論考1(一般)
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厄介な水源論
 野口健氏と言えばかって25才で七大陸最高峰世界最年少登頂記録を達成したことで有名になった人である。
 その件ではあまり興味を引かないが、その後、環境問題で自ら実践していることや教育問題など社会に関心を持ち熱心に実践し発言している姿は好感がもてる。
 大体、記録を作った人のその後は保身にあけくれる人が多く、金を稼ぐことに熱心だったり、せいぜい組織のコーチなどでマスコミに登場する程度で終わるものだが、彼の場合、米ボストン生れだけあって、どこか定番の日本人の生き方とは違ったものが感じられる。
 そんな彼が中国五輪に対してチベット問題で強い批判のメッセージを発して注目された。小生も人気商売の人が自説をストレートに発言して大丈夫かいな、と心配するほどであったが、その心配の通り、特定のスポンサーから離脱の申入れがあったという。中国に深くかかわってきた会社にしてみれば不安材料は消しておきたい心理は理解できなくもないが、しかしそんな弱気で根性のない会社は一社だけだったという。
 たった一人の発言くらい小さいとみたのであろうか、日本商人の気の小さいのを世界中から笑われないで済んで胸をなでおろす気分がしたものだ。
 商人だけの話ではない。日本人の登山家達はもっと上を行っていた。チベットの未登の山の登山許可を有利にするためか、中国登山協会の言うままどんな難題も受け入れてきた。政治とスポーツは別という誰かの「御言葉」を渡りに船と都合の良い解釈で多用してきた経緯がある。
 日本の登山家で中国のチベット問題で発言するのはこうしてタブーとなって行き、ごく小数の人のみが逆ボイコットして憂さを晴らすのみとなった。
 中国によるチベット侵略は歴史上明らかなのだが、世界の大国ほ、これを政治の取引きの道具として利用するのみで正義の発言はほとんどない。
 ダライ・ラマは現実的な解決法としてチベットは中国の−部でも仕方ないが自治権の拡大を求めている。これが常識的な解決法であろう。完全独立や中国化は共に右派と左派の小数意見で、とても解決にならない。
 中国はなぜかダライ・ラマの意見を聴こうとせず「彼は反中国である」と決めつけて認めようとしない。どこか都合の悪い部分があるからなのは世界中の良識人ほ知っている。非は完全に中国にあるのだが、その中国にも言い分がある。
 これは大声で発言できないが、秘かに世界が認知してほしい、理解してほしいと、実は平身低頭して願いたいのだが、歴史の重圧というプライドが許さず、強気一辺倒で押し切ろうとするから世界中から反発を受けたり識者からは笑われたりしている。
 ここに古い歴史を遡ると必ず出てくるものに、「水源論」というのがある。
 中国歴代王朝は必ず西方への進出をめざした。それは大陸を流れる大河の水源が西域にあったからだ。シルクロードを通じて交易の便宜をあたえ、隊商の保護にあたりながら秘かに西域へ手を延ばして自国の版図の拡大につとめたのである。
 崑崙(コンロン)山脈の水がロプロール湖を作り、タクラマカン砂漠の地下を通って黄河へと流れる。という説が中原でささやかれるうちに、西域は中国の生命線であり、従って領有地へと進む必然が生じたというものだった。
 中国は西域に大軍を送り砂漠のオアシス国家を次々と掌中に納め、ついには北インドにまで進出して行くのである。
 そしてチベットである。中国の二大河川である長江(揚子江)もまたチベット奥地に水源をもっている。ラマ教(チベット仏教)によって内向的な国ではあるが、ひとたび特定の意図をもつ外国の影響下にさらされたなら、水源の保障は無く危険にさらされる可能性があるとするものである。
 それが水源論で、チベット政府の養成という形式のもとに防衛と称して軍隊を送り込むことに成功すると、更にエスカレートし保護区に組込むことに成功し、そして植民地化した。
 水源論は日本でも藩政時代にみられ、紛争の元にもなったし、西欧でも常識化している。そのため国境は大概分水線に沿って(山脈の尾根)区分されているが中国とチベットの場合は規模が大きすぎて考察の外である。ここは中国が早く成熟した国家になってチベットの自治の拡大を認め得ることを望むしかない。
 かって日本が中国に対して行ったことを中国がチベットに対して行なっている愚行に気付くべきだ。
 世界の要請により中国政府はダライ・ラマとの話合いに応じざるを得なくなったものの結果は決裂し、両者は相手を批判している。これによってチベット民衆は話合いによる解決は不可能と判断し武装闘争の道しか残されていないと判断するだろう。せっかくダライ・ラマの平和的で穏健な路線を足蹴にした中国政府は必ず後悔することになる。
 今後、過激派はイスラム過激派との提携やチベット国内で我物顔で振る舞う中国商人を襲撃するだろうし、中国の主要都市でのテロを活発化させるに適いない。チベットがイラクやアフガンやカフカス地方のようになったら、中国政府は再びみじめな形で話合いの遺しか残されていないことに気付くことになって、その代償はあまりにも大きい。
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「記・紀」時代の道
 「記・紀」とは日本最古の文献としてあらゆる分野で通読されている「古事記」「日本書記」の二書を同時に表現したものである。
 七世紀からそれ以前の天皇を中心とする国家の過去と当時を現わしたもので、特に前部は「神話」の形式をとっており現実とは距離のあるものと一般には考えられている。
 古事記がやや早く、日本書紀が続いて出ていることは、両者共国家の意志によって発行されたものとしてとらえると不思議であり、そこに何らかの事件の臭いがしないでもないが、おそらく国家の公報部門に二つの系列が存在したと考えることもできる。
「記・紀」の原文は難解でとても素人の判読は困難である。そこで「本居宣長」の「古事記伝」などから、さらに簡便な国語訳へと現在では多数の校訂本が出版されている。そのうち岩波書店の「古典文学大系」が最も信頼がおけるものとして定評がある。そうした本を読みながら、古典文学の世界に遊ぶのもよいが、時としておもしろい発見があるのである。その一端を述べてみたい。
 「記・紀」には北海道や東北のことはほとんど出てこないので西日本にかたよりがちであるが、近畿地方の山や九州の山岳地帯のことが述べられている個所があって、おぼろげながら七世紀前半の山地の状況が浮かんでくる。
 当時の山地と山民はどんな暮しをしていたのか、職業は何だったのか、天子の行動を述べたくだりの中から推測を試みてみたいと思う。
「記・紀」の人皇の部の中の「神武東征譚」はいろいろな面で面白い存在である。最初の天皇として九州から東征するのであるが、おそらくは何派にも分かれて東征する部族があって、そうした流れの一部として神武一族の東征があったとみるべきかも知れない。それらは理由があったに違いないが、今で言うところの侵略軍である。もともと農耕を営む民が土地を手放してまで戦斗を好むわけではないから、人工増加による過剰人口をかかえて侵略的手段に出るより他ない地域が他の比較的恵まれた土地をうばう行為から始まった戦乱は大きな地域に拡大し、やがて武器として最先端技術の「鉄」を導入し圧倒的な戦力を確保し東に向ったのだろう。彼等は生活窮乏から武力を前面に押したて長い遠征の旅に出るのである。
 瀬戸内海を通り水軍を編成し河内に至り、先住の「ナガスネヒコ」と戦うが敗れ、紀州沿海を南下しながら在地の小豪族を倒し熊野に至る。ここでも在地豪族とみられる「ニシキトベ」を倒す。
 神武軍の数はたいしたものではないが戦斗に明け暮れる歴戦の猛勇ばかりであり、在地の豪族の長などひとたまりもなかったに違いない。上陸地は「荒坂の津」又は「丹敷の浦」と呼ばれているが地勢からみて新宮の付近であると思われるが、現地では幾つかの候補地が名乗り出て、それぞれがゆずる気配がない。
「ニシキトベ」を討ったものの悪い神が毒気を吐いたので将兵は倒れ戦う気力を失ってしまう。そこえ、在地の「高倉下(たかくらじ)」という者が現れ「アマテラス」が夢に現れ「葦原中国(あしはらなかくに)」が乱れているので平定するように告げたと報告するのである。こうして神武は「タケミカヅチ」の神剣をもって紀伊半島を北上するのである。
 以上の部分では熊野川流域に根を張った在地勢力を激戦のうちに自らも傷つきながらも打ち破ったことを告げている。熊野付近は農耕地も若干あり、海産物も恵まれてはいるが神武はこれに満足せず、当初から「葦原中国」(奈良盆地の広大な農耕地)をねらっていたのであり進軍する。しかし紀伊の山は自力では前進できず迷って立ち往生となるが、再び「アマテラス」が夢に現れて「八咫烏(やたがらす)」を下すという。道案内として、のちには偵察にも使われるヤタガラスとは、やはり当地の地理に明るい山民であったに違いなく、熊野の奥地には無数の山民が割拠して住みついていたことが分かって興味深い。
神武の軍司令官である「日臣命(ひのおみのみこと)」(大伴氏の先祖)は「来目部(くめべ)将軍」の兵卒多数をつれて先鋒隊としてついに大和宇田の下県(しもあがた)に出る。
 宇田はのちの宇陀地方に比定されるが、その地の豪族は兄弟で兄を「エウカシ」弟を「オトウカシ」といい弟が兄を裏切って神武側についたため兄は倒れる。これも神武側の謀略の可能性が高い。さらに八十人の土雲が穴の中で蜘蛛のように潜んで唸り声をあげているので謀略をめぐらしご馳走をするといって合図と共に八十人の土雲を倒してしまう。土雲とは土着民であって侵略されなければ抵抗などしない山民の一族だったのだろう。
 宇田を平定し吉野に入り多くの山民を倒し、また従わせて西進すると梁で魚をとっている者があり鵜飼の先祖であった。さらに行くと尻尾のある人間が泉の中から現れてきた。その泉の水はキラキラ光っており、その者は「氷鹿(ひか)」(著紀は「井光(いひか)という」といい吉野の首(おびと)であった。さらに尻尾のある者が岩を押し開いて出てきて「石押分之子(いわしわくのこ)といいこれも吉野の国巣(くず)の先祖であった。
 いよいよ「国見の丘」の決戦となったが再び謀略をめぐらし、正面に女子軍を出し、脇から精強の兵を出してこれを倒す。このくだりでは相手方も女子軍を使ったと出ており古代の戦斗というものの性格が分かっておもしろい。攻めるも守るも家族もろとも一族もろともといった風である。敗戦時の悲惨ぶりはそれこそ凄惨きわまりないものとなったに違いない。
 神武はこの時詠んだ歌には
  楯並めて 伊那佐の山の
  木の間ゆも い行き目守らひ
  戦えば 我はや飢えぬ
  島つ鳥 鵜養が伴、今助に来ね
とあって、この時代の戦斗の激しさを伝えているのである。この中にも鵜養がみられるのが注目される。
 以上の通り神武軍は熊野から陸路を宇田から吉野へ激戦を征して国中に入りナガスネヒコと対戦するのだがその前に「伊那佐山(いなさやま)」の吉野では最も激しい戦斗が控えている。この山岳戦は相方共物見をだしたりして本格的なものとなってくるが長くなるので別の機会にゆずりたいと思う。
以上の神武軍の紀伊半島縦断の長征行はわれわれ登山人にとって実に興味深い幾つかのことを教えてくれる。熊野に上陸した軍はさすがに戦いのプロ集団であり、精強であっても素朴な土着の軍をあっけなく打倒して行くのであるが、それにも増して土着民を恭順させて多くの味方を作りあげて戦力としているのである。
 戦術のあらゆる可能性を試していることは推測されるが、その鮮やかなことはさすがである。次に個々の部分についてくわしく観察を試みてみたいと思う。

1 神武東征軍の性格
 記・紀をそのまま信じるとして神武軍は最初九州の山中から出てくるのであるが帰ることは全く考えていないのである。流浪の旅に出ているのであり記・紀はその成功譚を記述するのではないかと思われる。
 そして、女子軍を戦わせていることから、一族あげて土地を出ているのである。何か土地を出るさしせまった理由があったと考えられよう。それが何であるかは不明として婦女子供をつれての軍は敗けることができなかったのである。精強であり各地で混血を進め同化を行なう。昔の政治的統合とは血の同化である。そのため肉親の女を平気で敵将のもとに送る。神武軍は在地の家族のもとにもこの手法を行ったはずで熊野から十津川を溯り宇田に至る間の山民のほとんどを恭順させているのである。
瀬戸内の岡山付近で長い間をすごしているのはその土地との血の混交を計りさらに東方の情報を入手するためである。さらに強力な水軍を味方につけることで熊野までの足を確保したといってよい。海人族との混交が文面に出ているのは当然の結果である。

2 海人族のこと
 海人族は西方から移動を続け日本の海岸部を沿岸づたいに北上していくのであるが、大概三系統の民族があったという。安曇・宗像・住吉が大流で小形のものでは日本海の阿部などがあったといわれている。宗像は北九州の「宗像神社」を祭祀し、住吉は「住吉神社」を祭祀した。安曇はたぶん「伊勢」ではないかとみられるが、王権はこれらを統合し水軍を作らせ安曇氏に統括させたと思われる。
 現在にも残る地名のうち日本海沿いに「ムナカタ」があり太平洋側に「アズミ」系が存在する。特にアズミ系は伊勢から渥美半島(これもアツミである)に至り遠江から信州に入り安曇地方を拓いて農耕を行っている。
 安曇野に「穂高神社」があり、上高地(旧神河内)の明神池にも奥社がある。穂高の名は農耕に供する水の供給源として神の宿る山として稲穂の高く成育することを祈ったもので、農耕の神であることが分かるが、もとは海人の奉ずる海神であるはずである。
安曇人が穂高岳に登ったかは不明であるがその可能性が全くないとはいえない。農耕神は元々山頂の山宮があり麓の里宮があり、さらに田宮があって、神はこの間を季節によって移動するものなのである。この形式が今も完全に近い形で残っているのが近江の多賀大社である。私は彼らが穂高岳に登った可能性は70%以上あるとみている。
 海人が山登りなどというなかれ、海人こそが水源に対して畏敬の念をもつことができるのであって、縄文人のように山地の中腹が主なテリトリーの者はけっして山頂に興味を示さないものである。水稲農耕を行なうから水源の山が注目の的となるのである。私は海人だからこそ山登りをするのだと考えている。
 もうひとつなぜ安曇人が信州の山奥まで深入りしたのであろうという謎である。このひとつの説として考えられるのは、先にあげた水軍の問題である。日本は百済を助けるため朝鮮半島に兵士を送っている。これを運んだのが安曇氏幕下の水軍である。歴史上有名な「白村江(はくすきのえ)」の敗戦によって水軍は全滅に近い結果となり残余の水軍は陸上深く逃げ込んでしまうのである。
 海を遠くはなれた山中で海の習慣とみられる物証が少なからず存在している。東海地方の川沿いに川が蛇行して半島状の所を「島」と呼び、「山波」もある。山の神の好きな「オコゼ」は魚である。海の魚が山の神の好物というところにも山人や山民、その昔ひょっとしたら「海人」であった可能性があるのである。少なくとも山に登るのは海人が最も強い理由をもつものであることに留意する必要がある。

3 十津川あたり
 神武軍はヤタガラスの道案内を得て宇田に至達するが、その間道に迷い、原住民の抵抗にあって進めない状態が続いていた。この記述は地形的な理由の他にも原住民(山民)が川筋を主として生活しており、それらの部族との交渉に手間どっていることがうかがえるのである。「記・紀」には二度も鵜飼のことが出ており、神武の供えとして食糧係をしていたことが分かる。鵜飼のことは後述するとして、あの十津川や北山川を越えて道なき所を越えたと表現するところに困難の度合いがうかがい知れる。しかしわれわれが今日考えるような藪こぎのようではなく、今日のような杣道はすでに存在していたはずである。また抵抗する部民のあったことがふくまれているものと思う。
 平和な暮しをしている者に恭順をせまったり軍隊に編入させたりすることに抵抗しない民は居ないのであり、これを武力で従わせるところに強引さがあるわけで、これに抵抗する者を背逆賊であると表現する主観に侵略軍の後ろめたさ反映されている。

4 宇田の山と山民
 神武軍が宇田に至るとにわかに山民との戦いの記述が具体的なものになってくる。これは実際に反抗する民の数が多かったからであり相当規模の集団を統率する首長があったことが分かる。宇田には小盆地が多く、農耕を営んでいたものとみられ、侵略軍に反抗するのは当然のことで高倉山の国見山(国見の丘)には「八十梟(やそたける)という勇猛な集団が居て女性軍も参加し防衛していた。これは土地をもつ農耕民は逃げることが不可能であり、部族全員で防衛をするのが当然であり、強く抵抗するからといって侵略軍がこれを攻撃する理由にはならない。非情にもこれを全滅させてさらに吉野に向うのである。
 この地には多数の異民族があって尾のある人間とか、土雲(土蜘蛛)とかいった者が出てくる。これは王権が彼らを蛮族扱いしている証明で実際には尾があったり、穴倉生活を集団でしていたわけではない。それはおそらく動物の皮を着ていたか、鉱山の関係の者達であったろう。彼らは、道路に炭火を置いて抵抗したとあるのが面白く印象的であるが、これは彼らが攻撃よりも、防衛が目的であり、むしろ山に砦を築き籠城をしていたことが分かる。

5 井光(いひか)のこと
 吉野には泉の中から身体が光って尻尾のある者が出てきて名を井光であるというのがある。また丹生川で魚を浮かせたとあるのが気にかかる。これはおそらく神武が侵略を正統化する意図と従う民に畏敬の念をもたせる意味で、霊力を示す必要があったからと思われる。丹生川の丹生は朱で水銀のことで、井光も同じである。この一帯は現在も丹生川や丹生神社があり、井光川や井光の村が現存する。おそらく水銀や、鉱山の発する毒で魚を浮かせたのではあるまいか、――神武はそうした知識をもつ者を大勢味方に引き込んで謀略と共に戦斗というものをただ単に武力のみとは考えていなかったのであろう。生産活動をせず、ひたすら戦斗にあけくれる戦争プロ集団ならではの知恵である。
 吉野地方における鉱山や金属に関する労働者が相当の数にのぼっていることが「記・紀」によって知ることができる。

6 鳥見(とみ)のこと
 ナガスネヒコとの戦斗で有名な金の鵄(とび)が神武の弓の尖端にとまる図がある。この土地を鵄の村と呼び、のちに「鳥見の村」となったと述べるのだが、これを現在の鳥見山付近に比定すると戦斗が宇陀から都介野に移っていることが分かる。吉野・宇陀を平定した神武軍は、国中(くんなか)に攻込むのは時間の問題となっているのである。しかも国中の各豪族は結束してこれを迎えうち気配がなく、ひとりナガスネヒコのみが神武のうらみを受けて戦っているように見受けられるのである。農耕民は原則として戦斗には向かないのであろう。土地と共に生きる彼らは猟狩民のようにはいかず絶対に土地からはなれないのである。王権の移動など感心の外であり、今まで通りの生活を案緒されるなら敵となる必要など全くないのである。
 他の王たちは戦斗の行末をみながら勝者につくことを考えており、これがのちの王権の取巻き連中となる。

7 鵜養(うかい)(鵜飼)のこと
 「記・紀」の神武東征の部には鵜養のことが二ヶ所出てくる。吉野川の西に行くと梁で魚をとっている者があり、名を聞くと「ニヘモツ」の子であるという。これが阿太の鵜飼の先祖であるということ(古事記では鵜養の字をあてる)で、もう一つは先にあげた神武の歌である。この時はすでに鵜養は神武軍の食糧担当となっており、伊那佐山の戦斗で腹が空いているので早く飯をもって助けてくれというもので神武軍における鵜養の役割が読みとれる。
 現在の新宮市のとなり熊野川の左岸に「鵜殿村」という小村がある。鵜は海鵜を捕らえて訓練し川魚をとるのに使うのは現在でも行われているが、古代から行われていたらしい。「記・紀」に出ているのは梁を使っているところが表現されており、鵜もよく使うが川漁全般、あるいわ川の道案内など、かなり広い範囲の仕事を行っていた可能性が高い。食糧係を引き受けるなど神武軍にぴったりよりそうように同行しているところはさしづめ、工兵隊と兵站とを合わせたような活躍を演じていたようにも思える。しかも十津川や北山川の流域にはそのような鵜養が多数住んでいて彼らの長を同行させていたに違いない。吉野や宇陀に居る同じ系統の鵜養に対しても広く兵站の確保を命じたことであろう。こうして農耕民以外の雑多な職業につく部族を結集してついに国中を支配することになるのである。
 熊野から吉野・宇陀にかけての山岳地帯は古代から人々が生活してきた場所であり、この地方が不毛の地のように思うのは農耕民の発想であり、実際には豊かな自然の恵みであった。しかも敗者をよみがえらせる土地柄でもある。ナガスネヒコに一敗地にまみれた神武はついに反撃に出て勝利を手中にするのである。熊野を「隠国(こもりく)といったり「黄泉国(よみのくに)」といったりするのは死者や、敗者をよみがえらせる国だからである。神武も生きかえったし、その後にも天武は吉野に逃げるし歴代天皇の熊野幸行は数知れない。
 南北朝はその代表で北山宮は殺されるが紀伊の山中深く神器をもって隠れ住んだ。天誅組は活躍するといった具合で例をあげるのに切りがない。熊野を代表とする紀伊の山々は敗者の里である。傷ついた者を優しく再生させる土地である。
 はからずも王権を支えた紀伊の山と海の民はその代表者を大和国中に送り出してついに水稲農耕者の国を支配する。そして同化することにおいて政治的支配を実行する。海人の祭祀する神とみられる「アマテラス」を農耕の基本神とすることとし、しかも東国経営の基地として伊勢の地に祭祀するなど見事な経営手腕を発揮したのである。そして日本国は農業立国として千数百年を歩むわけであるが、王権の血の中には、山民と海人との血の騒ぎが残されているようだ。
 その血の騒ぎとは何であろうか、表面は忘れさったかに見える非農民としての性格が垣間見られる時がある。
 流民としての木地師が皇家との繋がりを求め、維新には山民が蜂起し、神官が立つ。それらは農民ではなく遠い先祖の呼ぶ血の声なのではなかろうか――王権がはるか昔に忘却し去っていた山民としての性格が完全に消えさることなく細い尾となって千数百年の間引きずって生きてきたかのように思われてならない。
先に観てきた熊野を中心とする紀伊山地の暗さは農耕民の視点である。農耕民の歴史観が日本の歴史の主幹となっている現状ではいたしかたないが、少なくとも山地が魑魅魍魎だけの住む未開地であったわけではなく、見えざる山陰の土地にも住む人々がおり、豊かな営みがあったことを知らねばならない。(1988年3月)
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ヤクに乗る
 チベットでヤクに乗る機会を得た。乗った経験をもつ人から「何度も落ちた」と聞かされていたから容易ならない代物らしいことは覚悟していたが、予想通り難物だった。
 ヤクに乗る場合は馬の代用とかめずらしさが動機なので目的をもって長距離を移動するものではない。普通は裸の背に毛布かチベット式のジュウタン状のものを乗せて、その上に跨る。
 ところが今回はチベット人に馬の鞍を見本としたヤク用の鞍を作らせた、と言うのである。史上初めてヤクに鞍をつけるのだ、と担当者は得意満面なので半ば期待もしていた。しかしチベットに着いて問題の「ヤクの鞍」をみておどろいた。鐙が無いのである。「鐙なしで大丈夫か」と聞くと、逆に鐙をつけると落ちた時に足がからんで危険だ、と言うのである。ヤクは馬と違って止ってくれないからそれも一理はある。しかし乗る人間の立場から考えると全体重が尻にかかり、すぐギブアップするはずだ。
 自転車は休重を三等分するので小さなサドルでも問題ないがパイクでも半日も乗り続けると尻がパンパンにはれる。これを知っているからヤクに乗る前から不吉な予感がした。「ヤクに乗る」と言った以上乗らねばならないが、悪ければ途中で降りればよいと軽く考えていたが当ては外れた。
 ヤクを広辞苑で引くと「ウシに似るが毛が長く密生する。ネパールやチベットの高地海抜4,00Om余以上の地にすむ。同地方では駄用とし、また肉用、乳用として重用。ウシや幇牛との間の雑種もある。角は長く、野生のものは黒褐色、飼養のものは黒白斑、赤、淡褐、黒、白色など」とある。チベットも西へ行くほど黒の野生色が強まる。
 長い間またされてようやくヤクの群を追う遊牧民が数十頑のヤクを追ってやってきた。すべてヤクの機嫌次第なので人間社会の時間など通用しないのだ。ヤク使いの一族は女性も子供も居る。女件はチベット特有の派手な色彩の服を着て目だけ出している。おおよその年令は推測できるが美醜の程は不明である。
 ヤクはすぐ草地へ散り食事に忙しく、やがて仕事をさせられるとは思ってこいない。ここのヤクはほとんどが混血である。乳を採集するために、ホルスタインや、ジャージー種の牛との交配が進められたものとみえる。人を乗せるためにも野生の血の濃いのは危険である。ヤクの気性は荒いといわれるが、それは野生の血の性であって彼らの意志ではない。人間が勝手に利用を目論むのである。遊牧民はめったにヤクに乗らず馬に乗りヤクを追うがヤクに乗ってみたいという客の要望をかなえるのも収入のためだ。従って客のヤクの扱いを面白がって笑ってみている。
 彼等は紙の小片に何やら書きこみ「くじ」を作って引かせる。小生のヤクはジャージー種の混血で茶と白のプチだ。こいつに跨ったら最後絶対に降ろしてくれない。新造の掛は皮製の立派にみえるが硬くて閉口する。予想通り鐙なしでは太い丸太に跨って前後左右にゆすられている形でいつ落ちても不思議はなかった。それにヤクという動物は人の命令には従わない。人を乗せようが一切かまわず草地や水場をめざして首を下げて歩くから前方に空間が広がって前のめりになる。馬のように前に首がないので安定が非常に悪い。おまけに彼等は縦列でなく、横に際限なく広がって行く。崖で岩があろうが、雪があろうが、川があろうが一切おかまいなしだ。それに仲間同士のケンカがおきて体当りしてくる。深い溝を飛越えようとさえする。荒行とはこのことか、一時も油断ができないし休んでくれない。尻は悲鳴をあげて久しい。
 馬は路を行く、ヤクは草を求めて道なき所を行くのだ。ヤクなどという動物に乗るものではない。家畜化される以前の動物なのだ。
 一度両脇に岩がせり出した所をヤクが通り抜けた折に小生の足が岩につまり小生と鞍を残しヤクだけ前方に抜けていた。ヤクは重いものが無くなったので幸いと逃げる。ヤク使いが追ってもどり再び乗れと言う。ヤクがどの方向へ行きたがっているか見当をつけて休重移動をしたが予想は外れる場合が多い。
 「馬に変えてくれ」と言ってもクジだから駄目で契約になっているらしく、日が変わっても駄目だという。チベットでヤクなど乗るものではない。ヤクも人間を乗せられるとは夢にも思わないし迷惑だろう。これからチベットへ行く人はくれぐれもヤクなどに乗らないように。
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チベット犬の正体
 チベット犬は獰猛だから近づかないように、噛まれると狂犬病にかかるおそれがあるから気をつけるように、とどの本にも書いてある。
 チベットの経験者の言うことだから、おそらく実例があったのだと思われるが、小生は少し異なった印象をもっている。
 ラサやシガツェなどの都市の街路にチベット犬がうろついているのを見ていないが、少し郊外に出るとかなり群をなして居る。砂漠地帯に出ると遊牧民や小集落には必ず放浪犬が居る。特定の飼主が居るのか、居ないのか、それすら不明で体格の良い堂々たるチベット犬がたむろしていて恐怖すら感じるときがある。しかし彼等は当方の心中を察してか、やたら人懐っこく接してくれて安堵する。食物の一片でもあたえたのなら、それはもう主人を守るようについて廻って番犬に変貌する。
 ある宿舎では、一晩中表のドアの下にうずくまり他者を寄りつかせなかったし、夜中小便に出た折にも極めて従順であった。
 少量の食物によって、にわかに主従関係の契約が成立し飼犬や番犬になってしまうチベット犬とはいったいどんな性格の犬なのか、いよいよ謎が深まるばかりである。
 ある日、マナサロワール湖畔のテント地で降ってきそうな星空のもと、正面にナムナニ峰をながめながらすごした一夜があった。テントを張り食事に集まっているとき「荷物を盗まれた」の声にテントを見に行くと5kgの荷物が20mも離れた所に放置されていた。狼か、チベット犬か、意見は分かれたが、その夜、狼の独特の唸り声が聴え、続いてチベット犬の教頭が走り廻って何かを追っている激しい足音がしていた。
 夜中、小用に出るとチベット犬がいつの間にかテント群を囲むかのように一頭づつ等間隔に丸くなって寝ていた。おそらく10頭くらい居たように思うが、彼等は、いったいどこから何用で来たのか、誰かが食物をあたえたのか不明だがここでは立派に番犬の仕事をしていたのだった。
 翌朝、チベット人リーダーは「狼が居た」と明言したが、それではチベット犬は放浪犬なのか、誰かの飼犬なのかは不明で、朝には全頭姿を消していたのは何故なのか謎だらけである。
 まるで夢でもみているような夜だった。
 昨夕には二頭の馬を引く三人の巡礼一家が暮れゆくマナサロワール湖に向って童謡「月の砂漠」の情景そのままの姿で、黙々と静かに歩を進めるのをみた。彼等が巨大なナムナニ峰と湖の風景のなかに没し去ったとき、チベットの夜という別の世界が始まるのだった。彼等もまた犬に守られたのだろうか。
 遊牧民のヤク使いや、羊使いたちにとって、チベット犬は極めて有用な存在で、リーダー犬は首に赤いレースの飾りをつけてもらっている。飼主の命令に忠実で勝手に放浪したりはしない。彼等は夜でも一定の役割を果たしている。
 カイラース山の5,000mを超えるテント場。そこでもチベット犬のリーダーは赤いレースをつけて全体を見渡せる高台に陣取って朝の忙しいテント場をながめている。リーダーより体格のよい犬も居るがよく統率していて見事だった。小生の約一ヶ月のチベット滞在中、チベット犬の印象は極めて良好なものだった。
 休格の立派さ、飼主に従順、めったにさわがない、など大型犬の特性をもつが、ペットではなく、人と生活を共有する犬と言える。
 しかし一方では車で移動中、複数で放浪する犬をみている。単に突進する犬も居たから一人旅の場合や、巡礼にとっては危険な場合もあるかも知れない。更に狂犬病の予防接種は、ほとんどの犬が受けていないから、もし噛まれたら最悪の事態もあり得る。
 すべてのチベット犬は危険という通説には賛成しかねるが安全とも言えないのだ。それはどの世界でも言えることで人間の社会でも同じである。
 ランドクルーザーの旅なら問題ないが、パイクや、自転車、徒歩などの場合、チベット犬は狼と同様の危険率があるとみた方がよいだろう。
 冒険旅行は若いとき必ずやってみるペきだが、そんなときには、まず食物をあたえるのも一方法かも知れない。食物で落ちるのは犬だけではないが、身がまえるよりは試してみるのも悪くないと思う。すべては時と場合によっている。身の安全は観念論では片づかない。
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藪椿の行方
 このところは照葉樹林の山歩きが続いている。
 正月は九州南部の見事な照葉林で藪椿を見ている。宮崎県南部にある綾町の照葉樹林は我国最大級のものが保存されており、ここの藪椿は正月から咲きはじめるのだ。
 市房山西麓の村には淡い紫を加えた白い花弁が開いて見事なものだった。ここの藪椿は一株がふえてかなりの大株となって年月を経たものとみえて、樹下には石仏があり手向ける人もあるとみえる。素朴な山里の美風が、こんなところにも顔をのぞかせている。
 九州の藪椿を楽しんで帰京するが、関西の椿はまだ早く梅と山茶花が咲きはじめる。山茶花は、椿より早く咲き花弁がばらばらに落ちる。椿のように花そのものが丸ごと落ちるのを嫌らう武士社会では山茶花が好まれたようだ。しかし真赤な花弁が散乱するのも血液が飛び散っているかのようで、これも思わずハッとさせられてしまう。
 正月の九州八代市の街路樹には、この山茶花が使われて満開だった。
 知人の家で焼酎をよばれたが、酒器盃は中央がくびれ瓢箪状で湯の分量の目盛りになるという便利なもので、しかも有田焼きの表面には鮮かな椿が咲いていた。
 この酒器の使い方は、先に湯を注ぎ、後に焼酎を好みの分量注ぐのである。規定通りとすれば六対四になる。これが通常の湯割りの法則というものらしい。これで呑まなければどうかしている。
 酒呑みとは気楽なもので気分屋でもある。この酒器が気に入って、つい呑み過してしまった。
 知人宅では申訳ないことをしてしまった。ところが後日、この酒器が気に入っているとかで一式送られてきた。重々申し訳けないことだ。
 椿といえば京都も本場である。寺院、鎮守の森には堂々たる藪椿が残っていて四月頃に咲く。
 椿の原種である藪椿を改良して様々な椿が作られているが、これは咲くのが早い。寺院で庭を観せる場合の椿はこれである。
 ワビスケ(侘助)は白く小輪の可愛いい花をつけるので禅寺や茶花として珍重される。
 肥後ツバキは豪華な花で、好む人も多い。
 妙心寺の塔頭、東林寺の夏椿は六月中旬から七月にかけて咲くので人気が高く「沙羅双樹」と呼ばれている。しかし双樹はともかく、沙羅はインド産の沙羅樹と混同されることが多い。
 夏椿はツバキ科落葉広葉高木である。よく似た木にヒメシャラが山に自生している。
 椿の変種で、同種とか別種とかの論議がなされたことがあるが分布が違っている。藪椿が本州、四国、九州の海岸帯の丘陵を主としているのに対し、雪椿はこれより高い所、つまり福井から秋田の多雪地帯の高度数百米付近に植生している。
 藪椿と雪椿の違いは素人では判別できないが、植の違いはあるので、これを椿の研究家でもある下川頼人氏の「草木雑記」(白馬小谷研究)にみてみたい。「ヤブツバキが低地域に、そしてその上の高い地帯にユキツバキが分布しているのである。この事実は地球の表面が暖期と寒期を繰返していたある暖期に、ツバキの母体が北上して日本に入ってきた。しかるに次の寒期になると、ユキツバキの母体となった一群のみを残して南方に去ってしまった。そして残留者は積雪の保護の下に現在のユキツバキとなった。
 やがて再び暖期となると今日のヤブツバキの母体が南方から侵入し、これが日本の温暖な地方に地歩を占めた。暖地を好むとされているヤブツバキが案外日本海側に広く分布しているのは、少なくとも海岸地方に十分暖かい土地があったからである。」と述べている。
 藪椿と雪椿には大きな違いはないわけが理解できるが、登山をする者にとって、多量の積雪が山に残っているのに、雪椿が咲いているのは何ともうれしいことである。五月頃の残雪の山登りの楽しみのひとつに花があることを忘れない。
 五月の初雪山に登ったときにみた雪椿はタムシバと共に咲いていた。残雪があるのは高度七百米くらいから、それより下部は藪が出ていて難渋したが、その藪がなんと雪椿だった。満開の雪椿の藪こぎは苦にならないばかりか、実に贅沢というべきものだろう。
 藪椿の名所といえば足摺岬である。海風を受けて短く刈込んだような自生の椿が見事である。足摺岬にかぎらず南伊予地方では民家に生け垣として植えるのが一般的で、冬の季節とは思えないほど椿の色は鮮やかである。
 伊豆や大島なども見事な藪椿がある。この地方では昔から椿油が有名で「アンコ椿」の名は全国区である。
 京都の社寺では藪が多いので一部しか取上げられないが、人気の高いところでは、万福寺や法然院がある。特に法然院の石畳の上に落花する藪椿の花弁は実にたとえようもないくらい見事なものである。これくらい洗練された情景はやはり京都ならではのものである。
 小生の住む家の隣は善光寺で、ここの藪椿も赤白の見事な花が五月ころまで咲く。生け垣状に無造作に刈込まれているが花期には無数の花弁が日照に向って突出してくる。その生命力には驚愕すべきものがある。
 京都北部の加悦町の「千年ツバキ」といわれる樹は日本屈指の巨木である。樹高約十米、幹周四三〇センチという藪椿でこれを上廻る古木を知らない。単木ではあるが根元から双樹となり二米高からさらに無数の支枝を張り出している。この樹の満開期に出合えたのなら、これこそ極楽浄土をみたといっても過言ではない。
 京都付近に限っても思いがけない所、場所にひっそりと存在する藪椿がある。これに出合っても花の咲くシーズンを外していれば、さぞこの木に花があればと残念ながら、それきりに終わって花の咲くころ再訪してみる機会がない。
 最近はなぜか冬期になると伊勢の山へ登るようになった。暖いのも中年には助かる。厳冬の山は面倒な装備がいることもあるが、もっと年齢らしく、ゆったりした山登りがしてみたいと思うようになった。そのひとつの理由は、やはり藪椿のことだろう。
 伊勢の五十鈴川の源に「剣峠」がある。神宮から奥へ進むと何やら空気も神さびてきて襟を正してしまう。峠の道はいかにもか細い。大型車は無理。現代式の重機を駆使した道づくりではない。いかにも樹林を傷つけない手造りの雰囲気が漂っている。その道中がすでに藪椿の森だった。
 すでに幾つかの落花があって無造作に車のタイヤは踏みつけて行く。
 峠の頂上は切り通しになっている。その空間から南側に五ヶ所湾が光っている。伊豆の風景を想い出すところだ。今にも踊子達が通って行くような感じがする。この雰囲気は実に素晴らしいものだ。こんな所が残っているのが不思議なくらいだ。
 峠から東へ、京路山に登ってもよい。西へ竜王山に行ってもよい。その一帯は藪椿の開放区である。
 西の切原峠、鍛冶屋峠などもよいが、藤越があり、藤坂峠がよい。この峠は六百米足らずの低いものながら堂々たる高山のたたずまいを見せる。それは北陸の季節風にさらされた植物のように一様に背が低く地表にしがみついている。
 採石場のある国見山から国見石のあたりは進入禁止であるが、広くこの一帯は藪椿の大群落である。採石場のブルドーザーは何の遠慮もなく藪椿を踏倒していく。
 道端に一本だけ残された貧弱な藪椿の木に、これが最後の花とばかり大量の花弁をつけて人目を引いた。  この地方には藪椿が実に多い。数が多いので注意を引く花木ではない。それだけにこの花の運命のはかなさが身にしみる。
 九州から四国、紀州から伊豆へと続く日本の南岸に、藪椿の共通性は人間性にも反映しているかにみえる。
 今後も冬の開花期がくると落ちつかなくなってくることだろう。切り立つ断崖の上に咲く藪椿は深淵の海へ落花する。打寄せる波がそれをどこかへ運ぶ。
 先に述べた通り、藪椿には沢山の改良種や、別種、悪種がある。豪華に花弁を開き観せる大輪の椿が最近の社寺に植えられ客を集めている。それはそれでよいのだが、小生のように山を求め、自然の懐のなかですごすことの多い者にとって、椿は、やっぱり藪椿にかぎるのである。
 あの開き切らず、山住みの少女のようにしおらしく咲く藪椿の香気には参っている。
 落花のいさぎよさ、落花の際にも、堅く閉じて秘密を守り通そうとするかのような姿、花弁の艶やかな色彩、どれをとっても椿はやっぱり藪椿である。その椿は、自生するが由に人々に大切にされず放置されている。道路工事の際にも、不遠慮にブルドーザーが押したおしていく。落下の最中であろうと何であろうと一切かまうことはない。
 藪椿は、ただ雑草のように扱われてしまう。
 そんな藪椿がこのごろ妙に気になりだしてきている。それはいったい何故だろうか。
 ここに『岳人』誌に書いた小生の紀行文の一節がある。

「ブナを中心とする落葉広葉樹林の文化は、よく縄文的であるという。
 ブナ、トチ、ナラといった樹木の恵みは秋に木の実やキノコ、春には山菜や岩魚の宝庫となって楽しませてくれる。
 その魅力にとりつかれた者は、きっと自分の原郷は縄文的でブナの大樹と共に存在したのだと感じるに違いない。私自身もずうっとそう思ってきた。
 北へ北へと自然に足が向いてしまう性根のところ、縄文人の血を引き継いでいるのではないかと確信のようなものを抱いていた。
 「北帰行」が現実のものと信じて疑わなかった自分の感性が、あるとき、といってもしだいに少しずつ違ってきているのを知った。
 それは熊野や伊勢、あるいは土佐の奥山に咲くヤブツバキの真っ赤な花々を見たときだった。
 日本固有の花だというヤブツバキ、その光る葉の常緑の暗さ。照葉樹林のタブやシイの巨木に寄りそうように高く高く花をつけるヤブツバキ。高木のないところでは横に広がって行くヤブツバキの生態に「藪椿」の原意を垣間見たように思える。
 早春のころ照葉樹林のなかに鮮やかに咲くヤブツバキの分布は、黒潮に乗って日本列島を北上し津軽に達しているという。その津軽は、ご存知白神山地の大ブナ群生地である。その一角に強風に飛ばされそうにして、なお急崖にしがみつくように咲くヤブツバキがある。落葉と照葉のモザイク状の混在。これこそが日本人の原郷ではないのかと思ったりする。
 おそらく日本人は心のうちに知らぬまに落葉と照葉の二つの森の霊力を受けて、どの森の勢力に属するのかと極めてあいまいな形で続けているのではなかろうか。
 春浅いころの南紀熊野の山で、ヤブツバキを観たとき、私自信の「北帰行」が怪しくなってしまった。タブの巨木に寄りかかるように高木となったヤブツバキが、高い空間で開花している。暗いが下生えのない地表から、なめらかな樹皮をもつシイやカシ、アセビが競って高く延びている。そんな森も私のはるかな過去に遡ってみれば、故郷であったような気がしてならなかった。(中略)
 いつか高野山から消えゆく小辺路を忠実に辿って、熊野へぬけてみたいと思う。伯母子岳を越え、三浦越を越えて果無山脈を越えて本宮、新宮、那智へとゆくうちには、必ずヤブツバキの大群落に出会うに違いない。
 赤や白のヤブツバキに魅せられた山旅。これも日本の登山らしいではないか、いかにも古代の歴史を引き継いだ旅のかたちに違いないだろう。
 人々は熊野を旅の終結の地だという。人間に例えれば肛門に相当するという。またある人は熊野を出発の地ともいう。極楽浄土の入り口ともいう。そのいずれもが正しいのだろう。
 説教節「小栗判官」に導かれて熊野へ旅立った人の多きは「蟻の熊野詣」とも称されるほどだった。その旅人がどの道を通ったかは知らないが、おそらく落葉広葉樹文化圏から常緑照葉樹文化圏への流入であったことが推定される。ヤブツバキはそれを見ていたのだ。
 伊勢もそうだったし、四国巡礼もそうだったとしたら、これは単なる信仰宗教の問題ではなく、二つの文化圏の合流、合体という壮大なプロジェクトであったとも考えられよう。もしそうだとしたら、伊勢、熊野は日本人としての統一というコンセプトを、実に見事なまでに果たしたとみてさしつかえないだろう。」

 日本のブナ林帯が標高五百米以上の高山に陣取り、藪椿が海岸線を北上し本州の北端にまで達しているのは、小生に言わせれば単なる植物の棲み分けの問題とは思われない。それは人間の性格、性向にも反映していると思うのである。
 地球の寒暖の差に応じてブナ帯が南下する時代、おそらく縄文文化も同時に南下の道をたどったのであろう。藪椿が北上すると、ブナ帯は後退したはずである。
 藪椿の北上はつまるところ海人(あま)文化の北上の理由にもなる。海岸線を北上した藪椿は後に南方系の海人族の北上と重なってくる。
 越後村上にある「石舟神社」には藪椿の大群が残っている。ここの藪椿には、海岸伝いに北上した海人族が自らの族花とした藪椿を行く先々の地に植えて行ったと伝えている。
 この伝承は海人族が人の手によって植生を変えたことになるが、実際は、黒潮に乗って藪椿は自らの身を北へ北へと運んだのだろう。そうでなければ、海人族が、自らの族花として藪椿を選ぶはずがないからである。
 藪椿の強固な北方指向に、海人族が霊的な強さを感じたからこそ族花とまでしたのであろう。
 したがって、藪椿の北上は、日本における南方からの開拓史とつながっていると考えるほかない。
 小生たちが思いもつかぬ北方の土地で藪椿の群落をみて血が騒ぐのを禁じ得ないのは、そこにはるかな先祖の姿を垣間みる思いが漂うからではないのだろうか。
 今や確信のようなものを感じてしまうこのごろの心況である。              (2001.4)
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