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この小文は京都山の会の基本的理念を述べたもので一般の会員向けに書かれたものである。
この文章が書かれた理由の主なものは、当会の理念を会の上層部のみではなく、広く一般に知ってもらうために試みられたもので、会の創立期からの経緯などから「生みの苦しみ」があったこと、やむを得ず「会の理念」が創造されたことなどが、年数を経た現在広く再認識してもらう必要があったからである。
新しい会員の増加と共に、古い会員のなかにも理念の忘却があって、つまらない論議が出てきたことも一因であった。
他の会と全く異なる立場に立脚する理念は、当然のこと、社会一般の集団(組織)とも違っているので、正しく当会のコソセプトを理解し誇りをもたないと、すぐ他に引きずられてしまう人が出て来る。そんな人がリーダーのなかにも出現しているということが問題だった。これは当会の恥でもあるがあえて公表しておきたいと思ぅ。
大多数の組織は個に対して洗脳を徹底して組織の利益のために働くようにするのが定石というものかも知れないが、当会では個の判断にまかせることにしている。
「知」というものは強制でも洗脳でも生まれることはない、というのがその理由である。
今後は二度とこのような駄文を書くつもりはないので記念的存在として再録して、当会の会員だけでなく、広く一般の人にも読んでもらって、批評をいただきたいものと思ぅ。
なお、この小文は『青嶺』誌に三回にわたり記載されたもののうち、第二回目のものを一部修正したもので、当会のコンセプトを明らかにしている部分である。第一回目は、当会の改革に対する説明を、第三回目は、一般会員向けに詳細に、さらに噛み砕いて説明したもので再録の必要はないと判断している。
「偉大な個人の群」について
〈はじめに〉
先号にて、会の改革について概略説明しておきましたが、今回は予告通り当会の運営に関する基本的なコンセプトである「偉大な個人の群」について解題してみたいと思います。
当会創立時の環境及び理由についてはふれませんが、縁あって十数名の人が集まりましたが、なかには先端的な目的をもつ「同人制」の会にすべきとの意見があり困惑しましたが、結局多数を無視できずに、今日のように、入会者を選別しない方向性をもつこととなりました。
性格の異なる人々を核とする組織は当然のこと、特定の目的をもつ「同人制」に対して、あいまいな性格を甘受することになり放漫になり勝ちです。下手すると単なる烏合の衆に零落する危険をもっています。また会の目標・目的・あるいはビジョソといった事柄でたえず迷いが生じかねません。事実、今日でも「会の目的・目標は何か」という質問を受けるほどです。
同人制というのは、例えば未踏峰を登るためとか、岩登り、沢登りとか、あらゆるジャンルをめざすために結成された同好の組織とみてよいが、目標がシソプルで意志統一しやすいので組織が固まりやすい利点があります。遠征隊とか、小組織はこの型が優れているのです。
しかし、その目標が達成された場合には、組織の存続は困難となります。また年令的に目標に向かぅエネルギーを失った場合も同様です。この型は、短期決戦型とみてよいでしょう。事実、この型は十年、長くて二十年でほとんど解消しています。
これに対して目的があいまいに見える組織は、組織の目標が明らかでなく確定していないためにあらゆる目的をもつ人々が集まって来ます。そのため放漫の印象が強く分裂の危険がつきまといます。進歩的な人からは積極運営を、初歩者層からは、指導性の発揮を求められることになります。下手をすると二律、三律あるいは五律離反をまねくことになります。能動的な行動がとれないまま、ただ組織の存続だけを求めることに精出す結果となりかねません。
理想の会を作るというコソセプトを考え出す前に会がスタートしてしまいましたが、ここで何とかしなければ会の行末は見えています。放漫にならず、それぞれ多彩な目標を達成する方向性を的確に打出す必然性があったのです。苦悩の連続の末考え出したのが「偉大な個人の群」のフレーズです。入会の際にも説明があるように、これは戦国時代の猛将、武田信玄の旗印「風林火山]」に相当するもので、会の姿と行動を示しているのです。フレーズの分析をすれば分かる通り、個人の個性を殺さずに組織的によくまとまって、やがて偉大な領域にせまって行こうとする姿勢であり、個と集団はけっして二律離反しないのです。個と組織の協調性が共生する世界、これを自然界の法則のなかに見出しているのです。
会発足時の弱点を逆転の発想により利点として活用する方向性を打出したわけですが、これが散漫になりそぅでならない微妙なスタンスを確保しているわけです。また会そのものが三十年以上も続いた主な理由でもありました。
〈解題〉
「偉大な個人の群」とは随分偉そぅな言葉を使ったと思ぅ向きもあるか知れませんが、実際はそうでなく逆読みすれば理解されると思います。
群があり、その個人の群が、日々研鑽を積むことによって、やがて偉大な領域に到達しようと未来に希望をもつことです。初めから偉大な人が集まっていると勘違いしないでほしいのです。
また「偉大な」という言葉を別にすると、個人と群という正反対の言葉が連なっていることが大事なところで、個人とは、個性を尊ぶことで、他の会では組織(会)が目的・目標とすることを当会では個人が行なうことになります。個人あるいは同好のグループが、それぞれ目標を定めて各方面へ出て行くことを示しています。
組織が目的・目標を打出して、会員にノルマを要求するのとは根本的に違いますから、逆に観れば、個人の高い能力がそなわっているからこそ実現できると言えます。多彩な能力が、それぞれ組織の呪縛から開放された形でそれぞれの方向で研鎖を積めば、これは素晴らしい集団となるはずです。私が日頃「蜘蛛の子を散らすように」と表現していることがそれに当ります。
また個性の進長とは別に「群」の問題があります。「蜘蛛の子」は散って行くが、必ず巣に帰ってくるはずです。この巣が会に相当するので会(組織)の充実を図るという意味が理解してもらえると思います。巣には特大のテレビがあって、そのテレビが会報と考えると、会報を充実させ、毎号が確実に指定通りの日に発行されるのも、各種サービスと同様大切なことなのです。
日頃別々に行動していても巣に帰れば他分野の成果も発表されているので評価し賞賛の言葉を贈ることもでき、各々に役立てることも可能なのです。
このようにみてくると当会の姿勢を単なる個人主義と考えるのも、組織第一主義とみるのも間違いであることが分かります。自由は保障されるが、ボランティアは不可欠なのです。また小集団では不可能な仕事を組織あげて取組むことも可能となります。生物の社会では、これが自然に行なわれていますが、人間社会ではどうでしょうか。
〈人間の森を創ろう 偉大な個人の群〉
最近の会報に、見出しのフレーズが出ていますが、これは先に述べた会の姿を原生林の森になぞらえて理解しやすくしたものです。
自然の森には(二次林でもよいが)あらゆる動植物が、勝手自由奔放にみえて一定の約束事のもとに生きています。堂々たる大樹もあれば、陰気な場所を好むものもある。毒性をもつもの、薬草も、大樹にからむ藤蔓のようなものや、サルオガセのようなものも一所懸命生きています。自然の森は一見悪役や、卑屈老のようなのも排除されずに生きているが、それにも理由があるのです。
大きな者も、小さな弱い者でも能力に応じて平等に一定の役割を果たしているのが森で、強者が騎り、弱者は保護される権利だけが強調される人間社会とは違っています。弱者であっても一定の役割を果たせねば生きて行けないのが自然の森の姿です。森の生態こそは、多彩な「種」が強調して生きて行ける自然界の原理の一端を示しているのです。
ぁらゆる個性をもつ人が集まり、その巾の広さが価値(生命)であり、間違っても同種の人ばかり集めてはいけません。杉や檜の植林の山みたいな組織にしては終わりです。またわがままな好き嫌いで離合集散をくりかえしているのも人間社会だけの甘えが原因です。人間社会では、うやむやにされ通用していることでも、自然界では明確に否定されることは沢山あります。それはどちらが正しいことなのか考えてみてほしいのです。人間社会のょうに、力を保持している者のみが仕事を強要されることもないが、強者が、そのカを自分のためにのみ使い、還元しないで孤立していては、自然の摂理に反し、やがて枯木のよう自滅して行くことになります。もちろん、その道を選ぶ自由もありますが、その結果については、すべて自らの責であることを知る必要があるでしょう。
個はそれぞれ目標をもち、それを明らかにして自分の居場所を会のなかに確保しておく、それは森で言えば、植生の場所を得るといぅことになり、自分の存在を皆に認識してもらう必要があります。自分は森のなかの何に相当するのか、を考えるのも悪くない。大きな撫か、数百年を経た芦生杉か、あるいは姿の美しい松か、紅葉か、季節の花を咲かせる花木か、それとも萱のように群生する草木か、それぞれ思いうかべて活動してみてはどうでしょう。必ず思念は実現する筈です。
想えば、人間社会は随分非自然的な社会を作りあげてしまった。人類のはじめは、すべての問題について自然の定めに従い、手本として学んで来たのに、ある時から、自然の神を捨て、自らが都合のよい神を造って勝手な方向へ走り出してしまったのです。自然をも、人間が支配できるという思いあがった思想のもとに現在の社会は存在している。このような社会は、やがて滅亡するはずで、それに気付いている人も増加して来つつあります。
幸いにして我々は、日常的に自然の真の姿と付合っています。それなのに自然の生の声を聞こうともせず、相変わらず非自然的な社会の習いに従って、人間社会だけに通用するルールを自然のなかに、あるいは組織のなかに持込もうとしていないだろうか。同じ課題があり、自然の側と人間社会と二例の解答が出たとしたなら、それは間違いなく自然の側が正しいはずですが、人間はなかなかそれを認めたがりません。
もし自然を支配できると考え、自然の定める秩序を認めない者が居るとしたなら、その者は、自然の恵みを受けるべき基本的な資格を欠いていると考えて間違いありません。
〈違う人の集団〉
昔から言われている村社会の害として「村八分」という問題があります。これは自分(大多数派〕と異なる人を特殊な存在として排除し集団の特殊性(純粋性〕を保持しようとする態度といえます。この方法はある意味では集団を守る簡便な方法でありましたが、現代では差別として、社会から問題視されます。しかし今日でも「いじめ」や差別の大部分は未解決のままです。
好きな者が集まって、少々性格の違った人を差別したりします。「あの人は変わっている」とか「変人だ、奇人だ」と云います。外国人からも、特にアメリカ人から「日本人は特殊だ」といわれます。外国人の場合は相当の理由がありますが、ここではふれません。これを受けて日本人からは、特殊の意味を劣っていることと解して反論するわけです。しかし特殊とは優劣のことではなく「違っている」という別の価値のことなのです。
実はこの「違っている」ことこそ大切なことで価値の高いことなのです。仲間ぅちで酒呑んで馬鹿話に花咲かせるのも、ストレスの解消と仲間であることを確認する行為として意妹がありますが、身につく話になりません。自分と違ぅ人だからこそ一定の緊張感のもとに前進的で知らなかった知恵が入ってくるのです。自分が一歩でも前へ進みたいと思ったら必然として全く違った人と付合ぅことが大切です。その勇気のない人は、いつまでも村社会の温湯につかっていなければなりません。生物学ではこのことを、次のように説明しています。
特定の「種」がすべて同じ遺伝子になると、環境や他の種の攻撃に際して種全体が滅び去る危険があるが、その種のなかに非適者(遺伝子の異なるもの)がある場合には、最適者が滅んでも全体が滅びることはない、というものです。不適者だったものが、最適者となって種の存続を保持しているのです。もっと言えば、遺伝子の異なるものが沢山ある種こそ最強の集団であり、少々の変化くらいでビクともしないことでしょう。
ここまで来ますと、もう当会のねらっている所が分かってもらえるものと思います。
仲間ぅちの変り者の生態を識別することに精出す時間があるなら、自分の得意技を磨いた方がよいと思います。自分の技を磨いて達人になって他種からの入門者を受入れてほしいとも思います。
そして業績に対する批評なら結構なことです。それは他種の排除ではなく、その業績をより強くする力となるからです。当会の理念とする「偉大な個人の群」の原理とは、以上述べてきた自然の秩序体系に由来するものと考えて下さい。
「猟師山を見ず」とか「木をみて森を見ず」とかいう言葉が昔から知られていますが、いずれも部分にこだわり、全体を理解しない意味に使われますが、個を尊び、あるいは個を磨くことも大切なことで、そのぅえで組織(全体)のことを認識しておくこと、全体のことも自らのこととする態度(スケール)が求められているということなのです。
環境や時代が変っても動かない理念というものがあります。指導者が変っても動かないものもあります。それが当会の求めているものなのです。
真理は自然のなかに存在すると考えているからです。
(一九九六年十月)
『蒼山遊渓』(西尾寿一 京都山の会出版局 1998年)所収 |
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