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初(はっ)ちゃんの世界紀行――吉田初枝
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 アルメニアとジョージアの旅  〔〕
     
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 何処の家庭にも色んな問題が在ることでしょう、我が家にも考え悩んでも仕方がないことも在りますが、何でも余り深く考えないようにしている自分は、気楽に愉快に生きることをモットウにしているので、残り少ない今の健康と家族の理解に感謝してゴーサインをする。
 成田航空に4人集合して、アルメニアのエレバン空港を目指す、途中はモスクワでトランジィット、以前のモスクワ空港は如何にも共産国家らしく陰鬱な雰囲気があったが、今はガラス張りのスマートな近代的な建物になり、多くの出店舗あり、楽しませてもらいました。空港近くは大きな森の中、広大なロシア大陸も半年は雪の中でしょうか、それ故に少しでも南にあり、海に面している日本の北方四島を、不法に占拠したのは事実でも、絶対に返還はしないでしょう。強欲で狡猾なプーチンさんの顔が浮かぶ。
 ビザ発給はアルメニアのエレバン空港で驚くほど簡単に取得できました。最初の宿は予約して、空港に迎えに来る事になっていたが、日時を間違えたのか、捜してもいない。空港のタクシーで宿に着くも、鍵が掛かり電話もつながらず当惑しました。最初日が最悪では、先が思いやられると不安が募る。でもそこには幸運の女神が微笑でくれます。近くの清潔な宿に空きがあり、泊まることができました。気持ちの良い受付の方に気を良くして、結局アルメニアに居る間、この宿から観光地へと出かけました。エレバンは歴史上ではBC、8世紀からの始まりとか、世界的には最も古い町の一つらしい。ワインの美味しさとアルメニアの女性は美人が多い国、一緒している男性達は、きっと期待していると思います。  静かで清潔な宿を得てすっかり落ち着きました。近くのエレバン大学に行き、日本語科が有るかどうかを確かめに行く。結局は無いと言う事でしたが、若い大学生は小顔で細身、彫りが深く眼が大きい美人の要素を備えた女子学生が多い。希望に満ちて輝き、人生で最も幸せな時の若き人々は清々しい。
 昨夜の寝不足でゆっくりの歩きです、中心の共和国広場は放射状になって、幾つもの通りが伸びています。広場を中心にピンク色の凝灰岩で、政府関係の建築物は建てられて、美しくユニークです。高価そうなレストランやホテルも鎮座しています。明日の観光を考えて、広場に屯している観光の車の誘いに応じました。スマートな紳士で言葉も堪能な人を選んで、時間、金額どの方面の観光を予約するかをはっきりと予約しました。私達は自然に市場に足が向きアルメニアビールやワイン、テイクアウトの惣菜を買って、宿で楽しく戴きました。私は季節柄、サクランボを選びましたが、日本の果物のように甘くない、品種改良が為されていないからでしょうか。
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左=リプシメ教会    中央=ズヴァルトノツ遺跡、巨石群の一部    右=エチミアジン教会

       近郊の観光(1日目)
 朝からあまり面白くない。受付の方が別の人と変わり、泊まる日を決めて、先払いせよとのことです。入室の時には、その日の宿代を支払うのは当たり前の事ですが、この宿で何日泊まるかは、未定なのにと思うが、仕方ないので3日分を支払う、必ず領収書と引き換えに。客を信じないのかの気持ちがして、嫌な思いをしました。
 昨日予約した車が来るが、私達が対応した人ではなくて、車も違っていた。やっと気がつく、あの人は手配師だった。彼は紹介料をくすねて、ドライバー同志を振り分けているのでしょう。約束した以上は、しぶしぶ4人は車に乗り、観光は始まる。
 最初はリプシメ教会を訪れる。アルメニア教会の典型的な形で、シンプルで庶民的な教会。リプシメという女性がローマ皇帝の求婚を断ったので、殺害されてしまう。殉教したリプシメを記念して、この教会が建てられた。素朴さが何とも言えない程、尊厳に満ちている教会でした。
 次には壮大な遺跡のズヴァルトノツ行く。アララット山がこの地からよく見えるそうなのですが、今日は雲がかかり見えない。小学生が遠足に来ていた。どの国でも同じ事でしょうけど、元気の良い子供達は可愛いし、見守る先生は重労働だ。この遺跡は10世紀の大地震によって、跡形もなくすっかり崩壊してしまい、残っているのはギリシャ神殿によく似た円柱が立ち並ぶ遺跡だけでした。
 次にエチミアジン大聖堂に。2000年には世界遺産に登録されていて、今修復中です、広い敷地内に大聖堂があり、内部のフレスコ画は美しい、キリストを刺した槍先や、ノアの箱舟の破片などの展示があった。ドライバーさんの言葉が通じない事は、困る事だらけでした。明日はこの車を断り、宿で頼むことにしました。帰路はスーパーに寄って、夫々の好みで夕食を買い、今日の出来事を語り合い、アルメニアビールとワインで男性達は、酒盛りをしていました。
       近郊の観光(2日目)
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左=ゲガルト修道院    中央=ゲガルト修道院のへい    右=ゲガルト修道院の裏山

 次の日のドライバーさんは、若いしっかりした方で車も新しく、時間厳守で宿に来てくれた。この国ではアラット山(5165m)は心の寄り何処とされている。トルコの侵略で、今ではトルコ領になっている。先ずはアララット山が良く見えるビューポイントに止まってくれるが、白い雲が全体にかかり、少しは見えているが、私のカメラでは映らないでしょう。
最初にゲガルド修道院に行く。洞窟修道院である。石工と教徒が何十年も掛かって、巨石群を掘貫いたのでしょう。薄暗い天井からの光が、僅かに祭壇を照らしています。人里離れ修業するには適しています。裏山の崖がハンギングしています。周囲の塀が石の標本のように、縦に並んだ塀である、建築素材は全て出土する石で、造られているのには驚きでした。これぞ正しく石の国アルメニアの建築様式の見本でした。
 ガルニ神殿に行く。アルメニア王の夏だけの離宮であった。17世紀の地震で全てが崩壊し、太陽の神殿だけを見ることが出来る。アテネのパルテノンの神殿のミニチュア版です。登り難い階段の上に、玄武岩で建築されています。静かな快い笛の音がしています、音楽家なのでしょう、楽器が何か知りませんが、神殿に相応しい音色で、暫くは聞き惚れていました。周囲は大きなゴルフ場のような、緑の絨毯の丘の連なり、美しい夢のような風景は、久しぶりに広大な自然を楽しませてくれました。神殿の出口には露店が立ち並び、呼び込みの激しさに、思わず現実に引き戻されます。
 セバン湖に向かいます。エレバンより60kほど東にある、コーカサス地方の最大の湖、新設された一直線道路で、まるで北海道で経験したあの直線道路です。大昔は湖に突き出た半島だったが、今は陸地になっている。その先端の階段を、多くの観光客と息せき切らして登っていく。1897mの高地なので足元が重い。頂上には2つの修道院が寄り添うように並んでいます。874年に建築されたそうで、日本の平安時代に当たる、相当古い建築物。其処から見下ろすセバン湖の眺めは、心に残る美しさでした。夏にはこの国の人々は各地からやって来て、水泳やバーベキューを楽しむ避暑地になって居ます。ドライバーさんが地元の人に人気の店を紹介してくれる。セバン湖で獲れた魚を、バーベキューにしたのと、ポテトのフライを戴いたけど、美味しいとは思わなかった。
宿への帰り、小高い丘にアルメニアの母の像が見られるところで、下車する。この像はアルメニア国民の、強い意思を表現しているのでしょうか、大きな剣を持っている。カスカード(展望台)目指して、大きな公園の中を捜して歩く。アララット山は今日も恥ずかしがって、よく見えなかった。カスカードは階段で繋がっていると思っていたのですが、或る部分から中に入ってみると、登りと下りのエスカレーターがあり、両側が小さな美術館になっていた。宿まで1時間30分位かけて、歩いて帰り疲れました。
主な観光地は終ったとして、明日は国境を越えて、ジョージアのトビリシ迄行きます。ジョージア行の中央バスターミナルに行き、時間と金額を予約する。その時も手配師というのかマネージャーかの人が、言葉堪能でスマートな紳士が、車を見せていかにも自分が運転するように装う。実は仲間に振り分けてそのコミッションを貰うのです。予約金を払えと言うが、私達は実際に運転する人に払いますと言って、その手には乗らなかった。その内容は詳しく知らない。宿に頼んでも宿の人が何らかの手数料を得ている筈、皆が何らかの形で潤うのはそれで良いのであって、我々が干渉すべきではない。きっとジョージアでも、同じことが行われているのでしょう。 
       エレバンでの最後の日
 今日も天気は快晴、エレバン市内での観光を目指す。アルメニア人惨殺博物館は丘の上にあり、犠牲者の碑が巨大な植物公園の中央にある。オスマン・トルコ軍により150万人以上が殺され、80万人以上が国外に追放された悲劇の歴史がある。博物館の開館は11時、私達は9時過ぎに着いているので、1時間以上も待てない。2つの大きなモニュメントを見る。記念碑の前ではガスの炎が赤くともされて、慰霊の意味を表しています。今でもアルメニア人はトルコに住むことを忌み嫌うらしい。アララト山は昨日よりもよく見えるけど、全体をはっきりと見たいものです。
共和国広場には公共の機関は周囲にあり、相変わらず観光タクシーは沢山止まっていて、手配師がウロウロしています。アルメニア歴史資料館に入館する。先史時代からの発屈品や民族衣装、近代絵画を展示しています。同じ建物の中に美術館も在る。内部を新しく改装して、見やすくとても内容の濃いものでした。係員は見物客を凝視して、にこりともせずに堅い感じの女性の監視員ばかり。矢張りソ連的な雰囲気が残っています。
噴水前のコーヒーショップで、通り過ぎゆく人々を眺めて品評会です。確かに女性は美人が多いけど、少し中年になると、マトリョーシカの人形のような寸胴体型になっています、男性はお腹が飛び出たメタボ体型の人がほとんどで、その遺伝子DNAを持って生まれているのでしょう。
       アルメニアのエレバン→ジョージアのトビリシ
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左=川岸のメヒテ教会とトビリシの創設者ワタング・ゴルガサリの像 右=トビリシ市内ロープウェイから

今日は陸路の国境越えです。個人の旅人は、空路はスムースなのですが、陸路を嫌う人が多いのは常の事。国と係員によっては、ややこしい書類を書かせたり、荷物の検査を長引かせたり、難癖をつけたりされたことが、私も何度か経験したことがありました。
予約した車は時間きっちり来ました。雨上がりの新緑が光り輝く風景を見ながら、無口のドライバーさんスピードを上げて走る。1昨日通ったセバン湖を越えて、暫く走れば国境が近いのでしょう、緑の絨毯の小山の連なりが、春の訪れにより色彩豊か、藤色、黄色、濃い紫、の小山、特に白色が多く、遠くから見ると雪が積もっている様に見える。真っ赤なポピーも所々にある。矢張りアルメニアの地下は硬い岩盤になっていて、樹々が育たない。この国が石の国という所以を象徴しています。
 心配していた陸路のイミグレイションも、実に簡単な調べで通過出来ました。本日は移動日で5時間以上掛かりました。ジョージアに入国すると直ぐに、普通の山の植生になり、何時もの樹木の山です。
 昨年の11月の終りにジョージアは訪れているので、懐かしい思いもする。通リを覚えていたので、直ぐ宿は見つかる。明日の寝台列車のチケットを買いに、あの地獄の底まで落ちていくような、メトロに乗って中央駅まで。スグデイデイまでの寝台車のチケットを得て安心しました。 ジョージア名物のヒンカリ(小籠包に似ている)を夕飯に戴く。宿の近くのこのレストランは全てが美味しく、どれを注文しても外れが無く、何時もお客さんで混んでいます。時間をずらして行かないと入れません。
次の日は21時過ぎの寝台車なので、宿に18時までステイさせて呉れるように小額を支払い、夕刻までをトビリシの街を観光する。アルメニアもジョ−ジアも個人の店や公共の施設の始まりは遅い。私達は早寝早起きの老人達で困る時も有ります。メヒテ教会は直ぐ近くにある、ムトウクヴァリ川の崖の上に建つ、この教会の姿は凛々しく印象が強い。小さくて屋根がトンガリ帽子のように可愛くて、内部もシンプルに質素に造られている。
内部が華美なのは信仰とは関係なく、元来は簡素で素朴さが教会のあり方だと思います。旧市街の温泉街は丸天井が幾つも並び、公衆浴場からデラックスなものから種類は豊富。裏手の小山には、トビリシを守ったナリカラ要塞が、今でも赤土やレンガのブロックで残っています。昔から民族的な闘争が絶える事のないコーカサス地方は、ロシアからの独立は民衆の誰もが喜びに溢れた事でしょう。広場や橋、通リの名前がバラ革命、自由広場、平和橋、国民的詩人のルスタヴェリ通リが、それを示しています。私達は朝か昼ともわからぬ食事をして、ゴンドラに乗り市内を見下ろして、ジョージアの母の像まで行き、展望台より市内のパノラマ風景を楽しみました。  平和なトビリシの街には、トンガリ帽子の教会がとても多い。旧市街の小道を通れば、日曜日のミサが行われています。満員で教会内に入れない信者さん達が、神父様の説教を聞こうと、外のマイクの近くに居ます。子供連れや老人達で静かに聞いています。この街の一番の繁華街ルスタヴァリ通りに、騒々しい音を出すメトロで行く。頑丈そうなビルが立ち並び、バレー劇場、国立博物館、近代美術館、政府の官公庁等、首都だけのことはある。道の外れにホームレスの老人が、手を出しているのを時折見かけます。
 夜にはスグデイデイ行の寝台車に乗り込む。梯子なしの高い2段ベッド、インドやスリランカで経験しているので驚きはしない。私は上の段に登り、軽便なインナーシュラフで休みました。駅員さんは義務的に笑顔一つなく、規則に縛られて働いている感じです。何処でもぐっすり眠れるので、朝まで何も知りませんでした。
        スグデイデイ→メステイア→ウシュグリ
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左=ウシュグリの村      右=ウシュグリ村の対岸、白い雲の中にシュハラ山

 次の朝6時過ぎにスグデイデイに列車は到着する。駅前には20人位乗れるバンの客引き攻勢が待っています。直ぐ出発しそうな車を選んで、メステイアまでを4時間程かけて行きました。アスファルトの道を軽快に走ります。メステイアで2泊は勿体無い、みんな元気なのでその奥地、もっとロシア寄りの秘境ウシュグリに行こうとする。昨年は大雪で不可能だった、明日はメステイアに泊まることにして、まだ明るいもう少し頑張ろう。
 セテイ広場のインフォメイション前に屯するドライバーさんの中から、顔つきがしっかりとした若者に決めて、金額を交渉し、ランクルに乗り込む。ウシュグリまでは48Kだとか、距離は遠くないが、その悪路が甚だしく4〜5時間とか。昨夜の雨でオフロードは泥沼の中の曲がりくねった道、川のようになり、断崖絶壁もある。牛、馬、羊が放牧されている、車の方が遠慮して通っていく。段々と高度が上がるのを風景が教えてくれる。
遠くの白き山脈が見え、まだ新緑になれず枯葉の樹々、残雪も見られ、小さな滝もある。全てがこの若きドライバーさんの運転技術に命を託し、お任せしています。東ヨーロッパの最も高所の定住村(2200m)で、世界遺産に登録された村にやっと到着する。ここでドライバーさんと別れ、明日の迎えを頼む。
 プログで見ていたマリナ・ゲストハウスに別の車が送ってくれる。清潔な部屋、シャワーも出来そう。優しい感じの女主人が対応してくれる。散歩に出かける。雨でグチャグチャの小道は、動物の落し物が沢山、酸素が薄いせいなのか、息切れがする。シェハラ山(5200m)を背景に丘に建つラマリア教会に登る。そこから見下ろすウシュグリ村には”復讐の塔”が至る所に見られる。各家に一つずつ建っている。少数民族のスバン族が防御の為に、籠城するための塔を、中世の姿を見られると、世界各地からの観光客をあつめています。今が稼ぎ時なのでしょう、各家が民宿、土産物、食堂を営んでいます。大きなホテルも建設中、あと何年かすると、すっかりとモダンな観光地になるのではないかな。此処の住民が私達に問うのは”チナ?コーリア?ジャパニ?“どうして3番目なの、でも日本人と分かれば、頷きニコリとしてくれる。そして日本の製品は何でも優秀と、褒めて呉れるのが、唯一の救いでしょうか。
 のんびりと風景を見て歩く、この広大な大自然は心が伸び伸びとする、何時か想い出せば、きっと慰めてくれるでしょう。大自然の恩恵に感謝です。シュハラ山のシャッターチャンスを待ちましたが、恵まれませんでした。明日を待ちましょう。急峻な山の上のタマル女王の塔は見え隠れするも、其処まで登る勇気はない。2食付のゲストハウスの今晩は、何の御馳走かな楽しみです。
       ウシュグリ→メステイア
 ウシュグリの宿を早朝ぬけだして、シュハラ山を参拝しましょうと、行って見たものの雲が邪魔して、部分的には見えたのですが、全体としては駄目でした。私が座っている前の山は、阿蘇の草千里のように、広大な緑の山の連鎖です。牛、馬、羊が豆粒にしか見えない。牧羊犬が近くにじっとして番をしている。何という美しい大自然の風景なのでしょうか。此処は俗に言う桃源郷なのでしょう。もう2度とこの絶景は見ることは無いでしょうから、しっかりと心に納めておきましょう。よく言われる冥途の土産にしましょうか。
 この宿の夕食も朝食も、とても豪華なものでした。此処までの運賃が相当高いでしょう。この旅で一番高い宿代でした(2400円)。男性達はワインを沢山飲んでいました。後でその分は請求されていました。近くの散歩道に博物館があり、大昔に使用した生活用品を並べてありました。言葉は分からないけどスバン族のお婆ちゃんが、手振り身振りで説明してくれます。そろそろこの秘境に別れの時が訪れました。
 昼には昨日の若者が迎えに来てくれました。此の泥の道を朝から、約束時間きっちり来てくれることは、並大抵の事ではないでしょう。又してもあの危険極まりなしの道を、バックしてメステイアに戻る。彼の家はゲストハウスを経営しているので、私達に泊まってほしいそうです。此の若者の願いはそうだったのか。みせてもらえば普通でしたので、其処に決めて、夕暮れには未だ時間がありそうなので、スキー場のリフトに乗り、高みの見物をする。此処も復讐の塔はウシュグリ程ではないが沢山建っています。メステイアの遠くの村まで眺められます。展望台の真向いには、岳人に敬遠されている、ジョージアのマッターホルンと呼ばれる、ウシュベ山(4710m)が見られます。雪に覆われたコーカサス山脈をしっかりと観納めしました。
       メステイア→トビリシ
 昨夜の雨でトビリシ迄の帰路の道が心配でしたが、朝は良い天気です。私達以外には他のお客さんは居ませんでしたので、静かな宿でした。メステイアはウシュグリよりも観光化している村で、この地は観光客相手の店が沢山犇めいています。昨夜、相棒さんは飲み屋さんで大分お金を使ったらしいです。今日はトビリシ迄の長距離移動です。途中トイレタイム2回、所要時間は大体7時間だそうです。乗客は20人位、私達は後ろの方なので、リラックスは出来ない。通りすぎる道の、家の玄関へのアプローチは、ぶどう棚が作られています。未だ房が小さい、此れからの夏の強烈な日差しを受けて成長して、各家の自家製のワインになり、主婦達の自慢の品となるのかな。走っている車は日本製の中古車がほとんどです。乗り合いの車は三菱のデリカが多い。トビリシの最終地は何処かなと案じて居たら、中央駅だったので、メトロに乘って慣れた宿に帰りました。この宿は水回りの排水が悪かったのですが、今度の部屋は解消していました。
       トビリシ→カズベキ
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左=アナヌリア教会      右=巨大な壁画 向うはコーカサス山脈

 メステイアからカズベキに直通出来れば、時間稼ぎになるのですが、それが出来ないのです。次の日はメトロでデイドウベ駅からの乗り合いで、行くのが確かなようですが、途中の観光スポットを通リ過ぎていくらしいので、結局4人は車をチャーターする、2〜3の観光地に止まってくれることを条件に、三菱デリカに乗り込む。
 トビリシの水源であるジンヴァリ貯水湖は巨大な人造湖、その湖に沿って北へ北へと進む。新緑の清々しい景色を見せてくれる。湖の突端に静かに佇む、アナヌリア教会に寄る。国民性かな9時30分では、門が閉まっています。教会の前の敷地には、多くのお土産屋さんが開店の準備をしています。一番多いお店は、蜂蜜屋さんです。此処に来る途中、四角の箱を並べた養蜂業者を沢山見かけました。この広い道路はジョージアの軍用道路と呼ばれています。帝政ロシア軍が治めていた時代には、戦車も通行可能な軍用道路として、ロシアとコーカサスを結ぶ役目をしていた。時々ロバに自分達の荷物を背負わせ、群用犬と共に何千という羊達と、食料の草を求めて彷徨遊牧民の姿がある。羊たちが通り過ぎるまで、静かに行方を見守る。ウシュグリ行のあの困難な道路と違い軽快なドライブです。コーカサス山脈の美しい風景の中をどんどんと北へと進んでいく。グダウリに近くと、山には樹木が無くなり、残雪がある。此処はスキーリゾートで、今は閑散としています。するとビューポイントの巨大な壁画が丘の上に見えます。珍しい色彩と半円形をして、展望台にもなっています。登って行くとコーカサス山脈の一部分をはっきりと、見せてくれる。猛烈な冷たい風が吹き、早々に車へと戻りました。
 段々と高度が上がって来た、対岸の3か所の小さな村を過ぎて、丘の上にスイオニ教会が見える、其処がカズベキ広場(1750m)です。イラの家まで別の車が送ってくれる。肥った女主人と娘さんが対応してくれる。2食付にワインも別注文する。小雨が降って来た。カズベキ広場から西北に、14世紀に建てられたソミンダ・サメバ教会が2つに分かれてみえている。その奥にコーカサスの高峰カズベク山(5047m)が見えるはずですが、今日は曇っている。広場近くの市場や個人の店を散策する。美味しそうなチーズが売られていた。この付近には、ガスの送りパイプがむき出しに、各家に引かれて居ます。ガスは地下にあるものと思っていたのですが、地上にあるとは思いもしませんでした。危なくは無いのでしょうか、事故は今まで起ったことは無いのでしょうか、不思議ですね。明日のトビリシへのバスの時間を調べる。又今夜は郷土料理がでてくるのではないかな、楽しみです。
       カズベキ→トビリシ
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左=ソミンダ・サメバ教会      右=カズベク山(5047M

 昨夜遅くには本格的な雨でした。大阪から一人で、ロシア鉄道を横断して、コーカサスまでやって来た娘さんと同室になり、若き頃を想い出し、懐かしく我が娘の様な気がしました。豪華な朝食を戴き、宿の主人がソミンダ・サメバ教会まで、デリカで送ってくれるそうです。若ければトレッキングをしたいのですが、少し無理かもしれないと。喜んで皆で乗るも、細い道は泥濘の連続で、とうとう車輪がはまって動かなくなりました。教会までがこの地の観光の目玉なら、村人が力を合わせて修理出来ないのでしょうか、公共の精神に欠けていると、私達は噂しました。途中からは緑と小さき花いっぱいの丘を歩く、長い間雪の中に埋もれ、春を待ち焦がれていたのであろう花々を愛でながら、のんびりと登って行きます。頂上には古めかしい質素なトンガリ帽子の教会。誰もいない暗い聖堂で、ミサを行っていました。修行僧が黒ずくめの服装で何かを読んでいる。現世を捨て修業するとは、どんなことなのでしょうか、想像できない。教会から見るカズベク山は少し雲が掛かっていたけど、頂上までは何とか見えました。又しても厳しい山道を下りましたが、宿の車は調子が悪くなってしまったそうです。あれだけの悪路では、車も悲鳴を上げるでしょうよ。サー秘境は此れ位にして、トビリシに帰りましょう。
       トビリシ→ムツヘタ
 慣れているホテルに落ち着くと、気持はホーットします。昨夜相棒さんはジョージアン・ダンスを観に行ったらしいけど、眠っていて何時帰ったかも知りませんでした。何時もの習慣で5時には眼が醒めます、6時まではライトを点けませんので、自分のライトで本を読みますが、何か動きたくて仕方がないです。4人揃ってからメトロでデイドウベ駅、其処から乗り合いバスでムツヘタに行く。小さな町だが整った美しい町、昔此処は一時代首都であったらしい。ジョージアで最古のスヴェテイ・ツホウエリ大聖堂の威容さは、高い天井が示している。自然光で内部が見渡される造りになっていて、圧倒されそうな雰囲気です。キリル画を慎ましく飾ってあり、信者さん達は手で触れて、熱心に祈りをしているのを見ると、この国の人々の敬虔な祈りのしぐさに、思わず心を打たれます。教会の前は門前町のように、多くの色んな店が連なって居ます。その中のレストランで昼食をしたけど、出来上がりが遅く、美味しくはなかった。
 車をチャ−ターして丘の上の小さな教会に行く。ジョージア正教の教会の特徴として、共通するのは真上から見ると十字架の形をしているそうです。山の上だし中心から離れているので、ムスリムの迫害から逃れたそうです。石造りの飾りのない素朴さが、かえってその清々しい美しさを、醸し出しています。展望台から川が蛇行しているムツヘタの町を、見下ろすことが出来る。此の聖堂の観光客が凄い数、駐車場の狭さで、車の出し入れが大変でした。宿への帰り、中央駅の近くのバザールに行き、何かの土産を捜しますが、ホーチミンのベンタン市場のように巨大すぎて、人と物ばかりが溢れていて、その勢いに圧倒され、迷子になりそうで気もそぞろでした。
最終日の宿は予約して居たので、引っ越しをする。同じメトロの近くと思っていたのが違っていて、何とか相棒さん達が地図を読んで、頑張ってくれて、辿り着きました。何時もの慣れ親しんだお店で、最後の晩餐を終えて、次の日の朝、宿の方に空港の送りを頼み、帰路の途に就きました。
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