写真集――夏の森吉山の沢遡行(2007年8月) |
この夏の暑さと害虫のひどさは格別なものがあったが、60才以上の高齢者ばかりの夏の合宿も無事終えた。予定は若干縮小したが、それでも桃洞沢、小又川、赤水沢の良さは評 判通りの素晴らしいものがあった。以下はそのときの写真だ。 |
|
写真集――四国・滑床渓谷 2007年4月 |
四国には中央に知られない渓谷が多い。 特に中央背梁山脈の赤石山脈から石鎚山脈にかけて素晴らしい渓谷が沢山ある。私も早くから赤石山系の沢(谷)に目をつけ取組んだ時代があった。その一部は『渓谷』(1〜10号)に出しているが多くの未発表の記録が手元に残されている。『渓谷』は一山系、又は一流域の調査が終わってから発表する形式をとるので膨大な未発表の記録が残されてしまうことになる。本来ならば日本の沢(谷)の主要な所の全てを網羅した形で「渓谷」を完成したかったが、何せ体力、気力、資金力に限界があることから中途で力尽きた感があった。 私も70歳になって、なを沢への憧憬にいささかも変化はなく、体力に応じた沢へ行っている。今年の夏は森吉山の沢を楽しんだし、春には写真の四国の西端にある滑床渓谷に遊んでいる。 手強い沢を目標とする衆には無用であるが渓谷としての存在感ではさすが観光地になるだけのものがある。 写真家が多く、夏になると雪輪の滝に遊ぶ子供が居る。登山と無縁の存在のように思われているが渓谷全体が巨大な岩盤で構成しているような見事な造作には驚かされる。 この渓谷へ行ったのは二度目である。一度目は外周の山へ登山したとき、二度目は長靴で川中を行った。これが一番良い。両岸に歩道があり観光客は雪輪の滝まで往復するが、その先にも素晴らしい景観が待っている。両岸から対岸へ渡ろうと試みる人達を尻目に長靴は軽々と川中を行った。現地で700円で買ったゴム長の威力は素晴らしく後の九州の山旅にもそのまま使った。先進的な登山道具もよいが、昔からある時代遅れの道具も使いようで最良の友となる。 |
|
写真集――三河・白倉渓谷 |
私の祖先のルーツは三河であるように聞かされていたが、真偽のほどは定かでない。 三河の山は丹波高原と同じように低山が広がり、多くの住民がその複雑な自然を利用して暮してきた。多様な生活形態はその結果といえる。 三河の主要河川に豊川と矢作川があるが、いずれも南西へ直線的に流れている。これが地元で「強風が河川を遡って行く」と表現するとおり、三河は風の通り道であり昔から屋根上に鎌を立て「風切り鎌」といって風に対抗したのだ。 風の通り道は四国の大川も同様、冬の季節風が北西から直線的な肱川を遡って海水が逆流する時があるという。このような地形では山の樹が育ちにくいので、昔から「風神」が祭祀されてきた。 豊川の最奥に佐久間町がある。その一角に「箒木山(ホウキギ)」(840.6m)があり、1992年3月の登頂日が地形図上にあるからヤブが茂る前にねらったものと読みとれるが、実はこの山は注目に値するのである。 歴史的にみて本邦開発程(古代王朝の侵略過程といってもよいが)で、三河から信州に向う道筋にあたり箒木山の名が伝承のなかにあって、天を突く大木があり多数の山河を日陰にしたというのである。単純に同名の山をそれに比定するのもどうかと思うが、豊川は間違いなく西からの勢力がたどった道であった。 さて箒木山に登った経験では長い平頂で大木の茂る環境は十分信じられるのだが、この話は楽しんで調べてみたいので後日のことにしたい。 2004年にバイクでこの付近を走り廻って残った山を物色するうち、やはりこの付近が気になり吉沢から白倉へ越えた。吉沢は峠の村で稼業は山仕事である。村の老人としばらく話し込んでいると「白倉渓谷」へ行ってみよ、という。箒木山に登った折に通った道だが、今では三島、山戸倉、平沢と、いずれも廃村で車もめったに通らず、木の枝や葉が道路上に散乱している。無名の峠から箒木山へ林道があるが途中までと思われる。白倉渓は地図の平沢から白倉集落までの1キロがそれで箒木山の北を天竜川へ流れる白倉川の上流部である。 現在は地元で宣伝していて遊歩道もあり、トイレもある。遊歩道を歩いても十分楽しめるが沢屋なら溯行してもおもしろい。いつでも遊歩道へ逃げられるが、水量の多い沢芯を行くのも自分の現在の技能を知ることになる。地元ではもっと客をあてこんだらしいが、この渓谷だけでは、わがままでうつり気な観光客を呼ぶのは難しい。 沢屋も人の手が入った沢など見向きもしないが、通りがかりに入ってみてもおもしろい。 なお付近には、三河全般に言えることだが、小さいながらちょっと気を引く沢が沢山あるので、時間のある人は立寄ってみれば、と推奨しておきたい。 |
|
写真集――鹿児島・大隅半島の山と沢〔広瀬川・国見岳/境川(谷)/稲尾岳〕1999年1月 |
はじめに 九州の山となれば北・中部に集中し、南部の鹿児島県では屋久島が知られている程度であった。 地形図を詳略に調べると大隅半島の南面は屋久島とよく似た地形と気象条件があり、岩質も花崗岩が屋久島と一連のものではないかと考えられることから、何かがありそうだと感じていた。地形は急峻で稲尾岳は千米に足りないにもかかわらず谷筋は何かがある予感がした。 ある日沖縄からの帰り、飛行機が種子島と屋久島の間を通り九州へ抜けると眼下に急峻な地形がみられた。鹿児島県肝属郡の大隅半島であった。ここには必ず何かが隠されていると感じた。友人の九州「八代ドッペル登高会」の吉川氏に連絡すると、「行くなら付合う」と言ってくれた。 その年の正月一人で吉川宅を訪ね、氏の車で大隅半島へ向った。ロケットで有名な内之浦の公園でキャンプしながら、国見岳から流れる広瀬川の支流二本を登下降し、夜はショウチュウで干魚をあぶって長話をして楽しむ。 翌日は西へ移動し、半島最高峰の甫与志岳に登り、浜の海岸でテントを張り、ここでもショウチュウと魚で満足する。 六郎館山などにも登り、更に西に走り大浦の学校に泊めてもらう算段だったが廃校だった。それだけでなく、この大浦自体が老人ばかりで廃村目前の状態だった。若い人は町へ出て週末に帰る程度だ。漁業のない海岸の村を初めて知った。 大浦という名なのに港はなく、まったく陸の孤島である。これは藩政時代英国との戦争にそなえ砲台を各地に作った名残りで、当時は藩士の数人が家族と共に移住したらしい。 鹿児島にはそんな人為的に作られた村が各地に存在したが現在残っているのは数少ないという。 夜になって熊本から助っ人の若い男女が二人やってきて、かねてからねらっていた稲尾岳に直接突上げている境谷を遡行する予定。 急峻な角度の谷で大滝があるものと思ったが、何本かの滝を登ると崩壊土砂が谷を埋めている箇所があって、滝が埋められたものと思われ、目立った滝群もなく南方のムード満点の趣の違った谷を味わって山頂へ着いた。 急峻ではあるが、目立つ滝が少ないのは、谷全体がトユ状の岩盤から成立っており、その上に土砂が覆っているものとみられ、それが時として崩落しているようである。土砂が全て取り除かれた際にはかなりの滝が姿を現わすものと思われる。 |
|
「西尾寿一の部屋」へ戻る |
「私の空間」へ戻る |