初(はっ)ちゃんの世界紀行――吉田初枝
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ルタ共和国の旅    〔2015.12.8〜12.18〕
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 イタリアのシチリヤ島の南、地中海に浮かぶマルタ共和国は、独立国であり、淡路島の半分ぐらいの面積です。紀元前よりの歴史が有り、その地理的条件の良さから、周辺の多くの国から侵略を受けて、独特な歩みを刻んできた。以前から興味を持っていたが、思い切って決断をしなければ、老体の私には、何時の日か身体の都合で、行けなくなる可能性が近いと、厚かましくも今だと決心して、今回は4人でこの旅を楽しみましょう。
 2度のトランジットでマルタ島の国際航空に到着する。バレッタが首都ですが、帰国時の前日を其処にと決めているので、バレッタより少し先だが最初日は、セント・ジュリアンのホテルを予約していた。空港からのバスはなかなか来ない、驚くほどに時間が掛かり、地図上では近いのにくねくねと、石垣の間の細き道を、渋滞を繰り返しながらの走りで、近くまで来たのを、ホテルの手前で降りてしまい、海岸沿いの道で迷い、地元の人に聞いて、やっとビジネス的なホテルに着く。4人部屋は探すのが難しい。大きな教会が目印のホテル、この付近には海岸から高みに向かい、ホテルやレストランが連立している。さぞかし夏には観光客で賑わう事でしょう。シーズンオフの今は、観光客は少ないのでしょうか。昔は鄙びた漁村であったらしいのに、今はその面影は全然ない。
 セント・ジュリアン滞在
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1)ホテル近くのカルメル教会

 マルタ島の夕暮れは17時位、夜明けは朝6時30分位にしか、明るくならない。昨夜は早く休んだので、私達は早めに目覚める。近くからのカルメル教会の、鐘の音が良く響いてくる、静かに聞くと心地好く聞こえる。窓を開けると磯の香りの少し漂ってくる。今日はスリーマまでの海岸沿いを、歩き乍らの観光、そしてタルシーンの巨石神殿を観に行こうとする。
 先ずは腹ごしらえ、途中この店はよく流行っているから、きっと美味しいのだと狙いを定め、小さなコーヒーショップに立ち寄って、朝食を頂く。ゆっくりの一時、外はすっかり明るくなってきた。私達は元気一よく出発します。入道雲の様なもくもくとした雲が、セント・ジュリアン湾上にあり、水平線にはパルテノン神殿によく似た、カジノの建物が横たわっています。樹々やお花畑で、よく整備された海岸沿いの歩道は、カップルや犬の散歩の人々が行き交う。この島には猫の数が多いと聞いていた。矢張りいました、歩道が続く途中に、猫さん達のために作られた公園が有る。花いっぱいの公園に、小さな屋根付きの小屋に、暖かそうな毛布、ネコフードや水が置いてあり、人懐っこい猫さん達が、気持ちよさそうに過ごしています。若い人が膝に猫を抱いて、カンヅメを食べさせている。ほとんど大人の猫達で、仔猫が居ないと言う事は、これ以上猫を増やさないように、去勢をして、手厚く保護されているのを見ると、嬉しくなる。起伏が多く、くねくねとしているが、天気も良いので、気持ちは良い、海岸の景色は素晴らしい、深い藍色の海、マルタ島の石灰石のベージュ色の狭い海岸が続くが、静かに波が寄せては返しています。
 スリーマの船着き場には、客待ちの色鮮やかなクルーズ船が、沢山停泊しています。此処から地中海の景観を、楽しませてくれるクルーズ船の、出発点でもあり、マルタ島の2階建て観光バスも出るらしい。私達はタクシーン神殿を観たいので、運転手さんに聞いてバスを選ぶ。市バスは2時間までなら、どのバスに乗っても良いらしい、この辺りだと言う所で下車して、地元の何人かに聞いて、やっと辿り着くが、今は修復中で閉鎖している。工事中の裏口から、監督さんがちらりと見せて呉れました。せっかく訪ねて行ったのに、残念でした。又バスに乗って、曲がりくねった道を、行き戻りして、ビットリオーザの海事博物館に行きました。静かな博物館で観光客もなく、船の歴史や構造、多くの珍しい船を見せてもらいました。
 バスに乗ってセント・ジュリアンへの帰りは、何だか同じところを、ぐるぐる回っている感じです。何時も交通渋滞が有ります。狭い道なのに車が両サイドに駐車している。この国には不法駐車はないのでしょうか、迷惑な事です。ホテル近くの地元のスーパーに行く、テイクアウトの惣菜は肉やチーズ物は沢山ありましたが、この島には海鮮類が有るはずと思っていましたが、それが余りないのです。この島の名物の食べ物は何ですかと、店員さんに聞いてみると、ウサギの肉だと言う、あの赤い眼をした可愛いうさぎを、と思うだけで悲しくなる。海に囲まれたこの島には、必ず海鮮料理が有る筈、チャンスを待とうと思います。
 ゴゾ島のシュレンデイ
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左=2)シュレンデイのホテル   右=3)シュレンデイ湾からの外海

 このホテルも別料金でバイキングの朝食が有る、今日はゴゾ島に行こうとなる。バスを待ってこの島の最西端、フェリー乗り場チェルケウアに、1時間30分掛けて行く。運よくゴゾ島向けてのフェリーが出発直前で、乗り込むが運賃を支払う術がない。聞いても只だからないのだそうだ。子供の時から只ほど高いものはないと、教えられているので、そんなはずはないと聞き返す。帰路に¢5を貰うのです。面白い支払いの仕方だな。
このフェリーはとてもデラックスで、船内にはスーパー、レストラン、土産物屋等が所狭しとある。でも30分位でイムジャールに到着する。
そこからバスで島の中心地、ビクトリア行のバスに乗り換える。この島にも矢張り山は何処にもなく、美しい田園風景が広がる。畑の境界は全て石を積んだもの。日本の昔の姿を見る思いがする。その石垣の上には花が咲いたウチワサボテンや、サイザル麻のサボテン類が沢山、この島が年中暖かい土地柄なのでしょう。でも今はこの島の冬になるのか、畑には何も育っていません。今日はシュレンデイを目指しています。決めたホテルは古いがとても格式があるらしい。バス停の直ぐ前にある。ホテルの後ろには丸い湾がプライベートのプールのようです。その横には白と黒の肌を持つ丘が、近くのホテル一帯を囲んでいる珍しい地形です。荷物を置いて直ぐに、私達は其の低い丘の頂上を目指して、登って行こうとする。その断崖には遊歩道が付いて、登りやすくなっていますが、途中でストップして、今度は海に向かって下りになり、海水で浸食された洞窟があった。何方かが亡くなったのでしょう、写真入りの墓標が立っている。蒼き海を眺めてのトレックは、危険と隣り合わせでした。レセプションの方が、夏の別荘が集まっている地域の対岸にある、小さな塔まで行って見れば、景色が綺麗ですよと教えてくれるので、時間あり、のんびりとしているので、行って見ましょう。シュレンデイ湾から、もう一つの流れに沿って行くと、長細い小さな島になっていて、その突端に物見の塔がある。昔からこの島も、海からの敵が攻めてくるのを防ぐ為に、監視をしていたのでしょうか。遠くには地中海が広がる悠々とした景色でした。
 ビクトリア(ラバト)
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左=4)チタデル  右=5)チタデルの屋上

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左=6)チタデルからの田園風景  右=7)シュガンティーヤ神殿

美しくのんびりとした田舎町は、猫さん達も落ち着いた暮らしぶりを、しているようです。ホテルの裏がレストランになっていて、其処のお客さんがテーブルの下に、猫さんに少しの食べ物を、落としてあげています。何処でも優しい心使いを見ていると、微笑ましくなる。湾の丸さが個人のプールになったような、地の利を生かした、ユニークなリゾート地でした。朝食付きは豪華版でした。 私達は公共のバスで、ゴゾ島の中心地ビクトリアに移りました。この町からあらゆる方面にバスは出発しています。此処ではB、B (ベッドと朝食ありの安宿) に泊まろうと、昨日のホテルから、電話をしてもらっていたので、助かりました。実直そうな御夫婦経営の宿、清潔な2部屋を貰う。この町の観光に出かけましょう。この町は小さな路地が多く、角を覚えておかねば、一つ路地を間違えれば、とんでもない所に、行ってしまいます。
一番の見どころは大城塞(チタデル)。バスターミナルからも、その城壁が見えていて、その方角に行く。途中には地元の教会が時々あり、内部をのぞかせてもらう。この国もキリスト教の信仰は篤く、祈りを捧げている人を見ます。町にはクリスマスの飾り付けがあります。町中を進んでいくと、坂道の突当りに大きな城壁が見えてくる。観光の為か、大規模な修復工事が行われている。クレーン車や大型トラック、大勢の作業員達が働いている。このチタデルはオスマン・トルコ軍や海賊からの、侵略に備えての強固な城壁を持った、一つの町の様な城でした。此処に在った建物は、1693年の地震で崩壊してしまい、今は入口の大聖堂のみが再建された。この城塞には、当時の生活の様子を偲ばせる、朽ちかけた住居の跡が残っていました。城塞の上からはビクトリアの町が一望できる。ゴゾ島に来て不思議な事があります、それは此の高みからの風景にも、一つも川が無いのです。そして何処にでもいる、牛や豚、鶏などの放牧を、見たことがないのです。全て輸入に頼っているのでしょうか。 バスターミナルに戻る途中、大聖堂を訪れる。両サイドお土産屋さんが沢山集まっています、まるで門前町のようです。バロック様式の大聖堂で、天井絵が遠近法により“だまし絵“と呼ばれているとか、私には近くにドームが有るようには見えませんでした。
バスでジュガンテイーヤ神殿に向かう。何処のバス停で降りたらよいかが分からない、バスの運転手さんにお願いして乗車する以外にはない。シャーラの町のこの神殿は、世界遺産に指定されたので、近頃展示場を近代的に建築されたらしく新しい。大型のスクリーンで説明を受けてから入場します。紀元前40世紀に、この地での巨人女性崇拝の始まり、サンスーナがこの建物を、建造したと言われている。大きな設備で展示されていて、外には石積みの神殿が数多く展示してある。粗削りのごつごつした外観、内部には滑らかな石が積まれて、神殿の役割の為の多くの部屋が、夫々の特徴を持って建てられている。この場所までこの巨大な石を、どのようにして運んだのか、多分人海作戦でしょうが、不思議でしょうがない。そして接着剤もないのに、石と石の間には隙間もない。建築資材としては天然の石灰石が主なもの、ベージュ色の石灰石の色を、此処では蜂蜜色と言うらしい。
ジュガンテイーヤ神殿の近くに、タコラの風車が有るので、坂道を少し登ればすぐ着いた。風車に幕が掛かっていると思ったら、今修理中である、内部には昔の生活用品が展示されていました。
ビクトリアの町に帰り、楽しみなB,Bの住み心地はどんなでしょう。ご夫婦は発音が英国的だと思っていた。自分達はイギリスからの移住者と認め、世界中を旅してこのゴゾ島が一番気に入ったらしい。子供達が社会人になって、早めの退職で、このゴゾ島でささやかな民宿を、開きましたと聞きました。夕方にはクリスマスプレゼントと言って、乾燥した果物が沢山入ったクッキーを、持って来てくれました。この宿は玄関のドアーがえんじ色で、間口が狭く細長く、京都の町屋形式で、中庭があり何処からでも明るい光が入って来ます。ご夫婦が選んだセンスの良い調度品が、出窓や棚の上にあり、イギリスの田舎に泊まったようです。明日の朝食はどんなでしょうか。壁に水を大切に使ってくださいと、注意書きがある。マルタ共和国は、海水から生活水を作り出すことに、成功した最初の国であると、何かの本に書いてあった。川が流れていない意味も、其処に或ったのかも知れない。
 ビクトリア (2泊目)
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左=8)B&Bの御夫婦  右=9)アズール・ウインドウ

2泊するのでまけて下さいと言ってしまい、少し自責の気持ちが出てきた。朝食は心を込めて、イギリス式の豪華なものでした。私達はとても満足です。今日はアズール・ウインドウに行きたいと問えば、バスの時間まで調べて呉れました。バスは西へと走ります、この地の何処にでも見る、石垣に囲まれた田園風景が続きます。やはりここにも花の咲いたウチワサボテンが沢山、暖かい気候を示しています。
終点がアズール・ウインドウ。船着き場に下って行くと、ボートをトラックで、次々と運んできます。船頭さんが船に乗るのか?と聞いてくる。エンジンを掛けると直ぐ出発。今日は波が荒いのでしょうか、ボートは荒波を蹴って進む。横にすれば転覆なので向かっていく。さすがプロの技は確か、3つの名所に連れて行ってくれる。何千年の風と波の浸食で、削られて陸地が、空洞になっているのが、窓のように見える。海の底までが見える透明な素晴らしさ、紺碧の海がその窓から見える珍しさ。気の遠くなるような年月のなした、自然の造形に、ここまで来た甲斐があった。陸に戻り小さな教会を見つけて、行って見ると扉は閉ざされている。クリスマスも近いし、今日は日曜日なのに、どうしてかしら。
ビクトリアに帰り、バスターミナルの裏に学校の校庭で、日曜市が開かれていた。興味半分に覗くと、日本と全く同じで、家庭の不用品を換金しようとしています。町も各家庭の玄関にも、クリスマスの飾り付けをしています。B,Bの御夫婦も偶然に、今年の暮れには日本の旅をするらしい。暮れは日本民族大移動が有る事をお知らせして、少しの助言をしました。
私達はもう1度近くの大聖堂の”だまし絵”を観に行こうとする。昨日はどうしても遠近法を、使っているようには見えなかったので、静かにゆっくりと見ていると、さもそこに広大なドームが有るようにが、確かめられました。デパートらしき所に行くが、興味があるものはない。もう1度チタデルにも行く、高みよりの見物で、夕陽を見たい。平野は一望のもとに見えても、雲が出て来て、夕陽は見えませんでした。B,Bの帰りに小さな路地の角にも、ネコフードと水が置いてある優しい心使いに、動物好きの私には、とてもうれしい事でした。夜には大きな大砲のような音が続くので、花火があっていると思いました、空には何もないので、次の日の朝食の時に聞いてみると、音だけの花火だと。クリスマスが近い日曜日にはあるらしい。面白いこの国の習慣だ。
 ゴゾ島→マルタ島
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左=10)イムディーナ大聖堂    中央=11)イムディーナの路地  右=12)ラバトの大聖堂

ゴゾ島のビクトリアの家族的な対応のB,Bは去り難く、思いを残しマルタ島を去る。4人部屋というのは中々ないのです。仕方がないので、最初に泊まったセント・ジュリアンなら、空が有ったので其処にしました。慣れているので気分は楽です。早速荷物を預けて、今日の行き先は、ラバトとイムナデーナの町です。
バスは1時間30分位掛かったでしょうかラバトに着く。昔はラバトとイムデーナは同じ町だったらしいが、アラブ民族により分割された。最初バスはラバトに着く。昔ながらの古い街で、イムデーナの城壁の外に広がる町。聖パウロ教会は、バロック様式で、教会の内部には、絢爛たるフレスコ画で飾られている。礼拝堂より地下に下りて行くと、パウロが迫害され身を隠していた洞窟へと続き、色マーブルで造られた、聖パウロの彫像がある。その隣には、美術館があり、人物画ばかりでした。聖パウロの地下墓地は直ぐ近くにあり、マルタ島で一番規模の大きな地下墓地(カタコンベ)がある。小さなポケットライトを持っていたが、それでも見え難い、内部が幾つもの部屋に、分かれた墓地になっている。長いトンネルになっていて、迷子になりそうでした。アガペという死者を埋葬する際に、最後のお別れの会食をした大きな岩のテーブルは、死者の家族の心のケアーにも通じる優しさを、垣間見る思いがしました。
ラバトより歩いてイムデーナへ。細い道が続きます、マルタストーンで造られた道を辿ると、小高い丘には古い立派な館が続いています。メインゲートは堀を巡らし、堂々とした彫刻の城門がある。イムデーナは16世紀にはマルタ島の首都として栄えた。この地名は城壁の町という意味が有る位だから、大きな邸宅はマルタ島を守る騎士団の住居であった。その権威を偲ばせるような大邸宅が、次々と現れる。土産物の店が沢山あります。馬車も観光客を乗せて、樋爪の音も小気味好く、走っています。 此処のメインである建造物は大聖堂で、バロック様式の2つの鐘楼が有り、天井には聖人のフレスコ画が精密に描かれている。この教会の床は、全て美しい色大理石で、敷き詰められている。静かで落ち着きのある昔を誇る、プライドのある町でした。
 セント・ジュリアンにて
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左=13)ハシャー・イム神殿  中央=14)神殿前のネコ  右=15)青の洞門

朝食のバイキングは、マー満足のゆくものでした、でも熱いお湯をくださいは、叶いませんでした。今日はこの島の南、青の洞門とハジャー・イム神殿とイムナイドラ神殿の観光に行こうとする。先ずはバレッタまで行くが、その途中突然に、土砂降りの雨が、バスの中だったので良かったけれど、バレッタから神殿行の直通はない。教えてもらいズーリアまで行くが、其処で立ち往生をしていると、地元の人が小使い稼ぎに寄って来る、¢5で神殿まで送ってくれる。
ハジャー・イム神殿に着けば、新しい施設が建築されている。先ずは眼鏡を渡されて、大きなスクリーンの部屋に案内されて、神殿の成り立ちや構造を、リアルに説明してくれる。そこからは外の神殿を、歩きながらの見学です。文化財保護の為に、巨大な白いドーム型で、巨石群を覆っています。紀元前3600年〜2500年の神殿で、ここにはもう一つの神殿がある。巨大な石を縦横に積み上げている。聖なる石は、信仰の対象となる。豊満な頭部のない女性の裸身像もある。生贄に捧げた動物を、解体したであろうとする大きなテーブル石がある。神殿の内部や床も、マルタストーンでした。
外に出て石を敷いた歩道を、矢印の方向に歩けば、イムドラ神殿に行き着く。此処は直ぐ崖になっていて、海が広がり、古代の人々は海より昇る朝日に、その日1日を感謝と祈りで、自分を委ねたのでしょうか。同じようにドーム型の覆いが有り、巨石を保存しています。石が少し暗い色彩でしたが、巨石に囲まれた神殿が、2つあり、夫々に祭壇がありました。海に向かって開けているので、太陽の光を、上手に取り入れる構造と、なっているのにも、その賢さに感心しました。古代の人々の信仰の場としても、よくもこれだけの巨石を運び、建造したものだと驚くことばかりでした。
私達は神殿の中のレストランで、コーヒーを頂いて、どっこいと神殿を後にする。青の洞門までの、交通手段がない。地図では直ぐ近くにあるのに。歩いて行くしかない、標識沿いの道に従い、海の方に下っていく。30分位歩いたでしょうか、海岸の岬の村に近いてきた。レストラン、ホテル、お土産屋さん等、観光客用の村のようです。極採色の伝統的なボートも、沢山繋がれています。ゴザ島のアズール・ウインドウより、規模が大きいようです。陸続きの岩礁が、気の遠くなるような年月を掛けて、波と風に抉られたアーチの中を、通り抜けるボート遊覧に乗りましょう。深く透き通った海水、陽の当たり具合で、海の色が変わっていく。多くの洞窟が夫々の特徴の形があり、クロコダイルや誰かの横顔とかの岩礁の形を、海からの眺めは、ダイナミック観がある。波が岩に当たる所は、赤いサンゴの線になっている。此処はゴゾ島よりも静かな海で、ゆっくり気分で観光させてもらう。陸に上がりバスを待つが、いくら待ってもバスは来ない。時間表には書いてあっても、マルタ島のバスは、当てにならないのを痛感しました。タクシーで空港まで行って、そこからホテルに帰りました。何だか観光よりもバスを待った時間が、掛かり過ぎた思いのする1日でした。
 バレッタ
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左=16)バレッタの市内を望む  右=17)エルモ砦よりバレッタの城壁

 慣れたセント・ジュリアンを後にする。午前中だがバレッタのホテルを決めて、先ずは観光を始めようとする。私達が予約したホテルは、マーチャント通りある、便利な所なのですが、4人部屋は2人が屋根裏の様な所になっているのが、気になりますが、マー寝ればよいと考えているので、気にしなくても良いでしょう。
 バレッタはこの国の首都で、この町自体が世界遺産になっています。町へ入るには、バスターミナルより高い城壁を、仰ぎ見乍ら入って行く。マルタストーンのベージュ色の城壁と、同じ建築材で建てられた、堂々とした歴史的に、価値ある建物ばかり。バレッタで一番観光したいのは、聖ヨハネ大聖堂です。マルタ騎士団の守護聖人ヨハネに捧げられた教会です。入場券が此処の物価からしたら、少し高いなと思っていたら、イヤホーンを貸してくれて、日本語の説明を聞きながら、ゆっくりと見学できます。外観はシンプルですが、中に入れば目を覆う如くに、絢爛豪華とはこのことでしょうかと、驚かされる。柱、壁、天井のありとあらゆるカテドラルの内部には、ヨハネを讃える場面の絵画、紋章、彫刻などがある。その当時、マルタ騎士団に入団するには、ヨーロッパの富裕階級の次男の名誉であった。キリスト教を尊び、厳しい掟が在ったらしい。各国の礼拝堂が自国のプライドを掛けて、高価な色大理石で祭壇を造っています。床にまで美しい墓碑がその人の生涯を語っている。マルタ騎士団が、自国を守るための兵隊の役目が、あったのは確かですが、それ以上にその当時の人々に尊敬され、手厚く保護されていたのが、ここに示されている。2階には古き時代のタペストリーが、沢山飾られていました。騎士団長の宮殿、マノエル劇場、兵器庫等を見学しました。
 マルタ島の先端にある、聖エルモ砦に行く。オスマン・トルコ軍の侵攻を防ぐ為に、造られた巨大な砦は、第2次世界大戦に破壊され、その後再建された。この砦からのバレッタ市内の眺めは、敵が海から攻めて来ても、直ぐに分かるように造られている。要塞の意味をよく表しています。ホテルの直ぐ近くにアッパー・バラッカーガーデンは休憩と遠望を兼ねて遊びに行く。春にはオリーブの花が咲き、さぞ美しい事でしょう。見晴らしのよい場所からは、バレッタの美しい湾と町が見渡されて、晴ればれとした気持ちになる。直ぐ下には、黒い大砲がずらりと並び、何時でも発射する用意があるようです。昔から一つの町を守ろうとすれば、侵略を防ぐ為には、設備を整えておかなければ、その危険性が何時も、あったことを示しています。首相官邸近くには、バレッタで一番古い聖母ビクトリア教会が、騒がしさとは別に、静かに建っています。多くのフレスコ画や調度品に飾られていました。その前には、日曜市のように、近郊で作られたワインやジャム、蜂蜜、手工芸品が、家族の人々で売られています。メイン通りは、クリスマスの飾り付けが、独特の色と形で、統一されています。今でなくては、見られなかったでしょう。暑くも寒くもなく、よい季節に来たものです。
 今回、マルタ共和国には、何の期待もなしにやって来ましたが、これ程の古代からの歴史のある国とは、思いもしませんでした。バスで移動すれば、時代の異なる、夫々の町があり、石灰石の蜂蜜色の町がある。海岸を散歩すれば、複雑に入り込んだ入り江を、有効利用して、観光に繋げている。安全で安心なマルタ共和国は、これからも世界中の人々の、観光やリゾート地として、発展することでしょう。私達は大いに満足して、帰国しました。
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ィンランドとエストニアのタリンの旅    〔2015.9.25〜10.7〕
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 家族の許可を貰い、母をショートステイに預け、いそいそと旅に出る。10年位前に叔父とその仲間と一緒に、ヘルシンキから空路イヴォロまで、イナリやサーリセル、ラップランド地方のロヴァニエミに行ったことが有るが、余り感激のある所ではなかった。唯、途中の景色の美しさは、忘れられない。今回は南カレリア地方を、旅したいと思い、幸い何時もの相棒さんが2人揃う。
 フィンランドの国土の総面積は、日本のそれより少し狭い位ですが、人口が福岡県か兵庫県と同じ位ですので、如何にその密度が少ないかを察することが出来る。成田と関空から、ヘルシンキのバンター空港に3人集まり、市バスでヘルシンキ中央駅。そこから地図を頼りに、マーケット広場前の、フェリー乗り場へと歩く。空港に15時過ぎに到着なので、ヘルシンキ観光は出国前日に出来るので、ヘルシンキの文化的遺産のスオメンリンナ島に泊まり、次の日は其の島をゆっくりと観光にするのが効率良いと考えました。
 港より多くの観光客と一緒に小さな船に乗り、20分でスオメンリンナ島に到着。快晴なる今日の天気、波間の光線がキラキラと輝き、フィンランド湾の小さな島を見ていると、直ぐに船着き場に到着。灯台のような教会の前の予約していたユースホステルには、暗証番号が送られて来ているので、玄関の戸を開け、レセプション前に名前入りの封筒が有り部屋の鍵が入っている。16時過ぎには管理の人達はもういないそうです。大きな木造のホステルは共同のバス、シャワーが別の部屋にあり、台所も付いている。簡素だけどお客さんは少なく、静かで清潔な佇まい。秋のフィンランドは、早めに日が暮れるし、今日の長旅で疲れているので早く休みましょう。相棒さん達はビールを買いに、近くの雑貨屋さんへ。自分達で夕食を作り、明日のスオメンリンナ島巡りを楽しみに早めに休みました。
 スオメンリンナ島→サヴォンリンナ
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左=スオメリンナ島・大砲  中央=サヴォンリンナ・オラヴィ城  右=サヴォンリンナ・ハウキヴェシ湖

 朝6時頃、やっと薄明かりとなり、島の観光とトレッキングを兼ねて歩き出す。この島は昔から、要塞の役割の為に在ったが故に、島の周囲には防御壁が厚く張り巡らされている。4つの島から成り立ち、夫々は橋で繋がれている。住民は800人位住んでいるらしいが、朝早いので誰もいない。少し肌寒く感じるが、3人共に足取りは軽やかなステップを踏む。博物館やレストラン、コーヒーショップや土産物屋等が点在しているが、矢張り早朝なのでクローズ。案内図が有るのでそれを見ながらの行動ですが、フィンランド語だけで書かれているので説明文は皆目分かりません。島内の散策路は起伏あるものの、よく整備されています。過っての城壁や海の見える高台より周囲を見たいが、外海は未だ曇っていてどんよりとしかしていないのが残念です。スオメンリンナ島の観光は、フィンランドでは最も人気の観光地らしいので、時間が往くに従い、きっと大勢の人々で騒々しくなるのでしょうが、早朝ですから静かにのんびりと歩きました。ちょっとコーヒーをと思っても、諦めざるを得ませんでした。過去にはスエーデン・ロシア戦争、クリミアの戦いとか、フィンランド国内戦の数々の重要な役割もあったでしょうが、今ではその時に海を睨んで設置された大砲や砲台や城壁がユネスコの世界遺産となり、観光客を迎え入れる皮肉な結果となっている。
 フェリーの時間に合わせて、島を後にした。ヘルシンキの中央駅から、今日はサヴォンリンナ行くべくチケットを求めました。この国の列車には、シニア割引(65歳以上)とグループ割引も在る〈2人以上〉。自己申告でパスポートの提示はなかった。シニアは半額になるのが嬉しい。目的地まで4時間30分掛かり、途中パリカーラで乗り換えて、カウッパトリで下車しなさいと案内係は教えてくれる。
 車窓からの景色が楽しみでした。カウッパトリに至る車窓からの眺めは、夢のように美しい景色が両サイドに広がる。紅葉には少し早いと思われるが、色彩としては緑の濃淡と黄色の濃淡で、針葉樹のモミ、マツ、カラマツ等、白樺もどきの樹々が真っ直ぐに空を見上げて育っています。雪も沢山積もるでしょうから、その重みで折れ曲がり、もっと変形していると想像していましたのに、如何してなのか、どの樹々も垂直に優美に立っています。そしてその樹々が森を成して、山脈がないので地平線が森なのです。時折大、中、小の湖が濃い紫色の姿を現す。フィンランドは”森と湖の国”言われる所以は、此処にあるようです。サヴォンリンナに行くのですから、駅は存在すると思ったのが早とちりで、その名の駅はもうないらしい。列車を乗り換えてからは、アナウンスも掲示板もなく、駅員さんが教えてくれて助かりました。乗務員の方は穏やかで意外と親切です。
 宿も看板が上の方に付いていて、分かり難いがやっと見つけました。予約する時に3人部屋としっかり言ってあるのに、慌ててもう1つのベッドを作り出すので、“事前に通知してあるのに、今頃準備するとは不用意ですね”と厳しく言っておきました。ヨーロッパの宿は、シーツに糊がシャッキと付いていて、清潔なのがとても良いところですが、アジア圏を旅する時にはそうはいかないですから、インナーシュラフを持参します。部屋は普通の広さで、不満はない。  荷物を置いて観光に出かけます。此処はフィンランド国民の、夏のリゾート地らしく、土、日は家族ずれで混むらしい。秋の午後はひっそりとして、静かなものです。サイマー湖を中心に、2つの湖に挟まれて入り混んだ湖畔には、行儀よく植林された松の木は無駄なくすっきりとそそり立ち並ぶ歩道と公園が続き、まるで映画の中でアベックが散歩している様な風景です。大自然を出来るだけそのままに残し乍、人が遠慮しながらその地に住んでいる。夏には湖上を走ったのでしょう、多くのモーターボートが、大人しく停泊している。この町の一番のシンボルである、オラヴィ城が見える。サイマー湖の水辺には白鳥、鴨、鵜等が飛び交い、オラヴィ城に入場するには小さな木製の橋があり、3本の大きな塔を持ち無言でスクーと建っている。
 オラヴィ城は、スエーデンがフィンランドを支配していた時期に、ロシアに対しての軍事目的の為に500年前に建築された堅固な城塞で、ドラゴンクエストのモデルにもなった。
 世界中で最も北に位置する中世の城です。現在、城の中ではオペラやパーテイ、イベントの催し場として利用されている。夜にはライトアップの設備もあり、湖に浮かんで見える城として、不思議な光景が眺められるのではないでしょうか。博物館も直ぐ傍にあり、フィンランドの歴史を、人形を使って当時の服装で説明をしている。湖に、昔のこの国の主要な森林産業である木材の運搬に使われた廃船が2隻湖上に繋がれて、勝手に内部を見学してください、となっている。美しい静かなこの町をのんびりと散策すのは、なんと気持ち良く過ごせることでしょうか。もっと探せば、湖に面した民宿が在ったようですが、仕方がありません。でも次の日、朝食はとても豪華なものでした。準備の不備は此の朝食の美味しさで、帳消しにしましょう。元来はこの宿はレストランでしたから、無理もありません。次の都市ヨエンスー行の列車の時間を、調べてもらいました。
 サヴァンリンナ→ヨエンスー
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左=ヨエンスー・ルーテル教会    右=ビエリス川畔柳の下のキノコ

 今回の旅では、一番北に当たるヨエンスーに行こうとする。駅に行ってもチケットを買う所がない。オートメ化した機械はあるが、どうすればよいのかが分からない。駅員さんを待っていたら、先ずは今止まっている電車に乗りなさい。それから案内しますので、待つようにとの指示が有る。列車の中に、自動切符売り機が有る。隣で見守ってくれて、やっとチケットが買えました。人件費を削減した面白い方法でした。昨日と同じく、パリカーラで乗り換えて、ヨエンスー行に乗る。
 両サイド豊かな森林地平線は続く。田園風景は麦を刈り取った後が、ヴェージュ色のジュウタンになり延々と続く。冬の飼料の牧草を、丸くした塊がゴロンゴロンと、多量に転がっている。時折湖が現れて、そこには湖畔の樹々が、逆に映っています。森林の美しさはのびやかで、清々しい。これ程に緑が多いと、空気は清浄化されて、喘息の人は居ないのではないかな。
 やっとヨエンスーに到着した。往来する人は皆冬支度。確かにぐっと冷えてきた。大きなピエリス河を渡り、真っ直ぐに進んでいくと町に出る。今晩の宿を捜すと、意外に直ぐに見つかる。日曜日はどの店も閉まっているが、スーパーは開いている。
 ヨエンスーはロシア皇帝が建築した都市で、北カレリア地方の中心地。でも小さい町なのでしょうか、余り人を見かけない。宿はビジネスホテルの様な簡素な宿ですが、しっかりと3つのベッドはある。ヨエンスー・ルーテル教会を目指す途中、ピエルス河の河口に位置するこの地は、森林産業の中心地として発展した。今でも多くの小型船が停泊している。ルーテル教会は、天を衝くように高く、ゴシックスタイルで建てられている。内装を見たいが、扉は閉ざされている。その周辺はスロープになっていて、大きな公園がある。河沿いに、柳の木が沢山植えられていて、その木の下にはキノコが大量に生えている。誰も見向きもしない事は、食べられないのだろう。犬の散歩、子供ずれ、とにかく自然が豊かで、爽やかで、のびやかで、人が少ない。この国の人が日本に来たら、さぞかし人の多さと騒々しさにびっくりするだろう。
 ヨエンスー→ユヴァスキュラ
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ヨエンスー・ギリシャ正教会

 ヨエンスーの朝食は、ごく普通のものですが、大勢が泊まっていて、気楽な雰囲気でした。お昼は、何時頂けるか分からない今日の予定なので、3人共に昼食も兼ねてしっかりと頂ました。朝食を終えての散歩は、先ずマーケット広場に行こう。生活用品は何でもあり、食べ物もテイクアウトの品ばかり。夏の間は大流行りなのでしょうが、今は10軒位、簡易なお店を出している。あまりお客さんは見ません。
 もう一つのギリシャ正教会は、流石に木材の街だけあり、木造の教会でした。フィンランドに入国して以来、午前中はどんよりとしている天気が多いのですが、午後になるとカラリッと晴れ渡り、気持ち良い快晴となる。今朝は珍しく、時雨なのでしょうか。傘をさすほどのことはないが、そんなに寒いという事もない。宿のお姉さんに、ユヴァスキュラ行の時間を聞いたのですが、列車でなくバスの時間でした。バスも団体割引が有るらしい。シニア割引はないとか、私達は外人ですから、恥と思わず、知らないことは聞くべきです、聞かねば損をする時も、多々ありますので。何時もしっかりと聞いています。
2人がけの席にゆったりと1人ずつかけて、窓外の景色の素晴らしさに酔いそうです。黄色の落葉樹がハラハラと止めどなく落ちている様子は、まるで金色の粉が舞い落ちるように見える。フィンランドの湖の色は、黒味を帯びた紫色。何かの鉱物が底に沈んでいるのでしょうか、不思議な気もします。時折の時雨と、強烈な陽の当たり具合で、ハッとするような、幻想的な景色の様子は、溜息の出る美しさです。相棒さん達はよく眠っていますが、次々と繰り広がるこの素晴らしき景色の移り変わりに、眠ってなんかいられません。やっと何度聞いても覚えられない、この地名の町に着きました。さてインフォメイションに駆け込んで、この町の詳しい地図を戴き、宿を紹介してもらいました。
 大きなマンションの何室かを借り切って、そこを宿として経営している今晩の宿は、ホームステイの様な感じです。朝食付きですが、ベッドは2つしかない。もう1つは、長椅子になる。じゃんけんで負けたので、私が長椅子ベッド。これも又とない経験と思えば、楽しい。
 この町には、湖畔に広がる大学の建築物が有る。現代の建築の巨匠アルバア・アアルトの設計したユヴァスキュラ大学は個性的な建物であるのが、そこがユニークなのかな。ホテルの玄関で、日本語を勉強していて、少し話す若い学生に会いました。大学の授業が終わったら、部屋に遊びにいらっしゃいと約束して、私達は待っていたけど、来なかったのです。
 賑やかな街の反対側の丘を登れば、この町の大学の博物館と展望台が有るので、エッコラサで登っていったのに、今日は(月曜日)お休みでした。此処の繁華街の大きなデパートに行き、どんなものが売られているかを見物に行く。相棒さんと待ち合わせの場所が、思いが違って、宿とデパートを、2往復することになり、大失敗の巻きでした。待ち合わせの場所は、もっと具体的に、目印のある場所にすべきでした。3人共に大反省でした。
狭い3人部屋、無理な長椅子がベッドは、寝心地良いはずがなく、何度も起きることになりましたが、此れも忘れ難い、思い出の一つと考えましょう。次の早朝、6階の窓から出勤する人々を眺めていれば、みんな冬の恰好。吐く息が白い。多分10度を切っているのでしょう。秋がなく、一足飛びに冬の訪れになるのでしょうか。でも昼間は暖かく、私は未だウインドウ・ブレーカーは1度も着てはいない。サー、今日はタンペレに行きましょう。
 ユヴィスキュラ→タンペレ
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左=タンペレ・フィンレイソン旧製紙工場  右=タンペレ・アレキサンダー教会

 タンペレ行の列車の料金は2階でも1階でも同じ料金、今回は2階の席を要求した。シニアは半額なので大助かりです。2階の車窓からの景色を堪能したい。今回も森と湖の、果てしなく続く美しさ。湖畔では水鏡も、おまけに付いてくる。湖は底まで、透き通ったものと思っていたのですが、それは望めませんでした。このフィンランドの紅葉は黄色の濃淡はあるものの、赤い色は薄い赤で、真っ赤な深紅の紅葉はほとんど見かけないのが不思議です。時折、木材を山盛りに積んだ長い貨物列車が通り過ぎて行きます。この国の森林産業は、経済の重要な部分なのでしょう。合板、パルプ、製紙、家具や、マキ等、各国に輸出されているのでしょう。これだけ広大な森林地帯が有れば当たり前でしょうが、伐採された後には、必ず次の時代を見越して植林しているのを見るに、安心する面もある。
 タンペレ行のインターシテイの列車はスマートで清潔、レストランも在る。タンペレに降り立てば、都会に来たと言う思いもして、落ち着いた雰囲気を感じさせる都市である。
 2つの湖の落差を利用して、水力発電が造られ、国内の工業都市として発展した。紹介して貰ったのは、ユースホステルで、捜し難い所でしたが、聞いた人が連れて行ってくれました。3人部屋はなく、2段ベッドの4人部屋でしたが、少し割り引いてくれて入室する。大きな建物の内部をすっかりリニューアルして、共同の台所、バス・トイレが沢山あって、とても清潔で、若者達が大勢泊まっている様子です。相棒さんのバッグのキャスターが1つだけ潰れて、如何したものかと迷っています。修理出来そうではない、後で考えることにして、観光に出る。
 タンメルコスキ川に架かる大きな橋を渡る公園の広場に、正教教会のひと際大きな塔が聳え立つ。神々しく輝く、ネオビザンチン様式である。もう少し歩けば、川沿いに建設された、巨大なレンガ造りの工場が残っています。此処がフインレイソン旧製糸工場、19世紀から末までこの工場で働く人々の住宅、学校、病院、お店などの一大都市であった。今はその敷地の建物を、再利用して色んな店にしている。市の再開発により、新しいスタイルに生まれ変わっている。相棒さんの希望でレーニン博物館を訪ねるが、今は転宅中で来年3月に何処かで再開するらしい。市民図書館は丸い形の建物で区切りがないので、何処に居てもみんな見えていて、自由な雰囲気が有り楽しい図書館です。
 相棒さんとデパートで、手頃なキャスター付きのバッグを見つけました。店員さんが今使いますか、国に持って帰りますかと聞かれ、今必要だから買うので、素直に使いますと言ってしまった。其れでは、8ユーロ税金が掛かるそうです。後でしまったと思った、その時に、今は使わないと言って、梱包して貰えばよかった。後で梱包を解けば良いのであった。私達はスーパーの買い物位で、他国では物を買わないので、知ってはいたが経験がなかったので、損な事をしてしまったと笑い合った。
 タンペレ→ハメーンリンナ
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左=ハメーンリンナ・ハメ城正門 中央=ハメーンリンナ・ハメ城裏から 右=ハメーンリンナ・軍事博物館

 又あの清々しい樹木の間を列車は走る。余りの美しさは、人に溜息を齎すものなのでしょうか、何度も溜息が自然に出てきます。立っている人は居ないし、2人席を1人占めして、楽ちんな座り心地です。ハメーンとはフィンランドの土着民族、ハミ族の暮らした土地でした。リンナは城を意味する。此処のメインの観光はハミ城です。
 でも下車した駅からのホテル街は遠い。バナヤベシ湖に架かる橋を渡って問いかけた方がお年寄りだったもので、別の場所を教わり歩き回り疲れましたが、若い工場の人が親切に地図を書いてくれましたので直ぐわかりました。ホテルの数が少ないので、清貧な旅には相応しくない、中級以上のホテルにしか空はありませんでした。偶には休養の為に、良いかなと考えました。ホテル捜しに町を相当歩きまので、一応町の様子は分かりました。早めに目的地に着くと、のんびりと観光が出来ます。
 サー、ハミ城に向かって出発です。バナヤベシ湖岸沿いに、広い公園があり、鴨やカモメが沢山いて、のんびりとしています。夏には野外劇場や民族舞踊が開催される。湖の周りには柳の木が多く、微かな風に首を振っています。そしてシルバーラインの船で、タンペレまでの往復が出来るが、今はもう終わっている。確かに風は冷たく、全て冬の装いは駆け足でやってきている。観光地はハミ城近くに、集中しているようです。ハミ城は1993年までは監獄でした。そうでしょうと、思っていたのは窓がない。独特な雰囲気を持った城、優雅なところは微塵もなく、堅固な要塞である。城の内部は、昔の服装をした人形さんで、風俗を表している。偶には国のお偉い方が、パーテイや会談に使われているのでしょうか、そのような部屋が有りました。城に続く敷地には、歴史、軍事の博物館がありましたが、一般には公開してないのかな。今日はお休みなのかな、閉鎖していました。
 昨日から随分と歩きましたので、ここらで3人各自、自由にしましょうとなる。ホテルの前にはデパートも在るし、手頃な店も近くに沢山在る。この地の人々の食生活を見るつもりで、デパ地下(ここは1階でした)に行く。マーケット広場には、まだお店が開いていましたが、売り手がこの国の人ではないようで、聞いてみると、ヴェトナムとかタイとかの人達です。作曲家シベリウスの生家が、マーケット広場の近くにあったので、訪ねてみました。極、普通の小さな家です。
 ハメーンリンナ→ヘルシンキ→エストニアのタリン
 朝、早起きには慣れている私は、相棒さんに6時までは起きてはいけないと御達しを受ける。5時には目が覚めるので、その間は辛い一時です。でもフィンランドは、6時半頃にやっと明るみを帯びる位で、遅い夜明けですので、ホテル周辺を歩こうにも暗いので危険です。今日はヘルシンキよりエストニアに行こうとしているので、このホテルの朝食は6時からなので好都合です。昨日、船のタイムテーブルを、聞いていたので、早めの朝食。
 ハメーンリンナ駅よりヘルシンキ行のチケットを買いたくても、売り場はまだ開いてはなく、列車の中でも買えるので直ぐ乗ってしまう。相棒さんがホームのベンチに、カメラ入りのバッグを忘れたらしい。次の駅で下車して、駅の係員さんにその旨を伝える、暫く待っていると、ハメーンリンナ駅に届いていると、知らせがある。私達は喜んで、バックを受け取りに行きました。ヤレヤレ一安心です。次の列車ヘルシンキ行に乗る。ヘルシンキ中央駅から西港行の電車に乗る。予定していたタリン行は、リンダラインのフェリーではなく、タリンクラインのフェリーに乗ることになる。リンダラインの船は小さいので、少しの風でもすぐ欠航となる。タリンクラインの船は、大型の豪華船だそうで、めったに欠航はない。 出航近くになると、続々とお客さんは集まってきます。乗船は何度かチェックが有り、物々しい雰囲気、私達は別の国に行こうとしているので、チェックされるのは当たり前です。 それにしても乗客の多い事、1000人以上居るのでしょうか。船の内部は、1つの大きなデパート、スーパー、レストラン、ビュフェ、娯楽施設等、何でもありの一大エンターテイメントの豪華船でした。2時間ほどのデラックスな船旅でした。
 タリンでは、何も調べられずに、スムースに入国しました。港は新市街にある、過って訪れた時よりは、随分と新しい高層建築が、多くなっている。タリンの旧市街を目指すには青色の高い塔を持つ聖オレフ教会と、太く丸いマルガリータの塔を目指して20分も歩いたでしょうか、やっと到着です。
 宿は直ぐに見つかると思っていたのですが、観光客は多そうです。安宿ですが、まあ1晩位はと思い、ベッドが3つあるだけでも、安心できると思い適当に決めました。エストニアは過去にはソ連が制圧していた都市ですが、15年前にソ連から独立し、中世の雰囲気が此のタリンには、残っているのを求めて、世界中の観光客がやってくるようになった。
 タリン観光
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左=私はカモメでしょうか? 中央=ふとっちょのマルガリータ 右=聖オレフ教会より旧市街の遠望

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左=上が城壁下はセーターの壁 中央=ウィル門花屋さん 右=タリンの子供達粘土細工

 昨日の安宿のベッドは、マットがフニャフニャで、中心がペコリと凹んで動けば音がして、戸の開け閉めのカギが掛かり難い、言い出したら限がない。安いのは安いだけの宿でした。今日は別の宿を捜しましょう。やっと気に入った宿が見つかったが、1日しか空いて無くて、また明日は別の宿になる。仕方がない。予約してはなく、一言さんは弱い立場です。タリンに3日間、泊まることになったが、毎日違う宿は気分が変り、それもまた良いとしましょう。
旧市街の目印の”ふとっちょ“のマルガリータは、成程どっかりした砲塔で、出入り口を監視するべく、時には砲弾を発することもある象徴的な塔でした。過去の歴史的には、監獄として使われ、当時囚人の食事の世話する太り気味の女性の名前が、マルガリータさんでしたので。多分、彼女は心を込めて、美味しい食事を作ったのでしょう。其れだけ囚人から慕われていたのでしょう。その隣がグレート・コースト・ゲート、丘陵地帯の公園になっていて、木の葉が舞い、見たこともない木の実が落ちている。同じような黄色と白の建物が、3人姉妹と呼ばれている。15世紀にはハンザ都市のリューベック法が有り、道路の端に揃えて、建築しなければならなかった。だから旧市内は、此の法律を守っている建築物が多い。道路が狭く感じる。3人姉妹はホテルになっていて、すごく高い事を言うので、直ぐに手を引いた。聖オレフ教会が有り、この教会の高い塔に登れる。らせん階段を登ろう、老体に鞭打って、ヤッコラサで、直登しました。やっとの事で頂上に辿り着く。頂上にはグルリっと、手すりのついた展望の廊下が有って、強風を真面に受けながら、高みよりタリンの街を見物しました。この教会には、古い言い伝えの物語がありました。
 スール・クロース通りには、木造の城壁が残っている。2キロ近くも在るそうですが、少しの距離を、観光用に歩かせてくれるようだ。明日にしようと思う。一休みの場所は旧市庁舎、北ヨーロッパで唯一つのゴシック様式で、ラエコヤ広場がその前にあり、多くの観光客が店の前のテラスで飲食をしている。中世の服装に変装した若者達が、店の客引きをしている。その近くの裏通りには、多くの土産物屋さんが集まっている。個性豊かなお店が多く、一種の芸術村みたいです。
 ここで初めて、日本人のツアーのお客さんに出会いました。フィンランドでは日本の方とは何方にも、お会いしなかった。矢張り中国の観光客も多いようです。2日目に泊った宿の前はスーパー。テイクアウトの食材にも、少しは慣れました。相棒さんの12人は、明日の国立公園のツアーの、予約をしました。私はもっとタリンをゆっくりと、散策してみようと思います。宿を変えたい訳ではないのですが、土、日は満杯の事が多いのです。今日の宿はオレフ教会前の、クラシック朝の宿を得て満足です。早朝、相棒さんのツアーの関係で、荷物だけは預けておきました。
 今日は自由行動、遅めの朝食を終えて、サー何処に行こうかな。先ずは市庁舎のラエコヤ広場、観光客の多さには驚く。日本人観光客も何組かは居た。皆冬服の恰好ですが、私は暑いと思うのですが、どうなっているのでしょう。
 城壁に登り歩いてみたい。其処もらせん状の階段、細いがしっかりとした手すりも附き、高みの見物。裏道まで、手に取るように見せてくれる。多くの観光客も登っている、タリンの街を、しっかり観光した気分にしてくれる。その城壁の下には、セーターの壁と言われている。手編みのセーター、帽子、マフラー、靴下、手袋等、同じ店が何軒も連なっている。手に取ると重たくて、デザインが古いし、好みのものは有りませんでした。南に下がると聖ニコラス教会、オペラ劇場、トームペア城、アレキサンドル・ネフスキー聖堂等、昔の美しい建築が観光のメインになっている。教会、城も沢山あって混乱しそうです。とても良い天気が続きますので、気分も爽やかです。貴族の館の様な宿に帰り、洗濯や、ウオークマンを聞いてみたり、近くの店を覗いたり、のんびりとした時間を過ごしました。相棒さんは国立公園のツアーを、楽しんでいるでしょう。
 タリン→ヘルシンキ
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左=ヘルシンキ帆掛け船  右=元老院広場に立つアレキサンドル2世像

 タリンの新市街のDターミナルまで、ヘルシンキ行のフェリーに乗るためにしっかりと歩きました。帰りも豪華客船のタリンクライン。2回ほどのチェックが有り、矢張り他の国に向かい、出国する事には間違いない。のんびりと船のなすがままに、2時間の時を過ごして、ヘルシンキに到着する。東港に着いていたのに、西港と勘違いしていて、何度か人に聞いて、1時間程歩きやっと予約していた宿に着く。宿は古いが中心街に近く、慣れれば過ごし易い。今日は日曜日、マーケット広場は大賑わいのはず、サー行って見よう、それからオールドマーケットにも、何か美味しいものはないかな。
 広場には漁船の後尾に棚を作り、沢山のお店がびっしりと並び、観光客や地元の人々で凄い人。売り手の漁師さんは、自分達で捕ってきた魚貝類を、佃煮や酢漬け、フライ風等に、加工して、保存できるようにお土産として売っている。夫々の船の持ち主の味に、お得意さんが有るのでしょう。その他は果物や、毛糸で編んだ色んな物も在る。テントの中で食事もできる。以前から西港には、オールド・マーケットホールがあり、その中は個人の店が50軒ほどあって魚屋さん、肉屋、野菜、パン、コーヒー、軽食屋さん等が軒を連ねて、食事には困ることはない。
 ヘルシンキが舞台の”かもめ食堂”という映画の食堂が、泊まっている宿から近いらしい。よし、それでは時間が有るので、行って見ようではないかと、意見が一致する。看板が小さいので、分かり難いが、すんなりと見つけました。メニューは魚料理が多いみたいですが、とてもボリュームのあるランチで、オーナーは日本人の女性でした。お昼近くになると、お客さんで混んできます。サラダがバイキングになっているのが、人気なのでしょうか。  次の日は朝からメインの通りを歩けば、とても歴史を感ずるどっしりしたブランドのお店が堂々の構えで連なっています。夫々が好きなように、観光をしましょう。町の中心を、東西に貫く公園を通って、ヘルシンキ大聖堂の、白亜の建物を訪れました。高い階段を登っていくと、丁度ドアーを神父様が開ける時でしたので、静かに内部を見せてもらいました。細い道を歩いて、ウスペンスキー寺院に行きましたが、その前の道路が工事中で、閉鎖していました。その奥の港には、ヨットが沢山停泊していました。デパートにも行って見ましたが、さして珍しいものもなく、昼過ぎには帰国の途に着きました。

 今回のフィンランドを旅して感ずることは、この国ほど自国の大自然を大切に、壊さずに、優しく、人々が共存共栄出来るように保護して穏やかにその中で暮らしています。今まで多くの国を旅して、これほど大自然との調和を重んじる国はなかったように思います。ヨーロッパの観光は、お城、教会、遺跡と3つの要素の見物が主な観光ですが、フィンランドは大自然の観光でした。あの爽やかな森と湖の風景は、此れからも、時々何かの折には想い出し、私を慰めてくれるに違いありません。
エストニアのタリンは、以前の歴史が培った建物の羅列でしたが、夫々に物語を秘めてその歴史を辿ればもっと面白いでしょうが、時間が足りませんでした。ソ連の制圧が、中世の建物を残した皮肉な結果となっていますが、社会主義時代の暗く閉ざされた影響はなく、今はとても自由に長閑な生活していることを感じます。急速に発展する必要はなく、これからも、この中世の雰囲気を感じる町を、守り続けて欲しいです。きっと観光客は、今以上に、増えていくことでしょう。
 此れからの旅は、一つの国を訪れ、都市を沢山観光するのではなく、小さな田舎町を訪れて、連泊し其処の人々の生活を、体験したいと願っています。どんな旅が訪れるでしょうか。又夢を持って、家族が許して呉れて、自分が健康であれば、続けていくでしょう。
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ランスのノルマンディー、ブルターニュ、ロワール地方の旅  〔2013.9.28〜10.12〕
 世界の芸術、グルメ、ファション等をリードするフランス、若き頃は憧れてヒールはいて重たいカバンを持っての旅であった。年往ってからも幾度もお邪魔して、歴史的な世界遺産の数々の宝庫を堪能し、フランス人のプライドには少々嫌気がさした気持がある。今回はフランスの北の地域を訪れようと、3人で旅発つ。
 パリの最初の宿だけを予約して、そこで群馬からの彼と私達2人は出逢うことになる。パリ北駅から地図を片手に聞きながら、英語は分っているのにフランス語で答えるので、あやふやなことでやっと到着してやれやれ。彼は宿に辿り着く道中に背中に水ものを掛けられて、拭いてくれる例のかっぱらいに遭い、奪われたものを取り返して事なきを得、その武勇伝を話してくれる。最初の日にしてこれでは、相当注意しなければ被害に遭うかもしれないと、3人は改めて心がける事を話し合う。
flance1309_1パリのモンマルトル サクレ・クール聖堂
 未だ明るいので近くのモンマルトルを散策しよう。目立つ白亜の聖堂サクレ・クール、遠くからでも良く見えるので、迷いなくその丘へと辿りつく。大勢の観光客が大波の如く押し寄せる。小雨が降って来たので聖堂に入ろうとして階段の前では押し合いへしあいして危ない。何本かの傘を持った売り屋さんが居る。古道具、おもちゃ等、ビニールを広げて売って居る人達が、其処ら中に邪魔になるほどいる。テアトル広場には昔から似顔絵かき屋さんが陣取っています。ズラーと見て歩くと、50年前と少しも変わっていない。マンガ風にアレンジしたり、実物よりも美人に描いたり、見るからにプロと思える人も居たが、雨が激しくなってきたので、私達は長旅で疲れているので、早めに宿に帰る。
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 左=ルーアン 一本針の大時計  右=ルーアン 木骨組の建物が並ぶ旧市街(ノルマンディー独特)
 パリ→ルーアン
 星ありホテルは知らないが、珍しくパリの宿に粗末だが朝食が付いていた。安宿では朝食はなく、出かける途中にコーヒショップで戴くのが何時もの事。今日はルーアンに行く。パリのサン・ラザール駅より、インターシテイで1時間40分位、ルーアン右岸駅に着く。パリの駅では切符を買うにも長い列に並ばなければならず、急いで買いたい時には如何するのだろうか。現金ではなくカードで買う人ばかり、旅行者は戸惑うことばかり。
 途中モネが晩年を過ごし、“睡蓮“の連作の地であるジベルニーで下車する観光客が多いが、私達はどうせルーブル美術館で観ると思いやめにした。
 町そのものが美術館と言われているという、さぞかしと思い期待で一杯。近代的な駅舎より、中心街を歩き先ずは宿探し、古いが安く、シーツのチェックをして、身軽になり観光へと。裁判所前を歩きジャンヌ・ダルクを祀った教会は未だ閉まっている。帰路に参拝しょう。メイン街の入り口、金色の大時計があり、その通りの両側はテイクアウトの食べ物やさんばかり、観光客は夫々の好みの店で選び散策しながら食している。私達も一つ摘まんでみる。旧市街に入って行くとノルマンディー独特の木骨組みの4,5階建てのビルが立ち並び、よくよく見れば傾いて居るものもあり、目の錯覚かな?多分外見だけは其のままに内部は大改造して、近代的に住みやすくして居るに違いない。ノートルダム大聖堂は今、修復工事中で見栄えが悪いが、モネの有名な絵画、大聖堂のモデル、彼は向かいの建物の2Fから描いたそうです。大聖堂の内部のステンドグラスが見事でした。ぐるりとその付近を回れば白いレースの様な装飾のある建築物が次々と続きます。サン・マクルー教会はゴシック建築の傑作でしょうか。繊細な彫刻が建物に施してある。次々と珍しい木骨組みの建築を観て回って居ると、住民が中に入って行くのに付いていくと、2階建ての木骨組建物に囲まれた四角形の広場に辿り着く、窓にドクロが並んだり、奇抜な格好の若者達が屯している、先生らしき人に聞くと、昔ルーアンでペストが大流行して、多くの住民が亡くなり、その折の遺骨収容場所だったが、今は美術学校となる。中世の面影を残した不気味な学校だった。
 宿への帰路、ジャンヌ・ダルクの終焉の地である教会に入る。彼女は陥落寸前のフランスを勝利に導いた聖女となり、政治的な思惑から魔女となり、火刑になったという事実は、物語として子供の頃より、読んでいたので親しみを感じる。教会はジャンヌ・ダルク教会と銘打っている。とても近代的な教会で、内部には日本人観光客の多さに驚く、何組かの団体さんは説明を受けていたので、近くでお聞きしました。此処のステンドグラスは飛びきり美しいものでした。
 今晩の宿は、1,2日後に気が付くのだが、相棒さんの一人がベッドに何かの小さい虫がいたのではないか、首や肩を数か所噛まれていた。お酒が入っていたので身体が暖かいので、やられたのではないかという判断です。此れ以上酷くなりませんようにと祈ります。
flance1309_4エトルタ アモンの崖
 ルーアン→ル・アーブル→エトルタ→カン
 今日は強行軍です、覚悟して回ります。ノルマンディー地方はブドウより寒さに強いリンゴが沢山採れるので、リンゴ酒(シードル)のほうが有名である。昨夜相棒さん達は戴いてみたが、味が好みではなかったらしい。カルヴァドスという蒸留酒を今度は捜そうと約束していました。
 列車でル・アーブルに行こう。混んではなくゆったりと景色が眺められる。フランスは大きな国、農業政策は非常に成功していると思う。広大な国故に、牧草が地平線の向こうまで続き、ゴルフ場の様になだらかで、山脈がなく、平地は牛達の放牧場が多い。肉牛やホルスタイン系の乳製品を生産する牛達が多く、馬は時折少しだけ見かけますが、豚はさっぱり見たことがない。フランスは世界一の観光国らしいが、農業国でもある。
 早朝は空全体に靄が立ち込めて、どんよりとしている。ル・アーブルはセーヌ川河口に開けた町。でも私達はこの町よりも、エトルタの長い年月で、自然が織りなす大自然の不思議な断崖絶壁を見物選ぶ。列車はなくバスだけしかない。エトルタ行きのバスの中では、何時も一人ずつ座席を占領して、窓から見える豊かな農村の風景は、気持ちのよいものです。音楽を聴きながら旅の醍醐味を味わいます、有難いことです。
 エトルタに着いて荷物を預けようと思い、コインロッカーを捜すが何処にもない。聞くところに依るとテロ防止のために、フランスは駅もバスターミナルにも今はないらしい。情けないことよ、世界一の観光国の誉れ高い国の恥ですね、がっかりした。海岸まで荷物と一緒に歩きます。アヴァルの崖とアモンの崖の2つの崖の間を砂でなく白い玉石が続く海岸に、レース状の波が打ち寄せ、青き大西洋に注ぎます。見た事もない位の不思議な美しさ。犬達が散歩し、冷たいと思われる海で泳いでいる人達も居る。さぞかし暑い夏には最高のレジャーの地であったことでしょう。何時もなら崖の上まで登り、其処からの景観を楽しむのに残念です。
 バスでル・アーブルに帰る時間待ちの間に、エトルタの小さな田舎町を歩けば、ルーアンに似た木組み構造の家並みが連なる。主婦大好きな新鮮なお店があり、ジャム、林檎酒、乳製品の中でも特にチーズの種類多さには流石と思わせる。この町で戴いた出来たてのパンとチーズは、忘れられない位の美味しさだった。
 ル・アーブルに帰り今晩の宿泊地カンにバスで向かう。列車よりバスのほうが、人々の暮らしている田舎町にもっと近づいてくれるので嬉しい。ノルマンディーの村々はとてもシックな色調に統一されていて、決して派手な原色はなく地味な色に押さえ、其れで居て各家の造りが個性的、花壇も良く手入れされて、緑豊かにゆったりと時が流れているようです。カン迄2時間余りを心行くまで田園風景を楽しませてくれる。
flance1309_5モン・サン・ミッシェルの今の姿
 カン→モンサン・ミシェル
 カンの駅前ビジネスホテルは新しく清潔ですが、旧市街地より離れているのが難点です。この町はノルマンディー作戦で連合軍によって、ドイツ軍より解放されるが、多くの軍人、民間人が死亡した。歴史ある美しき町も人の勝手でどうにでもなる。歴史は繰り返すとあるが、世界中は破壊と復興は何時までも止めることを知らない。今も何処かで戦争は起きている。この町は第2次世界大戦では焼け野原だったらしいが、今ではその面影は何もない。人の力とは凄い事も起こりうる。どの国にも歴史的には苦難があり其れを越えてこそ、今の平和な町へと受け継いでいる。次のモンサン・ミシェルの拠点となるポントルソン駅行きは、1日に3本位とか、14時に乗りましょう。さてそれではこの町の観光へ。先ずはカン城を目指して歩こう。途中、時折路地に入り珍しき家屋や周りの可愛い花、地元の人のお店を覗くのは密やかな楽しみの一つ。市庁舎前に馬に乗り旗を掲げたジャンヌ・ダルク嬢の金の像が、私達を見下ろしている。ノルマンディーのいやフランスのヒロインなのでしょう。でも是は後世になってから、彼女は不運な短い一生だった。だからこそ讃えられているのでしょうか。
 カン城の前にサン・ピエール教会がある、戦争でこの教会の尖塔も屋根もなかったが、今では町の中心に堂々と構え、市民に愛されている。教会の回りには珍しい花々、日本にもある同じ花も一杯に咲いて、時々相棒さんより早くと急かされる。急ぎ足を止めているのかも知れない。カン城は広大な城、昔の征服王ウイリアムの居城には、美術館、博物館は新しく建築されていて、歩きごたえのある程の大きさ、今は城壁のみ残る、未だ採掘は続いている。高みよりカンの町を一望すれば、静かでしっとりと落ち着いた町。男子修道院、女子修道院があるが、自然と女子の方へ向かう。現在は市の会議場になって居る、今日は何かの催し事があるらしい、係員が丁重に迎えて下さるので、何だか分らぬ儘に入って行くと、ヨーロッパ風のシンプルな庭園がある。隣にはトリニテ教会がある、クラシック調のロマニスク様式の大きな教会、内部のステンドグラスは落ち着きのある地味な色調、私達はよく教会に入らせて貰い、音響効果のある高い空間を身に受けて、パイプオルガンや、夫々の特徴あるステンドグラスを眺めては、ここまでも来させて貰った有難さを感謝します。
 列車で豊かな農地を走ります、穏やかな丘陵地帯には林檎、アーモンド畑、牧場等、気持ち良い広々としたグリーンの眺めは癒されます。やっとモン・サン・ミッシェルの足がりの駅ポントルソンに着く。全くの田舎駅、宿を予約して貰う。バスを待ちミッシェル村まで行き、宿に荷物を預ける。私は偏屈者なのか、余りにも人気ある地には足を運ぶ気にはなれず、フランスを訪れても避けていたが、年甲斐もないと笑われそうです。今回は相棒さん達も是非に行きたいと希望がありました。宿はツアー客利用大なので、少しは値が高いみたい。スーパーや、土産物屋、ホテル、レストランの集まり地帯にある。フリーのバスでモン・サン・ミッシェルの近くまで行ってくれる。今日は明日の為の予備練習とし、少しだけ見物しようとする。此の修道院は潮が満ちても、行くことが出来るように道路を造ったのは良かったのですが、砂が堆積してしまい、今は橋に変更する修復工事行われていて、絵の様な姿ではない。元は巡礼の地であったそうですから、海の上に浮かんでいた方が、崇高なイメージがあるのではないだろうか。無理して観光に持っていかなくてもと思います。でも此処まで来た以上は、島の中に入ります。狭い道の両側は観光化した店が犇めきあっている。多くの国の観光客でゴッタかえしています。特に日本人が多い、私もその中の一人。世界中の人々が一生に一度は訪れたいという世界遺産。明日を期待しましょう。今晩は少しましな宿なので、のんびりしましょう。宿近くのスーパーでテイクアウトの食材を買って、自分たちの持ってきた日本食で夕食を、是が一番気楽です。
 次の日小雨が降っていた、さーモン・サン・ミッシェルを観光しましょう。修道院の開門は9時30分、早めに着いた私達は出勤の人達が、暗証番号のキイで次々と中に入って行くのを眺めていた。潮の干満で海水が灰色の砂上に、ヒタヒタと押し寄せて来ている。写真にある緑の芝生に羊達の姿は今どこに、橋が完成するまで見られないのが寂しい。開門すれば日本人の団体さんの大波が押し寄せてくる。内部はすごく大きい、数世紀に渡り増改築されて、歴史の流れに翻弄されて来た。イギリス海峡の要塞として、政治や宗教的な牢獄として生きてきた。修道院の内部の地図を見ながら歩きに歩く。山歩きよりもしんどいものでした。1300年の年月を経ても、こうして世界中の人々から愛されることは、何かしらその要因となるものが在るのでしょう。フランスばかりに旅する人が教えてくれたのは、有名なオムレツは美味しくないよ。次の町はサン・マロがお勧めでした。
flance1309_6サン・マロ 城壁は歩ける
 モン・サン・ミッシェル→サン・マロ
 サン・マロ行きは難しいみたい。ポントレンまで行けば列車はあり、何とかならないかと思い、宿からはバスがないのでタクシーで行けば、駅は閉まっていて、一日数本しかないので、通らない時には必要ない。其れだけ田舎で、ここに来るのはツアー客ばかりということなのでしょう。困った様子を見ていたタクシーの運転手さんがデルまで行けば良いと教えてくれるので、信じてバスを待ち、近くのパンやで美味しいパンを戴いてバスに乗る。もっと奥の農村地帯へと乗車客は私達だけを連れていく、家畜の冬の飼料のトウモロコシが広がる、デルに着けば直ぐにサン・マロ行きは発車して、私達は運よく無事に到着しました。
 イギリス領のジャジー島がすぐ近くのエメラルド海岸に広がるサン・マロは昔、海賊の町、海の男の町として、フランス最大の港として、発展してきているが、第二次世界大戦で壊滅状態だったが、この町の人々の努力により復興した。クロアチアのドブロニクス城壁の町によく似ている、歴史的な流れもそうであろう。古き堂々とした建物の1階は土産物屋、レストランも多く石畳の細い路地を歩くのが楽しい、こんな素晴らしい町は久し振り。城壁の上からぐるりーと、エメラルド海岸を眺め、近くの要塞が手に取るように見える。海のレジャーが盛んな処、ヨットやウインドーサーフィンのメッカでもある。数々の魚介類のレストランが連なり、夕食には名物のムール貝を鍋一杯に戴いて居る。私は如何しても手が出ない、田舎のカラス貝に似ている、相棒さんはお酒と一緒に笑顔の一時、とても美味しいと言っている。この町に連泊したい気持でした。
flance1309_7フージェール おとぎの国のような厚い城壁に囲まれた城塞都市
 サン・マロ→レンヌ→フージェール→レンヌ
 スマートな列車で、サン・マロからも近く近代的な大きな駅舎、ブルターニュ地方の中心レンヌは、パリからモン・サンミッッシェルの足掛かりになっていて、此処からツアーバスが発着している。駅近くの適当な宿を値切って決める。値切るのもタイミングがあり、レセプションの人柄の第一印象にもよるが、旅を続けていると何となく、値切りOKかNOか、其処が分かるような気がする。
 私達はバスで1時間程のこの町の郊外フージェールという城塞都市の見物に繰り出す。途中は相変わらずの牧畜が盛んなようです。大きな放牧場が沢山ある。フージェール行きだから終点と思っていたのが間違いで、キャスルと読めた所で下車すべきで、乗り過ごし損をしました。此処も中々英語を話す人がなく、やっと若い娘さんからの説明で辿りつく。フージェールも昔は一つの王国であった、敵から自国を守る為の要塞を兼ねた城は、戦いで滅びたが、そそり立つ3mの厚さの壁で、その堅牢さと塔が13も、大きな水車も残っていて未だ働いている、昔の面影は至る所にあり、その様子をサン・レオナール教会のテラスから、昼食のサンドイッチを戴きながら眺めている。この不思議な神秘的な町は強く印象に残りました。
 レンヌに帰り町を散策する、ここは大学が多く、若者達で賑わっている。あの木骨組みの家屋もありました。
 後で聞いた話ですが、外面にあの模様の構造は、火災に遭わないと云う迷信が、この地方にはあるそうです。教会が沢山ある、ノートルダム(我らが聖母)と云う名前の教会は何処の町にもあり、その教会と接する大きなタボール庭園は見事です、素晴らしくよく整備され、多くの花々が美しい。市民の憩いの場にしてはもったいないくらい立派な庭、多分手入れも大変でしょうが、是だけ庭を維持するだけの財力が、この市にはあるのでしょう。
 この町の名物、そば粉の中にウインナー入りのクレープはとても美味しいものでした。
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アンジェ(城の中に「ヨハネの黙示録のタペストリー」)
 レンヌ→ナント→アンジェ
 アンジェに行くには先ずナントに。駅の掲示板には20分前しかプラットホームの番号は出ないので、大勢の人が掲示板前をウロウロします。フランスに来て一番不思議なのは、服装が皆まちまちで、冬のオーバー、夏のノースリーブを着ている。季節に合わせた服装はないのでしょうか。フランスの北は寒いと思っていたが、其れ程ではなく、日中は暑い位、でも人々はオーバー、ジャンバーを脱ごうとはしない。手荷物がいやなのかな。アンジェに行くにはナント駅で乗り換えなければならず、アンジェ行きの列車待ちの間に、駅前の植物園に入る。とても大きくて、丁寧に一つずつ名前が付いて説明もある。池にはカモ、ガン、サギ等凄い数集まっている。越冬するのだろうか。地元の人達が子供ずれで楽しんでいる。フランスは緑の森林地帯の多い国、何処も緑地はしっかり確保され、環境には優れている。アンジェで手ごろな宿を決め、町の観光に出かけます。コインロッカーがない為に、駅に着けば先ずは宿を決めるスタイルは、この国での習慣となる。
 町のメインはアンジェ一家の城、古代から中世まで一つの国として宮廷文化が栄えた町。自然に其処に足が向く。途中の旧市街に15世紀のアダムの家があるそうで、この地方の特産物を売っているらしいので行ってみる。
 でもアクセサリーや飾り物ばかり、興味はない。メ―ヌ川沿いに町は広がり、ここも戦争での被害は大きかったが、戦後の立て直しに道路を広くして、近代的なビルが立ち並ぶ町へとなる。城壁の中に入れば、イギリスとフランス式庭園に分けられて造られたシンプルな庭が迎えてくれる。この城のメインは“ヨハネの黙示録のタペストリー”を観ることです。T字型の大きなビルの中に外光を遮断、薄暗くして飾られている。聖ヨハネが見た啓示をアンジェ公ルイ1世が作らせたもので、説明を読みながら進んでいきたいが、薄暗く足元がおぼつかなくてヨチヨチ歩きの見物だった。ライトを持って入るべきだった。城よりメーヌ川を見下ろせばアンジェの町が広がり、美しい風景でした。此処も学生が多いのか、活気ある若者の町です。宿の帰り土曜日の今日は休みの人々も多いのか、デモに遭いました。多分労働問題と賃金でしょうが、フランス語の分らぬ私達には何を言っているのかさっぱりです。以前友人がフランス旅行はデモが多くて交通手段がなく、とても困った事を話していたことがある。それだけこの国は自由に発言できて、他国民も多く悩める問題が多いと云う事なのでしょうか。
flance1309_9トウール サン・ガシアン教会
flance1309_10トウール アンポワーズ城
 アンジェ→トウール
 ロワール地方の古城巡りをしよう。トウールかブロワが其の拠点となる。私達はトウールを選んだ。午前中に着きたい、午後の古城巡りのツアーに入りたいと思ったが、今日は日曜日故に列車の本数が少なく、3時間も待たねばならない。バスはと捜すが分らない。単行本でも読んで待ちましょうとなる。前の席に多分イスラム系夫婦が3組、子供を7人位連れている。みな若く目鼻立ちが凛々しく美男美女達ばかり、子供がぐずったり泣いたりすれば、若いお父さんがよく面倒をみている。パリ行きの列車を待って居るらしい。どこの国から来たのかしら、一人のお母さんは臨月に入っている位の大きなお腹、ロングの黒いスカートにスリッパをはいている。裾を踏んで転ばないようにと心配だ。ロマなのかしら、流浪の民の様で、表情が暗く悲しみを心の奥底に秘めているようで、見ていても辛い。私が子供に日本のキャラメル一箱あげると、皆で分け合って食べていました。
 トウールに着き、急いで観光案内所に駆け込めば、1時30分発のツアーに間に合いました。3か所の古城を見られそうです。未だツアーの始まりには時間があったので、近くを散策すれば、パン屋の前に人の行列がある、きっと安くて美味しいパンを求めて、近くの人々が口コミで知り並んでいるのでしょう。私も並びたいけど。サン・ガシアン教会がデーンと見える。3世紀を掛けて完成したのでゴシックとルネサンス様式が混ざって建築された。巨大な聖堂のステンドグラスは繊細な色彩で魅了する。何の意味があるのか、教会の中に沢山の野菜が飾られている、未だハローウインには早すぎる。教会前にシャボン玉を飛ばしている老人が居る、帽子の中にコインを入れると、”メルシー”と微かに呟く。
 1時30分に女性のガイド兼ドライバーさんが新車のバンと共にやってくる。お客は私達3人を含めて6人。
先ずは古城の中で一番人気のシュノンソー城へと、ロワール川の支流シェール川の流れを挟んで建築されて、優美で気品ある城は、女性の城主であった時代が6代続いた。王や王妃の数々の物語がある。日本の江戸時代の大奥を思い浮かべる。王妃達の部屋や其の装飾を大勢の観光客と一緒に見せて貰いました。各部屋に飾られた大きな花瓶に入った本物の花が特に美しかった。フランス式庭園も王家の人々が散策したであろうと思い、私達も歩いてみました。次に向かったのはアンボワーズ城、ロワール川の高台にある堅固な要塞の城である。イタリアから職人を呼び、内部をイタリア調の洗練された家具で整えている。広い庭を歩き回り、城からの眺めを堪能して疲れました。最後にクロ・リュセ城、ここは晩年のデオナルド・ダ・ヴィンチがフランソワー1世によりイタリアから招かれて過ごした城、絵画、エンジニア、建築、演出家、数々の研究に思う存分取り組む機会を与えられて、いかに優遇されていたかが分かる。彼が造った色々な模型が展示されている。ダ・ヴィンチパークもあり絵画の題材に取り入れたそうです。彼は菜食主義者であったそうで、其の当時の食事が出来るレストランもありました。彼ほどの天才には、後の世には現れないでしょう。でも今を彼が生きていたら、どんな人であったか、想像するのは夢の話でしょう。毎日よく歩きます、歩きが達者でなければ観光客にはなれない事を痛感しました。
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 左=オルレアン サント・クロワ大聖堂の正面(ジャンヌ・ダルクは聖人として捧げられる)  右=オルレアン サント・クロワ大聖堂
 トウール→オルレアン
 パリには帰国の2日前で充分、もう1日あるのでオルレアンに行こう。列車で1時間30分オルレアン駅に着く。国民的なヒロインのジャンヌ・ダルクはオルレアンの少女として、思い浮かべる。この地の人々は誇りに思っていることでしょう。駅から真っ直ぐのマルトロワ広場には彼女の大きな像があるが、都合で工事中、近くまで寄れない。旧市内はどっしりと構えた歴史ありの店構えが多い。この町一番はサント・クロワ大聖堂、優美なゴシック様式の冴えたるもの。ステンドグラスには彼女の生涯を美しく描いていて、日光の当たり具合で、光輝いて見える。彼女が火あぶりの刑に処されている場面は、ドキリとします。500年も経ってもフランスのヒロインである事には間違いない。ジャンヌが10日程滞在した家も名所になっている。日本にも良くあること、何処にでも或る3階建ての小さな家でした。グロロ邸の庭には16歳の時のジャンヌの像がありました。デパートに寄りましたが何も買いたいものはなく、スーパーで果物を買うぐらいです。
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ミニシクラメンの群生(ベルサイユ宮殿に行く途中)
 オルレアン→パリ→ベルサイユ→パリ
 早朝のオルレアンでは、少し肌寒い、気持ち良く爽やか、フランスでは湿気がないので小さな洗濯物はよく乾く。今日はパリの宿に直行して、荷物を預け、ベルサイユに行こうとする。私達の宿はメトロではなく、RER線の北駅なのでC線に乗れば簡単に行ける。分らぬ時には聞けば良いと思うのだが、列車の乗務員が少なすぎる。メトロの回数券を買おうにも、チケット窓口に係の人が居ない。カードの機械で買っているが、フランス語の読めない私達には分かるはずがない。でも何方かが助けてくれました。やっとベルサイユ駅に着き、大勢の人々が歩いていくのでついて行く。キンキラ金の門に着けば大勢が列をなしている、チケットを買うための列、ミュージアム・パスを使えば列は免れるのだが、沢山回らないので、合計金額が損になりそうなので止めにしたから仕方ない、チケットと入場に1時間ずつ待たされて、覚悟していたが矢張り辛いことです。ルイ14世の発案で建築は始まり50年も費やした。フランスの黄金時代の象徴とも言える豪華な宮殿、広がる敷地に離宮、池も幾つもある大庭園、何処も観光客と警備員の多さで、何だか人並みに押されて付いていく感じ。豪華絢爛の粋を表わした王や王妃の寝室、毎夜舞踏会が行われたであろう鏡の間、礼拝堂やオペラ劇場迄備わっている。何千人もの食事を作ったであろうか、台所は効率よく整っていた。此処でどんな食事を調理したのかな。貴族や王様達は自分達の俄欲で怠惰な暮らし振りを顧みず、その結果フランス革命が起こりうる。栄枯盛衰の劇を見る思いがする。私達は何時間歩いたでしょうか。3人共に元気だなあ。宿に帰るには時間が早すぎる。メトロでシテ島へ、セーヌ川に浮かぶ、此の島がパリの発祥の地である。ノートルダム大聖堂にも、入れて貰おうにも観光客が並んでいるので、私達は正面と裏側からゆっくりと眺めるだけにした。170年かけて建築され、フランス革命時には破壊され、修復してナポレオンの載冠式が行われる、歴史上の幾多の受難ありで現代に至る。近くの土産物店を散策して宿へと帰る。
 パリ北駅は庶民的なところ、危ないと言えばそれまでだが、路端にホームレスの人達、何かを乞う人達、子供を抱いて手を出す人、ボロを着て足を引きずり歩くのを見ると痛々しい。宿の前には犬を連れた老人が何時も座っている。小銭を差し出すとメルシーと手を合わせる。パリの宿は何処も高いので、空港からの便利さだけで選んだのが、間違いであったかも知れない。 パリ(2日目)
 北駅の一つ前の駅までのメトロが高架になっていて其の下がメルカド(マーケット)になる、水と土曜日朝6時〜14時まで。今朝はメルカドの日、嬉しい何よりの楽しみ、どの国でも市場の見物は主婦にとり最大の喜びです。大きく長く左右に広がり、威勢のよい掛け声、呼応する知り合いの声、新鮮な野菜、果物、魚肉類、ここで生活しているのであれば、すぐ買いたい。でも今日も歩きが有るので、重いものは厳禁、少しの果物と乾燥の食材を買う。毎日スーパーで夕飯を買っていると、フランスでは必要食品は日本より安い気がします。
 パリの宿は台所が付いているとの触れ込みでしたが、使いたくない位不潔、でもお米を電子レンジでチンが出来る事はとても有難い。今日はルーブル美術館に行こうとする。メトロのホームで突然日本語が聞こえる。“電車内では持ち物に注意を”というマイクの声。私達は吃驚するが、其れだけ日本人の被害が多い事なのでしょう。平和ぼけしている自分にも言えることだが、大事なものは決してリックやバックに入れていない。でも気がつかない間に、ジッパーが空けられていた。チリ紙を何かと間違えたようだ。
 ルーブル美術館では、入り口にガラスのピラミットが人目を引く。日本の照明が使われていると聞く。やはり並んでチケットと入場に時間が掛かりました。もうそれだけでぐったりと疲れました。自分の観たい絵画や彫刻の近くに行きたい、人の混み具合を見るためにいるようで、ウロウロと3時間位で、もう諦めました。セーヌ川沿いにオルセー美術がある、以前訪れた時には展示の仕方がとてもユニークでした。相棒さんはもうルーブルだけで充分らしい。広い並木道を行けばチェイルリー公園、その向こうはコンコルド広場、エッフェル塔が見える。シャンデリゼ大通りはブランドの店ばかり、向こうに凱旋門がデーンとある。何となく路地に入り日本料理店のランチセットを注文する。とても御客さんが多いので、店が新しくできたらしいので。食べてみて不味いことこの上なし、即席で作る物の方がずっと美味しい、ご飯もみそ汁も、プロの味ではない。これを日本料理と思って戴いているフランスの方々を気の毒に思う。オーナーは中国人だった。つい日本が恋しくなった自分を恥じた。
 次の日私達はパリに別れましたが、フランスの田舎はとても素晴らしいがパリにはもう行きたくない気持ちです。庭の水仙が沢山芽を出している。みかんの実が未だ青いけど。何時もの平凡な主婦に戻り、静かに何でもない暮らしが待って居ます。
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イスの旅  〔2013.7.4〜7.18〕
swis1307_1モン・ブラン山脈
 スイスを旅するは、今が一番良い季節。一年の内で3,4カ月が観光で、後は本格的な登山とスキーシーズンらしい。ヨーロッパの夏は彼等のバカンスの為にホテル満員が多いので、避けていました。でも何となく、京都は未だ梅雨明けやらず、満開の紫陽花を後にして、不機嫌な母を家族に託して岐阜の友人との勝手気ままな旅に出る。
 深夜発の格安カタール航空はドーハでトランジット、18時間位掛かったでしょうか、次の日の昼過ぎにはジュネーブに到着する。ヨーロッパの税関は近頃ではスタンプも押してくれないので、要求すれば笑顔で対応する。
空港のスイス国鉄(SBB)に駆け込み早速スイスパスを買う、是があれば列車、バス、船、美術館、博物館等が全て無料、登山電車は半額になる。ホテルが高いだろうと思い、ユースホステル会員にもなって、都合ではユースに泊まる事もありかと思っている。ヨーロッパのユースはとても清潔で朝食付きで安い、2人、3人部屋もあるが、場所が不便な立地条件が多いので、敬遠するのが常だった。円が安くなりドルの方の率が宜しいようなので、以前ドルを沢山換えているので、ドルからスイスフランを得る。
 ジュネーブ
 ホテルは直ぐ見つかり、駅の近くのホテルにチェックインし、荷物を置いて観光に出る。ジュネーブには多くの国際機関がある近代的な国際都市である。大きなレマン湖に面して新市街と旧市街に別れていて、その間を多くの橋で結ばれている。モン・ブラン橋、イル橋はレマン湖から流れるローム川に架かり、その流れがとても激しい。湖畔の澱みには水鳥達が遊び、大きな白鳥は目立つ存在。アジア圏と違い何処も清潔で気持ちよく、旧市街の石畳の軽やかな靴音を聞きながら、先ずは尖った塔と正面の堂々とした円柱のあるサンピエール大聖堂を訪れる。キリスト教の歴史的分裂の地、カトリックとプロテスタンに分裂した宗教改革の中心人物カルヴァンの説教が行われた。旧市街は起伏の多い地。宗教改革の指導者ジャン・ジャック・ルソーの生家は路地裏の分り難い小さな家で、やっと探し当てたのに、今日はもう終わりの時間だった。
 明日のフランスのシャモニーに行く方法を確かめる。バスでは2時間、だが予約が必要らしい。スイス鉄道ではレマン湖をぐるりーと一回りして行けるらしい。4時間掛かるが、スイスパスも有効。風向明媚な土地の観光も出来て、経済的だと思い、其れに決めて私達は早目に休みました。
swis1307_2パルマ(猟師=左)とソショール(科学者=右)
 ジュネーブ→シャモニー・モン・ブラン
 ジュネーブの早朝は肌寒い。ホテル近くの静かな旧市街をゆっくりと散歩する。その町の雰囲気を感じたいと思う時には、路地を通れば少しは分かる気がする。旅する時の気持ちが和む一時です。
 列車は少しも混まずにゆっくりとしている。湖側に席をとり、どんな景色が眺められるかと心待ちにする。レマン湖は大きな三日月の形をしている。私達がよく耳にする地名があり、ローザンヌ、モントレー等。途中ローザンヌで下車してみる。今オリンピックの候補地を決定するプレゼンテイションが行われているとか。駅前から急な傾斜地が続く。一巡りして、乗り換えの次の列車でモントレーに行く。此処は世界中からの大がかりなジャズフェステイバルが7月末まで開催している。シノン城を見ようとしていたのに、見過ごしてしまった。湖畔の反対側の傾斜地には背丈の低いブドウが整然と何処までも続きます。昔風の農家の小さな村が点在する。湖側には藍色の湖の果ての線上には、雪渓を被った美しい山脈がずっと続きます。何処を見ても飽きない眺めは気持ちのよいものです。マルテイニで下車して、登山鉄道のような小さな電車で幾つものトンネルを越える。アプト式鉄道とは是なのでしょう。線路の中にもう一つの路線があり、電車の歯車で噛み合せながら山の登り下りを難なく走ります。満開の黄色のモミザ林の中を通り、高山植物の群生を見せて呉れます。断崖の下は白く濁った川も流れています。フランスとの国境でバスと連絡しているはずが、何かの都合で1時間半程待たされる。やっとモン・ブラン駅に着く。目的のホテルの看板が小さく、ホテル捜しに手間取りました。駅前通りには、日本人の団体客の多さには吃驚します。この町の名蜂モン・ブランをもっと近くで見たい人々で溢れています。フランスとイタリアの国境に聳える4000m級の山々の登山基地でもある。メインのパカール通りは、土産物屋、ホテル、レストラン、パン屋さん等が並び、華やかな通りになっている。かの有名なモン・ブランの征服者、猟師パルマと科学者のシュールの像がどっしりとあり、パルマが指さす白き雪を頂いた山がモン・ブラン。日本語の観光案内書もあり、パン屋に寄れば日本人の従業員、明日の展望台の事を聞きに行けば、案内人は日本人。長年いかに日本の観光客が多いか、必要かを察する。今日は此処まで来るだけで時間が掛かった。清潔なホテルで日本食を作り、ささやかな夕食にした。
swis1307_3モン・ブラン(4810m)
 モン・ブラン→ツエルマット
  昨日案内所で9時からなら予約できるが、その前は出来ないと言われ、朝一番は7時からだから、6時頃から並んで下さいだった。展望台エギーユ・デユ・ミデイ(3842m)まで楽に行こうと思えば其れなりの苦労はしなければならない。早起きは何時もの事、朝の散歩を兼ねて、サン・ミシェル教会を拝観する。是だけの森林を持つだけあり、全てが木材を使い建築されて、小さく慎ましい佇まい。此処の住民の心の支えとなって居るのでしょう。
 ホテルに荷物を預け、6時に並んでも次々とチケット売り場には人の列。屈強なる山男が重そうなロープや、アイゼン、ピッケルを持った完全装備の人々も大勢いる。きっと山登りも岩登りもするのでしょう。私達が乗ったのは30人程が乗れる大きなエレベーター、3度乗り変えてその都度高所に登っていく。耳がピーンとなり、寒さが身にしみる。やっと展望台に着く。真っ白な山々、360度のパノラマ、眼が痛い。最高蜂のモン・ブラン(4810m)は人懐っこい丸い稜線。多くの登山者がまるでアリさんの行列のようにラッセルしている。反対側には切り立った黒い花崗岩の鋭蜂ドリュやグランド・ジュラスの針蜂が連なる。遠くに小さなマッターホルンも見える。何時までもこのままで居たい気持ちです。ロープウエイでもっと多方面の展望台に行けるらしいが、あまり多くを見ても、忘れもあるので、主な処を印象深く心に留めれば良いと、私達は思います。
 昼過ぎから元来たと同じ路線でマルテイニまで。其処から私鉄に乗り換えてブリークまで。そして2時間、両サイドの美しい景色、高き山より勢いよく落ちる数々の滝を見ながらツエルマット駅に着く。此処も日本人ばかりの団体さん。旗のもとにバッチ付けてゾロゾロと遠足のように連なっていく。日本語が飛び交う。時折中国、韓国、台湾の人達も居るが圧倒的に日本人が多い。夜は9時頃まで明るいので、歩いて散策には都合がよい。博物館や教会を見物し、美味しいパンや、スーパーもあり、小さくて暮らしやすい町のようです。星が綺麗、明日は晴れそうです。
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 左=展望台からのマッターホルン  右=リッフルゼー湖近くの高山植物
 ツエルマット→インターラーケン
 泊まったホテルからもマッターホルンのあの独特なお姿を拝見する事は出来るが、彼はお天気屋さん。すっかりとその全体を見せるのは時折の事。夕刻時にも彼のお腹のあたりに、白い雲が掛かりすっきりとしていない。もう少し近くから見たいと思うのが常の事。町外れまで行きましたが、同じことでした。
 朝食を終えて、直ぐに登山電車の乗り場へ、ゴルナーグラート(3883m)の展望台まで登山電車で目指します。スイスパスは半額になるので助かります。天井までがガラス張りになっている。途中3度停車するので何処で降りてトレッキングをしようとも各自の自由。マッターホルンを右手に眺めながら、静かに登っていく。2度目の停車で小さなリッフエルゼー湖に逆さマッターホルンが眺められるらしいが、私達はそれよりも高山植物が余りにも沢山なので下車する。長い間雪の中に埋もれ今こそ我が春と咲き誇る花々の群生に、その色の鮮やかさに連れられて歩き回る。池の向こうにはミシャベル連峰の氷河の眺め、この雄大な景色は例えようもなく唯、立ちつくすのみ。世界中の人々が絶賛してやって来るのも尤もな事だと納得する。多くの国の人々が両手にステッキのアルペンスタイルでお花畑をトレッキング。私達もこの景色を心に留め置くように、ゆっくりと歩いて回りました。耳がやはりツーンとしていたのが,しばらくすれば正常になり次の電車に乗りました。屋根の付いたトンネルを越えて、ガレ場が多いなと思ったら終点だった。日本人の団体さんがセントバーナード犬と一緒の集合写真を次々と撮っている。少し歩けば頂上に小さな教会があり、近代建築のお土産屋さんもある。
 富士山より高い展望台から4000m級の山々が見渡される。マッターホルンは単独蜂ではないのに周囲の山が低いので孤高の巨人と言われている。眺める角度で色々な表情をしてくれる。その反対側にモンテ・ローザ(4634m)が目の前にそびえる。2つの耳蜂もくっきりとみえる。多くの山々も氷河も名前があるが、幾ら聞いてもすぐ忘れるので、この2つの山だけは、こうして眼にすれば忘れないでしょう。  時間が経てば日本の団体さんでごった返してくる。如何して団体となると騒々しくなるのでしょうか。もっと静かにこの美しい景色の中に自分を陶酔して、心に残して欲しいと思いますが。ホテルで荷物を受け取り、3度乗り変えてインターラーケンオスト(北)駅近くのユース・ホテルに落ち着く。
swis1307_6左からアイガー、メンヒ、ユングフラウ
 インターラーケン→ブレゲンツ湖→グリンデルワイド
 このユースは大型の新築で4人部屋が主らしく、私達の部屋は韓国の娘さんと一緒だった。彼女達は夜も朝も遅く、私達は早いので、お互いが迷惑な事だったでしょう。でも新しいので気持ち良い。朝食も多種類のバイキング、とても美味しいものでした。スイスに入国して一番有難い事は、水道水が飲めることです。癖がなく冷たくてとても美味しい。ミネラル水を買わずに済む事は、何と有難いことでしょう。
 インターラーケンはベルナーオーバーランドの中心にあり、トーン湖とブリエンツ湖に挟まれていて、美しい湖のクルージング、ユングフラウヨッホの登山電車やグリンデルワイドのアイガーへの拠点となっている。全部は行けないので湖はブリエンツと山はアイガーに行くことにする。
 今日はブリエンツ湖の観光を目指す。オスト駅の近くに遊覧船の乗り場がある。往復を同じところでは面白くないので、片道を列車にする。ブレゲンツ駅で降りてこの町を散策する。湖に添って細長く町は続き、木工製品が盛んなのか、鳩時計や飾り物が売られている。山に向かってハイキングコースが沢山あるが、住民にはその恩恵はありそうです。出航時間になり遊覧船に乗り込む。水底までも透き通って見える程の美しい湖を気持よく走る。
 両サイドには小さな村々が続き、優雅な別荘の感じです。山が険しいので専ら舟が自家用車変わりの交通手段のようです。京丹後の伊根町のような湖岸に各自の舟屋が続きます。木材が豊富なので昔からの木造りの家並みが多い。高い山からの滝がこの湖に落ちてくる。コバルトブルー色の湖からの涼しい風に吹かれて、美しい湖畔の風景を眺めて、充分満足いく船旅でした。
 さー、クルージングを終えたので、アイガーを見に行こう。登山鉄道でグリンデルワイドを目指す。列車の中で同じ年格好で山好きで陽気な人と知り合う。彼女は日本に興味を持ち訪れたいけど物価が高いでしょう、迷っているとか。私はスイスの方がずっと高い気がすると感想を述べた。
 この町はアイガーの町、日本語の観光案内所もあるが、昼休みはしっかりとって居る。ヨーロッパではこの昼休みが長いのが迷惑な時もある。他の案内所でホテルを紹介してもらう。駅前は大きな工事が行われて、すっかり近代的なアイガーの町に変わっていくようです。人気の展望台フイルスト迄、歩けば10分かな、4人乗りのロープウエイで次々と標高をあげて行ってくれる。お花畑が素晴らしい、放牧されたカウベル付けてよく太った牛達がのんびりと草を食んでいる。右手にアイガー、メンヒを見ながらの見物は最高の一時でした。展望台より四方八方にハイキングコースが伸びている。下りを歩けば2時間位をお花畑の中のハイキングだと思うけど、心配な気もして往復をロープウエイにしました。心残りの気持ちがしますが、大事を先に考えました。お天気に恵まれて、何十年振りのアイガー様に御目に掛かれて、健やかで生きながらえた事を嬉しく思います。
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 ロイス川に架かるカペル橋
 グリンデルワイド→ルチェルン
 ホテルからアイガーが真向いに見られる。私が見ているのではなく、アイガーから見つめられている感じがする。山小屋風のホテルは古い造りで、家族経営している。とても凝った朝食を用意してくれる。中国人達も泊まっていた。早朝近くを散歩すれば、スイスの田舎の暮らしは、日本と何ら変わりはない暮らしがある。朝露に濡れた小さな花が一杯に咲いている。
 今日はグリンデルワイドからインターラーケンにバックしてルチェルンを目指す、北への行動。珍しくお客さんの多い列車だけど、インターラーケンで多くの乗客は降りてしまう。其処からはゆっくりできて、スイスらしい牧歌的なのんびりの風景の続き、落差のある多くの滝を眺めては溜息が出る、このような滝が京都に一つでもあったらなーと思う。緑の森林と豊かな水量の川の流れは、人の心を癒してくれる。この国は何処までも美しいと思います。  ルチェルンの駅でホテルを紹介してもらう。分り難い処に有り何度も聞いて、やっと辿り着くが、今回は本格的なバックパッカーの宿で、荷物を預けるのに、中を覗くと掃除中。失敗したかなー。チェックインは4時からなので、観光に繰り出す。この町は明るい雰囲気があり、今までは山を中心に観光してきたが、この町は古い佇まいを観光しよう。
 先ずはライオンの記念碑から、昼間の太陽は強烈にジリジリと照りつける。地図上では近いと思うが距離感を間違えて、遠回りをしたようだ。スイスは精密機械や観光で今でこそ先進国ですが、産業のない時代、スイス兵の実直さを乞われ、各国に派遣されて外貨を稼いでいたらしい。このライオン記念碑は、フランス革命時のマリーアントワネットの守護兵だった786名の戦死者を記念して建てられた。傷ついたライオンはその象徴らしい。
 2つの塔が高くそびえすっきりと洗練されたうつくしさのホーフ教会に、涼しさを求めてゆっくりとさせてもらう。マリア様の祭壇が重厚に祀られている。
ルチェルンの一番のメインは、ロイス川に架かるカペル橋です。
 木材で作られて屋根付きの此の橋をわたると、その三角形の梁の部分に歴史と聖人の絵画が繊細に描かれています。橋の外観には出窓状になっていて、其処には花が一面に飾られています。スイスの人々は花を大切にし、好きな国民なのでしょう。観光の為でもあるでしょうが、ホテルや店、個人の家もどの地方でも、出窓には必ず花がある。同じ色で統一したり、色とりどりだったり、きっと季節に合わせてとり変えているのでしょう。カペル橋と、もう一つシュプロイ橋もあり、流れの澱みには白鳥、カモや水鳥達が沢山住んでいる。人々がパンを与えています。こうして人間から餌を貰うと、野生には戻れないと聞いていますが、此処はスイス、干渉はすまい。
白鳥は水上で泳いでいる姿は優雅そのもの。でも陸に上がって歩く姿は、あの大きな黒い水かきの付いた足でヨロヨロとしているのは醜い事に気がつきました。白鳥は水の上だけの姿でよいです、それ以外は見ない方が良い。
 橋の袂の歴史博物館、自然博物館に入場してみたけど、全然面白くなかった。
swis1307_8ルガーノ湖、ガンドリア
 ルチェルン→ルガーノ
 私達がルチェルンで泊まったホテルは見かけ汚く思ったけど、そんなでもなく、唯シャワー室が一つで困りました。今日は北から南までの時間が掛かる列車になると覚悟しています。どうしてもの場合途中のアンデルマットで泊まるのも一つの案。でも乗ってみれば直通で、以外にも早く着きました。イタリア系の小母さん達が近くの席を独占して乗っている間、身振り手振り宜しく、よくしゃべること。“何をそんなにしゃべることがあるの?”と問いたい。黙ってこの美しい景色に見とれている人もあるのに。次々に雪渓を被った山から連なる緑のじゅうたんの上を放牧された牛や羊、ヤギ、ウマのお伽ばなしの風景。そののびやかな絵画的な景色は、世界中何処にでもあるのではない。これ程のうつくしさには出会っていない気がする。
 さー、ルガーノに着いた。今日のホテルは駅の裏手の森の中、元貴族の館の様なホテル。昼頃だったのにチェックインOKだった。この町の旧市街へはケーブルカーを利用する。とても起伏の多い町、足腰丈夫でなければ暮らせない。この町に来た理由は、ここからのバスでサン・モリッツ迄の爽快な旅が出来ると聞いたので、列車もあるが人気があって予約で満員らしい。駅で明日のバスの出発時間を聞いて予約をして貰いました。
ルガーノの町を心おきなく観光しましょう。湖岸沿いの美しい並木が木陰を作り、ルガーノ湖からの涼しい風が心地よく吹いてくる。聖マリア教会、聖ロレンツ教会を拝観する。遊覧船が沢山あり、丁度今、出発のガンドリア行きに乗せてもらう。モンテ・プレ山の裾野に有る人口250人ほどの小さい村。今では芸術家、陶芸家等がこの地を好み、制作に余念がないとか、京都の美山町のようです。此処はイタリアと湖で連結しているので昔、税関を通過せずに潜水艇で密輸が行われた村であったらしい。私達は上陸して夾竹桃がまるで桜の花の様に満開の村の路地を歩き、陶器、絵画の店を巡る。魚専門のレストランもあるが、値段が高価で手が出ない。ルガーノに帰り、ホテルの帰路の惣菜屋さんで、少しの物をテイクアウトして、部屋で食する方が気分に合っています。
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swis1307_10上=サン・モリッツ  下=回転陸橋
 ルガーノ→サン・モリッツ
 サン・モリッツ行きのバスが12時発なので、それまでをサルヴァトーレの展望台に行く。地図では歩いてでも行けそうなので、朝の散歩も兼ねて、湖畔の涼しい並木道を、足取りも軽く、地元の人に尋ねて、朝一番のケーブルカーに乗る。途中一回乗り変えて頂上へ。モンテ・ローザが見えるらしいが今日は視界が其処まではきかない。ルガーノ湖とこの町が一望のもとに見られ、美しさにうっとりする。山頂を多くの人が散策している。
 駅前のポスト・バス乗り場からサン・モリッツ行きに乗りこむ。此処もスイスパス有効。スイスを旅する人達は、此のパスはどんなにか得する事を知らせたい気がする。乗客は混んではいないので、湖側に座り、さあーどんな景色が見られる事やら。ルガーノ湖、イタリア側のコモ湖の北側をぐるりと通ります。流石、世界中の富豪の保養地として知られているように、デラックスな別荘が連なる。小さく美しい村や各家にヨットがある村も点在する。キアヴェンナからは山岳地に入り昔ながらの古い村々、幾つもの峠を越える、ヘヤーピンカーブの連続で手に汗する思い。時折大きなトラックが満載の木材を積んで、道を揺らしながら通っていきます。石造りの家が見え、雪渓の残る山並みが続いて来たなと思うと、其処がサン・モリッツだった。
 今日のユースはサン・モリッツ湖の半周位、駅より離れていて、バスが其処へと送ってくれます。5人部屋しか空きがない、朝夕食込みの値段だった。私達は早目に着したので2段ベッドの下に決めて、ユースホステルの近くを歩き回る。気持よい木陰の森林や花畑が続き、馬の調教の地でもあり、全体がスキーのメッカでしょう。山並みがなだらかなで穏やかである。多くのハイキングコースがあって、道漂が詳しく付いている。
 スイスにはスイス語はない。ドイツ語が一番多く、フランス、イタリア語と通用するらしい。でも、昔サン・モリッツの州では、高い山脈と谷によって、他地方と交流がなかった為にこの地独特のロマンシュ語が今も使われているらしい。ヨーロッパでは多くの国と地続きなので、3〜4カ国語が話せるのは当たり前のこと、日本とは大いに違いがある。
 旧市街地とは離れているので、静かでキャンプ地に居るようです。昨晩は私達2人だけで助かりました。夜の食事も豪華なバイキング、まともな食事ができました。今日のこのユースは予約で満員なので、隣のホテルに移ります。連泊する理由はベルニナ・エキスプレスの列車でイタリアのテイラーナまで行きたいのです。
 朝から列車に乗り込む、テイラーナ迄2時間の人気列車で、予約なしでは大変と聞いています。パノラマの天井までガラス張りの特急より普通列車でよいと思う。此処には日本人観光客の団体が列車の2〜3両を借り切っている。次々と出発する列車がその状態です。ヨーロッパの列車は何時も何の合図もせずに出発するので、困ることがある。直ぐに標高をあげ、モンテ・ラッチの氷河のうねりが見える。黒い湖も見え、スリルのあるカーブの繰り返しで標高2253mのオスピオ・ベルニナ駅が一番の高所、断崖絶壁から覗く氷河は湖へと続き、流れ落ちる滝、沿線に広がるアルプスの眺め、迫力ある氷河の景観に驚く事ばかり。ハイキングコースも沢山あり途中で下車する人々も多い。森林地帯を越せば今度は下って行く。ヨットやボートがみられるポスキアーボ湖を過ぎると、高低差を避けるための円型の360°回転する陸橋を過ぎればイタリアのテイラーノ駅。
列車の中で日本人の面白い人に会う、紙袋とビニール袋を持って旅している人は、この格好はとても安全な姿だ。自分は以前、ツアーでヨーロッパを旅行した時に、添乗員さんが水道水は飲んではならない、絶対に水はミネラル水を買う様に言い渡されていた。添乗員さんはもしも一人でも、お腹が悪くなれば自分の責任になるので、其処を回避しているのだと思う。でもスイスに来てこんな美味しい水を飲めない観光客は可哀そうだねと私達と意見が一致しました。
 イタリアのテイラーノ駅が終点。おかしな事に駅が隣合わせにイタリア側とスイス側に有り、その中間が国境らしい。おもちゃの電車で市内観光する。古い教会が一つ在るだけで、この田舎町は面白味がないので、すぐに引き返す。元来た路線を繰り返しサン・モリッツに帰りました。
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swis1307_12上=クールの大聖堂  下=アローザ
 サン・モリッツ→クール往復アローザ
 今回の旅も段々最終地点のチューリッヒに近くなってきます。スイス鉄道は険しい山岳地帯も谷でもトンネルを掘り、アプト式鉄道でどんなところでも走っています。時間も正確、車内は清潔にしていて、自転車を乗せる車両も荷物の置き場あり、飼い犬も飼い主と共に乗ってくる。駅には必ず案内所があり親切にホテルの予約もしてくれます。
 クールは5000年の歴史を持ち、スイス最古の町だ。よい天気に恵まれ、雪を被った稜線が青空にくっきりと描かれて絵の様な美しい風景。心の中までも染み通るような気持になる。クール迄は2時間、ホテルを紹介してもらう。旧市街は、今日はやけに静かだな。日曜日はお店が休みなのがほとんどで、レストラン、パン屋、コーヒーショップは開いている。ヨーロッパを旅すれば、日曜日には悩まされることがある。でも教会から快い讃美歌や綺麗に着飾った男女、子供達を見る事が出来る。私達のホテルの前が教会で、洗礼を受けた赤ちゃんと家族が記念写真を撮っている。教会の中にお邪魔すると、牧師さんが京都は昨年訪れたことがあり、お寺の庭が洗練された美しさがあったと、話されました。
 旧市街には由緒有り気な古い建物が多い。先ずは大聖堂からと、ブドウ畑が続く中を越える。ロマネスクとゴシック様式の混ざった建築の教会は、内部はとても崇高な造り。教会の中は何時も涼しくって、旅人を一息させて呉れる。高き十字架のある聖マルチン教会、時計塔のオーバ門をくぐり、博物館へ行く。近くにインド人の集団がいる。何だか分らないけど恐怖を感ずる。中世の趣を残す古都の路地裏を散策するのは楽しい。クールの住民の暮らしが見える。時間があったので、列車で1時間の山奥の村、アローザへ行くことになる。
 スイスの列車はあの独特な赤色をしている。山岳と森林によく似合う色です。深い森林の中、勾配の激しい山を登り下り、ここアローザは観光ずれしていない知る人ぞ知る避暑地のようです。列車の中には愛犬と一緒に乗り込み、犬も良く訓練されていて、じっと床に伏せしている。友人と何やら愉快に話している言葉はマロニッシュ語なのでしょう。この地の人しか分らない秘密語のような言葉です。
標高差のある高所にも人は住めるものです。山の上の傾斜地にも上手に家が建っている。林檎を置けば滑り落ちそうな処。夏は涼しいでしょうが、冬は雪に埋もれて如何するのでしょう。アローザの駅から翡翠色の静まりかえった湖の周りを一周する。沢山の水鳥も静かに憩う。日本人には一人も会わなかった。こんなに静かな素敵な処が捜せば幾らでもあるのでしょうと思います。
swis1307_13ケー橋より聖母教会と聖ペーター教会(チューリッヒ)
 クール→チューリッヒ
 クールより2時間ちょっとでチューリッヒに着く。途中は相変わらずの湖と山岳の美しさですが、ここには麦畑、じゃがいもが多い。放牧の牛や羊の多さから、スイスは食糧も輸入が多いと聞くが、自給自足で充分足りそうに思うのですが、そうでもないのでしょうか。
 中央駅の便利さだけで選んだホテル。チューリッヒのホテルはとても高い。リトマ川に沿って教会3つ、大聖堂、聖母教会、聖ペーター教会と拝観していく。目的の美術館、今日は月曜日でお休みだった。明日もう1度来ようかな。ヨーロッパの人々は昼食も夕飯もレストランの外側のテーブルで、永い時間かけて食事を楽しむ習慣がある。私達は時にはレストランでと思いますが、コースを戴いてはスープが終わらなければ次が来ないし、早く全部持ってきてよと言いたくなる。やはりテイクアウトして自分達の部屋で、コソッと戴く方が、性に合っていると実感しました。
 スイスは全ての物価が高いので、清貧な旅は出来ないと思っていましたが、スイスパスとユースホステルには、大変重宝しました。一度も雨に会うことなく、危険な事もなく、健やかな旅が出来て有難いと思いました。
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リシャの旅  〔2012.5.30〜6.13〕
 ギリシャに旅行すると言えば誰もがどうしてこんな時に“危険じゃないの”と心配して下さるが、そんな事を考えた事はない。ヨーロッパ特にギリシャは、永い間の放漫経済で、国は破綻しているが、観光客には関係ないでしょうし、デモやストが多いなら、警察が人々の安全の為に大勢出勤しているでしょうから、却ってこんな時の方が治安は良好なのでは、何時でも言葉して言うのは容易いが、一歩踏み出すのは中々決心も要るのかも。気にすれば限がないので、気楽に旅立ちます。何時もの相棒さんと、山岳会の人と3人で出発します。
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 イラクリオン オールドハーバー(ヴェネツィア時代の要塞)
 クレタ島のイラクリオン
 深夜関空発のカタール航空、ドーハにトランジィット、そしてアテネ着。国内便でエーゲ海に浮かぶ2500以上の島、一番大きな土地面積を持つクレタ島に行く。空路を使い時間短縮、空からの眺めは群青色の海に、面白き形の島が次々に現れる爽快さ、夫々の島々が独特の歴史と個性を持つ、ギリシャ文明の発祥の地、クレタ島のイラクリオンにやっと着く。ネットで予約していた宿は、イラクリオンの中心地、ヴェネツイア時代の面影が残る要塞のまん前に在る。此の港は、漁港と各島に行く要となっている。3日後のサントリーニ島に渡る港は此処だけしかない。
 私達は散歩がてらに此の街を見物しようとブラーと歩きだす。夜9時頃まで明るい。此処の人々は何時頃休むのでしょうか、オフィスは夕がたの5時には閉まっています。ギリシャ聖教会の聖テイスト教会、マルコ教会を見物して、エル・グレゴ公園の傍のモロシニ噴水で一服、小さな街だが観光客目当てのお土産屋さんが多い。タベルナ(ギリシャ語で食堂)では、ギリシャの経済は逼迫しているのに、住民は我関せず、永き夜を大いに飲んだり、食べたり、その日を楽しめば良いと人生を謳歌しているようにしか見えない。私達は昨日関空を出発してから満足に休んでいないので、今晩は早目の就寝です。
hellenic1206_2ハニヤ(ヴェネツィアン ポート)
 イクラリオン→ハ二ヤ
 朝食を終えて要塞を歩く、突堤で釣りに夢中になっている老人達、ランニングで鍛えている人達も多い。今獲れたばかりの小さな魚市もある、あの新しい魚類を煮付けにしたらさぞかし美味しいだろう、食べさせて上げたいな、すぐ主婦の気持ちになってしまう。旧市街を囲む城壁は、今もしっかりと堅牢な姿を保っている。
 午前中は此の島のメイン、クノッソス遺跡にバスで行く。ギリシャは神話の国、高校で世界史の先生が神話の英雄伝、人間臭い神様の話を面白、おかしく話してくれた事を思い出します。クノッソス宮殿はクレタ島のミノア文明のミノス王の時代に建てられた。1200室もの部屋が在り、そこにミノタウス(牛頭人身)の怪物を閉じ込めたという伝説もある。暑い太陽が照りつける時間帯になれば、各国のツアーの観光客が多くなる。この宮殿には謎が多く、未だ解明されていない。修復作業は進んでいるらしいが、朽ちかけたままが多い、所々残っている円柱の柱が深く濃いレンガ色が、印象的でした。ここから発掘された貴重なものは、街に戻って考古学博物館で見学させてもらう。クノックス宮殿の壁画は修復されて展示していましたが、古代人の色彩感覚の素晴らしさ、優美で繊細さ躍動感に溢れ、現代にも通じるものが有りました。
 午後、私達はバスターミナルよりレシムノを越えてハニアに遠出の旅(2時間30分位)、お茶とサンドイッチを準備して乗り込む。エーゲ海に沿って海水浴場と避暑地の眺め、一時、こんな処で住んでみたいなと夢を見る。道路の両サイドには夾竹桃が赤、ピンク、白と今花盛り、豪華な植林帯が何処までも続く。子供のころ小川を石で堰き止め、この夾竹桃を束にして石で叩いて、その川に投げ入れ暫し待てば、小魚が浮いてくるのを捕まえて、家の鶏に食べさせる事が、夏の楽しみの一つでした。ままごとには夾竹桃は使ってはいけない花でした。多分毒性が有るのでしょう、其れだけに繁殖力が強く、暑い夏にも永い間、元気に咲く花なのでしょう。山側にはやはりオリーブの樹林帯、ヨーロッパには古代より多方面に利用され、食事には欠くべからざる漬けもの的な物。オリーブの葉は表と裏の色が異なるので、海風が吹くに任せて腰をクネクネとさせている風情ありで、両方の風景に見とれ、思い出に浸れるのに、運転手と助手の二人が大声で何時までもしゃべるのは、客に対し失礼だと思います。名前を覚えて交通局に通報してやりたい思いがする。此処はギリシャ、私は通り縋りの人です。
 クレタ島の第2の都市ハニアに着く。バスターミナルの近くの便利だけで選んだホテル。ハニアに来る途中白き頂きの山脈が続き、サマリア山脈と思い、雪渓か否かを知りたいので、インフォーメイションの人達は、絶対に雪渓ではないという、3600mもあるのにどうして何の関心もないのでしょうか。聞いた人が悪かったのかな。
 旧市街地のハリトン通りは一番の繁華街、大きなスーパー、旅行社、土産物、用品雑貨店等色んな店がしっかりとした店構え、大きな空間にギリシャ聖教の教会が有る、普通の教会とは内部の造りが違い、十字の切り方が、左からではなく右から始まり左へ、そして2回切っている。休憩に私達は使わせてもらいます。真っ直ぐ歩いてゆけば、自然とヴェネッツイアン・ポートまで導いて呉れます。其の岸壁には客待ちの馬車が何頭も静かに頭を垂れて居ます。グルリっと岸壁を一回り、ヴェネッツアン時代の繁栄を偲ばせるには充分な港の風景、向こうには古い灯台、多くの小型船、ヨットが停泊しています。観光の船が客引きをします。寄せては返す波の音に耳を澄まし、透き通る水の中の魚群が見える程に美しい。古代からの街並みのポートを散歩するのが、この街の観光のメイン、日本人には誰にも会わない。夕日に紅く輝く頃には、店の前の道路までがタベルナになり、地元の人達、観光客で食欲満タン、大量に召し上がられます。中年になれば皆良く肥えて居ます、理想的な体型の人には滅多にお目にかからない事は、この食欲此の体型に納得します。私達も少しのおやつの味見をとルクマデス(球状のドウナツにシナモンパウダーと蜂蜜がかかっている)を戴くが1人前が3人での量。宿に帰り熱湯で日本食を作り満足する。
hellenic1206_3レムシノ(路地裏のレストラン)
 ハニア→レシムノ
 ハニアにサマリア渓谷のトレックがあるのだが時間に余裕が無いので諦めました。早朝、埠頭に行き散歩をします。もう2度とはこんな遠くまでは来る事はあるまいと、その余韻を心に呟き乍、行き交う人に“カルメラ(おはよう)”と声を掛ければ、必ず“カルメラ”と応答がある。
 レシムノ行きのバスに乗る。ハニアに来るときとは違って、別の山側の道を縫うように走ります。時折助手さんが乗り込んで来て、チケットのチェックをするのが頻繁で、無駄な人員の様な気がします。オリーブやブドウ畑が続きます、行儀良く植えられているのや、アトランダムに植えているオリーブ、太古の昔より盛んであるのは、クレタ島の地質と気候がマッチし、良質のものが取れるらしい。ギリシャは観光が一番の外貨獲得のメインであるが、農業も加味しているかも知れない。
 レシムノはイラクリオンとハニアの中間に位置する第3の都市、他国(オスマン・トルコ、ヴェネツイア、ローマ)の長期間に渡り支配下にあった。バスターミナルは港の近くにあるが、宿探しに少し手間取った。目的にしていた民宿が満員で、食堂の女主人よりの紹介で、路地裏の極普通の家が今夜の宿、其処の1階は夜バーに早変わりしているみたい。
 私達は此の街の主なる観光、ヴェネツイア時代の城塞をパライオカストロの丘に登り大きく広がるお城を見る、オスマン・トルコに滅ぼされ、イスラム風に改造された丸屋根の建物は残っていた。内部は音響効果抜群の空洞、燕の巣が有る。ジリジリと照りつける日差しの中、城の頂上からのこの街の眺めは紺碧の海をバックにして、とても美しい。此処は観光客が少ないと思っていたが、昼時にはとても多い、レストラン街が多いからでしょうか。小さな路地が交差した街なので、自分達が何処に居るのか迷いそうだが、歩いていれば何処かの目印にぶつかる。やたらとサンダルの店も多い。大理石で精巧に造られたリマンデイ噴水は、疲れた顔や手を洗えて、ホーとします。夜食は持ってきた日本食にと、意見が一致、荷物を軽くしたいという思いもあり、美味しく戴きました。宿はクラシック家具が備わっていて、洗面所、バス・トイレが大きく新しく、天井も高く気持ちが良い。大きな窓には下からのブーゲンビリアやツタが絡まり、見事に美しく咲いています、まるで花園の中に居るようです。今晩は何方の泊まりなく私達だけ、こんな隠れ宿もあるのだなと思いました。
hellenic1206_4サントリーニ島 イヤー
 レシムノ→ヘラクリオン→サントリーニ島のイア
 昨晩、パッキングをしていた。早朝のバスでヘラクリオンに戻り、サントリーニ島行きのフェリーに乗らねばならない。フェリーに乗るのは簡単に思えるが、先ずは其のチケットの手配から始まり、分り難い船着き場、何の説明もなし、炎天下で皆荷物を持って乗船時間まで待たねばならない。サービィスの悪さはこの上なし、昔訪れた事はあるので少しは記憶に在るが、もう霧のかなた。快速船なので2時間程でオールド・ポートに着く。赤茶色の断崖が行く手を阻む様に立ちふさがっている。崖の上には、テレビや写真で此のサントリーニ島のブルーの屋根、窓枠、白い建物の様子は、よく見ている、世界中の人々が此の島を一目見ようと訪れます。ツアーの御客さん迎えのバスが、犇めいている。公共のバスをやっと見つけて、断崖絶壁のフィラの街に行く。今晩はもっと奥のイアの街までバスを乗り継ぐ。
 予約なしでも、イアの見晴らしの良い、ユースホテルはOKだった。改めて人力の恐ろしさ、素晴らしさ、こんな絶壁の上に絵のような美しい建物を建築したと思うと、驚くばかりです。このサントリーニ島は、何度もの火山の噴火で、今のような三日月型になったらしい。珍しく美しい島を、世界中の人々が訪れるのも無理もない。イアの夕日時の素晴らしい景色が見られるらしい、フィラより夕暮れ時には、沢山の観光客が押し寄せて混乱するらしい。ユースは若い人が多く、三婆とは場違いかも知れない。
hellenic1206_5サントリーニ島 フィラ
 イア→フィラ
 昨晩の夕日は、そんなに感動するものではなく、確かに車で乗りつけた人は大勢でした。私には海に波を受けて沈むバリ島の夕日、カンボジアのメコン川の方が、もっと大きく見える太陽の沈む様子でした。朝食の後絶壁の上のビュウポイントを散策する。可愛いギリシャ聖教会の寺院は、もう廃屋になっているのが多い。歩き回ったけど、何時ものお土産屋、コーヒーショップ、タベルナとか、荷物になるのが嫌なので土産は買わない主義を貫く。朝日は逆方向、フィラで明日見ましょう。バスでフィラに行く途中、背の低いブドウが育っている、火山性の土壌が品質の高いブドウ酒を作るとか、成長しても多分人の腰辺りの背丈でしょう、収穫時には、さぞかし腰を痛めそうです。
 お目当ての民宿は掃除中で、少し待ちで午前中でもチェックイン。とても遠望が利き、便利で美味しそうなレストラン付きの宿を得てラッキーでした。誰もが憧れ訪れたいと願っているフィアかも知れないが、所詮人間の造ったもの、独特の景観となり、自然とマッチしただけのもの。美しいけど、砂上の楼閣とはこのこと。大地震でもあれば、もろくも崩れ去るに違いない。観光客はすごい数、ラッシュ時の電車みたい。道路は階段が次々とあり、店の屋根を歩いたり、それもピンヒールで歩いている若い人達、裸体にシースルーの羽根をつけたようなファッションあり、まるでショウタイム、お婆さんは眼舞いしそうです。若い人達は美しくて眩しいが、中年以上の太った人の服装は、恥ずかしくて眼を覆いたくなる。此処に中国人、韓国人達のツアーは群れになって、其処ら中に響く大声で、近くを圧する雰囲気が有る。俄か金持ちは教育の歪か、行儀を知らない。ヨーロッパの人々も迷惑している事でしょう。
 ミノア文明ノアクロテリ遺跡を見ましょうとバスを捜して、やっと着けば、今日は月曜日なのを忘れていた。公的な施設は休みなので、近くの真っ赤な岩肌に囲まれたレッド・ビーチに方向を変えました。とても狭くレストランが数軒あり、浅瀬を数人が泳いでいるだけ、あまり見るべき物もなくガッカリした。フィラに帰りレストランで美味しいグリーク・サラダを戴きました。フェタチーズ(羊の乳から作る)さえあれば私にでも作れる簡単なサラダ、良く見ておこう。
 夢のような日々、醒めないで欲しいと願いながら、此の島を去らねばならない。此の島に再び足を踏み入れた事を、有難く噛みしめ乍、ギリシャ本土のアテネまで航空を使う、乗れば45分、空港からアテネの中心街までが1時間20分掛かる、嘘のような事実です。
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 左=アクロポリス遺跡のパルテノン神殿  右=アクロポリス遺跡のイロド・アティコス音楽堂
 アテネ
 アテネのホテルは予約していた。何処に行くのも便利良いシンタグマ広場前、近くに高級ブランドの店が続きますが、売れている様には見えない。散歩してみると道路沿いには閉鎖した店も多い。やはり景気悪いのでしょう。大通りの角には、若き体格の良いイケメンの警察がバイクに跨り、何時でも出発できる体制で数人が話しこんでいる、其れで公務なのでしょうから、何もない時には楽な仕事ですね。ホテルの隣に日本の雑貨店、其処にギリシャ人に嫁いだ日本人の奥さんがいました。アテネに出社した商社マンが多い時には、よかったけど……。平凡なる家庭生活に満足している自分にとり、意見をしっかりと持ち、国際的に生きている人生経験豊富な方の考えには教えられる事が多い。
 ホテルの朝食はバイキング、サンドイッチまで作り昼食とする得意技、理由はそんなに多くは食べられないので。本日の予定はアテネ市内の主な観光をする。勿論アクロポリス遺跡巡りです。古代ギリシャの都市国家の要塞として、自然の岩山の上に聖域となる神殿がBC6世紀には古パルテノンが建設された。歴史を経て支配者の都合で色んな使い方をされた、王宮、教会、モスク等としても。遺跡の中でも最大のパルテノン神殿はその雄々しき姿を再び見れば、大きなクレーンや重機等がその前に在る。以前よりは円筒の柱の数は増えているが、まだまだ其の修復作業は此れから先、何百年も続くのではないでしょうか、初めて日本人のツアーの団体さんに会えた。展望台からのアテネ市内の眺めは格別、向こうにリカヴィトス劇場のある高い丘が、手に取るように近くに見える。此の眺めは為政者にとり至福の時だったでしょう。アテナニケ神殿、デイオニソス劇場、古代アゴラ、ローマン・アゴラと順々に見学して行く。そしてアクロポリス博物館は自然光を取り入れて、展示の方法を工夫してあり、涼しくて休憩をとりながらの見学。私達は開館と同時位に入場しているが、帰る頃には黒山の人だかり、時間が進むにつれて凄い人になる。此処の見学には早目に来なければ後悔することになる。
 時々戴くコーヒーはグリーク・コーヒー、ドロドロしていて飲めたのにではない。フラッペはとても美味しい、インスタントコ−ヒーを泡立てて氷を入れただけのもの(好みの砂糖、ミルク入れるか否か)を聞いてくれる。歩きながらでも飲めるような容器に入れて呉れるので、気に入りました。プラカ地区を散歩しながら、今日の宿に引っ越さねばならない。プラカは例のお土産物屋とレストランの連続、時折客引きが幾らでも付いて来る。中国人とか韓国人に思われ、ニーハオ、アンニョンハセヨと言われれば、返事をしないのが怒りの表れ。
 宿を変えての往復、途中ロシア教会、アギオス・エレフテリオス教会等を外からの見物、もう疲れ果て入る気がしない。ユース・ホステル紛いの宿に引っ越し、明日からのメテオラ行きの事を旅行社で情報を聞いたり、一日だけのエーゲクルーズを予約しました。
 アテネ→カランバカ→メテオラ
 この旅の後半のメインであるメテオラ行へ、最後の泊まりの宿にリックを預け、小ぶりのデイバックに変えて、メトロで国鉄の中央駅(アリッサ)に行く。普通は大体観光客はアテネからのバスで、メテオラとデルフィをセットにしたツアーを選ぶらしいけど、私達は列車に乗ってゆっくりと、途中の景色を見たい希望もあり、少しは苦労をしなければ、旅とは云えないという思いもある。午前中の直通1本だけの列車を列して求め、やっと乗る事が出来た。座席番号在りで、何方共一緒の乗車。アメリカの大学生はカップルですごく大きなリュック、是が本当のバックパカースタイルかな。でも隣の座席で、イチャイチャして、眼のやり場に困る。ロマ人が家族と一緒に多くの荷物で乗りこんでくる、目つきが鋭く油断なく構えている。ピンドス山脈が見えてくる、テリッサ平原の麓の広がりは広大で、肥沃の大地、麦とオリーブ、野菜とブドウが豊かに実りを迎えている。窓からの景色も満更ではなく、次々と楽しめる。是が列車の旅の醍醐味でしょう。
 カランバカ駅は如何にも田舎駅の風情あり、サー宿を捜そう。色々と物色したが中々気に入るのが見つからない。やっと巨石の近くに巡り会った今晩の宿、御夫婦で経営している小さな宿。御主人は若くはないのに、子供が幼い。多分何かの曰く因縁が有るのでしょう。でも安いしとても清潔、其れだけで満足の至り。
 メテオラの中心地カランバカを拠点に観光を始めよう、巨石の上の修道院は夫々開館時間が同じではないので、市内案内所で其の情報を聞きたい、“私達にはわかりません”明日のデルフィ行きのバスの時間を問いたいのに、”バスターミナルで聞いて下さい。私達は知らない”の一点張りのすげない返事。貴方は何のために居るのと云いたい。今日は2つだけの修道院を見物しようと。宿の主人が近くまでタクシーで行くのが良いと呼んでくれる。
hellenic1206_8アギオス・ステファノス修道院
 アギオス・ステファノ修道院
 女子修道院だけあり、管理が徹底していて隅々までも掃除が行き届き、季節の花々が咲き乱れ整理整頓が完璧、巡礼者達の施設もあり4階建ての大きな修道院。私達はズボンに長袖、肌を出してはいないのにロングスカートを佩くべしとか、借りて入館する。受付には美しい優しい顔立ちの尼僧がいる。教会の聖堂が全面素晴らしい木製の彫刻です。イコン画や写本、繊細な刺繍が資料館に収められています。小さな手作りの物を売っています。修道院のテラスより、カランバカ村の眺めの素晴らしさは不思議な風景です。人里離れ信仰を修めるには、自分自身を此処までの高所に身を置かねばならない厳しい信仰の世界を、垣間みる思いがする。
hellenic1206_9アギア・トリアダ修道院
 アギア・トリアダ修道院
 垂直の壁が美しく、まるで大きな木の子が現れたみたい。その上に小振りの修道院、つり橋を渡り長い階段をと覚悟して途中まで登ると、降りてくる方が“今日は休みだヨ”入口の店の方は何も言ってくれない。閉館していないのなら下からの眺め。昔は階段もなく修道院の生活必需品、人の出入りは修道院には昇降カゴを使っていた。其のカゴと張り出した部分の建物は残っている、今も使っているようです。近くから見上げるだけで終わり。今日は2つの修道院を訪れただけで満足の至り。そこからは山の中の道を宿まで下って帰らねばならない事に、一抹の不安はあったが、何とかなるさで行こう。下山途中に見上げれば其の崇高なまでの姿を眼に焼きつけました。しっかりと道ありで迷う事はない、何時もの下山の要領で、色鮮やかな珍しい草花、日本の山草と似ているのが多い、時折登りの人も見かけました。私達のような変人もいるようです。町に入る道を遠回りしましたが無事到着。今晩の夕食は近くのタベルナでグリーク・サラダと魚の空揚げを戴き、量が多く、モッタイナイの気持ちで完食しました、後で後悔することになりました。相棒さん達ギリシャ・ビールは美味しいと褒めていました。
hellenic1206_10プラハバ通りの金曜市
 メテオラ→デルフィ
  朝食も宿代からすれば豪華版。昨日もよく歩いたけど、足は大丈夫、今日の天気も快晴、真ん前の巨岩群も御機嫌さん、金曜日には朝市があるはず、宿の主人にその場所を教わる。近くの通りがすっかり大きな市場に早変わり、生活用品特に野菜果物は採れたての新しさ、今が旬のサクランボを少し買ってみると、以外に甘くておいしい。気持ち軽やかに9時発の公共バスを利用してメテオラの終点のバス停まで載せて貰う。
hellenic1206_11メガロ・メテオロン修道院(下からの眺め)
 メガロ・メテオロン修道院
  此の修道院がメテオラの全てを総括している。聖堂は螺鈿作りの見事なもの、イコンの部屋も他よりもっと大がかり、ドーム内の壁画も緻密に描かれています。博物館も宗教上の大切な品が展示されていました。ギリシャ人にとり、此の修道院は永遠に神聖なる聖地なのでしょう、一生に一度は礼拝をしたいと老人達が杖を頼りに、足場の悪い処を頑張っている様子をみると痛々しい。でも礼拝を終えての帰り人々は、晴れやかな表情です。
 ヴァルラーム修道院
  岩を削った階段を登り、不安定な橋もありで、静かな修道院です。隠遁所の跡に建てられたらしい。教会の内部のフレスコ画が素晴らしく、色彩も構図も他とは趣が違っています。広いテラスからの眺めも又、素晴らしい。そこの蛇口から冷たい水が活きよいよく出る、飲めるそうだが、この水は何処から来ているのか、不思議でたまらない。
 ルサヌ修道院
 一旦道に下りて、さて何処から登るのか、何の標識もない。空中に浮かんだような修道院を目指します。此の修道院はよく雑誌やカードになったりしている。小振りの整った教会の中は、良く整理されていました。見る方向に依って、すごく違って見えるのを、感じました。
 メテオラという意味自体が“空中につり上げられた”という意味、この巨岩群は未だに、如何してこんな奇妙なものが誕生したかが解明されていない。其れがかえってロマンを秘め、神様が御創りになったと云う緒伝説も生まれる。天に出来るだけ近く修道生活をしたい思いが600年の昔に、この様な建物を如何して造ったのか、時代と共に再建築はしたでしょうが、宗教の力とはかくも怖しい、不思議な事をするものです。現在もメテオラの修道院には、修道士達が厳しい戒律の掟に従い生活をしています。私達は3時間程かけて、暑さの中、何カ所か虫にやられながら下山しました。
 午後からはデルフィに向けて出発する。カランバカの金曜市の買い出し帰りの大きな荷物を持った大勢が、バスを待っている。チケットを買うのも大変、デルフィまでは3回バスを乗り継がねばなりません、宿でもバス停でも教えてくれる。アメリカの学生が私達の元に走って来て、注意してくれる。気にかけて貰って、其れだけでも有難い、頭を深く下げて感謝する。山越え谷越え回り道、日本なら高速トンネルを直ぐ掘るのにと、5時間位かかる。やっとデルフィに着く。途中は緊張のしっぱなし、乗り損ねてはいけないと思うと、こうしての苦労が忘れ難い旅になり、何かを憶えることになる。自分を励ましながら、心で呟く。
hellenic1206_12デルフィ遺跡(アポロン神殿)
 デルフィ→アテネ
 此の街は本当に小さい、階段が多く崖プチに住居やお店は建てられて居ます、小さな長崎の様です。ツアーの多くはバスで通り過ぎ、泊まる客は少ないのでしょうか、ひっそりと落ち着いてはいます。私達の宿も古く、叔父さん一人が応対してくれます。
 次の朝、宿に荷物を預けて、2キロ先のデルフィ遺跡に散歩を兼ねて見物に行く。9時開館と同時に入る。時間が遅くなれば成る程、観光客が多くなり自由に歩けなるので。アクロポリスで懲りているので。
 古代の宗教の中心で、諸国の為政者、巡礼者は神様のお告げを祈願して、信託を聞くためにアポロンの神殿に通ったらしい。為政者はその信託に依り、国政を行使していた。全盛期には世界の中心と考えられていた。その中心の大きな石も、このデルフィ遺跡の中にあった。この遺跡は山をバックにしてアポロン神殿やアテネ人の宝庫、古代劇場、スタジアム等の石組みが残っている。古代の人々は演劇やスポーツを好み、優雅な生活をしていた。其れは身分相応の位のある人であったでしょう。完全な建物はなく、大理石の円柱や大きな石組を見るだけです。同じ敷地内に遺跡から出土したものを展示する博物館があり、近ごろ再建築したのでしょう、とても近代的な展示の方法、見学し易く、見るべきものは多く在りました。
 アテネ行きのバスに乗る、3時間位かかりました。アテネ市内が近くなると郊外には難民キャンプがあり、粗末なビニール屋根の小屋が連なっています。他国と国境を接すれば、どの国でも難民の問題が、頭の痛いところ。彼らは如何して生計を立てて居るのでしょうか。やっとアテネに着いたと思えば、何処に着いたか分らず、何人かに聞いて、やっとシンタグマ広場の荷物を預けていたホテルに着きました。
hellenic1206_13エーゲ・クルーズ船内のグリーク・ダンス
 エーゲクルーズ
 アテネの旅行社で予約をしていたので、ガイドさんがホテルまで迎えに来てくれる、豪華な客船のクルーズとは趣が違う、サロニコス諸島の3島だけを訪れ、昼食付きの手軽に行けるクルーズ。ピレウス港よりの出港、客は500人位でしょうか。世界中の色々な肌の人々居る。船内とデッキ側に別れ、私達は日光に弱いので船内を、一度席を離れれば無くなるので、真剣な席取りがある。此処でも煩い中国、韓国人達のグループが我がもの顔で座って居て、困ったものだ。

 イドラ島、最初に到着する、かつてはイドラ商人として、世界を相手に貿易で成功した俤のある邸宅が島の高台にある。石段と路地が多く、港にはタベルナ、お土産屋さんは例の如く並んでいる。観光客を乗せて散策する馬達が、お客さんを待っている。暑い日差しの中、頭を垂れじっと待つ小さな馬の姿が愛しい。魚市場もあり、ここは1年中新鮮な魚貝類の料理が楽しめるに違いない。このツアーにはランチ付きなので、楽しみの一つ。ボロス島に行く途中、その楽しみが振舞われた。ギリシャ独特の料理、以外にもあっさりしたものでしたが、好みの物ではありませんでした。

 ボロス島、訪れた島の中では一番小さい島。ボロスタウンにはヨットハーバー、ビーチが沢山ある。避暑に来ればもってこいの静かな島かも知れない。海の風は優しく吹き込んで来て、かすかな磯の香りもする。きっとビジネスで疲れた心と身体に憩いを与え、リフレシュする力を養うのでしょう。ヨーロッパの人々の隠れ避暑地であるかもしれない。

 エギナ島、オプションで此の島の歴史的な遺跡を見るツアーが別に組まれていたが、私達はもうこれ以上の遺跡は見たくない気持ちで、参加しなかった。此の島の魚市場、土産物屋の見物、ここの名物ピスタチオがどの店にも並べてある、試しを戴くと、とても硬く歯が欠けそうで買わなかった。ピスタチオアイスクリームも何の味もしない、普通のアイス。私は路地裏を歩き、地元の人々の暮らしを見たい。各家々は斜面に張り付いたような建て方、粗末なものも多い。観光と漁業だけが収入のメインでしょうから、若者は残らないでしょう。猫の多さにびっくりする、飼い猫か野らなのか、毛並みが良くない。子猫がお腹を空かして泣いている、胸が締め付けられるように悲しい、大きな犬も食べ物を求めて彷徨っている、ずるいが眼を背けてしまう。海岸沿いにギリシャ聖教会がある、暑さを避けて少しの間、休憩させて貰います。
 ピレウス港に帰る途中、グリーク・ダンスのショウが民族服着た美男美女が踊りを見せてくれる。多分スペイン系の方々は音が鳴れば、自然に身体が受け止め、曲の中に居るようです。太っていても恥ずかしくなく、派手な服装でお腹を出して老いも若きも一緒になって踊りだす。グリーク・ダンスは珍しい激しいダンスに魅せられましたが、それよりも観光客達の自然体でのダンスを見るのが楽しい。面白く楽しい一時を過ごさせて貰い、ホテルに送って戴きました。
hellenic1206_14無名戦士の墓(衛兵の交代)
 アテネでの最後の日
 もうこの旅も今日の夜には帰国です。シンタグマ広場、国会議事堂前の無名戦士の墓の守り役が30分置きに交代するので、見物に行く。民族衣装を着て直立不動、イケメンの若い衛兵さん、面白い歩き方での交代、でも真剣そのもので、苦笑いが出る。
 メトロで中央市場に行こうとするが、地図が分り難く何人かの人に聞いて、やっと辿りつくが、そんなに買いたいものはない、オリーブ油が最高らしいが、リックサック一つではその余裕がない。
 ギリシャを旅していて、普通の庶民はそんなに自国が、扮装決算で巨額の負債を抱えているとは実感していない、日本も同じですが。昔からギリシャ国民は誇り高き民族と言われています、上からの目線で指示されることに我慢できないらしい、定年になればサッと仕事を辞めて、それ以後は職に就かないそうで、それで食べていけるのなら、其れなりの年金を貰っている事でしょうか。議員は大体が世襲制で大金持ちが多く、預金は自国にせず、他の国に預け、税金を払わず何とか上手に切り抜けている人々が多いと聞く。私達は観光地だけを訪れているのに、その地でも中、老年はコーヒー店、タベルナで屯し、ゲームに夢中、その体格は大きなお腹をユサユサ、男女共に足の悪い人が多いようです。若き人達はとてもスマートで美しいのに、中年になれば凄い体型になる。もう少し食事に注意して油ものを避け、召し上がる量を控えたら、何とかなるのに。お腹一杯戴くのが、子供の時からの習慣なのでしょう。
 選挙後、国民はユーロを選んだので、その救済策と引き換えに、もっと厳しい緊縮策を求められると思うが、他国ながらじっとその先を見つめようと思います。
 夕刻にはこの国を出国します。相棒さんお世話になりました、有難うございます。
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ルトガルの旅  〔2011.2.11〜2.28〕
 “情熱のスペイン、哀愁のポルトガル”と人は言う。過去スペインから少しだけの町を観光したことはある。この国だけの旅は初めて。多くの都市を巡るより、連泊してゆっくりが好みの年齢になった。
目的地と相棒さんが決まれば、それからの日々は心ここにあらず。その国の情報を読んだり、必要最低限の品をリックに入れたり出したり、計画をしてみたり、出発する前がとても楽しみなこと。平凡なる主婦業も、何日か先に旅ができると思うと、毎日の生活に張り合いがある。
 リスボン
 群馬から岐阜から相棒さん2人は関西空港に夕方集合し、一眠りすればトルコのイスタンブール。そして、ポルトガル、首都リスボン。いつも最初日と出国地のホテルはネットで予約する。便利性だけで選んだ宿はとても清潔で気持ちよい対応で一安心。首都一番の中心地リベルダーデ通りの両サイドは堂々としたビルの老舗が並ぶ。ロシオ、コメルシオ広場の突き当たりはテージョ川、大西洋に通ずる。長い間のスペインの圧政の影響は大いにあり、戦いの勝利、独立を成した記念の像が広場の中心に在る。どの通りにも、乳白色の石畳が敷かれ、中に黒い模様が描かれ、何のデザインか、時折立ち止まり想像する。ヒールで歩けば相当危険だな。車のタイヤも早く擦り減るのではないかなと、意地悪ばあさんは思う。私達はスニーカーでも足音をさせて、旧市街を気持ちよく歩む。明日よりの活力の素、スーパーで果物や好みのものを買って、早く眠って疲れを癒しましょう。ワイン好きの相棒さんは、ポルトガルのはとっても美味しいらしく楽しんでいます。
portu1102_1リスボン・サンジョルジェ城
 リスボン市内観光
宿のバイキングの朝食はとっても良い。昨夜は泊り客はいない位静かだったのに、朝食は多くのお客さんゾロゾロと、この宿の価値は皆によく知られ、人気があるのでしょう。
 一日乗り放題のチケットを買って、さあ観光へ。近くのケーブルカー(グロリア線)に乗り、バイロ・アルト地区へ。乗ればあっという間の終点。平行して登りの階段もあるが、歩いて登れば大変でしょう。リスボンは七つの丘の街というだけあり、起伏の多い街。カモンイス広場よりサン・ロケ教会。石畳の道をゴトンゴトンと走る路面電車は、狭い道の住宅スレスレを通り、ゆっくりなので周囲の景色がよく見える。そして登ったり下ったり、マダレー教会、大聖堂。サン・ジョルジュ城への降りる駅を乗り過ごし、人に聞いてもポルトガル語は分からず、戸惑うことも多々あり。人々の暮らす洗濯物の下をくぐり抜けて、やっと城へと辿りつく。城からはリスボンの街が眺められ、テージョ川の蛇行、レンガ色の屋根、高いビル街、そして遠くに大西洋。高所からの見物で気持よくしていると、細かい時雨、この時期には傘は手離せない。観光客は準備していない方多く、雨宿りをしている。何時も私達はコンパクト傘を持っている。暑い日には日傘にもなる。
 電車を換えて市の西部ベレン地区に行く。ベレン駅よりのブラブラ歩き。世界史で習った16世紀の大航海時代の創始者であったエンリケ王子の活躍をたたえた発見のモニュメントがある。大海に乗り出す彼の勇壮な姿がある。その前の広場に世界地図を大理石で描き、日本をポルトガル船が発見した年は、1541年となっていた。ベレンの塔はテージュ川を監視する優雅な造りの要塞であった。残念だったのは、ジェロニモス修道院は月曜日が閉館日であったこと。外観だけでも、その壮観さはさぞかしと思える。エンリケ王子の成した偉業とヴァスコ・ダ・ガマの航路開拓の栄華を反映させた修道院らしい。
 朝食時に会った日本の若者と、今晩ファドを聴きに行くのを約束したけど、時間に来なかったので、雨の中相棒さん2人で夜の街へと出かける。チケットは観光案内所で求めたので観光客相手のものだとは承知の上だったが、少々雨も降り道を間違えたりして演奏所に着く。ファドとはこの国の民族歌謡でしょうか。大衆的な音楽で運命(さだめ)という意味がある。悲しみ、郷愁、切なさを帯びた何とも言い難い響きあり、その上で希望あり、生きる喜びを感ずる。心の底からしぼり出すような歌い方は、感動を呼びます。今は亡き友人とリスボンで一緒に聴いた折には、2人とも感激で言葉も出ないほどでした。今回の独唱者達は若い人達で、張りのある伸びやかな歌声。そして伴奏のタマネギの形をしたポルトガルギターと普通のギターの独特な旋律は、その余韻と共に心の奥底に残るものでした。

去年逝きし君はいずこに旅をする ファドの歌にて又逢いたし
ファドを聴き何をいいたし亡き友は 健やかなるをすまぬと思う
portu1102_2カルダス・ダ・ライーニア 小さな村の朝市
 オビドス→カルダス・ダ・ライーニア
 リスボンのメトロでカンポダランデでバスに乗り換えてオビドスに着く、丘の下に着く。オビドスはローマ時代より、敵の侵入を防ぐ為に、小高い丘の上に砦を築き、その城壁に囲まれた小さな町。何世紀の間、征服、破壊と再建の歴史の繰り返し、そして、現在は中世の姿を垣間見る町となっています。案内所で私達の荷物をしっかりと預かってくれる親切さ、有難いことです。町の入口が二重のお堂になっていて、その壁面は大きなアズレージョ(装飾タイル)が張られている。まるで大きな絵画のように特徴づけている。町は上と下に分かれ並列して、色とりどりの土産物屋、レストラン、ホテル、コンビニが個性豊かに勢揃い。観光客相手の可愛い町。ハンガリーのセンテンドレによく似ている。私達は城壁の上の細い道を恐る恐る一周して、高き処より田園風景が一望のもとの広がりを、気持ちよく散歩する。立派な水道橋も見える。アズレージョの美しいサンタ・マリア教会の小振りなのが愛しい。悲しい史実のある柱が広場も前にある。オビドス名物サクランボ酒(ジンジャ)は、相棒さん達は余りにも甘すぎると言っていた。小さな町なのですぐに観光は終る。もう少し北のカルダス・ダ・ラィーニアまで足を伸ばそう。
 くねくねと曲がりくねった道を通過して次の町に到着。新しく開いた町なのかな、さして見物するものはない。小さな民宿が今晩の宿。ポルトガルのキャベツ柄の陶器で有名なボルダロ・ビニェイロの工場に行く。でもその工場に行くには、緑豊かな市民の憩いの広場ドン・カルロス一世公園を横切らなければならない。梅や桜のような花(アンズかな?)が春のように沢山咲いている。大きな池に白鳥も水鳥達も泳いでいる。城のような図書館もある。陶器工場のアウト・レッドの店を見るだけと思い入ってみる。余りにも立派なもので、飾り物にはよいかも。家庭の総菜入れには適さない気がします。食器はシンプルなものが一番ですね。
 民宿的な宿では女主人が朝食をサーヴスして下さるが、極あっさりとしたものでした。私達は朝市に出かける。小雨が降っているので出店も人出も少ないが、のんびりと買い物ができました。以前友人と来た折に羊のミルクのオトーフのような触感のチーズと、タラを塩抜きにしたコロッケがとても美味しかったので、病み付きになってしまう。ポン酢としょう油は持参しているので、何時でも戴ける。お菓子はパステル・デ・ナタ(エッグ・タルト)、コーヒーはガロン(普通のコーヒー)このポルトガルでいる限り、このご馳走の繰り返しになりそう。市場で干しぶどうやいよかん(?)を買って、ナザレ行きのバスに乗り込む。
portu1102_3ナザレの海岸(シティオ地区より)
 ナザレ
 大型バスはクッションが良いので快適な乗り心地。小さな町を次々と越えていく。果樹園や野菜畑、ブドウ、麦、少しずつ高い処を走っているなと思っていたら突然海。大西洋が見えて来る。今日は大波が激しく海岸に押し寄せて来ている。海は時化ているとはこういう様子を言うのだろうか。経験したことないので分からない。バス停で客引き小母さんの勧誘は疑わしいが、“ものは試し”の気持でついて行く。メルカド(市場)に近く、家族向き2部屋に、台所付きの安くて便利。3人はすぐOKしてしまう。
 まず観光。細い道を洗濯物が窓のカーテンのように舞っているプライヤ地区の住宅地より、高台のシティオ地区へ行く。ケーブルがあるはず。近くの住民が今故障しているとか。私達はジグザグロードを登って行く。広場の前にナザレの有名な黒い石の聖母、ナザレの守護聖人が祀られている。管理人がこの奥に入りたいか否かを問う。祭壇の裏は18世紀のアズレージョに飾られて天井、回廊が全て白と、紺色の見事な古い絵タイル。小さな黒いマリア様の直ぐ前まで仰ぎ見させてくれました。この旅が喜びの始まりのような気がして、唯感謝のみです。広場の脇に小さな礼拝堂がある。聖母マリア様が現れて、城主の危機を助けた伝説があり、ポルトガル国民の参拝の地でもある。
 私達は大西洋とナザレの町が眺められる展望台で“ああ、遥か遠くへ来たものだ”の思いをし、暫しの間地上の諸々の事と隔離された幸せに酔う。帰りは、エスカレータは動いていた。今日は海が荒れ狂っているので、午後4時頃の満潮時には、海岸に近づかないようにと注意を受ける。お昼にはナザレ名物のイワシの炭火焼を頼んだけれども、大味でイワシ自身の味がない。旬を大切にする日本の繊細な味はどこにもない。ナザレの本業は漁港の町。冬場は時折突風が吹いたり、怒涛の如く大波が押し寄せるので漁には出られず、冷凍の魚だった。シーズンオフは土産物屋さんもレストランも閑古鳥が鳴いている。夏になれば世界中の観光客がドッと訪れるでしょう。民宿とレストランが同じビルになっているので、とても便利。早朝より夜遅くまでオープンしている。夜は小さいが2つのストーヴまで用意していただきました。
 アルコバサ
 ナザレに連泊して、アルコバサに日帰り観光とする。名前の如くアルコア川とバサ川が交わる地。修道院の町と言われる位、大きなバロック様式の建築物のサンタ・マリア修道院は4月25日広場の真前にある。お店も今は少ないし、土産物屋さんが2、3軒あるだけ。イネスとペドロの悲恋物語の2人の石棺が6頭のライオンの像に支えられて安置されている。修道院は装飾を一切せず、シンプルな回廊は中庭を囲んでいる。私達も昔、修道僧が沈黙して歩いたであろう回廊を歩いてみても、何の考えもありません。もう一つの町へ行くバターリア行きのバスの時間の心配ばかり。
 バターリア
 やっとどうにかバスに間に合って小さな町に着く。この町は戦いの意味があり、ポルトガル軍がスペインに対して勝利し、独立を守ったという歴史がある。その時の王様が聖母マリアに感謝して、バターリア修道院の建設を始めた。ゴシック・マヌエル様式のこの修道院はすべて美しい装飾がある。回廊はみごとな彫刻が施されていて、中心の庭も西洋風の樹木を刈り込んである。柑橘類のミカンやレモンが彩りを添えている。アルコバサとの比較が出来て面白い。王の回廊の奥には柱がひとつもない部屋があって、スペインからの勝利と独立を象徴する永遠の灯し火が点っている。その正面に銃を持った兵士が左右守っている。イケメンが選ばれている。微動だにせず、まるで兵隊の人形のようです。キリストの苦難を描いたステンドグラスが美しく、私達を迎えてくれているような気がします。100年程の建築工事が続けられたが未完の礼拝堂が天井のないままにある。この修道院にはゴシック・マニエル、ルネサンスと建築に興味のある方には魅力ある様式でしょう。二つの町を駆け足で観光して、ナザレからの往復でした。私はこのナザレでアマリヤ・ドロリゲスのファドのCDを買うことが出来て、自己満足に尽きます。
portu1102_4コインブラ古城
 コインブラ
 バスで2時間、見晴のよい丘の上に堂々とした大学が建っている。この国の学術の中心地。地元住民と他県から来た大学生の比率はどうなっているのでしょうか。便利よい宿を見つける。レセプションの御夫婦が気持のよい方だったので、即決定する。でも今までの民宿とは違い非常に狭いが、これも又話の種と諦めて、先ずは高き処のコインブラ大学を目指す。細い敷石の敷かれた坂道をヨッコイショで登っていく。両側に車が停車してあり、くねくね曲がっている道を車が次々通っていく。危険極まりない。慣れているのでしょうが、事故もきっと多発しているはず。日本の運転手さんより技術は上かも。人通りの多い繁華街にはプロの音楽家でしょうか、バイオリン、チェロ、の3人がポピラーなクラシック曲を奏でる。パホーマンスしてお金を戴いている。街中にはレストラン、コーヒーショップ、土産物屋さん、スーパー、お菓子屋さん等、ごく普通の街です。
 ポルトガルが発祥の地のコンペイ糖やカステラを買ってみるが、思った通り日本の方がはるかに美味しい。やはりここはナタ(エッグタルト)が一番でしょうか。坂を上手に利用して多くの土産物屋さんが犇いていて、その登ったところには歴史ある鉄の門(無情の門)が正門らしい。入っていくと広い敷地に大学は在る。創設者ディニス王とジョアン三世の大きな像がある。旧大学は修復中であった。蔵書で有名な図書館もある。学生は個性的な服装の若人が多い。コインブラは丘陵地なので私達は歩き疲れました。一休みしてモンテゴ川対岸のサンタ・クララ橋を渡る。川岸近くにコインブラの守護聖人イザベル王妃の棺が納められていた旧サンタ・クララ修道院がある。モンテゴ川洪水で水没し、長き改装工事で修復されて、やっと見学できるようになっていた。その発掘された遺物の展示がすばらしく、現代的なレイアウトには感心させられる。私達は丘陵を登り、旧カテドラルに辿り着いた。要塞を兼ねていた大聖堂は堅固な外観をしているが、内部はびっくりする位の豪華さ、金ピカでした。水没したサンタ・クララ修道院は新しく建てられ、洪水を避けるために高台に在り、白いイザベル王妃の像がコインブラの街を見下ろしている。夜はコインブラのファドを聴きたいと思っていたが、今は休暇時でした。リスボンのファドと少し違うらしいと聞いているので、残念無念です。
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 左=ポルト サン・ベント駅内のアズレージョ  右=カテドル内の美しいステンドグラス
 ポルト→ギマランイス
 ポルトガルの第二の都市には列車で行く。旧市街のサン・ベントに着く。駅の中央玄関前に、見事な歴史的史実が描かれた、大壁画のアズレーションがある。ホテルを捜すが予約でいっぱい。高価で手が出ない。中々適当なのがなく、歩きまわりやっと案内所の紹介で小さなアパートみたいなゲストハウスが見つかる。従業員さんに日本人の女性が居て、多くの情報を戴けてありがたい。海外もこうして働いている若人も居る。さぞかし両親は心配なことでしょうね。
portu1102_7ギマランイス城
 ギマランイス
 ポルトは連泊なので、今日はまだ昼からの時間がある。近くの町、ギマランイスを訪ねようとなる。ギマランイスはポルトガル初代の国王エンリスケの誕生の地である。バスは本数が少ないのでローカル線を使う。鉄道駅からの歩きで、裏道だったらしいが、出窓に特徴ありの長屋風の風情ある民家が、歴史的な重さを感じさせながら残されている。町の出入口には“ここにポルトガル誕生す”と記されている。庶民的な家々を越えて広場に行けば、オリーブの伝説が残るオリベイラ教会が朽ちかけて在る。伝説のオリーブは生々としている。ポルトガルに来て何時も目にするのは、広場のベンチは男性の年寄り達が坐って雑談をしている姿です。何か趣味を持つなり、身体を動かすことをしなければ益々弱っていくのになと思いますが…。ポルトの広場や街路樹の間、家庭の庭にも、椿の花の見事さには驚いています。椿は日本が原産ではなかったの?日本の椿が改良されてこうなったのでしょうか。大輪で赤、白、ピンク又色が混ざったもの等、日本には不吉な花とされているが、ポルトで見事な椿観賞をさせてもらいました。ブラガンサ公爵の館はレンガの煙突がニョキニョキ沢山建っているユニークな屋敷。各部屋に暖炉があったのでしょう。天井が丸いドーム型で大きな船室の内部のようで、公爵の財宝の展示があり、フランスの影響もある。現在は国賓の接待として使用されるらしい。ギマランイス城は初代国王の生まれた城で、今はその外壁のみが残っている。七つの塔も朽ちかけているが、少しだけ登れるようになっているので、市内を眺められる。
 次の日例の如く一日の観光パスを買って市内の観光をと張り切るが、バスを待てども、オフシーズンであるので、バスの本数が少なすぎる。見物したい所で下車して、又次のバスに乗れると思っていたのに、そのバスが中々来ないので、ロスタイムが多い。ドン・ルイス橋の近くで戴いた魚の料理は確かに美味しかった。昔の帆船が宣伝の為なのか、ワインの大きな樽を積んで停泊している。そこにはワイン工場がずらりと並んでいるのは壮観です。ワイナリーはテスティングさせてくれるらしい。相棒さんは有名なワイナリーで試飲して一本買っていた。後でその味を聞くと、ポルトのは甘すぎるらしい。ヨーロッパの人々は子供の時から食事には必ずワインで育ち、水と同じらしい。ミネラルウォーターを買っていると“水より安く美味しいのに、どうしてワインを買わないのか”と詰問されたことがある。心の中で“私の勝手でしょ”と答えた。
 観光パスにドロウ川クルーズも付いていたので、時間待ちし遊覧船に乗る。次々と架かる橋。その付近の傾斜地に独特な建物、時折強い風が吹いて寒いが、船からのポルトのすばらしい景観にうっとりする。宿の近くにはポルサ宮やカテドラルがあり、外壁のアズレージュが美しく輝く。日曜日多くの店は閉まっているが、教会ではミサが行なわれている。静かな賛美歌の流れる中に、多くの信者さんが敬虔に祈りを捧げています。時折入らせてもらい、こうして旅できることに手を合わせています。
portu1102_8カステロ・ブランコ水道橋
portu1102_10カステロ・ブランコ宮殿庭園
 カステロ・ブランコ
 バスターミナルの場所が分からない。行く先により夫々異なるターミナルなので、ポルトからヴィセラ、コインブラからやっとカステロ・ブランコに合計5時間ほどバスに乗っていた。幾つもの村を越えたことでしょうか。オリーブとブドウ畑の続くスペインとの国境は20km程。国境が近ければそれだけ他国との戦いがあり、この町はナポレオン軍の攻撃で壊滅状態であった。刺繍の展示が立派という博物館は、月曜日は休館。公の美術館や博物館は、いずこの国も同じく月曜日の休みが多い。でも親切な小父さんが玄関の小部屋の刺繍は見せて戴いた。宮殿の庭園は歴代の国王の彫刻の像があり、噴水がある大きな池を中心に木樹が幾何学的に刈り込まれ、フランス式の洋風庭園にミカンやレモンの木樹がとても沢山なっている。こんなに沢山どうして食べないのと思っていたら、管理人さんがミカンを取ってくれる。分かったことは、酸っぱく苦くって食べられたものではない。食用のではなく街路樹の柑橘類は別物でした。グラサ修道院を訪れたが栄枯盛衰の夢の跡のみ。大きな玄関の門と動物の水飲み場だけが残っている。広大な土地にオリーブやオレンジが風に振れている。小高い丘に城址が見える。しっかり登りの道はあり、両側には小さな同じような住宅が坂にはりついたように建っている。公団住宅かな。老人達が住んでいるようです。ヨイショ、コラショで登ってみても、朽ちかけた城跡のみ。小さな町並みを一望してはスペインの方向を想像する。この町の市場と印があったので、喜んで行くが新しい大きなスーパーになっていて、そこのレストランでバイキングのポルトガル料理をいただく。美味しい野菜スープと魚のコロッケが一番のお気に入りになる。チーズの種類の多さには驚きです。相棒さんは毎晩ポルトガルワインをいただいてご機嫌です。私達の今晩のホテルはヒーターもなし、シャワーの湯は水になり、ドアの立て付けも悪く、良いとこなしの古いホテルでした。
portu1102_9マルヴィオン城壁(向こうはスペイン)
 マルヴァオン
 早朝でも朝食の準備はあり、熱いコーヒーを戴いて、良いホテルではなかったけど、これで帳消しにしましょう。今回の旅で一番行きたかった処、マルヴァオンを目指す。今日、マルヴァオンには着けるかなと心配する。途中のポルトレグアまでが昼からのバス1回しかないらしい。でも係りの人がニーザまで行くならどうにかなるこのバスで下車すればよいと。喜び勇んで“オブリガード”三人は乗り、ニーザで下車する。バス停は見当たらない。大きなコーノ鳥が頭の上を旋回している。足が赤くとても優雅な舞。目の前の教会の屋根に巣が沢山ある。やはりここは暖かいのか、ツバメの巣も住宅の屋根瓦の間に沢山あって、雛が可愛い声で鳴いている。バスは何時に来るのか、聞く人もいない。郵便局の近くのタクシーと交渉して、やっと思いが適う。アレンテージョ地方に属するサン・アメーデ山脈の中にあるこの村は周囲を城壁に、又一方は断崖絶壁の上にある。小さな住宅が寄り添い重なって並んでいる。シーズンオフの今人気なく、ひっそりと石畳の坂、自分の足音を聞くことになる。早速宿を探すが看板もない。案内所が紹介してくれたのは陰気臭い。この地をやっと訪れたので、この際は奮発して少々不似合いなホテルに決定する。とても静かで高級家具が備わり一安心。さてこの“鷲の巣”と呼ばれる憧れの地マルヴァオンを丸一日楽しもうと散策を始める。13世紀にデニス王が築いた城に登り、南北にサン・マメーダ山脈を望み、東にはスペインの国境が。世界を駆け巡る恐ろしいニュースからは、遠くかけ離れた別天地。ここの住民は毎日が普通の生活。この地より離れたいとは思ったこともないのかも知れない。かっては、やはり国境の近さが敵の脅威にさらされていたでしょうが、このマルヴァオンは難攻不落の城であったらしい。城の外れに不思議な湿り気のある階段があり、何だろう興味津々で降りていくと、大きなドーム型の水場。プールのような大きさであった。標高890mの山城には、敵の襲撃や籠城には必要な水源であったのでしょう。ヨーロッパの城壁は歩けるようになっているのも、下界の景色を眺めるのにはもってこいの散歩道。時折危険を伴うこともある。多分日本ではガードレールを付けたり、歩かせてはくれないでしょう。自己責任かなこの国では。目立たないように小さな土産物屋さんがあり、内部のレイアウトがおもしろい。360度の天空からの眺めも素晴らしいが、ここまで来られたことに感謝しながら、村人の暮らし振りを見物する。嬉しい限りです。小さな博物館があり、時代考証の如く、木製の人形に昔からの服装をさせて説明している。教会の中も素朴でこの村らしい造りでした。この村のことは忘れられない想い出が又一つ増えた気持がする。

天空の沈黙の村マルヴァオン 老いた夫婦は常に暮しす

(マルヴァオン→ポルタレグレ→エルヴァス→エヴォラ)
 マルヴァオンはやはり冷えるが、しっかりヒーターが入って熟睡。早朝の明けの明星がまだ輝いている中起きだして、昨夜頼んでいた朝食の包持って、午前中一本しかないバスでポルタレグレを目指す。今晩の泊りはエヴォラと決めていたが、ポルタレグレからは昼から一本しかない。それならば途中のエルヴァスまで行ってそこから考えようと話しがまとまる。エルヴァスはアレンテージョ地方の農業地帯の中の一つの町。真黄色のモミザの木樹が黄金色に輝いている。ワインの栓になるコルク樫の木樹が行儀よく並んでいる。幹の中間の樹皮が剥ぎ取られ茶色の薬品を塗られているのは痛々しい。大理石や石畳の道路の石材の石切場。ここが産地なのか、石材産業も多い。起伏の丘にはオリーブ畑や果樹園。その間を放牧された牛や羊達。合理的な農耕の方法だと感心する。ブドウ棚は高いのも低いのもあるが、種類によるものでしょうが、低いのは収穫時には腰が痛いことだろうなと。
このエルヴァスの町はスペインにもっと近く、12kmらしい。宗教上の戦いをスペインと繰り返しの歴史があった。この町にも堅牢な城壁に囲まれ、町に入って来る時、立派な水道橋がある。保存状態が良いのか今でも使用されているらしい。大理石で覆われたアスンサオン教会が静かにその威容を示している。何時ものように城壁に登りアレンテージョ地方の田園風景を、青空の下しっかり眼の奥にしまっておきましょう。計画した訳でもなく、バスの時間の都合で時を過ごしただけのこと。小さな町をちらりっと見物できました。バスターミナルよりエヴォラ行きに乗ると、乗客は少ない。小、中、高と学校の近くより、学生が嵐のような騒がしさで乗り、降りてしまう。まるで学生のスクールバスのようでした。
portu1102_11エヴォラの小路
 エヴォラ
 地方都市エヴォラは、ローマ時代より繁栄した町。私達は昔の貴族の館をホテルに改造した宿を得る。クラシック家具が置かれ、玄関が広い。レセプションの娘さんがまるで華のように可愛い。愛嬌あり、しっかりした答えをして下さる。宿を決めてすぐにスーパーに食料の買出し。石畳の坂道の途中、エヴォラ大学の隣が美術大学。何かの催しがあったのでしょう。男女がマントを着用し、嬉しそうに写真を撮ったり、道にまでグループで騒いでいる。ルネッサンス期から大学は設置されている。
 宿の近くにはエヴォラの見るべき所が集っている。ディアナ神殿はギリシャのパルテノン神殿の小型で、よく似ている。すぐ近くにどっしりとした要塞のようなカテドラルがあり、内部はとても美しい八角形のドーム。その左右のバラ窓は印象的な美しさ。回廊には美しい絵画が幾つも掛かって、まるで美術館のようです。一つずつゆっくり噛みしめながら観賞しました。カタヴァル公爵邸では、日常に使用していたものを惜しみなく展示している。庭園には梅の花が咲いている。この国に来て以来、モクレンの白や紫をよく眼にする。小さな桜のような白や紅色の花は何でしょう。亡き友人と以前エヴォラに訪れた折、宿の女主人が“今度は二月に来てごらん。アーモンドの白い花が一杯よ”と言われたけれど、どの花か分からない。メルカドに行ってみるけど時代の流れなのでしょうか、スーパーに抑えられて出店舗がまばら。寂しい限りです。ここにも土産物屋さんも多い。もっと暖かくなれば、観光客は大勢やって来ることでしょう。
 ポルトガルではどの町でも華僑の進出は激しい。中国商場と赤い字で看板を出して、大きな提灯で目立つように飾り、100金に似た店だったり、雑貨店が多い。地元の商店が朝10時頃ゆっくりオープンするのに、中国商場はもっと早く、夜も遅く、その商魂は逞しい。世界中にこの動きがあるに違いない。空恐ろしい感じがする。
portu1102_12モンサラーシュ古城の村
portu1102_13モンサラーシュ西側(スペインが12キロ先)
 モンサラーシュ
 “この国で一番美しい村”とか。エヴォラから日帰りしよう。エヴォラの町を囲む城壁を越えて外に長く北に延びる水道橋を後にして、モンサラーシュの町へとバスは走る。やはり、ここも小高い丘の上の村。戦略的には大きな役割があったことでしょうが、今はすっかりと時代を過ぎて忘れ去られようとしている。バスは村の下の方に着いて、石で造られた階段を登りアーチを潜れば、ひっそりとした村がある。 “沈黙の音がする”とこの村のことを云う人もいて、いかにもひっそりとして、村人が住んでいるのか否か疑いたくもなる。城壁に登り、城からの眺望は素晴らしいが、マルヴァオンとは違い、湖の多さと森が点在している。農村地帯も遠くの地平線までも続いている。私達は沈黙の村をのんびり歩き、コーヒーを戴き、帰りのバスから見あげるこの村の夕焼けの景色の素晴らしさに、すっかり虜になりました。

空青く断崖上の城壁は 遠き昔の夢を語らん
 再びリスボン
 エヴォラの貴族の館の居心地はまあ中位。バスターミナルまで20分位の歩きであった。連泊はその町の様子に慣れてきて安心したと思い、でもすぐ次の町に移動が待っている。あたりまえのことだが、旅する者の寂しさでしょうか。リスボン行きは幾らでもある。リスボンの最初の日のホテルがとっても気持ちよい処だったので、問い合わせて再び泊まる。ボンベル公爵広場を散歩すればやはりここは大都会。背広姿の紳士、ビジネスマン、流行姿の女性達が大通りを闊歩している。テイク・アウトしたり、その店で食べられるマクドナルド式の軽食レストランが大流行。試してみると、以外に美味しいので驚いた。今晩相棒さんが同意してくれて、地元のファドを聴きに一緒してくれるそうです。私達は夕食を終えて、場末の庶民的なレストランで聴く。夜8時頃から始まり、1ドリンク付きの10ユーロ。年のいった男女2人ずつの4人が黒く地味なドレスで、ポルトガルギターの伴奏、夫々自分の得意の歌を歌いだす。マイクなしでも長年歌い込んだ声量は味がある。私達は2時間ほどできりあげて宿へ帰りましたが、彼等は深夜までも続けるらしい。
portu1102_14シントラ王宮(煙突が特徴)
portu1102_15シントラ(大西洋)
portu1102_16ロカ岬(“ここに地果て 海始まる”、ユーラシア大陸最西端)
 シントラ→ロカ岬
 最終観光に行こう。ロシオ駅で周遊券を買って、通勤電車でシントラ駅に。駅よりトレッキングのつもりで歩き始める。巨大な煙突のある王宮、この国の王宮は沢山見て来たので外観だけを見物。巡回バスでムーアの城址へ。チケット売り場ではシニアーと言えば半額であったり20%〜30%の割引がある。ムーア城は7〜8世紀にムーア人達により建てられ、今は城壁しか残っていない。入口の門までが樹木の花や、道端に色とりどりの花が咲き乱れ、いかにこの国が暖かいかを証明している。この城は巨大なものであったらしい。城壁はクネクネとして階段や塔があり、今日は風が強く飛ばされそう。塔には国旗がはためき、おかしいことにハタハタと音がする。シントラの町を眼下に大西洋を横目で見ながら、シントラ山系の深緑の中、所々に豪華な山荘がある。山荘というより山城かも。
 バスの時間に合わせてロカ岬へ行く。ここで、日本人の集団のツアーに会う。ユーラシア大陸の西先端の岬。“ここに地果て、海始まる”ポルトガルの詩人カモンイスの有名な言葉の石碑がある。強風が何時も吹いているらしい。岩の上に可愛い赤い燈台がある。大西洋からの強風に煽られて怒涛の如く大波が断崖絶壁に打ちつけ、白い泡となって消えている。凝視すれば海へと誘われ、引き込まれそうになる。本当につくづく日本は遠いと思う。
 リスボンで人気の海鮮料理の店で、カニ、イカ、貝、タコ、いろんな魚と一緒に大ガマでのゴハンを炊いた夕食でささやかな晩餐。ポルトガルの旅を終りにしました。

ロカ岬大西洋の始まりは 荒ぶる風と怒涛の飛沫
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ロアチア・スロヴェニアの旅  〔2010.10.5〜10.21〕
 10年程前クロアチア・スロヴェニアに訪れている。長距離をバスで駆け抜ける旅だったが、アドリア海沿岸の美しい風景だけは強く印象に残っている。9月を予定していたが、急にネパールの娘さんのホームスティがあって10月になってしまった。
slovenija10_01ヴァティカン サン・ピエトロ広場
 格安のフィナーエアーはフィンランドのヘルシンキでトランジット、最初日はローマ着となる。若き日々想い出多きローマ。イタリアは北から南へと何度も旅しているが、相棒さんは初めてらしいので、次の日ローマを一日観光する。スペイン広場とヴァティカンとコロッセオの三つの観光地を訪れた。私達はクロアチアのドブロヴニクを目指す。航空でも可能だが簡単に行けるのはおもしろくない。アドリア海をフェリーでと思い、夕刻ローマよりバーリまで列車で移動する。深夜発のチケットをローマの宿の主人に予約を頼んで、運よくそれが得られ希望通りの行程となりそう。
 バーリ行きは国鉄のテルミニ駅より乗車する。列車のプラットホーム番号は10分前にしかボードに示さないので、大勢の乗客達はボードの前面で立往生。昨日この駅に到着した時、出口までの長さはとても時間がかかった巨大な駅。でも或る人がここはスリやカッパライが横行する危険いっぱいの油断大敵の駅らしいと注意してくれる。車内はコンパートメント。でもヨーロッパ人の身体の大きさ、足を前の席に出したり、大声で話し合ったり、何かを食べたり、日本の新幹線のように清潔ではない。最低の乗り心地。でも窓の外は、収穫が終った背の低いブドウ畑やオリーブが続く。南へと直走り、ファーゴで方向転換してバーリに。私達はバスで港のヤドロニアのフェリーのオフィスで予約していたチケット交換と手続きに時間がかかる。出国も乗船の際に兼ねている。安いチケットだったから下部のエンジン音が聞こえる4人部屋。シャワーもあるし寝具はノリを利かせたシャキッとしたもの。おまけにバイキングの朝食もついている。
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slovenija10_03上=スルジ山頂より城壁に囲まれたドブロヴニクの旧市街  下=ドブロヴニクの路地
 ドブロヴニク
 一夜明ければクロアチアのドブロヴニク。港に民宿(ソベ)の勧誘に何人かの小母さん達が来ていた。その中の笑顔のかわいい人と交渉し、1人10ユーロで決定。台所もバスも付いた2部屋のしっかりしたソベを確保して、旧市街に繰出す。歩いて20分位。クロアチア一番の観光地ドブロヴニクは、濃いブルーのアドリア海に突き出た重々しい城壁に囲まれオレンジ色に統一された屋根、ギリシャ、ローマ時代からの歴史を持ち、大地震での被害を受けても、観光できるまでに修復した町は、訪れる人を感動させる。
 ピレ門より城壁の中に入ると、すぐにオノフリオの大噴水の天然の湧き水あり。毒味してみると、普通の美味しさ。フェリーでも見かけた大阪の気持ち良い御夫婦と再会しご一緒してもらう。中心的なプラツァ通りは銀座通り。両側はブティック、旅行会社、カフェ、レストラン、土産物屋さん等がひしめいている。上部は昔風のビル、1階は改造して近代的。路地が沢山ある。こちらの方が興味あり、平凡な庶民の暮らしぶりを見る。小さな広場は、午前中はフリーマーケット。青果物が多く主婦達の手づくりの香料や小物等。果物は今旬のザクロが多いのがめずらしい。日本では余り見られない位大型のザクロは美味しそう。プラツァ通りの突き当たりはルジャ広場。その隣はスポンザ宮殿、大聖堂、フランシスコ会修道院、多くの歴史的な教会あり。足を止めて見回せば、タイムスリップの感がある。小学生の生徒のように旗の元、集団が喧しいと思うと日本人ツアー観光客。何組もここで会う。日本ではクロアチアとスロヴェニアは今人気の観光地であるらしい。
 この街を高い所より観たいと4人はスルジ山にロープウェイで登る。山頂よりこのドブロヴニクを観れば、改めてその美しさに魅了される。紺碧のアドリア海、城壁に囲まれた旧市街は意識的に造られた箱庭のようで、世界中の人々がこの地を訪れるはずだ。帰路は路地の中に美味しそうなケーキ屋さんで、名物のクレムシュニテを戴いて満足する。明日はモンテネグロ国への往復のバスを予約して、大阪の御夫婦と一緒することを約束して別れる。モンテネグロのユトルとブドヴァの2つの街に行けるらしい。
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 左=コトル湾  右=モンテネグロ ブドヴァの旧市街への門
 モンテネグロ
 今日も雲ひとつない晴天の秋晴れ。昨夜は風が強く寒かったけど、毎日昼間は少し暑いくらい。一日の温度差は激しく、人々の服装も半袖あり、ジャンパー姿ありで、夫々が自分の思いの格好をしている。
 モンテネグロ国とは、どこかで聞いたような馴染みのない国。ドブロヴニクより60キロ余り。昨日予約した小型バスは、約束場所に乗客満員でやって来る。ユーゴスラビアより2003年に独立した国。入国の為にパスポートチェックがある。放置された森林や荒地を越えて、やっと農村が続くと思ったら、海の臭い。コトルに着く。コトル湾は非常に入り込んだ湾の形。天然の良港としてローマ時代より栄えて来た。背後に直ぐ石灰岩の山が迫り、白い岩肌と緑、コバルトブルーに輝く海に照り映えて、一度目にすれば忘れられない夢のように美しい景色が続く。
 コトルの街は各時代の王家の建築物がバロック様式の凝った彫刻を沢山残している。やはりここも内部を改造して色んな店舗となっている。他国の支配と圧政の歴史あり。地震の被害ありで人の世の苦しみと悲しみと共に復興している。世界遺産の街を観光客はこぞって歩き回っている。聖トリフォン大聖堂と城壁の門、裏山まで続く城壁の長さは見応えのあるものでした。
ブドヴァ、もう一つの街に行く。海岸沿いの保養地のようで、私達は沢山のレジャーボートの停泊する海岸をブラブラと散歩し、フリーマーケットを見つけ楽しむ。海鮮料理店も多い。海の風は寒いので温かい魚のスープを戴く。白身魚と野菜、チーズが適当に溶け合って、こんな味もあるのだと新しい発見のスープでした。
 ブドヴァ街の海岸からバスはどんどん山の高い所に行くと思っていたら、スベティ・ステファン島を丘の上から見せてくれる。湾に突き出てオレンジ色に統一された屋根。島全体がホテルになっているとか。ドブロヴニクの小型板でした。湾の中央に小さく見える聖母マリア教会の島がポツンと見える。帰路は湾をくるりと回るのを止めて、車ごとフェリーで近道の海の中を横切って帰りました。
slovenija10_06スピリット港
 スピリット
 昨日は貴重な体験をしました。モンテネグロには簡単に入国できるとは思ってもいなかったので。昨夜も満天の星、海からの風が吹きまくり、相当寒かった。ソベの御夫婦にお別れの挨拶をして、ウィンドーブレーカーを着込んで、名残惜しいが私達はスピリット行きのバスに乗る。デラックスバスはスプリングもきいて乗り心地満点。南向いて登っていくので、海岸沿いの景色を見たい。運転手さんの後方に坐るべき。アドリア海は荒れることがないのだろうか、何時も静まりかえっている。海岸スレスレをバスは走り、海は近く見ると透き通って魚達もよく見える。空の青さと海が溶け込む如く見事な美しさ。小島が海に浮かんでいるようにも見える。無数の小さい船が海面に白き線を描き、この美しさに、唯々溜息ばかり。畑にはオリーブの実が育っている。ここにも大きなザクロが風に揺れ、ミカン畑、イチジクと続く。
 スピリットはこの国最大の港町。大型フェリー、貨物船がびっしりと停泊している。港から新市街に日本人女性のオーナ、ソベを訪ね、看板も何もなしの番地のみを探すのは一苦労でしたが、何とか見つかってザックを置いて、観光へとくり出す。
ローマ帝国の滅亡が他民族の侵入により、宮殿内に住みついたのが、このスピリットの始まりで、宮殿の基礎の上に建築物を次々と建てていたのが旧市街となった。ここ一番は八角形の大聖堂。内部は宗教的美術品の宝庫です。後方にロマネスク様式の鐘楼が鎮座している。夜間はライトアップされるそうです。私達はその大聖堂の真前のレストランで、昼食にサンドとコーヒーをゆっくり戴いて休養をする。トイレを借りようとしたら、お客さん以外の人が利用できないように請求書に今日の暗証番号をインプットしなければドアは開かない。近頃マクドナルドでもそうなっているらしい。せちがらい世の中であると唖然とした。
 古い建物群の中、いろんな国のツアーの団体さんがゾロゾロと歩いて行きます。宮殿の地下にも沢山の土産物屋さんの店だらけ。欲しいと思うものは何もない。
 グルーグル・ニンスキーの大きな銅像がある。左足の親指に触れると幸運が訪れるという言い伝えがあるそうで、私達はそこに向かい、ピカピカ光った親指をなぜてみた。こうして旅できる以上の幸せはないと思っているので、今が一番ですと感謝のみです。
スピリットのソベ(民宿)は11階のビルにあり。夜も昼も一日市街が一望の下に。窓を全開して窓枠をフレームと思えば大画面の絵画。朝焼けは感動の一時です。
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 プリトヴィッツェ湖群国立公園
 プリトヴィッツェ湖群国立公園
 昨夜ソベの女主人との話では、今年でこの宿を終りにし、来年はファバル島に引越し、御主人と一緒にハチミツ、オリーブ、ラベンダー、野菜を作り、それを利用した食事を出せる民宿を計画している夢を話してくれる。若さとは夢を持てる頃、自分はどんな死に方をするのかを考えている私とは随分とギャップがある。私達が出発する朝、オニギリ2つずつ作ってくれてお昼にどうぞの優しさ、しっかりした方。どうか自分達の夢に向って頑張って欲しい。
 バスターミナルよりプリトヴィッツェ行きに乗る。昨日確認していたので安心。首都ザグレグ行きの途中なので、運転手さんに降ろしてくれるように頼む。列車でも同じく、乗った車両が途中で切り離されてあらぬ方向へと行ったことがあるので、しつこい位に何度も聞く。長距離なので、ドライバーさん2人が交代制。乗車した途端に、その2人がよく喋ること。乗客には煩わしいとしか思えない位、前向いてしっかり運転よろしくネ。奥深い森林の中へどんどん進み、途中山火事で燃えてしまった山も続く。民家は玄関の入口にブドウか蔦が植えているのが多い。今は紅葉している。四季が楽しめて食用にもなる実用的な植物だな。
 この公園はクロアチアでの最初の国立公園で1990年代には戦争によって危機もあったが現在は湖群と滝の美しさが、世界中の観光客を迎えてくれる。山の中だし多分ソベはないだろうと思い、公園内の一番安いホテルを2泊予約していたので、捜す心配なく、今回初めてホテルらしきホテルに泊まれる。
 公園入場料のチケットは1日分でよく2日目はホテルでスタンプを押してくれるのでそれが2日目のチケットとなるが、ホテルは私達に3日分押してくれる。誤まったのかな。公園は広い。地図から判断して東西2日に分けてトレックをしよう。先に西方から。エコバスで、終点で降りて下りのコースを選ぶ。エメラルドグリーンとはこの色のことでしょうか。遊歩道が掛かっていて歩き易い。次々と現れる湖の色の美しさ、濃い淡いはあるが夫々の湖の色の違いがある。紅葉が進んだ森や林の中、川の流れが階段状の起伏があり、かなり大きな魚もいる。公園内には小動物や植物の豊富さはよく知られているようです。クロアチア最大の観光地、ツアーの人々が足早で通り過ぎていく。カモやサギは人に慣れていて寄って来る。高度差の川が滝になりその様子が色々、幅広い滝、何層になっていたり、滝の様子のサンプルを見るようです。紅葉の森の中を網目のように湖と滝がその姿を繰り広げてくれる。大自然の中、夢中になって歩き続けました。
 次の日、朝食は7時から食堂に行くと日本人の団体が満員。びっくりしました。昨日行ってない東方にと遊覧船で最終地まで。朝霧が立ち込めるなか、森林の紅葉が湖面に映り、二重の美しい景色を展開していく、川の流れに従い丁寧に作られた木道を歩いたり地道であったり、枯葉のカサコソという自分の足音を聞きながら、晴れ上がった空からの木漏れ日を浴び、身体で音戸を刻みながら足元は快調です。ツアーのお客さんはお喋りしながら固まって歩くので、狭い山道は遮断されて迷惑なことです。紅葉の森の中をあっちこっちと縫うように川と滝が表れる。昨日より今日の滝の方が迫力がある。落差78mの大滝もあり、その横に階段もあったので、私達は滝の上部まで登り上からの眺めに満足する。ここは西洋の九塞溝と言われているらしいが、その規模の大きさが違うかも知れない。余りにも広いので地図がわかり難いので時折迷子になりそうでした。私達は2日間よく歩きました。この国立公園の美しさはどんな歴史的な遺跡よりもすばらしく、大自然の芸術作品と思います。
 リエカからオパティア
 ホテルのスタンプが3日間になっていたので、バスの時間までもう一度公園内を散策し、もう二度とは来ることはないと思うけど、お別れをしました。バス停で待っているが中々、遅れてやっと小さな車が来る。カルロヴィツまで行って乗り換えて、リエカに行くべきと。時折軍用車が列をなして走っていく。独立戦争が7年前にあったのだと思わせる。やっと夕刻にリエカに到着する。クロアチア最大の貿易港、アドリア海を渡るフェリーが沢山停泊し、大型のクルーが連なっている。リエカのバス終点前に白い独特な建築物、聖セバスチャン教会がある。大通りは古いビルが並んでいる。泊りをオパティアと決めていたので、観光もそこそこにバスに乗りオパティアへと。案内所でソベを紹介してもらい車で送ってもらう。ここはヨーロッパの人達の夏のバカンス地。リヴィエラと呼ばれる通称がある。海岸通りには洗練されたホテルが建ち並び、シーズンには大勢の人出があるでしょうが、今はオフシーズン、ひっそりとしている。明日はボストイナ鍾乳洞に行くことをソベの女主人に相談すると、旅行社も電話して下さるが、もうバスは行かないらしい。地下の鍾乳洞がイルミネーションに飾られたものは好みではないので、バスが行かないのであれば仕方がないと諦めた。首都ザグレグからなら行けたかも知れない。私達はスーパーに行ったり、小さな店を覗いたり、海岸線上には造船所が幾つもあるこの街をソベからセンターまでを何度も歩き、スロヴェニア行きの方法を聞いてまわる。
 ノヴァ・ゴリツア
 次の国スロヴェニアに直接入国するバスはないし、列車もこの街を走っていないのでリエカにバックした。駅の案内所では2回乗り換えれば行けると教えてくれる。本数は非常に少ない。昼頃までリエカを見物する。古い港町は建物も年代ものばかり。クロアチアのお金クーナはもう使えない。すっかり終りにしたいので、昼食と夕食もテイクアウトして列車に乗り込む。言葉が通じない時は行き先を書いて聞く以外なし。恥を捨てなければ旅はできない。アナウンスもベルも何もなしだから、乗客にも駅員さんにも、何度も聞く。今日の出国入国は難しいけど、やっとノヴァ・ゴリツアに着く。もうすっかり暗くなってしまう。ここノヴァ・ゴリツアの駅前に広場がイタリアとスロヴェニアとの国境線となっていたことがあり、昔は第二の鉄のカーテンの役割をしていた。スロヴェニアがEU連合に加わったことで、今は自由に行き来が出来る。ホテルを捜すのが億劫になり、駅前のホテルに決める。私達は、今晩はイタリアに居るのだと思うと不思議。明日はボーヒン鉄道に乗りたいので、ここまで来た意味がある。
slovenija10_09ユリアン・アルプス山脈の最高峰=トリグラフ山
 ボーヒン湖
 スロヴェニアの鉄道で風光明媚な路線と言われるイエセニツェからノヴァ・ゴリツア間を走るボーヒン鉄道、シーズンには蒸気機関車も走るツアーもあるらしい。でも今はオフシーズンでローカル線が一日に数本。昨夜は駅の案内所は閉まっていたので発着を聞けなかった。朝その時間を聞きに行くと、あと5分位で一番列車がある。私達はすぐにホテルからザックを持って、ギリギリにボーヒン鉄道に飛び乗った。ヤッター間に合った。諦めずに試してみなければという心意気。乗客は少ない。ガラガラの状態だから右に左にと景色のよい方向へと移る。
 ユリアン・アルプス山脈より流れ来る川は目をみはるようなヒスイ色のソチャ川。何の鉱物がまざっているのだろうか。列車からの風景は、川沿いにひっそりと暮らす小さな山村が教会を中心にある。これだけ山や森林に囲まれているからか木材産業、製材所も所々にあり、まだここは薪ストーブらしく屋根には四角のエントツ。裏手には薪を貯蔵している。柿、ミカン、ザクロ等が鈴なり。紅葉の渓谷の中列車はひた走る。ボーヒン駅から湖まで6km。バス停はどこか見当たらないので捜していたら、ドイツ語を話す婦人が親切に連れていってくれる。田舎でオフシーズン、バスは何時かも分からない案内板もない。バス停前のパン屋さん、次々とお客さんが頻繁に来る。美味しそうな臭いもする。きっと美味しいに違いない。私達もバスを待つ間に戴いたり、パンを抱えてバスに乗る。案内所で適当なソベを紹介してもらう。台所付の小さなソベ。もうヒーターも入っている。
 ボーヒン湖の畔、4人の登山家の銅像があり、この国の最高峰トリグラフ山を指さしている。この湖はもう一つこの国で有名なブレッド湖の3倍あるそうで、ドリグラフ公園内にある。雄大な自然、昔から多くの文士達に愛されて、静かな時を過ごす理想の地のようです。湖畔のヨハネ教会と前面石の橋あたりの美しさは紅葉の季節は特に絵はがきになりそう。カモ達が人馴れしていて沢山寄って来る。悪いと思いながらパンをあげる。この湖を歩こうと思ったが少々大き過ぎる。それならばマウンテンバイクをレンタルして一周しよう。ヨーロッパ人に合わせたサドルは一番低くしてもらったが、それでも高い。紅葉が進む森林の中、湖畔沿いであったり離れたり。落葉が降りしきる中、身体に受けながら、光に映える湖の変化を楽しむ。でも途中からは木樹の根が道に張り出したり大きな岩もゴロゴロあり、走れたものではなく押して歩いたり、干し上った川を自転車を担いだりして、本当にハードワーク。若い人に助けてもらったりして、やっと一周できました。地図を後で見て、よくこれだけの距離を走れたものだと感心する。二人とも元気だなあ。民宿に帰りささやかな夕食を作って、明日はブレット湖に行こう。
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 左=ブレッド湖の全景(後方はユリアン・アルプス)  右=湖にある小島の教会
 ブレッド湖
 ボーヒン湖の朝は曇がちだが、やっと朝日に照り映えるユリアン・アルプス山脈の最高峰ドリグラフ山(2864m)を拝むことができた。ブレッド湖ではもっとはっきりと見えるかも知れないと期待して向う。昨日ボーヒン駅に下車した列車に乗って次の駅がブレッド、わずか22分しかかからない。山上の駅なので、湖に降りるバスを聞いてもないらしい。ジグザグロードを歩いても、なかなか中心地に着けないと思ったら、反対向いて歩いている。運よくトロッコバスに会い乗せてもらい、中心の案内に辿り着く。コンパス旅行社で便利な食事付の小さなホテルを紹介してもらう。
やっとブレッド湖に着いたという思い。スロヴェニア観光のパンフレットには、このユリアン・アルプスをバックに湖と小さな島の白い教会は城を入れて載っている。世界中の人々を魅了するこの湖畔でゆっくりしようと思う。
 私達は少しヘソ曲がり、切り立った断崖の上のブレッド城を自分の足で登りたい。ガイドブックには急坂で徒歩では大変とあるが、こんなに天気の良い日、落葉を踏む、あの音を聞きながら、紅葉の中の歩きは最高の楽しみ。迷うことなく道は続き楽なコース観光客はバスや車、馬車で登って来て、城には大勢の人々。城からの眺めは湖とその周辺を一望のもとに目にすることが出来る。登山家はユリアン・アルプスを太陽の当たる側のアルプスと呼んでいる。今日はご機嫌が良くなく、トリグラフ山は霞んでいる。四季折々の景勝の地で夏のバカンス、冬のスキー、ブレッド湖は大きなスケートリンクになるそうです。都会より自然を満喫しようと思い、どこかの都市に移ることも考えたが、連泊することにした。オフシーズンなので観光客も少ない。旅の疲れを癒やそうと贅沢な望みです。
 ブレッド湖のホテルは夜にはしっかりとヒーターも入り、洗濯物も洗面所までもヒーターが入るので、干せて便利で言うことなしと思っていたのに、壁が薄いのでしょうか、隣室の子供の泣き声が一晩中煩くて眠れない。部屋を変えてもらうことを相談し、私達は他の部屋に移った。朝食時に隣室の三人の幼児を連れた両親が居て、日本人だったのでびっくりしました。赤ん坊から幼い子供連れの観光とは、せめて子供達が想い出に残る頃までは待てばよいし、子供達には急に環境が変わって迷惑しているのでは、親のエゴとしか思えない。年寄りの考えることかな。
 湖の周囲を静かに散策する。少々風もあり寒いが何度も見ても、どこから見てもブレッド湖は美しい。色んな国の人々も歩いている。カモ、ガン、白鳥、スズメがパン欲しさに寄ってきて催促をする。怖さ知らずの野鳥の鳥達はかわいい。パークホテルから高台に大型のショッピングセンターもあり、懐かしい焼き栗を売っている。子供の頃薪でお風呂を沸かす時に傷をつけて焼いたり、初めてパリに遊んだ折厳冬のシャンデリア通りで、焼き栗を買って両方のポケットに入れ、手を温めた想い出多き焼き栗を買ってみるが、甘味が少ない。
 パークホテルでこの地の名物、難しい名前のシホンケーキによく似た甘いケーキを、湖を眺めながら戴く。ありがたいなと思います。
 ボートで小さな島に行こうとするが、乗客が8人程集らないと出発しない。しばらく待ってやっと乗船できた。ボート漕ぎの運転手さんは、立ったままでの面白い漕ぎ方をする。湖上を、上手に波を切って進んでいく。結構重労働です。ブレッド湖のシンボルは、バロック調の白き塔を持つこの教会。悲しい女性の物語がある。祭壇は金ぴかのマリア様。内部は豪華に作られている。教会の中に1本のロープがあり、これを引いて塔の鐘を鳴らせば幸が訪れるという。自分の元気がもう少し続きますようにと祈る。こんな美しい憧れの地で、過ごせる幸せは嬉しい限りです。
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 上=リップリャーナの三本橋(新旧市街の分れ橋)  下=リップリャーナの中心地
 リップリャーナ
 いよいよこの旅も終盤になり、やっと首都のリップリャーナに行く。鉄道では何度かの乗り換えがあるので、直通で行くバスにする。今日は天気がよくない。雨が降りそうだ。ずっと天候に恵まれていたので、最終日近くで雨とはしかたがないこと。本日は星ありホテルなので気持がよい。ヨーロッパは、日曜日は大体の店は閉まっている。宗教上の安息日となり、観光客は大いに困ることもある。教会は夫々ミサを行なっている。旧市街の大聖堂で気持ちよく誰でも迎えてくれる荘厳なミサに参列し、敬けんな気持ちを味わう。
 プレシェーレノフ広場で日曜市が開かれているが、雨が降っているので店は少ない。ハンドメイドのものや骨董品、家具等が個人で売られている。お隣の野菜市場は、今日はお休み。旧市街の中心の広場に詩人の銅像がある。新市街と旧市街を結ぶユニークな設計の三本橋がある。その近くの橋の欄干に、この首都の象徴の4匹の竜の像があるのにはびっくりする。ヨーロッパでも空想の生き物として竜が存在したとは考えてもみなかった。首都なので市庁舎は堂々とした建築。小さな裏通りを歩けば美味しそうなレストランやコーヒーの店が沢山ある。スロヴェニアもコーヒーといえばエキスプレッソのあの濃い苦いデミタスカップ入りの少量のコーヒー。イタリアと同じ。好みではないがこのコーヒーしかないと言われれば仕方がない。ミルクと砂糖入りの普通のコーヒーが飲みたいものです。
 星ありホテルは朝食も豪華なバイキング。ついでに昼食のサンドも作って戴きました。早朝より市場に行く。野菜市場には日常の野菜果物が何でもある。雑貨もある。生活必需品は何でも揃う。テント張りやキャンピングカーもどきの車も即席の店となる。ここにも焼き栗の熱々のものが売っている。多くの買い物客で賑わっている。昨日休みだった店を覗いたり好みの品を求めたり、見知らぬ町を通り過ぎていく。フランス革命広場や国立大学図書館や三番橋はプレチニクという有名な建築家の設計。芸術的作品は奇抜なデザインだ。
 私達はリップリャーナ城へ登る。観光バスも走っているらしいけど、時刻が分からないし、難しいことはないと思い大聖堂の横手より登る。木道も木の階段も枯葉の地道ありで、誰も登って来ない道を、珍しい鳥達の飛び交う城に着く。場内は多くのギャラリー、レストラン、土産物屋に分かれていて、城主が次々変わり、刑務所になっていたこともあった。礼拝堂には独特の壁画があった。
 リップリャーナの街もブラッと散歩したり、そろそろ日本食が恋しくなってくる。日本人が経営している食堂に寄ってみる。おうどんを頼むと“美味しくない”何時も海外で日本食程まずいものはない。即席のインスタントだしで辛く、こんなものが日本料理として通用しているかと思うと悲しい。お茶までお金を払うらしい。帰り際に「本当のダシにして下さいヨ」と小言を言っておいた。
私達は夕刻ヘルシンキに発ち、一泊して帰国しました。毎年楽しみにしている金木犀の香りはもう終っていました。でも我が家の柿が今年はいっぱいの実をつけ、少しだけ色付いていました。
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ルガリア・セルビア・ルーマニアの旅  〔2010.6.13〜6.29〕
 ブルガリアの友人ヴォーリアさんに会いたい思いは募り、岐阜の旅の友と意見は一致した。今御主人がセルビアに出張中。メールで連絡をとり合い、ヴォーリアさんの都合に合わせて、いざ出発する。
 首都ソフィアの国際空港ヴラジデヴナには、彼女の笑顔が待っている。4年前とは少しも変わっていない美しさ、優しさはそのまま伝って来る。心躍る一時です。涙が自然に湧いて来る。生きていて良かったナ。死の淵を覗いた者だけに思われる感情かも。
 以前泊まらせてもらったアパートはそのまま、2DKの清潔そのもの。冷蔵庫には美味しいものが一杯。6月のチェリーの最盛期を目指して来ているので、彼女の心づかいは沢山入れて戴いてる。相棒さんと整理整頓のいき届いた部屋を、ゆっくりと過ごせることを喜び合った。
 ヴォーリアさん昼から仕事ありで、現役のキャリアウーマン。私達二人はバスで中心街にくり出す。ソフィア大学前で下車。アレキサンダル・ネフスキー寺院、国会議事堂、聖ソフィア寺院、ニコライ・ロシア教会、セルディカ遺跡、聖ペトロ地下教会は地下鉄の建設の為、見られなかった。道を間違えたりしても通りがかりの人々は、教えてくれる。日差しの暑さに閉口し、昨夜の睡眠不足で早くアパートに帰りたくなる。とても便利なところにあるが、鍵が少し厄介で、慣れるまでに時間がかかりそうです。帰り着けばすごい風雨になり雹も降って来る。天候の急変にはびっくりしたが、しばらくして静かになる。前の通りはまるで小川になっている。捨てられた猫が鳴いている。私も泣きたい位悲しい。近くの方助けてあげて下さいと呼びたい。
 この国も電力不足なのか、1週間に2日間、朝8時から16時まで停電です。今晩はヴォーリアさんの本宅にて招かれた夕食。アパートから歩いて5分程ですが、新しく巨大なマンション。すばらしく景色のよい豪華な3LDK、トイレ、シャワーが2つもある。特に台所が油を使わないようにしているのでしょうか、きれいすぎる。サラダを中心に野菜をアレンジ、独特なドレッシングで、鳥の料理を入れてない。私が嫌いなことを覚えていて下さっている。デザートには美味しいチェリー。佐藤錦のように大粒で色が余り濃くなく、甘さ加減が丁度よい。
 ヴォーリアさんの体型が変わらないのは油を使わず、少量の野菜を食しているのがその理由なのかも知れない。ドレッシングの分量を教えてもらおうと思った。
アパートを裏から見あげると5階立て?古びているが内部は改装されて新築同様。裏には大きな森があり、民家が一軒、早朝より鳥達の楽園となっている。ブドウが壁を伝わって登ってきて、小さな実を沢山付けているが、誰のものになるのかな。個人宅の庭にチェリーがたわわに実っているが、そのまま食べられるのとジャムやジュースに加工されるのがある。白いチェリーもあった。ブルガリアには梅干はまさか無いでしょうが、小梅が沢山実っている。昨日の風でポトポト落ちてしまっていて、もったいないな。梅をジャムにする手もあるのに。ビトシャ山系の雪渓を眺め、朝の散歩は楽しい。大通りのバス通り道にはハチミツ、チェリー、自宅の畑の野菜等を売っているお年寄り達がいる。年金生活者でしょう。どこの国も生活は大変です。
 私達は明日のタルノヴォ行きの連絡とセルビア行きの国際バスを予約する。今日の午後からはリラの僧院に観光するので、時間が余っていたので、アパート近くの日本大使館を訪ねた。セルビアの情勢を聞きたかった。外務省の注意にセルビアでは個人の家に泊まる折には、近くの警察に入国して12時間以内に滞在登録しなければならないとあったことを確認したかった。係りの方はセルビアからの出国時に厳しい検閲があった場合のみ問題になるが、普通はそれは名目だけと、相手の身になっての親切な対応でした。でも結局は申請した方がよいという判断でしたので、私達はそうすることにしました。ヴォーリアさんに話したら自分も主人宅に泊まる時は、いつも滞在登録証をもらっているとのことでした。
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bulgaria10_2上=リラの僧院(冬景色)  下=僧院のフレスコ画
 リラの僧院
 さあリラの僧院に行きましょう。ヴォーリアさんの知り合いの学生さんが三人を連れて行ってくれることの約束があった。濃いグレイの韓国車はリラ山脈の奥深くの山の中隠れ里のようにひっそりと、そこだけ王国のようだ。ブルガリアのメインの観光地なので世界中からの人々が訪れる。一般のバスは不便で1泊しなければ無理かも知れない。ここで日本人夫婦に2組会った。ツアーバスで来ていた。
 500年もの間、オスマン朝の支配下にあった時代も、この僧院だけはキリスト教の信仰が許された。4階建ての縞模様。外壁も内部も宗教の教えを説く極彩色のフレスコ画が描かれていて、何度訪れても、その時の友、季節でまるで初めてのように新鮮です。以前は宿坊にも寄れたのに、今は2階以上は入ってはいけない印。宿坊は木材建築なので老朽化が進んでいる。黒いロング服装の修道師も時折姿を見せる。メタボの人がいないのは菜食主義者達なのでしょうか。僧院の周りにはレストラン・土産物・小さなホテルもある。
 途中の小さな村々には今旬のチェリーを売っているテントが多い。ヴォーリアさんはやはり果物屋さんのが一番ヨ。プロはそれなりの甘さが違うとのことでした。行きかう車は何だか韓国車が多い。日本車の性能のすばらしさは認めるが、でも高い。韓国車は日本車の半額であり、近頃新車は故障も少なく、10年保障のメンテナンスも付いたとか。さみしいことです。
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bulgaria10_4上=トラペジッツァの丘  下=ヴェリコ・タルノヴォの民宿
 ヴェリコ・タルノヴォ
 早朝は鳥の声で起こされる。崖下の大きな森のざわめきを見つめ、鳥達の戯れを眺めていると、私は何処に居るのでしょうと夢の中。ここのカラスはツートンカラーで頭からグレイのスカーフをかぶっている。スズメは日本のより大振りなのが多い。「早起きは三文の徳」とか。ソフィアの豊かな自然の有様を体感できることは何よりの幸せに思う。
 中央バスターミナルよりの長距離バスは各地に発着する。お昼のサンドと飲み物を持参して乗り込む。ヴォーリアさんの手の届かぬところへ行くので、全くの自由を得て嬉しいが、彼女は私達のことが心配でしかたないらしい。電話を必ずするようにと御忠告を受ける。
 バルカン山脈の東に向かい3時間で到着するらしい。ソフィアの郊外より豊かな農業地が広がり麦やじゃがいも・トウモロコシ等、時折ヒマワリ畑もあるが、遠ざかるにつれて荒地に変わりつつある。草原も広がり牛や羊を放牧すれば、しっかり育つだろうと思う。5年前より農業も減っている気がする。ヴォーリアさんが語っていたが、トルコから安い農作物や肉の輸入で、農業は少なくなり、地方は廃屋が増えて、都市への出稼ぎに行かざるをえない。大学を卒業しても、自分の能力をいかせる職業がなく、他の国で働いている。ヴォーリアさんの息子さん家族はトロントで働き、1年に1度、2週間のお休みに帰国したり、自分達も会いに行ったりしているらしい。
 タルノヴォはヤントラ川が蛇行する切り立った崖の上に広がる美しい中世からの町並みで、独特な立体的な地形をしている。ブルガリア一番の人気、外国人にはもてるらしい。歴史的には幾度か戦場となり、ブルガリアの独立運動の起点となった。ブルガリア母の広場には、戦士のモニュメントと頂上には旗を持った母を勇ましく象徴している。
バスは旧市街のはずれに着いたので、ゆっくりと歩いてiに寄って民宿を紹介してもらって、坂の上に建つ、クリーム色のラブラドール犬のいる民宿に落ち着く。小さな台所もあり冷蔵庫も、直ぐ前が雑貨屋さん、ブルガリアのトマトはとっても美味しい。トマトとチェリーがおやつになり、今晩は以前食した小さなレストランを捜して、ブルガリアの郷土料理をいただきたい。迷いながら町の見物に出かける。たまに道を聞いた人が琴欧州に似ているナ。この地は彼の出身地らしい。まずはトランベジッツァ丘に行こう。旧市街の一本道、頂上に教会のある丘、ここ全体が宮殿だった。オスマン朝との戦いで滅亡し、周囲の小高い壁は今も残っている。すごい暑さの中、喘ぎながら登り、不気味な絵画が内部全体に書かれた教会に中で休息し、社会主義時代の名残の暗い絵は国民の悲しみ、寒さを感ずる。タルノヴォの町を360度の眺め、緑の丘に赤い屋根の建物が崖にへばりついている。
 私達は近郊にも足を伸ばす。アルバナシ行こう。バスはいつ来るか分からないので、タクシーで向う。北側の森を幾つか越えれば、オスマン朝時代に税の免除特権を得て、村は商いで発展し、裕福な暮らしができ大邸宅を構えた。今では夫々の邸宅がホテルや民宿になり、現代の商売になっている。教会や修道院と富豪の屋敷見物、その中での一番は生誕教会でした。質素なドーム型だが内部のフレスコ画はキリストの教えや歴史、庶民の暮らし振りまで壁一面に色鮮やかに描かれ印象的な教会。タルノヴォに帰り手工事の通りチャルシャの店をひやかして散策しました。夕食はブルガリア料理。ショプスカ・サラダ・ミシュマシュ・ガヴマルマ1品ずつオーダしても2人で食べる量で、美味しさは格別でした。
 次の朝早起きして、人々の暮らしを覗く。以外にも菩提樹の木が多く、あの甘い香り、花の盛り、ここにも個人宅にはチェリーが実っている。余りにもよく実ったのを下から眺めていた2人に、清掃していたそこの婦人が枝を折って渡してくれる。食べてみての合図。有難くいただくが、酸っぱい。通りがかりに人々はキナ(中国)?コーリア?と問う。私は強くヤポニと答えると、相手は大概ニコリと笑顔になる。気持ちがよい。日本は多くの税を海外に援助にまわしているお陰なのでしょうか?喜ぶべきか否か迷うこともある。
 新市街も散歩し小さなカフェで通る人々を眺め、濃い味のエキスプレソーのコーヒと独特なパンを戴いて一休み。通りの角には色んなモニュメントが在るが、ブルガリア語は読めない。蛇行するヤントラ川に挟まれた中州に、タルノヴォ美術館がある。以前訪れても面白いことはなかった。アッセン王のモニュメントを遠くより、その風景を眺めるのみ。
 タルノヴォでの2日間は夢の如く過ぎ去り、私達はバスに乗ってソフィアに帰る。アパートの冷蔵庫には私達の好きそうな食材を黙って入れておいて下さるヴォーリアさんの優しさ、その奥ゆかしさ、ますますヴォーリアさんを尊敬します。
 セルビア
 全くの未知の国、情報が少ない。2000年にユーゴスラヴィアから独立したので、セルビア共和国となり、本当に新しい独立国。でも、期待も不安もあるが、ヴォーリアさんと一緒だから安心。
 ミニバスで乗客10人程。ベオグラードまで7時間以上かかるそうだ。国境ではパスポート検問があるが、1人だけトルコ人の中年の男性が、原因不明だが、調査に時間がかかり皆待たされる。本人はふてぶてしく不機嫌だが、待たされている私達のことは全然考えていない。1時間30分ほど手続きが遅れ、やっとセルビアに向う。ハシュでセルビアのバスに乗り換えて再出発。私達はノーマネー。トイレも駄目、コーヒも飲めない。
 農業地帯が続く小さな村々が点々とある。農業だけでは食べていけない、どの国にも同じ現象が起こり、都会での現金収入をあてにした暮らしだそうです。
 ベオグラードでの滞在
 バスの最終地でヴォーリアさんの御主人が迎えに来ている。静かで温厚で頼りがいのある御方。ジョークが好きな方で機知に富んだそのジョークは周りの人々を笑いの中に包み込む。以前から足が痛そうだったけど、もっと歩き難そうになっている。御主人が暮らすアパートに。近くの銀行でチェンジマネー、滞在登録を済ませてヤレヤレです。スーパーで夕食の買い物を一緒にする。物価は安いと思いました。時折は夕方には雷も伴っての夕立、暑さが吹っ飛んで涼しくなる。私達の部屋も広い、大きなベッド3人位でも眠れるみたい。御主人宅に一週間に2日清掃の方が来ているそうです。自分では何もしない方らしい。
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bulgaria10_6上=ノヴィ・サドの青空市場  下=スロヴィダ広場
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bulgaria10_8上=ペトロヴァラデン要塞  下=ベオグラード市内
 ノヴィ・サド
 早起きの私達は集合住宅では迷惑をかけているのかも知れない。静かにそっと音をたてずに朝食を作るのですが、水の音は旧式の水道管には響いているようです。ノヴィ・サドとはおもしろい名前の町。ベオグラードのバスターミナルより、1時間30分位で到着する。
 私達は直ぐに、旧市街の中心地へ歩いていく。この地はオーストリア・ハンガリーに支配された故か、欧風の印象が強い特徴的な街。今日は日曜日。青空市場の小さいのが道端にある。いつもの冷やかし心から見て歩く。中心には教会ばかり。ユダヤ教のシナゴーク・セルビア正教会・カトリック大聖堂等々、20の民族が暮らす為か、心の拠りどころの教会の多さからも、夫々の民族に支配された歴史を察する。セルビア正教会に入ってみる。暑さと歩き疲れを休める為でもある。丁度赤ちゃんの洗礼式が行なわれていた。幼い赤ちゃんに親の宗教を決定づけるのはどうかなと思う。それも民族の習慣なのでしょうか。
 ドナウ川を渡り、地下道から登りでペトロヴァラデン要塞に向う。昔、大きな城が要塞も兼ねていたのでしょうが、今は芸術家のギャラリーや博物館が犇めいている。ギャラリーを経営しながらそこが生活の場となっている夫婦や老人達もいる。アフリカの森林のみを描いている老人の絵画に興味があったが、リックに入れて持って帰れないと思い求めなかった。この都市は各宗教が中心となって生活が営まれている。セルビアには馴染みがないけど、ワインの産地として、ハニーと共に中欧では有名らしい。ワインブドウが育つ気候と土壌が適しているので上質なワインが生産されるらしい。
 ヴォーリアさん宅でも肉は赤、魚には白、夫々好みの銘柄あり、よく飲んでいます。ワインと一緒に食事すれば、料理の味がよくなり食事がすすむらしい。私は密かに思う。これ以上食事に興味を持てば本当に肥ってしまいます。今でもどうにかして痩せたいと悩んでいるのに、ワイン好きになりたくない。
 私達はよく歩き、すっかり疲れてベオグラードに帰宅し、早めの夕食、チョプスカサラダ・生野菜の色んなサラダ・白身魚のムニエル・ポテトと人参・豆のサダ風の煮込み・フランスパン・デザートにヨーグルトとチェリー。生野菜のサラダの多さ、ドレッシングの美味しさ、絶対にこのドレッシングを教わろうと思っている。ベオグラードで観るワールドカップサッカー、のんびりと世界中の人々が観ているサッカーを、この地で尊敬するヴォーリアさん夫婦と観戦することは何と幸せな自分でしょうか。
 次の日はベオグラード中心街に行く。古めかしい重厚なビルが建っている。歴史の一端を覗く思いがするが、中央駅近くのド真中にコソボの戦争時、ナトーの空爆で破壊された大きなビルが三つ程そのままに無惨な残骸を晒しているのには度肝を抜かれる。記念として残しているのか、政府の意図するところが分からない。御主人の勤め先は、政府貿易省のビルの中の一室。毎日このビルを見ての通勤をどう思っているのか聞きたかった。広大な要塞には、オスマントルコ時代の墓地・邸宅跡・戦争博物館・丘の上には時計塔。ここからの眺めは、サヴァ川とドナウ川が合流するカレメグダン公園に続き、市民達の自然豊かな憩いの場となっている。夕立が毎日この週はあったので、川岸のレストランの下部はずいぶん水位が増している。大丈夫だろうかな。
 私達はベオグラードのメイン通りを再び帰りに訪れ、美味しい名物のクレープを戴き、ヴォーリアさん宅に帰り、いよいよルーマニアに出国することにする。たったの三日間の滞在でしたが、ルーマニアの南部のまだ訪れていない地を優先した。ヴォーリアさんとは別れとなる。心配して駅まで見送りに来てくださる。

 会うことはすでに別れと覚悟して 人の定めはかなしく儚(ムナ)し

 セルビアのお金の余りを次の国のルーマニアのレウに換金したいのに、銀行・駅でも隣国のお金はなく、結局又ユーロにチェンジしてもらう。
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bulgaria10_11上=ティミショアラの花屋さん  下=ルーマニア正教会
 ティミショアラ
 列車は定刻時に発する。乗客はまばら。駅員さんにチケットを見せるとコンパートメントに導いてくれる。ニコニコして親切な方が多いナと思っていた。5時間ほどでルーマニアの西の入口ティミショアラの町に着くらしい。雨が降って来たけど、ゆっくり気分でのんびりと両サイドの景色を眺めながら過ごしました。国境近くで出国の為検査・パスポートに出国スタンプ、そしてすぐに別の制服の係員が入国カードを渡し、又入国スタンプ。駅員さんが次の部屋のコンパートメントに移るように促すので従った。私達が坐っていた部屋から、バババーンと音がする。そっとカーテンを開けてみると内部の壁のベニアをはずし、外国製のタバコと小さい箱入りの何かが床一面に落ちて相当な量を大きな包で運ぶ数人、駅員さんも黙って見ている。これはタバコと香水か何かの密輸になるのではないか。最初から日本人の私達の部屋を宛てにして職員も検査官も皆仲間でやっている。ドイツの学生さんと下車時話すと“何時ものことだが、今はもう余り利益ないのに、係わり合いにならぬようにネ”と、何時かは政府が動いて捕まるでしょうとのこと。夜ティミショアラに到着するので、セルビアで予約していた駅前ホテルに。
 昨夜遅くはこの町の観光はできていないし、次の町シビウまではバスで6時間位かかるし、途中めぼしい町はないので、もう1泊してゆっくりの滞在となった。
国境の町ティミショアラはチャウシェスク政権への独裁政治に対抗する力はこの地より始まった勝利広場がある。私達は旧市街の中心のルーマニア正教会を目指し、そこにはランドマーク的存在でどこからでも見える大きさ。内部は煌めく美しさは、多くの人々が出勤前に静かに敬虔に祈りを捧げている。民主革命は政府の武力により圧せられ、多くの犠牲者を出した。革命時に治安隊より逃げ込んだ子供達が、この正教会の階段で背後から銃弾を受けた。革命時の犠牲者を弔う十字架が所々に小さく建てられている。
 勝利広場・自由広場・統一広場と広場が続き、その中に動物や或る人物のモニュメントがあり、ベンチに憩う老人達、カップル、今の平和があたり前、静かに穏やかに時は流れています。広場の両サイドは昔からの古い建物がびっしり、時折ド派手なペイントしたビルもある。1階は多種多様な店になり、2階から住居となっている。一軒のパン屋に人が次々と並ぶので、私達も並んでみると名前は知らないがメガネ型のパン。やさしい塩味で美味しい。紐で結んでブラブラさげて歩いている。オヤツにもなるし、手軽に食べられて便利。昔の城が博物館や劇場になったりしている。丁度美術館にレンブラントの特別展があり、彼のエッチングのすばらしさ、光と影の絵画の数々。この遠くの地でそのすばらしさを堪能できました。
 電車通りをブラブラし色んな店を見たり味わったり、大好きな市場に行き着く。どんなものが売られているか興味津々。どこにでもあるありふれたものの集りだったが、一区画仕切られた部屋はチーズばかり。夫々の家庭の手作りチーズを手づかみで味見させてくれるのには戸惑う。花屋も多い。かっこ好く花束にしたり、飾り物にできるように作っている。恋人と会う、どなたかの家庭を訪問する時等は、花を持参する習慣がある。花を見て腹を立てる人はいないでしょうし、花を愛する人々に悪い人はいない。国民は心根のやさしい人が多いことでしょう。
bulgaria10_12シビウの町中
 シビウ
 早朝よりのバス、長距離となる。広大な畑が続く。以外にも何も植えていない草原が続く。所々に羊や肉牛の放牧がある。雨が降ったり止んだり。私達はバスの中からの眺め。カンパチア山脈が遠くに霞み、中央ヨーロッパの交通の要の商業都市として発展した古い町。ザクセン人が建設したこの都市は、名前もドイツ的な通りもあり旧市街はずっと石畳の道が続く。屋根が魚のウロコ型、赤い屋根が多い。昔の面影を色濃く残す町の路地を入ったところの小さな民宿が今日の宿。スラブ系の女主人はタバコの匂いがする。門のカギ、部屋のカギを渡してくれる。
 どの都市の宿も最初は分かり難いところと思い、慣れれば散策にも近道が沢山あって便利なところ。ここにも大、小の広場あり。時計塔があったり、その下にトンネルがおもしろく何度も行ったり来たり。美味しいパン屋さん、時には甘いものの店、捨てられた犬が濡れて歩いていたりするのを見るのは情けない。バロック建築のカトリック教会に入れば、ユリの花でいっぱい。やさしく甘い香りに満ち、気持がよい。ここも通勤の往来にお祈りをしている住民が多い。自分を振り返る時を戴ける教会は旅人の心の中に安らぎを与えてくれる。ほっと笑いを返したくなり、何も考えずに、唯感謝のみの祈りです。
 次の日、晴天なり。シビウの町も喜んで、早朝よりすっかりと昨日クローズしていた店も開店し元気がよい。昨日見れなかったところを、散歩しながらひやかして回る。何時ものことながらその町に慣れて近道や美味しい店に通い、喜びもつかの間又次の町へと移動しなければならない旅。分かっているのに何となく残念。
bulgaria10_13シギンショアラの時計塔
 シギンショアラ
 シビウからシギンショアラ行きのバス発着地は離れているので、タクシーを呼んでもらう。私達はミニバスで走る。ここは牧畜が盛んな土地柄らしい。バスからの両サイドには小さな田舎町を通過していく。ここも空き家が多いし共産主義時代の置き土産の赤サビた朽ちるばかりの大きな工場が所々にある。3時間くらいでシギンショアラに到着する。
 トランシルヴァニア地方の中心地、天気がよいせいか何だか心ウキウキする。ここもドイツ人の入植者達が繁栄をもたらし、ギルドを持つ城塞都市であったが、ベルリンの壁の崩壊により、ドイツ人の多くが又移住して、今はルーマニア人が大部分らしい。
 私達は今日は星ありの少し上等のホテルにしようと思う。香港のカップルが教えてくれた宿にした。シンボルの時計塔と広場前の中心地にある古いホテルだが内部は改装され、どこもピカピカでゆったりしている。レセプションには中年の映画俳優如き紳士が、優しくこの町の情報を説明して下さる。ぽーとしてしまいます。ドイツ人により建築され今も動いているが時刻塔のカラクリ人形は現れない。時は刻んでいる。人形は故障し現代の技術でもなおせないらしい。日本人なら可能なのに。動き出す人形が現れたなら、観光にも役立つでしょうに。今日は何かの催しがあるのでしょうか、背広を着て立派な硬派の紳士達が、広場近くの酒場のテラスでドイツ語で演説や歌を大合唱している。昔を懐かしく、育った地を訪れているのかも知れない。
 ホテルからすぐ屋根付の木造階段を登ると、ルーテル派の山上教会があり守番の1人がこの教会の歴史をしっかりした発音で説明してくれる。地下のお墓(カタコンブ)も見物する。かび臭い風が吹いて来る。山上からのこの町の景色をぐるーと見渡して“ああ絶景かな”です。
 夜には大型のスクリーン演奏会があるそうです。ドラキュラのモデルとなった方の主家がレストラン・土産物屋さんになっている。小さな個人の土産物屋さん。プライベート民宿・ゲストハウス沢山あって、泊まるところには困らぬ小さな町。今晩はサッカーの試合をテレビでという勧めも断り、9時頃には寝るので、どうなったのかは知らない。朝、日本チームが勝ったとホテルの方が喜んでくれていた。
 朝食もおいしくいただきました。早朝散策で別の登り口を選んで山上協会へ。誰もいない。猫が1匹」、朝食の余りをあげる。朝露に濡れた草花は生々しくて美しい。もう一度山上をぐるりと町全体を見おろして、この町と別れを惜しむ。
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bulgaria10_15上=ハルマン教会  下=ブラン城(三階から下を覗く)
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bulgaria10_17上=ブラショウ歴史博物館  下=スモークツリー(ブラショウ)
 ブラショウ
 ブカレスト行きの途中下車、ブラショウに列車でいく。国際列車は遅れるのが常識らしい。ブラショウの日本人経営のゲストハウスを予約し、駅まで迎えに来てあげると、乗る列車の時間と番号を約束したのに、携帯がないと不便ですが。でも相手の方は慣れていて、いつものことらしい。辛抱強い方々ばかり。ドンドン山の中に入って行く感じがするが1時間遅れでブラショウに着く。曇りがちだが暑いよりまし。ゲストハウスは駅から近く、中央街には歩いて30分位かな。静かな住宅地の中にあり、とても清潔な日本人的な宿で、すっかり気に入ってしまい。午後からも空いているそうで車で4時間の観光を予約する。交通の便が悪いらしいので、時間の節約。
 プレジュメール村の要塞教会へと、オスマン朝や他の民族の侵略に対しての歴史的な背景が教会を要塞化して、籠城できるよう村を守った。防壁の高さとその厚さがいかに堅固につくられているかに驚き、3階建ての250家族を受入れることができて、各部屋に暗号が印してあって、その家族代々に受け続いたらしい。回りの壁と各部屋の後に長い廊下があって、敵対する時の攻撃に備えての窓もよく工夫されている。
 ルシュノフ要塞は壁の崩落があり今はクローズなので、ハルマン教会に行く。規模としてはプレジュメール要塞教会より小さいが、周りの壁が非常に高く、又その周りに堀があり、日本の城に似ている。今は自転車のツーリングでヨーロッパを一周している若い人もいる。国が陸地で結ばれていることは、いろんな国に次々と旅できておもしろい経験できるが、昔は常に敵対した場合の侵略からの守りを考え、準備しなければ生きられなかったことを思えば、それだけでも今の世は平和である。
 ブラン城に行く。かの有名な吸血鬼ドラキュラの住んでいた城であるとか。ドラキュラはモデルとしての物語で、本当の話ではないが、確かに残酷な王がいたことは確からしい。ブチェジ山麓のブラン村の山上にある城砦である。城の中に入ればすべてが木製で当時の家具をそのままに残して、迷路のように階段を登り下りして疲れます。トルコのオスマン朝軍に対しての戦いに備えて、全てを要塞化して造られている。射撃窓から油を落したり、窓が下向いてるのはトイレだったとか聞いている。以前はこの辺には小さな店がポツンと何軒かあり城が美しく凛々しく遠くからでも見えたのに、今は観光客目当ての土産物屋・レストラン・ホテルとすごい数。すっかり観光化してしまったのには驚きです。
 ここも夕方から雨が降る。次の町シナイヤに行こうと思っていたけれど、この町の市内をゆっくり観光することとなり予定変更。市内の通り名はドイツ語的。小雨が降っていても傘をさしていず、気にもしていない。宿は日本人が経営し、熱いお湯たっぷり、美味しい朝食、多くの情報をくださる。中央まで歩いて行く、広場や植物園、森林博物館、美術館豊かな伝統と澄み切った空気楽しい気分。一番大きな広場スファルトウルイにはテント張りの市民マーケットが開いていて、地元だけの家庭で作られたベーコン・サラミ・干し肉・ハチミツ・お菓子・果物等ワインとチーズの種類が多い。羊のチーズを少し下さいと注文すれば、切ってくれて“持って行きなさい”。味見は得意。その広場の近くに黒の教会がある。石造りの堂々とした教会。ハプスブルグ軍の攻撃で外壁が黒焦げになったのでこの名前が付いたとか。内部には昔からの骨董品のカーペットが、ずらりと飾ってあって見物もするも又楽しい一時。ルーマニア最大のパイプオルガンがあった。裏山のトンパ山にはケーブルで登ることが出来るらしいが、今日は天気が余りよろしくないので中止にした。宿には帰路中に又しても別の広場に骨董品の市場あり、ひやかしての駆け引きは大好きな趣味です。
 宿のオーナが今日の昼から早いが都合があって、ルーマニア在住の日本人と日本語を勉強している子供達が旧市庁舎で“たなばた祭”を催すので出席しませんかと誘われ、私達は喜んで参加した。こんな遠くで、永らくご無沙汰の祭を興味深く楽しみました。着物の着方が少し気になったところをなおしてあげました。 以前10年前に来たこのブラショウで、懐かしく美味しい味を忘れていなかったので“パパナシュ”という熱々のドーナツに生クリームのかかった甘いものがあったので尋ねてまわり、レストランでいただきました。口が奢ったのか、以前より感心しなかった。
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bulgaria10_20上=ブカレスト旧共産党本部  下=たなばた祭り
bulgaria10_19クレッレスク教会(18世紀のフレスコ画)
 ブカレスト
 ブカレストまで3時間30分。小型のバス20人位で満席。ブラショウのオーナの友人がブカレストのバスの着くところで待って下さるそうで、そして半日を観光に付き合ってくれるらしい。息子と同じくらい若い人、商社マンが現地の女性と結婚し、住みよい処らしい。帰国前日のホテルだけはネットで予約していたので、ますは一旦荷を置いて観光へ。ブカレストのタクシーはとても評判が悪いこと甚だしい。以前よりは向上しているらしいが治安はよくないらしい。全てに面で注意怠ることなきように過ごさねばと、自分に言い聞かす。でもこうして日本人の方の案内があることはラッキーです。
 まず最初に南の国民の館、巨大宮殿アメリカの国防総省ペンタゴンに次ぐ規模。チャウシェスク大統領が国民の貧困を度外視して贅の限りを尽くして建てられた。秘密の抜け道や、核センターが地下にあるそうだが、そこを設計、建築した人々は皆暗殺されたそうです。内部はツアーがありガイドと共に見学できるそうですが、私達は外観を見るだけにした。ルーマニア国立博物館・美術館・銀行等夫々が昔からの堂々とした建築物。統一広場の近く大主教教会はギリシャ正教の大本山。内部はやはりキラキラと煌びやか。牧師さんの服を触れながら説教を聞いている。ルーマニアは無国籍のジプシー(ロマ人)が多く、教会の門の前では何かを求め、手をだしてくる貧しい服装の人々もいる。
ブカレストにもパリのシャンゼリア通りの凱旋門らしく、よく似ている門があった。ヘラストラウ公園には、ルーマニア各地の民家を移して、この緑豊かな森林の中にある。
 ルーマニア国営テレビは1898年ルーマニアの革命の現状を全世界に放映したあのテレビ局が、犠牲者を悼む慰霊碑と共にある。民主革命の象徴的な存在です。
 私達は郊外に新しくできたスーパーを見物したいのでお願いして、ブカレストの庶民に人気のあるスーパーで気分よく買い物をし、観光を終えました。
 次の日はチシュミジウ公園を散歩し、統一大通りやマゲル通りから革命広場周辺のデパートを物色したけど、何も買うものなしでした。
気の合う友と2人で、久し振りのブルガニアの旧友に会えたことは何よりの嬉しさでした。又平凡な主婦の暮らしが、自分には一番似合いの生活だと思う。元気で家族の理解があれば、又別の地に旅したいと友人と約束して別れました。

 一日の命と知るやハイビスカス光輝き赤々と燃える

 帰国して我が家には真夏の太陽を向いてハイビスカスは力強く咲いています。
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ランスの田舎への旅  〔2007.5.29〜6.13〕
 フランスには少し「こだわり」があった。若きころ訪れた折に、日本人に対し侮蔑の眼を感ずることがあったので、それ以後は避けていたこともある。とくに、ブランド品の店先に朝早くから並んだ行列は日本人ばかりだったので、自分自身を恥じていた。でも、田舎ならその地方の特徴があり、花の季節の今なら美しい花ありの田園風景に出会うことができるかもしれない。大阪の友人は性格が自分とよく似ているので、彼女となら楽しい旅になると期待して出発した。
france_1あまりにも有名なモナ‐リザ
 パリ
 ネットで予約した安宿は、パリの東駅近くにある。空港では、高速郊外鉄道(RER)の切符の買い方がわからない。案内所に人もいない。近ごろはどこでもカードで買うらしい。メトロに乗り換えてやっと着く。東駅付近は夜には治安が悪いらしいが、私たちはけっして出歩かないので、その心配はない。夜の9時ごろまでパリは明るい。
 次の日早朝、メトロでパリの中心のセーヌ川の中洲(シテ島)まで。いつか見物しているが、思い出せないほどに昔のこと。最高裁・警視庁・コンシェルジェリー、一見してすべて王宮や城に見える造り。さすが、フランスの歴史的な重みと華麗さを兼ね備えている。シテ島最大の見どころはノートルダム大聖堂。空に向かって大きくのびる塔、屋根上の彫刻、樋の口が怪物達の顔になっていて笑いを誘う。裏側は鋭い塔が沢山あり、正面の優雅さとは違っている。170年も費やして建てられた巨大な聖堂だからか。
 帰国の前日にはパリにいると思うので、まずは最初の一歩で終り。最高裁判所前のコーヒー店のテラスで、通り過ぎる人々を眺める。フランスのカフェ‐オ‐レはおいしくない。公衆トイレがないので、地下にあるのを利用するのが「コーヒーで一服」の意味だろうか。アルザス地方に向けて出発する。
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france_3上=ノートルダム大聖堂(正面と裏側)  下=シャガールのステンドグラス(ランスの大聖堂)
france_4france_5左=フジタ礼拝堂  右=ミレ‐バジリカ聖堂
 ランス(アルザス地方)
 ランスは東駅より1時間40分。パリを一歩外へ出れば、農業大国だけあって豊かで広大な農地が広がり緑一色。コンパートメントの爽やかな青年がランスのホテル街へ案内してくれる。明日は何かの催し物の会議があるらしく、ホテルは満室が多く、結局は観光案内所の紹介で、小さく清潔なホテルへリュックを置いた。
 ヨーロッパの1階は日本の2階だから、5階となると6階までの階段の登りが辛い。安いホテルはエレベーターがない。でも、治安を考えて外のカギは暗証番号になっていて、泊ったお客さんだけに毎日変えて教えてくれる。
 この町にはゴシック建築の傑作といわれる大聖堂がある。素人がみても、左右対称で均衡のとれた堂々とした造り。外壁に施された見事な彫刻。思わずため息が出る。微笑をたたえた天使達。19歳で火刑されたジャンヌ‐ダルクの像にランスの人々の思いがある。聖堂の中に、シャガールのデザインによるステンドグラスが、例のシャガール‐ブルーに彩られている。不思議な色彩でとても魅せられる。
 歴代の王は、必ずこのランスで戴冠式を行なうとされていた。格式ある大聖堂は、旧市街の一番の見どころ。近くに劇場や裁判所がある。トー宮殿は、大聖堂の中の装飾品や宝物を所狭しと陳列している。見学料を取るわりにはたいしたことがない。
 ホテル近くのセント‐アンドリュー教会は、外見は迫力あるのに中身は空っぽ。遠くにある藤田嗣治の眠るフジタ礼拝堂まで歩いていったが、休みだったのが残念。あの方の絵は魅力的。礼拝堂の中のフレスコ画に会いたかったのに。
 ゆっくり寛げる宿。窓を開ければ近くの人々の生活の一部が見られる。この町は整然として緑が多く静か。気持のよい町です。
 次の町、ナンシーへ行くには列車が昼からしかないので、次の日の午前中にもう一つの聖堂=ミレ‐バジリカに行こう。バスで行き方を教わるが、フランスはコインロッカーがない。治安の点で設置されていない。重いリュックを担いでバスに乗る。1000年以上のバジリカ聖堂。ゴシックとロマネスク様式がミックスされた珍しい造り。ラベンダーの花がいっぱい咲き乱れ、内部の大きさも見応えがある。駅への帰路、バスの中に突然数人の運転手が乗り込んでくる。チケットの検閲、バス停でないところだからびっくりする。窓から私たちが見えたのかもしれない。不法乗車などするはずがないのに悔しい。
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france_8上=ネプチェーンの門(ロココ調)  下=クラップ門
 ナンシー(アルザス地方)
 森林の中を列車は進む。乗客は少ない。国鉄だから、これでなんとか採算が合っているのだろうが、シニアーは25%ほどまけてもらえ、2人以上同じ行き先ならグループにも割引がある。列車のクッションの堅さがちょうどよい。ポリスが多く、行ったり来たりしている。やはり、フランスの抱える治安の陰の部分に問題があるようだ。車窓の左右はブドウ畑が多く、駅名まで「シャンパン」と付けられた土地もある。シャンパンは三種類の別々のブドウから造られているとか。まだブドウは幼く、やっと葉が出てきて風に揺られている。キラキラ光り輝く丘がどこまでも続いている。麦畑とブドウ畑に、ときおり白い肉牛(品種改良で真っ白い)達の放牧とシャンパンの工場も。
 ナンシー駅よりスタニスラス門を通り、観光案内所でホテルを紹介してくださいと頼むと、リストを渡して自分でしなさいと。他都市では紹介していただいたのに不親切だと嘆くと、上司が「ここには、そんなルールはない」と。金沢市と姉妹都市という宣伝ポスターを掲げているのに、こんな不親切なところはないとブツブツ文句をいう小母さん達。それならば、自分達で探して便利なホテルにリュックを置き、「さぁ、観光だ!」
 ナンシーの町はアール‐ヌーボー調のものが生まれた地。スタニスラ広場には、黒と金で華やかに装飾された豪華な門扉が東西南北にある。ロココ調の貴族好みのものもあり、カリエール広場もご丁寧な門に囲まれている。宮殿・博物館・劇場・など、巨大な建築物が旧市街まで続き、その付近は昔のままの雰囲気を持ち、小さな店もクラシック調に優雅に飾ることが好きらしい。クラップ門まで続く。自分の好みではないが、中世のフランス人達は何とのんびりしていたのだろうと、感心ばかりする。
 今夜のホテルは屋根裏部屋なので窓が天井にある。明かり取りになっていて、これもまたよく考えているなと思う。ホテルでも朝食付きはあるが、実にシンプルなもの。コーヒーか紅茶とパン数片。そして、ヨーグルトかジュース。でも、フランスパンはおいしい。
 次の日は、朝少し雨が降っていた。人々の服装を見ているとおもしろい。オーバーやジャンバーを着ている人た、半袖の人々もいる。朝夕と昼の温度差は15℃位かしら。だから、個人差があるのだろう。私たちはマルシェ(市場)へ行く。自分の一番好きな場所。何よりも庶民の胃袋を支える味覚収集場。活気に満ちている。魚も肉も野菜も、その飾り方が実に美しい。並べ方がやはりプロだな。なにもかも新鮮でおいしく見える。日本の市場の方々は、フランスのマルシェに学ぶことが多いのでは。
 ナンシー美術館が10時にオープンなので、それに合わせて入る。藤田嗣治・ゴッホ・ピカソ・モネ・マネ、多くの著名な画家の絵画を展示している。
 駅に向かう途中、町のいたるところにロココ調とアール‐ヌーボー調の建築様式が散らばり、見物には困らない。外から一見してわかるし、市の規制もあって観光にもっていっているのでしょう。でも、たぶん内部はすっかり現代風に改造しているだろう。
 フランスはユーロ高。日本円が弱いことで、観光客には痛いことだ。政府には恩恵があるのでしょう。駅を新築したり、道路工事をよく見る。私たちには、駅舎がわからず迷ったり困ることが多い。
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france_7上=大聖堂からのストラスブール市内  下=ストラスブールの町並み
 ストラスブール(アルザス地方)
 もっとドイツ寄りの土地。町の名前からしてドイツ的。ストラスブルグなのだろう。国境が近いということは交通の要であり、フランスとドイツの抗争で明け暮れた年月を経ている。ストラスブールは大きな都会。ここも駅の新築工事で、前にあるはずのバス停がない。
 ユースホテル行のバスを探していると、問いかけた人が親切にも車で送ってくださる。ユースは、昔と違い近ごろはホテルのようになり、部屋もシングル・ツインがある。私たちが泊ったユースは少し古いが、安宿よりずっと管理や設備がしっかりしていて安心できる。今日は旧市街を観光しよう。カテドラルに向かう内部を見学して、連泊するので案内所でストラスブールパスを買う。このパスには多くのメリットがあるらしい。
 イル川の船着場には、近くの農家が持ち寄ったマルシェが開かれている。新鮮な食材は、早朝のみ曜日を決めて売っている。運河巡りの遊覧船に乗り、町を取り囲んでいるので涼しい風に吹かれ、名所を廻ってくれるので楽チン観光。イヤホーンが付いているが、壊れていて聞こえない。国境が近いので、ドイツ語訛のフランス語が飛び交う。イル川の本流が分かれている地帯をプティト‐フランス。白壁に黒い木組のドイツ風住居がひしめいている。出窓には、美しい季節の花々が競うように咲いている。建物のある土地に対して固定資産税がかかり、宙ぶらりんのハンギングしている部分(大きな出窓)は無税だったので、こうした型の建物が多い。庶民には、なんとか税金を逃れたいという共通の考えがあったのでしょう。
 私たちは、意を決して大聖堂の塔に登る。辛い階段だったが、頑張っただけのことはある。360度のストラスブールが見渡される。聖堂内の大時計は、12時30分になると仕掛人形が時計の中から出てくるという。時間待ちしたが、見るほどのことなくたいしたものではない。
 グーテンベルグが印刷機を発明したという広場に、その名残りの像があった。
 新築した近代美術館にも足を運ぶが、あまりにも広すぎて戸惑うばかりだった。そこのレストランで、おいしいシャーベットで一休み。堤防に沿って、この町の景色を眺めながらの散策道は楽しい。
 表に小さな看板。何かのレストランだろうと思っていたところがアルザス博物館。中庭を囲んだ民家の4階まで続き、この地方の伝統的なものを展示し、昔懐かしい温かいものを感じた。実際に住んでいたそのままを惜しみなく見せてくれる。近代的に建築したものでなく、昔の民家を利用したのは気持よいもの。
 クグロフ(パンに似た焼き菓子)がこの地方の名物らしいので、いただいてみたが失敗しました。少しもおいしくなかった。フランスへ来てトマトだけは失敗しない。どこでも、日本のものより肉が厚くとてもおいしい。フランスパンとトマトは、私たちの食事の定番になった。
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france_12上=プフィスタの家  下=「小ヴェニス」といわれるコルマール
 コルマール(アルザス地方)
 コルマールはアルザスワインの中心地らしい。駅の案内所へ行き、「ローカル列車でゆっくり走り、気の向いたところで下車し観光したいが、そんな列車かバスはないでしょうか」と探してもらう。しかし、自家用車でないと無理らしい。仕方なく、直通でコルマール。
 ホテルはすぐ見つかり、今回は近代的な新築ホテル。この町は、ライン川の上流にありスイスのバーゼルに近い。古き名残りの木骨組の家並が、大戦の戦禍を免れて残っている。石畳の道もずっと続き、すり減ってツルツルになっている。その上をコツコツと歩くのは気持が弾む。
 旧市街は、中世からルネサンス期のものが多く残っている。お伽の国に舞い降りたように、絵に描かれた風景のように美しい。看板ひとつにも凝ったデザインが見てとれる。人の顔が正面の壁一面に張り付けられた頭の家。出窓と塔がその当時のままのプフィスタの家。サン‐マルタン教会の屋根の上にコウノトリの巣があるそうだが見えない。この町のメインはウンターリンデン美術館の祭壇画。その絵を目的に、多くの観光客が次々と訪れている。私たちも、キリスト磔の場面の絵を厳かに心して観賞しました。小ヴェニスと呼ばれる散歩道が、この町での一番の贈り物。各家のツタの絡まる壁、花いっぱいの出窓、木骨組、運河沿いの景色。このような夢のような町が存在している不思議さを強く感じた。ドイツのお年寄りのツアーのようなお客様が多い。
france_14シデタルよりブザンソンの町
 ブザンソン(フランシュ‐コンテ地方)
 列車は乗り心地よく快適な旅。緑の平野は麦畑が続き、あのおいしいバゲット(フランスパン)になるのだろう。ワインのブドウ棚、ジャガイモ、トウモロコシ、白い肉牛の放牧。広い野原でのびのび育っている。次に訪れるのは、どんなところだろうか。
 ブザンソンは城砦(シデタル)の町。ビクトル‐ユーゴの生誕地。9月の音楽祭は世界的に有名らしい。駅から旧市街への道は階段をどんどん下っていく。ドウー川まで下る。紹介された宿は飲み屋さん経営の暗い部屋。女主人は酒で喉を焼かれたのかガラガラ声。でも、こんな宿は今までにないこと。おもしろいかも。
 宿を聞いた若い方が珍しく日本人。娘に似た人で、すぐに親近感を覚える。その人も、久しぶりの日本人に会ったという気持。暇の時間が少しあり、通学している学生食堂でお昼を一緒にして、この町のことを詳しく説明してくださる。この町のメインはシタデルに登り、大聖堂と城の中の見物という。よき人との出会いも、また楽しい思い出のひとつ。日本から持ってきた佃煮やお菓子をさしあげたので、懐かしがってとても喜んでくれた。
 さぁ、それならと二人は登りましょう。ドウ川を見下ろして、中世のどっしりとした不気味さを持つノワール門をくぐると、サン‐ジャン大聖堂で一息入れて、暑いけどしっかり頑張って登っていく。城の中は大きな公園になっていて、博物館・水族館・民族博物館、城砦を巡れば見晴しの塔があり、背後にはコンテ山……。この小さな町の全景を隈なく見せてくれる。中世よりそのままじっとしている、歴史の流れに逆らわず耐えてきたような町。この城の城壁を利用して動物園があり、多くの珍しい動物を自然にあるがままの姿で飼育している。動物に対して、やさしい気持を感ずる。  学生食堂でのリンゴのプリンがおいしかった。なんとか工夫すれば、家庭でもできないかなと思うが……。
france_15ノートルダム‐バジリカ聖堂
 リヨン(ローヌ‐アルプ地方)
 ブザンソンからアヌシー湖に行きたいが、なかなか難しい。リヨンに行かねばアヌシーに行く方法がないとか。リヨンは大都会で、二つの駅があるのに駅名も確かめずに地図だけを頭に入れて歩き始めたら、とんでもない誤りをした。ベルクール広場に向かっているはずなのに着かない。1時間ほど損をしたが、何人かの人に聞いてやっと広場の案内所にたどり着く。若い案内所の職員が、ユースまでの登りが大変だから登山電車を使いなさいと教えてくれる。私たちはそれに応じて、これも大失敗した。フルベールの丘より、またバスで遠回りして下りなければならず、後で思えばサン‐ジャン大司教教会より登れば10分ほどのところ。どうして、これくらいの登りを若者は大層に思うのかしら。でも、山の中腹にあるユースホテルはロケーション抜群。安いし朝食付き、言うことなし。
 私たちはゆっくり休憩をとり、バジリカ教会をめざしてフルヴェールの丘を登る。旧市街の中心のベルクール広場より、屋根の上に金のマリヤ様が聳えた教会が見えて、美しいなぁと仰ぎ見ていたのがこのバジリカ聖堂。内部はまるで彫刻と絵画に埋まりそうな美術の殿堂。黒いマリヤ様も御座します。遠くより賛美歌が静かに聞こえるバックボーン‐ミュージック。厳かで重厚な雰囲気を十分に備え、人々は祈り何かを考えている様子は、いつもホッとするものを感じる。
 フルヴェールの丘より新旧市街が一望のもと、美しい景色が広がる。うっとりと、このひとときを生きていることに感謝する。ローマ劇場や博物館があり、歴史的にイタリアの影響の濃い建造物が旧市街には沢山残っている。丘を下り、植物園のような通りをおもしろいので降りていくと、サクランボがたわわに実って真っ赤に熟している。手の届くところのものをいただいてみるが甘くない。酸っぱいサクランボなので、なるほど鳥も食べないのだ。
france_16france_17左=サンテグジュペリの像  右=ぺルージュ
france_19ぺルージュの家
 リヨンから日帰りのペルージュ
 朝食を終えて、散策も兼ねての観光。サン‐ジャン大司教教会とサン‐ポール教会の間に、トラブールといって絹製品の産業で財を成した頃の面影が残っている。路地と路地の間を抜ける小道に、絹製品を雨に濡らさぬよう造られた屋根付きのトンネルがある。井戸の中心に植木等で飾り、パティオのように天井を吹き抜けにしてあっておもしろい。
 今日はバスで近郊の小さな町ペルージュへ行こう。やっと多くの地元の人達に聞いてバス停をつきとめた。ドライバーは親切に、帰りの便の時間と場所まで教えてくれる。小山に向かって歩き、外壁に囲まれた楕円形の町。教会が見える。やはり、ここも石畳が続く。中世そのままの雰囲気が残る町。保存に力を入れて町おこし。やっと観光に向かい、かつて去った人々も帰ってきて、レストランやホテル経営に精出している。
 中心は古い教会で、今は菩提樹の白い花が見事に咲き誇る広場。どの道を通っても迷子にならないくらい小さな町。のんびりとした中世そのものの面影が残る印象的な町だった。
 列車は平野や農地の中を直線的に走る。だが、バス路線は途中にある町のお客さんを拾っていかねばならないので、人々の暮らしぶりが見える近くまでよってくれる。どんな田舎でも、なんとなくスマートで清潔な印象を受ける。
 ベルクール広場で、「星の王子様」の作家=サンテグジュペリの像があると聞き、地図上でここだと決めたところを探しても見当たらない。リヨンの人に聞くと空を指し示す。頭の上の高いところに坐っている像を発見し大笑い。私たちは目線ばかりを追っていたうっかり者でした。
 夜、いくら明るくても出歩くのを好まないので、結局はスーパーでテイク‐アウトしたり、熱湯を注いでの日本食となるが、確かにフランスで作るいろんな形のパンは、麦の種類なのかおいしい。
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rance_22上=「幸い」が訪れるというフクロウ  中=ディジョン  下=ディジョンのマルシェ
 ディジョン(ブルゴーニュ地方)
 パリまでの帰路、どこに行くかを相談したが、結局ディジョンとなる。エスカルゴ・ワイン・マスタードの本場、美食の地という。新しいピカピカの列車にて、かつてブルゴーニュ公国の首都だった地を訪れる。
 ダルシ広場で地図を求め、宿の紹介を受ける。案内書には、この町のシンボル(フクロウ)のマークと地図に番号があり、しっかり説明もしてあって親切である。この町が華やかなりし頃には、宮殿で宴会を開き、その美食家として派手好きのフィリップ善良公として慕われていた。
 ギョーム門より入れば、大きな旗を両側に飾った繁華街のリベルテ通り。そこを進めば大きく突き出た塔を従えた大公宮殿がある。その真ん前にリベラシオン広場があり、広く白いタイル張りになっているのは地面より直接に噴水が一直線に出てくる。道路にも矢印と番号があり、フクロウに従って歩けばよい。ノートルダム教会のステンドグラスは落ち着いた色彩。ゴシック様式で聳え立つ大きな塔。ここの雨樋もユーモラスな形だった。
 シュエット通りの小さなフクロウの彫刻は、左手で触れば「幸い」が訪れるという。私自身はこうして旅ができる境遇にある。これ以上のことはないので、ただ感謝あるのみです。フォルジェ通りは由緒ある旧家が建ち並び、それぞれがよき時代の名残りの建築物であったり、芸術的なものが屋根の上にあったり、壁の彫刻だったりで、散歩しながらその景観を楽しむ。泊った宿も古い木造建築。歩けばギシリと音はするが、清潔にしてもらって嬉しい限り。明日ももう一泊して、残りの番号の観光をしようということになった。
 翌日、私たちはマルシェに行く。ここの巨大なマルシェは、主婦の最大の喜び。美しく飾られた食品にうっとり。チーズ・肉・野菜、スパイス屋さんの種類の多さには驚くばかり。ここに住む人々は輸入モノはなく、近郊でとれたものだけを扱っている。こんなに新しい食材なら、どんなにかおいしいものも作れるだろう。
 市庁舎(Hotel de ville――どうしてHotelなのかわからない)の半分は美術館になっていて、中世から近代までの有名な数多くの絵画を見ることができる。だが、あまりにも広すぎて贅沢なことに歩き疲れた。裁判所の建物を昨日は探しあぐねたが、今日はすぐ見つかった。ぺニーニュ大聖堂のクリプト(地下祭室)は訪れる人が少ないのかひっそりしている。1000年前からここに存在したという。カビ臭いが奥深く精巧に作られているのに感心する。
 世界の美食の地と知られるこのディジョンで、レストランに一度も入らないのは失礼かもと思って、お客さんが沢山で給仕さんが威勢のよいレストランに入り、お昼の簡単なセットメニューを注文する。今日の定食はサーモンの薄切りをサラダの上へ載せて、おいしいドレッシングと一緒に出てくる。その盛り方とお皿がユニークでセンスがよい。このレストランで食事をしているのはサラリーマンなのだろうか。ワインをボトル(白が多い)で注文し、楽しそうに長い時間をかけて食事をしている。朝がシンプルなだけに、お昼はそれだけ豪華なのかしら。日本人の食事方法とその時間の差は、習慣の違いといわれればそれまでのことだが、こんなに長時間の昼休みでよいのかな。細い路地に入れば、どうしてこんなところにと思う場所に高級そうなレストランがある。地元の人々だけが知るおいしい店なのだろう。マカロンという名菓があり、いただいてみたものの、やはり私たちには和菓子で日本茶が好みのようだった。
france_24コンコルド広場の噴水
 パリ
 フランスで一番安いと思ったのは交通費。それ以外のものは何でも日本より高い気がする。列車の運賃も時間帯があり、安くあげるにはそれなりのハンディもある。近頃は中国や台湾の人々のツアーが激増している。彼らは塊になり、大きな声で話してとっても喧しい。態度が横柄で、荷物を座席に置いて座るところが狭くなっても平気な様子。ヨーロッパの人々は嫌な思いをしているのではないかな。
 東駅の宿に荷物を置くと、今日はルーブル美術館だけでもと思う。チケットを買うにも行列で、以前訪れた時よりも近代的な建物に改築されている。モナ‐リザやミロのヴィーナスの前は相変わらず人だかり。世界中の人々がここぞと押し寄せてくる美術館だから無理もないこと。今回はナポレオン1世の戴冠式の絵、マグダレのマリヤの立像が強く印象に残った。年とともに、自分の生きてきた年齢に応じて、観たあとの思い出を強くするものが違ってくる。ゆっくり観るとすれば、何日でもここへ通う人もいるでしょう。
 パリ市内はメトロがとっても便利。行き先の終点だけを確認すれば、何度乗り換えても間違いなく着けるし、一枚で済む。たいへん有難い乗物である。でも、物価高には驚く。円が安くなっているからとはいえ、パリ庶民の生活は楽ではないと思うが、市民に聞いてみたい気がする。
 次の日は駅近くのサン‐カンタン市場に行く。ここも、おいしく見えるよう上手にレイアウト。この技術だけはたいした技である。北駅より、まず凱旋門。ここも中国のツアー客が多い。シャルル‐ドゴール広場を横切るのは大変だったが、地下道を見つける。ナポレオンが希望した世界一の門は、華やかに堂々として見える。気持ちよくシャンゼリゼ通りと洒落るが、若き頃ヒールを履いて通った想い出と共に、広い通りには大きなビルやホテルがびっしりと建ち並ぶ様は何故か空しい。
 昨日は、フランスの優勝チームを決定するサッカーがあったらしく、まだ観客の興奮はさめやらず、ピンクの旗を持った人々が車の中から警笛を鳴らす。どこに行くのか、私たちと反対の方向に行く。凱旋門なのかしら。コンコルド広場からエッフェル塔を見上げ、オペラ‐ガルニエやマドレーヌ教会へと歩いて行けば、ギリシャ神殿の形をしたこの教会前で各地の葡萄酒祭が催され、ご馳走にあずかる。セーヌ川の歩道を抜けて、オルセー美術館へ。有名な絵画ばかり選んだ珠玉の名作ばかり。手で触れられるほどの近さで観賞させてくれる。巨大な美術館は、時間がいくらあっても足らない。私たちは足を棒にして見て歩いた。
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ルガリアの旅  〔2006.5.14〜5.30〕
 新緑の候、四度目のブルガリアへ。首都ソフィアにいる友人を訪ねて旧友とその友三人で計画する。直通はなく、ミラノを経てソフィアに着く。空港では輝く笑顔のヴォーリアさんに思わず涙がこみあげてきた。互いに何もいわなくても、心通じ信じられる人との久方ぶりの出会いに熱き血潮を感ずる。
 外務省のネットの注意に、個人宅に泊る折には最寄りの警察に申告が必要とある。出国時の難癖を避けるためにも、それだけは先に済ませた。ヴォーリアさん宅は、以前住んだアパートの近くに新築マンションを2年前に買って、今はそちらが本宅になっている。私たちは前のアパートを使わせていただく。冷蔵庫を食品満杯にしてもらい、バス・トイレ・台所・2寝室すべて清潔に保たれた心づくしの住居。予定を変更し、他の国に出国せず、ソフィアを中心に小旅行を繰り返すことにする。
 到着したその日は、彼女の心づくしの夕食に招かれる。ブルガリアのサラダの代表=チョプスカ‐サラダ(白い豆腐のようなチーズが必ず入っている)、ジャガイモのオーブン蒸し、豚ヒレの煮浸し、サクランボのデザート、ワイン・ビール付き。彼女のウェルカムの心を感じる。
 ソフィア市内観光
bulgaria_1聖ニコライ‐ロシア教会
 ソフィア大学までバスで。チケットは5枚セットになっていて番号順に使う。乗ってすぐに刻印機でパッチンと穴を開ける。穴が開かなくとも一回だけ(以前、穴が開かなかったのでもう一度したら、抜き打ち検査で二回使ったといわれひどい目にあった)。ソフィアの中心に大学はあるので、次々と観光はできる。アレクサンダル‐ネフスキー寺院、聖ソフィア教会、ゲオルキ教会、聖ペトカ地下教会、セルディカの遺跡、聖ニコライ‐ロシア教会。何度も訪れているので、思い出しながら歩いた。帰りに、主婦好みのセントラル‐ハリ(市場)へ。自分にはたまらなく楽しいひととき、ブランド物のショッピングよりずっと似合っている。

 メルニックに旅行
bulgaria_2リラの僧院
 毎朝の散歩で、ソフィア郊外のヴィトシャ山を拝む。尾根沿いにまだ残雪がしっかりとある。水道水は飲料可らしいが、私たちは煮沸してお茶をいただいた。ヴォーリアさんが車を用意してくださり、私たちをメルニックまで一緒しましょうと。遠慮するのも失礼だし、こころよく承諾した。とても乗り物は不便なところだった。何度訪れても、その度に感動するリラの僧院である。
 ソフィアから南へピリン山系のリラ山中、やわらかい出来たての緑の森林の奥深くをぐんぐんと車は進む。太陽の反射でキラキラ光り輝く緑のなかを走る。ソフィアより3時間、突如としてブルガリア正教の総本山が。黒と白の横縞柄の四階建ての大きな建物、教会や博物館、修道院に分かれているが、まず目を引き付けられるのは聖母誕生教会。内部も外壁もびっしり描かれたフレスコ画のすばらしさ。聖書の文字が読めない人びとにも、その内容を表わした様子がうかがえる。オスマン朝時代にも、こんな山奥にあるがゆえにキリスト教の信仰も書物を読むことも黙認された隠れ里。自ら望んで隠遁生活する沢山の僧が僧院の文化を持っていたらしい。黒ずくめの長い裾ひくコートのような服装で歩いている僧は、涼やかな表情をしている。近くのレストランでマス料理をいただくが、黄色チーズの天ぷらが一番おいしかった。

 メルニック
 サンダンスキを経由してメルニック村に着く。ここでヴォーリアさんと別れ、私たちは土産物屋さんの二階に宿を決めて観光へ。本当に小さな村で、迷子になるのも難しいぐらい。以前の田舎の風情は薄れ、ギリシャ国境が近いので週末にはツアーのお客様でいっぱいとなる。道も舗装が多く、普通の家も次々と改装して民宿や土産物屋になったり、大きなホテルが何軒も建築中。観光化が進んでいる。19世紀の裕福な商人の家=コルドプロフ‐ハウスが博物館になっている。ヴェネツィアからのステンドグラスが印象的。地下のワイン倉庫が、隠れ家のようにくねくねと大きな迷路となっている。小学生が見学に来て遊びまわっている。ワインをテストしたが、あまり好みではない。オスマン朝の浴場跡が残っている。歴史は古く、トラキア時代から続くこの村はだんだん俗化されてしまうのが残念だ。

 ロージェン修道院
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bulgaria_4上=ロージェン修道院  下=僧の住居(ロージェン修道院)
 朝の散歩は、その地の素顔を垣間見ることができる。静かで人々はまだ睡眠中でも、時折早起きの人にも会える。朝露に濡れた名も知らぬ草花は生き生きして美しい。犬や猫にも合える。今朝は小高い丘へと歩く。牧草地に馬の親子が戯れている。いずれ別れの運命が来るのを彼らは知らない。今が二頭にとって一番幸せな時。「美味しそうな草を沢山食べてね」――心のなかで叫んだ。
 昨日約束していたドライバーさんがやって来た。ロージェン修道院までバスはあるが、何時に出発かわからない。歩きで2時間とか。相棒さんには無理と判断して頼んでいた。うす緑の若葉の森林のなかの一本道。下草は、紫・白・ピンクの花々がいっぱい。小さなロージェン村には数軒の人家が坂道の手前にあった。ロージェン僧院は広い丘にあり、門の前によく手入れされた花壇がある。色とりどりのバラが咲き乱れ、チェリーが赤くなっている。
 オスマン朝からの唯一の木造建築物は痛んでいるが、かつて僧たちが住んだ修道院はかろうじて保存されている。中庭の聖堂は暗く、ローソクの光のなかで一人の僧が朝の祈りを脇目もふらずに淡々とこなしている様子。俗世を捨てた彼は、いま何を考えているのだろう。まだ若い人らしく真っ黒い髪を後ろに丸く束ねて、長く伸ばしたヒゲ、長身の彼は私たちには一瞥もしない。礼拝堂のくすんだイコンの絵は、ローソクのためか古い故か、その黄金の色彩がキラキラ輝く美しさより荘厳さがあり好ましい。一瞬だが、清々しい気持ちになるのは不思議だ。山の中にポツンとあるこの修道院は、リラの僧院ほど巨大でもなく好みのものである。見晴しはよく、メルニックの町が見下ろされる。

 サンダンスキ
 遠くにピリン山系の山なみがあり、前には田園が広がる。この国は典型的な農業国。この季節は、麦はまだ若くブドウも小さい。紫と白い花の咲くジャガイモ畑が続く。時折、旧ソ連時代の遺物である巨大な工場跡か、赤茶けた鉄の錆が目立つ。ホルスタイン種の乳牛、肉牛、羊や馬の放牧地もある。
 サンダンスキは温泉地。冬も温暖なので昔から温泉療養地として栄えてきたが、ブルガリア人はその習慣がなかったのかフロ好きのトルコ人の支配(オスマン朝時代)になって盛んになったらしい。
 私たちはバスの時間に合わせて観光をする。近くの市場見物、庶民は何をいただいているのだろう。興味津々で、すぐに張り切ってしまう。家庭の主婦が作った手芸品やハチミツ・チーズなども売っている。ピーマンが赤く大きい。ズッキーニも美味しそう。パンを焼いて売っている店で、白いチーズ入りのバーニツァの焼きたては、これ以上のものはないくらい美味しい。

 ボヤナ教会
bulgaria_5ボヤナ教会内部のフレスコ画(ユネスコの遺産)
 二日の旅を終えてソフィアに帰り、次の日にヴィトシャ山麓のボヤナ教会を訪ねようと向かう。バスの乗り換えや迷ったりして、やっとその教会にたどり着く。ヴィトシャ山周辺は緑化地帯に指定され、なんらかの法的規制があるらしい。国立歴史博物館の巨大な建物があり、元は迎賓館だったようだ。現在この内部の財宝は、西のパルナ博物館に移ったようなので入場しない。  ボヤナ教会に入ると、鬱蒼とした森林、大木の杉に囲まれて清楚なスズランが満開。大きなシダ類も目立ち、植物園を思わせる。以前は雨の日に車で来たので記憶が薄い。入場券はここの物価と比べて高い。守人が付いてくる。内部は一人20分間とか説明されても理解できないブルガリア語。1200年に建築されたものがそのまま残っているとは驚き。フレスコ画は世界的にみてみごとらしく、ユネスコの遺産だ。「最後の晩餐」の一人ひとりの動きと表情がすばらしい。顔料はすべて植物からのもの。13世紀と19世紀に増築を重ねたようだが、フレスコ画を描いた画家の独自性が認められる。壁に近づきすぎ、触れてはいないのに息がかかると注意される。確かに貴重なものでした。
 帰り道、教会の周辺は広い庭を持つ御屋敷が多く、前庭のガーデニングの見物も楽しい。果物の木々も沢山植えられ、とくにサクランボが多い。今年はこちらも異常気象で春が遅い。各家庭で果物が実るとは、なつかしい故郷の風景を思い出す。
 以前、北欧でもあったが、今頃の季節はソフィア市内に白い綿毛がフワフワと空中を飛び交う。ヴォーリアさんの説明では「あの木はポプラ」だという。ポプラはヤナギ科に属し、北半球に多く見られ、種類も多いらしい。あの小片の綿は種子とか。ずっと以前に、政府の役人が何の調べもなしにポプラを植えたので、近頃になってアレルギーを引き起こしているらしい。時折、根元からバッサリ伐られているポプラは悪い方の種類だとわかる。やっと、これで疑問が解けてスーッと気持が楽になる。
 帰宅して、ミシュマッシュ(ハム・トマト・タマネギ・チーズ)を卵で和えて焼くブルガリアの家庭料理を作り、デザートにサクランボ。レストランの食事より、こうしてのんびりといただける喜びを味わう。

 お食事会
 ヴォーリアさんのご主人が、昨夜遅くにギリシャのテッサロキニより帰宅したらしい。久しぶりの再会。わざわざ今日のお昼に、ヴォーリアさんの妹さん宅へ誘ってくださる。ブルガリアでは、お互い家庭に招いて、家族や友人同士が食事会をしてコミュニケーションをとっている。妹さん宅は、ヴィトシャ山に近い郊外に近頃新築したらしい。二階建ての大きな建物で、敷地が150坪ほど。芝生が美しい。数多くの若木が植えられている。大きな4WDのバンが車庫に停まっていた。この付近は雪が多いそうだ。
 妹さんは外交官の奥さんだったが、一人息子を連れて離婚。もう一度結婚したものの、相手の連れ子と自分の子供がうまくいかずに別れ、今は特許事務所を経営しているそう。女性が離婚すること、まして子供を一人で育てることは並み大抵のことではない。覚悟していたであろうが、自分にも自信があってしっかりしていたからできたのだろう。結婚するより離婚の方がもっと大変だと思う。ヴォーリアさんは女性らしく、優しさを身体全体に持って生まれた方なのに、妹さんは男性的で骨格も堂々とした大きな方。声もしゃがれていてヘビースモーカー。二人のお母さまも可愛い人。いつかお母さまの家でご馳走になったので、よく覚えている。
 お昼なのにフルコース。魚と野菜中心のメイン。手づくりのサルミ(ブドウの葉の中にミンチと米を包んでオーブンで焼いたもの)はおいしい。心からのもてなしは感謝にたえない。
 そしてまた、夕食はヴォーリアさんの友人とご主人から、近くにあるブルガリアの郷土料理にお招きを受ける。ヨーロッパの夕食は遅くからが常。9時ごろからこのレストランにも続々人が集まってくる。最初はビールやワイン。ヴォーリアさん達はラキア。みな大声で笑い語らい、この時とばかりにドレスアップしている。流しの楽団師も各テーブルを廻る。私には酒は無縁のもの、飲んだ上での話も好きでない変わり者なので、席にいるだけで頭がガンガンして食欲は全くなし。おつきあいと思って我慢するが、幼き日のトラウマなのか、早く帰って明日からの四日ほどの旅の準備をしたいと思うばかり。

 ヴェルコ‐タルノボ
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上=ヴェルコ‐タルノボの旧市街(ツァレヴェッツの丘より)  下=大主教区教会(元宮殿)

 今は高校の卒業時らしい。彼らは車の窓に座ったり身を乗り出して、風船を沢山つけて酒を片手に運転し、女の子はモデルまがいのコスチュームでクラクションを鳴らし、夜遅くまで騒いでいた。
中央駅のバスターミナルは新築され国際的になった。ソフィアから東に向かう。少し行けばすぐに田舎の田園風景が広がり、豊かな自然は何と気持のよいこと。今日は、日本の相撲界では美男で人気の琴欧州の出身地へ向かう。バスを降りての客引きは、本に載っていたプライベートルームのオーナーだったので信用した。元ダンサーだけあり身体はスマート。ちょっとステップを踏んでクルリと回ってくれる様は、なるほど本人だ。ヤントラ川の蛇行の流れがよく見える最高のロケーション。対岸の真ん前に博物館あり。川面は、昨夜バルカン山脈に降った雨で濁っている。
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ヴェルコ‐タルノボの遠景を描いた画(ツァレヴェッツの丘へ登る前に年老いた人から買った)

 まず、ツァレヴェッツの丘に建つ元宮殿を見物に行く。今は頂上に教会がある。オスマン‐トルコに滅ぼされ、教会となったその内部の壁画はびっくりするような暗い画。社会主義的な意味がある独特の大画面だった。瓦礫の山となった宮殿は、塀の跡や塔が残っている。旧市街のパノラマを見る。聖ニコラ教会やタルノボ美術館を見学する。

 アルバナシ
 ペルノ‐タルノヴォの近郊に、オスマン朝時代には税制の特別待遇を受けた豪商が立派な屋敷を構えていたらしい。現在も幾つか残り、公開したりホテルやレストラン・土産物屋になって経営している。バスを待つ時間を惜しんでタクシーで行く。骨董品の店が点在する。大きな門構えに、色もベージュと茶に統一されている。
 ここで最も古い教会は、イスラム教のオスマン‐トルコ時代。遠慮がちにドーム型に建てられた聖誕教会は、外部からは想像できないユニークな内部。イコン画やフレスコ壁画は一般庶民も描かれていて美しさはピカイチ。観光客相手に、手づくりのものをにわか造りの台の上で売っている。やはり、いずこも現金収入が欲しいのでしょう。
 ヴェルコ‐タルノボでも、美味しいものに巡り会った。地元の美味しいものに会いたいと思い、「この付近でおいしい店はどこでしょうか?」と、通りがかりの犬を連れたり乳母車を押した方に聞く。ミシュマシュ・カバルマ・ギョヴェチェの三品をいただいてみるが、共に合格。家に帰って何とか工夫すれば、新しいレパートリーになるかも。料理をいただいた帰りに、手仕事の工房の町=チャルシャを訪ねる。昔から、金銀細工・木彫り・手芸品・革製品などを店の中で作っている。おもしろく、いつまでもじっと見ていたい。
 坂の多い美しい町。朝の散歩で歴史的なものにも出合う。ブルガリアの母の記念像は町の中心にあり、長い間の圧政に堪え、その支配に苦しみ、血を流して戦って勝ち得た独立は、この町の人々に多大な喜びを与えたことでしょう。戦いで亡くなった人々の慰霊碑が沢山ある。ヤントラ川の蛇行、四季の美しさに囲まれたタルノヴォは、愛すべき古都である。何度訪れてもまた来たいところだ。

 カザンラク
 この国は、ヨーグルトとカザンラクのバラの花を象徴としている。タルノヴォのザパット‐バスターミナルから緑の平原を走り、オスマン朝との戦をロシアと一緒に戦った激戦地=シブカ峠を越える。3時間かかってカザンラクに着く。
 世界の香水のバラ香料の八割を、ここカザンラクのものが占める。パリやロンドンに送られ、ブランド香水に変身してその名を変える。バラは、温暖で乾燥した気候が生育によいのだろう。観賞用の花と違い、薄いピンクの一重で、小ぶりで匂いは強い。ここも春は遅かった。まだ蕾が多く満開は2週間先とのこと。満開の花を期待していたのに残念です。
 ホテルは以前に泊ったことがある同じものだが、オーナーが換わり改装されて立派になった。バラ祭をあてこんでオープンしたのか、泊る客はまばら。女主人が特別にと勿体ぶって安くしたという2部屋をもらう。
 カザンラクは、これまでは静かでおっとりとしてバラの香がする谷に囲まれ、民族復興運動の起った町。昔風の風情はなくなり、道路も店も新しくなってしまった。バラ博物館の地下では、バラの香油を製造する過程を示している。セッケン・油・リキュール・ジャムなどを売ることに懸命な売り子さん達。民俗博物館では屋敷内を見物させてくれる。トラキア人の墓は別室があり、空気を調節してフレスコ壁画を厳重に管理している。それにしても、管理人の叔母さんがあまりにやかましく話すので、思わず「静かに!」と言ってしまう。

 コプリフシティツァ
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上=コプリフシティツァ  下=のんびり旅の三人(コプリフシティツァ カブレシュコフ‐ハウスで)

 この地名は何度練習しても発音が難しく、書いて表わす以外にない。駅やバスターミナルで行き方を聞いても、少々時間のロスが多すぎる。三人はこんな時には車を雇う。国の真中を東西にバルカン山脈と鉄道の線路に平行して道路が続く。1時間40分で到着。今日の宿は昼でもチェックインできる宿。フランス語は話すが、他は駄目というオーナー夫婦。たぶんリタイヤ組さんだろう。手真似足真似、想像を逞しくしての会話は、それでも何とかなるもの。奥さんはいつも花壇の手入れ、気持の優しい人。花が本当に好きなのだ。そっと握手した時の分厚いしっかりした手は、大地を相手に生活している人。一つの家庭で清掃や料理を普通にする人なら、爪を伸ばしマニキュアができるはずはない。私にマロニエの花を切ってくださる。よい薫りだな。フランス語ができたら、もっと意志が通じるのに、もう遅すぎる、残念です。
 この村も豪商の邸宅が残されていて、それを保存し観光へと持っていった。観光のメインとして「美術館都市」として明言したのがここだった。小さな村だが、小川を中心に両サイドへ広がり、馬車が行き交う長閑さ。石畳を馬車のひずめのパカパカという音は、野良仕事に出かけたり畑仕事を終えた一家が家路に着くしるし。日焼けした笑顔は幸せな証拠。故郷で経験したそのままがこの地にあった。なんと平和でのどかな様子。50年前へタイムスリップしたように、懐かしくって感動する。
 今日も暑い日差しの中、私たちは由緒ある屋敷を次々と訪問した。

 ソフィアにて
 小さな旅を満喫してソフィアに帰る。その日はブルガリア国民の祭日だった。中心街をバトンガールやブラスバンドのパレードがあり、帰路に着く制服姿の高校生も。以前は民族服の老若男女が伝統の踊りをしたらしいが、昨今はアメリカの影響でパレードばかりとヴォーリアさんは嘆く。旅の疲れをとるため1日のんびりとする。明日から二日ほどプロヴティーヴからゴチコヴォ僧院の旅に出る予定。

 プロヴティーヴ
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左=伝統的な家屋のラマルティーヌ博物館  右=ローマの円形劇場跡

 中央バスターミナルよりプロヴティーヴへバスで行く。エアコン入りのデラックスバス。バルカンとロビト山脈にはさまれた平原は土地が豊か。第二の都市=プロヴティーヴは紀元前より始まり、歴史的にマケドニアやローマに支配され複雑なものを持つ。
 中央広場より観光は始まる。プロヴティーヴは、六つの丘という意味があるらしく丘陵地帯が多い。歩道は丸くなった石畳。地下にローマ競技場跡が残っているのに、修復工事がなされていない。坂を登ったり下ったりする。ローマの円形劇場跡は保存状態がよく、夏にはコンサート会場になる。隣に見晴らし場があり、この町の様子がよく見える。
 緑色の塔を持つコンスタンティン‐エレナ教会の内部は、イコン画と鳥や花の画が壁いっぱいに描かれている。この国は本当に花の好きな人たちが多い。どこにも、ごくあたりまえに花々が咲いている。真っ赤なバラの花の下に黒猫が眠っている。手を出せば甘えてくる可愛さ。思わず抱き上げてしまう。
 一般公開している民族復興期の屋敷は出窓に特徴があったり、曲線の塀やカーブした外壁に花のデザインをしたり、それぞれが博物館になっている。この町は昔より商業の中心だった土地柄、今も大きな国際見本市が開かれている。ローマに支配された痕跡が多く残り、近代的な建築物と一体となったおもしろい町。バスでゴチコヴォ村に行き泊る。

 ゴチコヴォ僧院
bulgaria_13ゴチコヴォ僧院
 この村はアセニッツァ川の対岸にある小さな村。各家庭の庭が広く、、今は夏野菜を育てていて手入れに忙しい。その周りに花や果物を植えている。道の真中に小さな教会がある。丘の方には養蜂の箱が幾つも置いてある。冬はたぶん雪が多そうだが、春から秋はとてもよいところのようだ。朝食に出された、卵とチーズをパイ生地で固めてオーブンで焼いたもの、名前は何というのか珍しい美味しさ。
自家製ヨーグルトも美味しい。この国では何にでもヨーグルトをかけていただく、一つのソースになっている感じもある。
 リラの僧院に次ぐこのゴチコヴォは、ロビド山脈の山中にあり、歴史は古く1083年に二人の僧によって始まった。全体の感じはリラによく似ているが、内部のフレスコ画はローソクの煙からなのか黒ずんでいる。ここもある時代には、反政府の者や芸術家の隠れ里になっていた。次々とツアーのお客さんが訪れて来る。僧院の前の道は、まるで門前町のように土産物屋が並んでいる。地元の住民だろう、ハチミツの瓶入りを沢山売っている。純粋なモノだろうが、重たくって買えない。

 ソフィアへ
 ここの生活にも慣れて、早朝の散歩は地理的にも納得いくようになる。この近くは5〜6階建のマンションが多く、それ以上の高さはない。庭は草がはえても誰も気にしていない。ブドウの古い木から窓伝いにツルが伸びている。下から3階までそれぞれ棚を作っているが、誰がどこを所有するのかな。野良犬がいて、いつも誰かを待っている。スーパーもあり、個人商店や野菜市場もある。大きなゴミ箱があって、朝の出勤時に小さなナイロン包でその中へ捨てる様子は同じだ。馬やロバに乗ったジプシー(ロマ人)が鉄のものを捜しゴミ箱の中を見ている。
 通い慣れたバスで、ソフィアの中心街=ネフスキー寺院の庭にある露店の骨董品屋さんを見て廻る。ツムデパートにも買いたいものはない。大統領府の衛兵の交替式をしばらく見ていた。近くにある考古学博物館を見学する。
 ヴォーリアさんのお母さんから昼食に招かれた。お隣のおばあちゃんもご一緒。六人での会食。チョプスカサラダ、魚の酢漬けやズッキーニの天ぷらはニンニク入りのヨーグルトにつけていただく。ポテトサラダ、大きなピーマンの中に肉のミンチがしっかり入ったものをオーブンで焼く。手づくりのケーキ、ブルガリアのハーブ茶で終了。
 今回ほど家庭的に暖かく迎えられたことはない。ブルガリアの人々が、こんなに優しく親切だとは思わなかった。改めてヴォーリアさんの人柄を尊敬する。

 帰国前日
 海外アート国立ギャラリーへ行く。各国からの基金で成り立っているそうだ。外観が白い宮殿のように立派。警備も厳しく、私たちが歩いてまわれば誰かが付いてくる。センサーがあるのに心配しすぎ。ここで広重・写楽などの浮世絵をじっくり観て歩いた。
 今回の旅は、一軒の家を貸してもらいそこから小さな旅をする。こんなことは今までになかった旅の形だが、ソフィアに帰ればヴォーリアさんがいると思うと、気持の上ではいつも安心があった。相棒さんお世話様でした。

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ネルックス(オランダ・ベルギー・ルクセンブルク)への旅  〔2005.9.15〜9.30〕
holland_1ベルギー・ブルージュ「愛の湖公園」とベギン会修道院
 フランス・ドイツを旅した際に、アムステルダムやブルッセルに何日か過ごしたことはあったが、この三国だけの旅は初めてだ。山の友と旧友との三婆による珍道中は、いかがな旅となるのか楽しみであった。
 アムステルダム
 機内の熟睡で、早朝に目が醒めたらアムステルダム。何だか一日得したみたい。オランダという国名は日本語で、本当はネーデルランド(低い土地)。別名ホーランドともダッチともいう。中学の英語の先生より、「ダッチ‐アカウント」とは割り勘のことと教わった。
 国民性は清教徒の博愛の精神に満ち、清貧を尊ぶ。自由と寛容を認めているらしい。自国をつくるのに、神より与えられた土地でなく、長年の水との闘いに苦労して、人間の英知を持続させた賜物である。
 アムステルダム中央駅は東京駅のモデル。振り返って仰ぎ見れば、赤レンガ造りの堂々としたもの。なるほど東京駅によく似ている。ネットで予約した駅前のレストラン兼ホテルに荷物を預け、3人は観光へと「いざゆかん」である。
 近くの聖ニコラス教会はすぐ見つかるが、涙の塔(危険な航海に出航する男達を見送り涙する処)がいくら探しても見つからない。おなじように見物に来ていた人達の話で、いま修理中ですっぽり覆いが掛っている。こっちが泪したいヨ。運河の道筋はわかりやすい。
 市内中心のダム広場。その周りに王宮、マダム‐タッソウろう人形館、新教会。ムントー広場にはムントタワー。ヨーロッパにありがちな歴史ある巨大な建物を、内部をすっかり改造してデパート・スーパーになっている。
 西教会めざして行く。今日はコンサートがあるとか。アンネ‐フランクの隠れ家は当時のまま保存され、国が管理している。以前より広くなり、コーヒーショップや書籍・ビデオ類も販売している。大勢の見物人がチケット売り場に何重も列をつくっている。
 オランダは、第二次世界大戦時中立国だった。権力に屈せず、多くの迫害されたユダヤの人々を受け入れる心の余裕を持った市民達がいて、アンネ‐フランク一家はそのシンボルである。生命の危険を犯してまで匿ったらしい。アンネの隠れ家のすぐ前も後ろも運河(キャナル)があるので、いざとなれば船で逃げられたのかな。
 オランダ名物のパンケーキは関西風お好み焼き。中に入れるものはチーズ・サラミ・ベーコン・タマネギのスライスなどで、とても大きくて食べきれない。オランダ人は大食漢だな。もし、これからレストランに入るなら、2人分注文すれば3人で十分だという結論。
 夕刻、旧教会を探していたら、突然「飾り窓の地帯」 (Red Light District)に迷い込み度胆を抜かれる。ショーウィンドーの中に、商品のように下着姿の黒人の中年女性が小さな椅子に座って、ポーズをとって男性に媚を売っていた。赤線地帯にいるのだと気づき、カメラを隠して走り去った。政府は売春を合法化しているのだろうか。

 デン・ハーグ
 アムステルダムで泊ったホテルの窓から、市内観光の運河巡りの船の発着所が目の前だ。運河から名所をぐるりと1時間説明してくれる。これもまた、この地の観光の目玉の一つ。下から見上げる建築物は、絵になる風景であった。
 次の都市へ列車で行く。デン・ハーグまでの、車窓からの眺めは目にやさしい。昨夜の雨で、木々が光り輝いている。この地が海より低いなんて考えられない。のどかな緑の大地に、白黒のホルスタイン種の牛達、馬や羊達も丸々と肥って、美味しそうな草を喰んでいる。小さな川も流れている。牧畜産業が盛んなことは、大地も豊潤でなければならない。
 今日は駅近くのユースに決めていた。オランダでは、ユースの別名(?)に「スティオッケー」の名もあり、チェーン店かな。
 ハーグは政治の中心地。女王もここの宮殿に日常は住んでいる。昔の漁村が、今はカジノやショッピングセンターのあるリゾート地として、海岸沿いに発展している。私たちは、由緒ある建物が集まるビネンホフをめざす。国会議事堂・監獄博物館や聖ヤコブ教会などがある。最大の目的はマウリッツハイツ美術館のフェルメールの「真珠の耳飾りの少女=青いターバンの少女」。モナ‐リザの微笑みより、清潔で若く好感の持てる少女に会いたい。
 15年ぐらい前は、こんな美しい美術館ではなかったが、小さなガラスケースに囲まれた中でお会いしたことがある。今は、美術館そのものが近代的なビルになっている。そして、またしてもこんな小さな絵であったのかと思い、いつまでも忘れないようにつぶらな瞳と青いターバンの色を心に焼きつかせた。レンブラントの「解剖学の講議」、レーベンスの「聖母被昇天」は必見もの。
 堀をめぐらした中世の城、噴水が吹き上げるところをゆっくり歩けば、時折アッと驚くような奇抜な色彩やデザインの近代的なビルにも出合う。中世と現代が仲良く同居している町。これも、国民の心の豊かさと大きな包容力からくるのだろうか。
 翌日の朝の散歩に、平和宮(国際司法裁判所)の華麗なる建物を見物に行く。国際的な寄付により建てられたらしい。広い芝生の中にデーンとある。その途中では、陸軍の催し物(?)なのか、沢山の戦車や軍用トラックが乱雑に止めてある。迷彩色の軍服の兵士が大勢。上層部の紳士淑女の方々、何かの始まりを待っている。自国は自分で守るべき。軍事力の維持に大きな国家予算が必要だろうと察し、平和な国の別の面を見せてもらった気がした。

 ミデルブルグ
holland_6ミデルブルグの市庁舎
 昨夜も雨が降ったのだろうか。早朝はすっかり晴れ上がり気持ちがよい。旅にあるとき、雨が日中降るほど情けないことはない。こうして夜降って次の朝はすっきりというのが申し分ない。
 列車で2時間。2階建てのインターシティーは、両サイドの牧歌的景色を心ゆくまで見せてくれる。中世の雰囲気が残り、オランダで最も美しいとのうたい文句あり、民族服なかでも髪に自分の財産としてのカンザシを付けているのを拝見できると思って、はりきってここに来た。
 駅前の運河を渡り、ガイドブックを頼りに進む。ノックしても誰もいない。通りがかりの自転車の小母さんに聞いたのが運の尽き。いろいろと騒がしく、自分の友から友へと私たちを託して、自分が納得いくまで世話を惜しまず。オランダ人の親切には頭が下がる。  紹介してもらったところはあまりにも階段が急な4階で、それに高価だし、けっきょく断って最初に保留していた運河沿いのホテルに落ち着く。
 貧しい旅には、ホテルの星など問題ではなく、清潔でさえあれば満足。ヨーロッパは週末料金があり、金・土・日は立派なホテルも30%ぐらいは割り引いてくれる。本日は日曜日。個人の店はクローズしているが、ホテルを探すあいだに随分と歩いて観光した。運河にぐるりと囲まれている小規模な観光地が中心にあり、理想的な訪問地。
 市庁舎が美しいゴシック調の建築物。その前のマルクト広場には骨董市があった。大修道院の美しい塔は際立って高く立派なもの。オランダに来て、教会の鐘がカリオンと響きあう鐘の合唱音であることを教わる。軽やかでさわやかなやさしい音色である。ゼーランド博物館は修理中で閉まっているが、その周りにこの地の子供達の絵が展示してあった。  赤と白を基調にした可愛い建物のクローヴェニアスドゥーレンは、昔は兵士の会議所として建てられたらしい。フランドル風のルネサンス様式の印象的なものだった。けっきょく民族服の人々には会えず、夢が叶わなかったのは残念。
 駅へ行く途中、運河に懸かる大きな橋のたもとで赤ランプがついた。おかしいなと思っていたら、とつぜん橋が動き始め船を通すべく橋が横になっていく。もっとブーとかチンとか大きい音を出さねば、私たち外国人にはわからない。ランプを見逃せば、川の中の橋に取り残されていたかもしれない。危なかったなもうー。

 ベルギーのブルージュ
 ブルージュ行きの方法を悩んだ。ガイドブックは列車になっている。ホテルの従業員に聞いても知らない。こんなときは地元の人に聞くべしだが、日曜日はどこも休みばかり。地理的にみてファリーがあるはず。
 普通列車を使い、終点のフリシンゲンで下車しフェリーを待つ。自転車部隊が乗り込んできた。オランダに来て、自転車の多さに驚く。中国もそうだったが、多くの面で優遇されている。列車には自転車を持って乗れる部分や犬達のスペースがあり、色分けした歩道だと思っていたら、そこが専用路だった。マークがあって気づいたり、リンを鳴らされ、さて人はどこを歩くの? 隅っこで小さくなっている。
 国境を越えても調べはない。ブレスケンに着いて、そこからバスでブルージュに行く。待ち時間を入れても3時間。列車ならもっとかかったはず。少々危険だと思ったが、相棒さん反対なくこれが個人旅の自己満足だと。
 今日のホテルも、値切りマンはじんわり粘り格安に成功。ヨーロッパのホテルのよいところは、朝食付きだから明日の朝の楽しみがある(私たちは食べきれないので、昼食のサンドを作る)。
 ブルージュはベルギー第一の観光地。ツアーのお客様の多いこと。旗の下ゾロゾロと連行されていく一団を見ると、ヤレヤレどうして単独行動できないの?
 観光は、まずこの地のハガキにある風景「愛の湖公園」とベギン会修道院を見物。それにしても、ベルギーレース・ゴブラン織り・ダイヤモンド・チョコレートやコーヒーレストランなど、観光客目当ての店だらけ。清水坂や新京極に優るとも劣らずの商法、騒々しくて嫌になる。
 あるベルギーレース店主が、「自分の店はこの辺でいちばん古く、私の代で4代目。しかし、近ごろ中国よりこの種そっくりのレース製品が輸入されて、観光客には本物と偽者の見分けがつかず採算が合わない。今年でこの店を閉める」と。日本でも同様のことが多々ある。時代の流れをどうしたらよいのやら。
 ブルージュに来た以上、運河巡りをと意見がまとまり、主なる観光地点を巡ってくれる船旅をする。見上げながら気分よく楽チン観光。運転主兼ガイドの説明に気をよくする。風車もあり、オランダばかりでなく水と戦ったのはベルギーも同じらしい。
 マルクト広場より歩きの観光も始まる。鐘楼や聖血礼拝堂、市庁舎、中世の建築物の外観をそのまま残している。見上げてはため息ばかり。時々(たぶん15分おきに)あの爽やかなカリオンの音色。それにしても、この混み合いは嫌いです。通路や建築物だけは中世の雰囲気を持つ理想の観光地。ベルギーのチョコレートはおいしさで有名らしいが、好きでないから興味なし。相棒さんは喜んで買っていた。
 朝は寒い。吐く息が白いので、10℃を切っているかな。公園にクリが沢山落ちている。拾う人いないの、動物は食べないの、イガが日本のとは違うみたい。早朝の愛の湖とベギン修道院を再び訪れる。色づいたツタが絡まる家々の壁、枯れ葉の舞う中、湖に白鳥や水鳥の遊ぶ様子や庭のガーデニングを観賞しながら、石畳の細い道を靴音を響かせて歩くこの時がいちばん好き。

 アントワープ
 アントワープ中央駅の外観も室内もすばらしい。昔のままなのだろうか。でも、案内所がわかりづらい欠陥があった。ユースホステルと思ったのが学校間系の宿で、職員の横柄さにムカッとする。「安かろう悪かろうでは、旅人はこなくなるよ」と言いたい。この町は世界のダイアモンド取引の中心地、研摩技術は世界一らしい。「金色夜叉」のお宮さんではあるまいが、宝石には関心がないものの、宝石屋さんの多さにはびっくりした。  市庁舎はルネサンス建築で一見の価値がある。ここでも官庁関係は二階の屋根周りに州の旗をずらりと掲げて“hotel de ville”と書いてある。なぜホテルなのか、いまだにその疑問は解いていない。
 白と黒の大理石で建てられた聖パウルス教会の彫像、そして何はともあれノートルダム大寺院のルーベンスの傑作を拝みたい。教会は歩き疲れたとき、しばしの休憩とパイプオルガンがあるし、遠くより心地よく聞こえる賛美歌もある。その音色に聞き入り、各教会の異なるステンドグラスの美しさ、とくにここは「キリストの昇架」「キリストの降架」「聖母被昇天」の名画の真ん前で観賞させていただける有難さ。自分の心の奥に残りますように。
 肉やのギルドハウスやルーベンスの住んだ家を見物に行く。ヨーロッパはアンティークな建築物を温存しているのがすばらしい。日本では、土台まで残すことなく再建築する。どうすればよいのか、私が考えても仕方のないことかも。

 ブリュッセルからモンス
 オードリー‐ヘップバーンの生れ故郷であり、彼女がイギリスへバレー留学の折にスカウトされたらしい。あの妖精のような美しい人にお会いしたいな。
 ベルギーの首都ブリュッセルは、ヨーロッパ第一の国際都市。私たちは大都会は観光しても、泊りたくない気持ちがある。中央駅のコインロッカーに荷を預けて観光へ。グラン‐プラスが中心らしい。中世の繁栄の、何よりの生き証人である豪華な建築群が広場の周りにある。とくに、市庁舎の尖塔はこの街のシンボルとして天高く聳えている。  王の家・プラバン公爵の館・ビール博物館、そしてよく写真で見る小便小僧を見に行く。やはり、日本人観光客が写真を撮っている。3人でブラブラ商店街を放浪。ベルギー名物チョコレート、ワッフル、ダイヤモンドの宝石店が多い。ルイーズ通りには、最高級ブランド物のショッピングセンター。通り過ぎるだけで縁なきものと思う。
 モンスに向かう。南西の方向にあるフランス国境近くを選んで、駅の窓口で「トウルネーとモンスではどちらがお薦めの観光地ですか?」駅員さん「トウルネーは行ったことないがモンスはいいよ」――自分のこの小さな国でも行ってないとは。ウへェー。ではモンスに決まる。
 モンスの歴史は古い。名前通り僧院よりの始まり。今では重工業地帯らしく、煙りをあげる煙突や工場が沢山あった。田舎でのホテルは数が少なく選びようがない。どこへ行くのも予約なしだから、満室のこともあり、この町でもそうしたことに遭遇して大変なこともある。でも、思いだせばそこがまた楽しいものだ。絵に描いたような旅はしたくない。  坂の多い町、坂の上に目立つ聖ウォードリュ教会はこの町の源。巨大さはさすが、どこから入るのヨと迷う。内部の彫像は、地元の彫刻家ブルックがその一生をかけて贅を尽したもの。黄金の馬車もある。
 ここも市庁舎や博物館が中心広場に鎮座して、世の激しい移り変わりを黙ってみつめている。ヨーロッパの人々は、昼時はとくにレストランの外のテラスで食事するのが好きらしいが、我々は馴れていず埃っぽいと思ってしまう。

 ナミュール
holland_3ジデタルよりムース川
 次の町はどんなんだろうと、ガイドブックを読んで想像するのがいつもの楽しみ。ナミュールはシーザ軍との戦いに備えて築いた、強固なる城塞の町。田園風景を越えてこの町に近づくと、屋根瓦の色が茶系からグレー系に変化した。
 この町のメインであるシデタル(城砦)に登ろう。バスで大きな丘陵地帯を頂上まで。地理的にも多国領に接するこの地は、戦禍は絶えず幾年も戦いに明け暮れたらしい。でも今は城がなく、大きな緑豊かな市民の憩いの広場になり、野外コンサート場・サッカー場・庭園・博物館などとなって、展望台より市内360度を見渡すことができる。城跡の観光案内所に、“The castle fly away”のイメージキャラクターがあって発想がおもしろい。
 下りの道すがら、ムース川とサンプル川の合流地点に広がるこの静かな町の眺めを楽しむ。なんとおっとりして、気持ちのよい町なのだろう。でも、そこには揺るぎない歴史の深みを感ずる。人の力、歴史の流れの愛おしさをひしひしと感ずるこの町は、住んでみたいところだ。
 頂から見た聖オーバン教会とルー教会に立ち寄り、内部を拝み休憩させてもらう。  ドイツの家庭料理によくある、サワーキャベツとソーセージを総菜屋さんで買いホテルでいただく。日本風に工夫すれば、もっと美味しくなるかも。ベルギーのワッフルは、私たちが食した店が悪かったのか、日本の方がずっと美味しいと思った。地元の小さなお菓子屋さんで、バターとチョコレートの入ったキャラメルを皆で買ってみた。帰ってからのお楽しみ。

 ルクセンブルク
holland_2holland_4左=高架橋を見る、右=ノートルダム寺院
 ナミュールから南には古城が沢山あるが、交通手段は自家用車しかない。私たちは仕方ないのでルクセンブルクに向かう。
 オランダとルクセンブルクの国旗はそっくりだが、赤とブルーの色彩が微妙に違う。並べてみなければわからない。
 列車は通勤通学のラッシュ時だった。混雑を心配したがルクセンブルク行はゆったりと座り、果てしなく広がる緑の大地に、放牧の牛・馬・羊達など田舎の佇まい。豊かだな−。どんな高価なダイヤと旅を取り換えよういわれても、私は旅を選ぶなーと心の中で馬鹿なことを思っていた。
 ルクセンブルクの駅舎の高い天井には、変わったデザインの柄が描かれてある。行き交う人々は季節感がそれぞれ。コートやジャンバー、半袖の女性もいる。朝と晩が初冬で、昼間は夏のようだ。感覚の相違もあるし、各自の自由に通じるところもある。
 宿選びがとってもラッキー。週末で安く、マネジャーが陽気な元イタリア人。イタリア特有の誉めちぎりやさん。元女性の私たちにもとってもやさしく親切だ。宿が気持ちよいと十分に心明るくなる。
 この国は、かつて鉄鋼業と牧畜で経済が成り立っていたらしいが、金融王国として立て直し、今やロンドンに次ぐユーロ市場。多くの国際的金融機関の高層ビルが新市街に集中している。
 高架橋のアドルフ橋を渡り旧市街の観光名所に行く。橋からはルクセンブルク独特な地形が見渡され、ベトリュッス川の両サイドは公園になっている。人の住んでいる建物も観光化して、美しく整備されている。憲法広場より市庁舎・、自治宮殿、大公宮で厳しい近衛兵の交代式を見る。
 断崖にあるボックの砲台は、この国のかつての戦いの名残り。ここからのパノラマはすばらしい。歩き疲れての休み処はノートルダム寺院。細い尖塔が市内のどこからでも見える優雅な教会。いつでも扉を開け、「どなたでもどうぞ」と気持ちよく迎えてくれる。そのおおらかさに誘われて、つい入ってしまう。各地の教会は休憩場所に最適な場所。  連泊してこの国の田舎をめざす。案内所では、田舎巡りは8月でもう終わった。宿の主人に問うとヴィアンデンが一番だという。この国なら一日中何の交通機関に乗ってもよいカードがあるとの情報までいただく。
 次の日、心舞う気持ちを抑えながら列車でEtterbruckまで。うっかり乗り越し少々時間を無駄にしたが、そのぶん田舎の風景を堪能する。バスでViandenまで、ドライバーさんに降りるところをいってくださいと頼む。その途中で、消防車が道路を中断して村の人々はバケツを持っている。何をしているのかと思えば、並木の大木よりクルミを落とし収穫している。一方では、クルミ割りの連中が用具で沢山採っている。木陰にも交通安全にも、それに食材も提供してくれるお役目。村一団で採っているのが気に入ったワ。微笑ましい。
 ヴィアンデンに着き、ウール川を越えて山に向かって登っていく。各家庭の庭を覗きながら。ブドウが美味しそうに下がっている。ブルーベリーを一粒試食してみたが甘くない。山全体が巨大な城、9世紀に建てられた。
 内部は順番が付いているので、見落としなく見物できる。ツアーのお客さんが大勢で焦れったい。私はその間を「パルドン」でサッサッと抜けていく。自分の興味あるところだけ見物。日本の皇室の方々が、この城を訪れた際の写真が飾ってある。たぶん多くの寄付でもなさったのかな。
 バス停の反対側にヴィクトル‐ユーゴーがしばらく暮らした宿があり、今はレストランになっていた。金融国でない、森と渓谷の国という別名に相応しい面を見て満足。
 三婆は、甘いものを見ると食指が自然に働き、それぞれの気に入ったものを少しづつ買ってしまう。ホテルの部屋で日本茶をいただき、「あぁや、こうや」と話は尽きず、気の合う仲間といると長旅も疲れない。

 リェージュからマーストリッヒ
holland_5リェージュの小道
 陽気な支配人とは別れ難い。彼の口のうまさは商売上手なこととわかっていても、雰囲気を明るくしてくれるのは気持ちのよいもの。
 ベルギーのリェージュに向かう。かつて繁栄した都市で、近代化に遅れをとった町らしい。本日、ムーズ川岸に大バザールが催されているらしい。人手の多いところは苦手なのでやめましょう。
 エベック宮殿を訪れる途中のベロン噴水は、小さな屋根付きの可愛いもの。ワロン生活博物館も聖バルティミー教会も修復中で閉めている。道も工事中が多く掘り返されていた。でも、エベック宮殿の回廊の柱の彫刻は見事だった。その天井はイスラムの影響を強く受けている。宮殿は裁判所や府庁舎として使用され、中の広場は駐車場となっていた。  駅で預けたリュックを受取る折、駅員さんは「お金は不要」といわれ、私たちは「ありがとう」と頭を下げるだけ。ホームで列車を待っていると、清掃係の人が荷物の預かり賃を要求に来る。おかしいナ。請求書か領収書を渡すならと拒否する。意味不明なお金は支払わない。この人のためにもならないと思った。
 アーストリヒトに向かう。マース川沿いの美しい町は、オランダとドイツの国境がすぐ。駅前ホテルは満員が多く、ホテル探しに少々難儀したが、やっと中心のマルクト広場前のレストランの宿。古い建物は階段が一直線で用心しないと怖い。でも、清潔そうでバスタブありでうれしいナ。鼻歌も出る。
 夜遅くまで不夜城のごとく、飲んで歌って騒々しかったらしい。私はいったん眠ると朝までの熟睡型、相棒さんは眠れなかったらしい。
 早朝の寒さは厳しい。散歩観光へ出発する。宿の前は古めかしい3階建ての市庁舎。聖セルファース教会の鐘は、「おばあさん」と呼ばれ、親しまれているらしい。隣に牛の血で染められたという赤い塔のあるヤンス教会、そしてロマネスク様式の聖母教会は地元の人々にこよなく愛されている様子がうかがえる。通勤前にひざまずき祈るサラリーマンの姿がある。地獄門(Helpoort)は、中世にペスト患者がでるとこの門より郊外に出されたから。砲台が連なり城壁が続いて、歴史ある昔の姿を残している。マース川に大きな橋がいくつも架かっているのが印象的だった。

 ユトレヒト
 ユトレヒト駅はショッピングセンターと合体した大きな駅で、人出も多く迷子になりそう。どこを見ても楽しいレイアウト。オランダの独立戦争では中心となり、ユトレヒト同盟もこの地でスペインに対抗した。伝統あるユトレヒト大学をもつこの町には若者が多いので、古き町にも新しき活力を感ずる。駅前ホテルをめざすことが常で、5時まで水道工事で水が出ないという約束ありだが、リュックを預けすぐ観光に旧市街へ繰り出す。
 運河が珍しく地面の下にある。わかりやすい大きなドーム塔があり、すぐ近くにドーム教会、隣には建国の父ヤン‐ファン‐ナッソーの銅像がある。教会の中にコーヒーショップがあり、クッキーと共に一服の清涼剤。
 ホテルに帰ると約束時間を過ぎても水なし。同じ階の宿泊客がレセプションで抗議の嵐。応対の女性は、最初は反論したが最後に平謝りの態となる。やっと7時過ぎに解消する。水の有難さをオランダで確認することになった。
 世界的に愛されているうさぎの女の子「ミッフィー」ちゃんは、このユトレヒト生まれ。ブルーナさんは今も仕事をしているらしい。ハガキやメモ帳を求めた。

 レーワルデンからマルクマーレ、そしてハーレムへ
 今日はこの旅で最長距離の移動。ユトレヒトよりオランダの北の端、はるばる来たぜ函館。ここレーワルデンは少数民族が住み、独特の言葉と風俗習慣をもつ人々がいるらしいが、大堤防の見物に行くのが私たちの第一の目的である。バスの時間に合わせてこの町を観光をと思っていたが、小雨がポツポツと降り始める。諦めが肝心なときも旅にはある。観光は断念。
 北ホランダ州とフリースランドを結ぶ大堤防を通ってみたい。3人ともに好奇心が旺盛人間。気持ちはすぐ一致する。1932年にこの30kmの堤防が完成している。今のように大型機械がない時代、よくもこのような大工事が可能であったとは、多くの人的犠牲も伴ったであろう。長年の水害を防ぐための干拓事業が、この堤防によって外海と内海に分かれ、内海がアイセル湖(淡水)となった。私たちは、一直線に延びたこの堤防の下に造られた高速道路を、バスでマルクマーレまで気持ちよく走る。展望台より北海と湖を眺めて、まさしく人間の造った土地に感動する。
 列車でハーレムへ。中心街の便利なレストランを宿にする。近所の景色がよく見えるおもしろい宿だった。聖バフォ教会には立派なパイプオルガンがあり、モーツァルトが子供の頃に弾いたらしい。このオルガンの録音を大きく流してくれる。
 隣の旧肉市場は、ルネサンスの代表建築。今は美術館となる。ユダヤ人をナチスより守った地下運動組織もこの地にあり、隠れ家も沢山あったらしい。
 この町の裏通りがとっても美しい。古いがそれぞれ庭に趣きある飾りをしたり、ネコさん達も愛らしい。よく肥っているし、迷子の首輪をしてもらっているのを見ると、家族に大切にされていると安心する。一般家庭の主婦が通う店で、おかずやチーズ・パンなどを買ってホテルでいただく。密やかな楽しみは旅の一部である。
 次の日にアムステルダムへに帰り、残りの1日を美術館巡りと少しの買物。そして、印象深いところへもう一度。3人とも元気で帰国。

  旅にあれば、すっかり旅人になれる。その喜び楽しみは何にも代え難い。こうして自分が、家族が健康でなければ不可能なこと。世間のしがらみより抜け出して、自分を再確認するために旅をしているのかもしれない。
 ツアーやデラックスな旅行などしたいと思ったことはなく、知らない土地の普通の人々の暮らしぶりを見たい。市場や人ごみの裏通りを歩いて、いま生きている人の生活の匂いや町の音を自分の皮膚で感じたい。このような旅ができるのも時間が限られている。先を急ぐ感じもあるが、今しかできないと思う。また、しばらく主婦して母して、時々ばあちゃんして、おとなしの構えで次のチャンス到来を待ちましょう。

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フランスからスペイン北への旅  〔2005.5.9〜5.25〕
 連休が終ってすぐ、山の会の友人とフランス・プロバンス地方とスペインの巡礼の地へ少しだけ訪れようと計画する。いつも通り計画はあってないような自由旅。時間短縮のためアムステルダムでトランジットして、マルセイユへ直行。
 マルセイユ
  昨夜遅くに着いて何も見ていない。次の日、磯の香がする旧港のベルジュ埠頭へ。早朝より水揚げしたばかりの魚の朝市は、売る人・買う人々の賑やかさ。何処も同じく活気に満ちている。物悲しく暗いイメージを想像していたが、やはり南プロバンスは暖かい気候。きらめく陽光に人々の心の中まで明るく感じる。マルセイユは、紀元前より地中海貿易の拠点として発展してきたが、その歴史は他民族の侵略と発展の繰返しにより築かれ、歴史の名残りはこの町に沢山見ることができる。ローマ‐ビザンチン様式のノートルダム‐ド‐ラ‐ギャルドバジリカ聖堂が小高い丘に見える。バスで細い坂道を登っていく。丘には白・黄・紫、名も知らぬ花が咲き乱れ、マルセイユの町から地中海の彼方までも。「岩窟王」に出てくるイフ島もすぐそこに見える。漁港だけあって、航海の無事を祈るこの町の人々に愛される守護人である。聖堂の塔の上、金色のマリア像はキラキラと輝いていた。
 下町風情を味わうつもりで旧市街に出かけるが、古いビルを改修しているところが多く、道路工事で掘りかえされ、歩きも大変で情緒も何もあったものではない。町の東のロンシャン宮へ住民は親切に道を教えてくれてありがたい。繁栄時のロンシャン宮殿の玄関がみごと。鳥が羽根を広げた華麗な姿の左右より滝が流れ、市民の憩の場となっている。途中で買った大きなネーブルをいただき、ほっと一息。カモメが沢山遊んでいる、カラスより多い。

 アヴィニヨン
 列車でアヴィニヨンへ。フランスの列車はシニアーの割引きで格安となる。列車よりの景色は、豊かな丘陵地帯の広がり。日照時間に恵まれ、農政もしっかりしているのだろう休んでいる土地はない。ブドウ・オリーブ・麦が多く、まだ幼いがきらめく光とやさしい風を受けてスクスクと育っている。眼に入るすべてのものが、明るくやさしい自然の美しさを感ずる。芸術家を魅了したプロバンスの景色なのだろうか。サントル駅に降りてすぐ、大きな城門を通らねば旧市街に入れない。城壁がずっと続き、アヴィニヨンは中世の城壁の町である。二泊するので慎重に親切そうな宿を選んだ。すぐに明日の近郊のラベンダーツアーを予約して、今日はこの町の観光をすべく散策へ。サン‐ベネゼ橋(アヴィニヨン橋)は、歌で何故か昔より聞いていたので知ってはいたが、実際を観たい。ローヌ川の氾濫で半分しか残っていないが、さすがに観光客はここぞと押し寄せて来る。私たちはドン公園の坂道を上がり、丘から遠い昔より何事もなかったように緑に包まれてたたずむ橋を何時までも眺めていた。でもそのうち人の出入りのない山道を下り、ローヌ川の川岸より小船で、対岸のバガテルよりアヴィニヨン橋を眺めて、大聖堂・美術館を向こうにアヒル親子と一緒に歩き、もう一つの新しい橋を渡り、近くのスーパーに寄って夕食の買い物。宿の主人より熱湯をもらって即席の日本米。

 アヴィニヨン近郊(サン‐レミ‐ド‐プロバンス、レ‐ボー‐ド‐プロバンス、ドーデの風車)
 法王庁宮殿は広い。日本語のイヤーホーンを借りて聞きながらでは時間がかかりすぎる。かつてローマ法王の宮殿は、要塞の如く強固に造られている。無駄なところ華美なところはない。部分的にフレスコ画がリアルな色彩で繊細に描かれていた。フランス革命で破壊と略奪に遭い、ゴシック建築としては傑作だが内部のものはない。昼からのツアーを予約して安心していたら、チケットを買わなかったのがミス、もう売り切れだと。他のツアーで三つのプロバンス村に行く。カマルグ湿原地帯を通り、ドーデの風車見物。、昔の城主が今ではブドウ畑やオリーブ畑での収穫物を、ツアーの折に寄らせて販売しているワイン工場に連れて行ってくれた。個人ではなかなか足を運べるところではなく、豊かなプロバンスの田舎巡りができて幸せだった。ラベンダーの花はまだ咲いてないそうで、これでよかったのだと納得した。
 昨日アルルへのバスターミナルも時間も調べていたのに、その時刻になってもバスは来ない。どうしたのだろうか。分からないが、即、列車に変えて、アルルに着く。田舎駅にはコインロッカーはなく、近くのホテルにザックを預けて、旧市街へ。ラ‐マルティ広場よりカヴァルリ門へ。ゴッホとゴーギャンが住んでいた下宿は、今はホテルになっていて黄色の小さな建物だ。保存状態のよいローマ遺跡だという円形闘技場に行くが、修復工事が行なわれていて、足場が危険だらけ。屋上はハトの巣いっぱいで汚い。サン‐トロフィーム教会は巡礼路として多くの巡礼者を迎えたらしい。ここの回廊には、すべての柱に施された聖書の物語をみごとに彫刻されている。庭園のバラが咲きかけていて、心安らぐロマネスク様式の教会だった。隣に古代劇場があり、防虫服の職員さんが雑草と格闘していた。日本人の若者と意見が合って、ゴッホの絵に描かれた「はね橋」を見にタクシーで出かける。復元された新しいヴァン‐ゴッホ橋には、日本人ツアーのお客さんが沢山いて、その多さにびっくりした。

 モンペリエ
 列車でモンペリエへ。駅前は工事中で大変騒がしい。もっと静かな学園都市を想像していたのに。便利な場所に、古いが清潔そうな宿を見つけた。色鮮やかなトラムが走っている、由緒ある大学の町とあって若者達の姿が多い。ファーブル美術館は休み中らしい。コメディ広場一帯に歴史的建造物が残っている。フランス国民はメリーゴーランドという幼い子供達の乗り物が好きらしい。ちょっとした広場でよく目にする。子供心をくすぐる乗り物には違いない。旧市街地を抜けたところに凱旋門が建ち、遊歩道が続く。私たちはおいしそうなパン屋さんを見つけて食べ比べてみたり、批評しあったり、観光と味を兼ねた散策になる。貯水場からのプロムナードは、市内を見下ろす高台にあり、快いそよ風を受けて、アベックや犬との散歩道は鼻歌気分。水道橋が880mのアーチになって続く様子はなかなかのものだった。夕食は夫々が自分の好きなものをテイクアウトしていただく。ほっとする一息。

 カルカツソンヌ
 南フランスに来て以来、どこにでも綿のようなものがフワフワと飛んでいる。ブルガリアでこれはマロニエの花と教えてもらったことがある。トチノキの一種だと聞いているが本当だろうか。今回もずっと綿の小片は飛んでいる。カルカツソンヌの駅に着くちょっと前から、丘の上にずっと大きな城の連なりが、おとぎ話に出てくるように突然現われる。ローマ時代から、周辺の地理的なことで戦略的に二重に城壁を巡らせた城塞都市である。「城壁都市=ジテ」の中のユースホステルを望んだが満員だった。観光都市として人気があるだけに、ホテルは高いので安い宿探しに苦労したが、何とかシテの近くに見つけた。シテの中、コンタル城は難攻不落の城であったであろう。五つの塔をもち濠を巡らせたところ、攻撃用の足場や銃の窓、石落しの仕掛けも、日本の城にもあるもの。城壁に登れば、ブドウ畑とカルカツソンヌの町が見渡せる。本当にフランスの人々はブドウ酒を好む国民だと、今さらながら感心する。ロマネマクとゴシック様式の美しい聖堂は必見の価値ありで、正面左右に広がるステンドグラス、円花窓は見ていると夢の世界に引き込まれそうだ。中世そのままの中での現代の人々の生活を、垣間見る思いがする。宿の主人が、城がライトアップされるので観に行くようにと教えてくれるが、ライトアップは好みでない。夜は闇の中にあるのがよい。人が無理に、明るく人工的に観光化しなくてもよいのにと思っている。

 トウールズ
 シテの眺めをオード川に架かるボン‐ヌフ橋より、二人でしばらく観ていた。旧市街地で朝市があると聞き、トウールズ行きの列車に乗る前に歩いて行く。マルシェ(市場)には旬の農産物、魚貝類、果物、各家庭で作ったチーズやジャムなど、住人でいればすぐにでも買いたくなるのに、でも果物やチーズを求めてビタミン補給する。地図によれば、ミディ運河がトウールズまである。それに乗りたいと思ったが、誤っていた。単なるその町だけのクルーズであった。フランスでは、田舎はとくにバスの便はなく、列車が多い。国によるが、スペインではバスばかりに乗ったことを想い出していた。トウールズは「バラ色の町」と云われているほど、ビルの壁のレンガが夕日に輝く様が美しい独特の色をしている。学生の多い町だから、ファッションのお店と食堂が多い。八角形の鐘楼のあるセルナンバジリカ聖堂の回りで、のみの市が催されていた。覗いてみるとつまらない物ばかり、拾って来たのではないかと疑いたくなるものばかり。オーギュスタン博物館は彫像が数多く中庭に野菜や花がよく育っていた。ジャコバン修道院の礼拝堂は、クモの巣のように広がる模様の天井アーチが印象的で、イスラム教の建築物に見るものを何か感じた。
 「Hotel de Vella」と書いてるのを中心街でよく見るし、ベラホテルかなあ? とか国旗をかかげているし、政府かその市関係の庁舎かな? 後で聞くと市庁舎だった。今日もよく歩いた。地図をコンパスで確かめ、恥を捨て人に聞く、目的地に何とか着く。

 ルールド
 ルールドもアルルも、発音が悪いのか通じないので書く以外にないが、曜日により列車のダイヤも違ってくるので、2時間程度の待ちぼうけ。ガロンヌ川を散策していると、困った顔をした日本人の方が、銀行のチェンジマネーができずにいたので、私たちが小額を融通した。リタイヤー組さんに、この旅でも何人かに会う。この方も絵画が趣味なので、田舎巡りしてスケッチしておられるらしい。ご一緒したいが、中央山塊の方へ行くそうだ。「残念ですネ」で別れた。今日はピレネー山脈にお目にかかった。遠くの雲の上に、一列に並列するピレネー様に久方振りで感激。ルールドはカトリック最大の巡礼地。世界中の人々が、とくに病を持つ人達が、奇跡を信じて礼拝に来るところ。聖母が現われた洞窟には、今も泉が湧いていて拝みに来る人々でいっぱい。静かに並んで待っている人々は、肌の色も眼の色も違った人ばかり。お水をペットボトルにいただいて、マリア様からしたたり落ちる水滴で顔のシワを伸ばしてくださいとお願いしたけど、急なお願いにさぞかし困惑されたことだろう。
 聖ピオ10世のバジリカ聖堂を仰ぎ見る形で、三層になる大聖堂はキリストの生涯を大画面いっぱい。鮮やかに、とくに金色を使って描かれ、宗教とは人の心をゆさぶる如くにうったえている。一種異様な聖地となっているようだ。ツアーのお客さんの多さに、何故か有名な観光地化してしまったような気がした。

 ポー
 ルールドの賑わいを逃れて、列車でポーに着く。駅前にケーブルカーがあるはずなのに、今日はこの町の坂道を利用してサーキッドが行なわれ、すごい人出。古いスポーツカーやクラシックカーの展示にも人出が多い。ピレネー大通りとあるように、遠くにその山並みが見え、人々は遊歩道に沿ってサーキットも楽しんでいる。高台に町が築かれたので、こんなこともあり得るのだろうが。ブルボン王朝の創始者のアンリ4世が住んだ大きな城が残っている。もっと静かな田舎町を期待していたのに残念だった。山間の町だから朝晩の寒さはある。朝日に輝くピレネー山脈の眺めは曇りがちの天気で望めなかった。

 オロロン‐サント‐マリー、カンフラン、ハカ
 フランスとスペインにまたがる一帯は、バスク地方といわれている。独特の言語、風俗が今でも存在していて、現在も一つの国家として独立運動もある地に踏み込んだ。ポーの駅よりオロロン‐サント‐マリーを目指す。RとLの発音の違いでオレゴンと駅員さんが言うので何度も聞きただす。バスに乗り換えて国境沿いのところから、小型のジープに乗りパスポートチェック。そして1640mのソンボルト峠、登山(冬山の)服装の方は、ここから歩きでスペインに入国するらしい。私たちも迷った。歩きで越えたいが、ザックが重いので自信がない。くやしいが安全策をとり、スペイン領のカンフランまでバスで行く。そこでハカまでどうするかと待っている折、アメリカ人のケビンさんに会いご一緒させてもらう。JACAと書きハカと読むのは難しいが、何の情報もないものの城壁があり、その中の古城は陸軍の駐屯地となっている。おもしろいことに、城の庭に鹿が何匹か飼育されていて人馴れしている。ピレネーの白き山々を眺めて、近くのスーパーで食料を買ってケビンさんとピクニック。彼こそコンポステーラまでこれから一ヶ月ほど巡礼をするらしい。ポカポカ陽気に包まれて、可愛いい鳥の声を聞きながら、サンドイッチやリンゴとミカン。幸せ者たちだなと気分壮快。

 パンプローナ
 ここの地元の人々は、首に赤色のネッカチーフを付けているのが多い。何か意味があるのだろう。察するに、団結の意味かな? かつての王国の首都として栄えたこの地は、多くの歴史的建造物が残っている。カスティーリュ広場は牛追い祭りで(ヘミングウェイの『日はまた昇る』で有名になる)市役所前から出発する真前にあり、ヘミングウェイが毎朝通ったカフェもある。作曲家のサラサーテの名の通りあり。道が迷路のように入込んでいて分かりにくい。スペインのカフェ=「パル」とか「バー」とあるいっぱい飲み屋さんの便利さは、旅行者にとってとても利用しやすい。ちょっと疲れお腹がすいた時には、コーヒーと小さなスナックをいただくレストランとなる。すし屋さんのカウンターのように、目の前に作った物があるので、指させばすべて事足りる。沢山はいらないのでこれくらいの量で充分だ。 カテドラルはロマネスクとゴシックの様式があり、あまりの金ピカの祭壇に圧倒されそうで、金はそんなに貴重なものでしょうかと疑問に思うことだらけ。もっと静かな落ち着いた色彩ならよいのに。ケビンさんと今日でお別れ、会うは別れの始め、巡礼者には貝殻の印が必要だと、彼に頼んで買わす。彼もしぶしぶ理解してくれて、求めていた。これから先の苦難を思うと、彼の為にどうか健康でと祈らずにはいられない。
 パンプローナの食堂の三階の宿をチェックアウトの折、宿の方がどなたもいなくて、カギを返すことも、料金を支払うこともできない。隣のカフェの方に頼んだが、確かに届いたか否かを心配している。

 サン‐セバスチャン
 フランス国境近く、王妃の保養地として発展してきたらしいが、理想的な扇状に広がるコンチャ湾の美しさ。今までこんなに美しい処はなかったような気もする。山好き者は高見にすぐ登りたくなる。ウルグル山頂のモタ城の巨大なキリストが町を見おろしている。近くの漁村から少しずつ登り始める。日本の山でもよく見る野草が、似ているが少し違っていたり、鳥達も人を怖れず可愛い声で鳴いている。頂上にある城はやはり要塞の役目をしたのであろう。ビスケー湾に向って大砲がずらりとある。湾の中の小島の様子も、対岸のモンテ‐イゲルドもすべてがよく見えて“絶景かな”である。夏にはコンチャ海岸はさぞかし海水浴客で混みあうだろう。私たちは欲深い、ここまで来た以上、対岸の山側からもこの眺めを堪能しようと考え、バスで近くまで行ってケーブルカーで登る。頂上には展望台や遊園地あり、ここからの眺めも、曲線を描いた海岸と丘に広がる町並み、波が打寄せる岸壁の荒々しさ、いつまでも見ていたい風景だった。漁村だから、お魚の新しいのをいただきたいと思ったが、夕食は各レストランとも21:00からだそうで、どうしてそんなに遅くにと呆れる。しかたがないパルのツマミで満足しよう。夜には外出したくないし、早寝に限る。

 ビトリア
 バスク地方の中心地、大きな町である。ここまでの途中、幾つ山を越えただろうか。狭い山道に工事用の大きなトラックがゆっくりと器材を運ぶのに遇う、バスの運転手さん離合できずイライラしているのが伝わる。観光コースを歩く、古い建築は緑の多いこの町に似合っている。サンタ‐マリア‐カテドラルがすばらしいとポリスが教えてくれて、期待して行くと今は修復中で中に入れない。どうしてそんなことも知らないのかとポリスに腹が立つ。でも、その付近にバスク地方独特の昔建築がずらりと残っている、町を歩いてもおいしそうなケーキ屋さんが多い。甘い物とブドウ酒が好きでは、あの体型になるのも無理はない。久し振りに、星ありのホテルに泊まる。安いが便利なところにあり、造りがユッタリとしていた。

 サラゴサ
 バルセロナに近づく。サラゴサに行く。列車は時間がかかり二回も乗り換えるとか、やはりスペインはバスの便が一番よい。バスで3時間。ブドウ畑の広大さ、太陽の恵みを受けよく育っている。鮮やかなポピーが緑とのコントラストで農村地帯に色を添える。久し振りに、スペイン料理の定食をこの地で頼むと一人前が多量。もったいないが残さずにはいられない。バスのなかでもレストランでもスペインの人々は大きな声でよく話す。ずっととどめなく、相手の話を聞いているのかな? 一緒に自分の主張をしながらよく話しができるものだと。身振り手振りして表情が豊か、私たちとはずいぶん差があるように思われる。
 スペイン広場をめざして、エプロ川周辺の見どころへ、この町のメインはピラール聖母教会、内部は巨大である。人々の信仰篤き表れだろうか、内部の木彫や大理石の彫刻には息を飲むほどのすばらしさ。ルールドと同じようにここにも奇跡があったらしい。中学生ぐらいの生徒が集合している。何かの集会かな。宗教が学校教育にも取り入れられているらしい。久し振りの若人の敬虔な姿に清々しい気持になる。エプロ川からこの教会を望めば、彩色タイルの丸屋根もあり堂々とした美しさ。ここサラゴサの人々の誇りであろう。

 バルセロナ
 バルセロナに移動する。やはり大都会だ。バスターミナルも沢山あって、自分がどこに降りたかを確かめることから始めなくてはならない。地下鉄は便利だが、自動が多く戸惑うことが多々あり。中心街のランプラス通りの日本人経営のオスタルに決める。近くの大きな市場は生鮮食料品が満載。市場の食堂ぐらいおいしいものはない。食材が新しいことと、すべてプロの味。星ありの高級レストランよりずっと気楽でおいしくて安い。ここではやはり主婦の気持ちになってしまう。宿(オスタル)の経営者が自分の生きてきた様を語ってくださり、私たちも色々と考えさせられる人生観だった。

 アンドラ
 ピレネー山脈の東、小さな王国があると以前から聞いていて行きたいなと思っていた。1993年、正式に独立国となったらしい。バスで3時間ほどかかる。チケットを買う時、パスポートを必ず持参するように約束させられるが、アンドラに入国時は検査も何もなく、見慣れぬ旗があるなということだけ。標高は如何かな? 坂の多い町。アンドラは免税の国で、ショッピングと冬はスキー、夏は避暑のお客で賑わうそうだ。メイン通りはブランド物の店や電化製品、スポーツ用品でいっぱい。こんなはずではなかったと少々ガッカリした。買い物には興味がない。
 私たちは裏山に登る。傾斜が45°以上もあろうかという急なもの。段々畑に牛馬が放牧されている。岩登りに適した岩壁もそこらじゅうだが、落石や山崩れはないのだろうか、大雨で地盤は大丈夫なのかと心配すれば住めない。ここには今までその恐怖例はないのだろう。スパやレジャー施設、ホテルも建設中が多い。山の中腹まで、細い道にも花々が咲きかわいい彫刻や古めかしい田舎風の家々、家の中までも見える暮らし。草花を作ったり、野菜を育てたりして老後の暮らしにはいいなと思う。小さな教会で結婚式があったらしく新郎新婦が写真をとっている。見かけた車は通る時におめでとうの意味を込めてブーを鳴らして通って行く。ピレネー山脈の中、岩山も豊かな大自然に抱かれた盆地。大きなクレーン車が掘削し、まだもっと巨大な観光地にしようとしている人間達を、自然界はどう思っているのだろうか。もう少しこのままにして欲しいと願うのだが……。次の日の朝も、山道を登る。小さな教会の木彫りのマリア様とイエス様の像に心魅かれる思いがする。
 ルールドの教会のような金箔に満ちたものより、土の匂いのする静かな雰囲気のあるほうが気持ちが安らぐ。ハイカラな住宅や、アンドラ独特のテラスがあって大きな梁と鱗状の屋根瓦のもの、のんびりと滞在したい町だった。
 ピレネーの山懐を後にしてバルセロナに帰り、やっと市内観光へ。ランブラス通りの港、コロンブスの像が指差す先はアメリカだろうか。オリンピックが開催した折に、ずいぶんこの港は近代的に様子を変えたらしい。本日は日曜日、市内の店やデパートは皆お休みなので、港のショッピングモールに人々は集まって来ていた。中心街のこのランプラス通りにパフォーマンスのアルバイトをしている芸人の多さにびっくりする。こんな沢山の人々が、食べられるお金を稼ぐことができるのだろうか。

 モンセラット
 バルセロナは、以前に二度ぐらい観光しているので、今回はモンセラットに行きたい。郊外からこのノコギリ形の山は気になっていた。スペイン広場より列車が出ている。1時間で着き、すぐにロープウェイで中腹の大聖堂のある広場に。土産物屋やホテル等が並んでいて、今や昔のベネディクト会の修道院は観光地となっている。毎日ミサが行なわれていて、私たちが訪れた時に丁度始まったので失礼して居させてもらう。男性テノールのすばらしい聖歌を聞かせてもらった。聖職者達の姿は、どの方々も悟りを経験し現世から遠くにいる人々の穏やかさを見る思いがした。ナポレオンの侵略にも土地の人々に守られた黒いマリア様がこの御神体。とっても小さいマリア様なのが印象的だった。大聖堂は色彩も造りもどの聖堂よりも最高によい雰囲気だった。展望台より小さなハイキングコースを巡る。遠くから見るとノコギリのように鋭く思った山容が、近くでは風雨で丸くなっていて、いろんな想像できる形になっおり、面白くてお腹をかかえて笑うのもあった。

 天候に恵まれ一度も傘いらず。失敗もあったが、多くの人々に助けられ無事に旅を終えた。18日間、相棒さんありがとう。

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ェコ‐スロバキアの旅  〔2004.10.24〜11.9〕
 遠くより京都へ嫁ぎ、お互い子供を育てる間には何かと助け合い、年を経ても気のおけない友は血よりも濃き間柄。友は悪しき病に侵され、この10年は入退院の繰り返し、今年3月に危険を覚悟しポルトガルへ2人で旅した。でも7・8月と入院し9月に退院。体調が良ければ常に旅行したいと夢見る彼女を元気づけるには、また旅するのが一番よいかも。今回は彼女のお姉さんが一緒してくれることになり、心強い相棒さんを得て気持ちよく旅することができました。

 チェコには以前訪れたことがありましたが、何年か前に世紀の大洪水が中欧を襲ったことがありました。首都のプラハはかつての姿と変わったのだろうか、今はどうなったのかと気掛かりでした。空港に着くと同時にスメタナの「我が祖国」を流してくれる心憎い演出をしてくれます。旧市街の観光に便利な条件の小さな宿を決めました。早朝から宿の前にフリーマーケットができる楽しいところ。果物や野菜、手作りの土産物屋さんが集まり、やはり主婦的な感覚で見ているのを自覚しました。

 旧市街のヴォーツラ広場より、かつての歴代の王が戴冠式のパレードで馬車で通った「ローヤルロード」と呼ばれる歴史的な道順に従い、観光スポットを見学しながら正午にプラハ宮殿の正面玄関へ到着するように歩きました。なかでも一番の見どころはヴルタヴァ川に架かる石橋(カレル橋)の眺め。橋の両側に30の石像があり、それぞれ物語を秘め説明書と照合しながら確かめていきました。数々のパフォーマンスの人がいて時間を忘れそう。土産物や自分の描いた絵を売っている人々も多くいます。いつの間にか、どこから来たのかしらと思うぐらい多くの観光客の中に混じっていました。ちょうど12時にはプラハ城を守る衛兵の交代式があります。古式にのっとった式は見応えがありました。城の中は広すぎて、半日では見終わらないほど。紅葉した落葉樹の散りゆく様子や城壁をつたう蔦の色までも愛でました。中世そのままの雰囲気を残していました。歴史的には多くの国に侵略され、「プラハの春」の抑圧やスロバキア国との分裂など、長く辛い歴史を刻んできたプラハは、不思議で神秘的な古都です。2日間の観光を終え、オーストリア国境近くのチェスケー‐クロムロフを目指しました。

 プラハよりバスで4時間、前列より2列目に座って270度のパノラマの景色は心地よいものです。黒土の肥沃な大地はどこまでも続き、麦の芽は幼いもののしっかり育っていました。草ぼうぼうの荒れ地はどこにもありません。日本の農政は、田畑を休耕田にしてお金を払い土地を荒廃させています。いちど田畑を休ませば二度と耕作できないことは分っているはずなのに。この国を見習うべきと思ったりして……。道路にガードレールはありません。アスファルトが薄いのででこぼこはあるが、信号なしなのでスピード上げて走ります。両側の街路樹はリンゴの木が多く、小振りながら真っ赤な実をつけおいしそう。

 チェスケー‐クロムロフのバスターミナルより町の中心に向かって歩けば、この小さな町が一望できます。ヴルタヴァ川が大きく蛇行し、本当に絵に描いた風景とはこの町のことかもしれません。ペンションに荷を置き、古い石畳に響く靴音を聞きながら小高い丘の上にあるウルムロフ城に登りました。各時代に次々と増築して巨大な城となり、庭園も広がり実によく調和した城です。土産物屋がずらりと並んでいるのは、この町がいかに観光客が多いかを示しています。どこを歩いても、この町の美しさは忘れられないほどの感動を覚えました。この町がとくに良いと推薦してくれたプラハ人の意味を思います。次の町はボヘミア地方の田舎町=テルチを選びました。

 町には暗くなって到着しました。ヨーロッパの夏は白夜ですが、晩秋の頃には早く日が暮れます。まだ見ぬ町に日暮れの到着は心細いものがあります。満室が多く、やっとプライベートルームのような宿を探し出しました。2階の二部屋は新築したばかり、次の日の朝食は二食分もあろうかと思われる豪華版。残すのは気の毒になり、昼食のサンドイッチにしていただきました。もう一度この町の旧市街=ホルニー門より入り直します。細長い三角形の広場に建ち並ぶ建築物が、それぞれに凝った中世そのままの造り。由緒ありそうな建物の中は、1階をレストラン・コーヒー店・土産物屋さんと、観光客目当てに営業しています。城の周りには、水鳥の戯れる大きな池が広がっています。昔は要塞の役をしたのでしょう。小さく静かなこの町を守っている住民の心意気を感じ、もっと長く居たい町でした。

 そしてブルノへ向かいました。町へ近づくにつれ田園風景は一変して、大きな四角の箱もの公団住宅の群れやビルが目立ってきました。ブルノは工業都市。大きな煙突の工場も多く、都会的な匂いのする町はパスします。スロバキアへと国境を越えて、トレンチーンに行きます。すぐに豊かな大自然。紅葉の続く森林と丘、木の葉の舞う中をバスは進みます。国境では、入出国をそれぞれ色の違った制服の警察官が乗り込んできてパスポートを検閲しています。乗客はチェコ人かスロバキア人なのかチェックなし。私たち3人だけが簡単な検査を受けました。トレンチーンに着いて、銀行へ急ぎます。換金しないとノーマネー。閉店前にどうにか間に合いました。慌てた姿が滑稽だったからでしょうか、受付嬢が笑い出しました。この町も城がメーンの観光地らしく、周囲から目立つ雄大なものでした。旧市街も観光客を当て込んで造られたような、好みの町ではないので次に移動しました。

 ポーランドとの国境沿いに、2000m級の山岳地帯が広がっています。山好き者にとっては訪れたい土地。タトラ山地への移動はポプラド‐タトリまで列車に乗りました。スロバキアの祝日にあたり、それに土・日が重なったものだから人々の移動が大きいようです。ちょうど日本の盆の墓参りのようで、人々はリースのような丸い花輪を持っています。ところ変われば品変わるではありませんが、国が違えば花束は丸い輪になり、それを墓前に供えるようです。しかし、よく見れば生花でなく造花なのでガッカリしました。列車を乗り換えて、スマートな車体の山岳鉄道でスタリー‐スモコヴィツ駅で降りました。そこは、まるで軽井沢のようなリゾート地でした。連休なので家族連れが多く、ホテルもペンションも予約なしだから断られて困っていると、スポーツ店の小父さんが2階の台所・風呂付きの部屋を貸してくれました。今回は山に興味のない友と来たので諦めましたが、ここで連泊して奥の山に登りたいものです。でも、ロムニツキー‐シュティート峰までケーブルカーで登りました。山地のすがすがしい風景を眺めることができて満足。おいしい空気を味わいながら、素朴な山の住民との語らいは古郷へ帰った気持になります。

 バスでレヴォチャに向かい、スラヴ人の集落を見物するつもりが、荷物を預けるところもありません。ドイツやチェコの学生達が次の町のスピシュ城に行くと聞き、ご一緒させてくださいと頼んでその山地へ向かいました。丘の上の向こうに見えるのに、視界を遮るように巨大な崩れかけの城があります。リュックを背負ったままリンゴが鈴なりの街路樹の間を進んで行きます。学生達の足取りは早く、途中で雨になりガスってきたので登るのを止めました。周囲に落ちているリンゴを食べてみると、懐かしい紅玉の味がしました。バス乗場が違ったのか、いつまで待っても来ません。幸い親切な人が山城の裏の古い塁壁に囲まれた町のバス停まで送ってくれました。ガイドブックにもない集落は、後で知ったのですがスピシュスカー‐カピトウラという聖職が住んでいた町でした。

 プレショフはバス停と市街地が離れています。旧市街地の中心は聖ミクラーシュ教会、ワイン博物館、シナゴーク。散歩しながらの観光で十分。昔の砦が今はコーヒー店になっていたり、ヨーロッパにありがちな外観をそのままにして内部は改装して住む方式がみられます。スロバキアに入国して以来、墓のある所には黒い地味な服装をした家族達や供え物の花輪を手にした人々で賑わっています。美しく墓を飾って、自分の祖先を大切にしている暮しぶりは、家族に対しての愛情が豊かな証拠かもしれません。

 ポーランド国境のバルデヨフに行きます。今までの町より北寄りなので、紅葉がもっと進んでいます。ここも崩れかけた城壁に囲まれた中世の町。教会やイコン博物館、旧市庁舎が見どころです。今日から冬時間になるそうで、時計を1時間遅らせるべきと宿のお姉さんが教えてくれました。列車でコシツェに着きました。駅前の大きな公園を抜け、ガイドブックに載っているペンション目指して歩きます。通りを眺めるだけで、ここは好みの町。2泊するのでのんびりと見物できます。旧市街地は歩行者天国。フラヴォー通りがその中心で、両サイドに古めかしい堂々とした建物が並んでいます。ペンションは清潔で気持よいところです。朝市に出かけると、農家自家製の野菜や手づくりのケーキ、ジャムなどが豊富。日本の野菜とさして変わらない種類ばかり。旅にある時、何よりも心がけているのは野菜を努めて採るようにすること。それを補うには果物しかなく、疲労が蓄積すると風邪をひきやすくなるので注意せねば。中心にある聖アルジュベラティ教会と礼拝堂は、この国最大で500年くらい前に建てられた見事なゴシック建築。その威容は度胆をぬく程の広大さ。内部をそっと覗いてみると、落ち着いた色調のステンドグラス。教会はいつも扉が開いているのが常でしたが、近頃は警備の都合か閉っていることもあるようです。博物館の地下には、1935年に偶然発見された中世の金貨と宝石が大量に展示されています。デパートに足を運んでみましたが、センスは悪くファッション的には遅れているように感じました。プラチスラバへの列車は6時間程かかるので、予約をしてコンパートメントの席を確保しました。

 プラチスラバはさすが首都。駅の大きさも今までの町とは違います。電車とバスの交通網が発達しています。便利だけの理由で選んだ宿が居心地悪い雰囲気。旧市街地の中心であるフラヴネー広場に、博物館や国立劇場、市庁舎の建物だけでも見応えがあります。日本大使館が目抜き通りの真中にあり、ドナウ川のあたりに独特な外観のプラチスラヴァ城。明日はウィーンに船で行きたかったのですが、11月までで今は出航していないようです。仕方なく列車で移動して、3日目には帰国しました。

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