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バナウェイの棚田
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近くにありながら何故かフィリピンを旅するチャンスが無かったのですが、相棒さんの一言で、即決定する。
無人、無名島を含めて7107島もの群島国家、100以上の多民族の国でもある。333年のスペインの長き植民地支配あり、その後アメリカ48年、日本は3年の侵略の歴史ありで、その各国の統治の影響が強く残っているらしい、サー自分の眼で其れを確かめに行きましょう。 |
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ラワグ サン・オウガスチン教会
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マニラ→ラワグ(北イロコス州)
2人は関空、1人は成田からでマニラのニノイ・アキノ国際空港のターミナル2に集まる。アジアの大きなハヴ空港、年中夏の国の太陽はギラギラと眩しい。現地は31度、冬の国からの訪れは、無性に暑く感じる。彼を待つこと暫し、少し太めになって元気な彼はやってくる。
サテ、そこで相談あり、ルソン島の観光を終えてから、どの島に飛ぶのか?ボホール島とパラワン島が私達の候補でした。先ずはパラワン島を目指そう言う事になり、往復のチケットを求めました。フィリピンの良さは航空券がとても安いことです、でも早めに予約しないと、すぐ売り切れになる事らしい。是で大体の旅の行程は決まる。
一気に国内線でラワグに飛ぶ。1時間程の飛行、夜に着いたので、何も思う暇なく、町の観光バスが、ホテルまで送って呉れる親切。表通りに面したホテルは、夜中喧しい音が響く。朝食付きだが、選べるのはコーヒーかお茶、パラパラのご飯と、焦げた魚と黄味が白い卵一つ、安い宿だから仕方ないのかな。
この町は鄙びた田舎町、高い建物はなく、所々スペイン風の建築物がある。午前中を此の街の観光に、先ずは中心のベル・タワー、聖ウイリアム大聖堂に。スペインの植民地にされた年月の長さが、キリスト教を十分に浸透させている。この町に不釣り合いの重厚な建築物は、主に宗教と関係している。それだけ此の街の人々の信仰篤き表れのようです。でも教会の内部は、意外とシンプルで窓もステンドグラスではなく、格子の窓、風が静かに入ってくる。暑さを凌ぐには、旅人に快い休憩の一時を与えてくれる。
ジプニー(米軍のジープを乗り合いバスに改造した乗り物)に乗り、バロック様式で世界遺産に登録されているカトリック教会サン・オウガスチン(パオアイ)を見物に行く。交通費は驚くほどに安く、人々は優しく、笑顔で接してくれ、降りる場所、帰りの乗り場まで、教えて下さる。この教会は只今修理中、見ごたえの有る教会ではない。屋根はトタン張りで、随分貧しげな世界遺産、内部も華美なところはなく、質素そのもの。教会の側面の横に張り出した構造に変化ありの特徴がある。 |
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ビガン 世界遺産メナクリンロゴ通りをカレッサが行く
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ラワグ→ビガン
バイクにサイドカーを付けた乗りものをトライシクルという、地元の人は5?6人乗っているが私達は3人で丁度良い。バスターミナルまで乗せて貰う。デラックスバスでビガンに向かう。年中暖かいこの地は、何でも良く育つらしい、タバコの栽培が特に盛ん、青々とした大きな葉っぱが光り輝き、収穫しているところもある。トウモロコシ、キャベツ、野菜は何でもある。色とりどりのブーゲンビリアが各家庭の屋根まで伸びている。普通の田舎道をバスは気持ち良く走り2時間ほどで、ビガンに着く。
ビガンのホテルを探す、先ずは便利さ、清潔さ、ホットシャワー有りかな、それから値段4つのポイント合格なら、そこに決める。アンテイークの家具に囲まれたホテルに3人部屋を貰って、サアー観光に行きましょう。スペインの情緒溢れる世界遺産の街並み、メナクリンロゴ通りの両サイドは16世紀に建築された建物ばかりが並び、観光客相手のホテル、レストラン、お土産物屋さん等、同じような店が多い。その通りは白い石畳になっていて、車を通行止めにしてカレッサ(馬車)が観光客をのせて、蹄の音も軽やかに響かせ走っている。私達もあの馬車に乗って此の街を一周しようと思いたち、交渉する。時間と金額は決まっているので、難しくない。ベル・タワーから、聖ポール大聖堂、ビガンの陶器工場、庶民の市場を、厚かましくも馬車に乗っての観光とは。少し後ろめたい気持ちでした。
観光案内所でバナウエイの行き方を聞くと、やはりビガンからのバス路線はなく、バギオに南下して、コルデイラ山脈の真ん中へ北上するしか方法はないらしい。フィリピンの旅に出かける前に旅行社に問い合わせ、1社はビガンからのバスは有る、でも1社はないと連絡が有ったので、気になっていた。やはり現地の情報が一番確かであり、仕方がない、明日はバギオ行きとする。
お昼に戴いたランチがとても美味しかったので、夜も同じ店に通うが、そうは問屋が卸さないらしい、注文したのはまずかった。相棒さん達はフィリピンビールのサン・ミゲルはお気に入りらしい。少し涼しくなる頃には、何処からともなく観光客がゾロゾロと集まりだし、世界遺産通りは満員の人だかりとなる。夜も早朝もあのカレーズの音は、小気味よく、一種のカスタネットの音。何も気にならず、休みました。 |
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ビガン→バギオ
ビガンの宿の朝食も魚のから揚げとパラパラのご飯とコーヒー、何となく変な取り合わせです。バギオ行きの長距離のバスに乗る。トイレ休憩が2回ほど、色んな食べ物を持った売り子さん達がバスの中に入ってくる。東シナ海に沿っての海岸沿い、舗装された大きな道路を走りバワンから東に山の道を行く。そこからは道が狭く、悪路となり標高1500m、風が涼しくなってきたな、町のシンボルの巨大なバギオ大聖堂が見えたと思えば、そこが今日の目的地、5時間位走ったかな。山間の起伏に富んだ街、マニラ政府も夏の間の首都として移動してくるらしい。フィリピンの富裕層の避暑地とか。バギオに着くと同時にバスは動かなくなり最終地点でなく、途中で降ろされる。何が何だか分らぬままに、リックを背負い、凄い群衆の中を3人は戸惑うばかり、今週の土、日、花の祭典があり、今日が終わりの日で、人々は帰宅の乗りものを求めて右往左往している。それにしても物凄い群衆の数、街の中心はバーンハム公園、緑豊かな憩いの場所のはずだが、今日は特別な人の渦の中です。宿をやっと捜し、少し高級ですが今晩は何処も満室が多い、テイクアウトの若者風の店で夕食を求めて、宿でゆっくりと戴きました。相棒さんは冷えたサン・ミゲルを美味しそうに、楽しんでいました。 |
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バギオ→バナウエイ
昨日のあの凄い人出は何だったのでしょう。あの喧騒は嘘のように、今朝は人影もなくひっそりとしている。バスの情報は確かめていたので、時間に合わせて、御茶と少しの食ベ物持参で長距離を覚悟して乗り込む。フィリピンの山深いコルデイラ山脈の中央のイフガオ州の町に行こうとしている。山の道はオフロードばかり、エンジンの音は軽やかではなく、喘ぐように幾つもの山を、谷を、小さな集落、を越えて行く。流石に暑い国だけありのトタン屋根が多く、壁は竹で編まれたもの、風通しは良いのでしょう。エンジンの調子は益々悪くなる、道路工事の一方通行で待ち時間が度々、決局9時間掛かりました。
バナウエイに着いてからは急に雨も降りだして、ユースホテルの看板を見て、直ぐ其処に宿を決定しました。バナウエイで一番大きなホテルらしい。 |
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バナウェイの棚田のビューポイントで(イフガオ族と一緒に)
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バナウエイにて
昨夜は激しい雨が降っていた。でも次の朝はすっかり青空、高台に建つこのユースのテラスからは棚田が見下ろされて、朝日に照らされて、田んぼの水が輝いている。水蒸気が登る様は何時まで見ていたい、夢のような風景です。ユースの従業員がこの地は今頃では夕がたは何時も夕立があり、観光は朝早くから出掛けるのが良いと忠告を受ける。朝食はバイキング料理、値段からは考えられない豪華版、部屋は広いし、シャワーの出方も言う事なしのホテル。
先ずは近くのイフガオ族のタムアン村へと歩き始める。昨夜の雨で滑り易くなった階段を,用心しながら、ドンドン降りて行く。小学生の子供達が下の村から登って来る、何処にでも居るような顔立ちの子供達、イフガオ族の末裔とは思えない。村は本当に小さい、10軒位が昔ながらの高床式の家に、今も住んでいる。土産物を見ないかとか、写真を撮らないかと、観光客からいかにしてお金を貰うのかを見えすぎる心根が悲しすぎる村でした。
私達はもっと規模の大きな棚田を見たい。トライシクルを時間制で雇う、この国の人々が一番利用するトライシクルは、何と効率の良い乗り物なのでしょう。運転手さんの後ろが、気持ち良いポジション、持つところを工夫すれば、危なくない。
以前、中国の昆明から西双版納(シーサンハンナ)に向かう折に、空から元陽県の平面上の巨大な棚田を眺めたことがあるが、離れた上空からなので実感がなかった。ホテルから20分位近くのビューポイントから眺める棚田は、2000年も前からイフガオ族が耕して稲を作り、生活して来た棚田である。「天国への階段」とか「耕して天に登る」と言われている。平坦な土地が無いが為に山の斜面に必要に迫られて耕した棚田が、こうして世界遺産に成るとは、皮肉な事だなと思います。後継者不足で危機遺産にもなっているとか、何処の国にも、同じ現象が起きている。イフガオ族の民族服を着て、猿のドクロを帽子に付けたお年寄り達が写真を一緒にと、次々と寄ってきます。何がしかのお金か物が欲しいのでしょう。 |
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左=バナウェイの住宅地 右=イフガオ族の家屋
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4つ程の大きな棚田が良く見えるポイントに連れて行って貰いました。明日の民俗村を連れて行って貰う事を、約束して別れました。バナウエイの中心は小さな店が寄り集まっての大きな市民市場となっています。生活に必要な物は何でも売っています、魚も意外に新しく、日本では見られない珍しい種類もあります。ビガンでも買いましたが、ここでも先ずはマンゴ沢山買って、宿に持って帰り今晩のデザートにと、楽しみは何か一つあるべきです。
私達は欲を出して、もう少し遠くのボンドック方面のヒワンとハパオの棚田に、贅沢にも一台のジプニーを借り切って行く。トライシクルでは断られたのが、成程と思われる位道が悪い、まるで沼田のようです、がけ崩れ有り、狭い道や起伏が激しく、身体の彼方此方をぶっつけ乍、次々と小さな村を超え、やっとの思いで村の棚田に着く。日本軍の陸軍司令官、山下奉文の降伏の地を眺めながら、コルデイレラ山脈の下に広がる大きな棚田を心おきなく眺めさせてもらいました。其の帰りにバナウエイ博物館に寄る、イフガオ族やその他の少数民族の生活の道具や装飾品や風俗の物を展示していました。狩猟民族でもあったのでしょう。狩りの槍や刀はよく切れそうに手入れされています。人が入る位のカメのような物は、死んだ身内を自分の家の床下に埋めるのだと聞いて、その風俗習慣の違いに驚きました。今晩も完熟したマンゴを買って、嬉しいばかり、相棒サン達は冷えたビールを楽しみに、夫々の密やかな至福の時は過ぎていきます。
今晩の夜行でマニラに帰ります、今日でいよいよ天国の階段、棚田ともお別れです。ユースに夕刻の6時までの滞在を延ばしてもらう。約束していたトライシクルのお兄さんは時間きっちりやって来る。棚田のビューポイントより、さらに上の道を登りバナウエイの民族村へと走る。途中の棚田をもう最後の思い出にと、じっくりと心に焼き付けました。
民族村はイフガオ族の伝統的な家屋を其のままに、5,6軒を公開している。大きな植物園になっていて、ランの花の原種が沢山植わっています、多くの花が色とりどりに咲いていて、その間を蝶が舞っています、珍しい種類の蝶もいるので、写真をと思っても中々難しいものです。魚の養殖所もありました。係の人が暇を持て余しているようです。民族村も宿泊施設が有るので泊まらないかと誘いに来る。この大きな村の中に、日本軍が敗戦時に何処かに金塊を隠しているらしい、今も捜しているとかを真しやかに話してくれる。私達は何時も市場に寄ってマンゴを買って、楽しみにしている。多くの国で戴いたフルーツの中で、やはり一番美味しいのは完熟したマンゴです。今夜の夜行バスに備えて、のんびりとしました。 |
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マニラ サンチャゴ要塞の入口
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バナウエイ→マニラ
マニラ行きのバスは満員です、冷房が利きすぎて車内は寒い、音楽も煩い。山道をくねくねとバスはギシーと音を立てながら、意外にもひと眠りしたと思ったら、もうマニラに到着いていた。早朝3時過ぎ、コンビニで時間を過ごし、高架鉄道に乗ろうとする、荷物のチェックが厳しく私達のリックの中まで調べられる。通勤時なのに、ガードマンが調べる間に、次の人は待たねばならない不便さ、乗り換えも又チェックの始まり。列車の中は押し競饅頭、やっとマニラの中心街に。4日後のホテルを予約して、そこに荷物を預けて、観光に出かける。
荷物が無くて高架鉄道に乗るのは、とても便利です。マニラ地区のリサール公園、スペインがフィリピンを統治していた政治の中心地、城壁がスペイン時代の面影を残すイントラムロスを囲み、一つの城壁都市となっている。世界遺産のサン・オウガスチン教会(同じ名前の教会はラワグで見学した。)石造建築の最古のもの、その造りは堂々として壁画のすごさ、威厳に満ちた教会でした。サンチャゴ要塞には、日本軍が占領していた時、地下牢にフリピン人達の捕虜を閉じ込めて、満潮時に水死させた悲しい歴史も有る。国民的英雄のリサール記念館には、彼の遺品が残り、日本人の恋人の肖像画が掲げてある。
マニラ大聖堂には大きなパイプオルガンとステンドグラス。私達は昨夜、ほとんど寝ていないので、マニラの激しい日差しの暑さには、身体に堪えます、涼しい所に行こうと、荷物を受け取り、早いが空港でパラワン行きを待つことにしました。 |
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パラワン島
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マニラ→パラワン島
パラワン島の州都プエルト・プリンセサには空路1時間10分で着く。その日は遅かったのでシクロのお兄さんの勧めるままのホテルに泊まった。近代的な窓なしで狭く、もう少し庶民的なホテルに引っ越した。真ん中に庭があり、四角く囲んで部屋が有り、のんびりしたホテル。此の街は、島の政治、経済、教育の中心です。かなりしっかりとした街のようです。
パラワン島の主な観光地、地下河川公園の事を聞くと、先ず其処に行くには許可書が必要らしく、其れが中々取り難いと聞く。シクロのお兄さんの機転で、発行所に早く並べば大丈夫。一番早く並びました。列に並んだ人は皆ツアーの会社の人々でした。難なく戴いて、其れを持参してツアーに入りました。 |
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サバンから地下河川公園のセント・ポール山の麓の島
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パラワン島にて
許可書の発行所の扉には、もう満員だから発行書は渡せないと書いてあったので、半ば諦めていた。こんなに簡単なら、如何してあのような張り紙をするのか、理解に苦しむ。是がフィリピンの在り方なのかな。ミニバンでガイドさんと迎えに来て、13人程のお客さんのようです。街を離れれば、やはり南洋の島、豊かな植物、果物、バナナ、パパイヤ、マンゴ、マンゴスチン、スターフルーツ、ヤシの巨木が何処にでも茂り、小さな村を豊かにしている。先住民族の村もあるそうだが、ツアーなので、そこに寄って下さいとは言えない。通りに見える小さな住み家は竹の壁、藁かトタンの屋根、高床式の簡単なもの、台風で一溜まりもなく、吹き飛ばされそうです。年中暖かい気候なので、是で充分なのでしょう。此処にも犬が痩せてウロウロ走っている、鶏も何処にでもいる。車に引かれないかと心配する。
2時間30分程で、南シナ海に面したサバンに到着する。先ずはバイキングのお昼を戴く。もっと静かな海沿いの田舎街を想像していましたが、世界中から大挙して観光客が訪れている、全ての人々は地下河川公園が目的のようです。私達はガイドさんと一緒に、森林公園をのんびりとトレッキング、猿とオオトカゲを見物、そしてエンジンの付いた8人乗りのボートで海に出てセント・ポール山の麓まで、其のボートに乗るのに1時間30分程を待たされる。麓の洞窟の入り口でも順番が有りで、足元を絡げてやっと救命道具をつけて小さなボートでボートマンの手漕ぎで、一番前の人がライトを持たされて、洞窟の中に流れる地底川に入って行く。狭い所や広い処、海燕が沢山行き交い、その天井からの奇妙な岩や鐘乳石に囲まれた幻想的な有り様は、色々な形に見えるのを、勝手に名前を付けている。大自然が御造りになったフィリピンの秘境と云われる所以かな。年月とはよくも是だけの摩訶不思議な事をなさる神秘さに、気持はうっとりして、宿に帰りました。待つことの多いツアーでした。
宿に帰り現実に戻って、近くの果物屋さんにパラワン島のマンゴを買いに行きました。どうもマンゴの美味しさに病みつきになりました。マンゴの種が大きいので、皮の剥き方に要領が要る、それさえつかめばよい。横にスライスして戴き方も上手になりました。この旅で一生食べる量のマンゴを食べているのではないだろうか。 |
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プエルト・プリンセサ滞在
街の通りの両側の街路樹は大木が多い、合歓の木、ヤシの木、桜の巨木で、日本の桜とは少し違っている、花も蕾も大きく、部分的に咲いている。シクロの運転手ベンさんと仲良しになる。彼が明日から桜祭りがあり、大通りには、パレードが繰り出すという。横に張られた旗が靡いています。今晩は夜市が出るのでしょう、街角ではテント張りに忙しそうです。ベンさんにお願いして、公共市場に連れて行って貰う、大きなマーケットは清潔にしてある、肉も魚も野菜も全て新鮮です、旅をしていても主婦の眼になってしまう。
真ん前にスーパーもあって共存している。日本の物価の2分の1位かな。ヤシの実半分を機械で割って、その中のココナツミルクを削って、其れを買っていく人が多いけど、料理に使うのでしょう、どんな味になるのか、試してみたいものです。マンゴは持って帰れないので、私達をドライフルーツの店に案内してくれる。クロコダイル・ファームに行き、沢山のワニ達を見物し、60年も生きているお化けのようなワニにも会いました。そして森林公園ではパラワン島独特の動物や鳥達、そして博物館をのんびりと観光をしました。夕刻の航空でマニラに帰りました。 |
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マニラ
マニラ市内の繁華街の便利な処に4日前にホテルを予約していたので、安心していたら、以前見せて貰った部屋ではなく、もっと狭いところに変えられていて、こんなずるいこともするのだと、思い知らされた。この近くでは日本料理の店があって、味も中々のものです。コンビニや大きなデパート在りで、何も不自由しない、とても便利で快適です。
最後の1日をマニラ近郊のバグサンハン川下りをしたい。自分たちで行くのは難しいようなので、宿の近くの旅行社のツアーを頼む。明日の予定は決定しました。
マニラで一番大きなバクラランマーケットに行こう。高架鉄道は荷物が無ければ、安いし早いし便利な乗り物、バクララン駅周辺から凄い数の店と人々の混みあいで、まるで何かのお祭り騒ぎのようです。其の匂いと暑さに私達は居た堪れなくなり、逃げ出しました。宿に帰り近くを散歩すれば、ストリートチルドレンも時折見かけますし、歩道には貧しい人々が手を出しています、幼い子供を抱いた母親の、何か諦めきった眼で、通りゆく人々見ています。其の冷ややかな表情が気になる、少しの金銭をあげても、どうにもならない事は分っていますが、すぐ私は行動する。フィリピン政府が何とか手を差し伸べて欲しいです。 |
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左=バグサンハンの川下りの小さな滝 右=川下りの最終地、滝壺に入るイカダ
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バグサンハン川下り
ツアーのバンがやって来た、他の人はなく私達3人だけなので、とても楽な気持ちです。マニラから南東に走る、田んぼやフルーツ畑が続く農業地帯、庭木の店も道路に沿ってズーとある、2時間30分位かかる。この国の最大のラグーナ湖が見えて、バグサンハン川下りの畔に着く。足元を濡れても良い支度をして、3人乗りの細く小さく、前後ボートマンの舟に乗りこむ。最初緩やかな流れのところはエンジンの付いたボートが引っ張って行くが途中では人力だけ、逆流が激しくなれば、2人は足や手を使い上手に岩の間を越していく、底が擦れる浅瀬では、ボートを持ち上げる重労働です。両サイドの渓谷の花や小さな滝の様子を、鑑賞するもよし、最終の地点で大きな滝が現れて、その滝壺に竹の筏で行くことが出来るが、滝の激流で風邪を引くのではと思い躊躇した。韓国のツアーの団体さんが、勇敢にも挑戦していました。下りはとても楽な流れに乗って、川沿いの村を眺め、渓谷美を堪能しました。でもボートマンが如何にも自分達は疲れたとか、チップを沢山下さいの要求を、何度もするので、相棒サン堪忍袋が切れてしまう。是が貴方達の仕事だから、ツアー代金の中に入っているはずと。如何するのが一番良いのか迷うことも多い。
夕刻には私達は宿に帰りました。近くのロビンソンデパートで買い物に出かけます。どこからこんなに多くの人々が集まるのかと思うぐらい。日本のデパートよりもっと活気に満ちています。そして今回の旅の最後の晩餐は、やはり日本食になりました。
結果論ですが、もっと効率よく回ればボホール島にも行けましたが、今回はゆっくりの旅だった気がします。私達には是で良いのだと、満足をしています。 |
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タクラマカン砂漠をと思っていたが、家族の猛反対で余儀なく方向を変えて、ウズベキスタンとなる。私にも思うところあり、2人の相棒サンは初めてなので、観光も兼ねてアシアナ航空で出発する。今年の5月までは関空から直通のウズベキスタン航空があったのに、今は成田からだけしかない。ソウルからは乗客まばら、3席を倒してベッドに、熟睡の空の旅、その御蔭で食事はパスだった。タシケント国際空港には、知り合いの学生が待っていてくれる。 |
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リシタン村のモスク(左=ノジマさん、中=私、右=ホシヤハンさん)
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タシケント→フェルガナ地方のリシタン村
今日の行動予定はフェルガナ地方のリシタン村を計画した。タシケントからクイリク・バザールで車を雇うつもりだったのに、大学生が心配して其の世話もして下さる。私達は3日後のウルゲンチまでの航空券を求めようと、近くの航空会社に行くが、8月からウズベクの国民だけで、外国人はセンターまで行って下さい、そして$払いですと、2年前はこの国のお金(スム)払いだったので、少し多めに換金していた。この国は何の知らせもなく政府は勝手に決まりを変えて、国民さえも戸惑う事が多いらしい。
無愛想なドライバーさんと古い車で出発する。タシケント郊外には大農場も放牧も続く。
今は綿の収穫時、多くの人が腰を屈めて、胸に大袋を抱えて綿の摘み取りをしている。この国は小学生から一般の職業の人々も、国の為に綿摘みの労役の義務があるらしい。僅かな賃金は、支払われるそうです。遠くの山脈がうっすらと見える。薄いアスファルトの道はガタゴト、小さな田舎村を次々と超えて行く。カムチック峠(2200m)もすぐ其処なのに、車はクラッチが摩耗して、ストップする度に、エンジンの掛かりが悪く、ビクビクしています。車の点検はドライバーさんの義務なのに、心がけが悪いね。キルギスの国境が近いのでパスポートチェックが度々、軍隊を大勢乗せた大型の軍用車が、連なって通って行く。時折物陰には、銃を持った兵が居る。多くの国と接すれば、多額の軍備費が必要なのでしょう。平和で有る為には、警戒怠りなくの行動を、見せておかないとならない。私達には否が応でも緊張が走る。
次々と岩山の中の一本道を、暑い日差しを受けながら、何とか走っていく。フェルナガ盆地に近くに、緑が多く川が流れ、ロシア時代の味気ない建築のビルがある。車の調子がいよいよ悪くなり、知り合いと連絡を取り、車を換えて別の車で、やっとリシタン村に着く。 |
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リシタンのブドウ(近頃はワインも造る)
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リシタン村での2日間
フェルガナ地方のリシタンは陶器の村、マルギランは絹の産地と知られている。リシタンに以前訪れた際、日本に興味を持つ娘を、その年の秋に、我が家で3カ月預かり、今は大学3年生。夢に見たリシタンの娘に会えて、涙と涙の再会でした。久しぶりの娘は以前より、もっと綺麗に優しく成長しています。
今晩は日本語学級の学長さんの家で泊まることになり、夕食はウズベクの家庭料理、私達に気を遣っていただいたのか、野菜中心の美味しい料理でした。懐かしいナン(主食のパン)をちぎって、スープと一緒に戴く。デザートのメロン(ラクビーボールの形)は、優しい甘さの味。夏の暑さで熟された果物の旬の時、小振りだが日本の果物は、大体同じものが有るのではないかな。良い季節に来たなと思う。
リシタンの日本語学級は、ある日本人の方が、暗く元気のないこの村を少しでも明るくしたいと設立した。ボランティアで本を読んだり、遊んだり、日本語を教えたりの学級。その後継者はガニシェル氏である。今では大きくなり、日本人のジャイカの常駐の人も居て、英語を教える先生も居る。この村には、日本語が飛び交い“こんにちは”を誰でも言ってくれるのが嬉しい。私達が持参したキャラメルを、おやつとして、配って戴いた。
次の日の早朝、私達は何時もの散歩で、近くをぶらりとする。泊まった家から10軒位東には、キリギスの国境が有り、決して行かないようにとの注意を受ける。ウズベクの人は自由に行き来できるが、私達にはキリギスに入国する場所が決まっていて、其れを守らなければ刑務所行きだと言われた。
近くの民家は土と木が主な材料で、日本と同じような家屋と似ていますが、庭が広い。門が開いて居たので、中を覗いていたら、家族から招かれて、庭に生っている果物の大きな房の葡萄を、沢山戴きました。何処から湧いてくるのか水が豊富、家の前に小川が流れ、放牧の牛や羊、山羊が水を飲みにやってくる。子供たちが大きなバケツで水汲みに来ている。 |
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鳩がいっぱいいたモスク(左から、大野さん・ノジマさん・ホシちゃん・児島さん・私・司祭さん)
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朝食が終わると、ガニシェル氏が、車でフェルナガ地方を、観光に案内して下さるとのこと。先ずは郷土史博物館、この地の歴史や産業、風俗について、学ばせてもらいました。
ここには大学や専門学校が多い、人口の60%が学生らしく、若い人々の町である。大きなバザールも所々有る。庶民の生活物資は、何でも揃うみたいです。肉屋さんは、頭部なしの羊やヤギが皮をはがされて吊るされている、牛の足のそのものがデーンと飾ってあり、怖くて前を通れない位グロテスク、日本の肉屋さんのようではありません。
マルギランはシルクロードの絹の生産地として栄え、桑畑が多く、街路樹も桑の木だった。蚕を育て繭から生糸を紡ぐところから、全て手作業で、シルクの生地を作る工場に行く。京都の西陣の機織りのようでした。現代風の色合いの矢がすり模様は、ウズベクの民族衣装として、何か正式な集まりには着用している。日本の着物よりは、その度合いは大きい、もしかして母たちの時代に、愛用していた矢がすりの柄は、ここが発祥地かも知れない。此処で生産した絹地はマルギラン・アトラスとして、ブランド物として通用するらしい。
コーカンドに行く。フダイヤル・ハンの宮殿は、前の大きな庭のあたりが、すっかりと整備されて、美しい市民の憩いの場になっている。ガニシェル氏は私達が見物している間に、自分の家に日本人を泊めている事を、公安に申告しなければならない、その滞在登録(レギストラーツィア)の証書を、各自のパスポートに貼らねばならないので。面倒なことです。
フダイヤル・ハンの宮殿には、ハーレムが沢山あったらしい。何処も同じく権力者は、若い女性とお酒が大好きらしい。内乱で追われたので、内部には然したるものは残っていない。昼間は真夏のような暑さです。日本出国時にやっと秋の気配を感じると思っていたのに、此処にきて又この暑さ、ぐったりとしてしまう。
今晩はリシタンの娘の家庭で、夕食の御呼ばれに招かれ、嬉しい限りです。以前泊まらせてもらった部屋を大広間にしている。いずれは息子や娘の結婚を考えて改造していました。娘の一家と親類が集まり、ウズベクの料理のプロフやサラダ、沢山のフルーツで歓待して下さる。スープが無いのが物足りない。この9月に結婚した親戚の若い奥さんが、ベールを被り、矢がすり模様の上下の民族服で私達3人に、一人ずつ3度の礼を、伝統的にしてくださる、旅に在る私達は恐縮してしまいます。 |
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リシタン村→タシケント→ウルゲンチ→ヒヴァ
リシタンの陶器窯は日本語学級の同じ場所にあり、泊まった家のすぐ前なので見学に行き、ほんの少しだけを買いました。1000年以上前より、地元の天然の釉薬を用いて、独特の青と細かい模様が美しい。日常の生活に使用するよりも、飾るのが目的のようです。いよいよ、心地よいリシタン村を離れる。私の可愛い娘との別れ、涙をせずにきっぱりと。何時の日か、元気で有れば会える事を信じて、娘とガニシェル氏の家族と別れ、またしても首都のタシケントに向かう。
今回の車はまだ新しくしっかりとしている。通る車はやたらと韓国車が多い。偶に日本車の中古車が。綿畑が永遠の如くに続き、家畜の餌のトウモロコシ(実が無いので)麦畑も続く。農業国として自給自足は出来ているみたい。昨今、綿の価格が高騰してこの国の経済を、潤しているそうです。今日は暑くもなく膚寒い位です。やっと5時間以上乗って、タシケントの国内空港に着く。国際空港と隣合わせだったので安心していたら、ウルゲンチ行きだけは、別の場所になって、第3ターミナルで、ここではない。又変えられていた。タクシーを飛ばして移動する。
ウズベキスタン航空はサービス悪い、笑顔一つなく、乗客には水とジュースのみ。1時間30分でウルゲンチ着、そしてタクシーで30分、観光の中心地ヒヴァに行く。やっと今晩の宿に落ち着いた。広い4人部屋を、3人で朝食付きで$40、1人(1066円)大きなバス、トイレ付。2泊するので楽しみです。 |
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左=イスラーム・ホジャ・メセドレとミナレット 右=タシュ・ハウリ宮殿
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ヒヴァ(インチャン・カラ)
イスラムの聖都ヒヴァの町は、外敵の侵入を防ぐために、2重の城壁で守られる内側を、インチャン・カラと言う。私達の宿は西門の近くで、すぐ前が未完成のカルタ・ミナル、これが宿の目印になるので、迷う事はない。其の日はもう夕方、持参したコイルヒーターで熱湯を作り、即席米や味噌汁、御茶で、やっぱり日本食はいいなの思いをする。
次の日の朝食は、2階のテラスで極普通、そして2日間の入場券を買う(1日のはない)、西門より入場する。カラの中には20のモスク、20のメドレセ(神学校)6基のミナレット(塔)がある。カラの中で歩きは、自由だが主な建物の中は入場券のチェックがある。カラの中は、中世にタイムスリップした感じ、未完成の巨大なカルタ・ミナルを仰ぎ見て、神学校のムハンマド・アミン・ハン・メセドレはホテルになっている。日本人ツアーの御客さんの、常宿になっているようです。牢獄と造幣所のキョフナ・アルクでは、テレビの撮影が行われていて、女性歌手が声量豊かに歌っているので、暫くの間、休みがてらに聞き惚れる。屋上に登りヒヴァの町を一望する。タシュ・ハウリ宮殿に、ハーレムが160室在り、正妻も4人の部屋が残っている。柱1つにしても見事な浮き彫りあり、豪華なタイルの装飾がみごとでした。アラクリ・ハン・メセドレはキャラバン・サライ(隊商の宿)であったし、イスラーム・ホジャ・メセドレはヒヴァで一番高いミナレットもあり、相棒サンは別料金で頂上まで登っていた。ミナレットは罪人をそこから突き落として、死刑にする事も、イスラムの御祈りの声を、高い処から響かせて誇負する目的もあるそうです。最も印象的なモスクはジャマ・モスクでしょうか、天窓からだけの光で彫刻された213本の柱が浮かんでくる様子は、幻想的でした。廟もあり、パフラヴァン・マクムドには泉が湧いている。その横の王家の廟の屋根がポコポコと並んでいて面白い。博物館、メセドレ、ミナレット、モスクには、観光客相手に土産物屋さんが所狭しと並んでいる。即席の店もある。管理している係の人達も、自分が作った小物を、座るイスの上に並べて、2重のお金稼ぎをしている厚かましさ。商魂逞しさはあるが、押し売りはしませんでした。
2日間はヒヴァのバザールでメロンやブドウを買って来ては、その甘い美味しさにうっとりとしました。レストランは沢山あるが、プロフ(味付けご飯)とラグマン(うどんに似ている)以外は何を注文してよいのやら。結局持参した日本食になります。
さあ、明日はブハラに行きます、バスはあるが時間的に余裕がないので、タクシーを予約したいが、宿と観光案内所の値段と信用度の問題です、一か八かで勝負しましょう。 |
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朝日(イスラーム・ホジャ・メセドレとミナレット)
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ヒヴァ→ブハラ
早朝の日の出。モスクの後ろから、黄色と赤を混ぜ、少し濃い赤の茜色、段々明るくなる様子に感激する。予約した車は、約束時間前にホテルの玄関先で待っていてくれる。大柄の神士、多分8時間位かかる。今回の一番辛いドライヴではないかな。一旦空港のあるウルゲンチにバックして、幹線道路に入っていく、アムダリア川に沿っての道路は隣国のトルクメニスタンとの国境でもある。ここもアスファルトが薄く穴ボコが続く。季節の綿摘みの取りいれも、もう終わっている綿畑もある。畑を過ぎるとキジルクム砂漠がズーっと続き、ラクダ草が生え、砂ぼこりが舞う。緑化政策で植林をしたのが見られるけど、多くが枯れている、砂漠化の進みの方が、早いようです。車は猛スピードで走り、言葉のつう通じないドライバーさんとは、無言の行、何時もヒマワリの種を食べては、殻を吐き出している。以前アムダリア川を通過する時に、廃船を並べて、その看板の上に厚い板を敷いて、車を通していた。いざ隣国との戦い時は、船を撤去すれば渡れなくなると聞いていたが、今はすごく立派な橋が掛かっている。管理人さんはタバコをくわえて、のんびりしたもの。国境を接するので、時々車止めがあり、パスポートチェック。トイレタイムは1回だけ、通っている道の隣には、広く新しいもう一つの道路が完成間近。アスファルトも20センチ以上の厚さあり、開通後はもっと時間短縮できると思う。この砂漠の地下に巨大な鉱物資源が眠っていると聞いたので、多分その資源の為のものでしょう。どこかの国の援助で造られていると察する。
ブハラの中心(ラビハウズ)に到着する。砂ぼこりと暑さ、腰も痛いので、少し星ありのホテルを選んだ。でもこれが大いに失敗だった。部屋は広く清潔ですが、隣との壁が薄く、日本語が聞こえる。日本人ツアーの宿でした。何時もは静かな日本人は集団になれば、如何してこんなにも喧しいのでしょうか、不思議です。そして排水が悪く洗面所もシャワーも、水の流れが悪い。明日は変わりましょう。
旅にあり友との出会いを喜び やがて別れはほろ苦き味 |
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左=イスマイール・サーマーニ廟(中央アジア最古のイスラム建築) 右=バラハウズ・モスク(ブハラのハン様の専用モスク)
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タキの内部の絨緞やスザニ売場
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ブハラ観光
次の日の朝食はバイキングスタイルのとても豪華版でした。が、近くのホテル街で以前泊まった所にモーションを懸けてみれば、前と同じく安く清潔で、レセプション方はフレンドリー、即決定する。この近くにナンを焼いている店があったはず、記憶を辿り路地を入って行くが、中々思いだせない。でもそこは匂いで鼻がピクピクッと、ここのナンは薄く食べやすく、熱々は美味しくって、宿に帰る前に1枚はお腹の中に。
さー、ブハラを観光するぞー、地図上から北東の遠くより歩きでの順路を、相棒さんが考えて下さる。イスチロハット公園の中を突切って行く、元気な少年とお母さんが先導してくれる。
イスマイール・サーマーニ廟は、中央アジアに在る最古の廟。不思議なレンガ積みの形が芸術的で、内部での陰影を、良く考えて建築されている。近くの道が補修中で、迷ったり尋ねたりで、やっと預言者ヨブが水不足の時に杖で叩けば泉が湧いたという、日本にもよくある伝説のチャシュマ・アイヨブに行く。以前は水を求めて(眼病に効く)、多くの人達が列をなしていたが、水を止められて内部は、すっかりお土産屋になっている。時を経るに、人の心も変わってしまい、水より$とユーロを、欲しがる商いの場所に変っている。前の庭では、地元の人たちが、鳩を持ち寄りの交換会をしている。これだけ通信手段が発達しているのに、鳩は何のためなのかな。近くのお土産屋にWCマークがあった。10歳位の女の子が守っている。500スムとある、1000スム渡すとおつりを呉れない。自分からあげる事はするが、うやむやにはしたくないので、断じておつりを貰った。
王様(ハン)の専用のモスク、バラハウズはアルク城のすぐ前にある。多分ハンは赤いジュウタンの上を、御供に傅かれながら、モスクに通ったことでしょう。運動不足の歴代のハン様は短命であったらしい。このモスクは彫刻された胡桃柱が20本、テラス状になった空間にあり、前の庭には池のある独特な建築様式。私達は何方かに付いて、モスクの内部に、御祈りをする人の後ろに座して、静かに一休みをする。
アルク城は巨大な城砦の上に築かれていて、観光客の入り口は一つしかないので、高い入場料を払わせられるが、内部は然したるものは残っていない。何処も売り物のお土産やさんばかり。少しの展示物の部屋では、ここもヒヴァと同じく、自分の手作りの物を、イスの上に広げて売っている。少しでも反抗の兆しを見ただけでも、即死刑という残酷極まりなしの王様達は、今の状態をどんな気持ちで、あの世から眺めて居るのでしょうか。チンギス・ハンが眺めようとして、帽子を落としたという巨大なカラーン・ミナレットに行く。その周辺はモスクやメセドレばかり、この一帯は宗教、政治上でも重要な中心地であった事でしょう。素晴らしい歴史的な建物ばかりで、頭が混乱しそうです。
さー、タキ(屋根ありのバザール)に行こう。丸屋根で高い天井、光線が良く入ってくる。かつては職人専門の店が、今は観光客目当ての何でもありの、ショッピングセンター街となっている。ゾロゾロとお客さんの出入りが激しい。私達も民族衣装をまとった売り子さんの呼び声に、連れられて見物する。特にヒヴァで売られていたスザニ(女の子が生まれたら、母親が其の子が嫁ぐ時に持たせる、ベッドカバー、テーブルセンター、壁掛け等を刺繍して準備する布)、ユニークなはさみ(刃の部分が鳥の嘴)、刀剣、凝ったデザインのカーペット等、荷物になるので何も買わないけれど、見ているだけでも楽しい。このタキを少し離れた所から見ると、屋根がタコ焼きの鉄板をひっくり返した形になっているのが、おもしろい。
私達は4本のミナレットが目印のチョル・ミナルに行く。青き空に美しい蒼いミナレットが4本、突き出た様子は清々しい。門番小屋として建てられたようですが、とても印象的な建築物です。旧市街の迷路のように狭い道には、生活の匂いがする。子供たちが遊んでいるのを見ていると、どの国の子供も同じ遊びをしています。そして可愛い。庶民の生活が見えるのは、旅の一番の楽しみです。
明日のサマルカンドの行き方を、如何したものかなと迷う。旅行社は吹っ掛けてくるし、ホテルの紹介に頼るしかないのかな。 |
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ブハラ→サマルカンド(5時間)
朝の散歩はラビハウズ近くを。タキも早くから開店している店もある。お土産屋さんの呼び込みも、意外とあっさりしたもの、しつこくないので気楽です。
予約していたドライバーさんは、早めに来ていて、レセプションの人の友人のようです。中心街は車シャットアウトなので、車止めまで歩いて出発です。道路はすっかり修理されて、以前より快適なドライヴ、広大な田園地帯と放牧、やはりこの国には、圧倒的に綿畑が多く、摘み取りに忙しそうです。一気に摘めるのではなく、2,3回に分けて。1回目が楽だが2回、3回目、後になるほど辛いらしい。大きな袋を抱えて、腰より低い摘み取りは、さぞかし腰も痛かろう。若い人でないと無理だなあ。
長い厳しい冬に備えての牧草も、延々と続く。国境を接していないので、検問は2回だけでした。5時間ほどでサマルカンドの中心地、レギスタン広場に着く。昨夜予約した宿は、気楽に迎えてくれる。2階の日当たりのよい部屋、窓から下を通る人を眺められ、洗濯物も、良く乾きそうだ。この宿では夕食が$3で、家庭料理が戴けると聞き、早速夕食を予約する。今日も長いドライヴだったので疲れましたが、夕方のレギスタン広場だけでも散歩しよう。知っている者の強みで、裏口から入る。3つの大きなメセドレが威厳に満ち、その調和のとれた建築物に、唯見とれるばかりの私達でした。 |
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シェルドル・メセドレの入口のアーチ(子鹿を追うライオンが人の顔を背に描いたことで罪となる)
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サマルカンド観光
泊まった宿は日本人バックパッカーの溜り場。夜の7時からの夕飯時には次々と若者や同年輩の旅人達が集まり、夫々の旅の話が始まります。以前から此処のオーナーと2人の息子達は、日本人に愛され、連泊する人ばかり。こんなに気楽に過ごせる宿は珍しい。
私達は再び、レギスタン広場より歩き始める。昨日の賑わいが嘘のようにひっそりと静まり返り、かえって其の3つのメセドレの姿を堂々と見せている。“青の都”とも“イスラムの宝石”と呼ばれるこの街の中心を印象深くしてくれる。アレキサンドロスが遠征の折に、シルクロードの中心的存在であったこの都には、驚愕したらしい。でもモンゴル軍ジンギス・ハンの襲撃により、破壊尽くされた。戦略に長けた勇敢な王ティムールと、聡明な学者ウルグベクにより、この都を見事に復活、建設した歴史が有る。もう一度裏から入場して、シェルドレ・メセドレのアーチに、人の顔のタイルのモチーフをよく見る。これが偶像崇拝を禁止したタブーになるとは、宗教の力は空恐ろしい。現代にも通用する事なのでしょうか、疑問に思います。
ビビハム・モスクは中央アジア最大とか、修復は進んでいるらしいが、以前と変わりないようです、まだまだ未完成です。このモスクにも数々の伝説は残っている。改めて聞けば、それも巨大さ故に、常に纏わる宿命のようです。入場料は一般の物価からすると、相当な値です。管理する職員が、机の裏に隠してあるTシャツを売り込んでくる嫌らしい根性を見る。モスクのてっぺんの帽子形の屋根がボコボコと、波打つブルーの濃淡になっていて,離れて見る方が美しい。中に入っても大きなドームのようで、鳩のマンションです。糞の山と匂いが充満しています。もっと修復を急ぐべき、観光の目玉が泣いてます。
近くのショブ・バザールに、庶民の匂いを嗅ぎに行く。サマルカンドのナンは、この国の有名品で、2年位は腐らないとか。本当でしょうか。此処のナンは分厚くて、表面が光っていて、食べにくい。夫々のナン焼き屋さんによっての違いがあり、買う人も好みがあるようです。ナンの出来立てを運んでいる少年に、“一つ下さい”と求めると1000スムと言う、相場は500スム(一枚)なのに、観光客と見て足元をみているのは分っているが、そんな時は、オマケと思い払います、それよりも熱々は何よりも美味しい。バザールでは、生活に必要な物何でもござれで、旬の果物何を戴こうかな。メロンかブドウがお気に入り。宿には共通の大きな冷蔵庫が2つもある。良く冷やして戴きましょう。朝鮮族のキムチ風のおかずが、とても美味しい。一旦宿に帰りお昼に戴こうかな。
次の日、昼間は暑い位ですが、湿気が無いので、木陰や部屋の中は快適です。多分真夏も、こうであったでしょう。夜は10度以下の寒さ。日中と夜の寒さが激しいと、疲れが風邪を呼ぶこともある。日本人の金髪の若者が、中国よりハードな旅を続けてきて、熱と下痢で、相当辛そうだった。解熱剤と抗生剤、胃薬をセットにして、沢山の水を飲むように、そして直ぐに寝ることを約束して別れました。如何したでしょうか、気になります。
又バザールをと思い、入口のところで尻もちを着きました。皆が見て大笑いをしたそうですが、そんなにおかしい転び方をしたのか、自分では分からない。バザールの後ろの丘のハブラティ・ヒルズ・モスクに登る。地元の人達のモスクを見学し、今来たバザールを見渡す。相棒サンは小さなミナレットに、登っていました。アラシャブの丘はモスクの前からの大通りに沿って歩けば、少しずつ見えてくる。モンゴル軍に破壊される以前のサマルカンドは、この丘の上に在ったらしい。今は荒涼とした雑草の丘。未だに発掘はされてなく、これから調査するでしょう。歴史上の繁栄の跡は、今暫くは静かに眠っているようです。
茫々とラクダ草は忍び寄り 空しく大地は流転の歴史 |
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シャーヒズィンダ廟群
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市民の墓があるところからシャヒンダー廟群の、一番奥の廟より見物を始めました。ティモール家代々、夫々のタイルに思考を凝らし、廟の外部や内部に好みのタイルを張り巡らし、まるでタイル模様のサンプルのように飾り、タイルの宝庫です。死後にも、こんなにも美しい墓に葬られて、現代もイスラムの聖地として、この国の人々は巡礼に、訪れています。いかにティモール家が、偉大な一族であったかを、知らされる。観光客は重そうに登って来ますが、私達は両側の廟を見学しながら、下って行くので、少しは登りよりは楽をしたのではないかな。そして入場料も要求されなかった。
昼過ぎにサマルカンドペーパーの工房を、見学しようと思いましたが、バスを待てども中々で、タクシーを飛ばす。かなり分かり難い所だったので、ドライバーさんも地元の人に聞いていた。西遊旅行社のツアー3人組みにパッタリ会いました。ヒヴァでもブハラでも、お会いした事はあるので、観光客が行くところは、決まっているのでしょう。ガイドさんが、説明をしていたので、聞かせてもらいました。全盛期にはこの村に400基もの水車が回り、紙漉きをしていたらしい。今はこの工房だけが残り、養蚕の桑の木を材料として作られるので、仕上がった紙は、絹のように光沢があります。日本の和紙とは風合いも違います。和紙の滲みを生かす手法には、用いられない紙のようです。ツアーの人々と間違えられたのか、見学には入場料が必要だったのは、後で知った事です。御茶もお菓子も戴きましたので、私達は持っていた日本のキャンディを、全て分けてあげました。
帰路はバザールに寄って今晩のデザートを買い、冷やして戴く。甘い香りに包まれて、美味しい旬の果物は、旅の楽しみの一つです。今夜の夕食のメインは、肉ジャガでした。大きなジャガイモの中までが、しっかりと味が浸みて、トロリと柔らかです。家での肉ジャガはもっと小さくしないと中に火が通る間に、煮崩れするのに、どうしたらこんなに上手に出来るのかしら。コツを聞きたいものです。宿の夕食時には、日本人食堂となり、色々な情報や、夫々の旅物語が始まります。これも一つの旅の楽しみです。
次の日タシケント行きの列車のチケットを買いに駅へ。旅行会社は航空券だけとか、列車のチケットはその前日しか買えないと、宿の主人は教えて下さる。駅では堅い感じの中年の女性係員。パスポート番号も名前も入力して、やっと売って戴く。列車のチケット位で何と大層な事、まだ社会主義の名残がある。是も後で気ずいたことですが、少しだけですが、お釣りをごまかされたようです。その場で聞かないのが落ち度なのですが、残念でした。 |
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グリ・アミールの廟の内部
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今日で3日目のサマルカンド。ティムールの眠るグリ・アミール廟へと歩いていく。サマルカンドブルーの屋根、ドームの美しさ、内装は金を惜しみなく使い、天井も壁も装飾で豪華。天井から大きなクリスタルのシャンデリアが下がっている。彼は自分の出生地のシャフリサーズに葬られることを、望んでいたのに、突然死で其の願い叶わずゴージャスな墓となり、さぞかし彼は残念な思いをしている事でしょう。多くの観光客を堪能させている。特にこの国の人々は、手で何かを掬っているような、独特な御祈りの仕方をしている。大通りの交差点に、ティムールの座像が有る。メインの通りには、花壇や噴水在り、次々と大きなホテルも建築中、この国も経済的に、発展の一途を辿りつつある。
グリ・アミール廟の近くのルハバット廟は、地味な土色をして、神秘主義者サガルジを葬ったと言われているが“霊の住みか”との意味もある。棺の中はむき出しである。近くを野良犬が、食べ物を探しているのは、哀れで悲しい。暑い日差しの中、レギスタン広場に戻る。私達はもう少し、庶民の暮らしを見たいと思い、個人の店やスーパーの多いパン・ジャクント通りを進む。とても近代的な個人商店が連なっている。もう少し先まで行けば道路拡張工事の為に一方側が取り壊されて、無残な姿です。引越しの最中の家ばかり。人々が沢山集まっている。正装しているので、結婚式に出会えたかなと、“入って良いですか”どうぞの合図で庭に入れてもらう。何かのお祝いで、親類縁者が集まり、今晩は食事会のようです。どの国も同じ事です。ああ良い匂いがする。サマルカンドの分厚い昔からの形のナンを、焼いているパン屋さんが近くにあった。一枚を笑顔で渡してくれる。私達はキャラメル一箱を差し出して、取り換えっこしました。今晩でサマルカンドも終わりです。夕食の御馳走は何だろうかな。 |
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サマルカンドのレギスタン広場のサイドから
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サマルカンド→タシケント(列車で3時間30分)
部屋の窓から、下を通る人々は寒そうに、分厚い物を着ています。前の白い大きなビルは病院のようです。看護師さんの姿が、チラホラしています。制服を着て、髪に白い大きなリボンをつけた小学生の子供達が、元気に通学しています。孫は今頃如何しているかな。
朝食が終わり、タクシーを呼んでもらう。宿のオーナー夫妻が見送ってくれる。駅では乗客以外は立ち入り禁止で、警戒をしている。入り口ではチケット提示して入らせてもらう。日本人のツアーの方が大勢いて、私達に“何というツアーなのですか”と問う。多分私達のように貧しく自由を好む旅を、説明しても分って貰えないと思っている。ホームには大きなトランクが、沢山積んである。日本人ツアーの方々の物、自分の荷物は自分で持たないようでは、最初からの考え方が違います。大きなトランクでは、地元のバスにも乗れないし、沢山の荷物は必要ないと思う。もし自分が荷物を運ばなくなったら、其の時は、旅を止めようと思うのは、自分だけの考えでしょうか。列車は遅れる事が常と思っていたが、順調に走って行きます。景色を黙って見ているだけです。前の席の同年代の女性たちは、沢山の食糧を持ち込んで、食べること、話すこと以外は何もしていない。あれだけ食欲有れば、太ること間違いなし、骨格の大きさからして、日本人の体格とは、格段の差があります。
京都で奈良大の留学生だったウズベクの娘さんに、帰国前のホテルだけを教えていたけど、尋ねて来るとメールが入っていたが、どうしたかな。 |
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ディアナさん(留学生)の家庭におじゃまして(左から、ディアナさん・お母さん・私・大野さん・児島さん)
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タシケントにて
最初の日のホテルに帰る、小さな3人部屋で窮屈だが、近くにスーパー在り、便利だけの宿、持参した日本食を終わりにしようとする。約束どおりに、ウズベクの学生さんは、父親と一緒に車で来て、タシケントの市内を何処でも、案内しましょうと。先ず我が家でお茶をと、勧められて、中心街の大学の近くの8階建てのマンション、古い建物だが、5階まではエレベターがある。母親がお菓子と果物一杯で、待って居て下さる。2年前空港でお会いしてからの、お付き合いです。
私達は残りのスムを使い切りたい。この国のお金は再両替不可なので、持っていても紙切れと同じ。チョルスーバザールに行く。この国一番大きなバザールです、その規模の巨大さ、人の多さ、周囲の出店の多さ、何もかも吃驚する。ドライフルーツ位しか、求めるものはない。でもバザールは、値段の駆け引きが面白い。中心街のツムデパートは、相変わらずの暗い雰囲気。人気はないようです。旧日本兵がソ連に強制労働で、建築したナヴォイ・オペラ劇場は、今も堂々としている。やはりこの国は元ソ連だった事を、知らしめている。テレビ塔を眺め、宿に帰り、荷物の整理をする。出国までの時間に余裕があり、近くの歴史博物館を目指したつもりが、地図が間違っていたのか、迷って工芸博物館に行ってしまう。でもそこには国宝級の陶器、スザニ、絹織物、カーペット等のコレクションは、とても素晴らしいものでした。夕食は学生のお母さんが準備していたウズベク料理のメインであるプロフを戴き、その美味しさは格別でした。学生は来年の京大の大学院生として、来日するそうですので、再会を約束して、空港で別れました。
木犀の香が充満した我が家、今年は豊作のミカンが黄色味を帯びて、枝から落ちそうになっている。水仙の芽が、一斉に土を跳ね除けて、伸びて来ています。待ちわびた犬も猫達も、優しい顔ですり寄ってきます。留守を任せた老母に主人に感謝して、又一時の平凡な主婦に戻ります。何と自分は幸せ者なのでしょう。
目にしみるサマルカンドの夢の青 放浪の旅は人恋しさ故に |
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