初(はっ)ちゃんの世界紀行――吉田初枝
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ンゴルの旅  〔2011.7.5〜7.19〕
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 モンゴルを思えば、緑の大草原に白く点在するゲル、疾走する馬の群れ、放牧の羊達、あの残虐な英雄チンギス・ハーンとか。夢は多様にひろがるばかり。いつかは訪れてみたいと思っていた。やっと実現にその機会がやって来る。
 7月、8月だけの直行便だが、遅れることは常のことらしく、私達も3時間余り待たされた。日本人で出張する会社員の方の話は、モンゴル人は時間を守らないし、全てアバウト。公務員に賄賂がはびこり、警察は袖の下で高級車に乗り、子供達の集団スリ等の注意を受け、気持ちの萎える話ばかり。でもここまで来た以上は自分の心に鞭打って進む以外なし。今回は丁度モンゴルの民族の祭典ナーダムが近い日を選んでしまったので、多分早目に宿だけでも予約をするべきと、多くの宿にメールを送れども梨のつぶて。旅行社を通じてなければ、情報を得られない仕組みになっている。一軒だけが丁寧な返事をして戴き、比較なしでその宿と車もチャーターできそうで、内容はその宿のオーナーに会った時に決めるとして出発する。
 国際空港は中位のホテル。宿より頼んでいた車は迎えに来てくれていた。ウランバトールは首都とはいえ少しのビルはあるが、日本の地方都市のような感じがする。宿は庶民の家のようで、小さな部屋、二段ベッドの6人部屋。シャワーも小さな台所も付いていて、朝食あり1人$6。意外と清潔にしてある。オーナーとモンゴルの国内の観光地の相談で私達の希望に沿ってゆっくりと11日間。ドライバーさんとガイド(コックさん兼)、泊まるゲル(中国ではパオ)3食付で1人一日を$45。オーナーは正直そうな人柄。公共のバスはあてにならず、鉄道は南北しかないので、車を予約せざるを得ない。OKしてもう1人の相棒さんが次の日にやって来るので、私達は待つ間に市内観光をする。
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 ザイサン・トルゴイよりウランバトールの市内

 ウランバトールの市内観光
 私達の宿より真直ぐ北へ、散歩がてらに小雨の中をガンダン寺に行く。途中銀行に寄って換金する。ゼロが2つ多いのでびっくりする。銀行員の態度はやはり社会主義の名残は残り、ニコリともしないで硬い感じ。チベット仏教寺院でネパールやインドのレーでの寺と内部はそっくり。モンゴルも仏教国であると強く認識する。ダライ・ラマスタイルのあの衣で早朝より多くの見習い僧が読経をあげている。位のある僧は坐って、人々の寄進を受けている。暫くすると或る僧が見習いの僧にお金を配っている不思議な様子を見る。あの世もこの世もお金次第なの。入場料もモンゴルの物価に比べると高い。写真を撮るにもお金、トイレもお金を払う。最初の日より何だか嫌なものを見せつけられた思いがする。現実とはこんなことと知らされる。小雨のお陰で寒くなり、宿へと帰りもう少し下着を重ねて外出する。宿の従業員の方からザイサン・トルゴイがすばらしいと聞く。三人の意見が一致、タクシーで行く。モンゴルではタクシーにメーターがない。そして、どれがタクシーなのか表示もない。横に手をすれば誰でも止まってくれるらしい。市内から3kmほど、200円位。丘の上の停車場で降ろされる。さて、そこからが大変。風が強く、小雨も降る中をやっこらさで登って頂上へ。途中黄金の大仏が見える。頂上は大きな輪のモニュメントがあり、ソ連とモンゴルとの友好の現状、過去、現代、未来の絵画が描かれ、その円形の下が空間となり市内が一望できる。近くの住宅が上から見渡され、大きな敷地に家を建ててもその囲いの中には必ずゲルを作っている。遊牧民の血がそうさせるのでしょうか。広い敷地なら寒さに強い果物でも植えたらと思うけど、モンゴルの寒さに育つ果物はないのでしょうか。自分達で歩いて帰るつもりでいたのに、右手を横に出したら、若者のデラックスカーに乗せてもらうことができて、オバアさん大喜びする。ノミンデパート前で降ろしてもらう。お礼に日本のキャラメル一箱、若者は不思議そうにみていた。
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 アマルバヤスガラント寺

 ダルハン→アマルバヤスガラント寺
 今日からモンゴルの旅が始まる。急にもう1人香港からの若い娘さんを入れて下さいと、昨日宿のオーナーから頼まれて承諾してしまう。群馬からの相棒さんも揃って総勢7人はロシア製のプレゴン・ワーゴン4WDで11日の食料を積んで出発する。市内は新しいビルを建設中であったり、道路の修復中で工事中が多くゴタゴタしている。発展途上国にある首都そのもの。昨日の観光で目にしたモンゴルの人々の顔付きは朝青龍に似ている人が多い。彼は典型的なモンゴル人の容貌だからモンゴルでは今もすごい人気者らしい。子供、特に幼児は色が白い。大人になれば私達と同じ皮膚の色。どうしてなのかしら。市内は車のラッシュ。ルールを守らない車や、信号少なく、横断する人も多く、危険いっぱい。通りを過ぎれば、郊外は車はスイスイと走っていく。広い。広くどこまで続くか分からないような起伏に富んだつながりの大草原。想像していた通りのモンゴル。日本の4倍の国土。短い期間に回れるはずはなく、北と西の或る部分を訪れるだけになりそうだ。気持ちよく走っているとタイヤがパンクする。路肩に寄せてスペアータイヤと交換するドライバーさんの手際のよさ。この国のドライバーは運転だけではなく、修理技術にも長けていなければ務まらない。ずっと続く緑の丘の大草原。永遠を形に表せばこんな姿なのだろうかと、自問自答する。木樹はなく丘の連なり、稜線から白い雲が湧く丘の下に、黒や白の羊とヤギの放牧があり、時々白いゲルが行儀よく並んでいる。空気は爽やか、こんなにも美味しいものであったか。
 ハーヴの香りのする草原で、ガイドさんがコックさんに早変わり、食事を作ってくれる。ジャガイモ、タマネギ、ピーマン、キューリを炒めて、トマト味のカンズメを入れ、炊きたてのお米と混ぜる。それが焼き飯。混ぜ御飯のようですが、まあ食べられる味でした。ダルハンの郊外から150km草原の中にポツンとある寺院を目指す。すぐ近くのゲルのキャンプが今晩の宿。モンゴルの夏は夜9時頃までも明るい。白夜ではないが夜はゆっくりと寛げる。ゲルの泊りは初めてですが、丸い天窓が明りとりになっていて、ビニールの分厚いのが張ってある。雨も入って来ないようになっている。五つのベッドが円形にあり、充分眠ることはできる。夜は天窓から星が見えるかも。楽しみです。私達は寺を見学する。社会主義時代に破壊され、修復工事を終えた寺院は、やはりチベット仏教の流れを汲んでいて、内部はウランバトールのダンガン寺にそっくりでした。早朝はとっても寒い。犬の声で目が覚める。早朝の散歩で寺の裏にある丘のゴンバに登る。草原には今は小さな花が一面に咲いている。全ての花が小さいのが、いかに冬の寒さが厳しいかをうかがい知る。花の草原を越えればよくもこんな大草原に造ったなと思われる新しいゴンバ。丘の上まで登れば360度の景色の眺め。緑の丘のスロープに白、茶、黒の羊やヤギ、馬の巨大な放牧が続く。小さな点にしか見えず、モンゴルの果てなく続く大地の広がりを実感する。昨日訪れたアマルバヤスガラント寺が眼下に広がりその前に半分途切れた門がある。これは中国に対し抗議の意味があるそうで、ガイドさんの説明によるとモンゴルの人々は中国に対し良好な感情はない。彼も中国は大嫌いとはっきり自分の意志を持っている。
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 草原の花(ウスユキソウ)

 ウラントルゴ(ポルガンから130km北西)
 朝食を終えて、元来た道を引き返し、道といっても草原の中に道はない。ドライバーさんは身体の中にコンパスがあるのか、何かの印が彼にはあるのでしょう。しっかりと目的地に向かっている。ガタゴト道は舌を噛みそうなオフロード。車の中から景色を堪能しているだけではなく、車の振れに自分を支えるだけで精一杯。今晩の宿泊地への途中、エルデネットに寄る。新しくできた町のよう。大きなスタジアムがあり停車場は満車のようです。ナーダムの祭がある(地方により祭の開催日は違う。相撲、競馬、弓射の優勝者が首都ウランバトールで7月11日12日に全国一を争う)式典の余興として、子供たちのマスゲームがある。
 親族一同が着飾って民族服のデールを着、祭を楽しんでいる。モンゴル相撲があるらしいが何時に始まるのやら、待っていられずもう一つの町へと移動する。ここでは(ポルガン)競馬の最終地点を見に行くが、もう終りに近く、子供達が背中にゼッケンを付けて家族が迎えに来ている姿だけ、競走を見るのは遅かった。子供達は10歳まで、馬は20kmを疾走して来る。馬のたてがみは短く切られ、尾は編み込まれ結わえてある。馬も汗びっしょりで雨にうたれたようです。何だか馬がかわいそうになる。昼食としてボーズ(ナーダムや祭の時に作り、ナンの中に羊のミンチ肉を入れてある)を近くのテント村でいただく。今晩の宿へと一路。今まで丘には樹木がない丘の連続ばかりでしたが、針葉樹林が少しずつ増えてきた。荷台一杯に羊の毛を山のように積んだトラックが行き交う。デコボコ道を振られ振られ、大きな川(ハスル川)の川辺のゲルに着く。夕飯を待つ間に香港の娘さんと川に行き、手足を顔を洗えて非常に気持ちのよいもの。シャワーがないのが一番辛いこと。何とかなるだろうと工夫しましょう。突然猛烈な勢いで沢山の馬が走って来ると、後から砂嵐が追ってきている。私達はゲルの中で大自然の悪戯が過ぎ去るのを黙って待つのみ。雨も激しく降ってくるが、ゲルの中では何の心配もなかった。
 ムルン
 次の朝も川まで行き洗顔。雨で水は濁り増水しているが水には変わりない。道はぬかるみタイヤが動きが取れなくなりそうだが、ドライバーさんのテクニックなのでしょう、何とか今日の宿泊地ムンルに向っている。車内の座席も毎日順番制に変わって、全てが平等という旅の規則ありで、勿論5人のベッドもジャンケンだったり順番だったり。広大な大草原にも所々には必ず湿地帯もある。小さな池や沼もあり、多くの水鳥の楽園もある。アネハヅルが水を飲みにやって来ている姿に出くわす。車の音に驚いて飛び立つ姿は優美な光景です。ネズミより大きなマーモット(タルバガン)が車を横切ったり、巣穴から穴へと無数に走っているので、私達の笑いを誘う。又その小動物を襲うトンビの姿もありで、ここなら食料には不自由しないでしょう。
 放牧には馬に乗った守人が必ず犬と共にいるはずと思っていたが、バイクを乗り回している守人もいて、やはり時代の流れでしょうか。馬で駆ける方が遊牧民族のあり方と思っているのは昔の考えでしょう。子供の頃からの乗馬が生活の一部で自転車みたいと思っていたのですが。でも何かの本で読んだ折にモンゴルの遊牧民は元来物を貯えない人々、移動の為には不自由、チンギス・ハーンも二代目のオゴタイ・ハーンも惜しげなく自分の財を分け与え、物惜しみや蓄財はしなかったので文化は残さなかったという遊牧民族の独特の考え方があった。このゆるやかな起伏に富んだ草原も放牧には必要で、夏は山の上で、秋と共に下り、丘と丘の間に冬の間保護する屋根のある囲いが時々見られる。低地は秋が遅いので牧草は放牧に都合がよい。モンゴル民族はこの大切は大草原を掘り起こし、農耕をするのは動物に与える食べ物の皮膚を傷つけと考えて好まず、農耕の民を自分達より下とする漢民族に対する屈辱の思いがあり、一生を放牧の民として終るのがモンゴル民族の生き様であった。
 今日は一日中大草原の中を走るのみ。遠くのムルンの町が微かに見えてくる。私達が北の最終地点とするフブスグル湖への中継地で、フブスグル県の県庁所在地。木材で仕切られた塀、木造建築の家並み、道は広いけどオフロードで草原と同じデコボコ。ここには国内線の空港がある。今晩のゲルは家庭的な雰囲気。一番の目玉はシャワーがあること。1回100円久し振りのシャワーはなによりのご馳走。ありがたい。
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 フブスグル湖

 北モンゴルのフブスグル湖
 宿の門が大きく開き、車が待っていると思ったら、背広を着た色白の紳士が車に乗って出勤する、ここのオーナーの息子で空港勤務であるらしい。送迎車付とは重要な地位にあるらしい。今日も同じ景色が続くが標高があるので冬の寒さはマイナス40℃にもなるらしい。だから牛よりヤク(ネパールのヤクより小型だから牛とヤクの混血でしょう)長い毛をフサフサさせて、滑稽な顔をしている。羊よりヤギの方が多く、ガイドさんはカシミヤヤギと説明してくれる。羊を放牧しているのを見ると、その中に必ずヤギが居るので聞いてみると、羊よりヤギの方が統率力があるからだそうです。段々と動物の種類が厳寒に強いのみを放牧する地帯となっている。
 フブスグル湖の入口で国立公園の入園料を支払っている。短い夏の稼ぎ時は今をおいてない。政府もしっかり税金の徴収を外国人からしている。今回の旅のハイライト「モンゴルのスイス」と言われる程に淡水湖でこの国最大のもの。琵琶湖の4倍もある。モンゴルの人々はこの湖をダライ(海)と称し、敬愛の意味もある。夏の間にはこの湖の周辺はツーリストキャンプのゲルが沢山できて、世界中の人々が保養にやって来る。冬は湖面に水が張って、馬ゾリが往来し、アイスフェスティバルの開催地でもある。私達はゲルを決定して、湖の周辺を散策する。湖の透明度は20m。湖底の石や小魚の姿まで見える。多くの観光客が滞在して乗馬や釣りをしているらしいが、湖が巨大である為かどこにいるのか静かです。湖面が太陽光線や雲の陰で次々と色彩が変化する。
 さざ波の音を聞き、石切をしたり、遠き昔を懐かしむ。よくぞこんな遠くまで来れたものだ。すぐ近くがソ連との国境。健やかなることの有り難さです。湖の周囲の草原も花園となっている。エーデルワイズ、ナデシコ、アザミ、ムラサキトラノオ、リンドウ、キンポーゲ、マムシソウ・・・。全ての花は小さい。よく見ればヤクやヤギ、馬のフン、そして白骨の一部がころがっている。どんなところでも生と死は繰り返されている。行けども行けどもどこまでも散策は続き、いざ帰路は、思いのほか遠くまで来ていた。私達のゲルは、モンゴルの家族も一家をあげて4WDの立派な車でナーダムの祭事を楽しんでいる様子。孫達とお年寄りがサッカーボール一球でよく遊んでいる。観光客目当てにすぐキャンプのゲルに店が開店。近くの住民が毛布やフエルトで作ったものを売りにやって来る。キャンプゲルのオーナーは小さな店を開いている。野菜や果物はどこにも売っていない。モンゴルの人々は生鮮食料品はどうしているのでしょうか。オーナーの隣部屋に90歳になる祖母が元気なさそうに坐っている。ウドンのようなものを作ってあげています。お年寄りを敬う心のある優しさで接していました。
 周辺の針葉樹林帯にはシャーマニズムを信仰し、トナカイの遊牧生活をしている少数民族のツァータンが独自の生活をしているらしいが、湖の近くにトナカイを看板にして小物を売っている人々が居る。写真を撮ればお金を請求されるらしい。多分本当のツァータン民族ではないのでしょう。昼と夜との温度差は激しく、眠る前にストーブを炊いて暖かかったのですが、夜の寒さで目が覚める、ストーブの火付きが悪く、どうしても火をおこすことができませんでした。外に出てみれば星が大きく降るようで、秘かに美しいものを見た思いをしました。
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 ハトガルのナーダム(競馬の最終地)

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 ハトガル
 ドライバーさんは車の整備に余念がない。しっかりと座席も清掃して、全てを点検。そして、宿や行き先を決定するのは彼の役目らしい。携帯で連絡をとっている。モンゴルも携帯なくしては商売もなりたたないようです。今日はハトガルでナーダム祭があるそうで、私達はそこへ行くらしい。ハトガルの草原にテントを張り、そこが今日の祭典式場。モンゴル民族なればこそ、こうしてどこにでもスタジアムは造れる。大きなテントの近くに即席の青空市が沢山できていて、何でも売っている。食事も出来るレストランもある。私達も時間潰しにブラブラ歩いてみるが、買いたいものはない。朝と昼の部に分けて競馬があるらしい。朝の部の競馬の最終地点で子供達が馬と疾走してくるのを待っていると、テレビカメラが動き出し、土埃と軽快な音と共に少年少女達の一生懸命に鞭をふるう姿、過酷な長距離レースを制覇した馬と子供の姿、馬も子供達も命懸けの勝負である。
 ナーダムの式典の為、高価そうなデールを着たお年寄りやお偉い方々が、ぞろぞろと集り、何かマイクで説明しているが分からない。やはりモンゴル時間でのんびりしている。ある人の演説、独唱あり。プラカードを持ち近郊の町の人々が集団で並んで、何かの賞状をもらっている。日本と同じようなことをしている。私達はモンゴル相撲を見たいと待っているが、あの腕を広げ鳥が羽ばたくような力士の姿はあるが、本気で相撲をとってはいない。子供達と遊びだけをしている。お昼にはホーショール(ポースを揚げたもの)を戴いて、昼からの部の競馬をもう一度決勝地点で見物し、モンゴル相撲をあきらめて、昨日泊ったムルンのゲルに向う。
 ムルン(二泊目)
 草原の道なき道を走り、これほどまでのデコボコ道は、経験したことはない。健康でなければ来れない。多分二度と再びこの地を訪れることはないと思うと、草原の花々を愛しく思う。この美しい今が盛りの草原の花畑でのお花摘みは何だか気が咎めて、ハーヴの香りがとても強いのが唯一の救いです。
 前日泊ったゲルは人気があるのでしょうか、今晩は満員のようです。違った処に泊まる。でもここはシャワーがあることが一番嬉しい。ここは珍しくニワトリとウサギが飼われている。ガイドさんはモンゴルではニワトリは飼えない、冬の寒さに耐えられず、卵は中国からの輸入品だから高価と聞いたので、どんな方法で寒さから守っているのか聞きたかった。
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 左=名もなき村のゲル(真ん中に私達は泊まる) 右=ゲルのオーナーの家族と私

 ホワイトレイクから西南の200km、名もなき村のゲル
 ガイドさんはスーパーで足らないものを調達して、又しても草原の中、車は進む。一日を7、8時間は大草原の中を車で揺られ揺られていると、もう身体が慣れてくると余り苦痛とは思わず、ストレッチと考えこんな経験は二度とないので楽しもう。草原に咲く草花は、日本にあるのと同じ花。厳寒に耐え今このように満開を見せてくれていると思えば愛しく、ありがとうと声をかけたい。草花は群生するのも自然の成行きのようで、パッチワークのように色違いに分かれている。電柱がおもしろい。土に埋もれる下の部分はセメントの細長い柱で、その上に木の柱を固定している。日本では考えられない電信柱のあり方。ずっと長く続いている。
 車はギーギー、キーと悲鳴をあげながら走り続ける。ソ連製も性能は悪くない。ドライバーさんの修理や技術の素晴らしさかな。今日はタリヤト(ホワイトレイク)に行く予定だったらしいが、遠すぎるとガイドは判断したらしい。途中の小高い丘の草原のゲルに泊まるらしい。
 何もない草原の中、ゲルに荷を置いて、お昼を戴き近くの山というより丘に登り、お花見に行くようなトレック。今一時の満開の花々。高見より下を見下ろせば素晴らしい景色が広がる。この空気の美味しさ、さわやかさ。日光は強いけど、木蔭に入れば冷ややかな風。ゆっくりのんびりと今までの疲れを癒すにはもってこいの休憩地。本を読んだり今晩の夕食の作り方を見物したり。
 ガイドが日本のウドンのようなゴリタル・シェルを作る。もう1人別の女のガイドさんと一緒に粉を捏ねて手打ちウドンを作っていく。平にしたものを大ナベで両面を焙って少し硬くしてから切っていく。油をぬる方法もあるらしいが、そこが日本のと少し違っている。
 夕方になると放牧していたヤクや羊、ヤギが自然にゲルの下の方の囲いに帰ってくる。そこで奥さんが乳搾りを始める。モンゴルの人々のおおらかさは、この自然体からくるのでしょうか。ガイドさんが作ったウドンに似た夕食は全然美味しくなかった。
 早朝のゲルの家族はオーナーの奥さんがお茶を作っている。グラグラお湯の中に硬くなった茶葉とたっぷりの塩を加えて出来上がり。そこにオーナーも来て朝食を孫さんと一緒に。羊かヤギの肉を骨ごと塩ゆでしたものと、茶。朝から肉を食べるモンゴル朝食には驚く。でも2人共に骨格がしっかりとして日本人より大柄で体格も筋肉質。私にも食べなさいと勧めて呉れるが、とんでもないと辞退する。
 何もない野原で、考えずただ自由気ままに過ごす。こんな生活も改めてよいものだと思うが、一旦文明社会の生活を知った者には恐らくはできないことでしょう。
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 チョロート川

 タリヤト(俗称 ホワイトレイク)
 昨日のなもなき丘の家族的ゲルは楽しかった。今朝は余り寒くはない。水が使えないことを除けば何も言うことはない。大型のウエットテッシュが水なき時の唯一の頼み。ゲルの家族の別れを受けて次の地へ去る。ソマン川にかかる橋を渡れば通行料を支払っている。タリヤト郡に入る。朝9時頃から午後3時頃までがいつもの乗車時間。西側に花畑の丘が次から次へと、これでもか、これでもかと続く。時折池や沼には多くの放牧のヤクや馬が必ず水飲みにやって来ている。アネハズルの集団をよく見る。飛び出す様は美しい絵画です。羊、ヤク、ヤギ達は草原に寝そべり、ドライバーさんは車輪の跡のついた道?を走ろうとするが、動物がよけてくれない。集団が横断するのを車は辛抱強く待つが、それでも避けない時はホーンを鳴らす。車の方が遠慮している感じです。チョロート川は火山の噴火によりできた川らしいが、とっても高い崖の下にあり、覗いてみると怖い位下の方を流れていました。
 遥かかなたに白く輝く湖がやっと見えてきた。この湖は、本名はテルヒーン・ツァガーン湖と呼ばれている。ハンガイ山脈に源を発し、火山の溶岩によりできた湖。その眺めは実に壮大でその広がりは延々と続く如くに伸びている。この地に連泊するらしい。私はゲルが定まったら、その中心でいつも蚊取り線香をたく。今回はこの方法がとても有効でした。ゲルの中で虫の心配がないのが、とてもありがたかった。
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 ホワイトレイク(左が泊ったゲル)

 ホワイトレイク2泊目
 昨夜は相当の冷え込み。いつかキリギスで“一日が夏と冬”という言葉は、このモンゴルでも当てはまる。朝食が終ると、今日は乗馬で20km位歩くとガイドから言われた。もう近くの広場に馬の一群がやって来て、私達を待っているみたい。5人が我先にと自分の馬を選んで乗る。私は一番最後の小さい馬。肥った私では可愛そうだな。幼き時、我が家にも競走馬が居て、祖父の道楽の一つであったらしい。乗馬した記憶はないので、初めての経験。怖がれば馬も怖いらしい。背筋をしっかり伸ばして、全てを馬に託す気持ちがあれば乗りこなせるという教え。のんびりした性格の馬らしい。でも、しっかりと先頭の馬に従順に後からついて行く。花畑の丘の登り下りもスムース。時折草原の草を食べたがったり、湖の水を飲みたがったり、自由にしている。走りたい気持ちを抑えてゆっくり歩いてくれる馬達は目的地のホルギーン・トゴー火山の登り口で降ろしてくれる。そのちょっと前に相棒さん1人が落馬したが、幸いたいしたことも無いらしい。
 馬には休息してもらい、死火山であるホルギーン・トゴー火山に登る。階段がしっかりついていて、2240mの噴火口まで行き、崖の上から覗いて見る。動物が落ちれば這い上がれないとか。モンゴルの人々の観光地なのでしょうか。朝青龍の親類のようによく似た人々が家族で楽しそうに登っている。私達は待ってもらっていた馬車に再び乗馬して、少し慣れて気持ちはルンルンで、自分達のゲルに帰りました。往復5時間位だったでしょうか。乗馬の楽しさを味わいました。
 私達が夕食を終えた頃、近くのゲルで初めて日本人2人に会う。1人はモンゴルに一年程滞在しているジャイカの方。1人は観光で、2人共に旅に出た車が故障して、他のツアーに加わったらしい。小さなギターを持って来て一緒にミニコンサートを聴くことになって、ベルギー、アメリカ、モンゴル、日本と輪になって、彼の若々しい元気な歌声に皆で歌い楽しい一時を過ごす。久し振りの懐かしい歌ばかりを歌ってくれる。国籍も言葉も違っていても、こうして音楽は人の気持ちを元気付け励ましてくれる。ありがとう美しい声を持つ若者よ。香港の娘さんもやっと笑顔で手拍子を合わせてくれる程に打ち解けてくれるようになった。日本の歌も中国語になって流行しているらしい。そして、私にはもう1人忘れられない人と会うことになった。同年代の脳外科の先生で、1年に2回程世界を旅している方の色んな話を聞くことができました。メール友になれるかな。もっと色んな国のことを知りたい。
 顔や手足を洗いに湖に。小さなゴミと一緒。水をふんだんに使えることは有難い。湖で釣りをしている人が多い。どんな魚が釣れているのかな。釣った魚を見ればかなり大きな魚。この湖からソマン川が流れ出て、チョロート川と合流し、作家開高健が魚(イトウ)を釣ったグラビアを見たことがある。その夜の星は月の明るさでよく見えなかった。

   どこまでもどこまで続く大草原 陵線の騎馬は勇者の如く

   遥かなる丘より雲が湧きいでて 永遠と孤独は同意語と知る

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 ツェツェルレグ温泉(洗濯物を干しているのが泊ったゲル)

 ツェツェルレグ(ツエンケル温泉)
 アルハンガイ県都であるツェツェルレグより30km位のツエンケル温泉に行く。途中はいつもの悪路、デコボコ位のなまやさしいものではない。雨が降ればぬかるみで大変でしょうが、晴れていて幸いです。ドライバーさんは平気な顔。慣れとは不思議なものです。大集団の羊とヤギが放牧されている。子供を今出産しその集団よりはぐれている羊がいて仲間は遠ざかっていく。ああ、早く赤ちゃんが歩けて仲間に追いつけたらなと心が痛い。温泉といっても、日本のように清潔にはないでしょうと思っているうちに、大きなキャンプのゲルに到着する。私達は露天風呂へと直行する。シャワーを初めにして、短パンとTシャツを着てから、小さなお風呂でしたが久し振りで気持ちよいものでした。すぐ裏手が馬の放牧場で夕刻は沢山の馬が帰宅している。ゲルの周囲に洗濯物の陳列。日当りよくすぐ乾くでしょう。今夜はカレーライスのご馳走でした。その夜は隣のゲルで若者達が朝まで騒ぎまくしていたそうですが、私は熟睡するので知りませんでした。
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 ハラホリン エルデニ・ゾー

 ハラホリン(カラコルム)
 温泉の源泉を見に行く。湿地帯が広がり花園を通り、少々足元は不安定ですが源泉からのパイプを辿ると、プールが2つありそこにフツフツと勢いよく湧いている源があった。日本ではすぐに温泉卵と思うが、ここでは卵は貴重品。別の温泉キャンプにも引かれている。温泉では三度入浴が常識とか。でも二度と入る気持ちはしない。このキャンプにフエルトの小物を売っているゲルもあった。チャックが軟弱ですぐ壊れそう。細かいところまで気を使ってない。
 私達はモンゴル帝国の首都があったカラコルムに行く。ジンギス・ハーンの息子オゴタイ・ハーンがここに都を造った。モンゴル人にそぐわない城壁も。オゴタイは造営したものの、ほとんど野外にいてパオで暮らしたらしい。5代目のフビライ・ハーンが北京に遷都してから、カラコルムは衰退してしまう。世界遺産となっている、エルデニ・ゾーはオルホン渓谷の文化的景観とされる。最も有名な建造物は108個のストゥーパで囲まれた境内に建つ仏教寺院群。1人の若いガイドさんが先導してくれる。中国式の木造寺院で、内部と夫々が精密な壁画や天井までもが仏画で埋め尽くされていて見る者を圧倒する。モンゴル民族もかっては壮麗な宮殿や寺院を建設し、世界中の文物や民族が集結する国際的な都市であった歴史の跡を残して、過ぎ去った。寺の前は夏の観光客の多い時だけの、門前町のように土産物屋や食堂が連なっている。運転手さんが小高い丘に車を回すなと思っていたら、エルデニ・ゾーの東と北東に大きな花崗岩の亀石であった。都を守る守護人の役割として信仰されていたらしい。今晩はミニ・ゴビ砂漠泊まりらしい。
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 ミニ・ゴビ砂漠で(ラクダに乗った私達)

 ミニ・ゴビ砂漠
 ミニ・ゴビ砂漠というだけあり、風景がガラリと変わる。今までの大草原はどこへやら、樹木も繁り岩山が多い。そして、砂地になって来た。高い山はないが丘と岩山。羊やヤギの嫌う草が一面に。ここは放牧には適さない土地なのでしょう。水場もある砂地を車はクネクネと走り、小高い丘が今晩の宿、白いゲルは行儀よく並んでいる。泊まるゲルの、オーナーの家族のゲルに入らせてもらう。年老いた遊牧民の夫婦は私達を坐らせて馬乳酒でもてなしてくれる。ゲルの内部にはカラフルなタンスが置かれ、家族の写真も沢山飾っている。子供や孫達のでしょう。幸せな家庭のようです。午後は日差しが強いので、少し陽が欠けてからラクダにのりましょうとなる。ゲルの中は、昼間はサウナのようです。木蔭はゲルの影位。丸いゲルの裾をめくって風を入れているが、そんなことでは追いつかない。
 オーナーの家族のおばあさんは90歳。ラクダの糞を集めたり、小さな姿を丸めてヤクに水をあげたり、よく動いている。しっかりと家族の為に自分の出来ることを手伝っている。よく動くので元気でいられるのでしょう。自分の母の姿と重なってくる。夕刻に2コブラクダに乗る。コブとコブの間に鞍を置いて乗せてくれるが、ラクダはいがいにも背が高い。コブはグネグネとして持ちにくい。手綱がないので定まらず、馬の方がずっと楽です。2時間程を砂漠(草が少しはえている)の中をラクダで歩き回り、これも話の種でしょうか。ゲルで過ごすのはこれが最終日。西方に夕日がすごい早さで沈んでいく。
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 モンゴル音楽の演奏会

 ウランバトール
 ここも丘の上の見晴のよいゲル。夜明けは早く午前4時すぎには東の空が白み始めて満天の星も徐々にその姿が消える。早朝のゲルからの景色は360度。気分爽快です。ここからの道路は舗装してあって楽だヨ。でも一直線の道路が続き、まるで北海道のような直正面がまっすぐな道が延々と続く。時々はオフロードで大きく迂回しなければならないこともある。昼食も見晴のよい丘で戴く。あれ程の食料も11日間で、だいたい空になっている。ここも花満開。小型のバッタがチッチッと鳴き、大きく飛んでいる。坐ればハーヴの香りがする。今一度これがモンゴルだっという大草原、両手を大きく広げて、もう二度とはないこの時を、この爽やかな空気をしっかりと身体と心に受けとめておきましょう。
 ウランバトールの宿にやっと帰り、今回のガイド、ドライバーさんは別れの感情を表すことなく淡々としている。私達は今晩、ガイドさんにお礼として、日本料理の美味しい処でごちそうをすること約束して別れる。その夜はモンゴルの民族音楽を聴きに演奏場に行き、弦楽器(馬頭琴)胡弓に似たのや、横笛琴のような楽器で演奏や舞ったり歌ったり。アクロバット的な曲芸、マイクなしであの声量は並みの人ではできない。大草原で歌うことを意味しているのかも知れない。ホーミーという喉を開いて声を出す独特な歌い方はチベット仏教の読経のようで興味深いものでした。約束どおりガイドさんと日本料理店に行き、皆でこの旅が無事に終ったお祝いをしました。
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 テレルジの巨石

 テレルジ
 帰国までに1日予備の日を、宿で車とドライバーさんレンタルでテレルジを目指す。テレルジはモンゴルを訪れる人々の一番身近な観光と保養地。観光のキャンプ・ゲルや立派なホテル等も多く、樹木のあるなだらかな森林や美しい川。そして、岩山。ロッククライミングには涎が出そうな山容が次々と姿を現す。大岩の形が想像すれば、何かに似ている巨岩が多く、洞窟があるものもある。亀に見える巨岩が信仰の対象となっている。そしてあの草原の放牧もあり、モンゴルのよさを凝縮した美しさを充分に見せてくれる。乗馬を楽しむ姿もあり、私達はあのホワイト・レイクでの乗馬の体験で満足している。仏教寺院が北にあり、暑い日差しの中をお花畑やユラユラ揺れる吊り橋や長い階段を登ったり下ったりで、高所の寺院に辿り着き、毒々しい色彩をしたチベット仏教寺院からの景色も中々のものでした。遅いお昼の食事に小さな食堂に入った折に、ものすごい夕立。帰路は涼しくなりました。ウランバトールの宿は、気持ちの和む宿でした。次の早朝、暑い日本に帰国しました。
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パールの友を訪ねての旅  〔2010.1.4〜1.16〕
 ネパール行きはいつもトレッキングが主な目的でしたが、人気のトレッキングコースは大体終った。歳相当を考えればもうあのような元気は続かないと思う。8回位ネパールには訪れている間に、現地で仲良くなった友人が居る。慕ってくれる娘や息子、尊敬できる友人との出会いがあった。今回トレッキングを目的としない大きな理由にネパールの世情がある。このところバンダというマオイスト派のストライキが頻繁にあり、その時には全くの交通機関がマヒし、動きがとれないことになる。2年前バンダがあるという前日、日本大使館に情報を聞きに行った折、“自己責任です、こんな情勢にこの国に来たのですから”と何の助言も戴けなかった。苦しい思いをしたことがある。
 今回の相棒さんは山の友人ではなく、子供の頃の幼稚園から中学までを一緒に遊んだ友人で、私としてはネパールに来た以上ポカラまで行き、登山に興味なくともあのアンナプルナの巨峰の連峰を見せたいと思ったのは山々なれど、バンダのストライキを考えると、遠出は止めて友人達を訪ねる旅もあってもよいではないかと悩みは消えて気持ちは楽になる。
カトマンズの近郊の古都バクタプルとパタンとサンガを訪ねることにする。元ヤマヤさんが定年後にネパールの貧困の山村に子供達に学校に通えるように学費を援助しているグループのリーダが、お金を与えるのではなく地鶏やヤギを飼ってそのお金を学資とすることの助ける役割をしている筋田さんが、長くネパールに滞在したい方々の為に、旅館を新築したのでと、招待を受けて泊まるのも目的の一つ。それと我が家に2回、5ヶ月位ホームステイしたトリバン大学の娘が去年3月に結婚したので、その祝いも渡したいし、どんな家族か確かめたい。
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 バンコクより3時間トリブヴァン空港より、市内は相変わらずの土埃と排気ガスの町、今回は少し中級の宿を予約したのは、1日8時間の停電があるそうで、自家発電のある宿でないとローソクやライトでは余りにも侘しい。電力が弱いので、中級でも部屋とバスルームに明りは一つずつ、エレベーターも動かず階段となる。デラックスは望みはしないが最初の日よりネパールの事情を思い知らされる。
宿にすぐボビタちゃんはやって来た。少々頬がふっくらしたかな、幸せである証拠なのかな。日本のお母さんは少し安心して、彼女とすぐ近くの店や、カトマンズの中心街のダルバール広場へと観光する。二年前と町は何も変わりないけど、車やバイクがとっても増えて交通渋滞がすさまじい。寺院が建ち並ぶカトマンズの一番の観光地にはツーリストポリスが観光客と見ると税を要求する。ハヌマン・ドカ(旧王宮)を中心に、タレジュ、シヴア、ナラヤン、ジャガナート、カスタマンダブ寺院ばかり、ハトの数もすごい、その間を多くの牛がノッソリと歩いている。ここの住民と同じく急ぎも慌てもせず、その日を呑気にすごしている。相棒さんは写真が趣味らしくストップをかけられる。今日はクヌリ館の生き神様は顔をお出しにならなった。お金を払うという合図があり、近くの人がチェックをすれば、時々小さな窓より覗いて下さるけど。今はオフシーズンなのか薄暗い店内は活気なく、観光客も少し素通りばかりなので個人経営の店は寂し気です。私達はタメルの日本料理のおいしい店で夕食を済ませて宿へと帰る。この夜は宿のシャワーは熱くない、直上の階で地元の人々の宴会が夜まであり音楽と足踏みの音と、暖房もなく寒いし喧しいので寝ることができなかった。中級の宿でも余りよくない。
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 左=ホテルの窓から  右=ボビタちゃんの家の屋上(後列右=ボビタちゃん)

 次の日カトマンズの郊外の観光とボビタちゃんの稼ぎ先の訪問、相棒さんと早朝よりや宿の近くを散歩する。やはり寒さは相当です。道を掃いている人が多い、さすがに観光地であることを自覚しているのでしょうか。ネパールのヒンズー教寺院の聖地であるパシュパテナートを訪れる。歩いてでも行くことができるがタクシーがてごろなのでと思ったが、バイクの数には恐れ入ります。交通手段の近代化は自転車からバイクではなかったかな、この国は一気に急速に歩きからバイクへと進歩したみたい。多分事故も多いと思う、時折救急車の音がする。
 ガンジス河の支流であるバクマティー川にはヒンズー教徒を火葬する、生々しい現場がある。この世の不公平や理不尽を、死んでからあの世に希望を託す考えが彼等にはあるので、人の死は新しくあの世へと旅立つと解釈している、悲壮感はない。火葬しているその周りは親族がとり囲んでいても男性ばかり、女性達は別のところにいる。前に訪れた時には日本語でガイドをしようと寄って来る自称ガイドがいたのに、観光客の少ない今はもういない。それよりもインド人のサドウ達(瞑想する人)が多い、寒いのに奇抜な服装で驚かされる。野生のサル達が群れをなしてやって来る、川に流れた供え物や寺院の屋根から人間に向かって来たり、暴走している。ここにあるシバ寺院にはインドから大型のバスを連ねて、団体が大勢でやって来るらしい。ネパール人よりインドからの聖地巡礼にやって来る人々が列をなしている。相棒さんは声もなく、全てが珍しく、写真ばかりに夢中です。
 もう一つの観光地ボダナートに行く。ネパール最大の仏塔は、大きな目玉を光らせて堂々と建っている。この附近には、亡命して来たチベット人達が住みつき、ここも仏教の巡礼の地である。今でも毎日チベットから五体倒地でやって来る巡礼者がいるらしい。大音響の仏典を読む声は、ここを訪れた人々に癒しの音楽として聞かせている。何時聞いても眠たくなるような教典の一節なのです。仏塔の上を一回りして、周りの店を見たりしてゆっくりとする。
 私達はボビタちゃんの案内で、彼女の嫁ぎ先を訪問する。家はボダナートから近い。2年前に新築したそうで3階建ての立派なビル、1階ずつが夫々兄弟の家庭となり独立しているが、1階は人に貸している。2階の二つの部屋が彼女の新居でもう一室にご主人のお母さんが住んでいる。3階はご主人のお兄さん一家が住んでいて、台所だけは3階で2階のボビタちゃんとお兄さん一家の共同。1階を人に貸しているのでその家賃がここを新築したローンに当てているとか、合理的な考えだなあと感心する。階には夫々シャワー室とトイレが付いているがバスタブはない、でも3階の台所の広さはびっくりした。とても清潔で圧力ナベがズラリと並んでいる。台所がこの兄弟の家に一つというのはコミュニケーションがとれてよいが、何かあった時には気まずい思いをするのではないかと心配だが、そこはボビタちゃんならあのやさしい性格は家族中で可愛がられることだと思う。
 屋上がすばらしい洗濯場、物干し竿はない。ロープが張ってあって近くのビルの屋上も洗濯物の干し場だらけ、隣と話もできる社交場も兼ねているようだ。2階と3階の階段のどん突きに日本で云う仏壇がヒンズー教の神様が祀ってあって供え物をお供えしてある。この兄弟のお父さんは交通事故で2人が小学校の頃に亡くなったらしい。お母さん1人で病院の会計係をして育てた苦労人らしい。ボビタちゃん宅には洗濯をする人が週2回やって来るらしい。下着は自分で洗うが、大きな物はその人達が手で洗うらしい。これもカースト制の成せること。下層階級に生まれた人達には、そんな仕事しかないらしい。まだまだネパールにはカースト制が存在し、この近くのゴミ捨て場に、素手でゴミを選び分けている貧しいみなりの人達が沢山いる。政府の力でどうにかならないものだろうかと、疑問だらけ。
 ボビタちゃん宅に小学校2年生位の女の子が居たので、あの子は?と尋ねると、自分が結婚すると同時に一緒に連れて来て、姑さんの部屋で住んでいると。貧困の村の身よりない女の子で、この家の兄さんの子供の守りをし清掃とか買い物、こまごました手伝いして、小学校に通わせてもらっているらしい。ご主人の家族皆がよく同意したものだと感激する、自分には考えもつかないことでした。そんな思慮ある家庭に嫁いだボビタちゃんの選択に日本のお母さんも大いに同意し、彼女の結婚を心より祝福します。
 夕刻には明日より泊らせてもらうメル友の筋田氏と会う。久し振りの再会に元気だったことを喜び夕食を共に。彼は岐阜の友人達とムクチナートへのトレッキングを終えての帰りだそうで、明日のサンガ行きを一緒にと約束ができる。
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 左=サンガの銀杏旅館玄関前  右=サンガの村の子供たち

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 左=若い奥さんはドッコに堆肥を運んでジャガイモの床をつくる  右=サンガ村の小母さん

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 左=サンガ村の子供  右=クラデビィ村の途中の山道

 サンガの宿(銀杏旅館)
 タメルの宿でメル友の筋田さんとその助手ミナちゃん(ラムチェ村の娘)と4人で、タクシーを借りきって乗り込む。途中の道は車とバイクのラッシュで身動きもとれないほど。いつものことらしいが我慢ばかり、日本のNGO関係の間建設が東西幹線道路を造っているので、その関係のストップもある。この大きな道路のお陰で、住民の生活は大きく変わることでしょうが、ネパールタイムでいつ完成するかは誰にも分からないそうです。カトマンズより25k位離れているらしいが、1時間半ほどかかる。埃まみれの田舎道より、筋田宅に行く為には急な傾斜の登りが始まる、崖をよじ登るのと同じだが筋田さんとミナちゃんは、平地を歩くと同じような速さで登る。サンガのバス停より20分と聞いたが私には40分位かかる。今日より4日間お世話になる宿に着く。旅館といってもまだ営業はしていない。長く気楽に居たい人の為に作った宿には値段はない。今は門とその周辺の仕上げを、ミナちゃんのお父さんとラムチェ村の人、2人が忙しそうに働いている。大きな居間と台所は完成していて、今日からこの居間が私達の部屋になるらしい。
 筋田さんがこの場所を決定するのに時間を費やしたらしい。この2、3年の間に物価が急上昇、土地の値段は2倍になっているらしく、まだまだ上がるらしく、この付近には分譲住宅が次々と建設されている。旅宿はしっとりした落ちつきの佇まいで、目立たない石と木材の色目、この村に似合っている。前の通りはアサブリのヒンズー教の寺に行く参道となっているので、近くの村々からの信者さん達が通っていく。隣は何でも屋さんの雑貨屋さんで便利なところ。彼は屋上に露天風呂を作り、星を眺めながら、入浴するのが夢らしい。多分夢には終らせないでしょう。屋上にソーラの施設があり、お日様の恩恵で、ホットシャワーと室内のライトは充分らしい。
 筋田宅の暖房はコタツ、大きな鉄ナベに燃え殻のスミを常にいれて呉れて、しっかりと足元は暖かい。下の台所から食事をミナちゃんとお父さんが運んでくれる、上げ膳据え膳でお客様扱いには、少々恥ずかしい。食事の仕度は手伝いたいが、なれない者が下手に手出しをすれば、かえって邪魔だろうと思い。ラムチェ村のミナちゃん親子が筋田さんの身の回りの世話、ネパール語の書類のこと、雑用を引き受けて、彼はきっと彼女を自分の後継者として考えているのではないか。旅館を造りながらその後のことも考え育てる彼の考えに、本当に頭が下がる思いです。
 暇があればサンガ村の散歩をし、村の暮らしぶりを見るのが日課です。シャワー室から隣の裏庭の日当りよいところに、ブタ、牛達、ヤギもニワトリも沢山草を食べている。シャワーを浴びながら窓から牛やヤギが顔を出すのは、奇妙な経験です。村の人々は家を覗き込んでも何の厭いもなくお茶でも飲んでいって下さい。ナマステで始まりナマステで終る挨拶は便利でよい。60年以上前の日本の姿がある。家畜と一緒に住んで野菜の肥料としてその糞は利用される典型的な自給自足の生活がある。夕方になれば日当りのよい所にいた家畜は小屋に入れられる。山から夜間出てくる山ネコやトラに襲われないように、村人は保護しているようだ。ブタをよく飼育しているので尋ねると、ヒンズーの人々は乳牛は絶対に食べないが、ブタは大丈夫らしい。牛でもヤクなら問題はないそうだ。イスラムの人々はブタは食しない。ブタは雑食だからと思っていたら、ブタの肉がおいしいということは良く知っていて、人間の肉の味だから、食べないのだと聞いた。
 バクタプルの友人ラジさんと連絡をとって、近くだから筋田宅に来てもらう。ラジさんと筋田さんとの出会いを作ってあげたかった。これから先何かとお互いが助け合えばよいという気持ちなのですが、相性ということもあり、果たしてどうでしょうか。明日は彼の町に観光に行くことを約束して別れる。
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 左=牛を放牧に連れ出す子供(バクタブル)  右=お店の前の美人二人(バクタブル)

 バクタプル
 相棒さんにバクタプルの古都を見せてあげたかったので、ラジさんに案内をたのむ。彼は2年前、大学を卒業しているが、未だに職はなく、少し出来る日本語を教える先生となっている。この古い町はカトマンズよりも落ち着きがあり、のんびりとしている。赤いレンガで建築された建物がびっしりとあり。遠くにはヒマラヤ山系の白い山脈が連なっている。中世からそのままの生活を感ずる。大きな広場が三つありその周りにはマツラ王朝時代の最盛期のネワール文化の華である建築物が残っている。裏口から入った私達は入場料を徴収されなかった。古都の中を放牧に出かける牛達の姿、日溜りに隣同志のおしゃべり、いつも日常の姿がある。水場に洗濯している主婦の姿と水汲みの人々がいる。水を飲む最初の挨拶は神様にお祈りをしてから始まる。習慣的に全ての始まりは神様との対話なのでしょうか。ラジさんはそう言っている。彼の自宅でバクタプル名物のズーズ・ダウヨーグルトを戴く。ブルガリアのヨーグルトにも負けないおいしさだ。
 このバクタプルも観光客は少ない、土産物屋さんもホテルも何時客人が来るかも知れない位のんびりとしている、地元の人々の往来が多いように思う。ここに泊まることも考えたが、筋田さんの待つ銀杏旅館の方が楽しい、自然にそこへ帰る。
 サンガの宿は1780m、遠くの白領の山々がしっかりと眺められるすばらしさ。私達は朝日輝き、夕焼けのシルエットを毎日ウットリと眺める。朝日が東方の山の端より少しだけ顔出す、白い雲海がどこからか広がり、サンガの盆地を覆い、バクタプル方面へと動いていくにつれて、白い山々が淡いピンクに染まり、そして濃いピンクとなっていく。ずらーと一直線の山々は幾重にも重なる前方の山々を越えて、東よりガウリシャンカール、ドルジェラクパー、ビックホワイト、ランタンリルン、ゴザインクンド、ガーネシュヒマール、マナスルと並んでいる景色は壮観そのもの。目を凝らして見ていれば、直ぐに真赤な太陽のお出ましとなる。筋田さんはベットの中より、この移りゆく大自然の様子を毎日見ている。
 雲海の、白き流れに、浮かび来る、朝日の輝き我を忘る
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 左=シバ神の像  右=チベット系の年老いた夫婦

 屋上で毎朝、日の出を眺めていると、ミナちゃんのお父さんがジャンジャー茶を持って来てくれる。目覚めのteaらしい。星も毎晩の楽しみ、とっても大きくはっきりと感ずるのはどうしてなのでしょう。まだネパールの上空は汚染されていないということなのでしょうか。
 旅館の隣の4階建ての雑貨屋さんのビルの屋上から、毎朝ニワトリが飛び下りる見せ物がある。夜は野生動物の襲撃の為に飼い主は屋上にあげ、朝はそこから自分でおりる。ニワトリはどこから降りようかと迷い、大声で鳴き、意を決して地面へと飛びおりる。それを楽しみにしている見物人も多い。ニワトリが高い処より飛ぶとは知らなかった。
 その雑貨屋さんは牛乳の集め場所でもあり、各家の主婦や子供達が乳牛より搾ったものを持ちより計ってもらって記帳し、殺菌所に送るのでしょう。大きな容器に入れられ、もう村人が持って来ないと思った時に、相棒さんが目にしたのは、バケツの水をその牛乳容器の中に入れたそうです。牛乳を薄めて、その利を手にする輩の汚さ、どの地にもいるのだと思うと嫌な気持ちになる。
 朝食は食パンとネパールのミルクtea、二つの目玉焼き、時々フレンチトーストもあり、ネパール人は朝食はなしで、朝と昼の中間に昼食まがいの食事と晩に一度の、1日2度の食事、近くの分譲住宅を新築工事に労働をしている人達が、昼前に食事をしているメニューは、米がお盆のようなスチールの皿にいっぱいで、その上に野菜の煮たものらしきが少しだけのっている、とても沢山のお米をよく食べ、右手で器用につまんでいる。ネパールの米はデンプン質の少しインデラ米、肥える心配はないらしい。
 近くの村々のトレッキング
 ラムチェ村の娘ミナちゃんが近くの村を訪ねるトレッキングをしようと、自分がガイドをするからとのことで、私達2人は大いに喜ぶ。宿よりアサブリのヒンズー教の寺院を目指す。今日は何か祭か祝日にあたるのでしょうか、供物を手に早朝より家族でこの一本道を大勢が通っていく。急なアップダウンの山道は雨が降れば急流となるでしょう。途中の小さな村の家宅はどの家も家畜と一緒の生活、家畜の土産は裏に山と積まれて、野菜の大切な堆肥となり、耕した畑に撒いている。今はジャガイモの植え付けの始まりらしい。畝作りが日本のものと変わっていて、1m位の短い畝を縦並び沢山作って、そこにジャガイモを半分に切り、灰をつけたものを丁寧に植えている。収穫時に畝ごと掘り起こせば、傷つけずにすむらしい。ここらあたりの村は無農薬なので、カトマンズでは高く売れるらしいとミナちゃんの話。
 春のような暖かさ、菜の花と麦の段々畑が、パッチワークのように美しい。遠くの丘までずっと続く段々畑に、大きな荷物を身体にくくりつけて運んでいる。車は入って来ない道なので、足腰強くなければ生きていけない。生きるための必要にせまられての歩きだから頑丈な身体となる。
 アサブリの寺院には老いも若きも糸をたらした皿の油に火をともしてお参りをしている。額に赤い印を付けてくれる。小さな祠には派手な色彩の神様が坐っています。何かの御加護を求めて人々は祈っている。寺の裏に仏教の小さな坐像もあり、神仏が一緒でもここの人々は何も思わないのでしょう。小道を歩き丘を幾つも越えて、やっとクラデビィの農村に着く、美しい澄んだ小川が流れる水路に沿って歩みを進めると、寺院が並んでいるパナウティ村に着く。サリーやクルタの民族服の女性達が多い。昼のうちに小川で髪を洗ったり、身体をきれいにしてもらっている子供達もいる。バネバに行く途中でバスが来たので、満員のバスに揺れて、大きな町バネバに着く。筋田さんがカーペットを買いに来ていたので、合流してサンガ村に帰る。
ネパールでもインドでもバスの上に乗る人々をよく見ていて、危ないなよくあんな事するワと思っていたのにバネバからサンガまでを、バスの上の人となる。自分が経験してみて、むしろ高い処より村を見物しながらはおもしろい経験だった。バスの天井に登り下りが大変だったけど。相棒さんには少し苛酷であったかも知れないが。
 筋田宅の夕食は日本式のものを戴ける。昨日はカレー、今晩は山イモとエビのカキ揚げ丼とホウレン草のゴマあえ、ここもナベは圧力ナベ、熱効率がよく早く炊ける。標高があるネパールでは今大流行らしい。明日はネパール中がバンダらしい。山の生活は関係なく、道路に車が通らないので、子供達のサッカー場となるそうです。私達は明日はサンガの向かいの山にあるシバの寺院に行こうと話しがまとまりました。
 いつも通りの朝食を散歩を済ませ、サンガの山道を下り、反対側の山道に入る。小さな村の人々の暮らしがあり、雑貨屋さんも多い。庭にはニワトリとヤギが飼われている。小学校、中学校の生徒達が元気に駆けている。ここのシバの像は巨大なもので、どこからでも見える位、もうすぐ完成に近い。信者さんの車が通れるよう道を拡張したり、観光客目当ての土産物屋さんや雑貨屋さんが、新しく開店中、聞くところによると薬で莫大な財産を築いたインドのお金持ちの寄進で、この像を造ったとか。何の薬かな?麻薬でなければよいが。
 毎晩、筋田さんの今までのネパールでの出来事を話して下さる。多くの人に騙されたり大金を失ったりと挫折も沢山あるらしいが、彼の話には後悔がない。不思議な人で欲もなく、たんたんとしているところが魅力でしょうか。4泊5日の滞在でしたが多くのことを教えられた思いがします。今晩はCDで綾小路君麻呂さんの漫談を聞いて皆で笑いころげた夜でした。
 相棒さんにもう一つの古都パタンを見せてあげたいので、サンガよりカトマンズの隣町パタンへと移動する。いつものラッシュ、土埃の中を誰も文句もなく黙って待つ、この国の人々は辛抱強い、時々警笛を鳴らす車もあるが、やっとパタンに着いた。以前泊まったことのある宿は清潔で食事のおいしい宿だった。宿の御夫婦が笑顔で迎えてくれる。
 パタンは彫刻と絵画の町といわれる程に芸術的に優れたものが残っている古都の風情、地図を頼りに歩いてまわるが、工房や、タンカの画廊が多い。住民は仏教徒が多いらしく、この町だけはヒンズー教徒は少ないらしい。ネワール族の職人の技の残る裏道を歩くのは生活の一端を知る思いがある。観光客の少なさも気になること。相棒さんはタンカ(仏画)を1枚買った。繊細な美しい色彩は夢のような極楽浄土を表している。この町の通りも車とバイクのラッシュが続き、歩きの方がずっと速い。信号なしで我先に行こうとするので、政府が何とかしなければと思いますが、今の世情では庶民のことを考える政治ではないらしく、余りにも政党が多すぎて、何も決定することができず、マオイストの政党が幅を利かせて、賄賂ばかりが横行する政治らしい。パタンの宿の主人もこの2、3年の物価高を嘆いてられた。それだけネパールの生活は以前より苦しいものになっていることらしい。
 私達はボビタちゃんの嫁ぎ先へと宿を又変える。遠慮しようと思っていたが、やはり1泊はして、もっとその暮らし振りを見たい気はあった。“何故泊って呉れないの”と問われれば、断る訳もない。大きな映画館の前で待ち合わせをして迎えに来てもらう。2階の夫婦の部屋の隣りが今日の宿となる。急速あのおいしいネパールの甘い茶を戴き、近くの通りをブラブラと。露天の野菜売り屋さん、雑貨屋さん、しっかりした店構えの肉屋さん、スーパーもある。でも小さな個人の店が多く便利なところ。丘の上にあるヒンズーの寺を訪ねたり、ボビタちゃんの家で戴いたお茶がおいしかったので、ネパールの土産にいつも買う、アッサム茶を求めた。土産用に箱に入っていないもので大きな茶筒から計ってもらうお茶が、とてもおいしい。庶民が常用しているのが一番よいと思っています。彼女は主人のお姉さんより、この家庭の料理を教わっている。2人で台所に立ち、笑い合って料理をしている姿を見て、日本のお母さんは本当に安心しました。晩には停電は困ることですが、慣れることは平気になることで、それがいつもの事としか思わない人々には、むしろ何もなく平凡な日常生活となっている。
 帰国時の前日は空港の近くでないと、その日にバンダがあれば歩くしかないので私達はタメルの別の宿へと移りました。幸いバンダはなく空港に車で無事に帰りましたが日本の寒さにびっくりしています。ネパールの方がずっと暖かい。又いつもの主婦となる生活です。
 今日去りて、明日も来るらし、ありがたさ、静かに暮れゆく、夫との語らい
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ズベキスタンとキルギスの旅  〔2009.9.23〜10.9〕
 昨年6月ウズベキスタンの旅は数々のよき思い出を与えてもらい、フェルナガ地方リシタン村で浪人生だった娘(ホシヤハン)を、紅葉の季節3ヶ月ほどを我が家で預かり、ずっとメール交換して“日本のお母さん”と慕ってくれる娘は、今年8月フェルナガ大学の医学部に合格し、そのお祝いも兼ねて一目会いたいと思っていた。相棒さん三人はウズベキスタンは初めてらしいが、自分はもう一度と望み、キルギスまで足を伸ばそうと計画した。ウズベクで歴史的な人間の造った遺跡と建物を、キルギスでは神様のお造りになった大自然との遭遇を期待して旅は始まる。
 9月はイスラム圏ではラマダンの月、9月22日に終了するらしいので、考慮して出発する。関空よりウズベク航空は直行して首都タシケントに。ウズベク航空のおまけの国内一路線、ウルゲンチ往復はフルで、私達は到着してすぐにサルマカンドに飛ぶ。
 一日目だけを予約したホテルに向かう。午前中のチェックインは駄目だろうと思っていたが宿の主人がお茶をご馳走してくれている間に清掃して入れて戴く。

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 レギスタン広場

 サマルカンド
 サマルカンドはかってのシルクロードの中心地、名前の響きからして、遠き昔の栄枯盛衰を彷彿させる。4人共疲れてはいないので、近くの旧市街の中心となるレギスタン広場より観光を始める。メセドレ(神学校)がズラーと並んでいて、夫々が独特の建築物の特徴を持っている。チケット売り場が遠く離れた場所にある、何の掲示物はなく、外国人には高いことを言うので、ちょっと待て何だかおかしい、無視して入口に行くと、ガードマンらしき人、2人〜3人が$10とか$20、出口で払いなさいとか。私達は団体と一緒に通り抜け、何のお咎めもなかった。メセドレの中でもティラカリ・メセドレは金色の天井が光り輝く黄金色、繊細な細工、何時の世でも金とは崇高なるもの、権力者の権威の象徴であったろう。モンゴル軍との戦いに敗れて、破壊され、この地を復活させたティムールがトルコブルーの色を好んだらしくウズベクのミナレットの上部は、空の青さに溶け込む如くのこのサマルカンド・ブルーです。グリ・アミール廟にはティムールの眠る墓がある。ミナレットの丸い屋根部分がデコボコのあるタイルでそれも又おもしろい。夏日のように日差しが強く、暑いので宿に帰り一時休憩をして、夕刻に観光へと出かけた。

 はるばると 青き空に夢を託し
  サマルカンドのモスクの碧さ

 シャブ・バザールに行く、前の道路は拡張され歩道はタイル張りされ、すっかり現代風になっていた。小さな庶民的な店が大きな窓のガラス張りの店になり、店内が見えてもデスプレイが下手でソビエト的で寄り付き難い、多分自分も買いたい気持ちにさせない。店員さんも居るのか居ないのか流行るはずがない。シャブ・バザールに行く途中、中央アジア最大のビビハニム・モスクがある。大きな敷地に大、小モスクが2つずつ、まだ修復中だが、その巨大さがティムールの威容を示している。ここにもティムールの妃の悲しい物語を知る。 庶民のバザールは何と楽しいことか。どこの国でも同じく、人は食べなければ生きていけないのはあたり前、ここには何でも在る。定価はなくイスラーム法により、伝統的な商業の文化構造が残り、売り手と買い手の交渉により価格が成立する。ひやかしながら歩くのが好き。夕刻なので店仕舞を始めている。スイカをテストして食べさせてもらって、重いのに宿まで持ち帰り、ビールの当てのつもりだった。宿で切ってみて赤味が薄い。ダマサレタ。

 次の朝三階の屋上で私達4人はサマルカンドの中心レギスタン広場を眺め乍ら、涼しい風に吹かれ、食卓一杯に用意された豪華版、いろんな国の人々が居てなごやか。
 もう一度朝のシャブ・バザールに行く、朝はやはり庶民の活気の生活臭がプンプンする。
サマルカンドの特産物はナン(日常的なパン)。ここのは分厚く表面に光沢があり、並べたり、素手で抱えて売り子さんが盛んに声をからしている。布がかぶせられ熱々の出来立てを自転車で売り歩いたりしているものもある。冷めたら余りだが出来たては香ばしくって美味。でも自分にはもう少し薄かったらよいのにと思う。サマルカンドの住民はウズベク各地に行く時はこのナンを土産にするらしい。昨年も列車の駅には、沢山の売り子さんがナンを抱えて売っていたのを想い出す。昨日のスイカ売りの人は見つからない。一言文句を言ってやりたい気持ちだ。
 昼間は30度を超す暑さ、でも朝晩は膚寒い気がする。女性達の民族服はベルベットの布地に、金や銀でのプリント柄が多く、長いロング・ワンピース。冬には暖かくっても夏には布地は見るからに汗がでる。スカーフで髪をかくしているので、美容院は不要かも。
 昨日はウズベク一番の料理プロフとラグマンをいただいたら油が濃くって、今日は余り食欲がない。早く慣れなければと思うが。暑いからかな、足が重たい。アラシャブ丘の麓にあるシャーヒズインダ廟群を目指す。ここにはティムール一族の墓が二列にずっと並んで建物としてある。夫々に凝った外壁と内部の壁のモザイクが美しい。下から上まで長い階段の歩き、13世紀〜15世紀に渡ってのかなりの数。見物人もまるで巡礼の地で、よっこらしょと重い身体で、暑さを避けながら、休み休みの観光だった。この大きな廟の裏道から通じている丘にはイスラム教徒の墓が沢山ある。
 各自の若き日の肖像を石に彫って、夫婦仲良く並んでいたり、子供であったり、一人であったり、家族愛を感ずる。この丘のずっと向こうにまだ発掘が中断されている旧サマルカントの都だった、アシャラブの丘がある。モンゴル軍に全てを破壊され尽くした都、夢の跡は悲しげに私達を見つめている。
 今も住民が足繁く通うハズラティ・ヒルズ・モスクに入ってみる。係員がお香をたいて私達をリラックスさせてくれる。そのモスクのテラスからはバザールが一望できる。暑さを忘れさせてくれる一時でした。
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 ブハラのタキ(屋根付きのバザール)

 ブハラ
 ブハラに移動しよう、4人だからタクシーの可能な定員、バスは満員になるまで待たねばならないので、その時間がもったいない。約束時間も契約した料金も手頃だと思って乗ったのも束の間、ブハラ郊外で降ろされ、ここまでとか。長距離にしてはボロチイ車だなと思っていた、そうは何事も旨くいくはずがない、何が何だか分らないままに、別の車に乗り換えさせられ、又途中で二回、やっと最後の車がニューだった。距離がある場合、何人もの人手を介して渡り、彼等はその都度料金を決めて、彼等が適当に設定している。料金は最初に決めたまま。四人が無事にブハラ中心、ラビ・ハウズに着けば問題はない。道路の舗装が時々穴ボコがあるが去年よりはずっと走りがスムース、自家用車の新しいのがふえている、でも韓国車が多い。以前から気になっていたが日本車の性能の良さは認めても値段が韓国車の倍らしい。どうしても安い方にいくらしい。
 サマルカンドからブハラへの道の両サイドはずっと綿畑の収穫時、あの白いフカフカの綿は低地に咲いている。季節の労働者さんたちはどの国からか、地方からか、婦人たちが腰をかがめて働いている。トラックで集めまわる男性群。不思議です、植物よりあのやさしい真白い綿が摂れているのですから。
 去年泊まったB・Bに決定した。以前よりデラックスになり、宿泊代も50%アップしている。私達は荷物を置くとすぐ観光へ。丸屋根付のバザール・タキに行こう。タキは中央アジアに沢山あったが、今は少ないらしく、内部は同じような土産屋さんばかり。スザニ(各家庭に伝わる、娘が結婚時に手刺繍されたベッドカバー、タペストリー、テーブルクロス等の布を準備する)がここの名物らしい。ラビ・ハウスの周りにはレストランばかり、ツアーのお客さん達がお昼を楽しんでいる。ナディール・ディヴァンベギ・メセドレの神学校の門に、人の顔が描かれている、これが問題の偶像崇拝否定のイスラム教の教義に反したものと改めて眺める。神学校の庭の周りも土産物ばかりここは細密画も沢山売られている。庭では毎晩民族舞踊が催されているらしい、時間を聞くと今晩は予約で一杯だとそっけない返事。
 旧市内の細い道をクネクネと歩きはゴミ一つ落ちていない清潔さ、少しびっくりする。チャル・ミナルの4本のミナレットは空の青さがバックにスックリと青タイルの美しさが際立つ。宿に帰り道、砂の中から発見されたアゴキ・アッタリ・モスクを見物する。沢山のモスク見物は何か変わったものではなくては印象が薄く、自分には皆同じように見える。
 深夜の楽しみは星を見ること、美しく輝く星座は日本で見るより大きい。それだけ空気が汚染されていないのでしょうか。
 次の日相棒さんと一緒に焼きたてのナンを味わいたくってパン屋さんを訪ねる。露地の奥の方にあり、去年通ったのに忘れていたり、地元の人が教えてくれる。ここのは、薄く小さいので半枚くらいはペロリといただける。すっかり焼きたてのナンの虜となる。宿の朝食もとても良かった。地下の貯蔵庫のようなところ、特にチーズがおいしかった。
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 ミレ・アラブ・メセドレ

 今日はブハラのシンボルを見物しょうと張り切った。丸屋根のタキより歩き始め、手仕事好きには重宝するハサミを買う。(切れ刃が鳥の口になっている) カラーン・ミナレットの大きさはこの町のどこからでも見える。頭部がレンガ模様でおもしろい。その附近はモスク・メセドレと巨大な建築群が続く。数々の物語と歴史を秘め、ウズベキスタンの辿り来た変遷そのもののようです。写真を撮ったり座って休んだり、4人が夫々に自分を楽しんだ。早朝は観光客の人出はなく、静かで気温もよく歩き易い。そして歴代のハーンの居城であるアルク城へ。反抗した人々を虐殺しその圧制振りは有名?であった。城内は土産物売り場で去年と変わりはない。ハーンのイスや衣装を着せてもらって、記念撮影を撮っている家族がいた。城の前にハーン専用のモスク・バラハウズがある。ハーンは居城からこのモスクまで、カーペットをひいてもらい何かのお祝いにはお伴を引き連れて祈りをしたらしいが、ハーンもメタボで運動足らずで、きっと余り長生きしたハーンは居なかったに違いない。でもバラハウズ・モスクのテラスにはカラフルに彫刻されたクルミの木の柱が20本も並んでいたのは、独特の建築だった。
 段々と暑くなり疲れてくる。ヨグの泉、チャシュマ・アイコブの眼病に効く変わった建物でブハラの観光を終わりにする。
予約してあったairで首都タシケントに帰る。ヒバに行く航空を予約したいが中々予約が難しいらしい。キルギスの旅が終わってから、又時間があれば考えようと話はまとまり、明日は国境沿いの町フェルナガ地方のリシタンに行くことに決めた。
 タシケントに到着してから荷物の受け渡しに時間がかかる。ソ連の名残でしょうかすべてが横柄な態度で係員は接する。誰も黙して待つのみ、日本だったら不平不満が渦巻き出すだろうに。私はタシケントのホテルにメール交換しているもう一人の娘を待たしていると思うと気が気ではなかった。タシケントはやはり都会である。道路のレーンが両サイド5レーン位ある。大きなホテルやスーパー、マンションが次々と建築中、大学生のニゴラさんとは一年振りに出会い、又一段と美しくなったと思った。又帰国時に会うことを約束する。
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 左から、ホシちゃんのお母さん・田宮さん・ホシちゃん・ホシちゃんのお父さん・私・田宮さんのご主人・ホシちゃんのいとこ

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 羽織がお気に入りのホシちゃんと日本のお母さん

 リシタン
 リシタンのノリコ学級の学長さんはホシヤハンの叔父にあたる人で、去年以来の付き合いで、リシタンを訪れることを電話すると、丁度今タシケントに居るので、朝そちらのホテルで会いましょうと。会いに着て呉れて、リシタンに行くタクシーまで手配済み、彼には昨年4人目のお子さんが誕生したそうなので、心ばかりのお祝いをする。彼は仕事の都合で昼過ぎのairでロシアに行くらいしい。自分がリシタンに居ないのを非常に残念がった、すみませんの繰り返し、リシタンに居る兄に貴方達がキルギス入国時に便宜を頼んだので安心して下さいと言って下さる。
 私達はリシタンに向い出発する。万年雪を被った山脈がずらりと遠くに見えて来る。カムチック峠は相当高度はある、国境が近いのでパスポートチェックもある。これだけの山脈に囲まれているので水が豊か、緑が多い、やはりここも綿の花の収穫時、出稼ぎの女性達の多忙時である。  リシタンに着くとウズベクの娘ホシヤハンは道端で待って居て呉れる。涙と涙の再会で、少し我が家に居た頃より細くなり、あの愛らしい笑顔はそのまま。大学受験は大変だったと思うよく頑張ったな、何よりも合格のしらせは嬉しい。2日も休んで待っていてくれたらしい。積もる話もあるが、ノリコ学級の日本語を学習している生徒達が教室で待っているので、私達に出席して欲しいそうで、関東からいらした写真愛好家の3人組の方々と、自己紹介をしたり子供達の夢を語ったり、生徒達は日本の歌や踊りを披露してくれる。生徒達の眼は輝き希望に満ちているこの国の未来を暗示しているようです。
 ホシちゃん宅は坪数で600坪?位で広い屋敷でコの字型に家を建て、中には畑になっていて野菜や果物、今は特に柿やザクロ、リンゴ、ミカン、ブドウ、イチジク等いっぺんに収穫されているよう。玄関には堀の換わりに分厚い鉄板の扉がある。それを見るとやはりこの地も国境が近く、過去の歴史を物語っている。まだ建築中の家宅もある。この国では兄弟の一番下の弟が家督を継ぐらしい。この附近は大きな屋敷ばかリが続いている。私達は親類が集まり何かの事を行う部屋をあてがわれたが、トイレは敷地内の一番奥の建物で大昔の穴一つのもの、シャワーはぬるいお湯のバケツ1つ。トイレとシャワーには感心がないのでしょう。夕食はホシちゃん宅でお父さんの作った棒状のハンバーグがメインの大ごちそうを戴いた。両親の容貌は見るからにやさしく、おおらかな性格を表している、だからこのすばらしい娘ホシヤハンありと納得する。

 ホシちゃん宅の周りには水路が走っていて、水の心配はなさそうですが。朝の散歩で田舎のモスクに散歩する。リシタンは陶器の町だけあり、ここのモスク門飾りはノリコ学級の中にあるアリシェルさんの工房で焼かれたらしい。ロマ人(放浪の民)の人々がこのモスクでも居る。どこをねぐらにしているのかな。田舎のモスクはひなびた感じで落ち着く。裏の庭に深く穴を掘って瞑想する場所がある。小さな村だから会う人が皆顔見知り、親しげにホシちゃんと話している。
 朝食はサモサや焼きたてのナン(今日はホシちゃんのお母さんが焼いたとか)香りよいお茶、一杯のフルーツ(祖父の家で採れたらしい)私達4人と家族皆で楽しくいただいた。丸一日だけの逢瀬であったが、会者常離、又別れは必ずやって来る。何時か彼女が医者か他の職業かで一人前になったとき生きていれば会えるかも知れない。心残して去る方がよい。又しても涙の別れとなる。
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 ノリコ学級の子供達

 国境越え
 私達ウズベキスタンからキルギスへと国境をこえなければならない。何時も空路は簡単だが陸路は厄介であることは旅人の間ではよく知られていること。さあ今回どうなるかなと不安と心配が交差する。手配してくれた車でマルギランとフェルナガを観光して、キルギスの国境へと導いて下さる。
 まずはフェルナガの町へ、水と緑の町の如く、運河は町内に張り巡らされている。昔は物資を船で運んだのではないかな。特に材木等を。街路樹がデーンとした大木、根っ子から2m位を白く塗ってある。(どうしてなの?と中国で聞いた時に防虫と夜間の照明との答)森林公園を散策する、天文学者のアル・ファルガニーの大きな像がある、建物は元ソ連の遺物で味気ない。
 バックしてマルギランの町へ行く。古い歴史の要所としてシルクの大生産地、町内には両サイド桑の木が多いが今は落葉している。新築されたシルクの工場見学をさせてもらう。シルクの布が出来上がる工程は興味深い。ここの絹はマルギラン・アトラスと呼ばれ、ブランドとなっている。
 絹はウズベクの民族服に必ず用いられる。日本の矢絣模様に似ている。昔母が好んで着ていた着物の柄です。私は小振りのスカーフ、相棒さん達も夫々が思い出の品を買っていた。
 車は国境の近くで下ろされて、ここから数回乗り換えて、やっとキルギスのゲート前までやって来た。そこにはすごい大勢の人々、働きからの帰国、出国、どこがどうなっているのやら。私達は言葉も分らず、唯オロオロとしていたら。門の前から管理職の一人がヤポニの4人を来いと手招きをしてくれる。ハハーンこれだったのかホシちゃんの叔父さんが心配なく手配したということはと、理解をやっと。それから又ゲート前の事務所での難関あり。
 炎天下、書類も立ったまま書かねばならないし、中々中へは順番があり入れてくれない。事務は手書き作業で遅く、荷物のチェック。でも日本人はビザなしだから少しは楽なのでしょう、でも一時間越してしまう。
 やっとキルギスに入国したと思うと又それからが大変、換金して市内のタクシーを。幸い相棒さん一人がロシア語が少し話せるので助かる。キルギスの旅ではとっても力強いロシア語でした。タクシーはメータなしでその場で商談、相場を知らぬ外国人は彼等の大きなカモちゃん。お互いドライバーさん同志が客の取り合いの口論となる。安全に運んでくれれば良いだけなのに困ったこと。これからもドライバーさんの口論とつき合わなければならないとは。
 キルギスの第二の都市オシュにやっと着いた。やはり陸の国境越えは時間がかかり過ぎる。でも何とかなったヤレヤレ。
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 絹織り(マルギラン)

 キルギスのオシュ
 オシュに来て一番はホテル。ドライバーさんの言う通りになりたくない。まずiのマーク(tourist information)の開いている時間は宿とか観光の情報は戴けるので、iのマークに入室すれば今はもうクローズだとか。”それなら看板を出さないでョ”キルギスとは困ったところに来たのかなの感あり、便利さだけで近くの大型のホテルを選んだ。先ずは明日の首都ビシュケク行きの航空券を捜す。幸いすぐ近くでその事務所はあった。航空券も手に入れたが、ここの事務員さんの顔を見てびっくり、キルギスの女性は顔にソリを当てることは御法度らしく、とっても口髭が濃い小母さん。事務的なことは時間がかかる。カードはダメで、全て新札のドルで。これがキルギスタイムとシステムであると覚悟する。でもチケットの手配が全て終り、その小母さんは”今夜私の家に来てキルギスの名物料理を食べに来ないか”私達を誘ってくれるが、時間がないと断ってもらう。ロシア語は本当に役に立つ。
 夕刻のオシュ・バザールを歩く。人とあらゆる食品と物が粗雑に並んだ陳列のストリート。
両サイドの大きな通りは長く続く。少しの果物を求めて、中華の店で夕食を戴いてホテルに帰ると、部屋は電気もつかず、ホットシャワーは出ない。レセプションの方は夜勤の人に変わり英語はダメ、意志は伝わらないので強引に部屋に連れて行き、やっと分ってもらう。このホテル管理体制はどうなってるの。部屋を変えてもらう。チェックインしてすぐに料金を支払っているのに領収書もくれない。トラブル続き腹立たしい。ホテルの対応に疲れ果てる。
 本日の国境越えの大変さ、ホテルのトラブル。でもこのことが強烈に思い出に残る。この辛さが旅の醍醐味と、とるべきと自分を励ましている。
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 シルクロード博物館で(日本語をしゃべるのが趣味だとか)

 スレイマン山
 朝食を終えると近くのスレイマン山に行く。町の中心にあるスレイマン山はホテルからでもよく見える、この山は巡礼の聖地となっていて、しっかりとその道はある。オシュの起源は3000年以上前から、オアシス都市として開けている。スレイマン山の洞窟からは石器や遺物の出土品も多い。相棒さん2人は登ったが、昨夜はめずらしく寝不足だったので、私は山の下のシルクロード博物館に行く。もっと珍しいものを展示しているのかと思ったのに、キルギスの写真ばかり、図書館が主なもので、大学生が私達をとり囲んで、日本語が趣味と云っては、日本語で話してくれるので嬉しくなる。キルギス人達は日本人とよく似ている、日本のどこかで会った顔立ちの子供達や大人達、何となく相互で親しみ易い気持ちになるのは不思議です。
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 ビシュケク
 首都ビシュケクまでairで飛ぶ。車で行くと13時間とか、あのボロバスで振られて長時間は疲れて、次の日がバテそうです。空港には早めに着いたので、キルギスの人々を黙って見物する。30人程の小さなプロペラ機にのんびり乗車する。フェルナガ山脈と天山山脈の西の端を上空より、白き山々を越えていく。空港より町に入る道路には巨木の街路樹が印象的、やはり根元は白い。日本人とキルギス人のカップルが経営するゲストハウスに落ち着く。新築の部屋を与えてもらう。日本人の若人達が、近隣のトウルクメスタン、カザフスタン、タジキスタン、へのビザ待ちの人々が多い。今夜はバーベキューをするとか準備している、米をナベで炊く時の水加減の注意をする。奥さんはキルギス人で性格は良い人のようだが、笑顔がなく言葉がそっけないので、小さな女の子二人がよく泣いている。
 近くのイスラム教の寺院から久し振りのあのアザーンの声が聞こえてくる。なんだか懐かしい気がします。
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アラ・アルチャ自然公園

 アラ・アルチャ自然公園
 キルギス国の旅の目的はイシク・クル湖に行くことだが、まだ日程があるのでユックリ行こう。上空からのアラ・トーム山脈はしっかりと雪に包まれ、妙に三角形のとんがりの多い山容だった。一台の車をチャーターしてアラ・アルチャ山系に近づこう。そして時間が許す限りトレッキングをと出かける。ビシュケクより30km位都会の喧騒を離れ、ガラリとその様相は変わる。一本道の両サイドには放牧が多い、この国も騎馬民族の末裔だけあり、馬の飼育が多い。それと肉牛が乳牛より多い、羊、ロバと続く、真冬の寒さまでこうして自然に放され、一時は幸せだな。それも短い命を知らずに生きていくのも幸せの印。人も何も知らない方がよいと思う。

 公園の入口で入山料を払う。この周辺はソ連時代、夏の別荘地だった、今でもカラフルな屋根が続く避暑地。大自然の中に永住する人も居るらしい。アルペンセンターに着く、日本の上高地のようだが、その山容規模が巨大である、シーズンオフらしい、多くの店がクローズで人気もない。アラ・トー山脈よりのアラ・アルチャ川の峡谷の川沿いに並行してのトレッキング、カシやモミの木が秋の中頃でまだ赤くでなく黄色、風にそよぎ、光り輝く様子はまるで、金の粉を降り注いでいる、峡谷の向こうに氷河を頂く山々が現れ360°はどこを見ても大自然の真中、夢見心地になる。暫し時を止めてこの景色の中に溶け入りたいものだ。アク・サイ川との出合いに出て、その先は増水、渡るのは無理かな、ここまでと決めて、私達はゆっくりする。他の国の人達も時折見かける。ビシュケクに帰り道、子供達も大人も自転車に乗る感覚で馬で駆けていく。カッコ良いナと感心する、馬のあの大きな黒目勝ちの濡れた眼は忘れられなく愛しい。2時間程のトレッキングだったが天気の良さが幸いしてとっても気持よいものでした。
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左=ブラナの塔  右=バラサグン遺跡

 ブラナの塔とバラサグン遺跡
 イシク・クル湖までの途中を観光しよう。東バスターミナルから大型の国際バスに乗りトクマクまで行く。そこから車をチャーターして今日の目的の地まで行くことにする。トクマクまでは木がまばらな岩山の中に突入する道路を、線路も並行しているが一度も列車には会わず、トクマクで気のよさそうなドライバーさんと目的地での待ち時間1時間で契約。荒野の中にポツンとあるブラナの塔に着く、かつて地震で崩壊したらしい。少し傾いている、ピサの塔よりはまし、レンガの積み方の模様が美しい、ブラナの塔は小さな塔、控えめに建っている。1000年も昔から、シルクロードの旅人が目印にして、この地を目指し、カラハーン朝の都として栄えていた。塔の向こうに延々と続く草原あり、雲の上に天山山脈につながり地の果てクンゲイ・アラ・ト山脈が白く見える。上空には風があるのか雲の流れが速い、向こうの東からラクダを連れたキャラバン隊が、西へと消えて行きそうな旅人が見えそうな気がして来る。

 のびやかな天山山脈 従えて
  流転の旅人 彼方より来たる

 野外博物館には各地から集められた石に、人間の顔が描かれていて無作為に置かれている。石臼もある。その顔付きはとってもユニークで石人と呼ばれているとか。石に彫られたアラビア文字から10〜13世紀のカラハーン朝の首都のひとつバラクサンであった小さな小屋には発掘されたものを展示しているが、発掘は今は中止されている。車を待たしていたのでトクマクまで帰り、そこから地元のミニバスで、イシク・クル湖の西の端小さな田舎村バルクチに着く。何の情報もないところなので不安はある。タクシーでバスターミナルより中心部へ、ホテルを捜してもらう。私達の格好を見てか余りにも粗末な宿に連れて行かれ、悲しくなるような宿だったので、もう少しましな宿を斡旋してもらう。
 今回の旅で一番デラックスホテルではなかったかな。1人$25だから高価ではない。プールもあるが、イシク・クル湖岸沿いでプライベートビーチになっていて、バラの庭園が広がり今を盛りとよく咲いている。シーズンオフかも知れないが、こんなに景色のよい処に泊まれるとは何とラッキーなことでしょう。イシク・クル湖の西の端が見渡せるホテルでした。
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左=イシク・クル湖(雲の上はクンゲイ・アラ・トー山脈)  右=キルギスの民族服

 イシク・クル湖
 昨日の宿はとっても清潔な寝具が心地よく、満足です。深夜ヒューヒューと雪起しの風が吹いているなと思っていたが、まさかと目を疑う。目の前の山脈の中間が鉛色に煙る。ホテルの人が今日初雪が近くの山に降ったヨ。昨日は暑い日照りで帽子を深くかぶり暑い暑いと言っていたのに。ビシュケクのゲストハウスの女主人が”キルギスに秋はないのヨ、夏と冬だけの季節ヨ”という意味を理解した。早朝は非常に寒い、ホテルの前を通る地元の人々はオーバ、ジャンバー、毛糸の帽子まで、真冬の装い。
 私達はイシク・クル湖の中心地チョル・ポン・アタに向かう。ミニバスで、満席になりいざ出発です。遠くの雪山まで果てしない草原、馬や牛、羊、ロバが何の束縛もなく、我が短い命を楽しんでいる。昨日は裸の山の中に突込んで行く感じでしたが、今日は大きな空間の中を突き進むようです。段々と民家が表れて来る。小さなミニバスにはお客さんが次々と乗ったり降りたりするので大変です。ギューギューに詰め込まれ、デコボコ道を速度を上げて走る。通りに面した民家の庭には必ず果物が植えてある。ザクロ、ナシ、柿、リンゴが鈴なり、木全体が赤くなったよう、適花なしだから小さいリンゴ、路肩でバケツに入れて主婦が売っている、湖岸沿いにも放牧地も沢山ある。イシク・クル湖岸のチョルポン・アタ付近はソビエト時代、政府要人の避暑地だった、外国人は誰も入れなかった。幻の湖と呼ばれていた。
 イシク・クル湖の北には万年雪を抱いたクンゲイ・アラ・ド山脈、南にはテルスケイ・アラ・トーが天山山脈へと続いている。イシク・クル湖を中心として北と南に天高く、白き山脈が屏風のように囲んでいる。面積は琵琶湖の9倍、そしてこの湖の海底には沈んでいる村があるそうで、沢山の遺物が打ち上げられるそうです。幸いにも今はソビエトから独立した1つの国、キルギスでこの地を旅することができる。チョルポン・アタのバスターミナル周辺には各家々に花が沢山、果物も満杯です。庭の花、樹木がみごとな、おっとりしたやさしさを合せ持った女主人のゲストハウスが今日の宿。
 岩絵野外博物館。余り離れてはいないらしいがタクシーをチャーターして山の斜面に岩がゴロゴロころがっているところへ行く。4000年も前のものが、よくも風化せずに残っているものだと思う。でも何が書かれているかを推測するのも難しい画もあり、画はゴート(山羊)が多い。タクシーの運転手さんが何となく、気持ちの悪い人だった。今日は余り天気よくないと思っていたら、宿に帰るとすぐ雨となる、のんびりしなさいという誰かの御小言かな。夕食は近くのスーパーに買い物に行ったり、商店を覗いたりでも自分の口に合うものはない。道には野犬も時折見かけては、何もしてあげられなくって辛いゴメンナサイ。明日は天気でありますように、そして湖の両サイドの山脈をしっかり見たい。
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岩絵野外博物館

 チョン・アクスー渓谷
 朝日に照らされたクンゲイ・アラ・トー山脈は雄々しいばかりの御姿です。近くの山々がその陰影をつけて白き山脈をくっきりと目立たせる。この宿の裏庭に大樹のクルミの木が二本あり、時々カラン、コロンと落ちる音、昨日は頭に一撃を受けた。一夜にして多量のクルミが落下する。宿の女主人は暇にまかせてはクルミを割って、中の脂肪の固まりを取り出している。冬の暖房は黒ダイヤ、石炭をトラック一台分買い込んだのでしょう。御主人が大バケツで貯蔵庫に運んでいる。ここの住民は本当に花好きと見る、昨日の雨に洗われた木樹や花々が、朝の光りに輝いた球がしたたり落ちている。今日は天気のよい日、嬉しさがこみ上げてくる。
 朝食は米を牛乳で炊いた粥、熱々のパンケーキ、香しいお茶、デザートのリンゴ、この少量がなんとも云えない心づかい。おいしいものをお腹いっぱい食べると嫌になる。もう少し食べたいナが一番です、腹八分目でしょうか、ここの女主人は心得ている人。
 バスターミナルでチョン・アスクー渓谷への車の交渉、ロシア語の分る相棒さんのお陰でことはスムース。ここにも湖畔の道の両サイドは放牧が多い。イシク・クル湖の対岸の雲の上にテルスケイ・アラ・トー山脈がくっきりと顔を出すが空が白っぽいので、多分写真には無理かも知れない。この湖は冬でも凍らないので熱い湖という名が付いているとも。
 今日は日曜日、途中の小さな村々でバザールが行われている、買い物の荷物を両手に持った人達、車、車のラッシュアワー。

 私達はクンゲイ・アラ・トー山脈から流れる川に沿ってトレッキングを始める。湖岸のゆったりとした眺めは、ガラリと違える深山の風格、モミの大木が聳える森林を進む、岩登りの好きな人達には触手が伸びそうな岩山が多い。その先には針葉樹林が続く、そしてその向こうにはクンゲイ・アラ・トー山脈の雪山の一部が見える。同じ景色なので、前の山を越えねば近くまで行けそうにない。私達にはその勇気はないので諦めた。峡谷の草地に牛や羊の放牧がある。こんな山奥までかわいそうな気がする。川の流れが岩にぶっつかっての為か、昨日の雨でか、白く濁っているのは何故なのかな。二時間ほどのトレッキングでした。車を待たしてあるところに、蜂箱を置いている変な人がいた。犬がじゃれて来て可愛いい小さなビンの蜂蜜を買ってみたが、どんな味なのでしょう。純粋であるにはまちがいない。
 夕刻にイシク・クル湖畔の散歩をする。オフシーズンの今は泳いでいる人もなく寂しい。カモメ達が何かを期待して待っている、パンクズを投げると先を争って食べているのは、どの国でも同じだな。カップルも何か熱心に話している。大昔自分にもこんな時もあったかも。次々と別荘が建築中だったり、セール中だったり。ホテルも新築中が多い。
 私達4人は今日でお互いに2組になり別れることになる。1組の御夫婦はもっと東へと、この湖を一周する。私には時間的に帰国する為にキルギスの首都に帰り、ウズベキスタンのタシケントからとなるので、ささやかな最後の晩餐となる。
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ナン屋さんの若人達

 ビシュケク
 チョルポン・アタの宿はとても居心地良い、連泊はゆっくりできる。朝食も女主人が色々と考えた料理、ポテトをボイルして潰し、丸くして両面をバターで焼いて、ヨーグルトを掛けて、デザートの果物も珍しいものばかり、おいしくいただいた。ミニバスが私達で丁度満席となりすぐに出発する。4時間30分かかる。ミニバスは窓を開けないので、何かの臭いがする。クッションはガタガタ、苦しい辛抱の乗り心地。やっとビシュケクに辿り着く。私達が泊まった宿は建設中なので外壁からセメントのかけらがバラバラと落ちて来るので危険が一杯。内部は新築だけど家具が何もなし、ベッドだけ。寝具は洗ってはいるらしいが……。台所が皆で使えるのが1つある。今日は野菜炒めをしていただきました。今日は街を少し観光した。ツムデパート、勝利公園と庶民の市場を。
 次の日は何より先にairチケットのリコンホームをすべし。宿から電話しても誰も話してくれない。多くの航空会社は近頃“要リコンホーム”はないのに、ウズベク航空は遅れている。こうなればウズベク航空に出向いて、目の前でその証拠が必要。地図で確かめて、私達はポツポツと歩いて出かける。すぐに問題は解決し、その方のサインと日時を印してもらう。
 キルギスは日本車が多い。特に四駆が多くトヨタ、ホンダ、ミツビシ、ああ安心した。もう一度のツムデパート、ケイタイ売り場の1Fは若者達の熱気でムンムンしている。3Fの土産売場に、中国のツアーのお客さんが大声で話し、マナーは悪い。チョイ大通りは政府関係の建物ばかり。大統領府に衛兵の交代を見る。カシの木がズラーと植えられた緑地帯は人々の憩いの場。国立美術館にお邪魔すれば、日本のキルト展示会があり、キルトも日本風になれば、こんなデザインになると、大いに楽しませてもらう。時折のあのアザーンの声、ここはイスラム教の国と思い出させる。
 宿の近くにもナンを焼いているところがあり日参する。若い人と仲良くなる。
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 タシケントに
 タシケントは近くとも国際空港に降りるので、やはり2時間前には空港に着かねば。宿の前に早朝6時に約束したタクシーは来てくれるのかな。4時から目覚めて又眠るとタイムオーバーしそう。でも約束は6時前に来てくれた。無事にウズベクに帰り、ホシヤハンの弟がタシケントの市内を案内してくれる。チョルスバザール、チムール広場の絵画展、そして夕食はニゴラさん宅でお母さんのラグマンやサラダをいただいた。
 もう再びウズベキスタンとキルギスには訪れることはないと思うが、友人との出会い、あの美しい風景は何よりの土産となる。そして木屑の香りが強く、ミカンが今年は豊作の我が家が待っていてくれる。理解ある家族は何と有難いこと。
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ンド・ラダック地方レーにて  〔2008.9.16〜10.1〕
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 レーの町(山の頂にあるのが王宮)

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 レーの市内(左・右)

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 左=レーの街角(山に木はなし)  右=レーの野菜売り

 インド最北部ジャンムー・カシミール州のラダック地方区はパキスタン、中国、アフガニスタン北部に国境を接している。中国の文化大革命でチベットの仏教遺跡は破壊されたが、このラダック地方にはチベット文化、宗教、建築物はチベットよりも残っている。その中心地レーに何時か行きたいものだと長い間憧れに似た思いを持っていた。母が昔々嫁ぐ時に祖父に買ってもらったという大判のカシミヤショールのあのやさしい風合い、外出時には樟脳の匂いがするそのショールを羽織った姿は幼い瞳の奥に焼きついている。カシミヤ地方産の山羊の喉の毛で織られていると聞いていた。老いの身体に鞭打って、今でなければ到底そこまで行くチャンスは再びないと決心の末、いつもの相棒さんと約束した。今回大阪の相棒さんが出国5日前に左足のアキレス腱を切るアクシデントに逢ってしまった。群馬の相棒さんと二人になったが、旅では道連れ仲間も直ぐできるので心配ないが、旅行中にそういうことが起これば、インドの病院に入院するか直ぐ帰国するかは医者の判断に従うと思うが、考えようによっては出国前で良かったのだ、神様が早めに手をうって下さったのだと諦めた。でも本人の気持ちを思うと残念無念だったと思う。デリーの国際空港の税関前でもう一人の相棒さんと会う。テロを警戒してか何度もチェックを受ける。国内線はバスで10分移動してレー行きの航空を待つ。ここでの心配事は高山病である。一気に3500mの高地レーでのことは大丈夫だろうか。医者より予防薬のダイナモックを処方して貰ったり、登山用品店で食べる酸素も買い込んで万事万端準備よく構えたつもりである。
 レーに到着前の眼下に広がるヒマラヤ山脈の巨大な広がりの眺め、さすがに想像を絶するところにいくのだなあという思いをする、しっかり気持ちを引き締める。空港は軍隊の駐屯地と隣合せ、そちらの方が堅固な建築物、いつ攻撃されるか分からない国境が近いのでこれだけ大規模な軍隊が必要なのでしょう。
 レー市街の便利なところの宿に落ちついた。家庭的なチベット系のご主人と奥さんの経営する宿は一族が大きな敷地に畑、花畑、果物を沢山植え、兄弟一家で住んでいる。陽あたりのよいテラスが各部屋について、白い山脈をいつでも眺められ、今旬のリンゴとザクロの樹木から鈴なりで手を伸ばせば届きそう。ホットシャワーがぬるいこと以外、清潔で静かでのんびりした宿です。やはり頭痛と少しの階段でも登りはゼーゼーと息切れで辛かったので宿の周囲だけを歩きまわり読書をしたりして余り動かないようにして過ごせば少しずつ身体が高地に順応して来ている。庭のリンゴをボーと眺めていたら、オーナーの長男さんが「食べてみて」と2つ枝より採って下さる。食堂は近くにいくらでもあり不自由はない。宿はシングルで150ルピー(375円)物価は日本の10分の1位でしょうか、何でも安いのでユーロ圏と違ってお金のことを心配しないでよいのが楽だな。宿のおかみさんととりとめのないことを喋ったり、幸い隣の部屋のフランス人夫婦がこのレーにもう10日前より滞在していて、レーについての詳しい情報を教えてもらう。直感でこの夫婦とは気の合う仲間と思う。宿のコスモスや菊、日本と同じ花が咲き乱れ、冬の寒さにも耐えて、咲く時を知り、争って散いている。果物も自分の庭で実ることは生まれ育った田舎を想う感傷に浸ることもできるほど余裕がでて来る。インドに旅行すると云うと友人達はよくあんな汚く騒々しいところに行くわねと驚く。デリーから横一直線の東向けて観光客はよく行くが、中々ここまでは足を向けないだろう。日本人観光客は見かけない。レーの町は小さい、メイン通りやバザール、旧市街地は朝夕の散歩の範囲、シンボルである旧王宮は町のどこからでも仰ぎ観ることができる。ゴンバ巡りの観光が終わってからこの王宮に登るつもり、ラサ宮の小型のようで原型であるかも知れない。
 さあ明日からはインダス川流域の上流側(上ラダック)の主要なゴンバ(僧院)を見学に行こうと思うが交通手段が問題である。公共のバスはあるものの時間的にいつとは定まらず、客が満杯にならねば出発しない。そこで一泊するのが一番かも知れないが。旅行社は沢山ありすぎて、金額は公定料金があるもののそこを何とかディスカウントさせるのが楽しみの一つ。一番人の良さそうなところに決定し(1日8時間走って1700ルピー)予約金を支払う。私の居る宿のホットシャワーがどうしても熱くならないので他の宿を探そうかと隣のフランスの夫婦に尋ねると、だいたいこのレーでは何処に換わっても同じヨとの返事、諦めなければ仕方のないこと。レーに居る間は水シャワー、風邪を引かないようにする訓練の一つと考えればよい。長期滞在者がよく利用するチベット料理の小さな店がある。チベットの家庭料理の店でご夫婦で経営しているが、奥さんがとっても愛嬌があり笑顔が可愛い人。よく繁盛する店は、玄関まわりが小奇麗で清潔感があり、高価でなくそれなりに何を頼んでも美味しい。特にトゥクパ(うどんに似ている)モモ(ギョウザ)コティ(揚げ餃子)は期待を裏切らない定番。何時行っても見慣れた人によく会う。宿の隣は洗濯屋さん、すぐ下の川の流れに入って手作業で大きなシーツやバスタオルを腰をかがめて洗う重労働、若くなければできないな。もっと寒くなれば川も凍ってしまうし、どうするのだろうか。身体を洗っている人も野菜や食器も同じ場所で洗っている。何ともないのだろうか、不思議だなあ。

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 シェイ・ゴンバ(shey)
 さあ今日は朝から寒い、天気が良くなることでもある。古い自家用車が約束場所にやって来た。空港までやって来てすぐその近くの山の崖に見えているのがシェイ(shey)ゴンバだ。レーに都が移る前の王都があった。シェイ村は豊かに見える。その外れにチョルテン(仏舎利)が沢山並んでいる小山があり、その先に摩崖仏があり、廃墟と化した宮殿もある。
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 左=ティクセ・ゴンパ  右=ティクセ・ゴンパの釈迦像

 ティクセ・ゴンバ(thiksay)
 ティクセ村の裏手の岩山にデーンと聳える要塞型のゴンバ、その勇壮な姿に圧倒されそう。階段の登りは苦しい息切れをする。大きく息を吐きながらゆっくり登り、その山腹には僧房が沢山あり、小僧さんがあのダライ・ラマの法衣の小振りを着て、あの色の布地のランドセルを背負って次々と僧房の中に消えていく。教育は無料と聞いたが本当だろうか。お堂にはそれなりの節度を守り、必ず靴を脱いで、静粛に、肌を露出した服装を着ない、見物には必ず時計回りとか。チベット仏教の神聖な信仰の場であるので守るべき事も多い。お堂は一、二階が吹き抜けになり、巨大な黄金の釈迦様がいらして、私達は二階から拝めるようになっている。壁画も薄暗いがとっても美しいものでした。ここまで来てこの釈迦様にお会いできてありがたい。カル(karu)にも又しても大きなインド軍の基地がある。この町全体がその基地になって、村人が小さくなって暮らしている。インダス川を渡って来た道を対岸よりバックする。
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 左=ラダック最大のゴンパ=ヘミス・ゴンパ  右=不思議な風景が続く下ラダックへの道

 ヘミス・ゴンバ(hemis)
 このラダックでは最大のゴンバ、王家の庇護があったので裕福なゴンバである。6〜7月にはこの地の大きな祭が開かれるそうです。大きなマンションの寺がコの字型にあり、その中心に広場で仮面舞踊の祭が行われるのでしょう。内部の壁画が素晴らしいというが、暗くて見え難い。ライトを持参しなかったことが悔やまれてなりません。
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 マト・ゴンバ(matho)
 こじんまりしたゴンバで扇状地に開けた緑の多い村に在る。今修復工事を行っていて中には入れない。多くの地方の方が手伝って崖の石を割って規模を広げている、いつ頃までに出来るのか誰にも分からないとか。働いている人は愉快な人々だった。
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 ストック・ゴンバ(stock)
 空港とは隣合わせにあり、階段を登れば軍隊の基地がすっかり見下ろされる。沢山の真新しい大きな軍のトラックの出入りが激しい。チョルテンのある場所にも軍のテントがある。歴史ある遺跡の中にも現在の国内の事情はどんどん入り込んでいっている。時代の流れとはそういうものであろうかと感ずる。ゴンバは全体として小山の上にあり、日本の城と同じような処に建てられている。いざ戦となれば要塞の役目をしたのかとも思われる。近くにスーパーもあり、おいしい食堂も、野菜果物のバザールもある便利な宿はすっかり落ち着き気に入ってしまう。頼めばシーツも毎日でも換えてくれるし、テラスに洗濯物も干せて、ホットシャワーを諦めれば云うことなし。明日の下ラダック行きの車の手配を捜し、2・3の旅行社を当り、直感で予約したがどうなるかな。
 昨夜は雨が降ったのか道が濡れている。今朝も小雨がほんの少し残っている。レーの町中には牛、ヤギ、ロバ、犬達が食べ物を捜して放浪している。飼い主はまったく居ないみたい。毎日道の角に野菜クズとか残飯を捨てるところには動物が沢山集まって争奪戦が始まる。一番気性が強いのはロバで、犬に朝食の残りをあげようとパンやナン、リンゴを出すとロバがすごい勢いで食べてしまう。今は川が流れているので動物は水を飲めるが、この先冬になれば−30℃と−40℃になるという。川の水も凍ってしまうし旅行客も少なくなり、残飯も出ないだろうし凍死もあるだろう。私の一番辛いのはこの動物達のこと、可愛そうで見ていられない。
 ミニバンがやって来て昨日予約した若者だったが、車がこれではなかった。約束違反だが余り厳しいことは云わずにおこう。空港から昨日とは反対の方向へ走る。豊かな農村地帯が続き、麦が黄金色に実り、収穫に忙しそう。背中に山のように背負って、馬、ロバも家族も総動員で収穫している。麦はナンになったりトウクパになったり、米より麦がこの地方の主食となる。越冬の為の食料作りも精を出している、アンズやブドウ、トウガラシも屋根の上で沢山乾燥させている。地図上では確かに北西に向いて行っているので、こちらが上ラダックのような気がしたが、インダス川が下がっているので、遠くにアラビア海に注ぐ大河がここに逆さに流れている、それで確認がやっと出来た。私達が今行こうとしているのは下ラダックなのだ。青い空には白い雪をかぶったザンスカール山脈がずっと続く。すっかり晴れ上がり白い山脈がまぶしい位美しく見える。時々パスポートチェックを受ける。国境が近くなら、これも何時ものこと。軍事基地が小さな村を覆うくらいの勢い。この地方にはポプラの木が多い、寒さに強いことの象徴のようです。しばらくすると景色は急変して、インダス川の対岸の山々には一本の樹もない。砂岩というのか砂の山ばかり、土の色が変化して今にも崩れ落ちそうな砂の山の連なり。断崖絶壁の細い道はガードレールなしの危険極まりなし、恐いのでなるべく見ないようにする。レーとシュリナーガル路線とはこんなにも危険地帯であることを思い知ることになる。今までに見たことのない、この世のものとも思われない月の世界のような不思議な景色が続くこともあり、上空には常に雪を被った山脈がどこまでも追いかけて来る。
 インド経済の発展を反映してか、道路はあちこち舗装したり拡張したり、工事をしているところが多い。その為の仕事をする労働者が、家族と共にテント暮しで移動しながら働いている。工事している箇所には旗振り屋さんもいないので、離合には我先にと車が突っ込んで来て、そこで又ひと揉めがあり長い間待たされる。ラマエル・エンバまで125kmなのに5時間余りもかる。
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 左=ラマエル・ゴンパ  右=ラマエル・ゴンパのお年寄り達

 ラマエル・ゴンバ(lamayuru)
 突然荒涼たる太古の砂漠の世界から独特の褐色の山上に巨大な僧院の連なり、周囲は僧房が取り囲み、多くの僧達も常駐している。ゲストハウスも僧院の中にあり泊まることも出来る。巨大な千手観音像が祀られている。老人達がマニ車をまわし祈りをしている。多分私とはそんなに違いない年齢かも知れない、ずいぶん老けて見える。写真を撮ると必ず手を出して「ルピー」と言うことは残念な気持ちがする。インド国内からも外国からも観光ツアーで訪れる人々も多く、食堂では観光客が同じものを食事している。私達が頼んでも中々オーダーをとってくれない、従業員が少ない。
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 アルチ・ゴンバ(Alchi)
 サスポル村よりインダス河を渡って南側にある静かでのんびりした村にある。チベット仏教のゴンバの中でも一番古いらしいが、寺に行く通りに店が沢山出店していて、日本でいう門前町のよう。私達が訪れた時は夕刻であった為かカギ番さんが留守で内部に入れなかった。壁画が素晴らしいと聞いていたのに残念です。泊まって見学するのが一番よかったゴンバのようです。ここは山の上に建てられているのではなく村の中にある。珍しいのかも知れない。
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 レキール・ゴンバ(lekir)
 ゴンバは豊かな自然の中に在り、小僧さんの教育やここの村の民衆の心の中に浸透している感じのするゴンバです。ここも高いところにある、やはり息切れしながら登っていかねばならない。過去、現在、未来を象徴する仏様の像がある。長い道程と車のクッションの悪さ、ゴンバ見学は山に登ることも多いので、すっかり疲 れてしまった。東西のゴンバ群の見学で沢山ありすぎて頭に入りきれそうもありません。相棒さんは疲れと朝夕の冷え込みで、すっかり風邪でダウンしてしまう。大分しんどいら しく色々な薬を飲んでいるがそれでも回復しない。インドに入国した人は必ず風邪か下痢になるのが大部分、一度そこを通り過ぎないと旅行できないらしい。まだ今のところ私に は回って来ない。いずれの順番待ちです。
 レーからニューデリーまでの行き方の情報が欲しい。マナーリまで2日かけてバスで下って行くことを頭に置きながら、インフォメーション、公共バス、ミニバス、デラックスバス、四駆の車、レーの町中を散歩しながら聞いてまわる。数日前に山崩れの事故があり、何人か死亡したらしい。今年は例年より早くに5000m級の峠に雪が降り交通が遮断し、今のところ何時通れるかは分からない。政府の除雪車もスムーズに除雪してくれるか、その間2、3日知らない何もないところで待たねばならないらしい。行き先不安で余裕がない日数なのでデリーまで航空しか仕方ないのでしょうと思い、相棒さんに相談して早目にその方法を決定しなければならない。どの航空会社を選ぶかも下調べをする。相棒さんの風邪は相当しんどいらしい。一日フリーにしてレーの町を歩き回る。果物と野菜市場が近くにある。新しそうだがよく見るとそうでもないものもあり注意する。観光客とみると値段をふっかけてきているのは分かっている、標準を知らないので言われるままに。売り手さんもたまには細やかな儲けをして下さいヨと買い手も楽しんでいる。相互が分かっているのでどっちもどっち。例のチベット料理の美味しい店に自然に足が向く、何を頼んでもはずれなく美味しい。喜んでお金を払いましょう。商売とは、店の信用とはこうして増していく。
 空港で出会った目元の爽やかな若き青年に偶然その店で出会う。お互い一人だったので話は尽きない。彼はコロラド出身でインドに仏教の修行に来たらしい。ブッダガヤに行く前に、ここレーに来てゴンバ巡りを泊まりながらしているそうで、若い人なのに何か悟りきったような遠くを見詰める眼に、修業僧の雰囲気を充分持っている。こんな人は珍しいなと思う。向こうも空港で会ったり、朝食のレストランで会ったことを覚えていてくれていた。日本人の年寄りがよく散歩する人だなあと思っていたらしい。このレーには乞食の姿がない。インドにはどの町にも必ず大勢の乞食が居たが、このレーは例外なのでしょうか。でもここには野犬、ロバ、牛があてどなく食べ物を捜している姿を見るのが本当に悲しいこと。
 もう一人仲良くなったリタイア組みのフランスとスイスの女性二人は、このレーには民族の関係で、親類同志の結婚が多いので、どうしても生まれてくる子供に何かの障害を持 っている子供達がいて家庭内で隠されて育てられるのではなく、一つの施設でその子供達を集めて、世話をすることが自分の老後の生き甲斐だと話していた。世の中には色んな考えを持っている方々もいます。あの健やかな瞳をした青年のご両親はどんな方なのだろうと想像してみたり、その場限りで、もう二度と会うこともない人達かも知れないが、これも旅の楽しみの一つ、同じ土地を旅する旅人に会うのも私に多くのものを教えてくれる。マリーナ行きの情報が中々しっかりしたことが聞けない、土地の人にも分からないのは当然、すべて天候次第。お隣のフランス人夫婦と共に航空券を押さえようと思い、何軒かあたる。インドの商法は一日でも早めに買えば少しずつ安くするとか、日が迫っていれば高くなる。観光客はバスが何時動き出すか分からないので、皆航空券を買いにと沢山チケットオフィスには並ぶ。多分買い手が多くなれば値を上げるのがインド商法らしい。もう少し長くレーに滞在して、もっと色んなところに行こうという結論。ラダック地方のレーが目的だったので、私にはこれ以上のことはない。ここまで来られたことが有り難い。深夜には夜空に星がいっぱい広がる。正に満天の星とはこのことだろうか。夜中にまで特別なことを見せてくれる。
 今日も晴天に恵まれ、相棒さんもすっかり風邪より解放されて、歩き廻れるほどに良くなった。日本政府の援助で建てられたストーパがある日本妙法寺(3800m位)、お隣さんがもう一度登りたい位良い処だったので一緒しましょう。そんなに云うにはきっと良い処に違いない。そこまで車で行くのかと思っていたら二人は歩きだした。40分位でストーパの階段の下に着く。途中一人の若い日本人に会う。昨夜は頂上の寺で泊まったそうで、寒かったと言っていた。彼は半年位かけてインド中を旅しているらしい。時間と若さがあれば 旅することこそ、その人の人生に大きなものを与えてくれるのに。若さとは羨ましい限りであると、今さらながら思っています。喘ぎながらゆっくり登り、途中休んだり、腰かけたり、相当の急勾配をやっと登り、頂上からの眺めは360度のパノラマ。北には6000m級のストックカングリ山脈が白く光り輝く、レーの町が一気に見渡される美しい景色。妙法寺があり日本の僧が時折泊まりに来ている。この景色に会えたことだけでも辛かったけど嬉しいことです。レーで一番よく使われる挨拶の言葉はジュレー(こんにち、ありがとう、何でも通用する)目が会えばジュレーと挨拶すれば、向こうからもジュレーが返ってくる。どの国でもその国の挨拶一言で相手は気持ちよく受け止めてくれることは確かだ。恥も外聞もとっくに捨ててしまい平気で誰にでもこっちから話せばよい。どんな時でも悩むより行動する一歩が大切です。いつも思って行動しています。
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 ストック・カングリ山脈(右=最高峰の6123m峰)

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 サブ(sabu)に行く
 レーより15kmの小さな村に今日もフランス人夫婦と一緒する。行きは車を雇う、チョグラムサルの谷にあるサブ村に(3420m)着く。サブー・ツアムという小さなゴンバの前に、今修復中のゴンバの階段下に水がコンコンと湧いている。その村の丘にあるタシ・ゲベル・ゴンバに登る。ゴンバではヨーロッパの方が一人、五体倒地の祈りをしている。以外にも修行僧に外国人もいる、文明に毒され自然に帰りたい気持ちの現われなのだろうか。9月にはサブーの祭りがあるそうですが、もう終わったそうです。ここもカギ当番さんが居ないので内部は見せてもらえなかった。外壁が新しく描き直したようでガッカリ。修行僧は私達が来て騒々しいのでどこかへ静かに行ってしまった。サブー村は水量の豊富な処、各家々の前に小川が流れ家の造りが堂々として立派で広い敷地。今は秋色に染まった木樹がもう直ぐ落葉するのでしょうか、ここもリンゴが最盛期、真っ赤に熟れた美味しそうなのが重そうに垂れ下がる。余りにもみごとなお屋敷の小父さんに声をかけたら、私達4人をリンゴの庭のベンチに迎え入れてくれる。どれでも貴方達の好きなほど採って食べても良いヨと言ってくれる。ありがたく頂戴する。昔食べた紅玉の味、小振りだがその酸味が程よい。敷地内に果物の木樹が沢山あり家庭菜園もあり、自給自足の生活はできる。
 村の外れからゴロゴロ石の砂漠は続く、インダス川の別流かな、今は干からびている。元川のような処を2時間ほど歩く。チョルテン群も続き足場も悪く、村を見下ろす丘の上には、かつての砦跡も見られる。人海戦術で修復工事をしている、機械は無く労働者ばかり、時折小さな足跡や丸い糞が落ちている、上空には明らかに戦闘機と思える飛行機が飛んでいく。短いトレックだが、暑い日だった。私達はやっとチョグラムサル村に着く。ここにはチベットからの難民が多数住む村、街道沿いの両端にかなり大きな村がある。難民も二世、三世と世代は移っているが、昔のチベットの服装したお年寄りがいる、村の尊敬を受けているらしい。私達は小さなチャイの店でお茶を戴いて、公共バスに乗りレーに帰る。
 一日中を休息日にした。洗濯や晩には寒くてシャワーも出来ないので昼シャワー。チベット族のバザールが広場に点々と見られる。中に入ってみると骨董品とか、装身具が多く余りお客さんは居ないようだ。レーの町にも店が次々と閉めている。シーズンも終りなのでしょうか、一年のうち四ヶ月程しかオープンしていない。厳しいことです。彼らは他に仕事があるのでしょうか。メインロードの裏手にオールド・バザール、ここには生活必需品の店が並んでいる。靴屋、衣服、写真、香辛料、床屋、肉屋さん(顔を背けたくなるように露骨なもので、日本のようにスライスしてはいない、肉は塊で買う)等々、店番の人はチベット人らしい、坐ってマニ車をまわしながら数珠を持ちブツブツお経を唱えている。小さなお店がずっと続きその中にまで時折迷い牛やロバが入って来ている。今晩はフランス人夫婦と何か美味しいものを食べましょうと約束が出来ている。どんなものをいただけるのかな、楽しみだ。
 昨日は少し遠いが本格的な料理をいただき満足でした。今日は毎日遠くから見ているラダックのシンボルとも云える王宮まで登ることにしよう。現在ではほとんどが廃墟となっていると言われているが登ってみなくては話にならない。階段のある大分上までは人家がある。危うい石段を滑らないように気をつけて上へ上へ登って行くと入口には門があり、一人の僧侶がついて来る、お金を払えと云わんばかりに。チケットは?と問うても戴けないので、それなら払わないヨ、やっとチケットを交換して$5払う。内部のお堂のカギを開けてくれて美しい観音様を拝見させてくれる。ゆっくり観たくともすぐ又カギをかけようとする。何だか追いたてられている様な見学だったが、やはり頂上から見るレーの町の様子はみごとでした。レーに8日間滞在したことになったが、ここが長年の憧れの地だったので嬉しい限りである。いよいよ明日はニューデリーへ飛ぶ。朝5時半宿の前に集合して空港に車を走らす。フランスのご夫婦と一緒だから心強い。何から何までお任せ、二人共にしっかりした考え方を持ち、無駄なお金は使わないようにしている。私達のairは一時間遅れでやっと出発する。チェックはやはり厳しい、何度も受けなければならない。結局マリーナ行きのバスはストップしたままだったので、時間のある人達はスリナガル方面に変更したり、バスを予定していた人達は航空に変えたので、大勢の客がチケットオフィスに押し寄せた。その航空のチケットは値上げしたとか。これだからインドは汚い。私達は早目に買ったのでその弊害はなかったが、航空運賃はある程度決まっているのではないのかなと思うのだが。レーから飛び立つと又してもあのヒマラヤ山脈の巨大さの上を飛んでいると思うと感慨も一頻り。デリーの空港に着けば30℃位、ジャンバーを脱ぎ始め、宿まで小さなミニカーに荷物と一緒にギューギュー詰め、もうどうにでもなれの心境。ニューデリー駅前に着き、そこからオールド・バザールの中、便利なところを選んで宿にする。ホットシャワー、冷蔵庫ありで嬉しい。
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 左=クトウブ・ミナール  右=フマユーン廟

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 左=バハーイー・ハウス・オブ・ワーシップ(別名=ロータス・テンプル)  右=ローディ公園で休日を過ごす人々

 デリーにて(オールド・バザール)
 4人が泊まったホテルはオールド・バザールの中心、食堂、雑貨、果物、旅行社等、何でもありの商店街の中。多くの牛、犬達も一緒に住んでいる。何せ全てゴチャゴチャの街、客引きも多い。早朝から深夜まですごい数の人間と牛、犬の街。ツクツク(リクシャー)のような車を雇う。8時間内に自分の行きたいところに運んでくれる便利な車。最初にムガル帝国の赤い砦ラール・キラー(別名レッド・フォード)その規模から巨大な赤い城壁に囲まれた城はみごと。柱に彫られた繊細な細工、白亜の大理石の玉座、謁見の間、それ等すべてがムガル時代の面影を残している。暑い日歩いて廻るので疲れる。ジャマー・マスジットは旧市街にそびえるモスク。インド門と官庁街は英国の影響より整然として静かにあり政治の中心らしい。ここには乞食の姿はないが、他の通りには道端で寝泊りしている家族が大勢いる。信号で止まった車の間を何かのパホーマンスをしては何がしのお金を乞うている。危なっかしくて見てられない。クトウブ・ミナール、高い塔がそびえるイスラム教のモスク。バハーイー寺院、イスラム系の新宗教。カーストの別なく、デリーの少し離れた処にあるユニークな形をした寺院、フマユーン廟は美しい庭園の中の廟、イスラム建築の美しさを見せてくれる。お茶の店に寄ってもらって少しの土産を買いホテルに帰る。デリーの名所はすべてが大きいので中に入っても歩きが長いので、すっかり暑さと疲れでぐったりです。
 デリーから3時間位の街ヒンドゥー教の聖地マトウラーに行くつもりで早朝ニューデリー駅に急ぎ、6時30分の列車に乗るつもりで駅に行くが外国人とインド国民とは別のチケット売り場と聞いたが、予約なしではチケットは買えない。売り場も8時でなければ開かない。多くの自称案内人が寄って来て自分が旅行社の者だから、うちで買うべし。さすがこは世界一の混雑の地。老いも若きも大きな荷物、子供達も犬もそこら中に寝ている、食事もしている。どうしたらよいのか、誰に聞くべきなのかさっぱり分からず、唯人人人の大混雑の場。私達はもうすっかり諦めて、もう一度市内をゆっくり見物でもしょうということになった。コンノートの中心街に行ったり、デパート、インド各州の土産物屋さんに行くが、さりとて欲しいものはない。物は不要と思う人には実用品以外のものはいらない。ローディ公園でインド上級社会の休日の過ごし方を見物する。この公園に入場する折にはチェックがあるが、多種の鳥達と花々が美しく咲きのんびりした気持ちよい公園、ヨガをしたりグループで瞑想している。ここでのんびりしている人々は、道端の貧しい家族のことを思いやる気持ちはないのでしょうか。ガーンディ記念博物館は美しく整備され、ガーンディの建国の父の焔は今もなお燃えている。インド舞踊を観るのもおもしろいかな、何でも興味津々なので行ってみる。インド各州の有名な踊りを見せてくれるそうで技術はとても高いらしい。期待して行ったのが悪かった。クーラーなしだし、光線のあたり具合で踊っている処には埃が舞っている。蚊が沢山いて気になってしかたない。夜のデリーの道路上は多くの牛がただ何かに憑かれたように前向いて歩いている。食べ物を捜しているのか寝るところを求めているのか分らない。こうして歩いてばかりいると最後はどうなるのでしょうか。相棒さんとデリーで別れ、私は一人帰国しました。帰国してから風邪をひいたり、ギックリ腰をしたり、疲れが一気に出ました。やはり老いの身に在ることをしっかり実感し、これからはそのことを考えて旅をしようと思っています。木屑の香のする我が家、しばらく平凡なる主婦の生活に徹しましょう。家族ヨありがとうございます。
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ズベキスタンの旅  〔2008.6.6〜6.21〕
 出発の3日前、2年ぶりのメニエル病を発し点滴で快方に向ったが、健康に不安のある時の外国への出発ほど心細いものはない。多分旅にて在れば何時もの元気になると信ずる以外にない。大阪の元気印の相棒さんと、ネパールで意気投合した新しい相棒さんは成田から。関空で合流し、ウズベキスタンの首都タシケントには8時間で着く。預けた荷物はなかなか出てこない。お客さんはツアーの日本人観光客が多く、コンダクターは走り回って大変な様子、照明も暗く味気ない雰囲気の空港。1万円を換えれば分厚い札束となり、サイフに入れきれない。急にお金持ちの気分。
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 タシケント
 ネットで予約したホテルは民家のような造り。早朝目覚めて見れば、ホテルの庭はやはり趣の異なるウズベックスタイル。ぐるりーと四角に囲まれた部屋の中心に雨水を貯める池があり、南国調の草原と樹木ありで、今日は客はなくガラガラの状態。散歩に出てみると、モスクに行く帽子をかぶって背広を着た中年の男性ばかりがゾロゾロと歩いている。
 「ヤポニヤか?」カメラを見て写真を撮って欲しいと親日的。細い路地にはパン屋さん(ナン)、一時発酵のパン素地を水を付けた手で伸ばしながら、大きな釜の壁面に張り付けて焼いている。ちょっと待ての合図。熱々の焼きたてはとっても美味しい。大きくって三人で十分適当な硬さと香ばしさは抜群。私たちは今日またウルゲンチに国内線で飛ばねばならない。町全体が世界遺産のヒヴァに行くにはそうするのが一番楽だと判断した。
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 ヒヴァ(イチァン‐カラ)――未完成のカルタ‐ミナルと神学校ムハンマド‐アミン‐ハーン

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 ジュマ‐モスクの内部

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 王様のハーレム(大道芸人一家の民謡と舞い)

 ヒヴァ
 ホテルは朝食付きだが時間なしなので、ティクアウトにしてもらう(朝食をいただく時間が決まっている7:00〜9:30とか)。幸いにもウズベキスタン航空を利用してこの国に来たチケットは一路線おまけの国内線が付くので、それを利用した。隣席にアルバイトのガイド(ニゴラさん)と一緒になり、多くのこの国の情報を下さる。荒涼とした原野の中の空港は貧しい設備。勿論ターンテーブルはなく、ここでも炎天下長いこと荷物を待たされてやっと。ヒヴァに行くには、バスはなかなかない。白タクを利用する。ニゴラさんにコンタクトをしてもらう(多分普通の値で行けたと思う)。両サイド黄金色の麦畑が続く豊かな実り。でもその畑の中にポツンポツンと梅科の果物(多分プラムかな?)が、おもしろい植え方があるものです。1時間でヒヴァに走り城壁近くのB・Bに決定し荷物を預ける。
 ヒヴァのメインを観光に。城壁の内部の村をイチャン‐カラと呼ぶ。西門に入場券売り場があったので、2日間有効のチケットを買う(後で分かったことだが博物館に入る為には必要だが内部の通りを歩くには不要だった)。厚い二重の城壁の外部には現在も4000人ほどが住民として生活しているし、内部はそのものが博物館である。私の住んでいる嵐山のように、風致地区として修理したり建築したりするには厳格な規制を負っているのでしょう。だからこうして砂漠の中に在りながら、160年以上も以前の姿を保っている。メインストリートから入場すれば、トルコブルーの巨大な未完成のミナレット(塔)、隣にメドレセ(神学校)(現在はホテル)が人目を惹く。
 ここに来て日本人の集団にぶつかり、ガヤガヤと騒がしい。あまりりたいしたことのなさそうな建築物は通り過ごし、メインだけを観よう。お昼にこの国の名物料理ブロフ(人参、玉ネギ入りの混ぜ御飯でトップに肉がのる)日本のより、どこか違ってまろやかで美味しい。相棒さんはビールがないと食事が進まないのでしょう、この国のビールも味は良いということでした。
 暑いかんかん照りの中にそんなに長くは歩けない。熱中症を避けて3人はよくミネラルウォーターを口にする。パフラヴァン‐マフムド廟は巨大なもの、清潔な湧き水が出ている、門を入っただけで涼しくて気持ちがよい。多くのモスクの中で印象的なのが、天井から差し込む光だけで、そのモスクの内部の柱の彫刻が200本以上浮き上がっている様は、神秘的な雰囲気はおみごとでした。あのアザーンの祈りの声が聞こえて来そうです。ミナレットは罪人の処刑の場所でもあったらしく、高い塔から落として殺す。キョフナ‐アルクでは牢獄や造幣所もありその模様を絵で詳しく説明していた。王様のハーレムではこの地の民謡と踊りをプロの家族一団でショーとして、ある程度の時間見せてもらう。大きな大舞台より心が通い合うのは楽しいことです。このビヴァの人々は金歯が流行なのか? 少しお金持ちになれば誇示したいのでしょうか、中年の男女は金歯をしている。昔の日本人もそうだったような想い出があるが。
 次の早朝このイチャン‐カラに散歩に出かけると、昨日と違って正面門を入ったら、何だか中世の物語の世界に足を踏み入れたような朝の静けさ涼しさ。観光客は居ない。店の人が箒で清掃している。私たちは昨日の観光を本で確めながら、もう一度というところは入場したりした。日曜日の今日は大バザールがあるという。いったんホテルに朝食に戻り、朝からの行動の計画を3人で考える。宿のオーナーはどっしりとした大男、でも表情はいつも優しい、息子が流暢な英語で対応してくれる、発音が正確なので学校を出ているのかな。
 小さな男の子の赤ん坊を抱いた若い奥さんがとっても可愛い人、その仕種は少女のよう。こうした民宿(B・B)に泊まれば、家族の生活が少し見えてくるのは嬉しいことです。やはりここはイスラムの社会、女性はあまり人前に出たくないのでしょうか。カラフルな矢絣模様の長いワンピースや、短くしてその下にズボンを着ている民族服を着た女性が多い。頭はスカーフしている人もいない人もいるようです。
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 バザール
 どの国に行っても市場ほど楽しいものがあるでしょうか。現実味のある庶民の生活がそこにある。心舞うひととき。自分にとって、ショッピングモールよりブランドマーケットよりもすばらしい。入口は小さく思えたのに入ってみてびっくり、大きい大きい、どこまでも続いている。生活に必要な物は品物に分けて、生鮮食料品、雑貨、果物、野菜等と農民が自分の畑や果物等を持ち寄って売り買いもしているよう。時には物々交換もありかも。こんな巨大なバザール(露天の)、初めて見るのかも知れない。1年365日が晴れというこの気候も理由の一つでしょうか。大声で呼び止め、売り買いは早朝より活気に満ちて生き生きしている。暑さも眠たさも吹っ飛んでしまう。相棒さんと迷った時の最終場所を定めてウロウロする。旬の果物チェリー・梅・アンズ・メロン・スイカ・モモ・リンゴ(ゴルフボール位小さい)等、前に座り込んで周囲を見物する。梅を塩漬けしてきたが、シソを入れるのはもう少し後かな、帰ってからの一番の仕事かな。ウズベクは、梅干はないのかな? 買い物し ている人々も運んでいる男性も、皆カラフルなバケツを持っている。中身が安全だから、ナイロン袋のダイオキシンの心配なし。とっても賢明な方法ですね。バケツが役立つ買い物バックとは。
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 ブハラ
 観光案内所でヒヴァからブハラまでの移動方法について問う。白タクの方が3人いるので便利で早い、その値段相場を聞き、ホテルで相談。結局ヒヴァの白タクは高いのでウルゲンチから呼ぶことで手を打った。幹線道路はウルゲンチからでバックしてブハラ向いて走る。両サイドここも黄金色の小麦畑、果樹園も続く。綿花の畑もまだ幼いが広大な広がり。9月頃にはこのあたりは真っ白い綿を摘む出稼ぎの労働者で溢れているとか。この広がりはずっと地平線まで。畑が終われば砂漠の中の一本道、砂漠とは真平らではないことはサハラで経験している。小さい丘の連なりです。ラクダの好きなホウキ草も少しはある。車はクーラーもなく開けた窓より照り返しの熱風が入ってくる。時折砂嵐も見る。身体中が砂でザラザラです。早くシャワーをと心が叫んでいる。トルクメニスタンとの国境沿いのアムダリア川に沿った道をひっついたり離れたり。銃を持った軍人か警察の検問もあるが、日本人にはやさしい対応です。
 アムダリア川に架かる橋(?)は、廃船を並べた上に厚い板で覆ってそれが橋になっているのを渡る。よく考えている。もしお互い戦いになれば、この船を撤去すればよいこと。国境を接する国もよく工夫していると感心。味気ない砂漠の道、ドライバーさんは追い越されるのが嫌いな人かな、あまりにも単調だからかしら、カーチェスを後続の車とする。速度は150km以上、止めてヨ! こんな車でよくもまあ、すぐ傷むヨ。三人とも黙っているしかない。6時間のドライブ。今回の旅で多分これが最長の距離と思う。ブハラの近くのロータリーでここまでと言う。ホテルまでなら、もう5000レバ(500円弱)。汚いナ、最初に決めたのに。そんな時やはり男性相棒さん「そんな約束していない。守らないならNo moneyだ」と反発してくれたので、私たちはホテルを決めるまで待ってもらい、チップなしの約束金だけでバイバイだ。
 ブハラのホテルは連泊なので、とても当りのよいB・Bを選べた。朝食付き、クーラー、冷蔵庫付き至便なところで清潔とくればいうことなしの1人10$。静かで涼しい心地よいホテルは旅一番の楽しみ。このB・Bは大きな造りで、古い民家を改造しホテルにしたらしい。昔から家長たる父親の元に息子の兄弟みなが一族でともに暮らしていたらしい。その家の特徴ある真中に大きな庭があり、スペインのパティオのようで、このB・Bは草花がいま満開になって各部屋から眺められ、窓辺に椅子がありくつろげる。食堂が地下にあり、食料の貯蔵庫がしっかりとしている。
 次の早朝より散歩をすれば、またあのおいしいナン焼き立てとはラッキー。三人でちぎって鼻歌も出て本当においしいヨ。この街のメインのラビハウス(大きな池)。昨夜はライトアップして噴水が出ていて涼しそうだったのに、早朝はホームレスの姿あり、アヒルがゴミを漁っている。私たちは日中の暑さを避けるためにも、朝食終わってすぐ観光にゴーイング。
 タキ(丸屋根ありのバザール)に向う。この国のスザニ(手刺繍の布、ベットカバーやタペストリー、テーブルクロス等)を山ほど売っている。観光客目当てに土産物屋さんはどこでもが売り場なり。ブハラのシンボルである。この町のどこからでも見えるカラーン‐ミナレットや神学校、ウルグベク・モスク塔や神学校が当時のままの姿を保ち、この町の大きな観光資源。それぞれが、歴史的な事実が物語化され神秘的なストーリーに満ちている。ここでも日本人観光客の団体が沢山いて、中には身勝手な行動をする人々もいたり、騒々しいのが一番嫌いです。諸外国でよく聞かれることは、日本人はどうして団体でないと旅行できないの? 私も不思議に思うといつも答える。気の合う仲間とこうして旅できる私たちは幸せ者です。
 古代ブハラの発祥の地であるアルク城に行く。暑い日差しを受けてヤッコラサで登る。地元の人々はフリーでも私たち外国人にはチケットを買わす、それが修復費として使われているならOKですが、払った時レシートを確かにいただかなければ後で一癖ありで、要求しなくてはくれない時もある。その時はその人の懐に入っていくのかも知れないので。
 歴代のハーンの城で、残酷極まりなしの圧政の繰り返し、モンゴルのチンギス‐ハーンに滅ぼされ、この地で歴史上最大の流血を見た。城の内部では小さな売り場が犇めいている。展示室の管理人の小さなテーブルの上まで、自分が作った手芸品を売っている、いかに暇かが分かろうというもの。管理することに徹しなさいヨ。公務なんでしょ。元ロシア的な強圧的な態度は鼻につく、笑顔一つもない。城壁の上から町を見渡したいと思えば、お金を払えば見せてあげるとかで上がらせてくれないので、裏に廻って見渡す、反骨者ばかりだヨ。城の見物終り。ハーン専用のモスクや預言者ヤコブのチャシュマ‐アイコブのとんがり帽子のドーム。ここは湧き水があり眼病に効くという。日本にもどこかにあった気がする。建築的注目に値するイスマィール‐サーマーニ廟の中は何もない、清掃の小母さんがお金を下さいと手を出す。「外から見る分にはあげる必要ないでしょう、私たちのような貧乏人からお金をとらないで」と言ってそこを離れる。
 あまりの暑さに、ホテルに帰り休息しなければ身体がもたない。また夕刻に第二のメッカと呼ばれる聖地バハウディンに白タクで行く。広い麦畑の中に広大な建物。一般にはモスクの中に外人は別としてこの国の女性は入れないと思っていたのに、ここには多くの女性たちが民族服で気楽に出入りしている。愉快な女性軍は日本人が珍しいのでしょうか、一緒に写真を撮りましょうと走って来る。
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 左=チャル‐ミナル(4本のミナレット)  右=アルク城からの眺め

 サマルカンド
 今日は移動日。サマルカンドまで、昨日観ていない4本のミナレットに早朝散歩で訪れる。チャル‐ミナルといわれ、旧市街地の裏にこんなに美しいメドレセがあった。昨夜メロンを買って冷やして食べたが、日本のものとは甘みに欠ける。三人で美味しくいただくが、あの大きなメロンが20円だったのです。移動日だからと諦めていたけど、いつも白タクでは楽をして少々後ろめたさがあったので、今日は一般人のバスでと決める。「何時発なの? 11時」と。それならと思い近くをブラブラしながら店の商品を見物して、大体満席になったので、もう出発するのでしょうと思っても「あとの2〜3人を待つ」とか。1時過ぎ、乗客もやっとブーイング。皆辛抱強いと思う気の長い話。今日は風が強く両サイドの並木のポプラか白樺(?)がクネクネと身体をくねらしている。ここにも綿花と麦の畑が続く。今はスモモ・梅・アンズ・アプリコット・チェリー等の果物がたわわに実った果樹園も続く。家族総出で、下の敷物にたたき落として収穫している。バスは、バス停はなくともどこでも待つ人が手を上げれば乗せて、下ろして約5時間でサマルカンドに着く。
 サマルカンド――この地名の聞こえの良さ、あのブルーの丸い屋根のモスクを心に浮かべる、シルクロードの中心都市として栄えた古都である。私達は清潔さには少し劣るが、気楽なオーナー夫妻のいるB・Bに落ちつく。三人部屋で20$、朝食付き、クーラーなし、ファンあり、バス・トイレ付き。今回のB・Bも四角に囲んだ部屋の中心にアンズやチェリー、そして古木の大きな手を広げたブドウが涼しげな木蔭を作り、まだ青い房が沢山さがっている。窓辺には縁ありの縁台がずらりとあり(ソーリという)、気候のよい時や泊まった客もそこでお茶しても食事してもよいらしい。夜はそこでカヤを吊って寝ている姿もある。私たちは夕方もそこで頼み、とても豪華な夕食をいただいた。ここも連泊になりそう。サマルカンドのナンは、この国では一番美味しいとティムールの時代からいわれ、直径30cm位で表面が光輝いて肉厚で街角にもよく売られている。主婦が家庭で作ったヨーグルトと共にアルバイトをしている姿をよく見る。
 泊まった次の早朝、涼しい風に吹かれてまずレギスタン広場に向う。シルクロードの中心都市として栄えたこの都市もジンギスハーンによりすべて焼き尽くされたが、ティモール王によりこのサマルカンドを蘇らせ、この都市をとっても愛したらしい。陸軍の新兵さん(?)が行進の練習をしている、決してカメラを向けてはならないという注意を守る。広場にはウルグベク‐メドレセやシェルド‐メドレセの神学校がある。シェルド‐メドレセにはあの問題となったイスラム教の偶像崇拝を禁止した人の顔のタイルが飾ってあり、あっ、これだと納得した。  私たちはシャブ‐バザールに急ぐ。威勢のよい売り子の声、自然とこちらも元気になる。ここのジャブ‐バザールもすごい広さ、例のピカピカのナンがいっぱい売られている。何でも彼でもありで迷ってしまう。干しブドウも色んな種類ありで少し買っては数字のやり取りを楽しむ。今だけのクワの木の実も売られている。黒いのが熟れていると思っていたが、白とピンクもある。街路樹もクワの木が多い。美味しそうなので一つ摘んでみるが美味しくはない。市場のある食事場はどの国でも美味しいと思い入ってみる、具沢山のショールヴァは薄味で(25円)好みのものでした。
 私たちはティカラリ‐メドレセに入る折、裏から入ったので誰からも呼び止められず、金ぴかに輝く天井を仰ぎ見てそのスゴサに感心することしきり、ティモール族の眠る廟もある。係員の人がチケットは持っていますかと問われ、ミナレットに登るのなら必要と思い、いらないと言ってしまい、後で気がつけばそこに入るだけでチケットは要るのだった。でも、見終わったところだったのでサッサと三人で裏門から出た。知らないこと、気がつかなかったことは強いこと怖いことなし、ゴメンナサイです。
 中央アジア最大のモスク(ビビハニム‐モスク)の内部は崩壊が進み、その天井には鳥達の住家となっている。ここで偶然にもヒヴァに行く途中に出会ったガイドのニゴラさんに遇う。彼女は日本語科の大学一年生、タシケントの旅行会社でガイドをしているそうです。アルバイト代を貯めて、いつか日本に行きたい夢があるそうです。真面目さと素直さの性格が彼女の行動に表れていて、何か世話してあげたい気持ちになる。暑い! 帽子かぶって雨傘を日傘にしても涼しくない。B・Bに帰り、シャワーして昼寝して4時過ぎにまた観光に出かけましょう。
 午後はアフラシャブの丘を目指す、モスクの上の木蔭で僧が私たちにも祈りをささげて下さる。両手を何か大きなものを抱くように差し出し、アラーの神様の御心に添うようにお祈りをして下さる。清らかな瞳は何の疑いも知らぬ若き人。丘の上よりバザールを見下ろす眺めは美しく、隣の丘にはイスラム教徒の基の集団がある。イスラムには墓はないと思っていたのは誤りでした。若き日の写真を墓石に刻んで飾っている。観光客の多いシャーヒズイング廟群に足を運ぶ、このサマルカンドの聖地である。階段の両側はティムール一族の廟であり、いかに彼の一族がこの地で偉大であったかを知る。
 私たちは暑さに疲れてぐったりとなりながら、自分を励ましティムールの像がどっかりと坐っている大通りに出てグリ‐アミール廟に寄り、レギスタンの公園に腰かけたらその前に出来たてのサモサ(大きな四角形のギョウザをかまで焼く)を次々と買いに来ていたので、そんなに美味しいものか熱々を買っていただいてみるとこれは絶品。庶民の人々の方が美味しいものを食べているのだ。明日はシャフリサーブスに行こうと意見がまとまり、日本語が少しできる白タクに電話すると快く承知してくれる。
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 レギスタン広場(ウルグベク‐メドレセとグリ‐アミール廟)

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 シャーヒズインダ廟群

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 バハウッデンにて(女性の服は長いワンピース)

 シャフリサーブス
 朝はすぐシャブ・バザールに自然と足が向く。売り買いの、庶民のあの元気をいただく。日本で4年ほど働いて大金を貯めて自宅とアパートも二つ、自家用車も買って白タクをしている彼が迎えに来てくれる。ティムールの生まれ故郷を訪ねる。先日、日本のツアーのお客さんにシャフリサーブスはどうでしたかと問うと「まあまあ」とかあまり反応はなかった。私たちはタシケントに帰り、次のフェルナガ盆地方面を目指すつもりなのだが、サマルカンドから直接に行けず(トランジットビザが必要で時間がかかるとか)タシケントから しか行けない。今回は列車でと思ったけど、夕刻のしかチケットが得られなかったので、夕方まで時間ありなのでシャフリサーブスに行くことになった。昔はケシュと呼ばれていたらしい。ウズベキスタンの復興の父ティムールの故郷をあまり期待していない。運転はその人の人柄を表す、敏捷性に優れスピードを出す時にはしっかり、信頼できるが日本語は4年もいたにしては上手でない。途中の2000m級のタフタカラチャ峠を通る。景色は今までと違って緑豊かな集落がまるでオアシスのように点在し、峠の向こうには丸い岩石のずっと続く山脈があり、幹線道路上に迷いロバや牛が立ち尽くすのを見ると危なかしくって悲しい。遠くにザラクシャン山脈が灰色の独特な色をしている。私たちは巨大なティムール像とアク‐サライ宮殿跡をしっかりと見物、それと建築群が少しあるが、さして感動するものでもない。何だか人間の造った建築物に飽きてきた。もう全て同じようにしか見えない感想となる。
 シャフリサーブスからの帰路、運転手さんは牛肉の美味しい店を知っているのか、息子3人いる彼は奥さんに頼まれたのか、小さな村の店で肉を沢山買っていて、私たちもそこでシャシリク(ミンチ肉のハンバーグ状にしたのを串焼きにし玉ネギのスライスと一緒にいただく)を、相棒さんはビールと一緒に食し大変美味しそうでした。私はどうしても肉類は苦手です。びっくりしたことに、運転手さんは自分でサッと支払ってしまいました。今までに奢ることはあっても奢ってもらったことはないので感激し、別れる時に約束のお金に色付けて渡した。
 夕刻に人気のレジスタン号に乗る、曜日により時間が違うので誤りそうです。駅の社員は憮然として可愛気ない、まだ民営化していないらしい。6人のコンパートメントの一つの部屋。お茶付き、サンドイッチも美味しくない、みな残っている。暫くして冷房も入って気分よく、外の景色は地平線まで続く牧草地。放牧の馬・羊・牛・ヤギ達ののんびりした様は眠たくなる。穀倉地も続く、前の席の小父さんは隣の人妻と喜々として喋っている。何語なの? ウズベクの国民は日本のお番茶に似た味の茶を、綿の花の絵の描いた急須と湯呑み茶碗でよく飲む(紺色と白が基調、ベトナムのバッチャン茶碗にそっくり)。お茶畑がない。一度も見かけない。聞くところによると中国からの輸入とか。それでは残留農薬が心配と思ったら、もう飲む気持ちが萎えてしまう。列車の中で一つの急須を茶はサービス だが、もう一度お代わりをしたので、料金を請求される。前の席の小父さんが「これはロシアからのプレゼント」と料金を支払って下さった、スマートなこと。私たちは「ハイオオキニ」です。
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 アク‐サライ宮殿

 フェルナガ盆地へ
 ウズベクの人々も、フェルナガは遠いヨ。多分ツアー客は行かないでしょうとか。私たちは変わり者達かな、そういうところだから行きたいのヨ。冒険心がウズウズと湧いてくる。タシケントで一泊し、次の早朝フェルナガ方面行きのバスターミナルに行く。バスは走っていないらしい。白タクが屯する場所で「フェルナガ」と言った途端、さっと何人か寄ってくる。大体の相場を昨日聞いていたので、段々と数字の駆け引きでの遊びはおもしろい。それから本人の顔立ちで性格を判断し、その人と交渉成立。目的地まで5時間ぐらいらしい。タシケントよりアングレンを通り、雪渓が山頂に残る山脈の麓に広がる美しい村を点々と越えていく。澄み切った川の流れ、豊かな麦畑、放牧の牛や羊達。絵のように美しい風景。こんな景色に出会いたかった。ヒヴァからブハラまでのあの荒涼たる思いはなく、緑の山や村は気持ちがのんびりとする。桑の木やポプラかな? 幹線道路の両側にガードレールの役割を果たし、幹の下から2mほどを白い塗料が塗られているのは、夜によく見えるようにと殺虫剤の二つの役目があるらしい。運転手さんはビューポイントのカムチック峠で休んでくれたり、国境沿いにあるためにパスポートチェックに走って行き、その対応もしていただく。
 フェルナガに着くが、ここにはB・Bはなく気に入ったホテルは選択の余地もない。長距離で疲れていたが、町の中を散策すれば、運河が縦横に通っているので、緑多い所以だ。この町は帝政ロシアの軍の駐屯地であったので、古いどっしりとした建物があるものの、メンテナンスが行き届いてないので痛みも激しい。アルファルガー広場は近く大きな公園が広がる。天文学者の大きな像がある。バザールは常設の建物の中にある。
 一人の大学生に「美味しい食堂を知りませんか」「今日は暇だから」と教えてもらい、私たちが行きたい近郊の絹の生産地マルギランまで一緒してもらう。彼は自己紹介で「僕は生粋のウズベク人だ」と言ったので、ここにはロシア系の人々が多いらしいので、それを意識している。やはり国境を接する処はどこでも人種の問題が悪しきにも良きにも存在する。
 明日はコーカンド(コカン)行きの列車もあるのでその時間を知りたかったので、バスをマルギランの駅で下車したのが運の尽き(結局一日一本早朝6時過ぎしかない。それは不可能だ)途中下車なので、中心までは炎天下を歩きに歩いてすっかり疲れてしまう。まだ少し足に自信があったのに、暑さに当てられヘトヘトです。
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 マルギランの路上にて(案内してくださった学生)

 マルギラン
 マルギランは中央アジアのシルク産地で、今でもこの地では桑の木が多量に植えてある。桑で蚕を育て生糸を取り、ここにはあのカラフルな絹の矢絣模様の布地は特産品、工場は残念ながら閉まっていたが、バザールの周辺には布の店が連なっている。三人で歩いていると、必ずチナ(中国)コーリャ(韓国)。私たちはヤポニヤですといえば、大概の人達はニコリと笑顔を向けてくれる。ウズベキスタン国でホテルやB・Bに泊まると、そのホテルで確かに泊まったという滞在証明をパスポートに(レギストラーツアー)の小さな紙を貼ってもらわなければならない規則があり、面倒なことだヨ。ウルゲンチのホテルは最低のレベル。建て付けの悪いドア、断水、トイレは頭の上から水がポタポタ落ちてくるし、蚊は多いし、レセプションの男性は何か怒っているみたい。そんなことではこのホテルも先がないヨ。
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 コーカンド(コカン)
 言葉は通じなくとも何とかなるもの、バス停でコーカンド行きの小型バスは満員になりいざ出発、1時間30分かかった。緑濃い豊かな農村地帯を通り過ぎてコーカンドに着く。
 私たちは不幸続き。今日もみごとに悪いホテル。午前中に着いたのでまだ清掃している。便利さだけで選んだホテル、他にないのでいたしかたない。若い学生達は私たちに話しかけてくる。日本人と分かれば東京? 大阪?とか、日本人は頭が良いから金持ちになったとか、真面目だからとか。おかしいことばかり、英語で話したくってしかたないらしい。挨拶は「サラマレクン」で通じ、別れは何時もラフマット(ウズベキ語のありがとう)かスパシーバ(ロシア語)で終わる。この国に来て韓国の車をよく見る。日本車は少ない。時々ホンダ・スズキかな、韓国のデンウーが一番多い。電気製品もLGが断然多い。どうしたのでしょうナショナルは。
 4時ごろから観光に出発し、コーカンド最後の王様の宮殿はムキミ公園の中にあり、噴水設備に水は止まったまま。綺麗でない水に慣れているのか、子供達が大勢プールの代わりで泳いでいる。どの国の子供達も無邪気で、白人系の顔立ちはお人形さんのよう。若い娘さんも皆とっても美しいが、中年になればどうしてもコケシ人形のスタイルになるのでしょうか。ウエストを気にする服装ではないから民族服は。インドではふっくらしている方が美人と聞いたことがある。この国でもそうなのでしょうか。
 フダヤル‐ハーンの宮殿はロシアに壊滅的に滅ぼされて、今は部分だけ修復をしている。ハーレムの一部と少しの展示物が残っていた。青いドームの美しいモダリ‐ハーンとダフマイ‐シャーハーンの廟を見に行くつもりで、写真を見せて道を聞いても、近くまで来ているはずなのに迷子になったり、何とかこの廟に辿り着く。ここには今もまだ神学校があって、小学生ぐらいの男の子達があのトッピという帽子を被り、コーラン台で一生懸命勉強している。神学校はもう現存しないと思っていたのに。でも女の子の姿はない。どうもイスラム教は男女平等の精神はないらしい。一人の先生が上手に説明しながらお墓の中を歩いて一緒して下さる。ありがたいことと思い、もしやの心配は的中した。別れる時、やはりガイド料を下さいと手を出した。私たちは頼んだ覚えがない。貴方が勝手に来たのだからと拒否する。要求されればあげたくなく、要求しないで気持ちよくさようなら、ありがとうできれば何かしたいのが人情なのに。イスラムの世界も同じく皆お金がそんなに欲しいのでしょうか。宗教のあるところはもっと無欲であって欲しい。コーカンド・フェルナガは、あまり観光としてはたしたことがなかったのでリシタンに行くつもりで電話してみると泊まりもOKらしい。三人はリシタンに望みを持ち行動をする。
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 リシタン、NORIK学級の小学生(「おもちゃのチャチャチャ」を歌って舞って)

 リシタン
 リシタンはキリギスと国境を接する田舎町。駐在員であった方とその奥さんが日本語学級を開き、今はガニシェル氏が後継者として頑張っておられる。あまりにも情報が少ないが、フェルナガ方面にバックしてリシタン中心で降りて「ヤポニヤ・マクタビ」でタクシーに連れて行ってもらう。今は夏休みらしいが、「今日、日本人が来る」という電話一本で子供達が待っていてくれる。小学生が集まり自分の意見をしっかりと発表する。先日行なわれた弁論大会のおさらいを行なって下さる。子供達は日常会話はできるし、読み書きの日本語は相当なレベル。人なつこい子供達は可愛い笑顔で近づいて来てくれるし、抱きしめたいくらいです。大学受験を控えた娘さんとガニシェル氏の娘が、小学生の面倒をよく見ている。子供達は将来の夢を持つ年頃。瞳が生き生きして光輝いている。この教室のガニシェル氏は、温厚でしっかりした性格らしい顔付きに表れている。日本人も多くの知 り合いがいるそうで、何度も訪日していらっしゃるそう。小さな学級を運営していくには多くの難問があり、こんな所にこそNPOが助けてあげて欲しいと思う。
 私は暑さにやられぐったりしてしまい、立っていることも難しくなり別室で休ませてもらう。相棒さん達は子供達の家庭訪問をしたらしいが、残念でしたが私は行けませんでした。でも少し休息をとったので元気を取り戻し、ガニシェル氏方のお昼をご馳走になり満足でした。子供達が音楽に合わせて舞ってくれる。10歳の女の子、アラブ系の踊りの表情と身のこなし。子供とは思えない、天性のものを持っている子もいるものだと感心しました。あの子はプロになれる。早くあの素質を誰かが認め伸ばせたらなと思った。宿泊施設は少し歩いて行く、子供達が私のリックを担いでくれる、有難くって、すまなくって感謝しました。一人ずつの個室を与えて下さり、夕食は肉入りの日本のカレーを日本語学級の生徒も同じように一緒にいただきました。
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 リシタンからタシケントへ
 リシタンの日本語学級の思い出は、深く心に沁み込むような親切を受けた。ガニシェル氏一家の家族のすばらしさ。お母さんは産科のお医者さんで夜勤で会えなかったが、娘さんの料理の上手さに日本語上手と、まだ中学生なのに、もう大人のようにしっかりとした考えを持ち、若い娘がこんなにも心の発達したことの驚き。もう一人の受験生は優しさと賢さ、きっと大学入学するでしょう。私たちはこの学級にすっかり気持ちよく、次への出発を明るく迎えた。日本語学級で一週間ボランティアの先生をしていた若人と一緒に白タクに乗っ て、タシケントまで3時間30分ほどで着く。やはり暑い、昼間の暑さは半端じゃない。知り合ったガイドのニゴラさんがホテルに訪ねて来てくれる。私たちのことを、気にかけてくれていたと思うとありがたい。地下鉄を使い少しの観光を。地下鉄はしっかりと冷房が入っていて寒いぐらい。いつまでも乗っていたいほど快適です。ナヴォイ劇場、ツム百貨店、独立広場、そしてティムールが馬上で戦う姿のある広場を4人でブラブラと散歩。これだけ観光すればもう十分ということになり、宿に帰りまだあまっていた日本食をニゴラさんと作りいただいた。山菜おこわや佃煮は美味しいらしいが、ミソ汁は何か腐った匂いがするといわれてみれば、やはり味噌とは腐敗した豆とコウジが作ったものと気がつく。
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 上=チョルス‐バザール  下=ニゴラさん宅での夕食(ニゴラさんとお母さん、相棒さん二人)

 タシケント
 朝食を終わって、メトロを使いチョルス‐バザールに行く。警察のチェックはあると知っていたが、メトロで1回だけ受けたが何の問題もない。ここタシケントでは女性のファッションは日本とは変らず、若い女性はヘソ出しルックだし、民族服を着ている人はほとんど見かけない。チョルス‐バザールは首都にあるのでやはり想像したとおり巨大である。外にテント張りのところ、常設・露天がどこまでもあり、そして生活に必要なすべて何でも売っている。人間が生きることは、このように物が必要なのだろうかと。迷路をひやかしながら進み、朝の涼しいうちにと思っても、日差しは強烈である。常にUVカットをするのも嫌な私は、きっとシミが多くなっただろうと悲しい。バザールにも私たちは飽きてきた。
 贅沢なことです。近くのメドレセとモスクにも食傷気味、それぞれは少し異なっているが、もう皆同じに見えてくる。日本センターが面白いヨと聞いていたので、興味を持って行ってみる。中心のビルにあり、大きな一室に日本語の一言も喋らない受付の方。入室にはパスポートと首からカードをぶら下げて面倒なこと。日本語の本とか食べ物、人形を紹介している。一番多いのはパソコン。何の為にこんな一等地のビルでセンターを作ったのでしょうか、もっと、易しい本とか紹介して欲しい。得意のマンガでもよいのに。日本語を少し話す方がいて欲しい。日本の食事の紹介は、丼ばかりを並べたり着物ももっと奥の深い上等なものであって欲しい、キンキラの安物では素人が見ても分かるのではないかな。パソコンが沢山置いてあってそれを利用する人が多いので、パソコンセンターと名前を変えたらと思う。あまりにも大掛かりな部屋の割には内容がお粗末だった。ここにも税金の無駄使いと見たが……。
 今晩は、仲良しのニゴラさんが夕食に迎えて下さった。相棒さんはビール持参で。公団住宅のような団地の7階の部屋。はっきり全部の部屋は見てないが、食堂兼応接間は天井も高いし壁も新しい10畳ぐらい。にこやかなお母様がイスラム式に坐って、皆で両手で水を汲む姿勢で最初にお祈りをしてから始まる。彼女の部屋も大きなベッドと机があり整理されている。古い住宅だが内装は新しい。どこにも絨毯が敷き詰められ、その色と柄がゴチャゴチャした色彩だが、国民性なのでしょう。夕食はピーマンの肉詰めがメインで、サンド豆のオシタシ、トマト・キュウリのサラダとスープ、主食はナン。極平凡な家庭料理ですが、油っこくないので三人とも美味しくいただきました。ニゴラさんが訳して聞いていただいたのですが、15年前にロシアより独立して、今の生活はどう変ったのかをお母さんに質問。お母さん曰く、以前は物価も安く生活は安定していたそうで、自由で幸せかといわれても、はっきりイエスとは言えないそうです。今は多くの面で不安がある。生活は楽になっていないらしい。

 相棒さんの一人が、明日からキリギスに入国する。陸路はやはり問題がありで空路にする。その方が多分正解と思う。私たち二人も本当は一緒したい、でもその日数の余裕がない。こんなに、ウズベキスタンが印象深い旅になるとは思わなかった。きっとまた、ウズベキスタンの心を残した人に会いに来ると同時に、キリギスにも別の機会に旅しようと思っています。
 相棒さんと別れ、私たち二人はニゴラさんと楽しい時を過ごし、一日して帰国しました。
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レゼントのネパール  〔2008.2.27〜3.12〕
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 ダンプスからの風景

 タイ航空でネパール行き。今回は、昨年秋に以前ホームステイした学生が社会人になり、前途有望の職を得て、それもこれも1年間日本に住まわせてもらい、家庭生活ができたことが多くのプラスをもらったと感謝して、私にネパールのオープンチケットをプレゼントしてくれた。大阪の生きのよい小母ちゃん二人の、取れたチケットに合せて日数を入れて出発した。
 トリバン空港でビザを受けカトマンドゥ市内へ。昨年は300ルピーだったのが今年は500ルピーとプリペイドタクシー。どうも異常な値上がりにびっくりしたが、後で分かったことだが、空港の職員が私達を初めてだと思いボッタクられたらしい。理由は今年ガソリンが値上がりしたからだとかいう。信じられないが支払ってしまう。タメルのいつもの宿はスタッフが変っていた、キッチンボーイは同じ人で久方振りを喜び合う。
 近頃のカトマンドゥは、停電が朝晩4時間ずつ。1日8時間。ガソリンの値上がりと供給量が少なく、ガソリンスタンドには列をなしてバイクや車がならんでいる、ずっと雨が降らず水不足もあるとか。嫌な時に来たものだと心配になってきた。
 今回はアンナプルナ山系に少し入るだけと思っていたが、パミションが二つ(許可証と登録証)も必要らしいから、日本から旅行社にその手間の時間を惜しんで頼んでいたので、旅行社へまず駆け込む。無事にすべて完了し、ポカラまでとジョムソン往復のチケットも得る。ジョムソン往復はキャンセルが多いので、一番飛ぶ可能性のあるものに変わるので明日朝ホテルに届けると約束した。
 私達は、カトマンドゥの一番の観光地のダルバールスクエアに散歩がてらに行く。あのすさまじい喧噪の中、埃っぽい空気。しばらくしていると、咽が痛くなり鼻がムズムズし、眼が痒くなる。相棒さんはびっくりしている。この汚さには私達は慣れないと思う。
 懐かしいボビタちゃんが、ホテルに訪ねて来る。今日は友人の結婚式に出席したそうで民族衣装のサリーでドレスアップしている。3ヶ月前に別れているのに、急に大人っぽくなった娘を見る思いがする。でも、相変わらずの愛らしい笑顔。でもサリーを着ると、やはり彼女はネパールの娘。この国が一番似合っている。ネパール人だから当然のこと。

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 左=子供たち  右=ポカラの湖畔の村(タカリ族が多い)

 ポカラ
 次の日のポカラ行きは、何時のようにデレイ。アナウンスも何の表示なしの不親切きわまりなしの空港で、2時間遅れでやっと出発し、カトマンドゥよりずっと暖かいポカラ。落ち着いたのどかな田舎町。空気はすがすがしくって気持ちよい。チベットの土産物屋さんと一緒に。レイクサイドのホテルに直行。$20で朝食付き3人部屋。ホットシャワーだと言うが……。窓からは、アンナポカラ山系とマチャプチャレが眺められるとか。今日は曇っていて見えないが……。
 私達はヘェワ湖の周囲を散策する。車でチベット難民キャンプ、パタレ・チャンゴ、シバア寺院のある鍾乳洞を見に行くが、手摺にペンキ塗り立てであったのに、何も注意が無かったのでペンキが手袋について気持ちが悪い、ここらがネパール的な考え方。自分で注意しなければならない自己責任かな。
 一昨年、ゴラパニにご一緒した旅行会社を経営していたゴータマさんを捜したが、今はもう違う人の旅行社となっていた、残念だなあ。明日のジョムソン行きまで暇なので、ヘエワ湖北側までずっと歩いてみる。人々はどんな暮らしをしているのかを少し覗いてみたい。湖には魚も捕れるのか、網を沢山干している家もある。湖畔の人々は、漁師さんや洗濯屋さんが多いみたい。分厚い土の壁で、平屋二間位で台所は小さく別にある。日本の昔のかまどがあり、プロパンになっている家庭もある。流しはなく、アルミのコップや皿はかごの中にあり、下に置いてあり、水屋等家具らしいものはなく、部屋はベッドが一つあるが、何人か一緒に寝ているらしい。天井からビニールの包みが沢山下がっていて、その中に衣類収納しているらしい。ゴミはなく、きれいに履いてあり清潔。洗濯している水が濁っている。水の浄化が問題です。洗濯屋さんは手で洗っている重労働。ホテルのバスタオルかな。
 ジョムソン行きを予約しているが、この2〜3日は飛んでいないらしい。明日を心配しながら、悩んでもしかたないので、ポカラの正面のサランコットの丘に車で一気に登ってもらう。1592mまで、舗装道路が狭いが続いていて、その終りが展望台。私は、ここより何度もヒマラヤの展望をあたりまえのように眺めていたが、今回はそうはいかなかった。大阪の二人に、あの雄大な壮観を見せたい。こればかりはどうしようもない。どんより曇り、よく見えない。この周辺にも小さい住居はある。タカリ族が多いらしい。彼等は料理上手で知られていて、何らかの観光客相手の商売をしている。日本語を話す人達もいることは、いかに日本人が多くここまで登って来るかを示している。日本人は治安状態に敏感だから、何か少しでも不安定なことがあれば、ツアーを取り止めにするので困るとか。私達日本は平和な国であるので、怖がり屋さんなのでしょう。
 旅行会社にもう一度行ってみると、その隣がパソコンの会社と旅行会社。一昨年、一緒してもらったガイドのゴーダマさんの店だった。どうして以前の店のオーナーは分からなかったのでしょう。きっと知らないヨと言ったのは嘘だったのかも。奥さんのお腹にいた赤ちゃんは、ヨチヨチ歩きの可愛い盛り。ゴーダマさんによると、彼の子供の頃からの夢は医者になることだったので、今度は奥さんが彼の夢をかなえようと、医科大学の受験を目指している。自分は彼女をサポートすべく、会社経営して支えると、眼をキラキラ輝かせながら将来を語ってくれる。若い人には夢があり美しいと思う。
 ポカラにも停電がある。この国はどうなっているのだろう。人々は政府が悪いと嘆いている。この国の官僚達は、自分達の選挙のことばかり熱心で、自分の今ある地位を保つことのみで、国民のことを考えている人はいないヨ。ある面では、日本と同じなのヨと、お茶の店主と話しがはずむ。
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 オールドバザール
 地元の人々の乗合バスにはバス停はない、一定のところをぐるりっと廻っているので、どこでも手を挙げれば止まってくれる便利さがある。土曜は、店・オフィースは休日が多いが、その閉まった店の前は露天商のフリーマーケット。まるでお祭りのような賑わい。日常品や雑貨、野菜や果物、香辛料、おかずの店、パン、布生地屋さん等、何でも彼でも売っていて、地元の人々が買出しに来るのでしょう。中心街には古いレンガ造りの家が建ち並び、かつて交易で栄えたポカラの町の中心だった名残がある。観光の中心が、フエア湖から白き山脈を眺めるレイクサイドに移ってしまった。最終点のバスは発着所からホテルに帰り、タカリ族経営のレストランでネパールのタカリ‐カレーを。停電になったので、ローソクの燈りの中でいただく。ネパールの旅では、ポケットライトは必需品。暗くなれば、外を一歩も出られない。今夜は近くで祭りをやっているのか、太鼓や笛の音が聞こえてくる。
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 上=タンセンの町  下=タンセンの大通り

 タンセン
 朝早く荷作りをして空港へと向う。ジョムソン行きが今日は飛んでいるらしいが、2機までしか飛ばず、私達のチケットは3機目だったので飛ばない。明日を待つのかと問われても、そんなに時間はない。行程を変更せざるを得ない。ネパールに入国する前、ボビタちゃんのお兄さんより、インド国境近くタライ平原の方は治安が悪いので、止めたほうが良いといわれていたが、ここでの情報は2月28日に政府とマオイスト、タルー族との話し合いで交通遮断が解かれ、自由に通行が認められたらしい。また何時か、シャットアウトされるか分からない地を訪れようと決心する。これが私達に与えられたよい機会だと考えれば解決する。ジョムソンからの山の展望を、大阪の二人に本当に体験して欲しかったが、しかたないと諦め、次の行動へと思いを馳せよう。幸い、日本人二人と一期一会でお目にかかり車チャーターし、タンセン、ルンビニ、チトワンと2泊3日を予約する。旅行社のオーナーが10日程前にホンダの新車(四駆)を買ったので、走りたくってしかたがない様子。ネパールで日本車を買うのは世界一高価という。日本で買う3倍ほど。海がないネパールはインドからで、その輸送費と政府のTaxで1200万とか。家一軒分と聞いて、私達は驚くことしきり。
 新車に5人乗せて南へと走る。ヒマラヤ山脈とタライ平野の間、マハーバーラタ山脈の尾根の古都タンセンに向う。細いがしっかりしたシッダールタ・ハイウェイを走る。新車は気持ちがよいものの、くねった山道をドライバーさんはスピードあげて走るものだから気分が悪くなる。もう少しゆっくり走ってくれればと思うが、誰も言い出せない。小さな集落や棚田を次々と越えてゆく。タンセンに着く手前は、松の樹林だけの山の中の道を、パインツリーの香がプーンとする気持ちのよいところ。マンゴーだけの果樹園の続くところもありで、5時間のドライブはとっても疲れた。スリナガルの丘の上のホテルは、眺めのよい高級ホテルらしいが、今日はここに着くだけで精一杯だった。
 ここタンセンは1350mの高地にあるので、夏は涼しいらしく、経済発展著しいインドのお金持ちの避暑地になり、近頃は大勢押しかけて来るそうだ。ネパールのダージリンと呼ばれているだけあり、尾根筋の市街地が急斜面にあるので、正面からは普通の建物でも裏は半分崖ふちに突き出ている。タンセンの町歩きは、急勾配の石畳に立つネワール様式の建物のずらりと並んだお店が両側にある中心地。狭い路地にはタンセン名産のネパールの帽子トピー、女性のショール等の機織場がある。あまりにも急勾配なので車が通らず、人々が堂々と歩ける気持ちよい通り。私達は、岩塩や香辛料屋さんやショール屋さんをひやかして歩いた。旧王宮は、2006年に政府軍とマオイストの戦いで廃墟となったらしい。この町は、ルンビニに行く途中から山間に広がる町並みの眺めは特に美しい。小振りのネパールのダージリンだった。
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 菩提樹の大木

 ルンビニ
 タンセンを出発し、ブドワル、バイワラと山地から抜け出して、小さな町を通り過ぎて、仏様の生まれたルンビニに近づく。先日まで閉鎖された道路には、軍隊の姿と警察の姿が多いが、いつもと変らず静かな地のようです。ジョムソンの飛行がキャンセルだったので、仏教徒の憧れの地であるルンビニを訪れることになったのも何かのご縁で、こうなったであろう。聖地ルンビニ園の周囲は7.68kもあり、到底歩きで全部は見物できないようだが、まずホテルにリュックを置いて昼食をして休んで、グループで歩き始める。正門前にはリクシャーが沢山待っていて、乗って下さいといって来るが、私達はお構いもなしで入る。この中には歩きとリクシャーしか入れない。
 まずは、平和の火は仏様の教えを象徴している。寺院地区では、各国の仏教徒の趣向を凝らした豪華な建築物がある。自国の仏教を誇らしげに宣伝している建物の中には入り難い。仏様は、こんなにも絢爛に造った建物を望んだであろうかと疑問に思う。途中のルンビニ村にはバザールが開かれてあり、汚いところで地面に並べて売っている。肉屋さんではヤギの解体を見てしまう。すぐまた殺されるであろうヤギの親と子がつながれているのを見ると、早足で通り過ぎる以外にはない。可哀想で見ていられない。ここルンビニは世界遺産に登録されているらしいが、その中に水牛やヤギ等の放牧があり、住んでいる人々は何も感じてはいないようだ。民家の屋根に敷かれる、長く伸びたヨシのような草を大勢の人々が刈っている。今は乾燥期だから1年間に勝手に育ったものを利用している。人々は私達に好意的で、ニコッと笑顔を見せてくれる時、嬉しい時でもある。巨大なルンビニ園の中にハラワ川とテラウ川も流れ、鳥達の楽園でもあり、野生動物も保護されているらしい。私達は何時間歩いたでしょうか、やっと聖園地区にたどり着く。子供達が駆け寄って来ては、大声で日本語のお経を唱え、お金を下さいと、まとわり付いて来るのには困った。私達は入口から出口の方へ進んで、大まわりをしたらしい。聖地入場はまず入地料を支払い、ガードマンの厳しく見つめる中入っていく。
 大きな菩提樹を中心に、タルチョの色とりどりの旗がすごい数はためいている。樹の前であまり高僧といえないような、周囲を絶えず気にしている僧が祈っている。菩提樹に住みついた白ネズミとリスが仲良く共存し、かわるがわる下りて来てお供えの物を食べている。マーヤ聖堂には厳重な警備がしかれていて、仏様の生誕の場を示すマークスストーンが置かれている。アショカ王の石柱に尼僧が熱心に祈っている。私はインドで仏様は生まれたとずっと思っていたので、認識不足の自分が恥ずかしい。4k先はインドとの国境。国境が近いと常に紛争も多いらしい。
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 ホテルからの眺め

 チトワン
 朝すぐに、山の村を幾つも通りすぎでチトワンに向かう。ホテルは朝食付きでなかったので、途中の村で朝食をいただくが、清潔さを除くと以外においしいものだった。トラックの荷台に、山のように小麦か米かを大きな包みに積んだ大型トラックが、私達が朝食をしている間に通り過ぎていった。心配していたとおりに、先の山道に横倒しになっていた。あまりにも積載量が多すぎる、素人が見ても分かるほどに、この国には制限量の規制を設けて、法律化しなくては事故が起きるばかり。今回のドライブはあまり廻りくねらず快適でした。
 チトワン‐サファリを経験するために、宿泊地ソウハラ村でドライバーさんと別れる。国立公園の中にもホテルはあるが、非常に高いらしく、私達はソウハラ村にある安い、まあ普通でラプティ川に面した気持ちよい部屋をいただく。チトワン‐サファリは、ホテルでそれぞれ決められた日数のツアーに入らねばならず、時間割が設定されている。近くを散歩する。ネパール軍の駐屯地があり、銃口が外に向けられている。ホテルも60軒ほどあるらしい。庭が広く、それぞれコテージ風になっているのも色々ありです。日数に応じて3食付きで、特徴のあるアクティビティを組み合わせてくれるらしい。私達は2泊3日を選んだ。
 ラプティ川では、多くの象達が身体を洗ってもらっている。観光客の若者達が像の背中の上に乗り、鼻から水をかけてもらっては、楽しんでいる。まだ少し水が冷たいのではないかなと心配するが。象使いが象の耳の後を鋭く曲がったスティクで、時折グイーと突かれて命令されているのを見るのは辛い。象達の生きる術は他にないのだろうか、悲しいことだな。
 ガイドと一緒にタルー族の村三つを訪れる。近くをブラブラ散歩しながらの見物。分厚い土壁で窓はなく、部屋は2つぐらいで、ベッドの上は乱雑に衣服が置いてあり何かの匂いがする。風通しをしないからか、配水が悪く裏は泥水で湿気ている。夏は蚊の温床になるのかな。玄関口にヤギや水牛が飼われ、上から吊り下げられた草の束を食べている。ニワトリやアヒルが走り廻っている。ある家の前に、生姜によく似た根っ子を大量に干しているので聞いてみると、香辛料のタメルだった。よく干して粉にする。お茶やカレーの中に入れると、何ともいえない香りがする。年いった女の人は、腕や足に青黒い刺青をしている。若い人にはないようだ。家の壁に、時折赤や白、ピンク、ブルー等の匂玉の模様を一面に書いている。ネパールヒンズー教の祭りの呪いらしく、一種の魔除けらしい。タルー族は、ネパール政府が1960年にここに定住を勧める援助をした。平和そのもの、自給自足の生活でのんびりと暮らしている様子は、文明の発展を知らない人々には欲求がない、今の暮らしに満足する。
知らないことは、心豊かに暮らせることかも知れない。韓国の団体さんもタルー族の村を訪ねていた。
 夕食もスープから始まり、メインディシュ、デザート付きで味もよく、ラプティ川に沈む夕陽を見ながらの食事はとっても雰囲気がよい。近くには土産物屋さんが沢山あり、ミッティラーの独特の絵もあったり、木彫りの動物もその場で彫って売ってくれる店もある。私達は、蜂を飼っていてその御宅で販売している蜂蜜を少し求めた。純粋だからまだ白く固い。村の大通りで大集団のデモに会う。ソラハラ村のホテルの従業員の賃上げのデモ。大声でシュプレシュコールをあげて、ホテルの窓の下を通っていく。この国の人々も自分の意見を集団で言えるようになっていってるのでしょうか。  今夜はタルー族のダンスを見に行く。小さな劇場だが観客は満員です。踊る人々は若い男性ばかり。活発な動きは戦闘的で激しい。女性の優雅さも期待したが出演はなく、ここは男尊女卑の気持ありでガッカリした。何となく今日は身体がだるく気力がなく、風邪気味なのかも。明日のサファリを期待して早く寝ましょう。
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 上=タルー村  下=ラプティ川の象さんのバスタイム

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 ホテルの下を通るデモ隊

 チトワン‐サファリ
 鳥の声で起こされる。朝食を終えていよいよ象の背中に乗ってジャングル‐サファリ。象の年齢は35才の働き盛り。背中には分厚いフトン、その上に四角の箱型のワクがあり、その角から足が出るようになっている。4人乗りで象使いは首にまたがり、耳の後ろを足の指でコツコツ突いて命令をしている。鋭いステックではないので安心する。ジャングルとはいえ、そんなに樹木が密生しているわけではなく、適当に風通しよい林の中。象さんは、いつもの道だからよく知っているようだ。花は咲いていて、今時は枯木に赤い大きな花はシマルという木の花が多いようだ。私達はこれこそ高みの見物で、象さんの身体の動きが伝わってくる密接感がある。オスの孔雀を二匹、サル、鹿、サイの親子、イノシシの一群、そんなに危険な動物はいなかった。2時間30分の楽なサファリで緊張感は何もなし。象さんにバナナを一房チップとして食べてもらう。
 昼からは、丸木舟に竿一本を操る船頭さんと一緒にラプティ川をゆっくりと進んでいく。水辺では、沢山のサギの一種の鳥達に出合う。昼間、ワニ達はすることもなく昼寝をきめこんでいる。大小のクロコダイルに出合う。岸辺には小さな穴があり、卵からかえった子供達はその穴の中で育つらしい。豊かな自然の中で、のんびりと伸び伸びと育ちすぎるのではないかな。動物がいそうなヌタ場に行ってみるが、今日は何の動物も来ていない。野生動物保護のために象の親子の保護施設があり、病気の象や子象が沢山人の手で飼育されている。スリランカでも同じような施設があった。一度でも人間の手で飼育されると、もう野生に返すことは難しいらしく、ここで育った子象は、人間のために労働をする象使いさんに与えられているそうです。私は風邪がひどくなったのか、熱が出てきてフラフラだった。何十年も風邪ひとつひいたことないのに残念無念、鬼の霍乱というらしい。
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 サイの親子(チトワン‐サファリで)

 カトマンドゥ
 昨夜は、ただしんどくってトンプクを飲んで寝たので、風邪はどこかへ飛んでいってしまった。今日はカトマンドゥに帰る予定。快調な身体は戻って来た。久し振りに、熱が出るとはああいうことかと思い出して苦笑い。ホテルのジープがバス乗場に送ってくれる。ひたすら山越え谷越えて東へ進む。途中の小さな村々に、子供達が紐をひっぱって通せんぼうでバスを止め、もうすぐ水掛祭のための寄付を集めている。一年に一回はこの習慣があるそうで、嫌な日だなあと思ったが、運転手さんは危ないので警笛を鳴らす。バスの上にも荷物を多量に乗せて、人間も乗っている。以前はグリーンバスといって、観光客ばかりのバスが運行していたが、今は中止になっている。これもまた、インドからのガソリンがなかなか届かないのが原因らしい。5時間が7時間30分かかる。ヤレヤレでいつもの宿。カトマンドゥでは宿の心配はなく、いくらでもあるのに、このシェスタ・ハウスがお気に入り便利だからから。
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 左=パタンの中心  右=クンペシュワール

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 ネパールのお好み焼き「ウォー」

 パタン
 相棒さんと、ポカラで一緒した群馬の方と4人でパタンに行こうと。天井を仰ぐテンプーで行く。マラッカ王朝の建築物がずらーっと並び、何度来ても見とれるばかり。昨年のゴールデン寺にもう一度。あのとき気がつかなかったが、2階の両サイドにネパール寺とチベット寺があり、正しく共存のシンボル。精巧な金細工の見事さは時を忘れさせる。近くにお茶屋さんがあり、山岳のガイドもしている方の店で、お茶の土産をどっさり買う。そこで教えてもらったウォー(ネパール風のお好み焼き)を食べてみるが、手でこねるので少々不潔感もあり、やはり日本のお好み焼きにはかなわないナ、という4人の意見でした。ネパール産の地ビールはおいしいということです。マンダラ画や絵の画廊がひしめいている。不思議なのは、いつも値札が付いていない。パタン最古の寺院(クンペシュワール)の五重の塔をやっと探しだした。観光客がいなくなって、地元の人ばかり。犬や羊、ヤギ、ニワトリ達が誰も世話をしないのか、やせて病気勝ちの動物ばかりが、今にも倒れそうにヨロヨロしている。
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 バクタプル

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 通りの角には祈祷所があり、人々は供物をして祈っている

 パシュパティナート
 何度も訪れているので感激はないが、相棒さんにはショックなことだろう。誰もが皆、いつか辿るこの世の最後の別れの儀式を静かに見つめる時を得る。昨日はヒンズー教の三大神の一人、破壊神のシバア神の誕生日だったので、インドから巡礼者達が押し掛けて来て大変な人出だったらしい。今日もまだその余韻はあり、サドー達(巡礼者)が身体中に白い粉を塗ったり、髪は伸び放題。狂気の人かと思う。マリファナかな、タバコになった麻薬をすっている人々が隅の方に座っていたりする。祭の時ぐらいは、政府の取調べがゆるやかであるらしい。対岸から見ていると、一家族が母の死を悲しむ3人の息子達が顔を覗き込んだり足をさわったり、いくら輪廻転生を信じているとはいえ、母の死を悲しまない人はいない。火葬している間にも、涙にくれている息子達。ここでも、女性は見てはいけないことになっているらしい。自称ガイドがずっと付いて来る。最後はやはりルピーを下さいという。与えたルピーの札が汚れていたので、要らないという。彼にはプライドがあるのでしょうか、意味不明のことでした。
 ボダナートにも帰りの途中に寄る。ストーパの上に登って、チベットの人々を見物する。彼等の心のよりどころを、一時でも味わおうとするが無理なようだ。帰りのバスは降りるところを誤って、タメル近くのバス停を通り過ぎてしまう。4人もいれば心強い、どうにかなって帰りつく。やはり日本食レストランに足が向いてしまう。
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 ナガルコット
 ツーリストバスでも行けるが、やはり地元のバスが好みなので、ラニーポカリからミニバスでバクタプルまで、ラジさんが迎えに来て、町の外れにあるバス停まで歩いて30分ぐらい。観光客には分からない場所にある。バスを換えて乗り継いで行く。バスは中に乗客が乗るとは限らず、バスの屋根には大きな荷物が次々と積まれ、若い人は屋根に登り、私達が座っている窓から靴がずらりと見える。若者達が好んで選ぶのか、安いからなのか分からない。ゆっくり登り、バスの中も屋上も荷物と人とで一杯。今日、は何かの祭かお祝い事があるのだろうか。美しくパッキングした箱を持ち、サリーで着飾った女性達が次々と乗って来る。ここにも陸軍の兵舎が大規模にある。
 パノラマの眺めを期待しているが、どうかな。今日もガスって、天空の白い山脈を拝見できないが、2100mの丘の上からの下の展望は美しい景色。バスの最終地点よりは30分位の歩きかな、私達は、一番端になる日本人の奥さんのいるホテルを目指す。今日の宿はとっても清潔。小さい宿だが、さすが、日本の清潔を知っているネパールの御主人は床もピカピカに磨き、これほどの気持のよい宿をナガルコットで経験できるとは思いもよらない感嘆。私達はのんびりと近くの人々の暮しを見に行く。宿の若い人達と折り紙遊びをしたり、雑談の楽しい一時。散歩すれば小さな石がキラキラ光っているのが不思議。雲母の結晶が沢山入っていたり、層に重なりはがれてくるのもある。これは何かに利用できないかなと思うが。相棒さんは、ここにロキシーという焼酎をペットボトル一杯に買って来て、今晩のごちそうのお供にしよう。ロキシーは正式にはお店で売っていないらしい。各家庭で作っているのかな。夕方も、このような高き処でホットシャワーを浴びられてこれも感嘆しました。この夜の星空は満天の星。すばらしかったそうです。私はすっかりこの宿が気に入り、ぐっすりで存じません。
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 左=ナガルコットよりサクーまでハイキング  右=ナガルコットからの下り(ジャガイモとムギの畑)

 サクー
 ナガルコットかサクーまでの、半日のトレッキングをする。宿の朝食も、とっても美味しいものでした。リュックを持つポーターを、たぶん女性軍には必要だろうと気をつかい、昨日女主人にお願いしていたが、今朝になり軽いので要らないということになったが、約束を違えることはできないと思い、自分の責任と解釈して、一人の少年を雇う。車が通れるぐらい広い道が続いていて、時々集落がある。梅や桃の花、白いのはリンゴかな。春らしく花の咲く季節、通り道には黄色の菜の花、麦やジャガイモ畑が続く。ここのジャガイモ畑の畝を高くして、そこに植え独特のクワを使って整えている。遠くからみると、茶畑の様に美しく整えられている。この田舎道にも私立の学校が開校したり、語学の学校もあり、教育に熱心なのかも知れない。私達と一緒に、ずっと1匹の母牛が牛飼いさんと一緒に下って来た。たぶん牛乳の出が悪くなり、廃牛として肉になりに行くのでしょう。かわいそうな姿を見てしまう。サクーは古い家並みの残る、かつての主な交易路であったところ。私達はバスに乗り、カトマンドゥに帰る。

 今回の旅は、山岳地の山を見るに縁なきことでしたが、思いがけずに仏様の生誕の地に訪れられたことが一番の喜びでした。そして、群馬のやさしい方でこれからの相棒さんになっていただきそうな方との巡り会い。私達がする清貧なるリュック一つの旅をするのが大好きな人。もう一人、ポカラでお逢いした方で、個性的な方。おっしゃることがとてもテンポよく話し、頭の回転が速い、きっと賢い人なのでしょう。
 ラムチェ村(カトマンドゥから5時間バスで。下りて山登り2時間)極貧の村の子供達を、どうかして学校に通学できるように、親達に現金収入の道を教えている。ニワトリを飼って地鶏として売れば、ブロイラーよりもっと高く売れる。日本の政府がよくするように、現金や施設を造って与えるのではなく、これから先の生き方を地道に自分も一緒になって取組んでいる方法は、どんなことよりも尊いことであると思う。これこそが本当のボランティアなのでしょう。
 旅すがら、社会的・家族的にも自分の役割をしっかり終えて、第二の人生に向かい歩き出している人に時々出会うと、いつも自分にも何かできるのでないだろうか。身の丈に応じて、家族の理解を得て小さなことを行動しながら、自分の健康と相談しながら、誰かのためになれればと思う自己満足で、次の旅へと夢を膨らますのです。今回の旅で、尊敬できる二人の方とお会いできたのは大きな喜びでした。有難いことです。
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リランカの旅  〔2007.12.10〜12.23〕
 9月末よりネパールのボヒタちゃんを3ヶ月預かり、11月には我が家に以前ホームステイしていた学生が社会人となって、旅行で京都と東京に滞在するお手伝いで多忙な日々を過した。二人旅の大阪の相棒さんとスリランカ航空で成田より出発する。20年以上前にスリランカを旅しているが、病気する以前のことは部分的にまったく記憶にないのは、自分勝手な健忘症かも知れない。スリランカとは光り輝く島という意味があるらしい。どんな旅が待っているのやら、不安と期待の伴う複雑な気持で出発する。
 深夜のコロンボ着は、安全を考えて宿からの迎えの車をネットで予約していた。名前の札を持ってロビーで待っていてくれ、シナモン‐ガーデン横の宿へ直行。昨夜は何の余裕もなく冷たいシャワーだったが、朝になって気が付けば部屋は古いけどゆったりの造り。朝食は庭に面した2階のテラス。スリランカは、元セイロン島だけあってお茶の国。大きなポットに紅茶のよき香りを味わう。デザートのフルーツが美味しく山盛り。すべてイギリスナイズされた朝食に私たちは満足する。庭は広く、人懐こいアヒルや犬達が寝そべっている。アヒルに好まれたのか付いて回る。多分この屋敷はイギリス人の大邸宅がホテルに変身したのだろう。

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 左=キャンディアン‐ダンス  右=マータレのヒンズー教寺院

 キャンディ
 いつも旅行の日程は未定であるが、北アヌラーダプラまで一気に行きたいが時間がかかり過ぎるので、まずその中間地のキャンディをめざそう。バスターミナルは大混乱、バスには公営と私営がある。クーラ付の私営のバスに乗り込み出発を待つ。悪路の道路で振れが激しく、気分が悪くなって途中は目を閉じて耐えていた。だから、ほとんど景色を見ていない。なだらかな山地に、段々と向かっていることだけは感じていた。道路工事で遅れ、4時間半ほどかかってしまう。
 キャンディは緑濃い山々に囲まれた盆地。シンハラ王朝が最後に栄えた魅力あふれた古都。中心街のコンディションのよい宿を決めて、街をブラブラと散策する。近代的なスーパー、電気屋さん、レストラン、パン屋さんなど、何でも揃っていて住み易そう。人工湖であるキャンディ湖は、地元の人々にも観光客アベックや老人達にも、心地よい風が吹き抜け、ひとときの憩いの場としてのんびりしている。湖から仏歯寺の眺めは、思わず足が止まる。シンハラ王朝のハーレムが湖の中心部の島であったらしい。王朝の宮殿が今は国立博物館になっている。日本語で話しかけて来る人が多い。「用心、用心」――何が目的なのヨ。その手にはのらないヨ。
 三人の意見として、キャンディを中心に観光をするのがベターだということになり、世界的な大遺跡群のある仏教王朝の栄えた文化三角地帯をまず旅しよう。そこを観光するには、周遊券を求めて多くのルールを守らねばならない。宿の主人が車をチャーターしてくれることになり、その契約をする。さぁ、これで交通手段は確保したので安心。市内のマーケット散歩。活気に溢れている。フルーツと茶に興味ある。毎日マンゴーをいただくのが最大の楽しみ。
 今晩は、スリランカの芸能キャンディアン‐ダンスを観に行こう。王朝時代の宮廷内での舞踊と宗教儀式。各地の民族舞踊がミックスされて、歌や太鼓、身体に付けた足輪や腕輪が鳴り響き、優美にそしてエネルギッシュなその躍動感。踊りが変わる度に衣装を変えて、シンプルで洗練されていて実にみごとでした。少しショー的な要素もあり、皿廻しや手品、素足で火渡りや身体に受けてみたり、手を変え品を換えて観光客を楽しませてくれる。時の過ぎるのを忘れるほどに魅力的なダンスだった。
 仏歯寺はオープンの時間制限ありで、この町の一番の見所。1日3回仏様の歯が祀られている部屋を開門されるので、私たちは最終の夜の部に行く。シンハラ建設様式の八角形の巨大な堂がライトアップされている。観光客には高い入場料を要求する。外の暗さに比べ、内部の明るさは晃々としていて、一階二階地下のどの部屋にも仏様が立像、坐像でいらっしゃる。仏歯は小さな箱の中に納められているので見えない。信仰篤き仏教徒達は、スリランカの各地からはるばるやって来て境内に溢れ、グループごとに供物を捧げ頭を下げて祈っている人々が沢山いる。ずっと音響効果も流れていて、気持ちよくこの寺を去りたいのに、靴を預けただけでチップを頂戴と世話係。ドネイションなら拒否もできる。月給をいただいているでしょうに。だからあげないヨ。
 宿でオーダーしていたら夕食をごちそうになる。スリランカの家庭料理の説明を聞きながら、おいしくいただいた。この宿も途中から水シャワー。でも、そんなに寒くはなかった。蚊の多いのが玉に傷。真夜中にすごい雨の音。多分明日はすっきりと晴天だろう。キャンディアン‐ダンスの余韻が残り、寝つきがよくない。
 さぁ、アヌラーダプラ、ポロンナウワとキャンディを結んだ三角形の遺跡群の旅へと出発しよう。
 まず最初に、マータレのヒンズー教寺院を見学する。尾根の上に彫刻がいっぱい飾ってあり、独特の色彩。すべて何か曰く因縁の物語がありそうだが、内部は改修工事中だった。
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 ダンブッラの入場券

 ダンブッラ
 ダンブッラへの途中でスパイスガーデンに寄る。スパイスは食欲を増進させたり気分をリラックス、あるいは薬や染料にもなる。その植物が育っていて、採集する工程を見学し詳しく説明してくれる。おもしろ半分でつき合うが、いかに自分が知らないことが多いかを知っただけ。
 この国の最大の石窟寺院に着く。その手前の黄金寺院の屋根まで登って町を眺める。ダンブッラの登り道は分かり難い。やっと探して登り始め、時々夕立にあう。雨の中、石段がよく滑る。注意して、30分ぐらいでやっと巨大な黒い岩山が見える。その頂上の白い建物が石窟寺院。帽子をとり素足にならねばならない。天然の大きな岩石に五つの大きな窟を掘り、極彩色の壁画を一面に描き、涅槃仏や多くの坐像が安置されている。数々の仏教説話を描いた壁画に神聖な思いを抱かされる。この地を訪れる人々の熱心な祈りには、さすが2,000年以上も前から続く仏教国だな。時代とともに、幾多の変遷を過ごしてきただろうが、庶民の信仰篤き心は変わらない。涅槃仏の足が赤く染めているのは何故かなと思っていたら、後から分かったことだが、仏様が説法の為に旅をして足の裏がボロボロに傷ついて歩いたことを象徴しているそうだ。
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 左=シーギリア‐ロック  右=シーギリア‐ロックの美女達(フレスコ画)

 シーギリア
 道路には、沢山の犬が常にいる。走ったり横切ったり、食べ物を捜したり寝たり、どうなっているの? 飼い主はおらず放浪しているらしい。運転手さんはホーンを鳴らして犬を避けている。昼間はできても夜は見えにくいのではないかな。一瞬の交通事故も動物が多い、時折その事実を見てしまう。かわいそうでならないが、私にはどうすることもできない。車をとばしてシーギリアに行く。途中、文化三角地帯の周遊券(ラウンド‐チケット)を求める。高額である。この国の遺跡の補修費用と書いてあるが、政府官僚のポケットマネーになっている気がする、信じられないが、仕方のないこと。森の中から大きな赤褐色の岩山が突如すくっと眼前に姿を現す。ガイド志望の子供達がまとわり付く。この岩山に登ればよいのだから迷うことはない。小雨が時々降ってきて、ヤバイなと思う。シーギリア‐ロックには、カーシャパ王の悲劇的な物語がある。父を殺し弟の仕返しを恐れるあまり、この巨大な岩山の上に王宮を造り、誰をも信じられない孤独な生活をした謎に満ちたものを残している。私たちは、滑る階段と螺旋状の鉄のステップを注意深く、そして下を見ないように登るのみ。かの有名なシーギリアの美女達に会いに来た。ベージュ色の壁には豊満な上半身のやさしい美女達が描かれている。守りの役人が「もっと奥の美人を見せてあげる」と合図する。これでチップをよこせの意味があるのかな。私たちはこれで十分。見えにくいところまでも見たくもない。雨風の浸食、多くの理由でその痛みは激しいが、ここに描かれた壁画の多くのモチーフから、その当時のことを教えてくれる。フレスコ画の近くに光沢のある鏡の回廊がある。もう少し階段を登れば、ライオンの爪の形をした宮殿の入口がある。降り出した雨と風で相当危険だったが、ここまで来た以上はと、承知の上で掛け声をかけながら、やっとロックの頂上王宮の跡に着いた。老人の案内人が付いて来るが、どうしてもとあれば受け入れるしかない。王宮跡にはプールもあり、雨水を利用したその濾過の方法がユニークで、高いところに住む以上、水まわりの大切さを考えて造築されているのには驚いた。苦労してここまで登った価値はあるシーギリア‐ロックでした。
 ドライバーさんは近道を選んだようだ、両サイドジャングルになった道に、野生のスリランカゾウの親子が静かに横断していく、大蛇もトカゲも時折見るので運転は大変。今晩はポロンナウワ泊。
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 左=ポロンナウワ宮殿跡  右=三石仏のひとつ涅槃仏

 ポロンナウワ
 昨夜の宿は蚊との戦いがあった。持って来た蚊取り線香を三つも焚いて、煙充満の部屋は匂いも一杯。早朝よりシンハラ王朝全盛期の遺跡の見物に出発する。人工の巨大な貯水池(パラークラマ‐サムドラ)の東側に集中している、文明が発展するには水を支配できなければならない。農耕の民には水の確保は大切なこと。4つの仏塔に囲まれた図書館の遺跡があった。今も解明されていない謎の人物が、不思議に何となく威厳を持って立っている大きな像がある。ポロナルワ博物館には、発掘された貴重なものが揃っている。展示の仕方が、現代的にユニークで説明も詳しい。宮殿跡は、その広大さを示す建物の痕跡はあるが想像をするのみ。仏教遺跡の中にはヒンズー教のものがあった。遺跡群の中心的存在のクワドラングルには、城壁に囲まれた四角形の庭に有名な石柱や建築物が集まっている。半円形を伏せた型の仏塔(ダーガバ)は、その大きさ、色、形、その歴史的な物語が今も信仰されている。
 いちばん印象に残った遺跡は三大石像がある。寝ている、立っている、坐っている大きな石像が、その夫々の姿態と表情が見物者自身の心の動きと共に感動を与えてくれる。少し離れた場所にハスの花の水槽がありこれは僧達の沐浴場であったらしい。大きな道の両側に、僧達の生活の為の店が門前町の様にあった。その当時(シンハナ王朝10〜12世紀)には、アジアの仏教都市としていかに華やかであったかを示している。
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 登りから見た自然の石塔

 ミヒンタレー
 スリランカに仏教が最初に伝わった場所はミヒンタレーである。聖地は大きな山の上にある。私たちは車を降りて、マハー‐サーヤ大塔をめざしてまずは階段を登って行かねばならない。最初はゆったりの登り。プルメリアの花の咲く下をのんびりと。別の登り道を少し外れるとコブラの泉がある。コブラは清らかな水にしか住めないという言い伝えがある。ここも沐浴場だった。僧達が生活していた住居、会議場、食堂には巨大な米櫃が水路のようになっている。ミヒンタレーの中心はアムバスタレーの白い大塔。山の上には仏様の髪が祀られたダーガバがあった。私たちは素足になるので、小石を踏んで足が痛い。ここにもガイド志願の若者がどこまでも付いてくる。終わりには、案内したので金を払えと一悶着ある。頼んだつもりはないが、何日もお金を得ていないとか聞くと、情に脆い小母ちゃん達は少し与えてしまう。この人の為にならないことも分かっているが。
 今晩くらいは熱いシャワー浴びたいと希望して選んだ宿だったが、停電で熱くはない水シャワー。何や彼やでハプニングの多い宿だったが、でも朝食は香りよりTeaとフレンチトーストのおいしさ。マンゴーとパパイヤのデザートは絶品。不具合は朝食の美味しさで帳消しにしましょう。
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 左=ルワンウェリ‐サーヤ  右=サマーディ像

 アヌーダブラ
 この町は2500年前にスリランカ最古の都であった。ここには巨大な仏塔(ダーガバ)が多い。私たちは仏陀が悟りを開いたブッダガヤの菩提樹の分け木のあるスリ‐マハーに行く。テロを警戒してか警察が多い。男女に分かれて持ち物から着ているもののポケット、空港のチェック体制がとられ、ここは特別なのかしら。聖なる場所には必ず裸足と無帽なので、靴を預けなければならないのが煩わしい。白を基調にした建物には、各地からこの地をめざして来た巡礼者達が供え物を捧げている。日本の神社仏閣と同じように、お金はザクザクと入ってくるようで、白装束の守り役の人が、貴方達は何故この聖なるものに寄進しないかを不思議がっている。私たちのような貧しい者よりも、もっとお金持ちにお願いしてみたらと言いたい。この国も、宗教法人は税は払わないでもよいのかな。一心に祈りを捧げる人々を憧れる気持で私は観ている。
 アヌーダブラのシンボルである、ルワンウエリ‐サーヤの白い仏塔は一段と大きなもの。ジェータワナ‐ラーマヤは修復中で、サンスクリット文字で書かれた経典が発見された。あまりにも多くの仏塔ばかりで、かつて大乗仏教の総本山であるアバギリ大塔は、今では小山の様に草が生え廃墟のよう。クイーンズ‐パビリオンも、かつての王妃の建物にはかすかにその跡を残し、緑が多く牛やヤギが放たれてのんびりと草をはんでいる。石の門の階段のムーンストーンに彫られたものに、宇宙の真理を描いている、輪廻の思想を彫物にして表している。サマーディ仏像が少し離れたところにあり、大きな樹々の中に瞑想する仏様が静かに坐っているさまは、その顔の表情がなんともいえないやさしい柔和な気持に人々をさせるのでしょう。ここにも、多くの人々が家族連れでお参りに来ていた。私たちは文化三角地帯のラウンド‐パスを買っているので、この地の拝観料はすべてフリーと解釈していたが、時々ここの仏塔はそのチケットには含まれてはいないといわれる。訳のわからないことに利用されているようだが、これもこの国を観光している者には仕方のないことと、諦めも大事と思い従った。私たちは車を借り切って、ぐるりと文化三角地帯の都市巡りなので楽な旅でありがたい。この大遺跡群の大きさと、歴史的にも文化や宗教的にも、このスリランカだけでなく世界的にも重要な意味のあるものが、今でもここに生活する人々の信仰の対象になっているのには驚いた。普通は、遺跡とは過去形のものであって、修復工事に明け暮れし観光客相手のものであるが、この国ではいま現在それが生き続き、仏教国の平和に通じている。
 キャンディに帰ろう。田舎道には田畑が生き生きしている。採れたての野菜を売っている簡易店が次々とあり、ドライバーさんも家庭の土産にフルーツや野菜をどっさり仕入れている。この国に来ての一番のご馳走は果物と紅茶。なかでも、マンゴーがピカイチ。何年か前、ミャンマーのマンダレーにある家の庭で、熟したものを冷やしていただいたのが忘れられないほどの美味しさと思っていたが、この国のマンゴーは、何処で食べてもよい香とまったりした甘味、毎日食べても飽きない。それに、他の国では濃い柿色に近い黄色のものだったが、ここのはグリーン。下の方から少し黄色を帯びている。熟してすぐ食べられるのは一番前列に並べてあるので、今晩食べたいならそれを選ぶ。中の種が大きいのでどうして切るのかなと、朝食のデザートの定番なので注意しているが、やはり皮をむいてから種にそって切り目を入れる以外にはなさそう。おいしすぎて病みつきになりそう。この美味しさに会えただけでも、スリランカに来た値打ちがある。それと紅茶の国だけあって(植民地時代はセイロン)紅茶をポットで香とともに味わうのが、イギリス的な仕方。一方では、味を楽しむミルクTea。両方味わうさすが紅茶の国である。
 ナーランダ
 キャンディの帰りにナーランダへ寄る。8世紀頃に建てられた、ヒンズー教の影響を受ける建築物の中に仏様を祀っている。田んぼの畦道のように狭い道をくねくねと通っていく。両サイドにマハウェーリのダム工事で人工湖になり、すっかり自然の中にある静かで訪れる人もない遺跡。バードウォッチングに興味のある人には格好の地。名も知らぬ鳥達が舞っている。
 キャンディに帰り、今までの疲れを癒す。中央市場に出かける。大きな庶民の市場で、ここにもガイドさんが多い。今晩は宿で頼んだ家庭料理はどんなものかなと楽しみ。日本人に合わせてくださったのか辛くなくマイルド。因みに今晩のメニューは魚と野菜の甘酢あんかけ、ひよこ豆のカレー味の煮物、フライドライス、インゲン豆のゴマあえ。グリーンサラダ、二〜三の佃煮。デザートはマンゴー、パイナップル、ブドウ、バナナ(赤い色のバナナ)。スープのないのが悔しいが、これで十分。満足満足。
 バッドウラ
 スリランカには日本の中古車が多い、以前の持ち主の宣伝や名前が入ったままのバスやマイクロバス等が走っていて、ドッキとしてしまう。日本車であることが高級車の証明であるとか。消さない方が有利らしい。バッドウラ行きのバスがなかな見つからない。同じ宿の若者も一緒らしいので心強い。やっと見つけても、満員にならねば出発しないのでゆっくり構えることが肝心。隣の席の学生さんとその母親がやさしく見つめてくれる。たどたどしい英語で“どこの国から来ましたか”“スリランカはどうですか”黒い瞳が濡れているように美しい。お母さんは金のネックレス、ピアス、ブレスレット。動く度にカチャカチャと音がする、これだけ金を付けているのでお金持ちなのかしら。
 この国の中央部に位置する山脈を、バスは峠を幾つも越える。黒い煙をはきながら、喘ぎ喘ぎ満員のバスは列車の終着駅があるバッドウラに着く。親子は降りる時に、「何か困ったら私に電話してください」と小さな紙に名前と番号を手渡してくれる。
 ここは山奥の小さな町、似合わない大きなホテルを選んだ。時々小雨が降るので、近くのホテルで何でもよかった。ホテルでバウンビンダ滝のことを聞くと 「今日はすべり易いし危ないから止めた方がよい」と忠告を受けるが、この町にはその滝以外に観光するものはない。「そんな弱腰では何事も始まらないヨ」と、自分達を励ましたら出発。バスに乗る時も降りる時も、地元の人達が教えてくれる。滝への入口から店も続き、アップダウンの繰り返し。岩場あり水辺あり、店で1本の杖を(薪の1本)借り、助けられてやっと滝の轟音とそのすごい水量の落差、激しさ。やはりここまで来なければとの思い。スリル満点でしたが、何事もなく無事感謝。小さな町の中で、生産される茶をゆっくりといただいく。日本茶と同じく、地方により甘みや渋味が入って、ちょっと違いがあるようだ。今晩は久し振りのホットシャワー。気持ちよく生きかえる。豪華にルームサービスの夕食を頼む。
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 ヌワラ‐エリヤの茶畑

 ヌワラ・エリヤ
 バッドウラの学生の通学姿は白い制服が多い。その白が真白で美しい。何度かの洗濯で白がネズミ色になりそうに思うのだが、不思議でしかたないのは私だけかしら。バッドウラからエツラまでの高原列車が、スリランカでは最も美しい景色が広がり眺められる区間だと信じているが、エツラから後はバスでヌワラ、エリヤ方面に行くつもり。二等の乗車券を買ったのに、満員で坐るところがない。始発だからと思ってのんびりとしていた。三等席には座れる。途中、車券の検閲もないし、何等を買っても早い者勝ちなのだと知る。地元の人々の好奇の目にさらされるのが辛いので、3人とも小さくなっていた。外の景色はバッドウラ川よりの渓谷美。森と茶畑の大自然。時おり時雨のような小雨はあるが気にならない程度。すぐ後部座席に3ヶ月ほどの男の子を連れた大家族と一緒になり、あまりにも可愛いので、私たちは昔とった杵柄。代わるがわる抱かせてもらう。4人の子供達の若いお父さんが、「このままヌワラ‐エリヤ(駅はナース‐オヤ)に直行した方が楽でよい」と、アドバイスしてくれる。エツラまでしか買っていない乗車券を、ナース‐オヤまでホームに降りて駅舎で買って来てくださる親切を受け、安心して乗り続けた。窓からの景色もさることながら、外国人の私たちにやさしい眼を向けてくれるのが嬉しくて気持ちよくすごせる。日本政府がスリランカに多くの援助をしているらしいので、その恩恵かも知れない。4人のお父さんも、自分達はゴールに住んでいて「もしゴールに来ることがあれば」と名刺をくださった。私たちはこれから先どこに行くのかまだ分からないし、約束できないと断った。
 列車は少しずつ標高を上げていく、涼しい風が入って来るし茶畑が増してくる。ヌワラ‐エリヤは、駅名はナーム‐オヤで市内へは列車の到着に合せて発着する。楽しみのホテルを物色して、やっと好みのものに決定、この地での今日の目的は、お茶の生産工場を見学に行くこと。本場セイロン茶の丘陵地帯はすべて茶畑。美しく刈込まれ、その緑がどこまでも続く景色が壮観。お茶には、勿論その土壌が成育の要素であることが必要でしょう。だが、多分この霧、清らかな水、太陽などがこの地に適していて、条件にかなっていたのでしょう。ときおり、麻袋を重そうに担いだ男女の労働者達が歩いている。1日働いた茶摘みの量が茶のセンターに集められ、その日の労賃となる。インドからの労働者も多いらしい。野菜のマーケットが路肩に沢山ある。近くのお百姓さんか、あるいはプロの野菜を売る人か区別できない。
 お茶のファクトリーでは、紅茶の精製工場内部で葉がどのような過程でお茶になるかを説明付で試飲させてもらう。ここでも沢山の種類のものが売られているが、荷物になるので買うことはできない。この町でゆっくりしたいので二泊することに決める。
 この町をブラリと散歩する。山の上の方にはイギリス的な高級な建物がずらり。イギリスの植民地時代の避暑地として、今でもその名残らしき建物は数々と残っているので、洋風にすっきりとまとまっている。ゴルフ場も沢山あり、ビクトリアパークには1年中美しい花々が咲き乱れている。郵便局近くのフルーツだけの市場には、いろんな種類のものを売っているが、私たちが一番に手を出すのは、何時もマンゴー。マンゴーも味の濃厚なものと、大きくないが香が強いものがあり、あの大きな種も品種改良で小さくなっているものもある。
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 ホートン‐プレインズから見えたアダムス‐ピーク(2238m)

 ホートン‐プレインズ国立公園
 早朝5時30分に車の約束をする。どうしてそんなに早くといえば、早ければ動物の出てくるチャンスが多いとか。昨夜は強い雨が降っていたが、今朝はなんとか止んでいる。アスファルトが薄いので道路がデコボコ。そこに雨水が溜まって、口を開けていると舌をかみそう。途中、あらゆる宗教を超えた巡礼の聖地の山=アダムス‐ピーク(2238m)が、浮かびくるすばらしい景色を見せてくれる。丘陵地帯であるこの公園は、標高2000m以上の高地で、フラットの土地はここだけである。この公園の入場料はとっても高く、ガイドも雇わねば危険だとのこと。後で分かったが、私たちのガイドは新米で、説明不足だった。門を入るとすぐに大鹿のサンバー2匹がヌーと顔を出す。たぶん、この2匹は飼いずけされて公園の宣伝マンになっているのでしょう。もっと多くの種類の動物達に会えると期待は膨らむ。霧が深く足元が滑り易い。ガイドさんに枯木のステッキを作ってもらう。でも、少しずつ晴れて来ている。豊かな水量の小川や湧き水の池が多い。鯉がこの激しい小川を溯ると聞く。森には声だけは聞こえる、ほえ猿がいるらしいが姿は見えない。タイガーの足跡もくっきりとついていて、新しいといわれても実物を目にすることはないので何となく信じられない。今日は韓国の団体さん50人ほどが、私たちが向かう方向から廻って来ている。「アンニョンハセヨー」――笑顔で応答してくれる。草原の起伏がずっと続く。この土地固有の植物もあり、珍しい色彩の花も多い。植物については、昨年夏に亡くなった山の会のYさんなら、あの独り言のような説明するだろうと想い出して懐かしい。丘を登ったり湿地帯を悪戦苦闘して、やっとワールド‐エンドと名付けられた1000m以上の切り落ちた絶壁の上に立つが、まだ霧がすっかりと晴れ上っていないので、深い谷底までは見えない。これでよかったのだと納得する。
 そして足場の悪い道を下り、ここでも水量の多い滝を見物に行く。落差よりも水しぶきがかかるほど近づける。この公園ではもっと多くの動物が見られると思っていたのに、そう簡単なことではないらしい。アフリカのサファリを経験すると、どの国のサファリもあれほど広大で多くの動物に会えるところはない。アフリカ以外の他の国は、宣伝文句だけで実際とはかけ離れている。でも、ここの雄大な自然美は強く印象的。人が多くないのもとってもよかった。
 私たちは、またしてもキャンディに帰ろう。キャンディは交通の便が一番よいので。帰途はミニバス。荷物分は一人分の料金を払わなければならない(大型では不要なのに)。昼前に着く。時間の余裕とお金もまだ十分あるので、仏歯寺前の伝統的なクイーンズホテルを奮発しよう(でも3人で45ドル)調度品に風格があり、ベルボーイが厳かに入口のドアの開け閉めをする。
 キャンディの郊外のゾウの孤児園へと急ぐ。ピンナワラといえば、観光客がよく行くところなので地元の人々は教えてくれる。バスを二回乗り換えて、2時間かかる。以前訪れた時は小ゾウばかり沢山いた記憶があるが、今回は敷地も広くなり設備も良くなっている。成長した多くのゾウに混じり、中心に小象を保護しながら川に向かっている、丁度着いた時は授乳が終わっていた。象使いさん達は、像と一緒に写真をどうぞと触らせてくれる。後でチップを下さいということだったが。要求されるとあげたくない。沢山のゾウさんが、象使いの命令で木材を運んだり倒木したり訓練を受けている。川では自分の好きに水浴びをして楽しんでいる姿。巨体の親ゾウも小ゾウも愛らしくほほえましい。キャンディの帰路は満員のバス。バス停からのにわか雨は、傘ではどうにもならないぐらい激しい。道路は川になる。あの放浪している犬達は、どうしているかしらと気になってしかたがない。
 デラックスホテルと期待していたのにみごとに外れた。古いが故に、雨漏りやシャワーも途中からは水。朝食のバイキングだけは日本の普通のホテル並み。さぁ、今日は移動の日。予定した日数よりも意外とスムースにこなしていったので、大都会は何時でも来れるし好みではないので、意見の一致でゴールへと行くことになった。
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 左=ホートン‐プレインズ国立公園内の滝  右=キャンディのピンナワラ(ゾウの孤児園)

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 左=フォートの白い灯台  右=ゴールの海水浴場

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 左=まだ幼い犬達(何頭が成犬になれるだろうか)  右=ゴールの町のたたずまい

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 モハメドさん一家

 ゴール
 キャンディよりコロンボ、そしてゴールへ。約合計7時間ほどバスに乗って、やっとゴールに着く。ゴールの町は新旧市街の二つに分かれ、バスターミナルも駅もその中間にある。私たちは、旧市のフォートで親切そうな老人の宿に決める。ゴールに着く少し手前で、3年前のあの「つなみ」に被害を受けた痕跡が多く残っているのを見る。町が黒ずんで人影なく、廃墟と化した町がぽつんぽつんとある。少し疲れたので早く休む。水シャワーには覚悟が必要。でも慣れれば苦にならなくなった。
 次の朝は早く起き、フォートの赤茶色の高い砦の上を散歩し、ぐるりと時計台まで。雲が少しかかっているが、東の空をピンク色に染めゆっくりと御来光を拝む。インド洋はゆるぎない大きな波のくり返し。気持をゆったりとさしてくれる。静かで落ち着いたホテルだが沢山の蚊に刺される。丸いカヤは小さくて、二人では無理なようだ。でも、このホテルの朝食は満足。先日のバッドウラからの列車の中で会った家族はゴールの人々だったので、あの4人の子供達に会いたいナと思って電話をしてみた。
 モハメドさんはすぐに会いに来てくれる。彼の叔父さんがスリーウィーラー(三輪のバイクにホロ付き=タイのツクツク)の運転手さん。私たち3人、モハメドさんと子供3人で定員オーバー? 乗って動けばよいことらしい。まず彼の家庭に招いてくれる。あの美人の奥さんと一番下の坊やと奥さんのお母さん、彼のお父さん、弟さんの家と家族に紹介してくれる。それぞれの家はしっかりしていて、弟さんは特にとっても裕福らしい。モハメドさんの職業は宝石の加工する人。弟さんは宝石のバイヤーさん。それを知った時、私は「もしかして、日本人に宝石を売りたいのではないか」と心の中で警戒していた。彼は今日を貴方達がどうしたいのか案内しましょうといってくれる。私たちは庶民の人々のスーパーに連れて行ってもらう。衣料品は中国製のものばかりで品質が良くない。土産物屋さんでスパイスと紅茶の専門店で彼の勧めるものを求めた。ゴールでも今晩のデザートにおいしそうなマンゴーを買う。
 彼の家でお昼を御馳走になる。日常使わないお客様用のグラスやお皿に、大きなエビと玉ねぎのトマトソース味。エビと野菜のバターライス、グリーンサラダ、デザートのジェリーはとっても美味しく、久し振りに遠慮なくいただいた。イスラム系の主人は大変だ、買い物はすべてしなければならないし、子供の世話から客の接待まで、お茶を入れて下さったり、お代わりを盛ってくれたり。この家の作法なのか、ここの家族と一緒には食事をしない。私たちが食事を済ませると、その残りをさっと別の部屋に持って行き、余ったものを食べていた。私はびっくりした。本当に美味しかったので、「奥さんは料理上手ですね」と平気でいただいてしまった。後で、あまりにも遠慮なくしっかりいただいたので、すまない気持ちだった。
 私たちを忙しい時間まで割いて、ゴール駅より西の外国人がよく行くビーチに連れて行ってくれる。仏教徒と思っているのか、そのビーチより白いストーパのある寺院に登り、インド洋が眺められる絶景を見せてくれる。どうして私たちみたいな老人をやさしくしてくれるのかが不思議なのでソッと聞いてみた。モハメドさんの言うには、「列車の中での貴方達との短い会話だけで、自分達を信じてくれた。それがとっても嬉しくて感謝している」と。それを聞いたとき、感謝しているのは私の方だし、宝石を売りたいのではないかと疑ったりしたことを恥じた。彼は宝石のことは一言も言わなかった。モハメドさん宅での一族の写真を必ず送ることを約束して別れた。
 私たちは、持って来た最後の日本食をいただいて、旅の終わりには勿論あのおいしいマンゴーがデザート。この夜にもモハメドさんが新しい魚が手に入ったのでと奥様の手料理を持って来て届けてくれる。彼の心のやさしさには何も応えることはできなかったけれど、この国の人々の心遣いはどこから発するのだろう。通りすがりの人々は、私たちを日本人と見るからか、その眼はやさしく口元は微笑を含む、貧しい生活でも豊かな心が生きづいている。
 昔から、北部のジャフナ、東海岸のトリンユマリーにはタミル人とシンハラ民族間の紛争がはずっと続いている。外務省の危険情報には渡航延期の要請が載っている。私たちはわざわざ危険な地まで行こうとは思わないが、観光客の多い地域だけを旅して来たが、危険なことは少しもなく、かえって平和すぎるほどに感じる。明日はコロンボから帰国すると思えば、ゴールの砦の上を歩いて名残惜しい気持ちでいっぱい、フォートの赤屋根や西洋風の石造りの時計塔、そして白い灯台。これまでの植民地時代の支配の跡が沢山ある。のんびりと暮らすネコ達にも平和の祈りを込めて、やさしいスリランカの人々に感謝しています。気持よく旅ができた相棒さんありがとうございました。
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リ島  〔2007.9.6〜9.12〕
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 バリ島へは何度も訪れている。スマトラ・ロンボク・コモド・ベニダ島へ行くために。あるいは、ジャワ島のボロブドール遺跡やコタキナバル登山のベースとして。この島はハワイと同じく世界的な観光地。今回は大阪の友人3人。シニアの大年増4人でのたった1週間の短い旅。さぞかし姦しいだろうと思いながら旅立った。格安チケットは深夜着。1日目は次の日の楽しみを残して休むだけ。
 次の日、かわいい小鳥の声で起こされる。泊まったバンガロウホテルはクタの中心街にあり、海もすぐそこ。古いがゆったりとした広い部屋で、庭には大きなプール。周りを芝生で囲み、どの部屋からもプールに直接入れるし、海岸にも行ける利便性の高いホテル。でも、芝生の中に不釣り合いな二頭の白い大理石の馬の像がある。私たちの部屋の前には流線型の池があり、鯉ではないが地味な黒や茶の魚が沢山放たれている。二階建てのバンガロー風になっているのは、ゆっくりとした時を味わうには十分な造りかな。朝食はかわりばえなしのささやかなものだった。
 ウブドーに移ろうと計画した。以前泊ったホテルがとっても気持ちのよい想い出があるので、欲を出しメールで予約してみたらこの日だけ空きがあった。友人達も賛成してくれたので、タクシー飛ばしても損はない。路上で、個人タクシーから「乗らないか」と誘いを受けるが危ないらしい。本によると、ブルーのタクシーなら安全らしい。シャトルバスはあるものの、人が集まらなければ出発しないらしい。運転手と紙にメモして交渉成立、15$。支払時には不満らしいが、ホテルの真ん前では受諾せざるを得ない。大阪陣の小母ちゃん威力はすごいヨ。3年前に泊った宿は以前のまま、変化なし。10室の小さな宿はパン屋とケーキ屋にレストランを兼ねた宿。島の人々の生活が近くに見えて、素朴で過剰なサービスはないが、希望にはできるかぎり応えてくれて、とっても清潔なところがいちばん気に入った。今の私たちには、ここが似合っていると勝手に解釈している。この宿で車1台をチャーターして、今日の観光に備える。1日9時間で60$。自分達の望むところへ連れて行ってくれるとは、なんと幸せなことだろう。
 このウブドーエリアは多くの村々集まりで、それぞれの村は独特のものを作って生計を立てている。農業が主な生業だが、1年中恵まれた気候なので、米作はどの気候でも行なわれている様子。主食の米を中心に、野菜や果物が豊か。人々はのんびりと生活を楽しみ、毎晩どこかの地区で伝統舞踊の催しがある。芸能村でもあり、多くの観光客を集めている。バリ島南部のリゾートには大型ショッピングセンターやホテルが建ち並ぶが、ここは規制を強化して田園風景を残す。農民を保護しながら各村の産業を育成し、特徴づけて観光化にもっていったらしい。人間が本来持っている性質と合うのか、素朴な雰囲気は、昔こんなところで住んでいたように懐かしい。

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 バリの田園風景

 プナタラン‐サシ寺院
 茅葺き屋根の寺院。ペジョンの月の伝説が残っているらしいが、祭のとき以外はひっそりとした佇まい。夕暮れにはサギの群れが帰ってくるらしいが、まだ朝なのですべてのんびり。京都の美山町を小さくしたようだ。
 ゴア‐ガジャ
 ブタヌ川流域方面を東へ下り、11世紀の古代遺跡を見に行く。ゴア‐ガジャとは、象の洞窟という意味。なるほど、入口の上に大きく口を開けた象に似た怪物。ロウソクを灯した内部には三大神が安置されている。多くの僧達が、かつて瞑想の地としていたらしい。大沐浴場もあり、女神像のふくよかな胸より泉水が湧き出ている。
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 スバトウ寺院

 グヌン‐カウイ‐スバトウ寺院
 プタヌ川の対岸に聖なる泉があり、絶えることのない美しい泉水が湧き出て魚をたくさん飼っている。泉とその脇には、今でもこの村の人々が毎日使う沐浴場がある。大勢の人が男女に分かれて利用している。
 アタ製品
 観光には、その地の特産物の製造とその過程を見て、製品を求めるのが常であるらしい。今回の大男のドライバーは、やはり何らかのリベートもらうのだろう。ここの民芸品であるアタ製品の作業場に連れられていく。水辺に生えるツルを、熟練した職人が手作業でいろいろなバッグやランチョンマットに仕上げている。丸や四角の箱が薫製されて、芸術的な製品になっている。しっかりしていて美しい。いろいろ用途がありそうだが、いざ買うとなると嵩張るしその勇気がない。
 バリの布
 バリ島の身につける伝統的な布は、イカットとバティック。イカットは糸に模様を染めて経糸と緯糸を織っていく。宗教儀式で必要だったり、金色・銀色を織り込んだり、芸術的にも価値がある。バティックはジャワ更紗で、日本の着物のロウケツ染そっくりの作り方。作業所を訪れても、興味なく私には欲しいという気持ちがない。ドライバーさんには気の毒に思う。
 テガララン
 お昼に棚田のビューポイントで、バリ名物のナシチャンプルをいただく。ライステラスの見事な眺めはバリならではだが、一年中いつでも米が作られているので、こちらでは田植え、あちらでは稲刈りと忙しい風景だ。ヤシのジュースも注文したが、味は薄く温かくておいしいものではない。この村は木彫りが名産らしい。道の両端に額やかわいい動物を置く店が多い。
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 グヌン‐カウイ(長い階段を上り、寺への捧げ物を届ける女性)

 グヌン‐カウイ
 タンパシリン地方は、とくに田園風景が大きく広く、昔懐かしい思いをする。バリ最大の石窟遺跡を見に行こうとしている。パクリサン川とプタヌ川に挟まれた土地。ワルマデワ王朝の遺跡が多く残っている。バリ‐ヒンドゥ教前の古代史の世界に入る。長い階段を下っていき、パクリサン川に架かった小さな橋を渡り、王や王妃の陵墓がずらり。大きな敷地の寺院の中には、仏教僧の修行庵も残っている。かつて仏教も盛んな時代があったことを察することができる。
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 山頂よりバトゥール湖

 バトゥール山
 バトゥール山周辺を総称してキンタマーニと呼び、一度聞いたら忘れられない地名だ。少しずつ高度を上げながら走る。少し曇りがちなので、アグン山は見えない。バリ島一の景勝地だけに、訪れた観光客は必ずここに寄るらしい。道路も走りやすく整備されていて、心地よいドライブ。山頂に到着すれば、西にバトゥール山と東にアバーン山に挟まれたバトゥール湖。ペネロカン村から眺めるこの風景。巨大な外輪山は大自然がつくりたまう円形劇場だ。過去に二度の大噴火がある。以前はもっと噴煙があがっていたが、今は所どころ水蒸気が見えるだけ。円形劇場は黒い溶岩で埋まっている。湖畔には温泉もあるらしい。バリ先住民族(バリ‐アガ)の村が点在している。近いところでトル・ニャンの村が見える。ここには風葬という、死体をそのまま腐るに任せ、何年か後に集められて村の外れが墓となる。今もその独自の習慣が守られているらしい。このパノラマを眺めて気持ちよくしていると、土産物を売る子供達や老人が付きまとってくる。学校へ行く年の子供。お互い孫のいる身には、時として情に負ける。
 ウブドーの宿に帰っても、ホテルのサービスは続く。ウエルカムフルーツが部屋に置いてあったり、お茶とケーキを部屋に運んできてくれ、テラスでいただく適当なサービス。二階の続きの部屋は無駄のない家具で、すぐ前の民家が見渡せる。今夜は伝統舞踊のひとつ、チャックダンスへ行く。村の男達のサイドビジネスで、歌舞団が集まり曜日に分けて催されている。今とっても人気があるのはデワ氏らしい。天才的な舞踊作家のマリオ氏の再来として騒がれている。氏の定期公演は今晩でないのが残念。
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 ケチャック‐ダンス

 ケチャック‐ダンス――神秘的で迫力満点
 宿の車が、タマン‐カシャ村のダレ寺院まで送迎してくれる。見物客より出演者の方が多く、100人以上の男性が黒と白の大きなチェック柄の腰巻姿。上半身は裸。ガムラン演奏に合わせて、マイクなしの独唱もあり、物語に合わせて歌舞伎のように見栄をきったりたいそうな表現が多い。私たちが観たのはラーマヤナの物語だった。大きな松明の明りだけで、勇壮果敢に舞う主役と100人以上が舌を出してケチャケチャと一緒に盛り上がる。終りのトランス‐ダンスは、なにやら魔術にかかった踊り手が火の上を平気で歩き、その迫力満点の演技を堪能する。元は宗教的な儀礼から出発したものだが、すっかり観光化して毎夜どこかの村で演じられている。後で聞いた話によると、出演してもけっして賃金はもらわないそうだ。チケット代はその村の為に使い、寺の修復や道路工事など公のことにのみ費やすらしい。
 ホテル
 朝食はちょうどよい程度に豪華。心のこもったさりげなく気遣いのあるサービスに感心する。なるほど、オーナーはバリ人と結婚した若い日本人の奥さん。さり気なくというところが気に入った。優しさは各部屋にある。バリ独特の香りのあるプルメリアの花をベッドの上に散らし、洗面所やバスルームの中にも小さな花束。庭にはランの花がどこにでも咲いている。小さなプールもあり、本当にここは気持ちのよいところ。もっと何日でも泊りたいナ。  朝早く散歩に出かける。昨日の夕方から気になっていた、真ん前の同じ造りをした3軒の民家。老夫婦が余生を過すには理想的な家だ。リタイアさんにはもってこいだが、ここは貸別荘だった。好奇心満々の私たちは、そのまた隣にもっとよいバンガローを見つけた。泊っている宿よりもう少し格式がありそうで、家全体が蔦で覆われ壁が緑。ハイビスカスやランの花が咲き乱れ、女性好みのやさしくかわいいホテル。こんなステキな隠れ家のようなホテルが、探せばもっとあるはず。また、いつかこんなところに長いあいだ居たいなと希望を持った。
 ウブドー市場
 モンキーフォーレスト前を通れば猿の一団が群をなし、そこここで毛づくろいや昼寝をしている。市場はもう少し先にある。早朝は一般市民の為にあり、そこに暮らす人々の生活が見える。でも、10時頃から観光客の市場となる。毎日食する食料・野菜・果物・魚・肉が所狭しと並べられ、大声で売られている。腰巻き姿のお母さん達の逞しさ。大きなカゴを頭に載せて器用に運んでいる。バナナの葉に包んで売る即席の朝食屋もあり、子供達がテイクアウトで家に持って帰るのだろうか。すべて手でつかんで分け入れるのでドッキリした。取り箸やスプーンでは面倒なのかしら。果物をいろいろ買ってみて、いちばん美味しかったのは大きなマンゴーだった(ホテルの冷蔵庫で冷やした結果)。
 市場には、生活すべきものはすべて売っている。朝早くても、観光客とみるとふっかけてくる。値切って値切って、それから演技をする。「ティダッ マウ(=もういらない)」。それでも売りたいなら追っかけてくる。この手の演技は昔より使い、古くなったかな。
 市場の近くに王宮がある。ここでも、土・日の夜に舞踊が広場で催されている。王宮といってもそんなに大きな敷地ではなく、変った金ピカの屋根をした建物がいくつもある。先日大きな葬式があったらしく、造花の付いた看板がまだそのまま。裏の方には民宿もあるそうだ。
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 ネカ美術館での4人

 ネカ美術館
 バリ島出身のネカ氏が所有する、インドネシアの絵画を展示する私設の美術館。いまでは外国の画家や伝統的な絵画だけでなく写真展もある。しばし見物中はすべてのことを忘れ、バリの名作絵画に没頭し夢の中。今回は「引かれ合う心」「ふたりの少女」という油彩画がとっても印象的だった。アルマ美術館よりここの方が価値があると思う。庭の片隅で、大きな木琴を使ってバックミュージックを流してくれる方がいる。日本人とみると、よく知られた日本の歌を弾いてくれる。気持ちよく絵画の中を散策した。
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 左=「引かれ合う心」  右=「ふたりの少女」

 スマラプラ王宮
 本日もホテルより車をチャーター。バリ東部の観光に出かける。かつて中心だったゲルゲル王朝の王宮跡を訪れる。300年以上の歴史があり、19世紀後半にオランダの支配下に入るまでの古典文学・音楽・絵画・彫刻などの、宮廷文化華やかなりし頃の文化遺産が残っている。門を入れば、すぐに大きな池。蓮の花が満開。宮殿の天井や柱・壁など、すべてのものに宗教画が描かれている。その色彩の豊かさと繊細さは驚くばかり。ルーマニアにあるスチャバの五つの修道院の壁画、ブルガリアのリラの僧院など、文字が読めない人々に教えるのは絵画に求められる役割りだったはず。洋の東西を問わず、人の考えは同じだということをこんなところでも思い知る。敷地内には博物館もあり、古代の出土品や王朝時代の遺物、オランダ軍との戦いの絵や写真をたくさん飾っていた。ここにも大きな木琴があり、ガムランのように残響があって、次々と混合された音に変っていくのを楽しんだ。
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 左=タマン‐アユン寺院  右=カンボジャの花

 タマン‐アユン寺院
 ブサキ寺院かタマン‐アユン寺院、どちらを選ぶかのかはドライバーに任せる。アユン寺の方が交通の便がよいし、以前どちらも訪れているので私にはどちらでもよかった。豊かな田園地帯を通り過ぎる。稲穂の中にカカシが立っている。ドライバーさんが教えてくれたことだが、どの小さな村々にも「クルンクルン」という、日本でいえば火の見櫓のような塔がある。形も様々で、なかには音を出す鐘を吊り下げているものもある。かわいい爽やかな音色だった。なにか事がその村に起きたとき、危険を察したとき、誰かが亡くなったとき、子供が生まれたときなど、その鐘の音色の変化で住民には理解できるようになっている。ネット化した現在だが、村の知恵というべき発達した情報網を昔からもっていた。
 タマン‐アユン寺は、メングウェイ王朝の繁栄期の寺院として建設された。寺に入るには、素足が見えては失礼。私たちはズボンなので心配ないが、それでも腰紐(スレンダン)をしなければならず、その礼として少額が必要。でもドライバーさん曰く、これは村がしているのでなく、個人が紐をたくさん持ってきて行なっている。怪しいとか。私たちは素直に応じるほかない。
 境内はとても奥深い。バリ島にどこにでもあるプルメリア(クチナシの花に似る)とカンボジャの花が豊かに咲いて、芝生と相まって庭園のように美しい。両側には大きな堀割があり、日本の城のような造り。黒く茅に似た草を何層にも葺いた屋根を持つ塔(メル)がずらりと並ぶ。整然とした寺に何の意味があるのかわからないが、美しい寺院であった。門の左隅にクルンクルンがあったので、皆の意見は一致し危なっかしい石段を登る。周囲360度を見渡し、これで良しとする。
 大男のドライバーがいろんなことを語ってくれる。ウブドー近くのプリアタン村の出身らしい。ちょっとだけ帰り道に寄ってみるかと問うので、みな賛成する。父親はかなり有名な画家であったらしい。ネカ美術館にも父の作品がある。かなりの資産家なのだろう、一族が同じ敷地に住んでいる。姉は独身で、もうすぐ尼になるそうだ。敷地の一番中心に、大理石の床を持った一段と高い立派な家がある。周囲を開け放した造りで、そこで家族同士で祭礼を行なうらしい。その建物を中心に兄弟の家が散らばって建っている。家族が仲良くしなければ同じ敷地内には住めないし、それなりにみんな我慢しているのだろう。自分の収入の半分は村の寺院の祭礼に捧げている。生活はバリ‐ヒンズーのためにあり、その祭礼のためにはバリ人はどんな犠牲をしても惜しくないと堂々と言う。日本人には考えられない。人々は、生まれてから死ぬまで祭礼を行なう民族。いちばんの出費は葬式と結婚式。人が死ぬと土葬にし、何年か後にお金をためて火葬し、赤・黒・白(その人の階級により色が違う)の牛の腹の中にお骨を入れて海に流すらしい。遠くより親類や知人が駆けつけて、その人生最大のイベントとして大金を費やすらしい。村じゅう総出のお祭りのようで、涙する人はなく歓喜に満ち、別の国へ旅立つのを見届けるのが死者に対する礼儀のようだ。後に残されて葬儀をする人達は大変と思うが、そのために働いていると言われては一言もない。
 自分の奥さんはナースだが、いつも喧嘩が絶えないのは、彼女が祭礼や寺院に捧げ物を持って行くときの正装の服を次々と買い、同じ服は二度くらいしか着ない。収入の大半がそれに消えるためだという。でも、彼らは自分の村の寺院の祭礼のためには何を置いても優先し、それを誇りに思っている姿はもう日本にはない。
 デンバザール
 私たちはあまりに大きな街、デンバザールには恐れおののいた。中心はププタン広場。オランダ軍侵入に立ち向かった記念すべき広場だ。バリの首都だから官庁関係のビルが多い。なによりも凄いのが市場。クンバサリ‐ショッピングセンターの大きさと物資の豊富さは、どの市場と比べても規模が違う。値札が付いていないので、対面式でその場で決まる。階上から見ると、バドウン川の向こうにもショッピングセンターがある。川は汚物がいっぱい山となっている。暑さのなか、人いきれと強烈な匂いに頭がくらくらして、すぐ逃げ出してしまう。働いている人々は女性が多い。小母さん達の圧するようなエネルギーに参った。
 ジャガッタナ寺院
 広いププタン広場に面したこの寺院は、バリ‐ヒンドゥーの寺。日本のように拝観料は取らないが、ドネイションをいただくので同じこと。近くの案内人らしき人がやってきて、帯をしめてくれ入口へと導いてくれる。なんだか変った形の石灰岩の塔が建っている。蛇や亀の彫刻がこの寺のシンボル。最高神は独特の考えを持つ宗教だということが理解できるようになっている。
 クタ
 ウブドーからの観光地巡りを終えてクタへ帰る。いつものように早朝散歩。インド洋に面したバリ島は波が少し荒い。でも、心地よい海風が海岸通りの樹木を揺らし、色とりどりのプルメリアの花をポツンポツンと落していく。この海岸はサーフィン愛好者にはもってこいの波。若者達は黒光りして波乗りをしている。砂は木目細かい砂糖のよう。白いレースの模様を次々と変えて散らしていく。寄せては返すこの繰り返しを見つめていれば、なんだかスーッと誘われて自然に別の世界に入っていけそうな気がする。早朝の海は、静かな魔物が住んでいるように思われる。
 世界的な観光地のクタでは、日本人の観光客がいかに多いかを思い知らされる。日本語で話しかけてくるマッサージ屋さん、タクシー、物売り達の客引き……。私たちは、面白半分に大きなブランド物のショッピングセンターにも足を運んでみる。店員はみな日本語を話してくれる。Taxなしの物を買っても空港渡しとか、損な面倒なことしたくない。
 相棒さん二人は、朝早くからダイビングに出かけた。私は紫外線が怖いし、海を眺めるだけで満足。もう一人と、もっと庶民の生活を見たいと細い道をくねくね散歩する。どの道にも小さな雑貨屋と食堂がある。店をしながら家族で住み、昔ながらの暮らしをしている様子。下水の普及があまりよくない。路面が滑りやすく。でも、子供達の笑顔、犬や猫に出合うとどこの国でもかわいい。思わず足が止まってしまう。カメラを向けると家族が集まってくる。お昼には地元の人々の食堂に入る。大きな皿にパラパラの御飯を盛ってくれ、ショーケースの中に大盛りのいろんなおかずがある。指で示せば、御飯の横に次々と入れてくれる。これが昼食屋。一つの皿で事足りるのはおもしろい。二人で80円ほど。物価は確かに安い。
 私たちは最後の楽しみに、バリのリラクゼーションのひとつ、インドネシアの生薬や薬草を使ったアロマセラピーに挑戦しようと思った。空港近くのリッチなホテルで、夕食も含んでいるため楽しみである。身体中に香りのあるオイルを塗り、指圧も兼ねている。スパは気持ちよいというか、初めてだったので恥ずかしい思いもあり、行なってくれる若い女性に気の毒な思いがして、やはり自分には合わない。韓国で垢落しの方が似合うと思う。でも、夕食は会席料理のように次々と変った料理をいただいて、4人ともども満足のひとときだった。バリ島は、のんびりしたいときにはいつでも訪れる理想の地だろうか。また、いつか来たいナと思わせるところだった。

 帰国してすぐ、ネパールの大学生=ボビタちゃんをホームステイで受け入れている(3ヶ月)。再び娘が我が家に帰ってきたようだ。こうして、誰かを何らかの形でお世話できるのは、自分達が健康で平穏であること。すべてに感謝して、暮らしていきたいと思っている。
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パールの旅  〔2007.2.22〜3.10〕
07nepal_207nepal_3エベレスト街道
 昨年9月のカナダ以来、ネパールのトリバン大学2回生=ボビタ‐シュラムちゃんを我が家に迎えることになった。そのために必要な書類を揃えたり、雑用や時間に振り回され、旅のできない日々は辛かった。娘として預かり、2ヶ月足らずだったが別れはやはり悲しいこと。でも、寂しさの余韻が残っている間に、またしてもネパールへ行く決心をした。山の友人2人との旅で、1ヶ月前より準備は始まる。ネパールは初めての2人に、心覚えとして喜怒哀楽を共にしてもらうこと。3人は同等でリーダーもサブリーダーもなし。自分のできることを何か協力することなど、気持が合うと信頼できる。リュックに持ち物の出し入れをしながら、期待と不安が交差する。幼き日々の遠足の前日のように、廊下に着ていく服を下着から一つづつ並べ、おやつの出し入れをして楽しんでいたあの頃にタイムスリップ。旅に出かける前のこんな嬉しい時間はない。いざ出かければ緊張と不安の毎日。地図とにらめっこで、それどころではないのが事実なのもいつもの事。あの埃っぽく喧噪の中を、凄まじい危険の中を覗いてみたい。我が家庭の平凡さから抜け出したくなる。すっかり家族も諦めているらしい。
 カトマンドゥ
07nepal_4いたるところがバザール(カトマンドゥ)
 2月22日の深夜に関空で集まり、バンコクに向け出発し4時間ほどのトランジット。昨年とは違ってネパールに向けての観光客は多いようだ。トリヴァン空港は以前と同じ。日本人は3月末までビザ代金が免除されており、要ビザの列に並んで時間がかかり無駄な時を過した。説明の札でもあればいいのに、これがネパールなのかと一撃を喰らって気が滅入る。日本ではお目にかかれないポンコツタクシーでカトマンドゥの中心=タメルの定宿に向かう。ボビタちゃんは待っていてくれた。日本のお母さんとの再会を、あの可愛いい笑顔が迎えてくれる。胸の奥がキューンとする思い。
 まず最初に、メールで連絡していた旅行会社でルクラまでの往復航空チケットを求める。ヒマラヤ街道のトレッキングをここで予約して欲しそうだったが、ガイドやポーターのチケットまで私たち持ちになるので、損になることはしたくない。
 今日はまだ疲れが残っているので、中心にあるダルバール広場へ散歩に行こう。車・人・オート三輪・人力車がゴチャゴチャに行き交う。狭い通りの両側に店がびっしり。あまりの騒々しさと土埃。2人は驚いていた。でも、見事な装飾の王宮や寺院の写真に夢中。時間が余っていれば、また何度でも訪れられるチケットに交換してもらう。
 ボタナートとバクタプル
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 左=街角にある休憩所  右=バクタプルにあるトウマディー寺院

 一昨年から時折メールで近況を知らせてくるラジさんと、会う時間をバクタプルで午後1時とした。それまでボタナート(通称=目玉寺院)を見物する。宿でタクシーを紹介してもらう。道で拾うより泊った宿で斡旋してもらう方が確実。運転手さんは18歳の若さ。ちょうど出勤時、人と車の多さはどう言ってよいのかわからない。でも、上手なドライブ。小さな車ほどヒヤリとさせられることが多い。よくもまあ事故が起きないこと。今朝は霧がかかり、あたりはまるで雲の中。東へと移動し、やっとボダナートに着く。ここはチベットへ来た感じ。巨大なチベット仏教の聖地。このストーパ建築そのものがマンダラの構造をなしている。遠いところから、一生に一度はここをめざして巡礼に訪れるのが彼らの夢。服装によってチベット族はすぐわかる。長い数珠を片手に、口々に祈りの言葉を唱えながら時計廻りにまわっている。端には五体投地をする人々も多い。健康維持のためには全身のストレッチになり、低温の呪文は気持のよい曲になって、静かに聴いていれば自然と眠気を誘うほど。このゆったりとした曲がボタナート一帯に響く。大きなマニ車を廻して、今回の旅の無事を祈る。仏様にお願いしてはいけないと教わったのに、何度もこうして訪れることを感謝すればよいのだろうか。
 約束の時間には早すぎたので、近くの民家や雑貨店をぶらっと歩き回る。細い道に雑草がいっぱい、花もたくさん。今は畑に菜ノ花と幼い麦。黄色と緑色がパッチワークのようにつづく。面白半分に大きなリゾートホテルで部屋を見せてもらったり、コーヒーショップでネパール茶をいただいて時間待ち。一年ぶりの彼は、相変わらずの真面目青年。古都バクタプルは、彼の生まれ育った土地。皆の親しげな笑顔が返ってくる。迷路を彼は次々と案内してくれる。ネワール文化のもっとも華やかなころの王たちが、競って宮殿の出窓や仏教彫刻で飾った寺を造り、その建築の技術を誇りとした。バクタプルは、彫刻の村という意味もあるという。この宝物ばかりの古都の中の小さな路地に、日常生活に必要な数々の個人の店がある。遠くに白く連なるヒマラヤ山脈と、古く由緒ある赤レンガの建物のなかの生活が印象的だ。ヨーグルトを作る店で、例のズズタヒヨーグルトを買って、彼の家に上がり込んでお茶と一緒にいただく。
 この町で感心したのは、路地の角には人々が憩える屋根付きの休憩所がところどころにあることだ。祭のときには、遠方よりやって来た人々はここで寝ころんだり、突然の雨には通り過ぎるのを待つ場所である。老人たちは家の中にいるより、ここに来れば話し相手ができて、ラジさんもよく来るらしい。ずっと以前の王は、住民のことを考えて建てたらしく、やさしい気持の王様もいたものだと驚きだ。日本の箱モノ造りのように、税金を浪費されるよりずっと利用価値がある。

07nepal_7バクタプルのはずれにある焼き物屋さん
 パタン
07nepal_8パタンの中心

 停電とは辛いもの。電力不足は解消していない。毎日、何時間かはある。その間、ホットシャワーも水も出ない。一番困るのは店だろう。自家発電を備えている店もあるが、私たち3人はローソクと各自の豆ランプで不便を凌いだ。何時ものことながら、いつまでもあると思うな親と金。いや、電力。その有難さをカトマンドゥで知るとは。
 今回の旅の目的はヒマラヤ街道を歩くことなので、足の訓練のためもう一つの古都=パタンまでは歩かねば。南に向かって歩き出す。ダルバール広場を通る道は混雑しているので、王宮前のカンティ‐ペト通りを行く。朝の人出はやはり凄い。毎日、祭でもあるまいに、人とバイク、ミニバス、トラックで埋め尽くされている。大きな運動場には多くの馬が整列して、軍隊か何かの演習かな。お揃いの制服を着たブラス‐バンド隊は手持ちぶさた。新しいトラックが沢山止まっている。軍隊は、この国を動かす大きな政治力。これからのネパールは、いかなる方向へと進むのだろう。
 バグマティ川を越えて南にさえ歩いて行けば、間違いなくパタンに辿り着く。ここは美の都。彫刻・絵画の工房が至る所にあり、美術館の中をそぞろ歩くかのよう。何度訪れても、今まで気づかなかった黄金寺院を初めて訪ねることに。全てが精巧で、豪華絢爛とはこの寺院かも。そこに詣でる貧しき身なりの人々。小さな捧げ物を持ち、謙虚に祈る彼らは神々しい。幼い見習い小坊主さんの手足の汚れが気になった。ダルバール広場にはマラッカ王朝の王宮や個性的な寺院が建ち並ぶ。あまりにも多すぎ、案内書を読んで歩いても頭の中には何も残っていない。昨年はひっそりとしていたのに、今年は多くの団体観光客。露店商も沢山店を出している。ネパールの個人の店では、ほとんど値札というものがない。いつもの店なら既に決まっているのだろう。あるいは、客との駆引きで決定するのだろうか。
 ネパールでは、どこの家庭でもいただくミルクティがとても気に入り、我が家の朝食の定番になった。今回も茶店巡りをして、どの店のものが一番おいしいかを比べるのが楽しみ。けっして、箱入りや包装したものは買わない。茶筒を指して計ってもらう方が新鮮と思う。いつもの旅には土産はなしだが、今回はリュックいっぱいに茶葉を買って帰ろう。パタンは小さな町だが、ネワール族のプライドを感ずる。私たちは小道に入ったり、市場で何が売られているのだろうかとなんでも興味津々。子供のように歩き回って一般の人々の生活を見る。帰りはバスに乗りラニーポカリまで。ストップは天井をドンドン叩くのが合図。他の宿も見物に行くが、やはり3人ともこの宿でとなった。ボビタちゃんのお兄さんにも1年ぶりに会い、「何か困りごとはないでしょうか」と心配していただく。明日からのアドンタール村のことを話してくれる。
 アドンタール村(ボビタちゃんの故郷)
07nepal_9ボビタちゃんとお母さん
 ボビタちゃんが迎えに来てくれる。カトマンドゥ市内から抜け出すのに、自動車の混みようはすごい。いつもこんな渋滞を繰り返すらしい。二度ミニバスを乗り換えてやっとハイウェイらしき道路に出るが、ここの峠もすごい。いくつも越えては、また谷底へ。樹木は燃料で山々は赤土があらわになってしまった。段々畑も続いているし、新しい村もできている。壁や土台となる赤レンガを焼いているのか、高い煙突のレンガ工場もある。約3時間で下りるの合図。チベットからの下流トリスリ川に沿って小さな店が点々とあり、ステンレス製の長い吊り橋を渡って細い畦道を歩く。村の中心部に位置する彼女の家では、お母さん、長男のお嫁さんと孫が迎えてくれる。お昼時だったので、ネパールの食事=ダルバートをいただく。あまり美味しいとは思わなかった。今はジャガイモの収穫時。玄関の前にたくさん干してある。北海道産のように小振りなのは、寒暖の差が激しいからだろう。たぶん、メークィン種だと思う。出荷して現金に変わる。  3人で、まず村を散歩する。ここも菜ノ花と麦、ネギ・豆類いろいろ、キャベツ・カリフラワー等、日本にある野菜は何でもある。春まっ盛り、暖かいのを過ぎて暑いくらい。バナナ・パパイヤ・マンゴの実はまだ青い。あと1ヶ月先が食べごろかな。ここにも、山に向かって段々畑がつづいていて、それぞれの家屋はどっしりとした木造。日本の田舎家に似ている。牛・ヤギ・ニワトリはどの家でも飼っていて、家の周りには野菜畑。自給自足の暮らしである。水は水道がところどころにあり、時間制限があって1日何時間か、その場所は水汲みの子供と女性たちで賑わう。水瓶は一つに決められ、二つなら一つ終えてまた最後尾に並ぶのが規則らしい。洗濯は、段々畑を下ったところに筒から水が出ており、そこで足で踏んだり叩きつけたりしてやっている。
 大阪・枚方のある団体がボビタさんのお兄さんの考え方に賛同し、この貧困の村を救うにはまず学校ということで、寄付や里親制度で10年以上前から小・中・高と3階建ての立派な学校ができている。遠くの村からも通学して、今や1200人ほどが学んでいる。先生と教室の数が少ないので、午前と午後の二部制になっている。見物に行った時は校庭で朝礼が行なわれ、体操があって青い制服がよく似合う。教室では数学。あるクラスでは話し言葉は英語だけで、教育の程度はかなり高い。この村の人々は、誰もがやさしい瞳であいさつしてくれる。昔の日本の田舎に出会った気持になった。
 ネパールの人々は1日2食らしい。朝起きてすぐに山や畑に牛やヤギの草や木の葉を採りに行き、背中いっぱい担いでまず動物に餌を与えてから朝食と昼食が一緒のダルバート。一休みにはミルクティをよく飲む国民。夕方も同じで、カレーの味付けで中の主材が肉やチキン・ヤギなどに変るだけ。  村の学校の近くにヒンドゥ教の祠があり、丘に登ってみれば菩提樹が2本必ず植えてある。仏教に由来するのではないかな。小さな草にも花は可愛く咲いている。ゆったりとした気持で過ごせるこの村に、ボビタちゃんの希望は英語と日本語の先生になって帰りたいことらしい。ボビタちゃんはカーストではブラーマン。お兄さんは村の功労者だから、そのお母さんは村の栄華を背負っている人。もっと堂々としているのかと思っていたけど、実に謙虚でニコニコして、「おたべ」(京都の名菓)のお母さんのような方。言葉が通じればもっと理解できたでしょうが、お互い両手を合わせるだけでした。
 カトマンドゥへ帰るには、ムグリン方面でバンダがあったらしくバス便がほとんどない。何時間待ったか。同じ立場の人達も、ネパリタイムでのんびりしたもの。ネパールの神様が見守ってくださったのか、一台のバンが拾ってくれた。満員の満員、辛抱の辛抱で、やっと宿へ。ホットシャワーに日本食をいただいて、あっ嬉しい。ありがたい。
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 左=ジャガイモの収穫をするアドンタール村の人々(後ろはボビタちゃんの家) 右=中学生・高校生の朝礼

 スワンブナヤート(通称=モンキーテンプル)
 カトマンドゥ全体がバンダという。私たちには幸いした。歩いて行くつもりだったので、何の害もなし。車の埃をかぶらずにすむが、今日もボビタちゃんが一緒してくれるらしく助かる。ヤセこけた野犬をよく見る。牛も放たれたのがゴミをあさっている。思わず目を背けるのはいつものこと。来週は水かけ祭があるとか。仏教の花祭りかな。子供たちがナイロン袋に水を入れ、誰彼となくぶっつけあう姿は微笑ましくもあるが、祭りの時は水に色が着いていて迷惑するらしい。私たちが行く寺は別名を猿寺という。野犬も乞食さんもヒンズー教のサドー(行者)も、参拝者目当ての物乞いはたくさんいる。階段はかなりの登り。暑くて、やっと緑の丘の頂上にたどり着いた。ヒンズー教や仏教の寺があったり、タルチョの旗が向こうの丘まで空いっぱいに広がり、境内からはカトマンドゥ盆地が遠望できる。チベットの民族服の男女が数珠を持って、おおぜいストーパめざして登って行く。祭礼なのか、毎日こうなのかしら。ヒンズー教の男性の成人の儀式が行なわれていたり、結婚式も小さなお寺で行なわれていた。幼い子供のような新郎新婦が何だか痛々しい。夕食はボビタちゃんのアパートでごちそうになった。お姉さんと2人で暮らす学生アパートは天井が高く見え、二つの部屋に台所。けっこうな暮らしぶりに安心した。
07nepal_1207nepal_13 左=ヒンズー教の結婚式 右=スワンブナヤートの頂上にある寺院

 エベレスト街道
07nepal_1エベレスト街道の通過した村名と高度

 1日目
 早朝6時30分の国内線に乗るためには、普通1時間前に空港にいるのが常識と思っていたが、トリヴァン空港は6時にしか開門しない。寒い戸外で待ち、足元には犬もよく寝ている。なんとサービスの悪いこと。1時間遅れの20人乗りの小さなプロペラ機は、激突するように雲の切れ間より着陸する。滑走路も斜だ。ルクラの空には色とりどりのタルチョがはためき、シェルパ族の故郷である。昨日は雨だったのか、水たまりがいっぱい。ガイドかポーターの仕事を欲しい人々がたくさん並んでいる。私たちは宿を通じてガイドを選んだ。直接の交渉は、責任問題が生じた時に困るのではないか。宿の主人は3人の荷を見て、これくらいならドッコ(荷を頭からのベルトで担ぐ円錐形の竹で作ったカゴ)を買って、ガイド兼ポーター1人でOKだとのこと。25kg〜30kgまでは担ぐらしい。若く正直そうな方、これからの全てを彼に托した(ガイドは1日10ドルで、宿と食事は自分持ち)。  あまりしっかりした予定は身体の都合もあって立たないが、今日はまだ元気なのでできる限り登ろうといざ出発。小さな村を過ぎ、アップダウンはあるものの一方的に下りが主となり、帰路は最後の登りがしんどいことだと今から心配する。しばらくは樹林帯の道を通る。途中のパクディンに美味しい料理を出してくれる宿があり、そこでゆっくり1時間ほど休憩する。ドウード‐コシはシェルパ用語で「聖なる川」。ドウードはミルクの意味があり、鉱物の雲母が川に溶けだして白く濁っている。川にはステンレス製のしっかりした吊り橋(日本の会社が請負ったと聞く)が架かっている。荷物を両側に括りつけた牛達(ヤクではなくゾッキョ=ヤクと普通の牛の混血種=ヤクより小型で健康)が真剣な顔つきで渡っていく。どんなに滑りやすく岩ゴロゴロの難所でも、四ツ足なので私たちよりもずっと安定した歩き方。すれ違う時は必ず山側にへばりついて行き過ぎるのを待つ。私もルクラで杖を買って3本足はありがたい。強力さんも次から次へ老若男女が登ってくる。時には50kg以上背負っている人もいる。事故もあろうかと心配。でも、彼らは同じ歩調でどんどん登っていく。上の村に商品をこうして人力で届け、運賃を稼いでいる。食料の値段が高いのも納得。ドウード‐コシの対岸上空に、真白く輝くタムセルクの姿がくっきり見える。モンジョに着く少し前より雨が降ってきた。いろいろと宿を探す気がなくなって、最初でもう決めてしまう。食堂のマキのストーブが暖かそうで、それが魅力だったけど、小さな部屋ですきま風が入ってくる。真夜中にはミゾレが雪になり、音もなくしんしんと降っている。明日はどんな景色になっているのか。満天の星空、これほど近くに大きな星が見えるのは晴れるかな。

 2日目
 モンジョでの夜は本当に寒かった。でも、それは当たりまえ。朝はすっかり晴れ上がり、白く輝く雪国の世界。究極の美の世界というか、見事なまでの枯山水を見せてくれる。正面の三角錐の山はクンビラ。朝食は米類をしっかりいただかないと、力がつかないと相棒さん。出発してすぐにジョルサンのチェックポストでサガルマータ国立公園の入域料(1000ルピー)を支払わされる。エベレストという呼び方は、イギリス植民地時代からのもので、ネパールではサガルマータ、チベット語ではチョモランマという。支払済みのチケットをいただき、帰路もチェックがあるのでなくさないよう注意を受ける。ドウード‐コシの川まで下って、長い吊り橋をゾッキョ達と仲良く渡る。今度は登りがつづく。強力さん達は辛い感じはなく、いつもの仕事を習慣的にこなしている。高度のために何の障害もないといえばウソになる。頭痛はずっとしている。自分の病のことは人にはわからないし、医者より3000m以上は無理かとも注意されているが、そんなことは信じていません。誰だって平気なはずはないと思って頑張ろう。黙々とあえぎながら登っていた。途中、エベレストとローチェを遠望できるビューポイントでのんびり見物。目の前にコンデ‐リ山が大きく見えるようになり、ガイドがあそこが今日の目的地のナムチェ‐バザールと指さす。やっとの思いで近づくが、足元が雪融けの水たまりで歩きにくい。ナムチェ‐バザールは通りの左右に店がつづき、軒から下がったツララの中で宿を探す。ガイドが勧める宿はあるが、昨夜の3人部屋が狭く汚かったので、今夜は広めの部屋をと思っていた。ちょうど、清潔で広いのを見つけることができ嬉しい。水力発電のお蔭で、夜も明るい。憧れのナムチェ‐バザールには19年前に来ているが、部分的な記憶しかなく自分の都合の悪いところは忘れているのかも。ずっと一緒についてきた茶色の犬は、今夜はどこで寝ているのだろう。こんなに寒いのに、可哀想。

 3日目
 今日は土曜日なので、ハート(市場)が開かれる。ガイドと4人で行ってみる。近くの村から食料や日用品を買いにやってくる。以前は物々交換もあった。強力さん達が背負ってきた貴重な品物は、ここで売り買いする。少々高いのかもしれないが、それはあたりまえのこと。私たちは見るだけ。いろんな品物でいっぱい。ガイドさんにほんの少しの荷を持ってもらい、シャンボチェの丘をめざす。ナムチェ‐ゴンパを過ぎて快適に登っていく。クーンプ地方の人々は、ショッピングに出かける感覚でハートに行き交う。近くを通ると独特の異臭がする。野菜や何かの品を下げて帰る人達に会う。「ナマステ」。日焼けした黒い顔に白い歯。「ナマステ」と答えが返ってくる。登るにつれ、この村の全体が見渡せる。馬蹄形をした交易の中心地。登山隊の拠点にもなる地。2日前の雪はしっかり降ったとみえて、前人者がラッセルしており私たちはその跡を進めばよい。中古のツエがちゃんと役立ってくれている。
 雪に埋もれた飛行場がある。ツアーで、空路をここまでくるのもあるらしい。雲一つない晴天に恵まれたこの日、天からの贈り物かもしれない。山での天気ほど、幸不幸はない。3人の精進がよかったのでしょうか。北にエベレスト、ローチェ、ヌプチェ、東にタムセルク、西にコンデ‐リ、クーンブ山群、アマダブラム、カンテガ。180度の山々に囲まれ、私たちはしばらく座り込んで声もなく黙ってただ見つめるだけ。ときおり登山者達もいて、写真を撮りっこする。私はサングラスの度数が薄く、チカチカして目眩がしたので、もうここまでと覚悟を決め、すぐ近くのエベレスト‐ビューホテルまで「2人の相棒さん行ってください」と頼む。最高の幸せを満喫し、他に望むものなし。ガイドさんは私をサポートしてくれる。雪が融け出し、水浸しの道は滑りやすく、必死の思いで下る。村人達はいつも通りの道なので平気で行き来している。ナムチェ‐バザールまでの道にホテルが何軒かあり、通りすがりの私を日本人とみて部屋に招いてくださる。ティをごちそうになる。シェルパ族はダライラマを本尊として祀っている。たぶん、祖先はチベットからやってきたのだろう。ナムチェの銀座通りからハートまで二度ほど往復しても欲しいものはないが、パン屋さんのケーキをいただき2人の帰りを待った。

 4日目
 本日もとってもよい天気。お米の朝食をしっかりいただいて、さぁ出発。この日の下りは長時間でルクラまでだ。高所では水をしっかり飲んでの行動はずっと守っているし、食べる酸素(?)を規則的にいただいている。昨夜は9時間ぐらい眠った。ナムチェの景色の見納めだ。下りは気分的に楽だ。心配してガイドさんがすぐ隣についてきているが、もう少し離れてくださいと言いたいぐらい。でも、いつ滑るかわからないぐらい他人には危なっかしく見えるらしい。モンジェまでは2時間ほどで着く。チェックポスト付近では、サクラソウのような小振りの可愛いピンクの花や名も知らぬ花を見る余裕もでてきた。昨日のしんどさもどこえやら。ステンレス製の吊り橋も身体を揺れにまかせ気分爽快。ちょっと自分から揺らしてみたいな。途中のバティと宿を兼ねた建物を覗いてみたり、通学の子供達に出合ったリ、幼子をあやしたり、すっかりいつもの自分に戻っている。ずいぶん登りは頑張ったものだと、いまさらながら歩いた道を振り返る。
 ゾッキョや強力さんが淡々といつもの歩調で登ってくる。「ナマステ」に答えて「ナマステ」。カウベルを付けたゾッキョの隊が本当によく通る道。気をつけなければ置き土産を踏むことになる。昼飯は、登りにガイドさん推薦を断った店で。待つこと1時間、これもネパリータイム。でも、すっかり私たちも慣れて四方山話に花が咲く。ガイドさんは、すばやくウエイターに変身してサービスしてくれる。長時間でも疲れなくルクラに到着(休みも入れて9時間の行動)。この時期、トレッカーは少ないのか、どの宿もガラーンとしていた。マキストーブのある食堂は暖かい。部屋の臭いが気になったが健康に感謝。わが人生に感謝して眠りにつく。
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 左=エベレスト(左)とローチェ 右=ナムチェ‐バザールの全景
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 左=モンジョへ向かう吊り橋 右=吊り橋を渡るゾッキョは真剣

 ルクラからカトマンドゥ
 天気が気になる。ときおり光も指すがガスっている。エアーが飛ぶのか否かはお天気次第。なんということだ。おいしくない朝食。空港に向かうが人気はなくガラーンとしている。カトマンドゥからやって来ないことにはどうしようもないのだ。私たちの持っているチケットの会社以外のものが次々と来ては、着陸と同時に荷物の入れ替えをして出発と慌ただしい。空港の職員に何度質問しても同じ答えの繰り返し。「私たちには何の知らせもない」。多くの外国を旅しても、こんな失礼な客扱いをされたことはない。インドでもこれよりましで、「こういう理由で遅れています。あと○時間かかる」とかは教えてくれていた。何のアナウンスもなし、暖房なし、清掃も行き届かない汚い部屋でイライラする。いったん手続を終えているので外へは出られない。けっきょく7時間ほど待に待った。同じ機だったカナダの青年が、夕刻にタイへ発つのに怒り心頭。今にも殴りかからんばかりに職員とのやりとり。見ていてハラハラしたが、やっとカトマンドゥに着き、慣れた宿で一段落。シャワー・洗濯と5日間の汚れを流して、近くの日本料理に足は向く。今晩もまた停電。もう、明日のことは考えずサッサと休みましょう。
 パシュパティナート
 タクシーで行くのでなく、バスで行きたい。この地の人々と一緒にが3人の意見。ラニーポカリの停車場で小型のバン。出発はボディをドンドン、ストップもその調子で。乗客達はアジア系の3人をじろーりとみつめる。ここヒンズー教の聖なる神=シヴァを奉る聖なる寺院であり、他信者はいっさい入れない。寺院の対岸からは、インドのガンカーのように大がかりではないが、火葬の様子が眺められる。川の上流は、昔は王家一族専用だったらしいが、今では一般市民も許されているらしい(少し高い)。火葬銭もピンからキリまであるらしい。すべて燃やして、骨ひとつなくなるまで何時間もかかり、灰をパグマティ川に流すと何も残らない。墓もつくらない。この考えには同意する面もある。
 私たちは老女の最後の別れを声もなく見ていたが、沢山の儀式があり次から次へとテレビの画面を観ているようだった。親族はそんなに悲しんでいるふうはなく、あの世へ旅立つヒンズー教の輪廻転生の死生観を他の人々と見物した。とても高貴な人の場合、莫大なお金をつぎ込んで白檀の木で燃やすらしい。その時には、付近は芳しい香に包まれると聞いた。ここは、モンキー寺よりサル達が大群をなしている。悪戯が好きらしく、巧妙で油断大敵。門のすぐ近くにマザーテレサの遺志をついだ老人ホームがある。身寄りのないお年寄りに寝食を与えている。今日は何かの祭りかな? 警察官の奥様連中とここのお年寄りが、小さな庭で舞って歌ってテレビ中継もしている。いかにも偽善的に行なっている感じの一面を見る。ヒンズー教・仏教・キリスト教が一体となって、仲良く暮らしているこの国の精神もあるが、さすがにイスラム教は入っていない。一種異様な姿の行者達もいて、写真を撮るとその賃をくださいと手を出してくる。私たちは三輪車のテンプーに乗り、タメルチョークに戻り、また混乱する道を通ってダルバール広場に行く。

07nepal_18あの世に旅立つ儀式

 ゴダヴァリ
 タメルはとっても便利なところにある。付近の日本料理はどの店も美味しく、ミトチャで食事に困ることはない。きのうナガルコットの朝焼けを見ようと思ったけれど、4時起きで1時間タクシーと聞き、以前はそんなに早くなかった気がする。季節柄そうなのだろうか。では、方向を変えて南東のブルチョウキ山にあるゴダヴァリの植物園ということになる。ボビタちゃんも行ったことはないが、一緒に出かける。バスでニューバザールまで行き、他のバスに乗るもののいくら待っても出発しない。定員に満たないためで、タクシーに乗り換える。昔は王家の別荘があったらしいが、今は大金持の避暑地になっている。山麓の小さな村には、段々になった西洋的であか抜けした住居がある。植物園はランや薬草、ミツバチの養蜂場など、中学生や高校生が見学に来ていた。桜が咲いていると聞いていたのに、花は梅と桃、それにネパールの国花=ラリーグラスがところどころに咲いているだけだった。もっと沢山の花を想像してきたので期待はずれだったが、入場門の2階でいただいたネパールのダルバートのおいしさは格別だった。初めて「こんなに美味しいもの」かと3人の意見は一致し、「ミトチャ」「ミトチャ」と褒めちぎる。
 カトマンドゥの特に混雑するラニーポカリ付近に、赤いたすきを掛けた若者が出没してよく交通整理をしている。マオイストの考え方に洗脳された人達と聞く。いままでは交通を遮断して民衆にその力を示したり、襲ったり恐怖を広めたりしていたらしいが、近ごろでは少し考えを変えてきている。民衆の支持を得なければ、これから先の自分達の政権を広めるのは難しいと悟り、まずは一般市民にアピールする。自分達はこうして貴方達のためにボランティアをしているという、宣伝の目的があるのだろう。でも、この国に民主主義が浸透しカースト制度がなくなるのは、ずっと先のことのように思う。
 本当はポタラまで行きたかったけど、日数が少なかったこともあり、また飛行機がちゃんと飛ぶか否かをルクラでの経験で不安だったので、又にしようということになった。
 帰国前日は、ボビタちゃんとお姉さん5人で日本食のお別れ会。会うは別れの初め、別れはまた会うことの楽しみを待つこととし、しばし別れを惜しむ。ボビタちゃんとは、大学の長期休暇に会うことを約束する。何度通っても一緒する相棒さん。季節の違い、自分の年齢のために、その度に新しい思いがするネパールの旅。元気であれば、また行きたい国。            (同伴者=荒木邦夫さん・児島君美さん)

07nepal_19ボビタちゃんのアパートで
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びのネパール  〔2006.2.28〜3.14〕
nepal_1Mt.Everest(8848m)
 昨今、ネパールの政治情勢が新聞紙上で賑々しく書かれている。15年以上前に、初めてこの国へトレッキングに行ったとき、なんと平和なところだろうと思った。美しく巨大な山脈に守られて、ヒンズー教と仏教が仲良く溶け合い共存し、毎日の生活が信仰と共にあって、多くの民族とその豊かな文化に強い印象を受け幾度も通い続けた。
 しかし、10年くらい前より民主化の波はこの国にもやってくる。それまでの政治の中心であった王が神の座より人間に下り、政党政治が始まったものの、あまりにも小さく多くの党がありすぎて完全な民主化は達成されなかった。王の権力も存在し、また反対に王権を認めない共産党毛沢東派(マオイスト)が多いに台頭して非合法のゲリラ闘争を起した。そして、ネパール西部のかなりを制圧して独自の政治力を発展させている。  三つの王家のうちの二王家全員が殺されて、その真相は闇に包まれたまま。先代の弟(ギャネンドラ)が国王となり、現政権を握っていて、反政府(マオイスト)との政治混乱は今も続き、時折バンダ(反政府の強制的交通遮断)があって、国内や観光客にも多くの影響を与えている。
 今回の旅の目的の一つに、ずっと病がある親友に世界一の山岳地帯を見せたい切ない願いがあった。でも、出発前日に彼女は入院してしまい、福岡の山友二人と出発した。彼女の気持ちは痛いほどわかるが故に、可哀想でならなかった。旅に出るときは、いつもこれが今生の最後かもと思いながらの旅。いつ何時も人の生命を脅かす事件が起きるかわからない。元気なうちに遠くへ行きたいという自分勝手な願いも、だんだん空しく先細りになりつつある。
  カトマンドゥに着くと「暖かいな」とすぐ思った。昨年の12月に泊った宿が気に入っていたので、安宿街のタメルへ直行。そして次の日のポカラ行の航空券を予約する。アサンからインドラチョークへ、庶民の商店街を通る。賑やかな人込み、散歩しながらの見物は相変らずの土埃・排ガス・人々の体臭。この喧噪を早く抜け出たいと思いながら、人々の表情を眺めるのは楽しい。ダルバール広場には旧王宮や数々の寺院。初めて訪れた二人はどれも珍しい写真に夢中。でも、以前と違うのは大きな銃を持つ軍人たちとポリスの多さだった。泊ったタメルの宿街もなんとなく活気がなく、土産物屋さんの店員たちも所在なし。この国のドル箱は観光業。とくに日本人相手が多いかも。日本語が通じるところも多いし日本料理店もところどころにある。こんなに長く政情不安が続けば誰もが滅入ってしまい、これから先のことを宿の主人も嘆いていた。
 ポカラ
nepal_2ペワ湖からの眺め
 今日もスッキリした天気。ポカラまでの空路より8000m級の山が少し見えたかな。空港に着くと正装した紳士が数十人、花束を抱えて行列している(何、どうしたの? まさか私たちの出迎えではない)。現国王方の政府のお偉い方(大臣級)が同じ機で着いたらしい。花束たくさんいただいて、ヤレヤレ大層なこと。この陽気に花は枯れそう。前後左右をバイクと車に囲まれて、デラックスカーは去っていった。
 私たちはホテル選びにはりきって、今は観光客が少ないのでどこも空きがあり値切って選んだ。ペンションのような庭ありの可愛いホテルに決定した。ペワ湖もすぐだし、今日はダムサイトからレイクサイドの北までを散歩する。湖上では、アンナプルナ山脈がずらりと並ぶ展望を拝むことができて、幸せな気分。若き頃にアンナプルナ内院とマチャプチャレのベースキャンプまでのトレッキングを実行したが、今はあれほどの元気はない。三老人は山に一泊ぐらいしようと計画する。自分たちだけでも登れるが、マオイストに出合わない予防のためにガイドとポーターを一人づつ予約する。気持ちのよい若者達はきっと力強い味方になってくれるだろう。
 トレッキング
nepal_3トレッキングコースからの風景(絵葉書)
 二人は約束の時間をきっちり守ってくれる。サランコットの丘を眺めながらタクシーでノーダラまで乗せてもらう。ちょうどバグルン自動車道路と接するノーダラには、レストランや宿が何軒かある。ここからの登りはまっすぐの急登。石の階段がジグザグに続いている。私たちは空身だし前後をしっかり守られて、天気は暑くも寒くもなく気持ちよい。上の村の農家の人々が牛やヤギ達の食料となる葉物を背中いっぱい背負って登る。幼いときよりこうして働いているのだろうが、すごい力持ちだ。途中の小さな村や畑に人々の暮らしがある。子ヤギが今生まれたところに遭遇したり、腰のまがったおばあさんが息子の家に何か届けた帰り庭で綿毛を紡いだり、時折バティがあってミルクティーをいただいたり。
 新しい道ができつつある。ジョムソンまで、あと2〜3年すれば車で一気に行くことができるようになるらしい。そうすれば、この辺は取り残される一帯となるのではないか。菜の畑に囲まれ、長閑なこの村はまだ先のことを心配していないようだ。

nepal_4ダンプス行きの途中の村で

nepal_5ダンプスより近くの村を訪ねた折、このような農家があった(絵葉書)
 ネパールの国花はラリグラス(シャクナゲの原種?)。今の季節は満開。一面真っ赤に染まった樹木の間をさまよい歩きながら登りは、何も苦しくない。天空の澄みきった青空の中に、突き刺さるような魚の尾が真正面に見える。アンナプルナサウス・アンナプルナ一峰・マチャプチャレ・アンナプルナ三峰・四峰・五峰・ラムジューン‐ヒマール、ずらっと並ぶ白き輝きは神々しい。昼食後、自由な時を過ごし近くの村を訪ねる。石を積み上げた中に、牛やニワトリ・ヤギを放し、石臼で豆やポップコーンのようなものを粉にしている老人がいる。写真を撮ると手を出して何かを要求する。自給自足の農家の生活が今もある。
 私たちが泊った山の宿は、チベット仏教のタルチョが屋根にはためいているので、先祖はチベット族でしょう。でも、食事はネパール式のダルバート・タルカリ。ここのネパール式定食はとってもおいしいものでした。夜は三日月と満点の星に幾重にも重なった村々の明り。下にも星があるように輝いて見える。
 次の日は、5時起きで近くの丘に登り朝日見物。寒さを我慢して待っていると、薄い赤色とピンクを混ぜた色合いが刻々と濃く染まりきて、アンナプルナ連山の様子は感動のひととき。村の人々が目覚めの頃から祈りの声、犬や牛もニワトリ達も起きだして1日の始まり。山の村の人々はチベット系の顔立ちが多い。宿の主人は何かお盆を捧げ持ち、天に地に祈りの動作を繰り返して今日の始まりのお祈りをしている。タルチョの旗の下にいて、朝に夕にこの連峰を拝しながら暮らすことは、私たちにはなんとすばらしいと思うが、彼らにはあたり前の日常でしょう。
 朝食をいただき、もと来た道を景色を眺めながら下る。段々畑に麦が育ち、お茶も花芽を付けている。春というより初夏に近い暑さ。村人が1時間の下りを、私たちは2時間もかけてノロノロ下る。
 ノーダラからホテルへの帰りにチベット村に寄ってもらうが、大きなゴンパだけはあるものの観光客はいない。かつて賑わったオールドバザールでも、1週間前にあるレストランで時限爆弾が仕掛けられ、露店商の二人が死亡したらしい。窓ガラスはすっかり無くなっているがレストランは営業中だった。マオイストはどこにでも突如表われるらしい。
 セティ川は深く川が落ち込んで峡谷となっている。その流れが広く続いたところにヒンズー教徒の火葬場があり、一つの骨も残さず川に流してしまうらしい。彼らに墓はない。ヒンズーの人々には、火葬場の下にある聖なる川で水浴し自分を浄める、インドのガンジス川での行いと同じような習慣がある。ビンドウバシ寺院(ヒンズー教)にも寄る。ここは女性の神様(クリシュナ神)が祀られ、境内の中央には生けにえのニワトリ・ヤギ・羊が首を切られるのを待つ姿がある。思わず眼をそむける。ヒンズー教徒は赤い色を好み、血は聖なるもの。神様に血をふりかけている。なんと残酷なこと。彼らには神聖なる儀式なので、宗教的な感情に気をつけた。

nepal_6ビンドウバシ寺院の占い師
 次の日は観光へ。タシリン‐チベット村、シバア寺院、鍾乳洞とパタレチャンゴは何度も訪れているのでさしたる感慨もなかったが、ダムサイトでタクシーに乗っている折、爆竹のような音が5発ほどした。二人乗りの大型のバイクがこちらへ猛スピードで走り去った。ドライバーさんが顔色かえてUターンする。近くの店はシャッターを降ろす。何のことかわからなかったが、マオイストの突然の襲撃だったらしい。検問所の軍人が一人死亡し、二〜三人が負傷したらしい。身近に重大なことが起こりうる。これが現実だと知らされる。
 ペワ湖の乗合ボートに乗せてもらう。湖の真中にある島にバヒラ寺院があり、遠方より巡礼者の人々が一族でお詣りに来ている。国王の別荘があって、船が近くへ寄せつけられないように浮き袋の印がある。別荘沿いの壁側も歩いてはならない。軍が警備している。ポカラも軍と警察の多さに加え、再々のチェックで嫌になる。
 ポカラ近郊のペグナス湖とルパン湖にも行く。ペワ湖と違い、ここは地元の人々の生活の場であるため観光客はいない。青く広がる田圃に白サギが沢山いる。私たちは湖の堤防を歩き、小山に登って湖とアンナプルナ連峰のすばらしい景色を見とれていた。湖畔に暮らす人々の生活は貧しいが、子供達が小さな小学校の校庭に制服で並んでいる明るい笑顔を見ていると、この子らの将来が希望に満ちたものであって欲しいと願う。
 トレッキングのガイドさん宅の夕食に招かれる。私たちも何か手土産をと思うが、例の熱湯入れて出来上がりの即席おこわや赤飯を持参して一緒にいただく。この日のご馳走はネパールのダルバート‐タルカリだった。食後は、奥さんのアルバイトのスカーフを売りたかったのだと知って、何となくガッカリした。ガイドさんの話の中にカースト制のことがあった。奥さんとガイドさんはカーストの位が同じでなく、奥さんが下の方だった。それで、親類の反対を押し切って結婚したが、自分のカーストが一段下の位になったらしい。それでも、彼は結婚したのだから、それだけ愛情が深かったのだろう。ごちそうさまでした。
 グリーンバスにてカトマンドゥに帰る。バスはくねくねと峠や川を幾つも越えて進む。明らかに積載オーバーのものが多い。事故も途中で何度も見る。軍のチェックで待たされ、7時間が9時間かかってやっとカトマンドゥ・タメルの定宿で一息。日本料理の夕食はやはりおいしい。
 福岡の二人は、次の日にヒマラヤ山脈を飛行機から見るマウンテンフライトの観光に出る。私はバクタプルの古都を訪ねる。菜の花いっぱいの黄色い畑を東へ。12月よりメールで連絡をとっていたラジさんに案内を頼む。彼はこの3月で大学を卒業するが職は決まっていない。ネパールには、新しい職は無いに等しいらしい。
 バクタプル
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 左=バクタプルの町、右=ラジさんの家の前で

 バクタプルはネワール文化の最盛期の都。古き文化の香りの中に人々の生活があり、赤茶色レンガ造りの史蹟が学校や役所・住居になっているものもある。旧王宮や寺院は修復工事をしていて、ここに入る外国人の入場料をあてているようだ。それぞれの建物の窓枠の木彫りが特徴で、その精妙さは驚きです。三つの広場には、その時代の傑作の寺院がある。道が迷路のようになっていて、ガイドがいるので助かる。彼の家に招待してくれて、この地の名物ズズタビ(王様のヨーグルト)をいただく。ヨーグルトの中に、お米を加工したものを混ぜて一緒にいただく。このヨーグルトは、これまで食した中で一番おいしいと思える味だった。彼の家は家族十人ぐらいの構成で、4階建の土とレンガで造られている。庶民の家庭の内部を見せてもらえることは、好奇心満々の私にはなによりのプレゼントだった。

 カトマンドゥへの帰りにティミに寄る。ここは焼き物の町。作業途中の素焼きの水がめがたくさん干してある。ここもネワール族の町らしい。ネパール最大の仏塔ボダナート、周辺はチベット族の仏教徒が多く住み着いている。民族服の人々がマニ車や数珠を手に遠くからもやってくるらしい。この周りは、ぐるりと土産物屋・レストラン・ホテルが並んでいて、チベット自治区のような雰囲気である。
 相棒さん二人は帰国したので、今日から一人旅となる。早朝はいつもホテルを抜け出て散歩見物。道端の小さなコーナーには、近くの農家の人々が自分の畑で取れた野菜を運び、即席のマーケットになる。ホウレン草・水菜・ダイコン・人参・ジャガイモ・タマネギ・春菊など日本のと同じだが、全てが細く短い。化学肥料なしだからかな。日本料理をいただいてみれば、野菜の味はとてもおいしく、昔いただいた風味がする。
 今日は、あるホテルのオーナーにバクタプルの青年を紹介し、面接日なので少々責任を感じるがどうなるかな。日本では新しくそこの社員になるには、最初の仕事は清掃もお茶汲みも辞さないと思う。あたりまえのことで、そこから始まると思っていたが、このネパールではいまだにカースト制が現存している。大学を出ていれば、カースト制では上の方なのだろう。だから、清掃はどうしてもできないしする気もないらしい。この国の人々の意識がそうなので、考えられないことだった。
 ダルバール広場に民族服を着た若い娘さんが集合している。30以上の民族があるので、その民族の女性の祭らしい。舞台では日本の神楽のような舞踊がみられ、面をかぶった悪人とか娘さん・若者達が笛や太鼓に合わせて次々と。それぞれの民族服の娘さん達は、いちばん綺麗な時なのでしょう。
 パタン
 ゆっくり過ごすために、もう一つの古都パタンに行こう。パグマティ川を渡れば、マツラ王の時代の首都として栄えた都。町中が美術館に足を踏み入れたような佇まい。犬達や瘠せて野犬が多い。放し飼いなのか元気なようで、彼らは何を食べているのだろう。クサリにつながれ美食にて肥らせすぎるより、自由に走り廻り幸せなのかもしれない。
 パタンの宿は、ネパールの山登りからはじまり、現地の方と結婚しペンションを経営している日本人。夕刻には、その宿に日本製のデラックス車が帰宅する。門の前にはガードマン、各々の車はドライバー付き。誰がこんな立派な車持ちなのかなと思っていると、この宿の3・4階は日本のジャイカの人々が住んでいるらしい。ジャイカとは開発途上国への援助団体ではなかったのか。こんな立派な車の送迎でオフィスに通う心そのものが、既に問題ではないか。一般の人々と同じバスとか自転車で通わなければ、庶民の心は見えないのではないかな。すべてが日本の公金、我々の税金が使われて、この国を援助しているかと思うと情けない。ある人の話では高い月給らしいと聞く。朝食の折に、職員さんと一緒したが、なんとなくとりつき難い官僚といった感じ。もっと目線を下げて下げて、この国と人々を援助して欲しいと思った。
 町をゆっくり味わいながら、裏通りを散策する。そこには生活の匂いがある。古い住宅の精巧な窓や庇に、よき時代の片鱗を見る。この町もネワール族が多い。仏像・彫り物の工房・仏画のタンカを描いている仏画師のアトリエも沢山ある。旧王宮や多くの寺が集まっている、パクタブルと同じような古都である。観光客が少ないので、ゆっくり見物できた。

nepal_10nepal_11nepal_12ネパールの子供達
 帰国時がちょうどバンダ(強制的交通遮断)があると聞いた。カトマンドゥに帰り、王宮の道をずっと北に歩いて日本領事館へ行く。空港に行くためにどうすればよいのかを問いたかった。門の前、建物の前、その部屋の前のチェック。持ち物もレントゲンがある。質問の内容を書かされ、じっと待つこと暫し、答えは「エンジンの付いたものに乗ってはいけない。空港までは歩きなさい。あなたは、こんな不安定な時をわかって来たのだから自己責任ですね。」――期待どおりの答えだったので、ガッカリはしなかった。
 宿に帰って相談したら、「心配なし。タイ航空のバスがヒマラヤバンクから何度も発着し、空港までをポリスと軍が守っている。もし、どうしてもの時は、あなたのリュックを担いで一緒に空港までいってあげる。1時間も歩けば大丈夫」との力強いお言葉。ネパールの人々の方が、ずっと頼りになると心より思った。
 幸せなことに、バンダは中止となって何ごともなく無事帰国する。政情はよくないとはいえ、そんなことに気をとられているとどの国にも行けない。内戦がある時はその国には行かないが、こんなときだからこそ面白い経験ができるかもしれないと思って発つのが自分には似合っている。
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パールより旧スィッキム王国を訪ねて  〔2005.12.4〜12.20〕
sikkim_1カンチェンジュンガ山系
 今まで、トレッキング中心にネパールへ何度通ったことだろうか。今回は、旧スィッキム王国で世界第三位の高峰カンチェンジュンガの山岳地帯を眺めるのが主な目的だった。相棒さんを募ったが、インドと聞くと怖れおののき退く人が多い中で、3人が決まって安堵した。
 インドは一度訪れると二度とは行きたくない人と、何度でも行きたい人に分かれるらしいが、私はどちらでもないしチャンスが巡ってくればどこでも行きたい。でも、ツアーやデラックス、あるいは大勢で計画どおりに決められた旅は避けたい。大体の予定はあっても、それは臨機応変で自由に変更がきき、ハプニングあり多くの困難ありを相棒さんと互に助け合い、その地に住む人々の生活の息吹に触れる貧しい旅こそ深く心に残り、想い出として懐かしい余韻となる。
 インドビザと特別区の許可証のために、大阪の領事館へ四回も通うこととなり、また出発一週間前にギックリ腰を煩って不安はあったが、いったん旅が始まればその心配はいつものとおり私の前を通り過ぎていった。
 カトマンドゥ
sikkim_2カトマンドゥ近くのバグタプル
 カトマンドゥに近づくと、天気は快晴なので窓越しに8000m級の山々が雲の上に突き出てよく見える。カトマンドゥのトリヴァン空港は、以前と何も変わっていない。ネパールのビザを受け、両替してリュックを受け取るとすぐに市内のタメルのホテルに向かう。ゲストハウスの穏やかなオーナーに迎えられ、シンプルで清潔な部屋と何よりも便利さが気に入る。タライ平原をバスで越してインドに入国するのが良いか、空路ならどこからが良いか調べてもらう。情報は現地が一番確かなもの、このところ地方ではマオイスト(反政府組織)が突然現われ、ギャング団化して交通を遮断。金品を奪い一般人を困らせて、政府の治安の悩みの種であるとか。この1〜2ヶ月は両者が論争中で休戦状態にあるが、やはり外国人はネパールの第二の街バドガプルまでは空路が良いとの彼の考えに同意し、2日先の航空チケットを頼んだ。
 一歩通りに出れば、そこには住んでいる人と観光客、バイク・自転車・車・リキシャ、店の売り声、埃、腐った臭い、お香やスパイス。混雑は激しい。道端に野菜や果物・日用品を並べて、そこがチョーク(市場)。小さな通りの両側に、頭を低くして入らなければならない店が沢山並び、商品は豊富だがいつから置いてあるのか分からないほど汚れている。2〜3階と繊細な彫刻を施した窓枠やベランダがあり、いまにも崩れ落ちそうなほど垂れ下がっているものも多い。道の角にはヒンズー教の小さな祈りのお堂があり、住民がお供えをしている姿をよく見る。日々の生活が信仰と共にあるのを感じる。

sikkim_3「女の子の祭り」(カトマンドゥ)sikkim_11ボダナート
 旧王宮前には多くの古き寺院が集まるダルバール広場があり、観光客は必見のところ。クマリの館では、少しのお布施で守人が合図を送ると、生き神様の少女が窓から顔を見せてくれる。迷い牛やヤギ達がヌーッとどこからか出てきて、雑踏の中を人と一緒にのんびり歩いている。交通渋滞にもあいながら、パタンまで庶民の暮らしぶりを見物しながら歩く。パタンはネワール族の古都で、まるで美術の都のようだ。マンダラを描く工房、現在の絵画や木彫工芸品の店鋪がズラーリ。ここも、古い民家の窓は精巧な彫刻で飾られていて、町中が大美術館であった。途中に女の子たちの何かの祭があり、えんじ色の民族服と首や頭には家族に伝わる財宝を付けてヒンズー教の祭典を行っていた。観光客にとって、物珍しさに遭遇した有難さだった。
 3日目の早朝、ヒマラヤの展望を期待してナガルコットの丘(2100m)へタクシーで行く。東のヒマラヤの白い尾根が少しづつ赤味を増し、独特の姿のエベレストとランタンジュガール、西にはマナスルからアンナプルナ山系まで、ずらりと一直線に広がる一大絵巻。刻々と色彩の変化は激しく、寒さも忘れ夢みる思いのひとときだった。その帰路、もう一つの古都バグダプルとネパール最大の仏塔ボダナートを見物する。路地にくつろぐ老人たちの語らいの姿。水道の出るところでは、数人の主婦たちが洗濯したり洗髪したり。冬の季節でも、昼の暖かい光を浴びながら、貧しいけれども平和な彼等の姿があった。カトマンドゥでは、気持ちのやすらぐ三日間だった。
 イラム
 宿のオーナーの忠告どおり、空路でビラトナガルに着く。上空よりタライ平原の豊かな田畑の様子を垣間見る。バスでビルタモードから車を乗り換えるらしいが、その勝手が分からず迷うばかり。だが、なんとかなるもので、バスの運転手さんに助けられビルタモードに。水が豊かで高床式の家々が見られることは、水害の脅威もあるのだろう。米どころかな、近頃刈り取った稲の円筒形のワラ小積みが多い。日本の田舎の風景のよう。山に入るのでジープに乗り換える。屋根の上に荷物満載。カゴに入ったニワトリは声もない。日本だと定員があるが、8人ぐらいが20人乗りになっている。山をいくつも越える。ヘアーピン‐カーブの連続、冷や汗も出たり枯れたり。ネパール最大のお茶の産地イラムに近づけば、段々の茶畑が行儀よく並んで続く。今日一日は乗り物ばかりだったので、疲れて足元がフラつく。今晩は地元の暮らしに合わせた宿で、3人で225円と二度びっくり。寒さと不便さは辛抱の限りのイラム泊り。
 早朝、カンチェンジュンガを観たさに近くの山に登るが、どこまで登っても前の山に邪魔され見えない。しかし、お茶の産地の暮らしぶりが見られた。意外とこぎれいにしてある。山より水を各家に引き、庭には野菜や花も。祭のご馳走になるニワトリは自由に駆けまわり、竹の多いのが気になる。伸び過ぎて巨竹になっている。タケノコを食する習慣はないのだろう。
 シリグリ
 カーカルビッタ行のジープは、相変わらずギュウギュウ詰めの乗り合い。今日は、ネパールとインドの国境を越えたり入ったり。国境では力車に乗り、ネパールの学生に助けられる。換金と入国の書類に手間取り、その付近の混雑の様子は想像以上。やっと市内へ向かうバスでシリグリの中心地へと逃れる。
 宿探しは、紹介しようとする人々に付きまとわれ大変だったが、レセプションのオーナーらしき人は英語の発音が正しかったので、教育を受けた方だと思いそこを選んだ。小さな少年たちが部屋係でよく働く。こんなに幼い子供を働かせて、労働基準法に違反しているのではないか。でも、ここはインド。普通の常識は通用しないのだ。蚊やアブラムシが多いものの、少年たちが懸命に運んでくれるバケツシャワーのお湯で、少しは気持ちがよくなった。
 カリンポン
 もう少し奥地のカリンポンをめざす。ブータン国境の山岳地だが、ここは暖かく過ごしやすい所と聞く。途中にはユラリと振れる橋がいくつも。猿達の一家が小さな山道によく出て来ている。人が食べ物を与えるからだろうか。交通事故に遭った猿もいた。
 宿に着いて町中をブラブラする。カンチ様を眺めるビューポイントまで歩くが、午後は雲が出て途中が隠れている。この町には大きなキリスト教会や病院もある。細長く。段差の多い小さな町だ。家庭的なチベット系の宿のオーナーのお母さんは、昔のままの民族服でいる。日本人によく似た顔立ちなので、自然と笑みがこぼれ遠いところへようこその思いが伝わる。お湯をいただきに行くと、チベット的な台所と居間を見せてくれた。台所は整理整頓がきちんとなされているが、居間というか寝室というか物を入れる押入はないのかな。物が多すぎたり、家族全員が雑魚寝のように布団がそこらじゅうに敷いてあった。ひさしぶりに、ホットシャワーに恵まれ美味しい料理も味わえた。
 スィッキム州都のガントク
sikkim_6
 いよいよ旧王国に向かう。出発時間と金額を昨日聞いて予約したので、楽な席に座らせてくれる。ここでもヘアーピン‐カーブの連続。ループ状に登り下りところもあり、手に汗することもなく少しずつ慣れてきた。山道には野犬が多く、痩せこけて村から村へと放浪し、彼らは何の生為にフラフラと走っているのだろう。人間が食べることに懸命なので、犬にかまっていられないのか。上手に車を避けている。段々畑が絵のように美しく、茶畑と田圃が多い。ランギット川の橋を渡れば、そこがスィッキム旧王国へのチェックポイント。入域許可証の日付に印をしっかり押してくれる。乗合いジープの運転手さんは若者だったので、かなりのスピードで3時間ほどで着く。手頃なホテルはすぐ見つかり、この町をブラブラ散歩。甘い物の和菓子のような店もあって少し買って楽しむ。今はミカンの収穫時らしい。疲れ予防と風邪の予防、ビタミンCをいただきたいので、毎日ミカンかリンゴ・バナナを買うことを3人とも心がけている。今晩はこの冬の祭典が催されるので、「ぜひ」にとインフォメーションで知らされた。物珍しさに行ってみてガッカリ。地元の昔から伝わる民族音楽を期待したのに、選挙活動やニューミュージックで若者が狂気のごとく騒ぐだけだった。
 シンギット
sikkim_14シンギットから見るカンチェンジュンガ連峰
 観光案内所で予約し、もっと奥地からカンチェンジュンガ山脈を観るために約束したのだが、1時間遅れでやって来た人は昨日紹介された人ではない。職員がマージンを要求し、私たちはそれに従ったのに、どの国も職員とはこんなものかと諦めた。シンギットは、近頃許可された地でマンガムの奥地。山岳地独特の段々畑が続き、カピ・ペンサン・ポトンの山間の小さな村々をどんどん進んでいく。自分の通ってきた道を眺めれば、よくあの険しい道を越えて来たものだと感心することしきり。山道が山の水で川になったり、崖崩れで細い道がもっと細くなり、ヒヤリとすることが多い。軍隊の駐留地をよく見る。彼らは暇のようで、ここでは一番楽で高級なお仕事でしょう。国境が近いので、治安のためには多くの血税をつぎ込み、地元の福祉まで手が廻らないのが常である。山間部は危険と思っていないのか、のんびりしたものだ。犬もヤギも人間も、何ら慌てることがないので車も避けやすい。この3〜4日間でヘアーピン‐カーブにもカラダが上手についていく。無理にこわばることもせず流れにまかせ、慣れとは強い味方である。マンガンでここまでとするドライバーさんと行き違いがあったが、書類にシンギットとあったのでそこまで行ってもらう。カンチ様は目の前の空いっぱい。すごい迫力で迫りくる。何の情報もないこの地は、ゲストハウスまであってチベット系の人々が多い。ここに泊り、料理をいただき、カンチェンジュンガの高峰を朝に夕に拝ませてもらいたかったと我がままが出る。あの悪路をバックしてガントクに帰るとぐったりした。でも、もうひとつ西方の奥地ユクサムの情報が欲しいものだ。
 複雑なこれまでの政治事情を反映して、モンゴル系・チベット・インド・ネパールとそれぞれが混血した多民族を残している。今でも、ここに住んでいる人々には多くの民族問題があるだろうが、カンチェンジュンガの高峰がその色彩を刻々と変化させる様子はあたり前のことで何の感激もないらしい。ガントクの蘭栽培園に行って珍しい蘭を見たいと思うが、どこかへ引っ越したらしい。その奥のエンチェイ僧院は、チベットの古きマンダラや財宝を展示していた。ケーブルカーから観る豊かな田畑に連山の眺めもなかなかおつなもの。
 ユクサム
sikkim_4カンチェンジュンガ山脈の一部(ユクサムのゴンパより)
 ユクサムは直接行くべきだと後で思ったが、地図上の情報では交通の要であるゲイシングに向かう。今日は政府関係者達の何かの催しがあり、乗合いジープのユクサム行がなかなかない。やっと1台探し、時間が決まっていても人数が集まらねば出発しない。車の上には水タンクや荷物、後部座席には大きなタイヤ4本、人は15人ほど。重量オーバーはわかっていても、これがこの地のいつものこと。これまで以上の道路の悪さ。それだけ田舎なのだろうが、ここもやっと近頃になって道路の補修工事を手がけたみたい。どの道も工事ばかり。産業がないので、地元の人々が労働を提供してその賃金で少しは潤っているのだろうが、老人や幼い子供達までが小さな金槌で石を砕いている。それを道路に敷き、上から土を被せるという初歩的な工事。いつ終わるとも、見当のつかないほどゆっくり。ジープは自転車ぐらいの速さで進む。いつ事故が起きてもおかしくない悪路だから、かえって安全なのかもしれない。立派になれば事故が多くなるので、今の道のままでよいのになと思った。ユクサム村の端にあるチベット系の宿を選んだが、そこに東京から一人で来ていた中年の婦人と会い、ひとときを日本茶と相棒さんが持って来た千葉のピーナッツで話が弾み情報をいただいた。
 ユクサムは、旧スィッキム王朝の最初の都があったところ。次の日、宿の少年をガイドに午前中だけのトレッキングを約束する。この地は2000m近くあり、朝食を終えてすぐの登りは二人の健脚さんについて行くのがやっと。チベット仏教寺院がこの辺には九つもあるとか。祈りの銅鑼の音が各家からも聞こえ、人々の暮らしもまばゆいばかりの光のなか、暖かい気候に恵まれて野菜も稲も育つのだろうか。村はずれの静かに眠るような美しい湖へ案内してくれ、カブールの峰が湖面に逆さに移っている。昔の都だったという痕跡は何も残っていない。小山の頂上には新しい寺があるだけ。でも、その庭よりカンチ様の連峰がはっきり巨大な姿を現わし、その稜線をたどっていく楽しさ。二つの寺をトレッキングするだけで十分だった。今でも疑問が解けないでいるが、エンゼル‐トランペットという白もあり黄もあるその名前の通りにの大輪の花の群生。アメリカ原産だと思ったのに、不思議なこともあるものだ。下りがけに、京都に住んでいるかなりお年の女性にもお目にかかる。両腕をガイドとポーターに支えられて登っている勇気のあるお方だ。人に元気を与えてくださるだけでも存在の意味はある。私も少しでも近づきたい。
 ピリング
sikkim_15ピリングの宿からカンチェンジュンガ主峰
 ユクサムで秘密の湖が30km先にあるが、そこに行かないかと宿の主人に勧められる。目付きの鋭い主人はただ者ではない気がするし、その時間はないと断る。多くの人々がピリングは良いところという。そこが、スィッキム王国の二番目のペマヤンチェである。またしても、あの悪路を切り立った断崖絶壁の上を通る。渓谷の青白き泡立つ激流の中に、いつこの身が危険にさらされるのか、運命は神のみぞ知る。すべてをお任せする以外にないと思いつつ無事到着。ずっと向こうの丘にあるラマ教寺院に登ってみても、ペマヤンチェの都の痕跡は何もない。三階建ての大きな寺院で、数々の仏典やマンダラなど、宗教の大きな威力を見る。あのエンジ色の法衣を着て、若き僧侶達がキビキビと働く姿のなんと爽やかなことか。この地は新しいホテルが次々と建築中である。一大リゾート地として発展するのかもしれない。居ながらにして、ホテルのテラスより朝日の輝くカンチ様。山の向こうはチベット。その岩峰が白々とその姿を表わし、村々の灯りがまるでキラ星が流れるように美しく見える。やがて、山々が赤く染まっていく様は静寂で荘厳な絵巻物。ここまで来させてもらった幸せをしみじみ味わうことになる。健康と相棒さんにありがとう。
sikkim_16ペマヤンチェの丘のゴンパより
 ダージリン
sikkim_5「カンチ様」(ダージリンのタイガーヒルより)
 ピリングのホテルは、従業員がとっても親切だったので、気持ちの良い1日だった。いよいよダージリンへ移動する。厳しいチェックを受ける。手書きなので時間がかかる。長い走行の後、尾根沿いに広々と連なってダージリンの町がある。ガイドブックにある宿に決めるが、中心から遠すぎて寒くてがっかりする。次の日、カルカッタ行の列車のチケットを買いに行くが、オフィスの始まりより前に運び屋さんがいて、旅行社に押さえられ、あまり良い列車でないチケットしか手にできなかった。中心のクラシック調のホテルに引っ越し、落ち着く宿を得た。
 一日中、自由に好きなことをしよう。まず、ダージリン茶を生産する斜面の大規模な茶園に行く。途中、下りを間違えたお蔭でヒマラヤ登山博物館へ。エベレスト初登頂者のエドモント‐ヒラリー卿の登山用具や歴史、多くの著名な登山家の経歴等の物語があり、その隣に大きな動物園があった。檻の中でなく、動物が自然に住めるように工夫した場を与えている。ヒマラヤに住む貴重な動物を沢山集めている。ハッピーバレーの茶園は登り下りの激しい丘。日差し厳しいなかをやっとたどり着く。11月で茶摘みは終りらしい。工場近くの小屋では、小母さんが茶の入れ方やここの茶の自慢話。なかでも、ここの一番よいところは、化学肥料を使わないし、花芽を摘んでいる最高級品はお砂糖もレモンも入れてはダメで、ゆっくり飲めば自然に甘みがあり、花の香りがすると教えてくれる。オランダからの若き女性達と一服の紅茶をいただく。チョータラス広場には、何かの祭があるのだろうか、胸に名前と写真の名札を付けて民族服の人々が沢山いた。猿の遊び場のようなマハーカーラ寺院。仏教寺院もヒンズー教寺院も、私たち観光客には同じように見える。
 チベット難民センターにも足を運ぶ。ここも相当な歩きだった。羊の毛からそめて絨緞や織物の製品にしたり、マンダラの絵を描き小物をつくったりして売っている。その収益でこのキャンプを維持しているのかな。小さく汚いアパート形式の住居が続く。人はどんな処にも住めるし、住めば都なんだ。日常生活の上り下りに足腰は自然と鍛えられて、薬漬けの私たちよりずっと健康的なのかもしれない。この美しい景色のなかにいると、心が洗われる思いがする。
 ダージリンのトイトレインに乗りたいなとちょっと思ったが、そのチケットを買うのに待たなければならないし、見たらとても汚れていたので気持ちが萎えた。走っているのを見るだけにした。
 コルカタ(カルカッタ)
 ダージリンから直接列車に乗れるのではない。ジープでスィリグリーの先のニュー‐ジャルパイグリまで行かなければならない。ダージリンの高所より、バンは超スピードで急勾配を下る。混雑が予想されるスィグリーには暗くなって着く。ヤギ・犬・牛達、無灯の自転車等、前を向いて歩くのみ。動物は何を求めているのか知りたい。少しでも足を踏み違えば死。これほどまでに、生と死が隣り合わせを見せているいるのはこのことだろう。 ――ブッダの言葉に「犀の角のようにただ独り歩め」とあるが、唯そこに存在し喜び悲しみもなく歩めとはせつなく悲しくなる。早く、彼らはあの世とやらへいった方が楽になるのではないか。彼らはナ何も考えず歩くのみ、何も知らない方がかえって幸せなのだろう。
 コルカタ行の列車が何番ホームなのかもわからない。聞いても15分前にアナウンスするというのみ。待つ時間ホームで客を見ていると、列車が到着すれば出発までの間に、バケツの中に何か煮込んだものを入れナンとのセットを売ったり、ニヌキを手の中で切って塩をかけたものを売るなど、即席の商売が成り立つ様子。この機動力には感激する。
 やっと三段ベッドの寝台車に乗れたが、汚さと騒音と揺れで眠ることはできなかった。かの有名な、サダルストリートの少しましなホテルでないと疲れはとれない。案内しようとする人が沢山寄って来て、「やかましい」「寄るな」と叫びたい。
 サダルストリートの両側には、ビニール布を掛けただけの貧しい人々が暮らしている。ここでは、人も犬も牛も一緒に子供も育っている。道路の真中にボロ布にくるまれ寝ている人もいて、彼らは何も失うものがないので怖いものはないのだろうか。私は見たくない。ズルイ人かもしれない。ここはインド。私に何ができるのだろうか。
 ニューマーケットが近くなので、お気に入りのアッサムティーを土産に買う。セントポール寺院・インド博物館を見物に行く。あまり来たくないコルカタに2泊して帰国した。
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