを想像できる唯一の生物である。その見えない世界と、見える世界の両方があって人間の豊かな精神生活が維持できる、ということを読んだことがある。分かり易くいえば、たとえば河童はいない、幽霊はいないと頭から退けてしまうのではない考えかた。それがこころ、思い、観念、思想を広く豊かにしてくれると。
 いま私はただ科学文明だけを信じていていいのだろうかと考える。何か足りないものがあるような気がする。現下の急務である環境問題も、科学の考え方だけでは解決しないように思う。やはり、そこには自然との共生、自然の中でしか生きられないという地球上の人類の限界、それをもう一度再確認する必要がある。それは生物の生死の循環という文明の原理を思い起こさせてくれる。我々は今だけ良い、と考えるのではなく、これから先に生きる人のことも頭に入れなければいけない。それは、日本の縄文時代から我々が受け継いできている自然との共生、再生の考え方である。それがいまだいぶ変ったとはいえ、まだ日本の文化に引き継がれてきていると思う。それを見直し、再評価する必要があるのではないか。すこし大げさな言い方をすれば、それは新しい創造力に結びついていくと思う。そして、新しい地球の環境を守る視点を提供してくれる。
 この科学の時代に、「雨乞いとは何」というかもしれない。アニミズムに逆行か、と思われるかもしれない。しかし、科学の力をもってしても雨を降らすことはできない。こういう話を聞いたことがある。あるマルクス経済学者が、学問の上では唯物弁証法を信じていた。神はいないと。だが、自分の息子の大学受験のときには、北野天神様に合格祈願のお参りをしていたという。我々もお正月には神社や寺に初詣に行く。それと同じである。もう自然は人間の力だけでは統御できないと分かれば、自然を尊敬するしかない。自然と共生するしかない。自然に祈るよりない。その一つとして雨乞いも受け入れられるということか。  鏡花は金沢の人が受け継いできた、白山の龍信仰をこの小説で書いた。幻想を含んだいい話である。私はこのように読んだ。
                                   (2008.2.25 垂澤祥夫)
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医王山と鏡花「薬草取」

 泉鏡花は九歳で母を亡くしている。その故か終生、母親に対する満たされぬ思いと、そのかわりというか庇護してくれる女性に対する憧憬の念を持ち続けている。母を亡くして二年後、父にともなわれて松任市にある行善寺に参ったとき、「したたる露の御まなざし、瓔珞の珠の中にひとへに白きお胸を、来よとや幽かに打寛げたまへる」(『一景話題』)お姿に節して、釈尊の母である摩耶夫人への畏敬の念を強くもつようになる。後年、書斎の机の傍らにいつも高さ30センチほどの摩耶夫人像を置いて拝んでいた。
 ここで話を進める「薬草取」は、鏡花30歳、明治36年の作品で、この歳の暮、師紅葉が亡くなっている。その亡くなる少し前に、「生前の病床に呈する」ために企画された『換果篇』の一篇として弟子たちが小説を寄せている。「先生、筆を枕に取りて、尚ほ章行の句読を正したまひり」と鏡花は思い出を懐かしく語っている。明治24年鏡太郎18歳とき尾崎紅葉を訪ねて、許されて玄関番になって住み込んでより、12年の星霜が経ち、すでに『高野聖』を発表して世に小説家として認められてきた。そんなころ恩師の病気の快復を切に願って書かれたのが「薬草取」である。
 舞台は金沢の浅野川の上流、越中と境をなす医王山(939メートル)である。名前の通り山上に御薬師様を祀る。「名だたる北国秘密の山」で、「御領主の御禁山(おとめやま)」になっている。「仙境に異霊あって、ほしいままに人に薬草をとることを許さず」という山。薬草は特に貴重なもので、木曽の百草丸、吉野の陀羅尼助丸とか、近くでは伊吹山の百草園が有名である。むかしは修験道と結びついて、特に霊山の薬草は珍重された。まさに、薬師如来が示(じ)顕(げん)して霊験を現すとされた。
 主人公は医科大学の学生。山の中で一緒になった花売りの姉さんに山上に近い「千蛇ガ池」の美女ガ原に咲く薬草を採りに行くことを話す。姉さんは花を売って暮らしの足しにしているのである。主人公には二十年前まだ9歳のときの忘れられない記憶がある。同じく医王山に薬草を採りに入ったのである。
 そのころ彼の母は病気で臥せっていた。母の病気を直したい一心で、幼い子どもは薬師様のお告げを受けたと思い、この山に咲く「月影に見ても色の赤い花」を持って帰れば、母の病気はきっと直るに違いないと思い、山へ分け入ったのである。そのときにも手を曳いて花を一緒に採りにいった、天女のようなやさしいお姉さんがいた。姉さんと採った芍薬の真っ赤な一輪の花を母へ持って帰ると、母は快復して五年間長生きをしてくれた。その時の姉さんは帰るときに山賊に襲われてその後亡くなっている。
 今度主人公がふたたび山へ薬草を取りに行くのは、師の快復を願ってのことである。前のときには人一人を生贄にしたくらいの難儀があったが、こんどもその覚悟で来ている。花売りに導かれて花園に来て花かご一杯に花を摘んだときに、姉さんは姿を消してしまう。そして黒髪に紅い一輪の花をさした薬師様が現れ、主人公の襟にその花をさしてくれる。そして「思ふお方の御病気は、きっと其れで治ります」といって見えなくなる。主人公はどうと座して、合掌をし、薬草品の経を読み続ける。
 読み終わってみると、清清しい気分のすっきりとする小説である。山の上に薬師様がおわすところの清浄さと清らかさが彷彿として現出する。ここに出てくる花売りの姉さん、あるいは天女のような娘さんが、鏡花が常日頃から憧憬している母の代わりであり、自分を助けてくれると思い込んでいる、年上の姉さんなのである。それは摩耶夫人とも重なり、薬師様は山の姫神とよんでもいいと思う。医王山からは白山の御前峰と御汝峰がよく見え、白山開山の最澄大師の伝説も伝わっている。山の姫神はあるいは白山比咋(しらやまひめ)であるかも知れない。
 母と師の病気の快復願って、障害を乗り越えて薬草を取りに行くこの小説を見て、師紅葉は多分感涙にむせんだであろう。思い出せば、あの玄関番の青年がここまでの書き手になったのかと、感無量のものがあつたに違いない。
 そして一方、鏡花は「ははこひし夕山桜峰の松」という句を残している。鏡花は山をみては母の面影を秘めた姫君がおわすことをみていたのであろうか。
 この医王山に登った記はまた別の稿で。                (2008.1.28 垂澤祥夫)
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空に星がない

 「智恵子は東京に空が無いといふ 本当の空が見たいといふ 私は驚いて空を見る。桜若葉の間に在るのは、切っても切れない むかしなじみのきれいな空だ。……以下略」、と高村光太郎が「智恵子抄」(昭和16年)に書いたときには、東京には確かに空があった。
 それが最近、「東京の空に星がない」というエッセイを読んで、(私は東京に住んでいないので人づてであるが)、夜の空に星が見えないほど空気が汚れているのだろうか、あるいはビルや車の照明の明りが東京の空全体に映って、それで星が見えにくくなっているのだろうかと思った。それにしても星の見えない空なんて本当の空ではない。何とも味気ない気がする。いや、そんな風流の問題ではなくもっと深刻なことなのだ。
夜、雲ってさえいなければ日本の何処でも星が見えると思っていたが( 鮮明さの違いはあるにしろ)、もう東京では星は見えなくなっている。夜はお月様だけである。ニューヨークでも夜空に星がない、とその文には書いてあったが、こういうことはアメリカに追随してほしくない。少し改めて言えば、これが戦後60数年以上たち、経済発展のかわりに私たちが甘受しなければならない現実であろうか、と私は考えさせられた。
 私が住む京都では幸いと言おうか、まだ星が見える。私は現役のサラリーマン時代、40代の後半に、残業をして遅く帰る時など、厳冬2月の寒夜にオリオン座が天空たかく輝いているのをいく度見上げたものか。そしてそんなちょっとしたことで、何となく気分が晴れたような気になった。東京のサラリーマンはもう夜、星をみることができないのだ。今の東京の人の異常なほどの「京都ブーム」はそういうことの反動であろうか。
 この4月、私は九州の山を歩いてきた。登山を趣味にしているので山にはよく行く。その山行の中で、大分県の飯田(はんだ)高原の泉水(せんすい)キャンプ場で、春ではあったが放射冷却で地面から温度がどんどん奪われていく寒い夜、それこそ降るようにまたたく星空を見ることができた。この高原は町から離れていることもあり、人工的な明かりの影響は全く受けない。大自然の中の一別天地。そこには素晴らしいこの世ではないような星夜が広がっていた。これが日本の夜であったのだ。私はいたく感激した。
 「星はすばる。彦星。夕づつ」と書いたのは清少納言。それから1000年以上経っているが、花鳥風月を愛でる日本文化の伝統は今に引き継がれている。それがもしも星が見えなくなってしまったら、伝統文化も廃れてしまうだろう。
 さらに、私たちが住いを選ぶときに、「星が見えますか」あるいは「夜景がみえますか」、どちらを選びますかということを基準にしなければならないとしたら、それは好みの問題だけにしてしまっていいのだろうか。もっと人間の生活の上での根本的な問題を含んでいるような気がする。いくら東京や都会への一極集中が進むとしても、だからといって星のない空では困る。東京に空が無いといっていた智恵子の想いを私たちは現実化してしまってはならない。智恵子には安達太良山の山の上の空があればよかった。それは生まれ故郷の空で、智恵子の好みのことと言える。しかし、私たちには例え今東京に住んでいなくても、当然星の見える東京の空が必要である。
 たまたま私は今年の2月から3月にかけて、メキシコと中米三カ国を旅行する機会があった。そのとき、夜になると建物の屋上から少しセンチメンタルな気持ちもあったが、夜空をよく眺めていた。さぞかし星がきれいに見えるだろうとおもっていたが、それがそうでもない。案外星の光は弱かった。それが一箇所ではなく数箇所でそうであつた。種々の気象条件や地形のことが関係してくるので 単純には結論はだせないが、あるいは、大気の汚染が全地球規模で広がっているのか、と疑った。推測ではあるがその元凶は自動車の排気ガスにあるように思う。なにしろこの国の車ときたら日本の20年前、30年前の車がまだちゃんとした現役で排気ガスを撒き散らして走り回っている。これらの中米の中進国にも地球規模の大きな大きな問題が静かな夜に忍び寄っている。
 地球観測を目的とした人工衛星からの写真をみれば、先進国の夜の首都は明るい光で輝いて見える。それは都市のビルの照明であり、車の走るライトである。そのことが今のその国の経済状態を示す尺度にもなっている。(その対極には北朝鮮の真っ暗な闇があるが)。明るいことをそして繁栄を否定するわけではない。ただ、前の石油シッョクの時に一定の時間になったらテレビを打ち切るとか、明りを節約するとか、そういうことをしていた。今も地球温暖化の二酸化炭素排出問題では、石油の量の問題とは違うが、その時以上の危機にあると思う。そうであれば、東京の夜に星が見えるように一定の明りの制限をしてみてもいいのではないかと思う。いまの状態は短期間のうちに、これでもかこれでもかとエネルギーを使い、あまり長期的に先のことを考えていないように思われる。
 たまたま「東京の夜に星がみえない」ということからはじめたが、程度の差はあれ日本各地の都市にいえることだと思う。古代から月を見上げていた我々の祖先は、同時に星をも見上げていた。星は月の周りに光り、輝いていたはずである。( 高松塚古墳の星座のように。) いまその片方がみえなくなりつつある。それこそSF小説ではないが、少しオーバーに言えば気候変動による地球の最後の日を予感させられる。いまこそこれを解決するための我々一人ひとりの叡知が求められている。星がみえないということを繁栄の印だけで考えてはならない。                           (平成十九年十二月 垂澤祥夫) 
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黒部奥山の怪

 天保9年というから江戸も末期、江戸城西の丸が火災ですべて炎上した。その再建のために幕府は諸侯に課役を命じた。加賀藩はその大藩のゆえに最高の15万両を割当てられた。ちなみに他の藩は、水戸藩が松板、南部半が檜、紀州藩が熊野の材木、尾張藩が木曽の木材などである。加賀藩はこのご領金を調達するために、藩内最大の森林資源、黒部奥山の伐採を決定した。そのころ、立山のある今の越中の新川郡のほとんどは加賀藩に属していて、黒部奥山廻りが黒部一体を管理していた。
 さて、5月になり山寄りの村々十二か村を指名して伐採人を動員して、まず一班40名が信州針の木峠を越えて黒部へ入った。当時は越中側からではなく針の木峠からの方が入り易かったようだ。だが其の当時、越中の杣たちは黒部の奥山に入ることをきらった。人を容易に近づけない峻険さ、幽邃さから入ったことがないのであるから、未知の世界は怖い。他の山であれば住民が密かに伐採し藩が取り締まるという図式が、ここでは誰も入らない。むしろこの山で木を切ることを禁忌として守っていた。ほそぼそと境界に異常がないかどうかを奥山廻りの役人が廻るだけであつた。それも加賀藩は秘密を維持するために、山中での見聞の他言を禁じていたので、どこからも本当の黒部の状態は伝わってこなかった。むしろ怪異のみが広がっていた。
 たとえば、『三州奇談』には「山に入り始めて斧を入れると、にわかに山谷鳴動して風雪たちまちに起こり、また妖しき風吹き降りてすさまじい。しかし斧を揃えて入れるときには風雪止む時もあり。また剛き獣のいるときには風雪起こるのみか、人を取って空中に投げだし、木を登る人をつかみて投げ下ろし、甚だしく防ぎて谷にいれず」。この怪異は「狒々」という怪獣であると記す。この三州というのは加賀、能登、越中のことである。こういう話が杣たちの間で信じられていたのでたまらない。
 第一陣は黒部に入るのは入ったが、天候も悪く病人が続出して作業がちっともすすまない。今までなら引き返すところであるが、今度は幕府からの藩への命令であり、藩も引っ込みがつかない。第二陣をすぐに要請したが、実は平地でも、この歳は残されている書物などの記すところによると、綿入れ、手あぶりを必要とする異常な低温で天候がさだまらず、とても吹雪の黒部にはいるどころの話しにまとまらない。そもそも黒部奥山を伐採すれば天候不順となり、凶作となるとかたく信じられていた通りになったのである。いくらお役人がそれは迷信だと説明しても、承知しない。そのため村人、杣びとたちはこぞって反対してどうしょうもなく不穏な空気がみなぎりだした。これではさすがの加賀藩も強行することができず、中止のやむなきにいたった、と言うしだい。黒部奥山は祟りのある恐るべき霊域であることが実証されたのである。
 黒部奥山にはこうした歴史があり山林は守られてきた。それが変わったのは、昭和にはいり黒部に発電所やダムを造るために開発がすすんでからである。戦前の昭和15年に完成した黒部第三発電所の建設に関しては、吉村昭氏の『高熱隧道』が黒部の「魔の谷」の様子を描いている。さらに、ここにもう一つの話しがある。戦後、黒部第四ダムを建設する関電は当初立山の神主の忠告を無視して工事を始めた。その罰が、昭和35年の北アルプスを襲った大洪水で一夜にして工事を失った。そのとき会社のとった態度は立山の雄山神社の神主様を招いての大祈願祭であった。それが功を奏してかダムは完成した。
 だが越中の村民が信じていたのは、霊山としての立山の雄山神ではなく、もっと素朴な原始信仰に近い山への恐れであつたと思う。入山禁忌の信仰は山中他界の観念のうち、異郷的他界観にみられるものである。(もう一つの山中他界観は死後他界観であるが、黒部奥山にはこれはないであろう。先祖の霊魂が残るには余りにも遠すぎる。)これは前の奇談にも見られる通りであ。同じように剱岳が登る山とはみられず、開山はされたが、その山頂はまた閉ざされている。入山禁忌の信仰である。これらは立山曼荼羅の絵図の影響もあるかと思うが、これも異郷的他界観といえよう。浄土の反対の地獄とみられていたのである。その後、剱岳はやっと明治40年(1907)に測量官柴崎芳太郎によって登られた。このように黒部奥山に対する民間信仰は原初的な山岳宗教ということが出来る。日本は山国であり、山岳信仰の影響は他のどの分野よりも大きかったのである。
 私はこの黒部奥山の山岳宗教から、最近、後(うしろ)立山(たてやま)といわれる鹿島槍、五竜、唐松、白馬の山には仏教色がなく、修験道も入り込んでいないことに注意を向けている。あれだけ日本の山に強い影響を及ぼした修験道の痕跡がないというのが不思議である。これだけの名山が揃っていて、なぜ修験者がはいりこまないのか。私はそのヒントが何かこの黒部奥山への民間信仰にあるのではないかと思っている。例えば鹿島槍ヶ岳は南槍ヶ岳とよばれ、五竜岳は餓鬼岳、唐松岳は不帰岳などと越中側から呼ばれた。北には針ノ木岳(地蔵岳とも)がある。これらの名前から分かることは、すべて近寄りがたい、不気味なイメージを喚起する。すなわち山中他界の異郷として見ているのである。そこは誰も入ることの出来ない黒部の秘境であり、それに続く山である。江戸時代であれば、弱小の信州の藩の支配の及ばぬ、加賀百万石の支配下である。当然加賀や越中の考え方が山をも支配した。とすれば、黒部奥山を禁忌として別の異郷とみたことは、それに連なる山々にもこのような、針、槍、餓鬼、不帰(かえらず)のような名前を付けて(別に統一して付けた訳ではないが、先入観としてあつた)、忌避していたとも思う。であるから、修験者すら入り込まなかったのか、と思う。この点は直接的には加賀藩の取り締まりがあったためであるが、それでは木材の盗伐に信州側からは黒部へ入っていたのであるから、塩の道が通り信州からははっきりとその峻険な山々が眺められるこれらの名山が、どうして取り残されていたのかという理由を、もっと調べてみたいと思う。(白馬岳に登った測量官はその山頂に宗教的なものは何一つなかったと述べている。普通であれば神様の社(やしろ)があってもおかしくないのである。)これらもまた黒部奥山の怪といえようか。
 注1 広瀬 誠「黒部奥山と剱岳」(『白山・立山と北陸修験道』(名著出版))を参考にしました。
 注2 『三州奇談』は石川県立図書館から取り寄せて手元にあります。(2007.11.1   垂澤祥夫)
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花折峠

 近江の民話にはよく知られているお話でも、「余呉の天女」「田鶴来」「三井の晩鐘」「鷺の恩返し」、そして「花折峠」などたくさんある。これらの民話を題材にして「湖の伝説」の絵を描いた画家、三橋節子さんのことを知っている方も多いと思う。昭和50年(1975)に35歳の若さでこの世を去っているので、もう30年以上前のことである。京都市立芸大で日本画を学び、画家として将来を嘱望され、結婚もし二人の子どもにも恵まれ、大津の長等の湖の見える家で幸福な生活をしているときに、右肩鎖骨腫瘍により、画家にとって生命ともいえる利き腕を切断するという、運命に見舞われる。さらに余命も少ないことを知らされる。だが三橋さんはこれ以降画筆を左手に持ち替えて、残りの二年間、湖や近江の民話をテーマにして大作をかき上げていく。それはこの美しい近江の民話を残したいという思いと、幼いわが子を残していかなければならない母として、子ども達への贈り物でもあつたと思う。
 梅原猛氏が送られてきた「三橋節子画集」をみて感動して、『湖の伝説―画家・三橋節子の愛と死』を一気に書き上げた。ちょうど氏が芸大の学長をしていたときである。この本はその後新潮文庫に収められいつでも読むことができる。そして、残された作品は、家族や所蔵されていた方の好意で提供され、現在大津市長等公園の中腹にある三橋節子美術館で見ることが出来る。岡部伊都子氏が同文庫の解説に「大きな建物でなくても、美術館が造られそこへ行けば節子さんの作品に会えるようになったらいいのに」と書かれたのが、その後市の美術館として実現した。
 私も最近ふとした機会からこの本を読み、いたく感動して、長等の美術館にも足を運び、原画を見てきた。行く前から「三井の晩鐘」と「花折峠」が展示されていたらいいなあ、と思っていたら(展示換があるため)、希望していた通りに陳列されていたのでほつとした。三橋さんは(面識はないがこのように呼ばせていただく)自然をこよなく愛され、また山歩きもよくされたという。結婚する前は京都の吉田山の近くに父の家があった関係で、北山にも登り、また父の勤めていた伝手(つて)で、京大の植物園によく写生に行かれたという。結婚して住むようになった大津の長等の地区はご存知のように桜の名所で公園になっていて、小関越えは手の内であり、もちろん比良の山にも近い。その初期の作品には草花を描いたのが多く、「雑草の画家」ともいわれた。自然に親しまれたからであろう。その草草の作品も展示されていたが、岡部氏が「おっとりとした色調に白濁の渋みがある」と書いているように、白と灰色を基調にして決して華やかなものではない。むしろ晩年の方が少し明るい白になっているような気がする。
 この草花と山、そして民話がすべて一つにまとめられたのが、「花折峠」である。ここに梅原氏の本からこの峠にまつわる民話を要約しておく。
 「その里に、心根がやさしく誰からも好かれる評判の良い娘と、それに比べると何かにつけて評判の良くない娘が住んでいた。二人はほとんど毎日、峠を越えて遠くの里に花を売りにでかけていた。評判の良い娘はよく売れほとんど残ることはなかった。が、評判の悪い娘はちっとも売れなかった。そんな毎日で評判の良くない娘は心中面白くなかった。何かの機会に、評判の良い娘をうんと痛い目に合わせてやろうと思っていた。そんなある日夕方から激しいお目が降ってきた。評判の良い娘が持っていた雨具に二人で入り帰って来た折、三本の太い丸太を揃え並べた橋にさしかかった。おりからのこと、川は水嵩を増して流れはものすごかった。もう少しで渡りきるというところで、評判の悪い娘に日ごろの邪悪なこころが生まれた。次の瞬間評判の良い娘は急流の真っ只中に身を呑まれてしまつていた。息をきらせながら里に帰ってみて驚いた。死んだはずの評判の良い娘が、夕飯の支度をしているではないか。評判の悪い娘はとても訝って、橋まで引き返すべく峠にさしかかると、するとどうでしよう。不思議なことにはあたり一面に茎の折れた花が散らばっていたというのです。その話が瞬く間に広がり、噂がうわさを呼んで、この峠をいつからか花折峠というようになった」。
 これが民話のあらましである。原画のほうは、横130センチメートル。縦162センチメートルの大作で、画面は右上より左下にかけて川が帯状に描かれ、川の中に一人の娘が浮かんでいる。川の流れは止まったように穏やかで、その下一面に草花が描かれている。左上にはもう一人の娘が花かごを頭の上に乗せて川を見つめている。全体の色調はそれほど暗くはなく、娘の紅い着物の色が目立つ。なによりも目を惹き付けるのは花である。梅原氏の説明によれば、のぎく、みずぎぼし、にかな、なでしこ、うまのあしがた、かすみそう、ささゆり、ほたるぶくろ、ききょう、のこぎりそう、くず、おきなぐさ、かたばみ、しおん、よめな、げんのしょうこ、つりがねにんじん、おみなえし、のりうつぎ、そしてくさまおの20種類の花で娘を飾っている。季節はまちまちで、多分自分の好きないままで写生してきた花であろう。正確に一つずつ分かるように、丁寧に描かれている。その画家として出発のときに一生懸命に写生した草花が、この死の直前に再び甦ったのである。色調は明るく、どこか観音浄土の花畑のように私には見えた。
 もう説明の必要もないが、花折峠は北山への入口であり、今は車で一気に駆け上がってしまうので、歩くことも稀であるが、ここには季節ごとに無数のお花が咲いていたのは想像できる。近くの大原の里ではやはり頭に花を乗せて売り歩く大原女がいた。この地域の娘が花をうり歩くのは当り前であったのであろう。そして、むかしの閉鎖された社会の中では、どうしようもない人の嫉妬心は付きまとっていた、といえる。それは醜いものではあるがわれわれの持つ劫というものであろう。それをこのような表面的には美しい話に代えてしまう智恵をむかしの人は持っていた。こうした話になれば、どこか救われる面も出てくる。このように語り継がれていく民話には、祖先の深い思いがこもっているともいえる。それは「過去にあった話」で切れてしまうのではなく、現代の我々にまでつながっていると私は思う。前から気にかけてはいたのであるが、花折峠の名前の由来がこういう民話と素敵な絵で分かったことに、地方の持つ深い文化の一端に触れたような気がした。三橋節子さんの思いは、絵を通して後の世の人々に確実に受け継がれてゆく。芸術の持つ素晴らしさといえる。
                                   (2007.10   垂澤祥夫)
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近江の義仲寺

 万葉集に琵琶湖をうたった素敵な歌がある。「淡海の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに 古思ほゆ」。柿本人麿の代表歌の一つである。大きな湖、今は捨てられた大津の都、栄枯盛衰を偲ぶ抒情、それらが夕日を受けた湖面に乱れ飛ぶ千鳥とともに浮かんでくる。もう一つ、「あかねさす紫野ゆき標(しめ)野(の)ゆき野守りは見ずや君が袖振る」。柿本と同時代の額田王(ぬかたのおおきみ)の作。湖東蒲生の地に遊んで、宮廷人の戯れている情景。伸び伸びとした野原が目に見えるようだ。
 中世には謡曲「竹生島」がある。竹生島は弁財天のおわすところ。極楽浄土と見なされていた。その詞章の中に、「緑樹影沈むで、魚木に上る気色あり、月海上に浮かむでは、兎も波を奔るか、面白の島の景色や」。澄んだ水面では、水の中に泳ぐ魚はあたかも木々に登るかのよう、月の中の兎も波の上を奔るかのよう。とこれまた素晴らしい文章が綴られている。
 江戸時代には、この近江の地が好きで好きで堪らなかったのが松尾芭蕉である。芭蕉は故郷の伊賀上野や江戸の芭蕉庵を出て、京や吉野を訪れる旅では、必ずこの大津の地に立ち寄り、門人たちと愉快なひとときを持った。あまりにもこの地が気に入り、大阪で臨終を迎えるとき「さて、からは木曽塚に送るべし」と遺言したほどである。その理由を交通が便利で、さざ波清く渚に面して、生前沢山の思い出ある地であると書き続けている。木曽塚とは大津の義仲寺のことである。
 私は前からここを訪ねたかったが、近くの京都に住んでいながら行けてなかった。この9月に、ちょうど瀬田にある滋賀県近代美術館で、天台宗開宗1200年の記念で「慈覚大師 円仁」の展覧会があり、それを見た帰りに訪れることが出来た。湖岸道路の大津パルコの信号を西に折れてすぐである。寺の前は旧東海道であった。
 少しだけ義仲寺の案内書を借りて述べる。この地は粟津ヶ原(あわづかはら)といい、琵琶湖に面する景勝の地である。源平合戦のころ、木曽義仲が義経らの軍勢と戦って敗れ、この地で討ち死にされた。その後、見目麗しい尼僧が、公の墓前のほとりに草庵を結んで日々の供養をねんごろに行った。里人がいぶかって問うと、「われは名もなき女将(にょしょう)」と答えるのみであった。この尼こそ義仲公の側室巴御前その人であり、尼の死後この庵は「無名庵」と呼ばれることになった。また寺は巴寺、木曽塚、義(ぎ)仲(ちゅう)寺と呼ばれている。
 芭蕉はこの無名庵をしばしば訪れて滞留し、近江の門人たちと交友を深めた。近くに有名な幻住庵があるが、幻住庵は山の中、ここは湖のほとり。趣きは異なる。俳聖はどちらも気に入っていた。
 さて、狭い境内の中ほどに義仲の墓があり、その隣りに芭蕉の墓があった。芭蕉の墓は一メートルほどの自然石に、門人の丈艸(じょうそう)の筆といれる「芭蕉翁」の字が書かれている。すでに一部灰色になっているがはっきりと読める。まず手を合わせて合掌する。周囲の雰囲気は閑寂の境地を追求した人にふさわしい。芭蕉の句碑が三つ木陰の下にある。「行春をあふみの人とおしみける」「古池や蛙飛びこむ水の音」「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」。門人の句ではよく知られている「木曽殿と背中合せの寒さかな」(又(ゆう)玄(げん))。他にも多数。建物は朝日堂、翁堂、無名庵など。翁堂の前の池には、今盛りと萩の花がしなやかな枝を垂れていた。
 近江八景はここ粟津の晴嵐、矢橋の帰汎、石山の秋月、瀬田の夕照、唐橋の松、三井の晩鐘、堅田の落雁、そして比良の暮雪である。いずれもこの地から近い。ここは芭蕉が気に入ったのがよくわかる。最後に季節の芭蕉の句が壁に貼られていた。今年はことのほかに暑かったので。「湖や暑さを惜しむ雲の峰」。
 私はこころ満たされて義仲寺をあとにした。
                                  (2007.10.1   垂澤祥夫)
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